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2013年11月15日 (金)

信じることと疑うこと

 

 1995年3月20日の午前8時過ぎ。恵比寿の地下鉄日比谷線入口付近に数多くの消防車が次々に集まり、銀色の服を着た人たちが駆け回っていました。ボクはたまたまJRのキオスクで週刊誌を買おうと出かけた頃で、最初は火事かと思いましたが、煙も出ていないことから、いったい何が起きたのだろうと訝しく感じました。

 

 これが某宗教団体による「地下鉄サリン事件」です。日比谷線の恵比寿駅だけでなく、丸ノ内線、千代田線でも同時多発しており、後に戦後最大級の無差別殺人といわれました。

 

 この事件のおかげで、恵比寿近辺は急に騒がしくなっていったのです。というのも、駒沢通りと六本木通りが交差する近辺に同教団の東京本部があり、逮捕が噂された朝は何台ものヘリコプターが空に舞っていました。これが意外にやかましいんですよね。オサマ・ビンラディンの隠れ家をアメリカ軍が急襲した時に、よく気づかれなかったものだと思います。それを描いたキャスリン・ビグロー監督の映画『ゼロ・ダーク・サーティ』では、攻撃ヘリのステルスが登場して、消音装置が付いていることになっていましたけどね。

 

 それはともかく、こうした一連の逮捕時か、それとも以前か以後か、記憶が曖昧なのですが、たまたま何かの都合で東京本部の近所に行くことがあって、後に死刑判決を受けた某幹部を警察官が取り巻いている場面に遭遇したことがあります。

 その時に、純粋な興味本位で彼の顔を見たのですが、細面の顔立ちの中で眼が妙に大きく、しかも澄んでいたことを今でもはっきりと思い出すことができます。白目に汚れや曇りはまったくなく、瞳はまるでガラスのように綺麗だったのです。これは翌日の新聞の写真を見ても同じように感じたので、錯覚ではありません。

 

 この時の感想を率直に言えば、何かを心から信じて疑わず、いわば魂まで帰依してしまえば、このような年齢にそぐわない澄み切った瞳になるのかなぁと思ったのです。まだまだ事件は闇の部分があって、すべてが解明されたわけではないはずですが、もしも本当に彼らの仕業であるなら、信じることは本人にとって心地良い浄化であっても、他人にはかなり怖いことですよね。

 

 なぜこんな昔話をするかというと、福島の原発事故以降、信じることと信じないことの乖離がはなはだしくなってきたような気がするからです。これは東電や政府関係者による嘘や隠蔽の連続がもたらした、社会的な後遺症であることは間違いないはずですよね。けれども、何もかもアタマから疑われると、全部が嘘になって自分だけが正しいということで、会話も論争も成立しなくなってしまうのです。

 

 かといって、今週の某週刊誌のように「原発ゼロ」を訴える小泉元首相の足もとをすくうような、意図的と感じられる記事だってありますからね。自民党内部の政争が、あの発言で図らずも刺激されたと見ることもできるでしょう。

 

 というわけで、ボクたちは常に何もかも疑わなければなりません。ということは、あまりにも逆説的で分かりにくいかもしれませんが、疑うこと自体も疑わねばならないのです。Aということがあって、それを疑うための前提としてBを出したとすれば、やはりB自体も等しく疑ってかかる必要があるわけですね。

 

 うーむ、こりゃ大変だ。いったい何を信じたらいいのでしょうか。

 それで思い出したのが「中庸」という言葉なのです。今では中途半端でどっちつかずの意味と理解されているようですが、みんなの意見がたとえば賛成と反対に二分されているとして、ニュートラルな立場で真ん中を堂々と歩いていくのは相当に勇気のいることです。両方から攻撃される可能性だってありますからね。
 そんなわけで、この言葉が生まれた時代にはかなりアグレッシブなニュアンスがあったという話を聞いたことがあります。

 

 そうした「中庸」をどのように維持していくかが、おそらくですけど、原発事故以降のボクたちの社会の大きな課題なのかなという気もするのです。

 

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