罪なき者よ
ボク自身も最初にその言葉を想起しましたが、まさか週刊文春の連載で使われるとは思いませんでした。このところ朝日新聞へのバッシングが続いており、中でも同誌と週刊新潮が圧倒的な急先鋒といえるのですが、そんなメディアに「罪なき者、石を投げよ」というタイトルの文章が登場したので驚かされたのです。
しかも著者は、朝日新聞が連載原稿を拒否して大騒ぎとなり、非難を受けてから一転して掲載に至った池上彰氏です。個人的には「分かりやすさ」を過剰に求める世論を盛り上げてきた人だと認識しており、あまり好意を感じたことはありませんでした。分からないことがあれば自分で調べて自ら考える習慣を持つのが基本じゃないか、なんてね。けれども、本日発売の週刊文春9月25日号の連載『池上彰のそこからですか!?』第180回を読んで、そうした見方がコロリと変わりました。
冒頭で紹介した文章は新約聖書(ヨハネによる福音書)にありますが、この当時は姦通の罪を犯した女性は石を投げつけて殺すことになっていました。その時にイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と説いたとされています。このエピソードを前提として、池上氏は「朝日新聞は、私の連載原稿を掲載しない(朝日に言わせると、「掲載見合わせ」)という判断をしました。これに対する各マスコミの非難は大変なものでした。非難は当然とはいえ、その論に加わっていた新聞社は、みんな『石を投げる』ことができるのでしょうか」と述べているのです。この意見は「新聞社」だけに向けられたものではなく、週刊誌や一般雑誌、テレビやラジオ、そしてジャーナリストやライターも等しく含まれていると考えるべきですよね。
朝日新聞批判を続けてきた週刊文春は、この9月25日号でもグラビアで「沈みゆく朝日」として歴代の謝罪会見の写真を掲載していたほか、「追及キャンペーン第5弾」として、「捏造、隠蔽、泥棒まで! 朝日の自壊」として攻撃記事が特集されていました。そんな中でも、池上氏は「朝日は批判されても当然ですが、批判にも節度が必要なのです」と書いているのです。いくら自分の連載とはいえ、この中立・客観的な姿勢には感心せざるを得ません。これこそが「クリティカル・シンキング=批判的思考」と呼ぶべきものではないでしょうか。
ここまで引用してみて、彼の文章には無駄なところがまるでないことにも気づかされました。要約しようとすればするほど改悪になってしまう。そんな文章は誰にでも書けるわけではありません。
朝日新聞が謝罪した慰安婦強制連行や東電・吉田調書などの誤報や間違いを弁護するつもりはまったくありませんが、今のような時代に、ニュートラルあるいは中庸を貫こうとするのは大変です。物事を威勢良く、それこそ分かりやすく簡単に表現しようとするなら、どちらかに傾いて批判あるいは迎合すればいい。けれども、そうした大合唱が建設的な結果をもたらしたケースってあまりないですよね。
馴染みのない表現かもしれませんが、池上彰氏のように「真っ当」なスタンスに立脚した意見が望ましい明日につながるのではないかと思うのです。
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