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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2016年8月

2016年8月31日 (水)

『海街diary』

 

 何だか世の中全体に押しつけがましくなってきたような気がします。これって年齢のせいかなぁ。

 

 差し支えのないところを指摘すれば、芸のないテレビCMが増えてきました。CMは広告ですから商品やサービスの購買に直結しなきゃ意味がないことはよく分かるんだけど、客をナメとんのかレベルのアピールばっかしというのが多いんですよね。

 

 中でもCS放送で目立つのが、素人さんが体験談を語るヤツです。見ているこちらの心がイタくなるほど皆さん一生懸命に「効いた」とか「スーッとですよ」とかね。出演料がいくらか知りませんけど、それってホントかよと。そんな時に必ずテレビ画面の片隅に出てくるのが、「個人の感想です」という注釈なのです。

 それで許されるなら、特効薬もどきを開発して「個人の感想」を連発させれば大儲けは簡単じゃないか。「ガンが治った、ような気がする」と言わせりゃいい。治療の実績ではなく、あくまで個人の感想だもんね。

 

 かつて日本のCMは直接的な商品訴求が少ないので「ソフィスティケイト」されていると世界で評価されていた時期がありました。ところが今ではとにかく中身より外面が最重要。恥知らずでもいいからどしどし強調していかなきゃソンというような風潮を感じます。もっと謙虚に、知的に、穏やかに、早い話が静かにしてくれないものでしょうか。

 

 そんな時に、たまたまWOWOWで2014年公開の映画『海街diary』を見てしまいました。外出する用事があったので、まことに残念ながら全部は見ていません。むしろほんの一部といっていいのですが、演技の上手さに仰天しました。綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずの4人が姉妹役で絡んでいるのですが、実に自然にセリフが流れて、彼女たちの感情がそれこそスーッと心の中にしみわたってくるのです。

 

 綾瀬はるかも長澤まさみも説明不要の人気女優ですが、こんなにも優れた演技力を持っているとは不覚にも知りませんでした。夏帆という女優さんはボクには未知でしたが、モデル出身にもかかわらず、食事しながらの会話が際立って自然なんですよね。口の中で食べ物を咀嚼しながらも、絶妙なタイミングで会話に応答しているので感心しました。これは素人にはまったく無理な、まさに「技」としか言いようがありません。

 

 文章はシリアルな表現手法ですから、複数の人の会話の重なりを表現するのは基本的に不可能なのですが、現実には普通にありますよね。話の途中で相手が言葉をかぶせるように自分の意見を言い、それを受けてちょっと考えたタイミングで「でもね」と反論する内容を、一拍置いて相手も頷きながら、結局は「そうそう」とお互いに共感するといった感じかな。

 これを彼女たちは、映画の中で本当の日常生活のように感じられる演技ができるのです。

 

 広瀬すずも生硬で未熟な若さをうまく体現しており、キャスティングも卓越したセンスではないでしょうか。

 

 この映画は3人の姉妹と腹違いの末妹との共同生活がテーマです。家族を捨てた父への微妙な想いと、一緒に住むようになった4人姉妹をめぐる変化が描かれているので、やたらに怒鳴ったり頭をかきむしるようなド派手で圧迫的な感情表現はむしろNG。こうした過剰なアピールが上手な演技だと思い込んでいる有名男優もいるんですけどね。

 

 デリケートな内容なので、繊細な表現力が必要なドラマですけど、彼女たちの演技には「引っかかり」をまるで感じませんでした。これって実は大変なことだろうとボクは思います。最後まで見られなかったのが残念なので、今度の週末にDVDでも借りようかな。

 でもねぇ、ボクはこうした家族ものは昔から大の苦手なんですよね。

 

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2016年8月30日 (火)

人権って言えよ!(続)

 

 8月最終の週末が過ぎて、ホッとしています。あの恒例のチャリティ番組がボクは大嫌いで、今では1秒たりとも視聴していませんが、この季節になるとイヤでも思い出してしまう。そのこと自体が不愉快なんですよね。

 

 あの番組が好きという人をけなすつもりはありません。「あざとい」と言ったところで、「そうは思わない」と反論されたら終わりですから。何をどう感じようが個人の勝手であって、「ボクがどんなにイヤな番組だと思っても、キミがそれを視聴する権利は侵害しない」というのが現代社会の自由民主主義というものですよね。

 そして、これって早い話が他者の人権を認めるってことではありませんか。さもなきゃボクの人権だって守ることができない。

 

 以前にも書いたのですが、この国はどうもそうした人権意識が希薄に感じられるのです。特にハラスメントと称されることは「弱い者いじめ」であって、つまりは何らかの権力を背景にした「人権侵害」であると説明しました。完全に対等で、自由に反論・反撃できる状況下でのハラスメントなんてあり得ないじゃないですか。たとえば会社の上司と部下なら、それだけで立場に違いがあります。部下から上司へのハラスメントなんて聞いたことがないですもんね。もしあるとしたら、部下が実は社長の息子だとか、労働組合への影響力が絶大であるとか、仲間と徒党を組むとか、そうした職制とは別の権力や組織力が必要になります。

 

 そんなことを書いたので今回は(続)となりますが、女優の息子のレイプ事件だって、「魂の殺人」とも言われるように、最悪の「人権犯罪」ではないでしょうか。そもそも男女には圧倒的な体力差があるので、それを利用するだけでも卑劣ですよね。それに社会的な圧力、前述した職制=役職という立場や、取引先などの立場の上下が加わったら、これはもう悪質としか言いようがない。

 

 しかしながら、ボクもそうですが、男に生まれてしまうと、そういう違いを感知しにくいのです。あくまでもたとえばですけど、身長2メートルで筋力モリモリという巨漢のゲイに襲われるなんてことでもないと、レイプの恐怖は実感できないんじゃないかな。あっ、それも違いますよね。そんな奴が「男」として社会にゴロゴロいるような状況はやはり想像しにくいのです。

 

 差別も同じことですが、体力差や立場や地位の格差を利用する加害者は、被害者の心象を体感することできません。足を踏んだ側は、踏まれた痛みが分からないのです。であるなら、アタマで理解し、想像するしかありません。つまり、他者の痛みを自分のことのように想像すること。これこそが教育であり、躾が担っていることの本質ですよね。

 

 他人は踏みつけにしていい、なんてことを教える親も存在する可能性は否定できませんが、そんなことをしたら自分もされるかもしれないと考え直させることが、今度は公教育の責任になってきます。

 

 にもかかわらず、前述したレイプ事件にしても、悪質な「人権犯罪」であることを指弾する傾向がほとんどないのです。性欲の強弱なんか論外であって、彼は他者、特に女性という弱者の人権を思いやることを教えられてこなかった。そこに問題の根っ子があるとすれば、やっぱり親の責任は免れないとボクは思うのです。

 

 これはあくまで個人的な意見ですが、社会的な意義に乏しい長距離マラソンも間接的な人権侵害の疑いを感じるんだよな。「イヤだったら拒否できる」といったところで、芸能界ならきっとイロイロあるでしょうからね。そのイロイロやモロモロや言うに言えないことを圧力にすることなく、みんなが気持ち良く生きていくために、もっと「人権」を意識するべきではないかとボクは思うんですけどね。

 

 

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2016年8月29日 (月)

過去の専門家

 

 群雄割拠の混乱期を経て社会が落ち着いてくると、文官が台頭するようになります。秦の始皇帝による天下平定と官僚社会という感じかな。

 

 それ以前は「戦って雌雄を決する」ことが基本でしたが、この文官の大多数は試験で好成績を取った人たちですよね。簡単にいえば「武力」から「知力」の重視となるでしょう。「武力」なら実際に喧嘩するとか道場で試合でもすれば優劣は一発で分かりますが、「知力」のほうは大変に分かりにくい。記憶力や理解力、表現力など様々な側面があるからで、いずれにしても身体的な闘争では判断できませんから、それなりに賢い人が作った試験の成績でもって優劣を評価するようになります。

 

 この試験で出題されるのは、ぶっちゃけてまとめてしまえば「過去の集積」にほかならないでしょう。つまり、これまではこうだったよね、という論理と発想で問題が構成されています。これを解くためには、出題者と同じく過去に精通する必要があります。しばしばいわれる記憶力だけでなく、原理や公式や理論や解法だって過去のことの集約です。

 

 ボクは決してそうした勉強を否定するわけではなく、これまでも、これからも大切なことに違いないと信じております。けれども、その勉強というのはあくまでも過去のことでございまして、明日や明後日も通用するとは限らないのです。

 

 より厳密に言うなら、自然科学の法則や数学は地球に住んでいる限り変化することはあり得ません。でも、社会科学関係となれば、おそらく6割程度しか通用しないんじゃないかな。社会や生活は技術革新の影響を強く受けるからです。たとえば電気もガスもなかった時代の社会学と現代が同じであるはずがない。貨幣からビットコインに移行すれば、経済学だって変化するはずです。そうした技術革新によって変わる4割部分が、いずれ残りの6割を塗り替えてしまう可能性だってあるじゃないですか。

 

 その一方で、人文系が数千年前とは大きな違いがあるかといえばそうではないでしょう。人間の身体構造が変わらない限り、『源氏物語』で描かれたことの本質は今でも同じであり、愛だの恋だの家族関係といったことの根本は共通しているはずです。

 

 何が言いたいかというと、学校で勉強できるのはそういう過去のことに過ぎないってことです。とすれば、成績の良い優等生というのは過去にとても詳しい人ということになりますが、だからといって新しい明日を導けるような創造性があるとは限らないということなのです。

 にもかかわらず、過去に関する試験の成績で選抜された人が文官すなわち官僚となって国や地方自治体の政策に携わっていくようになります。この政策というのは、改めて言うまでもなく明日=将来のことですよね。

 

 もちろんこれは文系だけのことで、理系が過去の専門家に留まっていれば、スマホや「ポケモンGO」なんかが開発されるはずがない。新しい発見なんか無理。よって理系というのは、過去の知識をある程度集積した段階から、それを発展的に応用または革新とか逸脱とか融合ということを強く意識せざるを得ない分野だと思います。

 

 これは文官でも政策創造に関係していれば必然的に要求されることでも、それこそ過去=歴史を見る限りでは、どうもそうした気配に乏しいのです。最近ではマイナス金利が典型的で、これまでの金融理論では正しい政策だとしても、国際化した現代ではまるで通用していないではありませんか。

 戦前の軍部もいわゆるエリートによって官僚化=文官化しており、日清・日露戦争あたりの戦略や戦術の常識を破ることはできなかったとボクは判断しています。どんな理由を後付けしようが、戦争は冒頭で述べた「戦って雌雄を決する」政治手法ですから、敗北とはつまり戦略=政策の失敗にほかなりません。

 

 話を再度戻すと、混乱期は明日のことは分からないということが明瞭に意識されている時代といえるでしょう。そして安定期は、そうした過去を清算・分析して将来に備える、というのが基本のはずです。

 ところが、学校ではしばしばその大目的が忘れ去られて、目先の成績だけで人材を評価するようになっていきます。かくて過去の専門家が大量生産され、社会の要所に配置されていく。もちろん中には創造性に富んだ人もいて、彼らが活躍したからこそ社会は変化に対応してきたのですが、大勢としては前述した通りなので、変革に至るまでにやたらと障害があって時間がかかります。その一方で、何もかもがどんどん利権化していき、頑として変えられない「岩盤規制」に化けていくわけですね。

 

 もちろん時代にもよりますが、戦後70年も経た今の社会では、官僚=文官はいっそ過去に精通した専門家集団と見なすべきではないかと思うのです。そんな過去の専門家が、ますますスピードアップする技術革新に適切に対応できるのでしょうか。

 

 そろそろ評価軸を学校の成績という過去のもの=簿価にするのでなく、途中で入れ替えありの「時価評価」にするべきではないかとボクは考えています。大学卒業時という学校の成績ベースではなく、社会での実績ベース、目的ベースでどんどん中途採用していく。そのかわりに「時価評価」で劣る人はどんな有名大卒だろうがどんどん退職してもらって新しい道に進んでいただく。

 

 社会がかなり硬直化しているにもかかわらず、明日が分からないという意味での新しい「混乱期」にボクたちがいることを本気で認識すべきじゃないかなぁ。であるなら「知力」をスタティックな試験の成績ではなく、「戦って雌雄を決する」ダイナミックな環境で評価する新しい軸を作るべきではないでしょうか。完全な対等条件下でのディベートやディスカッション、問題発見や、それに対する解決提案とかね。

 悔しいことに、こういう分野でもアメリカが一歩リードしてきました。いったいどうしてなのかなぁ。それを真似するということも「過去に学ぶ」ことではあるんですけどね。

 

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2016年8月26日 (金)

『シェルブールの雨傘』

 

 最近はなくなったかと思ったら、銀座で「慇懃無礼」なレストランに入ってしまいました。念のために「慇懃無礼」の意味を紹介すると、「表面上だけは丁寧だが、内心は尊大で相手を見下しているさま。また、言葉や態度が丁寧過ぎて、かえって失礼なこと」(故事ことわざ辞典)ということになります。

 

 ここで具体的に事例を説明するだけでも不愉快で、先方の人権なども考えて省略しますが、「ここはあなたがオーナーなんですか?」と確認したくなるようなアホバカなウェイターがいるわけです。どんだけの高級店か知りませんが、そいつ自身に権力やカネがあるはずもないのに、「虎の威を借る」ような態度の奴がボクは大嫌いでございまして、若い頃は某大手航空会社が経営するホテルでブチキレてしまい、支配人が直々に詫びにきたこともあります。

 何を勘違いしているか知りませんが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」って言葉を知らないのかなぁ。それ以前に、何よりも客商売じゃねぇかよと。

 

 ムカムカついでに言えば、某女優の息子の強姦致傷も、早い話が甘やかし放題で育てたってことでしょう。いい年をした息子が母親とじゃれ合っているビデオをテレビで見ましたが、あれだけでボクには十分に事情が想像できます。おそらく「自由放任」でやってきたはずですが、それって即ち「教育や躾の放棄」であることに気づかないんだろうなぁ。

 

 他人様のご家庭をあれこれ詮索するのも下品で無礼この上ないことなので、もう決していたしませんのでお許しください。

 

 けれども、昨日はその後でシャンソニエに行き、2回のライブを堪能させていただきました。中でも超久しぶりに聴いた『シェルブールの雨傘』に感動してしまいました。

 1964年にカトリーヌ・ドヌーブ主演で世界的にヒットした映画の主題曲ですが、劇中ではセリフは一切なく、歌ばかりの完璧なミュージカルです。知る人ぞ知るミシェル・ルグランが音楽を担当。If it takes forever I will wait for you と聴けば「ああ、あれか」と思い出す人もいるかもしれません。

 

 映画公開当時は子供だったので、ずっと後年にビデオで見たのですが、映画自体はまったく平板で凡庸というほかありません。愛し合った男女が戦争で引き裂かれ、はっと気づいたらそれぞれが家庭を持っていましたという、ありきたりな話ですからね。

 しかしながら、前述した主題曲だけは異常あるいは突然変異、奇跡と呼んでも大げさではないほど完成度が高く、魅力的なのです。「1000回の夏が来たとしても、あなたを待っているわ」というメロディが実にまったく哀切極まりなく、それなりの声量がないと歌い切れない大変に美しい楽曲だと思います。

 

 それがね、昨晩は大変に上手だったんだよなぁ。

 ああ、恋い慕う心かぁ、近年はさっぱり縁遠くなってしまった。大昔には胸が締めつけられるほどの想いをしたこともあるのに、なんてね。

 今のようにギスギスした時代には、やっぱ心に潤いが必要なんじゃないかなぁ。

 

 

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2016年8月25日 (木)

論理以外のこと

 

 本日は2本の締め切りがあって、じっくりと考えた原稿が書けません。ただし、これまで継続的に考えてきたことがありまして、そのサワリだけをかいつまんで紹介します。

 

 それは何かといえば、昨日の続きみたいになりますが、「論理以外のこと」です。子供の頃の作文指導を思い出していただきたいのですが、教師というのは常に「分かりやすく書け」と言います。もう少し成長すると、「論理的なつながり」なんてことも言ったりするようになります。これは文章の外見的なことであって、もう少し気の利いた教師は「社会性」を求めたりします。相手が子供にしても「他の人たちはどう感じたのかということも併せて考えてみましょうね」なんてね。

 

 これがいけないというわけではありません。独善的な文章なんて、誰も読まないし、何も伝えられませんから、むしろそうしたことに留意して文章を書かなければ、コミュニケーションは成立しません。

 

 ただね、言葉の力って、それだけではないんだよなぁ。

 

 ボクが割と以前から考えてきたのは、言葉に求められる論理以外のことなのです。文章ではなく、特に会話ですけど、メチャクチャに非論理的なくせに、妙に人を惹き付けることを言う人がいます。その逆に、ものすごく論理的なのに、まるで共感できない人もいるじゃないですか。

 

 ボクは以前に経営はリーダーシップであり、それは即ち人柄にほかならないと、経営ノウハウ本とは真逆のことを言いました。スキルなんていうのは後からついてくるぜと、今でも考えております。だってね、経営の本質はみんなを動かすことであって、その結果として利益が生まれてきます。その逆ではあり得ません。だったら、どうして前者に重点を置いて考えないのかな。

 

 それと同じように、人は他人に何を話すのか。「惑星運行の法則を見つけた」というなら理論も論理も必要ですが、そんなことを伝達するケースは限られています。むしろ、現代というのは、労働の高度化に伴ってメンタルの負担がどんどん重くなっているのではないでしょうか。

 

 日頃の会話も、何をどうすりゃいいのかなんてことを論理的に伝達するなんて実は相当にレベルが低いのです。そんなことをやっていたら高い業績は無理です。たとえば泳ぎ方を教えなきゃいけない水泳選手がオリンピックに出られるはずがないですよね。

 最も現代的な課題は、衰えがちなモチベーションをどう高めていくかであって、それが生産性に直結すると思うのです。そんな人たちに「論理的に」何を伝えるというのでしょうか。

 

 まだ固まっていないので大変に恐縮ですが、人というのはどんなに知性が高い人でも孤独で居続けることはできません。どこかで必ず「委ねる」何かを求めるようになります。それは果たして論理で伝えられるようなものなのかということなのです。

 

 このように書くとすぐに宗教に結び付けられそうですが、そうではありません。人間にしかない「面白さ」や「魅力」ということに近いかな。具体的には、あなたがこれまでに尊敬したり、師事したり、惹かれる人って、どんな人たちでしたか、と。

 もちろん優秀な人が少なくないはずですが、それだけではないですよね。では「それだけではない」ことって何なのか。これを何とか言語化することがボクの目下の研究課題なのであります。

 

 

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2016年8月24日 (水)

言わなきゃ分からない?

 

 昨日は思いがけずも予定通りに、人工知能から愛を語るというアクロバティックな論理展開の文章をしたためましたが(って大げさですな)、だからといって「愛しているよ」という言葉が最近は大嫌いになんですよね。テレビのドラマで誰かがそう言うだけでも虫酸が走るっていうのか、ものすごくウソっぽく感じるのです。リアルなら気持ち悪さはなおさらでございます。

 

 そう言わなきゃいけない、言わなきゃ通じない・理解されない、アタシにボクに毎日そう言ってよね、という関係の中に、本当の愛ってあるのでしょうか。

 

 ボクの子供の頃は、こんなことを言うのはむしろメチャクチャに恥ずかしいことでした。女性の心境は分かりません。もしかするとオフクロは死ぬまでに一度くらいはオヤジにそう言われたかったのかもしれない。オヤジだってつきあい始めの頃はやりたいあまりにオフクロの耳のそばでそんなことを囁いた可能性はあるでしょう。でもね、そういう言葉を口に出すこと自体が恥ずかしい、格好悪い、そんなことを言わなきゃオレの愛情が分からないのかよ、という風潮の中にボクは生きてきました。

 

 それが社会人になってしばらくすると風向きが大きく変わって、「言わなきゃ分からん」ということが常識になってきたんですよね。新人だって「そんなの聞いていない」「教えてもらってないからできない」と平気で言い訳するようになりました。それじゃってんで、中間管理職は「論理的な話し方」とか「説得する技術」とか「怒るのでなく叱る」「褒めて育てる」とか何とか、いろいろなアドバイス本が書店に並ぶようになりました。

 

 でもね、そろそろ考え直して欲しいんだよなぁ。

 

 欧米の人たちが仮に毎日「アイ・ラヴ・ユー」と言っているからといって、何でまた極東に住むボクたちが妻や恋人にうるさいくらいに「愛してるよ」と言わなきゃいけないのでしょうか。そもそも「愛」なんて言葉は明治時代まで一般的ではなかったはずです。

 世の中グローバルですから、海外に学ぶのは全然良いことですけど、毎日朝晩を一緒にしているパートナーに、わざわざ「愛してるよ」なんて言わなきゃいけない関係って幸福なんでしょうかね。ボクはむしろ「愛している」と言わなきゃいけない関係ほど不幸な状態はないのではないかと思うのです。

 

 会社でも同じで、うるさいくらいに「ああしろ」「こうしろ」「こうしてはいけない」「あれはこうする」「これはこうする」と、いちいち教えられたいですか? むしろバカにされているように思いませんかねぇ。受験勉強も就活も常に懇切丁寧に指導されてきたから仕方ないにしても、ボクはそういうのはうるせぇと感じるんですけどね。

 

 日本には以心伝心という言葉があります。

 いちいち教えなくても、教えられなくても、相手のことや状況を自分から察して率先してみんなが行動する。

 たまにはということで「愛してる」の「あ」を言いかけたら、彼女が人差し指でそっとボクの唇を押さえて、瞳の奥を見ながら「分かってるわよ」とやさしく口づけする。

 そんなふうになったらいいのになぁと、ボクは夢想するわけですな。

 

 

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2016年8月23日 (火)

人工知能

 

 人工知能の発達によって、人間の仕事がどんどん奪われていくと予測されています。それによって「より人間らしい仕事が残る」と楽天的に考える人もいるようですが、もっと正確に言い直せば、量で判断される仕事がなくなり、質で評価される仕事が過渡的に残るとも言い換えられるでしょうね。

 

 ところが、どんどん人工知能が発達していけば、「質で評価」される仕事だって、いずれは統計や確率論を活用して情報処理されるようになるでしょう。それこそが人工知能の今日的な課題になっており、そろそろ資源の最適配分に基づく長期的な経営計画の立案から、効率的なマーケティングなんかも任されるレベルに到達しつつあるようです。恣意的で感情的な人間の判断なんて、むしろ有害だと見なされる時代も遠くないような気がします。

 

 そうなると、人間にしかできないことは何でしょうか。

 

 芸術こそが機械化できない最後の牙城としばしば言われるようですが、たとえば絵画なら、有名な作品から構図や色の組み合わせを分析して、人間が好みそうなパターンを見つければ、類似の作品を描くことは困難ではないでしょう。

 音楽にしても、歌詞を書き込むだけで、その心象風景に見合った曲を自動で作ってくれる仕組みがすでにいくつか存在します。これを人工知能と呼ぶかどうかはちょっと難しいところですが、それらしい曲を作ってくれるレベルには達しています。

 

 これらが発展していけば、人間は働きアリにもなれず、夏を謳歌するキリギリスのバイオリン弾きにもなれなくなってしまいます。

 

 絶望的な未来としか思えませんが、ちょっと待てよ、と。そもそも芸術は何のためにあるのでしょうか。唄は何のために歌うのでしょうか。人間は何のために生きているのでしょうか。

 

 これらをまとめて綺麗に表現するなら「愛」であり、より率直に言えば「エロス」がすべての生存ならびに創造活動の動機にほかならないと思います。これは人間を再生産するために必要不可欠なことですが、機械には絶対にできないことです。機械が機械を作ることはあっても、機械同士がセックスして新しい機械を妊娠するなんてことはあり得ないじゃないですか。もしかすると、はるかな未来にはあり得るかもしれませんが、そんなことになったら人工とか機械とは言えなくなりますよね。

 

 長くなるのでこのあたりで省略しますが、ではボクたちがそうした「愛」をきちんと意識して仕事をしているかといえば、そうでもないですよね。お茶の出し方ひとつでも、機械とは違った「愛」を込めたやり方があるじゃないか、と。

 つまり、人間の仕事は機械と差別化することがまだまだ可能なのです。

 

 にもかかわらず、ボクたちはそうしたことをやっていない。人工知能の発達は、そうした人間としての「愛」を再認識する絶好のチャンスではないでしょうか。そのように考えれば、すべての仕事のありようが変わってくるではないかと、ボクは言いたいわけですね。

 

 

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2016年8月22日 (月)

ブリッジ

 

 年初に歯を抜いてから、月に2~3回程度のペースで歯科医院に行っております。これまでに予約した日時をドタキャンしたことは1度もありません。普通の人なら不思議でも何でもないことでしょうが、ボクにとってこんな皆勤賞というか優等生的な通院は人生で初めての事態です。

 

 けれども、これまでバックレたり治療途中に逃げたことがみごとにアダとなり、使い物にならないグラグラ歯が抜かれ、20万円もかけたセラミックの貼り歯が容赦なく捨てられて義歯となり、挙げ句のはては歯垢を取るために「歯茎を一度はがさないといけません」などと予告されております。

 

 痛いのが病的に嫌いなタチで、特に細い金属の線を巻いた針みたいなものを神経の中に突き刺して、グリグリ回してガリガリ引き抜くという治療が、と書くだけで腕のあたりにむずむず鳥肌が立ってしまうのですが、いくら麻酔をかけようが苦手なんですよね。だから、そんな事態を迎えそうになると、突然に仕事が忙しくなるという言い訳で逃げてきたわけです。

 

 すべては自己責任であって、ちゃんと歯と歯茎をケアしてこなかった自分に対する報いですから、きっちりと心を入れ替えたのですが、ちょっと手遅れだったかな。保険外の治療も必要になってきたからです。

 

 まだ納得できるほど調べてはいないのですが、義歯を入れてブリッジでつなげるという治療が、どうやら保険の適用外になるらしい。歯の欠損が規定された範囲内に収まっていないため、自費負担は避けられないそうです。

 そんな保険外治療の選択肢の1つとなるインプラントは外科手術になるので、ボクにとっては問答無用で論外。入れ歯という方法もありますが、以前に作った部分入れ歯を放置していることから分かるように、フィット感が問題なんですよね。歯科技工士の技術にもよるのでしょうが、あまりいい思い出になっていません。

 

 となると、やはりブリッジしかないわけです。それで値段をアバウトでもいいからと歯科医に訊いてみると、ななななななななななななーーーーーんと、40万円!!

 ヘタすりゃ中古の軽自動車が買える値段だもんなぁ。歯の治療ごときにそんなカネを支払うなら、ブリオーニかトムフォードに行って服を買うか、青山のベルルッティで靴を誂えたいじゃないですか。

 

 これからボクはどれだけ生きるかということにもかかわってきますよね。たとえば10年後に死んだとすると、年間で4万のコストをかけたことになります。月あたりで3333円。これは果たして高いのか安いのか。20年生きたとすれば、その半額の年間2万円で月に1700円くらい。これなら「勝った!」といえるのかな。もしも5年で寿命を迎えたなら、年間8万円で月あたり約7000円ですもんね。うわぁお、こりゃあもったいない、となりますよね。

 

 とにかく、保険外治療の価格があまりにも衝撃的で、我を忘れそうな月曜日という感じなのです。

 いえね、別にカネがまったくないわけではなく、さりとて腐りそうなほど札束を持っているわけでもありません。要するに歯科医院の治療にそれだけのカネをかける価値がありやなしや、ということなのです。QOLにかかわってくることは事実ですけど、躊躇してしまうのはボクだけなのかなぁ。

 

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2016年8月19日 (金)

人気

 

 もうすぐリオのオリンピックも終わりですが、つくづく人気というのは怖いなぁと思ってしまいます。

 

 だってね「銅メダルで申し訳ない」と言った柔道選手に賛否両論の嵐や、「ほんとしんどかったぁ」と大きな声で本音を吐露した女子マラソン選手に「ヘラヘラしながらメダル云々を口にするのは余りに品がない」とかの罵詈雑言ですもんね。

 

 今朝の報道ではレスリングの女子選手が惜しくも銀メダルでしたが、何度も「申し訳ない」と繰り返して号泣していました。あまりにも可哀相なのでボクも泣けてきましたが、すでにオリンピックで3連覇を達成して「霊長類最強」ともいわれた人ですよ。銀メダルにしても世界で第2位なのですから、普通なら大快挙ではありませんか。

 けれども、彼女の場合はそうはいかない。これまで常勝を続けてきたので、ファンの期待もひときわ大きくなるわけですな。そのせいか試合後のインタビューでも、アナウンサーの対応は今ひとつ同情的とは感じられませんでした。「本当にご苦労さまでした。国民みんながそう思っていますよ」とやさしく言ってやれよ。

 

 以前からずっと感じてきたのですが、どうもこの国は評論家が多すぎるのではないでしょうか。これは言ってはいけないタブーだけど、ちょっと腹が立ったので許してください。「だったらお前がやってみろよ!」

 

 そうした評論家面をさらに加速しているのがネット社会でございまして、当事者ではない人たちがああだこうだと分かったふうに喧しいわけです。

 

 もちろんファンがいて応援するから励みになり頑張れるということは否定しません。さもなきゃ選手があんなに苦しい練習を続けられるわけがない。最終的に戦うのは自分以外にいませんが、大きな大会になればなるほど、自分だけでは勝てないことも事実なのです。

 

 ただ、ほんのちょっとしたことで風向きがガラリと変わるのも人気の怖いところであり、さらに期待は一方的に増していくだけで絶対に減少しないという法則もあります。それを考える時に、ボクはいつもイエス・キリストやガウタマ・シッダールタや親鸞や日蓮なんかの孤独を想ってしまうんだよなぁ。宗教こそ壮大な人気商売ですから、大ファンだったはずの弟子が失望して離れていったり、強敵に寝返ったりすることも「普通に」あるわけです。

 

 人間というのはそういうものだと言われれば、確かにその通りです。でもね、「そういうもの」からちょっとずつでも進歩していくのもまた人間ではないのでしょうか。

 

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2016年8月18日 (木)

分かったような

 

 昨日の「金利」はちょっとヘビーなテーマでしたが、要するに、ちゃんと分かっていないのに分かったように思っていることが少なくないですよね、と言いたかったのです。

 

 これをもっと正確に言い直せば、敢えて気にせず「スルー」していることがものすごく多いってことです。そりゃね、いちいち細かいことに疑問を持ったら日々の生活なんてできないので当然ではありますが、中には「どうして?」と気づくだけで根っ子から変えられることもあります。

 

 ボクの会社でそれを象徴するのが給料日でありまして、ある時に、どうして多くの会社は25日にしているのだろうと疑問を持ちました。その経緯はすでにブログで紹介していますが、銀行の都合や大企業の事情は知りませんけど、ボクのところのような零細企業で25日にしなきゃいけない明確な理由は見つかりませんでした。だから今では前倒しにして22日とか23日です。銀行が混まない時期なので、すごく便利ですよ。

 

 それと同じように、出社時間はなぜ9時でなきゃいけないのでしょうか。取引先などとの連絡業務があるので、その時間には事務所にいなきゃいけないというなら、8時とか7時半にすりゃいい。そうすればラッシュアワーも避けられます。実際にボクは若い頃から早朝通勤しており、誰よりも早く出社していました。編集者とかライターは遅出で深夜の仕事が普通と思われているみたいですけど、ボクの事務所は用がなければとっとと帰るように指導しています。

 

 だってね、9時から午後5時まで働くというのも、よくよく考えれば根拠不明な慣習に過ぎないではありませんか。朝の7時に出社した人は、午後3時に帰っていいよというのもアリだと思うんだけどなぁ。

 

 そのためには、業務の質や量が規定されていなきゃいけません。さもなきゃダラダラと会社に「滞在」することで残業代を稼ぐということもあり得るわけです。今では知りませんが、バブルなど景気の良い頃にはそんなことが本当にありました。

 

 とすれば、この出社時間にかかわる本当の問題というのは、業務の質と量と給料の相関関係にあると分かります。それなら給与形態を今のように一律ではなく、何種類かを設定すりゃいい。指導的な役職者は年間の業績に対応した年俸制にして、それを12か月で分割支払いする。これは仕事の質や量の判断が可能な専門職も該当するでしょう。そうでなくて事務系のルーティンな仕事なら、時間給をベースにして、その速度や能力別の単位金額を設定すればいいのです。ついでにインセンティブも設定すれば、意欲もアップしますよね。

 

 こうした分類はまだまだオールドビジネスの概念に基づいたものなので、IT関係の業種ではもっと違う給与体系もあると思います。

 

 かのスティーブ・ジョブズは「経営と呼ばれることのほとんどは明確な根拠に欠けた慣習に過ぎない」と喝破しましたが、まさに慧眼というべきでしょう。経営に限らず、ボクたちの生活やライフスタイルも、やはり慣習が占める部分が相当にあります。そのほうが考える必要がないので、変化に乏しい時代なら便利でも、現代はそうはいかない。たとえばお盆休みの大渋滞など、変わらないことで不利益を被ることもあるはずです。

 

 その反面で、変わってはいけない、変えてはいけないこともあるはずです。それを維持していくには、正しい理由を明確に認識することが何よりも必要ですから、やはり分かったようなフリや顔をしてはいかんなぁと自戒するのであります。

 

 

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2016年8月17日 (水)

なぜ金利が存在するのか(前)

 

 いろいろ問題になっている「日銀のマイナス金利」すらよく分かっていないというのに、「カネを借りたらなぜ金利を支払うのか」という途方もない大命題にぶち当たったのは、セミの鳴き声とセットになっている真夏の「ダル暑」のせいでしょうか。

 

 世界の果てから街角の隅々まで「カネを借りたら利息を払うのが常識じゃんか」というなら、ボクも何となく従ってしまうわけで、実際に、これまで疑問を感じたり、抵抗したことなんか一度もありません。でもね、イスラムの経典「コーラン」では利子の受け取りが禁じられているらしい。だったらさぁ、オレらは何でそんな余計な金を払うのか、となって当然ですよね。

 

 あなたは、金利が存在する理由が本当に分かっていますか。

 

 正直言って、ボクには皆目分かりません。

 でも、どうやら経済活動に金利は不可欠な要素らしく、前述の経典コーランを信奉する人たちも「イスラム金融」という独特のスタイルで金利を取っているらしいんですよね。

 

 その前に、ボクは経済学なんてまともに勉強したことは一度もありません。純粋な人文系ですから、マルクスもケインズもどんな理屈を言っているのか、他人の評論などから何となく思想的な内容を推測してきた程度であります。

 

 だから眉唾で読んで欲しいのですが、イスラム金融では必ず商品取引を介在させて、その価格を分割払いしていくプロセスで金利を乗せているらしいんですよね。たとえば1万円を借りる時には、同額の商品を購入して即座に転売して現金に換え、その後は1000円ずつ10か月+1か月とか、毎月1100円ずつ10か月かけて支払うという感覚でしょうか。

 このため、純粋にカネをめぐる投資になってしまうヘッジファンドや先物取引は、基本的に認められていないとウィキペディアにありました。

 

 いずれにしても、同じ資本主義であっても、イスラム教では金利を取ることが禁止されているけど、それ以外のユダヤ教やキリスト教やヒンズー教や仏教などでは払わなきゃいけないという奇妙なことになってしまいます。近代ってのは、政教分離が原則じゃなかったのかなぁ。

 

 中には「モノを借りたらレンタル代を支払うのは当然じゃないか。カネだってそれと同じだよ」と、したり顔に説明する人もいるでしょうね。イスラム圏でもレンタルDVD屋さんとかレンタカー屋はあるはずで、そのレンタルフィーは利益を絶対に乗せているはずです。さもなきゃビジネスとして成立しませんから、この理屈は一瞬そうかなと納得しそうになりますよね。

 

 ところが、ですね。いくら話題の映画のDVDといっても、時を経れば人気がなくなっていきます。レンタカーだって、いつまでも新品同様であるはずがない。つまり、貸しているモノは価値がどんどん減損していくわけですよ。

 

 それに対して、カネというのは紙幣がいくら古くなっても、それ自体の価値は減損しません。カネそのものにDVDを鑑賞するような楽しみやクルマのような利便性だってないですよね。みんなが認める価値はあるといっても、物理的にはタダの紙を一定期間借りるだけなのに、なんで利息という余計なカネを支払わなきゃいけないのかと思いませんか。

 

 厳密に言えば、カネの価値は常に変動します。対外的な為替だけでなく、国内でもインフレやデフレがあるので、今日の1万円は、明日も同じ1万円の価値があるとは限りません。するってぇと、この価値変動にどうやら金利が関係しているのかな、とおぼろげながらに感じるようになります。

 

 ということで、この問題を本気で調べていくと大変な時間と手間がかかりそうなので、取りあえず(前)とさせていただきます。それにしても、こんな大問題を「常識」だと放置して長く生活してきたボクは、何とまぁナイーブでイノセントなおバカさんだったのかと呆れてしまいます。

 

 あなたは、なぜ金利が必要なのか、ちゃんと理解していますか?

 

 

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2016年8月16日 (火)

ザ・ピーナッツ(後)

 

 ナンバーワンでなくてもオンリーワンでいいじゃんかと歌った男性5人のグループが解散するそうです。でもなぁ、オリンピックでオンリーワンってあり得るのでしょうか。

 

 それはともかく、この「解散宣言」は日本経済新聞の夕刊で速報し、翌日朝刊でも経緯を詳しく報道するほどのことでしょうか。芸能界を引退するわけでも、事務所を移籍するわけでもなく、もともとグループとしての活動だって近年は限られていたようですから、ボクのようなオッサンにとって、彼らが解散しようがしまいが、見た目はあんまり変わらないんですけどね。

 

 それに比べて、って言ったら語弊はありありですけど、昔の芸能人はすっぱりと引退したように思えます。たとえば女優の原節子は人気絶頂の1963年に引退し、以後は公の場には一切姿を見せなくなりました。おかげで伝説的な存在として語り継がれてきたのです。

 

 歌手にしても、山口百恵は21歳の若さで引退。その後の写真すらほとんど公開されていません。隠し撮りしたピンぼけは見たことがいくつかありますけどね。ピンクレディも、キャディーズにしても結成して4年程度でさっさと解散しています。再結成はありましたけど。

 

 本題であるザ・ピーナッツの場合は、メジャーデビューして16年後の解散となりますが、彼女たちはまだ34歳でした。それから2人とも他界するまでの40年あまり、消息はほとんど明らかにされていません。

 日本国内だけでなく、アメリカのテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』で、Lover, Come back to meを英語で歌って大きな話題を呼んだ国際的な歌手にもかかわらず、素晴らしく潔い引け際であり、きっぱりしたライフスタイルだと感心しませんか。

 

 ただし、引退した年に姉の伊藤エミは同じ渡辺プロダクションのジュリーこと沢田研二(元ザ・タイガース)と結婚。男の子を出産しましたが、1987年に12年間の結婚生活に終止符を打っています。沢田研二のほうは女優の田中裕子と再婚して現在に至っているので、彼女たちのその後はどうだったのかなぁと思ってしまうのです。

 

 レコードを累計で1000万枚も売ったのですから、その印税で生活に不便があったはずありません。でも、華やかなスポットライトを恋しく感じたことはないのかなぁ。仮に再結成しても往年の人気を呼べるはずもないのですから、隠棲することが伝説を維持する最も有効な方法だと分かっていても、拍手や称賛を忘れられないのが人間です。にもかかわらず、というあたりで、彼女たちの引退後が幸せだったら何よりだけど、という願いを込めて詮索したくなるわけです。

 

 ボクがノンフィクション作家なら、彼女たちの周辺取材から始めて、ひとつのストーリーを作り上げていくでしょうが、そのためには莫大な経費と時間がかかります。芸能界を引退して一般人に戻った場合は、プライバシーなど人権に関する配慮も不可欠です。それ以前にライターに公的な調査権限などありませんから、「話したくない」と言われたら強制終了なんですよね。

 

 版元にしても、それだけの経費を費やした本がいくらで何部売れるかというところから計算するので、今のような無料のネット全盛時代には、こうしたノンフィクションはコスト的に見合わないと却下されることが少なくないのです。

 

 ボクは「国境を持たない砂漠の民、ベドウィン」という本を出したいと考えてきたのですが、これも出版企画としては絶対的に通らないでしょう。そんなわけで、ノンフィクション作家という職業が成立する余地はますます乏しくなるという悪循環が続くわけですな。

 

 かといって報道や出版活動は民主主義の健全な維持には不可欠なので、これからは民間の営利企業ではなく、NPOやNGOのような寄付ベースの非営利法人が中心になっていくでしょうね。その意味で、いまはまさに過渡期にあるというのが正しい判断かもしれません。って、ちょっと結論がタイトルからズレてしまいましたが、「ダル暑」が続くお盆ということでご容赦ください。

 

 

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2016年8月15日 (月)

ザ・ピーナッツ(前)

  思いがけず木曜日の祝日から仕事がたてこんでしまいました。さらに、本日は早朝から取材が入っており、まとまった文章を書く余裕がありません。

  先週に「ザ・ピーナッツ」について書くと予告してしまったので、取り急ぎ要点だけをまとめることにします。

  彼女たちの全盛期にボクは子供だったので、感覚としてはビートルズと同じ懐メロであって、同時代的な意識はまったくありません。
 ただ、その当時に一般的だったスローテンポの演歌とは随分違う歌だなぁと感じたことは覚えています。中でも彼女たちが司会を務めて歌も披露した日本テレビ系の『シャボン玉ホリデー』は、都会的で洒落た音楽バラエティ番組でした。それに匹敵するのはタモリの『今夜は最高!』くらいしか思いつきません。

  後にザ・ピーナッツと呼ばれることになる双子の姉妹は、日本が真珠湾を攻撃した1941年に愛知県の常滑で生まれ、すぐに名古屋市内に転居したとされています。ボクもそこで育ったのでよく分かりますが(年代はかなりズレます)、当時は名古屋出身の全国的な有名人、特に芸能人は極めて限られていました。そのせいか、この不世出の歌手に対して、嫉妬心というより歪んだ親近感を強調したいあまりの様々な噂を聞いたことがあります。高校を2年で中退して歌手活動に入ったので、中には産婦人科から出て来たのを見たことがあるなんていう途方もない話も実際に聞きました。
 このあたりの田舎特有のメンタリティがボクは大嫌いで、それが東京に出てくる動機にもなったんですけどね。

  彼女たちはレストランで歌っているところを渡辺プロダクション社長の渡辺晋にスカウトされて上京します。それが58年、彼女たちがまだ17歳の頃ですから、直接に知る人がそんなに多いはずもないのに、テレビに出た途端に知り合い面をする人が続出するわけですな。

  ただし、ボクはザ・ピーナッツの歌にそれほど反応したわけではありません。子供の頃に見た怪獣映画で「モスラーやっ、モスラー」と歌う姿も決して美人とは思えず、楽曲も冗長に感じて退屈でした。当初の率直な感想を隠さずに言うなら、双子を売り物にした歌手に過ぎないだろうと考えていたのです。

  それが変わり始めたのは、アルファベット3文字の女子団体のユニゾンに呆れたからです。あれだけの人数が舞台にいるにもかかわらず、ほとんどハモらないんですよね。踊りもみんな一緒に見えます。そんな彼女たちに驚愕した頃に、浅草で活躍している虎姫一座を知ったのです。このユニットが好んで歌ってきたザ・ピーナッツの楽曲はいずれも音楽性が極めて高く、素晴らしいハーモニーを構成していることに改めて気づかされました。

  それまで女性による和声は低音がないため厚みに欠けるとされてきたようですが、双子だけに声質がほとんど同じであることから、録音段階でダブルトラッキングするのと同じ効果をナマのステージで出しているのです。1967年発表の『恋のフーガ』では何と輪唱も行っており、そのレベルには感動せざるを得ません。多重録音で知られるフレディ・マーキュリーのクイーンがデビューする6年も前のことです。

  いずれにしても、ザ・ピーナッツは1959年にデビューして75年に引退。16年間に及ぶ歌手活動で、レコードの売上げ累計は1000万枚にも達するそうです。そして2012年に姉が、16年には妹が逝去されました。引退してから公の活動は一切行っていないので、40年近くをどのように過ごしていたのかは、ボクごときにはまったく想像もつきません。

  彼女たちの人生は果たして幸せだったのかなぁと思いませんか?

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2016年8月10日 (水)

山の日?

 

 このブログでは、あまりにもタイムリーな話題は敢えて避けてきました。SNSで話題にされやすいことを、さらにネットのブログで扱っても仕方ないですもんね。

 

 でも、明日の「山の日」は個人的にびっくりしたので、ちょっとだけ。

 こんな祝日があるなんて、まったく知りませんでした。ホワイトボードのカレンダーを8月に書き換えていた時に、「何じゃこりゃあ!」と気づいたので、2週間くらい前になるかなぁ。

 

「だったら川の日はなんで作らないのか」

「そのうち、私の日とかあなたの日なんてできるんじゃないかな」

「彼の日や彼女の日とか」

「北海道の日、岩手の日とか都道府単位・市単位の祝日も作ったら、働ける日がなくなるぞ」

「休日が増えるのは結構だけど、それだけ収入に影響するわけだから、政府は休日手当を国民に支給すべきじゃないかな」

 

 とかなんとか、つまらんことを一杯考えましたが、この「山の日」は2年前の2014年に制定されたそうです。何のことはない、ボクが不勉強だっただけなんですね。ついでに、何でまた子供たちが夏休みで大学はオープンキャンパス真っ最中で原爆が相次いで落とされた日の近辺で終戦記念日とお盆が近いややこしい時期にしたかというと、8月は祝日がなかったというのが有力な説のようです。おかげで、祝日のない月は6月だけになったと紹介されておりました。ということは、次は6月に川の日が制定される可能性が相当に高いってことになりますよね。

 

 オマケとして「何にしてもお休みが増えるのはありがたい」という感想もネットには追加されていましたが、ボクらの商売はそうはいかないんですよね。フリーランスは収入の保証なんてありませんから、お休みが増える=仕事が減ると同義なのです。

 

 好きな街歩きをしようにも、この暑さではヘタすりゃ命がけなので、ボクにとって夏の祝日なんてありがた迷惑なんですよね。でもまぁ幸いなことに休み明けメドの仕事があるので、それをボチボチ片付けていこうかな。

 

 ボクのように休みの日には仕事以外に何をしたらいいか分からんという人のために、『上手な連休の使い方』なんていう本を出したら結構売れるかも知れません。ありきたりですけど、著名人や財界人の休日祝日の過ごし方をレポートするというのも参考になるではありませんか。

 

 そんなわけで、って、どんなわけでもないのですが、この新しい祝日と土日の谷間の金曜日もブログをお休みとさせていただき、月曜日から再開します。このところ気になっていたザ・ピーナッツを取りあげるつもりです。調べてみて分かったのですが、1975年に引退会見を行っているんですよね。あまりにも早いと思いませんか。そのあたりをちょっとね、考察してみようかなと。

 

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2016年8月 9日 (火)

連邦政府

 

 サイモン・ベイカー主演のテレビドラマ『メンタリスト』じゃなかったかとうろ覚えですが、自宅を訪問したFBIの捜査官に「オレは連邦政府を認めていない」とショットガンを向けた奴がいました。どんな国にもメンドーくさいオッサンは棲息しているので、そのままスルーすることもできたのですが、この時にボクが感じたのは「だったらこいつは州政府のほうは認めているのかな」ということです。

 

 このクソ暑い時期をさらにヒートアップさせるようなややこしいテーマで恐縮です。思い出してしまったから仕方ないじゃないですか。

 

 ちょっと調べてみると、アメリカの連邦政府というのは、アメリカ合衆国憲法に基づいて設立された同国の中央政府と規定されています。では、その憲法はいつ誕生したかというと、1787年に作成されて1788年に発効しており、世界最古の成文憲法だそうです。

 アメリカの独立宣言は1776年なので、当時の13州を結び付ける横断的な行政組織が必要ということになったのではないでしょうか。

 

 ところが、ですね。それから80年くらい後に南北戦争が勃発しちゃうんだよな。これがまた「アメリカ合衆国」と「アメリカ連合国」の戦争と定義されており、ここに至ると何が何だかの様相を呈してきます。

 念のために指摘しておくと、現在でも「連邦制を構成する各州もそれぞれが独自の憲法を有している」らしいので、ますます汗が滲んできますよね。

 

 ただ、日本だって江戸時代は似たような連邦制だったと思うのです。徳川幕府を旗印にしたフランチャイズ制だったと分析する学者様もいるようですが、要するに300くらいの「藩」を緩やかに束ねていたわけですな。

 それが南北戦争に匹敵するCivil War=内戦=戊辰戦争なんかを経て明治政府が確立されたわけですけど、日本の場合は連邦制が維持されるのでなく、いきなり中央集権の国家になってしまった。ここのところがアメリカ合衆国とは大違いなのです。

 

 行政のあり方が、「連邦制+中央政府」から「中央政府」だけになってしまえば、冒頭で紹介したショットガンを持ったオッサンが大量発生する可能性がありますわな。実際に、武装した士族が「オレたちはそんな中央政府にするつもりはなかった」と起こした内紛が、1877年の西南戦争ではないかとボクは睨んでおります。だからこそ維新の英傑である西郷隆盛がこれに参加したのであって、征韓論のこだわりとか、それまでの地位を失った士族への同情といった解釈は後年に付け加えられた理由に過ぎないと思うのです。

 

 では、無理無理で急速に中央集権を推し進めようとした明治政府は、どんな名目で連邦制を解体し、人心をまとめようとしたのでしょうか。坂本龍馬や中岡慎太郎といったヒロイックな逸話もさることながら、やはり決定的な効力を発揮したのは「天皇制」だったのではないかという仮説をボクは持っております。

 

 最近になって、日本も過度な中央集権はそろそろやめて地方分権を進めようとしていますが、単なる行政区分である「都道府県」が昔の藩のような力を持てるはずがありません。人間の心理はそんなに簡単ではなく、むしろ保守的ですからね。関東や北陸といった広域にまとめたところで結論は変わらないでしょう。

 

 そんなわけで、ボクたちはおよそ150年がかりで中央政府に無意識に従う習慣を身に付けてしまいました。自分が帰属できる政体は国内にそれしか存在しないからです。かくて、「お上」にあんまり逆らうことのない国民性になってしまったのかなぁ、なんてね、ちょっとばかり考えたわけですよ。

 

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2016年8月 8日 (月)

虎姫一座(続)

 

 先週の土曜日に、浅草のアミューズカフェシアターで虎姫一座を見てきました。久々に浅草を散歩しようと早めに行ったのですが、いやぁもうメチャクチャに暑くて、のんびり歩いていたら焼け死ぬところでした。

 

 そんなわけで、夕方5時の開場前から入り口あたりに待機して涼むことにしました。これまでは「~60年代を突っ走れ!~」としてロングランでしたが、8月から演目が変わったので楽しみにしていたのです。タイトルは「~復活!シャボン玉だよ!牛乳石鹸!!~」。それにしても、びっくりマーク多すぎじゃないかなぁ。

 

 アタマに「復活!」とあるように、2011年から14年まで続けていたザ・ピーナッツの楽曲を中心とした演目です。テレビの草創期に「シャボン玉ホリデー」という音楽バラエティショー番組があり、それを提供していたのが牛乳石鹸だったなんて、知っている人は少なくなってきたでしょうね。この番組のレギュラーとして、ザ・ピーナッツが素晴らしいハーモニーを聞かせてくれたのです。

 

 というわけで、虎姫一座の原点である演目に「復活!」したことになるのですが、残念ながらメンバーの多くはオリジナルではありません。それでちょっと心配していたのですが、幕開けから『情熱の花』ですからね。ハーモニーも実に素晴らしくて、いきなり感動しました。

 やっぱね、手練れの演出家が背後にいて、相当に練習を積んでいるはずです。おかげで、ビデオによる小倉久寛の解説が少し冗長に感じた以外は、歌も踊りも大変に満足できるレベルでした。

 

 中でもエンディングの『銀色の道』がね、ちょっとウルウルきました。そこにすかさず『恋人よ我に帰れLover Come Back to Me』だもんなぁ。涼しくなってきたら、また行きたいなと思わせる上出来な舞台でございました。

 

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2016年8月 5日 (金)

夏の匂い

 

 夏が暑い。特に近年はひどく暑くなってきましたが、東京に長く住みすぎたせいか、ただ暑いだけで「夏の匂い」がまるで失われたことに今まで気づきませんでした。

 

 このように「暑い」という同語を反復するのはライターとして失格なのですが、「暑い」を強調するためにわざとやっておりますので誤解のないように。文芸とノンフィクションでは作法が違うんですよね。

 

 田舎だけでなく、東京でも昔は郊外に行けば、夏の「草いきれ」のような匂いがしたものです。ボクが大昔にブール監視員のバイトをしていた小手指あたりになると、背の高いとうもろこし畑の青臭い匂いが盛夏を感じさせてくれました。

 

 ところが、今の東京にそうした「夏の匂い」なんてほとんどありません。というより、こんなビルとコンクリートが覆った街で「夏の匂い」を知っている人がどれだけいるかなぁ。変人が住むゴミ屋敷の鼻をつく揮発臭なんかではなくて、植物の生気が発する匂いが、かつての夏には充満していたような気がします。

 

 それが爽やかに洗われるのが、渓谷からの冷たい清流です。底まで見通せるような透明度の高い川に足を浸けると、これがまた心地良いんですよね。ふと空を見上げれば、真っ青な空に白い大きな雲のかたまりがちらほら。耳にはうるさいくらいのセミの声という定番的な光景は、どこに行けば生き残っているのでしょうか。

 

 東京の場合は、奥多摩の檜原村あたりかな。そんな自然の中で、スイカを食べたい。そういうところにもポケモンが出現するようになったら、小笠原か沖縄方面に引っ越そうかな。

 

 とにかく、若い美女はスマホなんか捨てたほうがいい。話が変わり過ぎですけど、人間だって生き物ですから、夏の匂いがあると思うんだよな。それを存分にふりまくのが夏なのですから、スマホに見入ってうつむくことなく、美しい姿勢で格好良く歩いて欲しいなぁと切望するのであります。

 

 

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2016年8月 4日 (木)

老婆心ながら

 

 いよいよリオ五輪が開幕するようですが、ひったくりや強盗などの対策は大丈夫なのでしょうか。世界中で転戦してきた選手なら日本と外国では治安がまるで違うということを知っているので心配ありませんが、問題は日本から現地に入ったファンのほうなんですよね。

 

 わざわざ航空機を乗り継いでブラジルまで行ったのに、大切なものを盗まれたり、ケガでもさせられたらイヤな思い出になってしまいます。そのための注意喚起は何度もされているようですが、今の若い人は平気で荷物を放置してどこかへ行ってしまうんですよね。

 

 ここは私たちの席です、といわんばかりに荷物を置いたままで、みんな揃ってコーヒーを取りに行ったりするわけですが、ボクはああいうことが国内でも学食であってもできません。一歩外に出たら、よほど安心できるところは別にして、カバンであれ何であれ荷物は肌身離さずというのがクセになっています。

 

 イヤな実例を少し紹介しておくと、香港で飲茶をいただいている時に、ある知人は上着を脱いで自分の背後の背もたれにかけておきました。すると30分もしないうちに、それを持って行った奴がいるのです。置き引きの一種になるのでしょうが、内ポケットに財布やケータイやパスポートが入っていたので、それからが大変でした。たいていの観光客が知っている大箱の有名店でもこんなことが起きるのですから、海外で荷物を放置するなんて、「持ってけドロボー」と言っているようなものです(ちょっと意味が違うかな)

 

 このブログですでに紹介しましたが、ボク自身も荷物を載せたキャリーごとひったくられたことがあります。交差点でホッと一息という感じで立ち止まり、キャリーから手を離した瞬間に、後ろから自転車に乗った奴にやられました。国連関係のオフィスだってあるスイス・ジュネーブの駅前ですぜ。

 

 ある国際展示会で「キャリーバッグはここに置いておけば大丈夫ですよ」と言われて素直に従ったら、きっちり盗まれたという知人もいます。スーツケースの鍵が中に入っていたので、ホテルに帰ってからが一仕事になったと聞きました。

 

 室内に置いたモノの盗難があまりにも目立つので「泥棒ホテル」と噂されるところもあるほか、部屋に備え付けの金庫に入れておいた大金を盗まれた人だっています。催事場のクロークにしても、真冬にもかかわらず、預けたコートが「見当たらないので明日また来てください」なんてこともありました。

 

 おかげで、1人で行動することが多いボクは、空港のトイレでも旅行カバンがあれば個室に持って入ります。でないと、むしろ落ち着かない気分になってしまうからです。新幹線でも同じことをやっていますけどね。

 

 とにかく、先進国でも盗難事件は普通に起きるのですから、発展途上国ならなおさらです。ケガさえしなければ、泥棒もひったくりも経験といえば経験ですが、取り返しの付かないことになったら後悔するしかなくなります。これから海外に行くという人は、くれぐれもご注意を。

 

 唯一の防衛策は、よく言われることですが、大切なものはできるだけ身につけておくことです。ボクがひったくりに遭った時も、たまたまパスポートなど大切なものを上着のポケットに入れていたので、実害はTUMIのバッグそのものくらいでした。購入価格はおよそ7万円でしたが、これは旅行保険でカバーできました。

 人を疑うのは決して良い習慣とは言えませんが、国内でも予めそんなクセを付けておくことをオススメします。いつまでも「水と安全はタダ」とは限りませんからね。

 

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2016年8月 3日 (水)

ユニバーサル・アクセス


 最近は公共交通機関などのバリアフリー化が浸透してきましたが、まだ階段を使わなければならないところが結構あります。

 世界に冠たる高級ショッピングエリアの銀座でも、公道から直接に地下鉄に上り下りするルートって階段しかないですよね。ボクが知らないだけかも知れませんが、少なくとも4丁目を中心とした銀座通りと晴海通りには見当たりません。実際に、杖を持っているボクはデパートや商業ビルのエレベータやエスカレータを利用しています。

 ところが、店舗が閉まった夜更けにはこの方法が使えません。電気代もかかるので、ボクのように杖を持っている人はさっさと帰りなさいってことなのでしょうか。

 銀座という街は古くからの歴史があり、ここを通る地下鉄銀座線も日本で初めての路線です。銀座駅自体も1934年に誕生しており、ざっと80年以上の歴史があります。そうなるとエスカレータなどを設置する改装も簡単にはいかないので、まぁ仕方がないかなと納得せざるを得ません。

 それでも2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されるので、これからリフォームされていくんじゃないかな。

 施設や設備のユニバーサル化というのは、予算さえ付けば決して難しいことではありません。仮に予算が乏しくても、知恵と工夫さえあれば便利な方法を編み出せるはずです。

 問題は、ボクたち自身のユニバーサル化ではないでしょうか。
 たとえば白い杖を持った人が自分に向かって歩いてきたらどうしますか? 車イスの人が段差のある交差点でたじろいでいたらどうしますか?

 ボク自身の反省も込めて言いますが、何かしてあげたいとは思うけど、具体的にどうしたらいいのか分かりませんよね。ためらっているうちに、白い杖の人はあなたの横をぶつかることなく通り過ぎていき、車イスの人はすでに交差点を渡り始めている。こういうことが何度も繰り返されれば、あなたがどう思っていようが、彼らにとっては補助を期待できない冷たい社会と受け取られているのではないでしょうか。

 繰り返しますが、ハードウェアのバリアフリーやユニバーサル化はどんどん進めていくべきであり、実施もそれほど難しいことではありません。けれども、ボクたち自身が彼らにユニバーサル・アクセスしているかといえば、決してそうではないですよね。ことさらに特別視しているわけではないにしても、近寄りがたく思ってしまう。

 これまでの社会は健常者を大前提として作られてきました。重病で入院でもしたら脱落者と同じ。障がいを持つ人ならなおさらですよね。こうした歴史が長くあったからこそ、ボクたちにとって障がいを持つ人は縁遠い存在なのです。近所に車イスの人が日常的に出歩いていれば、気軽に「こんにちは」くらいのことは言えるじゃないですか。
 ところが、これまでは、そんな社会ではなく、そんな環境でもありませんでした。むしろ隔離された時代すらあったからこそ、ボクたちはユニバーサルに接することができないのです。

 夏の終わり頃には某テレビ局が恒例のチャリティ番組をやりますが、ああいう感動の押し売りみたいなことにもちょっと問題があるような気がするんだよなぁ。
 人助けだからといってそんなに張り切ることでもなく、もっと気軽に、もっと普通に、障がい者にも外国人に対しても、サラリと「お手伝いしましょうか」と言えるようになりたい。

 来たるべき東京オリンピックに向けて、日本全体がそうなることを、今から目指すべきではないでしょうか。それこそが未来に継承したいレガシーになるとボクは思うんだけどなぁ。

 

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2016年8月 2日 (火)

バケットリスト

 アメリカのテレビドラマでは「死ぬまでにやりたいことリスト」を持っている人が出てくることがあります。最近ならWOWOW『アンフォゲッタブル4完全記憶捜査』で、やたらに記憶力のいい女主人公とコンビを組む警部が、「やりたいことリスト」を書きつけた紙をスーツの内ポケットにいれていました。

 この女主人公がからかい半分に「リストの一番目は私とのことでしょ」と訊ねると、「バカ言うな。………そ、それは5番目だよ」みたいな会話になっているわけですね。この主人公はボビー・モンゴメリーというボリューム感のある太めの女優さんで、どこかで見たことあるなぁと調べてみたら、CSのテレビドラマ『FBI失踪者を追えWithout a Trace』の女刑事でした。決して美人とはいえませんが、表情に迫力と愛嬌があるので、こちらの記憶にもしっかりと残る魅力的な女優さんです。

 話を戻すと、この「やりたいことリスト」をメインテーマにした映画が2007年に公開された『最高の人生の見つけ方』なのです。原題はThe Bucket List(バケットリスト)ですが、このタイトルからして含蓄があるんですよね。
 バケットとはバケツのことなので、直訳すれば「バケツのリスト」となりますが、これでは意味が分かりません。そこでネットで調べてみると、死を意味するスラングで「バケツを蹴るKick the bucket」という言葉があるそうです。首を吊って自殺する時に、台にしていたバケツを蹴飛ばしてぶら下がることが語源なので、会話では使わないほうがいいと注意書きされていました。

 だったら素直に、「死ぬ前にやりたいこと」というタイトルにすればいいのにね。「最高の人生の見つけ方」って、あまりにも素敵すぎてちょっと見当違いな感じがします。主演は当代きっての実力派俳優、モーガン・フリーマンとジャック・ニコルソン。実に贅沢なキャスティングですから、そこそこに面白くは仕上がっていたのですが、やっぱエンディングがハリウッド的ステレオタイプでありまして、家族の絆こそが大切という結論はいかがなものでしょうか。

 そうした映画評は別にして、ボクもそろそろ「バケットリスト」を作っておこうかなとトライしてみました。

 実現不可能なことがあってもいいので、たとえば真っ赤なフェラーリを購入して度付きのレイバン姿で銀座の大通りをブイブイ走らせるなんてことを書いてみたのですが、そんなのカネさえあればできますからね。リストに「宝クジに当たる」とでも書くだけで一丁上がりではありませんか。

 そんなわけで、もう一度リストを見直して、つまらないことやくだらないこと、重複事項を消去していくと、やがて1つだけ「やりたいこと」が残りました。ああ、そうだったんだ、それが死ぬまでに本当にやりたいことだったんだと分かって、不覚にも瞼が熱くなってしまいました。

 それが何かを誰にも教える気はありません。仮に知ったところで仕方ないですよね。ただ、決して叶わないまでも、そんなことを1つだけでも持っていて本当に良かったと思うのです。あなたは、そんな「やりたいこと」を持っていますか?

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2016年8月 1日 (月)

ナチスとKKK

 急ぎの仕事から完全に解放された日曜日午後というのは久しぶりなのですが、たまたまナチスとKKKの番組をザッピングして、暗澹たる気分になってしまいました。折り重なるように積み上げられたユダヤ人の死体に、縛り首で吊された何人もの黒人の映像。人間はどうしてここまで同じ人間を差別できるのかと考え込んでしまいました。

 まず、ナチスのほうはCSのヒストリーチャンネルで『第2次世界大戦〜ナチス・ドイツの戦略と兵器』というタイトルで午後1時から夕方まで。このチャンネルがナチスを取りあげることは珍しくありませんが、今回は第一次世界大戦の頃から死体の映像がやたらに多くて、これをそのまま地上波で流したら大騒動になるかもしれません。ボクもいささか閉口してしまって、隣のディスカバリーチャンネルに変えてみたら、こちらもやはり強烈な差別思想を持つKKKの特集だったわけです。

 KKKとはクー・クラックス・クランの略で、南軍の退役軍人が1865年に作った白人至上主義の団体です。真っ白な服に真っ白な三角頭巾をかぶり、黒人を平気で縛り首にするだけでなく、ユダヤ人や共産主義者も目の敵にする、恐ろしい差別集団として知られています。
 南部の黒人差別はボクたちには想像がつかないほど根が深くて、ビリー・ホリディは『奇妙な果実Strange Fruit』として歌にしていますが、これが木に吊された黒人の死体を意味しているわけです。

 KKKというのは、かつて奴隷だった黒人の台頭を畏怖する白人の深層心理を利用した秘密結社だと思いますが、それだけに昔は有力な政治家や知事もメンバーであり、隠すことすらなかったようです。

 そんなことを教えてくれる番組だったのですが、『スーパーマンとKKK』というタイトルが面白かったので、ちょっと見入ってしまいました。

 簡単に概略を紹介すると、このKKKを告発するために1人の男が潜入しました。独特のコスチュームやヘンテコな儀式の数々は、黒人たちに恐怖感を植え付け、メンバーに排他的な優越心を持たせるためであることが判明していきます。けれども、それをストレートにメディアで訴えたところでKKKと隠れ支持者たちに勝てないことも分かってきました。

 そこで、彼=ステットソン・ケネディが注目したのは、人気ラジオドラマだった『スーパーマン』でした。彼はプロデューサーに連絡して、スーパーマンの新しい敵としてKKKを提案したのです。それまでスーパーマンが戦ってきたのは第2次世界大戦の枢軸国、つまりナチス・ドイツや日本だったのですが、戦争は完全に終結。凶悪な敵を失ったことでスーパーマンの活躍もいささか精彩を欠いていたので、誰はばかることなく堂々と正義を遂行できる新しい敵として、彼の提案が採用されたわけです。

 その新しい敵にリアリティを持たせることになったのが、前述した奇妙な格好や、意味のないヘンテコな儀式や作法だったのです。このラジオドラマのおかげで、KKKの閉鎖性が暴かれるだけでなく、全米の笑いものになったことで脱落者が増加。急速に衰退していったと番組では紹介されています。

 アメリカの戦後といえば、ファナティックな赤狩り=マッカーシズムが有名ですが、その一方で、こんなこともやっていたのかと感心しました。アメリカというのは、若い国のせいか、何をやるにも極端なんですよね。

 何かと勉強になった番組ですが、KKKもナチスも、連合赤軍にもオウム事件にも共通するのは、「小人閑居して不善を為す」という四書五経の中にある言葉ではないでしょうか。閉鎖的な集団は何をやらかすか分からないということを、大昔から賢人は知っていたわけです。
 願わくは都政もそんなことにならないように、一層の情報公開を期待したいものです。って、何とつまらない社説的な結論でしょうか。

 

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