ファンタジー@ビジネス
失敗を正しく原因追及できれば、同じ失敗はしないはずです。
けれども、成功事例をいくら研究・解釈して理論化しても、同じように成功できるとは限りません。成功事例を完璧に真似できるのであれば、「2匹目のドジョウ」を得ることも不可能ではありませんが、同じ人間はほかにいないように、事業をめぐる条件や環境は常に唯一無二だからです。
つまるところ、ビジネスはどこまで行ってもクリエイティブが本質なのであって、他人の「正解」がそのまま自分の「正解」になるはずがありません。これこそが学校の勉強や試験との際立った違いにもかかわらず、それを明晰に理解している人は本当に数少ないと思います。
事業の主体で当事者であるなら、常に他者とは違う「正解」を求め、創造しなきゃいけないのに、大企業ほどリスクを回避した横並びを重視してきました。そして、責任を取りたくない、あるいは創造的な思考が苦手というトップは、経営書などを読み込んで評論家への道をひた走ってしまうわけですね。
ちょっと駆け足で「面倒くさい」ことを書いてしまいましたが、倒産したIT企業など、ボクが体験してきたビジネスや経営をまとめると、以上のようになってしまうのです。このように考えているのはボクだけではないらしく、『新潮45』2013年12月号で、以下のような文章を見つけました。
「ある種のビジネス本は、大人のためのライトノベルのようなものだ。なにか権威のある老師から奥義を教われば、君も特別な能力を発揮できる、それで戦いに勝ち、世界も変わる。ネットスラングでいうなら中二病患者向けの、それこそ昭和の頃なら角川映画がアニメ化したような、『幻魔大戦』シリーズのごとき心躍るファンタジーだが、ビジネスマンがそれに耽溺すると、素の自分の視点を失い、物言いが上滑りしやすくなる。目の前の風景から新しい問題を見いだしにくくなる」(「『マネジメント』という言葉の罪」、三宅秀道)
経営ではマネジメントやマーケティング(折しも日本経済新聞『私の履歴書』でフィリップ・コトラーの連載が始まりました)などという専門用語が飛び交います。そうした言葉を駆使したビジネス本が、あたかも老師から教えられた「奥義」のようなファンタジーになってはいないかという指摘です。そういえば、高校野球の女子マネジャーの本がベストセラーになったではありませんか。
こうした経営用語がアメリカから活発に輸入され始めたのは1990年代です。それまでの日本は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・ヴォーゲル、1979年)ですから、経営をわざわざ勉強する必要なんかなくて、先輩たちのやってきたことを真似すれば良かったのです。特に1980年代はイケイケドンドンもいいところで、信じられないことにグラフィックデザイナーですら「欧米から学ぶものはもうない」なんてホザいていたのですから、その愚かさにはアタマが下がります。
それが「驕る平家は久しからず」のことわざ通りにバブル経済が崩壊。昨日の成功は今日も通用するとは限らないとなって、新たに頼り始めたのがアメリカの経営理論だったのです。とはいっても、成功していた80年代までの日本を研究分析した結果だったりするんですけどね。
ですから(?)、OECDによる2012年の学習到達度調査(PISA)で、日本が前回の09年からちょっとばかり順位を上げたとしても、「生徒の学力が向上している」(文部科学省)と単純に評価していいのかなぁ。「ゆとり教育」からの政策転換が成果を挙げたとしたい気持ちは分かりますが、「創造性」は依然として置き去りになっているような気がします。それこそが「総合的な学習の時間」の狙いではなかったかとボクは思うんですけどね。
ついでに、考え続けてきたことの一端をここで紹介すると、リーダーシップとは「人格」のことを言うのではないでしょうか。知識や理論やスキルを学べば参謀にはなれても、それをもってリーダーたる人材とは言えませんよね。そうしたリーダーシップと創造性が、この国の弱点だよなとつくづく思うのです。
中国の防空識別圏なんかでも、すぐにアメリカの動向を気にしたりして。まず自分自身で考えなきゃ、主権国家とは言えないんじゃないかなぁ。
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