根本的な勘違い
5月病のシーズンに突入しました。中には不本意な滑り止め大学に入学したことで、再度の受験を考えている人もいるはずです。
ボクの世代にもそんな奴は結構いて、「司法試験のために法学部を再受験する」とか、女子大を退学して再受験して入学した女性とか、「病院を継がなきゃいけないから郷里の医大を受験する」と帰ってしまった男もいました。
まさに人生いろいろですから、それぞれの決断は尊重されるべきだと思います。回り道になったにしても、その意思につながったのですから、無駄では決してありません。
問題なのは、学ぶ意欲がどうしても持てず、さりとて別の進路にチャレンジする気力もなく、毎日を自堕落に過ごしていくことでしょう。「こんな大学じゃ就活も大変だろうな」と自嘲しながらも、とりあえずは授業に出なきゃ単位が取れないから大学には行く。こういう場合は、5月を乗り切っても、次の夏休みが超危険となります。
何でも偏差値だのランキングで判断される世の中なので、仕方がないと受け入れるしかないように思えますが、それってホントかなぁ。以前にもちょっと触れましたが、高校までは「教えてもらう学校」であり、大学は「自ら学ぶ学校」が基本ではありませんか。なのに、大学でも高校のように教えてもらおうとすることに問題があるとボクは考えています。
これは就職でも同じで、大企業に落ちたからといって能力すべてを否定されたわけではありません。そもそも何度面接を繰り返したところで、人間の能力を正確に判断することなんてできないはずです。ましてや新卒予定者は実務経験がないので、その素質を見抜くなんて実際には無理でしょう。分かり得る断片から適・不適が判断されているだけでね。そうなると大学名のウェイトが高くなるのは当然といえば当然です。
かくて、ようやく内定が取れた会社で働きながらも、「こんな会社いつまで保つかな」とか「仕事に将来性がまったく感じられない」などとなり、しばらくして退職という事態にも陥るわけです。
それもまた、ちょっと違うのではないでしょうか。
まず、大学の場合ですけど、どんな大学にもそれなりに優秀な教員がいるはずなので、その人にまとわりついて学べばいいじゃんとボクは単純に考えます。さもなければ、自分で勝手に年間のテーマを決めて徹底的に研究する。それで論文を書いて教員に見てもらいましょう。そうやって「教えてもらう」から「自ら学ぶ」へと脱皮しないから、欝屈や劣等感が消えないわけです。
大学はある種の器なので、教員も含めて環境やスケールの違いは確かにありますが、それに素直に従っていては大学の偏差値を超えることはできません。それが「教えてもらう」ことであるなら、「自ら学ぶ」ことしかグレードアップする方法はないじゃないですか。
会社も同じく、中小企業や無名企業であることに自分自身が甘んじているから、大企業の社員に劣等感を持ってしまうわけで、たとえば「もうすぐ上場するんだぜ」と考えれば誇りも生まれるではありませんか。それをウソにしないためには、自分が実現させるように働けばいいのです。上場するためには何をすべきかを考え、みんなを動かしていけばいいじゃないですか。
外側の価値観に受動的に従うから、自分まで囚われてしまうのです。それをハネ返すには、やはり能動的になることしかありません。教えられるばかりなら、それなりにしかなりませんが、自ら意思して学ぶことによって、外部評価はともかく自分は変えられるはずです。大学って、そもそもそういうところだったと思います。
進学率の上昇によって、大学は高校を卒業したら次に行く学校と認識されているようですが、本来的には全然違います。自分が自分自身の意思によって、必要なことを選択して学び取るところではありませんか。
会社も同じで、中小企業は「発展途上企業」なのです。無名企業は「有名途上企業」であります。そうさせるのは自分以外にないと考えれば、仕事ぶりも会社へのアプローチも変わってきますよね。
近頃は真面目な人が多くて、それはそれで結構なことですけど、あまりにも受け身に慣れ過ぎていないでしょうか。高校を卒業して働く人もいるのですから、どんな場であれ、大人として能動的にやっていかないと自分を満足させることはできないでしょう。
大学であれ会社であっても、いつまでも「教えてもらえる」と考えることに、ボクは根本的な勘違いがあると思うのです。
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