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2010年4月30日 (金)

死の哲学

 このブログは、平日は毎日アップ、土日・休日は更新なしを基本ルールとしています。それにしても、よくもまあ半年も続けてきたものだと我ながら感心しますが、連休に入るので次回は56日から開始します。

 とはいっても、要するに自分でアップできないからなんですけどね(苦笑)。

 さて、前回は「実存」がテーマでしたから、その対極にある「非実存」、つまり死のことも取り上げないわけにはいきません。というより、ボクはモノ心がついた頃から、死んだらどうなるのだろうと考え続けてきました。

 実存よりも死のほうがはるかに不可解です。なぜなら、死んでから生き返ったなんて人は古今東西いないわけで(仮死状態とかキリストの復活などの宗教的奇跡はさておき)、死後の世界に関する仮説は誰でも立てられますが、それを実証する方法があり得ないからです。これでは科学の対象になりません。

 そのせいか、いろいろな宗教が死後の世界を想定して教義をこしらえていますが、結局は言った者勝ちの世界で、科学的な検証なんてできないのですから、「信じる者は救われる」となってしまうわけです。

 けれども、そうした信仰がないと「救われない」というのもヘンな話であり、毎年3万人以上が自殺しているニッポンの学校で死をちゃんと教えないというのはもっとヘンな話です。このため、上智大学のアルフォンス・デーケン先生は長く「死の哲学」を教えてこられました。ボクが取材した時には「学生には死哲のデーケンです。国鉄ではありませんよと言います」と語ってくれました。国鉄が民営化されてJRになったので、今では通じない冗談になりましたが。

 でも、大学からではちょっと遅いかもしれません。知恵がつき始めた時に直面するのが生と死の問題ですから、幼・少年期こそ好奇心を持って理解しようとするのではないでしょうか。

 いずれにしても、ニッポンでは、死とは何か、死に対してどう臨むのかということがとことん病院の中だけのテーマになっています。しかし、人間は必ず絶対確実に死ぬわけですから、その場になって大慌ての自己流で死後を想像するとか、死の理屈や理論をこしらえなければなりません。

 この時に宗教心があると、教会などで常に神と天国について聞いているわけですから、死に臨む時には、その教えをちょいと借りれば済むとも考えられます。

 学校で死を教えないと、生者こそが本来的な存在と考えるようになります。それを拡大解釈すると、働けなくなった障害者も社会からの脱落者となり、仮に健康でもホームレスは社会のお荷物などと見做されるようになるわけです。老人も死に近い存在なので、若さこそ最も貴重なもの。かくて、テレビの人気タレントも幼少化が著しいと言えば大げさでしょうか。

 こうして社会全体から弱者への優しい眼差しが失われたことも、先進国で最も自殺率が高い背景のひとつかもしれません。こんなことでいいんですかね。今は元気で若くても、人間は必ず老人になるし、どこかで事故に遭ったり、病気にもなります。その時に社会は冷たいんだあと嘆いても、もう遅いわけですよ。

 ボクが考えるのは、人間の誕生は「社会的な出来事」ですけど、死はすこぶる「個人的な出来事」であるということです。社会的な意味は別ですよ。どんなに功なり名を遂げて、親しい人が山ほどいたとしても、死ぬという大事件に立ち合うのは、その人だけということなのです。

 葬式はまた別の話であり、あれは生きている人が、自分が死んだらそうして欲しいことをやるセレモニーだと思います。アメリカの軍人や警察や消防といった公共の危険な職務に就いている人が亡くなると、関係者が集って国旗を棺に乗せたりしますが、さもなければ戦地に赴く気持ちも褪せてしまうでしょう。もしかして死んだら、みんなが揃って悼んでくれて、厳粛に弔ってくれると思うからこそ、危険な場所に足を向ける勇気も出てくるわけです。

 それはともかく、死が極めて個人的な出来事であるなら、その人の資産や社会的な地位なんてみごとに関係ありません。誰かが看取ってくれたとしても、死ぬのはあくまで当事者だけです。生まれた時は社会的な出来事なので貧困などの不平等がつきまとっても、死ぬ時にはどんな権力者であっても完全に一人ぼっちで死ぬことになります。「無縁」の不安が大きな話題になりましたけど、逆に考えれば、死という事態は完璧に平等といえなくもありません。

 亡くなった池田晶子さんがいつか書いていましたが、生きている人間は死後の世界を感じることはできません。そして、死んでしまえば何も思うことができないのですから、死は生きている間に考えるフィクションに過ぎない(とボクは読みましたが)。これまたスッパリと割り切れた考え方ではあります。

 ボクのような無宗教者には、この考え方が最も合理的で納得できるのですが、何かが足りません。

 死後に無となることへの心構えというか、覚悟です。無とは何かは別にして、この覚悟を持たないと、心安らかに人生を終えることはできないでしょう。だからこそ早い時期から死を考えさせて、その覚悟を身につけていったほうがいいのではないかと思うわけです。

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