世界の中心で……
そこそこの美男で、それにふさわしい美女と付き合っていたはずの知人がなぜだか別れていたので、驚いて理由を訊いたことがあります。
「いかに綺麗で美しいとしても、世界の中心は自分だと思い込んでいる女と一緒にいたくないよ。こっちだって世界の中心にいるんだから」
世界の中心は思いのほか混雑しているみたいですね。
これは随分前の話ですけど、似たようなケースは今でも結構あるんじゃないかなぁ。ボクはとっくの昔に自分を考えることはやめましたが、あまりにも個性を重視したり尊重するような教育や家庭環境にいると、自我肥大の自尊心症候群が昂進して、次第に世界の中心方面へ移動することになるのではないでしょうか。
そんな人が失恋や就活失敗など自分を否定されるような事態に直面すると、機能不全ならまだしも、壊れたロボットじゃありませんが、異常反応を起こすようになります。いえね、別に調べたわけではありませんが、たびたび世間を騒がせるストーカー事件や無差別通り魔事件も、そうした異常反応の一種ではないかと思うのです。
教育は学力だけでなく、個性の発達や自主性を促すことも本筋ですが、逆に一般的な宗教ではそもそも世界を神様が作った、あるいは仏が魂を救済するというように、超越的な絶対者を想定しています。
つまり、世界の中心にはすでに神様や仏様がドデンと鎮座していらっしゃるわけですから、人間ごとき卑小な存在がアナタ、そんな場所にいられるはずがありません。世界の中心にはいかなる人間もいないのであります。
そうした超越的存在を仮定あるいは認めた上での人間復興あるいは個性尊重と言いましょうか、はたまた自由・自立賛歌というべきか、そのような思想が普及しない限り、今後も大勘違いの唯我独尊的な大暴走が続くような気がするのです。
もちろんキリスト教圏でも異常犯罪はあるので、というより無差別殺傷やリベンジポルノなんかは先輩ですから、宗教心さえあれば被害や事件が減るという結論には決してなりません。しかしながら、ちょっとは脆弱な自尊心にストレス耐性のようなものが身に付く気がするんですけどね。
ただ、日本の宗教環境は円満な歴史をたどってきたとはいえません。キリスト教や神道との確執があったほか、心理的に最も大きな悪影響を与えたのがオウム事件ですよね。現在進行形の課題や問題もないわけではないので、セクトに分裂した学生運動の頃のノンポリのように、大多数が危うきには近寄らずになっていることが最も哀しいことではないでしょうか。
だから、このブログでは、伝統仏教の側からもっと世間に意見を発信するべきだと催促してきました。中には積極的に社会参加する若い僧侶もいるようですけど、ボクは公教育が宗教を再認識することがキモではないかと思っています。けれども、宗教を果たしてうまく中立的に(?)教えられるのかどうか。
ここから先はとてもボクの手に負える話ではないので、さっさと撤退することにいたします。
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