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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

2018年7月20日 (金)

感性の時代(後)

 

 論理性が重視される社会や時代は、先を読むことは不可能ではありません。論理に予想外の飛躍はあり得ないからです。ところが「感性」はそうはいきません。「え、どうして?」なんてことが平気で勃発します。商品にしても、何がヒットするかを正しく予測するのは困難です。だからすべてのビジネスマンと研究者はデザインを学ぶべきだと、ボクは前々から指摘してきたわけです。

 

 ただ、ひとつだけ概念的なヒントを教えるとすれば、どんなこともスパイラルしていくということです。

 

 ボクはその原理を発見して自分の会社の名前にしたのですが、何しろボクごときが気づいたことですから、決して難しいことではありません。

 たとえばハイテクが流行すれば、しばらくすると人間はそれに飽きてハイタッチを望むようになります。こうしたトレンドは一定の期間を経て、反対から反対に変遷すると考えられます。これだけなら円環ですけど、ボクたちは文明社会の中で生きています。そうした文明社会を構築する科学技術や医療は、決して後戻りすることなく、一方向に進んでいきます。

 この条件を、先の円環に加味すれば、トレンドの変遷は螺旋=スパイラルになるじゃないですか。

 

 ちょっとややこしくなりましたが、たとえば機能美が滑らかでツルツルとしたデザインとすれば、ボクの理論では、いずれその反対側のデコボコ&ザラザラに嗜好が移るでしょう。ただし、同じところに戻るのでなく、そこにテクノロジーの発達が加味されなければ単なる逆戻りに過ぎないので、流行を生み出すことはできません。

 

 これをもっと理論化しろといわれても無理です。シンギュラリティも含めて、これからのテクノロジーがどんな未来をもたらすかなんて誰も予測できないですよね。

 

 だーからさぁ、もはや論理性に魅力なんか感じられなくなってきたのです。だったら、いわば論理の王様ともいえる人工知能に敢えて逆らってやりたいなぁと。

 

 そのうちに人工知能が文章も書き始めるようになります。その時には、人間ごときのラフで凡庸な論理性では太刀打ちできなくなるでしょう。これはSFドラマ『スター・トレック』のミスタースポックを思い浮かべてください。

 

 てことは、フフフフ、やっぱり大切なのは人間特有の感性じゃないか、明智クン。これからは感性をフルに起動した文章しか人工知能には勝てないと思うぞ。ボクが「感性の時代」と指摘した意味を分かっていただけたでしょうか。

 

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2018年7月19日 (木)

感性の時代(中)

 

「いかなるビジネスマンもエンジニアも研究者も、これからはデザインに敏感でないとダメですよね」

 

 こんなことを10年ほど前から言い続けてきたのですが、美大や芸大の教員を除いて、はかばかしい反応を得たことがありません。それどころか、これからは小学生の頃からプログラミングだってさ。しかしながら、そのために必要なアルゴリズムも実はデザインの一種であることを、どれだけの人が分かっているんだろうか。

 

 ついでに言えば、法律も行政も、ちなみに健康保険や年金も、およそ制度と名のついたものはデザインなのでありますよ。であるなら、デザインに敏感でなければ、ビジネスだってうまくいくはずがない。これはちょっと飛躍し過ぎとしても、市場で売買される商品はもはや機能よりデザインが重視されるといっていい。同じ機能で、いや劣っていたとしても、デザインが優れていれば、そちらのほうが人気になり、売れるからです。

 

 もちろん優れた機能とオシャレなデザインが両立していたほうがいいに決まっています。けれども、技術系と美術系ではセンスや発想がそもそも異なるので、両者を統合するのは並大抵のことではありません。けれども、それを強引に押し切ったプロデューサーが故スティーブ・ジョブズだとボクは考えています。

 

 こうしたプロダクトデザインといえば、すぐに機能美を感じさせる流線型でスタイリッシュなデザインを思い浮かべる人がいるはずです。でもね、おっとどっこいで、必ずしもそうとは限らないんだよな。漫画でウマヘタが流行ったことがあるように、デコボコしたヘンテコで気持ち悪いモノもヒットする可能性があります。だからね、このブログのテーマも「感性の時代」としているのです。

 昨日のブログで紹介した「機能が形態を決定する」というのは、文章が論理的でなければならないというのと同じで、感性のひとつの側面に過ぎません。人間の感性はもっともっとややこしくて、非定型で非機能的、非論理的なものを求めることもあるんだよな。さもなきゃ絵画なんて、写真の登場でとっくに衰退していたはずです。

 

 ここで歴史を振り返れば、「アール・デコ」というのがありました。正しくは1925年にパリで開催されたデザイン博の略称で、それがいつの間にか「アール・デコ様式」として呼ばれるようになったのですが、ではどんなデザインなのかを的確に解説した文献を見たことがありません。それ以前のアール・ヌーボーと比較すれば、すぐに理解できると思うんだけどなぁ。

 

 20世紀末まで一世を風靡したアール・ヌーボーは、早い話が自然界の模倣です。木々や葉っぱや様々な生き物のデザインを写し取ったといっていい。フォルムはややこしくて手がかかるけど、それだけに美しく感じたわけです。エミール・ガレなどの芸術作品のみならず、ツタが絡まったような凝った細工が施された門扉なんかもそうですよね。

 

 ところが20世紀になると、それまでの産業革命の積み重ねが加速して、急速に工業化が進展。つまり、何でもかんでも機械で大量生産するようになってきました。そうなると、アール・ヌーボーのように複雑な線や面で構成されたデザインなんてまったく不向きです。直線や曲線など幾何学的なラインで構成されたデザインのほうが製造しやすい。そして、ここが肝腎なところですけど、人間はその頃から、ラジオやクルマや飛行機などの製品を活発に作り始めるようになりました。これらは自然界には存在しなかったモノですから、そもそも模倣することができない。かくて人間の手がけるデザインは、ようやく自然から解放されたのであります。

 

 ただし、それだけにお手本にするような対象や先行的なモノがありません。だからこそ機能に忠実であろうとしたわけです。バウハウスの思想をごく簡単に言ってしまえば、そういうことだとボクは信じています。実は人間の根源的な感性もかなり加えられているんですけどね。

 要するに、それが機能美であり、つまりはモダニズムに発展していきます。アール・デコは、まさにそうしたトレンドをリードした世界初のデザイン様式というところに価値があるわけです。それを「直線主体で」などとカタチだけで説明しようとするからワケが分からなくなるのです。現代のプロダクトの多くだって直線主体じゃないですか。

 

 もうひとつ付け加えると、プロダクト=工業生産品以外で、アール・デコとほぼ同時期に機能美を追求していた分野があります。それが建築であり、ル・コルビジュエの業績といってもいい。彼はいみじくも「住宅は住むための機械である」と喝破しています。今では「機械」という言葉に抵抗を感じる人が多いかもしれませんが、当時は文明や人間の創造力を象徴する輝かしいものだったのです。何だかAI=人工知能に対する評価と似ていますよね。

 

 そんな彼とは真反対に位置するのが、サグラダファミリアで有名なガウディです。こちらは確か「建築は内部空間を持つ芸術」と言ったんじゃないかな。古代ローマ建築からバロック様式など、歴史的な建築物はそうした傾向が強いですよね。

 

 いずれにしても、ガウディを前世紀のアール・ヌーボーとすれば、ル・コルビジュエはまさしくアール・デコであり、建築に機能美を見出した先駆者だったのではないでしょうか。

 

 それで話は終わりではなく、彼が属していた建築界では1980年代に「ポストモダン」が流行しました。前述したモダニズム=機能美は、便利だけどちっとも面白くないとして、そのポスト=後釜として再び装飾性が復活したのであります。たとえば、不要とも思える小さな縦長の窓がズラリと並んだ新宿の都庁舎もポストモダンと評されました。

 

 現在ではコンクリート打ちっ放しを始めとして、金属とガラスとの組み合わせとか、いろいろ何でもありの多様な状態になっていますが、このポストモダンを体験することで、ようやく建築界はル・コルビジュエの呪縛から解放されたのではないかと、ボクは判断しています。

 

 では、これからどうなるか。またまた長くなったので、明日も続けたいと思います。

 

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2018年7月18日 (水)

感性の時代(前)

 

 ほとんどの学校では、文章の基本的な書き方として「論理性」が強調されます。そりゃね、「論文」という言葉があるくらいですから、論理が支離滅裂ではそもそも話の内容が理解できません。しかしながら、プロのライターとしての立場から敢えて異論を言わせていただけば、いまの時代に論理的な筋道なんていうのは、実はどうでもいいんじゃないかと。

 

 では何が大切かといえば、「情緒」というか「感性」なんですよね。それを伝えようとする文章があまりにも論理性にこだわってしまうと、肝腎な部分が換骨奪胎されてしまって、逆に何が言いたいのか分からなくなってしまいます。情緒的な文章の特徴は、そこかしこに論理がつながらない飛躍があり、だからこそ心にダイレクトに響くわけです。

 

 たとえば、ある著名なジャーナリストで晩年はテレビキャスターだった某氏は、阪神淡路大震災の翌日に現場を訪れ、そこかしこに立ちのぼる火災の煙を見て「まるで温泉地のようであります」と形容して大顰蹙を浴びました。今なら「被災地に失礼だ」としてネットで大炎上でしょうね。しかしながら、「あちこちで火災の煙がまだ立ちのぼっております」という“論理的”な表現に比べて、感性に対するインパクトは「温泉地」のほうが勝っていませんか。

 

 それと同じで、はっきり言わせていただければ、論理的な文章はちっとも面白くないのです。もっと明確に説明するなら、論理の根本に感性的な根拠が乏しい文章ほど、読むのが苦痛または退屈になってくるのです。これは相当にオブラートに包んだ言い方でありまして、早い話が、とってつけたような内容と思ってもいない常識論ばっかりが並んだ文章のことです。偉い人たちの年頭の挨拶なんか典型的じゃないですか。

 

 逆に、相当に難解な文章でも、その論理の奥底に「喜怒哀楽」を強く感じる文章は、何とか理解しようと努力したくなりますよね。

 

 たとえば息子を失った母親の哀しみを綴った文章があまりにも論理的では、奇妙にすら感じます。「保育園落ちた日本死ね」という言葉が大きな話題になったのも、論理を超えた怒りがそこに表現されているからです。学校で文章指導を受けて成績が優秀だった人には、こんな表現はできません。

 

 ラヴレターなんかも典型的ですよね。ボクの若い頃は、気に入った英語の歌詞を日本語訳して彼女に送るなんてことが流行しましたが、そんなもん相手にモロばれですよ。人柄を見抜くのは女性の得意技ですから、「あいつがこんな気の効いたことを書けるはずないじゃん」と見破られるのがオチで、オリジナルでなければ心には到達しません。

 

 ボクなんかはむしろ、ツイッターやラインの短文のほうが感性的で面白いのではないかと推定しています。今の若い人が長い文章が書けないと見なすのは実は間違いであって、短い文章で本質を表現することを毎日やっているわけです。そうなると、論理性なんかより情緒や感性のほうが説明しやすい、というか大切なわけですよ。あるビール会社のコピーで「神泡」なる広告表現を見て、ついに「神」もここまでインフレしたかと呆れましたが、言いたいことは分かるじゃないですか。

 だったら、論理性なんか完全に無視した論文があってもいい。

 

 ボクは反骨的な親父の影響からか、子供の頃からヒネておりまして、先生の言うことはまず疑うという習慣がありました。文章は起承転結が基本と言われれば、逆に小室哲哉の初期の曲のように、いきなりサビのところから始めるとかね。誰でも展開しそうな論理ではちっとも印象に残らず、凡庸な文章になるに決まっています。それよりも書いていてちっとも面白くない。カタルシスが得られないのです。

 

 だから、もしもボクが文章の先生であるなら、いや就職指導の担当者であっても、作文もエントリーシートにしても、とにかく読んだ人を笑わせるとかびっくりさせるようなインパクトを与えなさいと言うでしょう。そのためにはチマチマした論理性よりも「面白さ」が大切だと。実際には、現実的にはボクのようなライターは「正確さ」が基本中の基本になってくるので、それにひきずられて、読者を刺激する面白さが犠牲になることがしばしばあるのです。

 

 だからさ、大学時代くらい「論理的な文章」から自由であっていいように思うのです。すいませんが、理系は別です。「飛行機は気合いで飛ぶ」などという非論理的&非科学的なエンジニアがいたら、間違いなく飛行機は墜落しますから。少なくとも文系だけは破天荒に、想像力を大空の向こう、せめて白鳥座M378星雲までは広げてほしい。

 

 そして、文章だけでなく、各種の商品も、機能よりデザインが重視される時代になってきたとボクは思います。面白くて、ユニークであれば、もはや機能なんてどうだっていいのです。要するに機能=論理性よりも、デザイン=感性が優先されてしまう。かつてドイツのバウハウスでは「形態は機能に従う」とされました。これが「機能美」の原点なのですが、現代では「形態は感情に従う」という説があります。象印のポットを、なぜ象さんのようにデザインしなかったのか、ボクは不思議です。初期の頃にそうしていたら、もっと心に残る会社になったんじゃないかな。

 

 ちょっと長くなったので、この続きは明日に。

 

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2018年7月17日 (火)

良心の陰で

 

 ちょっと複雑な話なのですが、あなたがモテモテの若きイケメンで、スタイルも抜群で脚も長いとしましょうか。自信満々で世界的なメンズモデルになるためのオーディションに向かったのですが、不幸なことに交通事故に遭遇して死亡してしまいます。けれども、天国でのちょっとしたアクシデントによって、地上に戻って生まれ変わることになりました。

 

 ところが、ですね。生まれ変わったあなたは、ものすごくデブだったとします。たまたま鏡なんかですっかり変わってしまったオノレの姿を見て、「ギョッエー!」と頬に両手をあててムンク(叫び)することから始まる、アメリカのドラマがあるんですよね。

 

 正しくは女性の話なのですが、仮にあなたが俳優だったとして、この役を「キミにぴったりだよ」とオファーされたらどう思いますか。

 

 いくら前々からデブを自覚していたとしても、そんなあからさまな役をオレにふるなんて、嫌がらせの一種じゃねぇかと不愉快に思いますか。それとも逆に、個性を生かせるチャンスだと思うでしょうか。そんな体形にもかかわらず俳優になるくらいですから、むしろ「こんなオレでも主役が張れる」と大喜びするかもしれません。

 

 アメリカのTVドラマ『私はラブ・リーガル』を観るたびに、そんな複雑な心境になります。生まれ変わった主役はデブな体形にくじけることなく、女弁護士として活躍するんですけどね。

 

 彼女の場合は公称で身長165㎝、体重85㎏ですが、同じ身長で体重が181㎏と倍以上の巨体にもかかわらず、そのことに悩む役でレギュラー出演している女優さんもいます。こちらは『This is Us36歳、これから』というTVドラマです。腹違いの三つ子(?)の1人という設定で、子供の頃から過食に悩み、30代になると飛行機に乗る時は2人分の座席を購入しないと座れないほどの肥満体。様々なダイエットや痩身キャンプなどに参加しながら、やはり巨漢の恋人といろいろあるわけですが、何というかなぁ、こんなにもアケスケで遠慮が一切ないキャスティングってありかなと、デリケートな日本人は思ってしまうわけですよ。

 

 デブなことに悩む役柄を、デブな俳優に演じてもらう。「そりゃちょっとあんまりじゃないの、監督」とプロデューサーが突っ込んでもおかしくないと思うんだよな。

 

 ところがアメリカでは、そんなことは平気みたい。もっとも、前述した巨体の女優さんはいろいろなドラマや舞台で活躍しており、そうした多様性を認めるというより、積極的に活用できる文化風土があるからこそ可能なストーリーとキャスティングのようです。

 

 ということはつまり、むしろボクたちのほうこそ、デブやブスに偏見や差別意識を隠し持っており、アンタッチャブルなものにしているのではないかと。子供の頃はともかく、大人になると、過度に肥満な人の前で体形の話題は避けますよね。傷つけまいという良心の発露にほかならないつもりでも、コンプレックスを持つ側はそのことによって他人の差別意識を感じてしまい、もっと傷ついたりする。

 

 日本ではデリケート過ぎる問題なのに、アメリカのテレビドラマはそのまんまで、テーマにふさわしい俳優さんにやらせてしまう。これはもう感性の大逆転というのでしょうか、ボクたちのほうが、彼女彼らを普通の人間として見てはいなかったことに気づかされます。あなたも、きっとそうではありませんか。たまたま体重が普通より重いだけ、たまたま普通よりキレイでないだけで、つまり、それだけのこと。デブやブサイク以外にも、普通ではない人はもっといろいろいるじゃないですか。

 

 何というのかな、気にし過ぎて気にしない素振りが、かえって差別や偏見を深いところに沈めているのかもしれません。難しい問題なので、これは継続して考えていきたいと思います。

 

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2018年7月13日 (金)

ベニー・グッドマン

 

 ベニー・グッドマン(1909~986年)の『世界は日の出を待っているThe World is Waiting for the Sunrise』をずっと聴き続けています。もう100回近くは聴いたんじゃないかな。映画も作られたくらいのジャズ界の大御所なので、今さら説明は不要と思いますが、確かにそれだけの実力がある人だとつくづく思います。

 

 日本のバンドの演奏と何度も聴き比べたのですが、クラリネットの音にパワーがあるんですよね。日本のバンドはピアノやベースなどとの調和を意識しているせいか、柔和で優しい印象。ところが、ベニー・グッドマンのクラリネットはほとんど喧嘩腰というか、かなり挑戦的なのです。

 

 クラリネットはもともと温和でふんわりした音質の楽器ですが、ベニー・グッドマンはまるでトランペットのように息を吹き込みます。だから最初は音が尖っているように感じたのですが、何度も聴き続けていると、彼の流儀なんだなと分かってきます。それが際立つのが早弾きのフレーズでありまして、音のひとつひとつが粒立っているように聴けるんですよね。

 

 ピアノやベースも、彼のクラリネットによるパンチの嵐をみごとに受け止めおり、スウェイバックしながらジャブで返すような弾みがあります。ジャズセッションというのは、こういうことなんだと感じさせてくれるみごとな演奏なので、何度も何度も聴き続けて飽きないのです。

 

 1度でいいからナマで聴いてみたかったなぁ。それにつけても、いつも思うのですが、ボクは生まれるのが遅すぎたんじゃないかな。できれば戦前の1930年代に40代くらいなら良かったのに。大恐慌や軍国主義の台頭で暗い時代に感じられますが、実は文化が相当に爛熟していたのではないかとボクは想像しています。スウィングジャズの代表曲である『シング・シング・シングSing, Sing, Sing』も1936年にトランペット奏者のルイ・プリマが作曲。1938年にベニー・グッドマン楽団がカーネギー・ホールで初演して大喝采を浴びました。

 

 ほらね、こう書くだけで、いい時代だよなと。昔を回顧するジジーになったら終わりと言われるけど、これくらい大昔なら許されるんじゃないかな。

 

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2018年7月12日 (木)

2針時計

 

 腕時計の記事も仕事にしている関係で、たまに「何本くらい持っているのですか」と聞かれます。もちろん仕事ですから、時計を持っていないわけではありません。ただし、主な対象が高級機械式時計であり、およそのところ、1本で価格は20万円前後から1億円以上。よほどのおカネ持ちでなければ、何本も購入できませんよ。

 

 ただ、折々に欲しい時計があることはあって、東尋坊の崖の上から、じゃなかった清水の舞台から飛び降りるような、って同じかな、そんな覚悟で購入してきました。大まかにまとめてしまえば、最初は海外旅行で便利なワールドタイマー。それからスタイリッシュな角形モデル、いざという時のゴールドウォッチという流れかな。オッサンになると、見栄を張らなきゃいけない場面もありますから。

 

 それとデイリーユースですね。今はアラーム付きのレビュートーメン版「クリケット」を愛用しています。というわけで、ないわけではないけど、ご期待に添えるほどでもないわけです。

 

 あくまで、ちなみに、ですが、いま欲しいなぁと思っているのは2針時計です。つまり、秒針がない時計。このタイプは超薄型が多く、厚さを抑えるために秒針をつけないことが少なくありません。以前は、それじゃ動いているどうか不安だよなと思っていたのですが、近頃は秒針の慌ただしさにへこたれそうになる時があって、静謐ともいえる2針に惹かれるようになりました。

 

 日常的にはチチチチと秒針が時を刻むほうが仕事モードになれますが、週末とか休日はもっと優雅に過ごしたいじゃないですか。それに、あり得ないと笑っていただいて結構ですが、もしも妖艶な女性とデートする機会があれば、忙しく動く秒針なんか不粋極まりないでしょ。時よ止まれキミは美しい、って思うじゃないですか。

 

 現実にはそんなチャンスはありませんが、大切な時間ほどゆっくりと過ぎていってほしい。そのために、秒針が邪魔になる時もあるのです。

 

 こんな心境になるまでに。およそ20年ほども費やしたかなぁ。分かっていただけると嬉しいっす。

 

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2018年7月11日 (水)

コンビーフ

 

 ボクの世代はアメリカからの食物輸入がやたらに活発だったせいか、「生まれて初めて」が少なくないんですよね。そのシンボルがマクドナルドでありまして、第一号店は1971年に何と銀座三越の1階でオープンしました。銀座のど真ん中の三越でハンバーガーですから、すごいものです。

 

 ボクはそれよりもフィレオフィッシュが感動的に美味に感じられて、それ以来、白身のフライが好物です。ピザもお初の分野でございまして、あんなトロトロのチーズなんて、それまで食べたこともなければ見たこともありませんでした。当時に比べるとチーズの量が激減したような気がしますが、そのほうが健康にいいのでしょうか。

 

 さて、本題です。ボクがコンビーフという面妖な缶詰に出会ったのは小学校の給食です。普通の缶詰は円筒形なのに、コンビーフの缶は台形。それだけで小学生のボクはカルチュアショックですよ。しかも缶の開け方からして普通ではありません。掛け時計のゼンマイを巻くようなカギが上部に付いており、それを外して、芯のところにある細いスリットに缶詰の帯の端っ子を入れて巻き取るのだと、先生は教えてくれました。この説明で分かりますかねぇ。そのカギで缶の帯みたいなものをキレイに巻き取ってフタを開けると、赤黒く繊維っぽい塊に、白いラードがあちこちに浮いております。見るからに脂っぽいのですが、それがアメリカのリッチな雰囲気を漂わせているように感じられました。

 

 何しろ、その当時に食していた肉は鶏と豚がほとんど。ビーフなんて高価でしたから、滅多に食べられません。それが、缶詰といえども目の前にあるわけで、ボクは日本の給食制度に心から感謝いたしました。

 

 ところが、それをどう食べていいか分かりません。そこで缶の開け方を指導した栄養関係の先生が、「その隣にマヨネーズの小袋があるでしょ」と。缶からコンビーフを小皿に移し、このマヨネーズを塗りたくった上で、しっかりとかき混ぜなさいと言うのです。今でも覚えていますが、マヨネーズの酢の刺激臭と牛の脂の何ともいえない匂いが鼻腔の奥まで漂ってきました。「こんなもん食えるのか」というのが最初の感想でしたが、調理はそれで終わりではありませんでした。隣に置かれた2枚の食パンのうち1枚にそれを塗って、上からもう1枚を挟んでかぶりつきなさいというわけです。

 

 おそるおそる口に入れて味わってみると、食パンの乾いた感じと甘さが、マヨネーズと牛脂の臭みをきっちりと中和してくれます。かくて「こんなうまいもの食べたことない」という感想に変わったのであります。

 

 幸せなことに、それ以降もケンタッキーや北京ダックやキャビアなど、初めて食べた美味なものは数知れません。現代の子供たちにとっては生まれた時から常識的にあるものばかりなので、おそらくボクのような感動はないに違いありません。ははははは、ざまぁみろと自慢してどうすんだとなりますが、何かね、そうした事々を思い出すだけでハッピーになれるのはなぜでしょうか。久しぶりにスーパーでコンビーフを買ってこようかな。

 

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2018年7月10日 (火)

一撃必殺

 

 ものすごくヤバいタイトルになってしまいましたが、テーマは「リアリティ」です。司馬遼太郎に言わせれば、これを完全に喪失したのが太平洋戦争でありまして、いつか神風が吹くかのような妄想的な戦略や戦術で玉砕を繰り返したということになります。

 

 それに比べて、日露戦争は驚くほどのリアリティで準備が進められていました。最も有名なのは、バルチック艦隊を迎え撃った時の「東郷ターン」と呼ばれる連合艦隊の回頭戦術ですが、それ以上に勝利に貢献したのは「火薬」なんですよね。ピクリン酸を使用して強烈な破壊力を実現した「下瀬火薬」が知られていますが、この火薬を充塡した砲弾に取り付ける「伊集院信管」なるものも開発されています。不発が少なく砲弾が瞬間的に爆発する仕組みになっているそうです。さらに、砲弾を撃ち出す時の火薬も、イギリスから輸入したコルダイトを使用。発射時の煙が少ないために、視野を妨げられることなく連続して打ち込むことができました。

 

 それに対して、ロシア艦隊は昔ながらの黒色火薬ですからね。一発撃つたびに煙まみれになって、連射どころか狙いをつけられない。これではドッカンドッカンと敵弾が命中して船体がたちまち炎に包まれるのも不思議ではありません。日本海海戦を調べれば調べるほど、世界の予想を裏切る圧倒的な勝利は、戦う前から入念に用意されていたことが分かります。

 

 これを「リアリティ」と呼ばずしてどう呼ぶのでしょうか。

 

 このメンタリティは明治維新を経て突然に生まれたものでは決してありません。薩摩藩が体質として備えていた本能的な流儀ではないかとボクは考えるようになりました。実際に、幕末には島津斉彬が造船技術を輸入。高炉などもいち早く建設して近代化に取り組んでいます。江戸幕府という中央権力から距離的に遠いからこそ、より現実的な展望ができたのではないでしょうか。

 

 さらに歴史を遡ると、剣道においても「一撃必殺」を理念とする実にリアルな流派があります。それが1718世紀後半に成立した「示現流」です。ボクは鹿児島で練習風景を見せてもらいましたが、その迫力に仰天しました。「ギョエー」と怪音を発しながら、太い木刀を横たわった木の枝の束に打ち付けるだけ。昔は朝から晩まで何千回と続けたそうです。こんなにもすさまじい勢いの真剣を受けたら、防ぎようがありません。テレビの殺陣のようにカッコ良く刀で止めたとしても、よほどの怪力でなければそのまま押し切られてしまいます。

 

 ボクは以前に空手やボクシングにおけるパンチ力というのは、速度×質量×方向にほかならないと書きました。物理の力学ではそれ以外の要素は考えられません。示現流は、まさにこの法則に忠実な剣法なのです。質量は刀剣と体重に関係してきますが、こんな練習を毎日やってメシを食べれば、筋力だってどんどん付いてきますってば。

 

 その腕で、渾身の力を込めて一方向に切り込んでいく。眠狂四郎の円月殺法なんか単なる目くらまし。剣道ダンスと呼ばれるような型ばっかりの流儀は、一気に粉砕されてしまうでしょう。

 

 このため、示現流には「二の太刀」がないとされています。まさに「一撃必殺」のリアリティが生み出した究極の剣術だとボクは信じております。その風土というか、流行の言葉でいえばDNAが、大砲に必要な鋼鉄を精練できる高炉を日本で最初に建設し、薩摩藩士だった東郷平八郎が率いる連合艦隊を勝利に導いたのではないでしょうか。

 

 そうなると、ルーツを山口県=長州藩とする安倍首相はどうなんですかね。少なくとも「働き方改革」なんて言い換えもいいところで、ボクのリアリティに則れば「給与制度改革」になるんですけど。

 

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2018年7月 9日 (月)

カリスマを支えるもの(後)

 

 クリプトン星からやってきたスーパーマンならいざ知らず、人間なんて体形や能力に極端な違いなんてありません。にもかかわらず、途方もないカリスマやワンマンを生み出すのは、本人の力というより、周りの人たちにほかならないと思うのです。中にはスティーブ・ジョブズみたいな天才がいることは否定しませんが、彼にぶら下がる人たちが無数にいたことも事実であり、そうした人たちがカリスマと崇め奉ったんじゃないかな。

 

 だってね、普通の人たちにとっては、カリスマやワンマンがいたほうが楽なのです。難しい意思決定を任せられるだけでなく、結果責任も回避できますからね。カリスマなんぞになるより、その後ろに隠れていたほうがよほどトクじゃないですか。だからカリスマやワンマンは、自ら「なる」ものではなく、「させられる」というのが正しい解釈だとボクは思います。

 

 ところが、最初は便利な傀儡としておとなしく御輿の上に乗っていても、やがて自分の権力を行使しようとする人も出てきます。御輿に乗せた以上は簡単には引きずりおろせないと躊躇しているうちに、陰の首謀者は遠方への左遷など粛清に近い異動を迫られ、反抗する意欲や方法を完全に殺いだところで、独裁政権が発足というのが歴史的な事実ですよね。

 

 そうなってしまったら、日大教職員組合の発言と同じで「逆らうのが怖い」となります。それまでのキャリアを捨てるような転属や異動を強制された人もいたようですね。ボクだって正直を言えば、同じ恐怖を味わったことが何度となくあります。だから分かるのですが、この恐怖の本質は「失う」ってことなんですよね。長く生きれば、カネだけは人によりますが、持っているものは次第に増えてきます。ワンマンやカリスマに抵抗できないのは、それを奪われてしまうからです。失うには惜しいものが多くなると、理不尽な要求にも従う奴隷のようになり、その連鎖は末端まで続きます。中には自らカリスマやワンマンのパシリになることで、権力のおこぼれを頂戴しようとする人も出てきまよね。

 

 かの西郷隆盛はそうした心理をちゃんと見抜いておりました。

 

 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この「始末に困る人」ならでは、艱難を共にして国家の大義は成し得られぬなり。

(「西郷南洲遺訓」)

 

 そういう人間が果たしてどれだけいるかなぁ。少なくとも官僚の人事制度を変えて、ダメな連中をどんどん解雇して、中途採用をバリバリ増やさないと、そんな人材が国家の運営に携わることはできないでしょう。ここでも制度に問題があることが分かります。「始末に困る人」の育成がボクは教育の大きな課題だろうと思いますが、それと合わせて、やはり既存の制度を徹底的に見直さないと手遅れになるでしょう。

 

 そのためには、シニアにこそ頑張っていただきたいとボクは思うのです。定年退職して年金暮らしなら、命もいらず、名もいらず、官位も金だってもういいよとなりませんかねぇ。最後のご奉公とばかりにエイヤッと蛮勇をふるって立ち上がった「始末に困る人」たちを広く受け入れる制度ができれば、少しは公平・平等な社会が生まれるのではないかと期待しているんですけど、無理かなぁ。

 

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2018年7月 6日 (金)

カリスマを支えるもの(前)

 

内容はかなり違っても、文部科学省の科学技術・学術政策局長が逮捕された受託収賄事件と、いまだに収束していない日大の危険タックル事件は、根っ子に共通した問題があります。

 

その前に、文部科学省は「競争的資金」の分配をやり過ぎたんじゃないかな。ボクがこの政策を知ったのは「21世紀COEプログラム」の頃からですが、それから十数年がかりで「国公私立大学を通じた大学教育再生の戦略的支援」として急速に膨張してきました。とにかく補助金付き公募プログラムがやたらに多いのです。

 

「特色GP」だの「現代GP」という黎明期は、これまでのような横並び支援ではないことから、ボクなりに高く評価して記事で頻繁に紹介してきました。受験生にとって大学選びの参考にもなるじゃないですか。ところが、毎年のように新プログラムが追加されては数年後に終わっていく。あまりにも数が多くて、新陳代謝も目まぐるしいので、文部科学省はいったい何をしたいのだろうかと疑うようになりました。

 

今回の受託収賄のネタになった「私立大学研究ブランディング事業」もそのひとつですけど、タイトルからして何だかなぁでしょ。いわく「学長のリーダーシップの下、大学の特色ある研究を基軸として、全学的な独自色を大きく打ち出す取り組みを行う私立大学の機能強化を促進する」ですもんね。2016年度から始まったようですが、ボクが学長なら「放っといてくれ」ですけど、大学経営にとって何千万円だかの補助金は無視できません。それに17年度は188大学が応募して60大学しか選定されていないので、これをウェブサイトなんかでアピールできるのは他大学との差別化材料になります。

 

でもね、中央官庁による税金分配で民間の鼻面を引き回すようなことはそろそろやめたほうがいい。そう思い始めていたら、案の定ともいえる不祥事がとうとう勃発したわけです。

 

そもそも私立大学に補助金が支給されるようになったのは、1975年の私学振興助成法の成立からです。それまで私学はビンボーで借金だらけだったかも知れないけど、「学の独立」あるいは国から見れば「自由放任」でした。ところが、この法律のおかげで、少しばかり経営が楽になるかわりに、文部科学省の監督権限も強化され、ついでに天下りも受け入れなきゃいけなくなったわけですな。

 

この私学補助金がのあり方が「横並び」の批判を受けるようになったので、今度は「競争的資金」の分配に積極的になったとしかボクには思えません。

私立大学は国立大学と違ってそれぞれの建学理念があるはずですから、それに基づいた多種多様な大学があっていい。にもかかわらず文部科学省から「グローバル化するなら大金を補助しますぜ」となったら、またしても横並びで英語と留学ってことになりますよね。

 

こんなことをやっているから、3500万円の税金=補助金をエサにして自分の子供の不正入学を要求する官僚が出てきたんじゃないかと。おかげで、おそらくですけど「競争的資金」をコアにした大学行政は早晩見直しを求められるんじゃないかな。さもなきゃ似たようなことが必ず起きますってば。それにしても、裏口入学させるなら税金でなく自腹でいけよ。木っ端役人のあまりな姑息ぶりにはほとほと呆れてしまいます。

 

ここまでは収賄側の話です。賄賂には受け取る側と贈る側が必ず存在するので、一方の東京医科大学はどうかといえば、やぁーっばり、いたんですな。ワンマン、カリスマ、いや大狸か鵺かっていうくらいの実力者が、「この子の点数のせといて」とゲタを履かせることを指示したらしい。同大学の入試関係者は唯々諾々(としか思えません)と従ったので、こんな大問題に発展したのです。これって、日大の危険タックル事件と似ていませんか。

では、全国の大学にワンマンやカリスマの理事長や学長が蔓延しているのでしょうか。

 

ボクは問題が2つあると思います。第一に、大学のトップが掌中にする権限が「ジャンケンポン」のような緊張関係を持たないことが大きい。封建時代じゃあるまいし、民主主義の世の中で、たった1人に権力が集中する支配構造はおかしいですよね。アメリカ大統領だって議会を通さなきゃできないことが少なくありません。民間企業ならまだしも、公益&公共&社会的要素の強い大学ですぜ。そんな権力構造を促したのが「ガバナンスの強化」ってヤツです。前述した「ブランディング」の能書きにもあるように、教学・経営のトップに強い権限を持たせるように図ってきたのも文部科学省なんだよな。

 

これは民主的に見える教授会が新しいことには何でも反対するので、「やりにくくて仕方ない」という意見を反映した行政政策と理解することもできます。いずれしても、そうした風潮がなければ、小うるさいインテリの教授を支配下にしたカリスマやワンマンが生まれるはずがない。

 

こうした非対称な権力関係の中で、ルールを無視したタックルの指示や、受託収賄事件が発生したのであります。そして、もうひとつ、学内の関係者はなぜカリスマやワンマンの暴走を止めることができず、協力してしまったのかということにも言及しなければなりません。

 

かなり長くなったので、それについては来週ということで。

 

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