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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2016年10月

2016年10月31日 (月)

2度あることは……(5)

 

 神様はどうしてこんなひどいことをボクにするのかなぁ。

 マンションの壁にゴチンと頭をぶつけた衝撃と、次にやってきた痛さで、もともと無宗教だったのですが、さらに神様を呪いたくなりました。

 前にもご報告したように、事務所のあるマンションの廊下で転倒したのは、これで3回目となります。2度あることは3度あると言いますが、まさにその通り。1回目は年末の時期で1週間ほど動けませんでした。その状態では助けなしで病院に行けないにもかかわらず、正月休みですもんね。イスを歩行器代わりにしてカップラーメンとカップウドンとカップソバで凌ぎました。帰省直前のスタッフにまとめ買いをお願いした食糧です。

 それから数年して、またしても転倒です。履き古した靴に雨の日が重なるとこういう悲劇に遭遇することを学びました。海外出張直前だったので、この時は慌てて近所の外科クリニックに。レントゲンでは大事はなかったのですが、医師の「ンンンっ?」という声に続いて、前回に転んだ時に足首にヒビが入っており、それが自然治癒していたことが判明しました。

 でね、3回目です。冷たい雨がそぼ降る先週の金曜日昼頃、前回&前々回とまったく同じ場所で派手にツルりんと滑っちゃいました。いつもより壁側を歩いていたらしく、右の肩口に続いて後頭部をゴッツンですもんね。今度は幸いに足首は大丈夫でしたが、頭への衝撃ですから、脳への影響や首もムチウチの可能性が出てきます。

 直後の撮影立ち会いで編集者が「ボクはスキーの転倒事故で逆行性健忘症というのか、俺って何でここにいるのかな、という状態になったことがありますよ」と言うので、空恐ろしくなりました。だってね、この歳でその状態は健忘症じゃなくてボケ、じゃなかった認知症として扱われるじゃないですか。

 その時は問題がなくても、後々に障害が出てくることがしばしばあるので、様子を見ていたのですが、どうやら何もなさそうです。それで安心してブログを書き始めたのですが、念のためにタイトル重複をチェックしたら、昨年に同名で()まであるじゃないですか。だったらいっそ続けてしまおうと、()にしました。

 ほらね、ボクがいかに神様だか何だか知りませんが、見離された運命にあることが分かりますよね。確かに他人に好かれる性格や容貌ではありませんが、こんなひどい目に連続して遭わせなくてもいいじゃないか。そんなに靴も磨り減っていなかったので、どうも廊下の塗装に問題があるらしいですけどね。

 神様宛てのクレーム窓口がどこにも見当たらないので、こっちだって恨み晴らさずおくものかと呪詛しまくっていますが、ちゃんと通じているかなぁ。逆に倍返しされたりして。

 週の初めなのに、つまらないことを紹介しました。申し訳ありません。あれっ? ちょっと右の後頭部に軽い違和感が………。それに怒りっぽくなったような気もするぞ。これから何か失礼なことをしたり書いたりしたら、この転倒のせいだと寛恕してくれるようになるといいなぁ。それがせめてもの「塞翁が馬」ですよね。

 

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2016年10月28日 (金)

迷惑電話

 

 昨日に引き続きですが、何だか定期的に電話セールスが盛り上がる時期があるようです。「先物」とか「会社移転のための不動産紹介」から、税理士や保険などの勧誘もあるのですが、電子メールが日常的になってきた今時ですね、電話でセールスかよって思うわけです。

 

 というのも、こちらが原稿の執筆で佳境に入っている時に、「あーだーこーだ」と勝手にセールストークされても困るんですよね。話すだけで集中が途切れてしまうのです。電話は他人の時間を奪う行為だと認識されているのでしょうか。メールやDMあるいは投げ込みチラシかなんかで事前に情報を配布しておき、その後に、興味を持った人に説明するなり売り込むというのが善良な方法じゃないかなぁ。

 

 そう思っていたら、何とNTTからWifiのセールス電話があったのです。詳細は敢えて紹介しませんが、たとえば警察官が防犯グッズを売り歩いたらちょっと問題ですよね。自由な市場競争を猛烈に阻害する特権的な手法じゃないですか。NTTは民営化されているので、それと同じとは言いませんが、やはりボクなり会社の電話に関する個人情報を握っているわけです。

 

 だったら、少なくともそれに基づいた電話セールスはルール違反と言わないまでも、商道徳に欠けるような気がしませんか。

 

 なんかねぇ、近頃は「貧すれば鈍する」を地で行くようなことばかりで、オジサンはそんな品性の劣化を悲しく思うのですな。

 

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2016年10月27日 (木)

迷惑メール

 

 毎朝のゴミ掃除、という感じで迷惑メール、いやウィルスメールを削除するのが日課になってしまいました。ホントいい加減にして欲しいなぁ。

 

 どこかでボクのアドレスが漏れているのか、怪しさ満点の英語のメールがやたら多いのです。毎日軽く20通以上は来ているんじゃないかな。最近はこちらも文面なんか読まず即座に削除して完全消去していますが、たまにドイツ語までありますからね。やり口はまったく簡単で、怪しいウェブサイトへの誘導か、Zip形式の添付ファイルを開けさせてウィルスに感染させるという2種類です。

 

 そのために「高収入が得られるジョブがあなたに」だの「グーグルがあなたを指定した」「そろそろ期限なので早く登録しないとチャンスを失うよ」などなど、くだらん思いつきを書きたい放題。そのくせメールの文頭は「Hey!」とか、メルアドのまんまで無礼極まりない。フッターもなかったり、あっても名前だけとかグズグズで電話番号もなし。いかにもありそうな住所が書かれていたりすることもありますけどね。

 

 さらに近頃は日本語のメールも来るようになりました。「請求書を確認してください」とか「写真です」あるいは「配送書類です」とか何とか、こちらも添付ファイルをどうにか開けさせようとする文面になっています。何かで誰かとやりとりしていたら、ついクリックしてしまいそうなほど簡略化されているのがポイントかな。でも、いきなり「お世話になっています」とかで具体的な宛名はなし。もちろんフッターもなく、あっても社名だけとかね。

 

 すぐにバレるようないい加減さなのですが、JTBの顧客情報が流出したきっかけもこうしたメールらしいので、ひっかかったらこっちのものという「数打ちゃ当たる」方式なのでしょう。それもこれもアドレスさえ入手できればメールはタダってことが大きな原因です。もちろん有料になったら大騒ぎで大反対となるでしょうが、そのかわりにこんな負担も我慢しなきゃいけない。

 

 この話題を続けるのも騙されているような気がするのでもうやめますが、性善説はいよいよ通じなくなってきたみたい。技術革新は人間の暗黒面を表出させる、なんちゃって。あーあ、つまらん社会になったものです。

 

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2016年10月26日 (水)

次はあんこ?

 

 2013年末に和食がユネスコの「無形文化遺産」に登録されたせいか、日本の料理や食材に世界が注目しているようです。

 

 昔からインチキなラーメンや国籍不明の寿司はありましたが、今やアメリカのテレビドラマでも「今夜は一緒にスシに行かないか」なんていうセリフが飛び交い、ニューヨークに一風堂が出店するくらいですから、そうした「なんちゃって和食」も次第に淘汰されていくんじゃないかな。

 

 でね、ボクが目下のマイブームとしている小豆=あんこものが、次のトレンドになるのではないかと、ここに予言しておきたいのです。バターや卵白なんかを中心にした欧米のスイーツと違って、ヘビーなカロリー感や砂糖っぽい甘さがないじゃないですか。このあたりの感覚は人によって違うので異論反論は大ありだと思いますが、とにかく、あんこというのは日本特有の自慢できるスイーツではないかとボクは思うのです。

 

 個人的にはツルツルした食感の練りあんよりも、小豆のゴツゴツ感を残した粒あんが大好きで、特に最近は金つばに凝っています。これがまた1個300円という高級品を売る専門店が事務所の近くにあって、それが美味なので困っちゃうんですけどね。ギフトならいざ知らず、そんな高いものをいつも食べるわけにはいかんでしょ。

 

 金つばだけでなく、あんみつだとか小倉アイスとか、あんこもののバリエーションは大変に広いので、西洋のスイーツとも相性がいいんじゃないかな。かき氷のミルク金時なんか最高のコンビネーションであり、名古屋には小倉トーストもあるくらいです。

 

 そんなわけで、世界的に人気が急上昇しているマグロの刺身に続いて、次は小豆のあんこものがトレンドになるような気がしてなりません。資本と人脈があったら、ロンドンやニューヨークにタイ焼き屋を出店するのになぁ。パリあたりの有名スイーツ店とコラボしてあんこものを開発するというのも方法ですよね。

 

 ボクが知らないだけで、すでにあんこが世界的に普及しているなら喜んで訂正しますが、まだまだ豊かなチャンスが残されているフロンティアではないでしょうか。

 

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2016年10月25日 (火)

新・階級闘争

 

 何だか恐ろしいタイトルですが、マルクス&エンゲルスの時代は遠い昔のことで、というよりボクは『空想から科学へ』と『共産党宣言』しか読んでいないので、深い意味なんてありません。

 

 ただ、マルクスは『共産党宣言』で「今日までのあるゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と規定しました。たとえばフランス革命は貴族階級と平民の戦いで貴族が敗北。そして近代は財力を持つ平民が資本家となって労働者を支配するという構図になります。ソビエトを始めとするかつての共産圏では、この資本家に対する闘争で労働者が勝利して支配層に躍り出てきたということになりますが、歴史が証明しているように、話はそれほど簡単ではありません。

 

 というのも、労働者階級が政権を取ったら取ったで、今度は官僚=高級役人が一般人を支配する関係が新たに生まれるからです。しかも、世襲でこの権力なり地位を永続していく動きは、古今東西まったく違いはありません。某国なんか3代目ですもんね。「そんなアホなことあるかい」とソビエトは民主革命でひっくり返りましたが、そうはならない国も世界にはまだ残っているようです。

 

 マルクスあたりの理屈では、こうした階級闘争の終着点が民主社会でなきゃおかしいのに、現在では学歴と財力、それに家系または血縁が支配するようになっています。アメリカなんて、大学の学費高騰で財力が学歴をほぼ決定するといっていい。つまり、貧困は次世代に確実に連鎖し、かつてのアメリカンドリームを実現できるのは、ボクシングなどのスポーツ系か芸能くらいしかないではありませんか。

 

 そうした諦念というか、暗い憤懣みたいなものが、トランプを大統領候補まで押し上げた原因だとボクは考えています。けれども彼だって大富豪であり、さもなければ大統領候補になれないという矛盾を構造的に抱えているのです。

 

 要するに、どんな階級であれ、支配層になった瞬間から保身と権力維持のために社会階層を固定化しようとすると考えるべきじゃないかな。支配・被支配という関係を、支配者はいつも寒天を冷やすように固めようとするのが常ってことです。労働組合だって執行部の役員が長期化すると腐敗の動きが出てきますよね。豪華なクルーザーまで保有していた某自動車労組の幹部も実際にいたじゃないですか。

 

 ということは、支配・被支配の関係が固定的になれば、いずれ階級闘争または階層間の悲しい戦いが必然的に勃発するということになります。

 

 結局のところ、浜の真砂と人の権力維持欲求は尽きないってことですが、今は21世紀ですからね。そうした階級間や階層間の軋轢や戦いはもう過去のものにすべきでしょう。かといって、完全にフラットな社会にしてしまえば、人間としての総合力が拡散することになります。ヘンな喩えですが、国民1人1人に1万円を配っても飲み食いに使われるのが精一杯ですが、仮に100円を徴収すればざっと百数十億円(前は1万円で1億円と間違っていたので修正しました。ホント数字に弱いのです)。使い方次第で、大きな利益を国民全体に供与できる可能性があります。

 

 その有効な使い方を考える支配者というか管理者、リーダーは絶対的に必要不可欠じゃないですか。問題は、その立場がいつの間にか固定化することで、階層化していくということです。であるなら、これからの闘争は「地位や立場の流動化」でなきゃいけないとボクは思うのです。

 

 早い話が、抜擢や降格が普通に行われる実力社会ってことかな。それによって、いかなる学歴や財力や血縁関係を持とうが、立場や権力が安定した「上がり」なんてなく、常に交替があり得る社会ってことでしょうか。それはそれで不安を感じますけどね。

 

 ただ、自由民主主義社会の本質というのは、平民=国民による支配者の定期的な選抜と拒否、すなわち流動性ではなかったでしょうか。ならば、今の社会をその本質に揺り戻せばいいだけのことです。

 単純な選挙は人気投票になりかねないので、より適切な方法を別に考えなきゃいけませんが、ボクの考える新・階級闘争はこのようなものであり、極めてまっとうで穏当な考え方だと思うんですけどね。

 

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2016年10月24日 (月)

マスク

 

 いやぁ、ちっとも知りませんでした。最近は真夏にもかかわらずマスク姿の女性をやたらに見かけるなぁと思っていたら、風邪なんかではなく、どうやら「すっぴん隠し」という理由もあるらしい。これ、知っていましたか?

 

 迂闊というか、まことに残念ながら親しい知人に若い女性はいないので、てっきり人前で顔をさらすのがイヤなんだと思い込んでいました。近頃はストーカーが悪質化してきたらしいので、インチキな芸能スカウト回避という目的も含めて、大型マスクを利用しているのではないかと推測していたのです。

 

 それにしても、ですよ。近所のコンビニに行くならいざ知らず、地下鉄やJRの電車内で風邪でもないのにマスクで顔を隠すなんて、周囲を敵視しているようで不快ですよね。

 ネットの世界では「匿名」がまかり通っており、正義と道義を味方に付けたら言いたい放題ということもしばしばありますが、現実社会でも似たような風潮になってきたのでしょうか。まさかマスクをして他人の足を踏みつけていく無礼者はいないでしょうね。

 よもやそんなはずはないと、新たに考えた仮説が前述のストーカー対策みたいな理由だったのですが、いやはや「すっぴん隠し」とはね。

 

 もちろん芸能人の帽子やサングラスみたいな理由で顔をさらしたくない人もきっといるはずですが、えーと、失礼ながら、ボクの極私的な経験論では、マスクをしている人で美女的な気配を感じたことがありません。そういえば電車の中で、まるで自宅にいるかのようにリラックスしてパンやお握りを頬張り、コーヒー牛乳を飲んでいる人たちや、じきに眼を突き刺すんじゃないかと心配させる化粧をしている人にも、美女を見たことがありません。あくまでボクの個人的な経験論ですけど。

 

 同じマスクを長期間着用していると様々な細菌が繁殖し、肌に悪影響を及ぼすこともあるらしいので注意して欲しいのですが、それ以前に、ハレとケというのか、内と外の境目が次第にグズグズになっていくような印象を持ちます。過度に構える必要はありませんが、それでも裸足のサンダル履きで銀座の百貨店に行くようなことは避けた方がいいですよね。

 他人に不快感を与えるというだけでなく、本人にとっても日常生活の延長であって、晴れ晴れしい気分になれないからです。別に銀座が特別な場所ということではなく、特別なことを特別なように楽しもうとする姿勢が、人生も楽しくするのだと思うんですよね。

 

 年がら年中を裸足のサンダル履きで通すならそりゃ楽ちんで水虫もできませんが、正装で着飾る喜びも失われてしまうじゃないですか。だからといって毎日のように面倒臭いメイクができるかい、ああ男はいいな羨ましいなぁと居直られれば、すいませんとお詫びします。

 でもね、先日はシアターオーブでミュージカル『キンキーブーツ』(来日版)を鑑賞しましたが、ヒールが15センチくらいあるド派手なブーツを履くのを喜びとする女装好きのゲイもいるんだけどなぁ。

 

 とにかく、やらなきゃいけないと思えば、何だって面倒で負担に感じるようになります。だったら、逆に自分から率先して「やろう」と考え、主体的に取り組めばいいわけです。たとえば、今度はどんなメイクで上司を驚かせてやろうかなんてね。それは冗談としても、自分自身でハレとケを作るようにすれば、人生にもメリハリが付くに違いないとボクは思うのです、はい。

 

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2016年10月21日 (金)

ツイード

 

 とうとうツイードのスーツを注文しちゃいました。

 

 注文といっても、本格的なビスポークではなく、既製品のパターンオーダーです。正確には既製の型紙がベースということになるのかな。その細部の寸法を調整しただけですが、ボク的にサイズ感がジャストフィットのブランドだったので、冬のスーツに続いてスラックスだけ単独で作り、翌年には夏のスーツまで揃えることになりました。

 だったら今度は違うブランドにすりゃいいのにと自分ながら思うのですが、服を試着して合わせながら採寸するというのが大の苦手で、ジーパンですらひどく疲労してしまうのです。

 

 あんな電話ボックスみたいな狭いところで、店によっては大きな部屋だったりしますが、「着せ替え人形」をやるのが好きという男子はあまり多くないはずです。スラックスの履き替えなんて、ストレッチやエアロビクスの新メニューにできるんじゃないかな。

 

 ところがパターンオーダーなら1回採寸すればデータが残っているので、同型の服であれば、いちいち試着しなくてもいいから楽なんですよね。特にボクの場合は、膝を故障している関係で、脚の長さが5ミリほど違います。さらに、右足を軸として使うので筋肉がつき、かわりに左脚がやや退化して細いので、太さをそれぞれ調整してやらないとヘンなたるみが出てくるのです。

 

 こういう細かいことを、いちいち服を買うたびに合わせるというのはボクにとって大変な負担です。だから夏冬で生地は違いますが、スタイルはまったくそっくりのスーツが並んでいます。そこに厚手のツイードが加わることになったわけです。

 

 例によって来年早々には海外出張があるので、最初はスーツでなく、冬のジャケットを購入するつもりでした。それにも理由があるので大前提から説明すると、スーツを旅行カバンに入れて長時間運ぶ場合は、どうやってもシワを免れることはできません。昔の貴族のように大型の衣装箱を数人の召使いが運搬するというなら別ですが、専用のガーメントバッグにしても必ず折りジワがついてしまいます。そこでスーツを風呂場に吊して高湿度の中で回復させるなど、皆さんいろいろと工夫されていると思いますが、どんな方法にせよ、荷ほどき後の1日は休ませたほうがいいとボクは考えています。

 

 そうなると、到着翌日の格好をどうするってことになりますよね。最も安全なのは、カバンの中に入れない服です。カバンに入れるからシワになるわけでね。けれども、スーツ姿で10時間以上も飛行機に乗ることはできません。ファーストクラスは知りませんが、ビジネスにしてもスラックスをはいたまま寝るというのは辛いんじゃないかな。

 

 そうした長時間の移動は、やはりジーパンがベストだと思います。ただし、上着だけはそれなりのジャケットにしておき、翌日はカバンに入れてもシワになりにくいスラックスと合わせてネクタイを着用するというパターンを最近は繰り返してきました。

 

 この目的で新しいジャケットを探していたのですが、どうやらツイードのスーツなら上着だけの着回しも可能らしいのです。ストライプなどのスーツ然とした上着では片割れとバレてしまいますが、ツイードならジャケットでもあり得るので大丈夫かなと。念のためにネットで調べてみましたが、異論反論はあるものの、そうした着回しはアリだと判断できました。これなら翌日からいきなりスーツ姿も可能になるではありませんか。

 

 ここまで考えるのも正直言って面倒くさい話ですが、「人は見た目が9割」なんてことが言われるご時勢なので、これくらいは心を砕かなきゃいかんってことでしょう。それが正解かどうかは別ですけどね。

 

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2016年10月20日 (木)

おしくらまんじゅう

 

 待ちに待ったおしくらまんじゅうの季節がいよいよやってきました! 

 なんていうことはないにしても、そんな饅頭がどこかの名物になっているわけでもなく、語源もまるで不明ですが、ウィキペディアでは「皆で押し合うと温かいので、主に秋や冬などの寒い時期に行われる」と紹介されています。

 

 「おしくらまんじゅう、押されて泣くな」という掛け声は今でもあるんでしようかねぇ。それ以外にルール()らしいルールはなく、勝敗もはっきりしない、考えてみれば謎に満ちた不思議な遊びであります。

 

 でね、ボクは随分早い時期から、学校や会社組織や政治という人間の集団社会はおしくらまんじゅうとそっくりじゃんかと思ってきたわけです。人的資源管理とかマネジメントなんて格好を付けても、派閥という言葉が今もあるように、ひと皮剥けば多数の人間がおしくらまんじゅうをやっているように見えて仕方がありませんでした。

 

 たとえば新都知事による豊洲市場移転見直しも、その理非は別にして、これまでの都政や都議会を牛耳ってきた勢力への押し返しと見ることができます。新都知事に加勢するのは言うまでもなく多数の都民であり、その背中から「無駄遣い撲滅」とか「都政を伏魔殿にするな!」みたいなのぼり旗が突き出ているわけです。

 

 東京五輪の競技場についても、でっぷりした組織委員会会長を先頭に据えた建設関連集団を、背中でもって押し出そうと汗をかく人たちの姿が見えます。その途中で、他県の知事が参加してきたりしてね。

 

 こんなのはボクに限らず、たいていの人が見ている現況ですが、このおしくらまんじゅうは正義や大義だけで動くわけではありません。最も大きなエネルギーを持つのがカネ=利権ですから、その趨勢は外部から容易に推し量ることができないのです。

 

 こうしたおしくらまんじゅうが大好きというゲーム好きもいるでしょうが、ボクはどうにも苦手でございまして、30代の初め頃に外に出てしまいました。そのきっかけとなったのが「リストラ命令」です。人員を半分に減らせという指示を受けて、ボクは仕方なく該当者を選び、説明もしました。しかしながら、ボクに命令を下した人は表には出て来ないのです。そんなのありかよって思いませんか。

 まるでロボットのように「上から指示されたので」と突き放した言い訳も可能なように、ピラミッド構造のおしくらまんじゅうともなれば、上位に行けば行くほど直接的&感情的な軋轢から遠ざかることができるのです。

 

 かくて、権力とは無縁の普通の人たちが現場で角を突き合わせて喧嘩するという事態も起きてきます。沖縄で不適切発言をした機動隊員も同じで、おしくらまんじゅうに必死になるあまりに、内部でまかり通ってきた他言無用を思わず口走ったんでしょうね。そうなったらなったで上の人は「まことに遺憾」という記者会見で一巻の終わり。

 

 こういうのがイヤで、独立することにしたのです。決して自由気ままなフリーを積極的に選んだのではなく、生理的にそうせざるを得なかった。ま、早い話が、おしくらまんじゅうからはじき飛ばされた落ちこぼれってことです。

 某超大手広告代理店社員が自殺して労災認定されましたが、自ら命を絶つくらいなら、ボクのようにいったんおしくらまんじゅうの外に出ることも考えて欲しかったなぁ。押し出され、はみ出しても、生きている限りは何度でもチャンスはあると思うのです。

 

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2016年10月19日 (水)

栄養教育

 

 5年ほど前にタバコをやめてから、月に1万円以上の経費だけでなく、塩の消費量が激減したように思います。

 

 タバコの煙が味覚を鈍磨させるせいか、以前は塩だけでなく醤油も盛大に使っていたんじゃないかな。ところが、タバコをやめて半年もすると、そうした後付けの調味料をふりかけなくても、繊細な味の機微が十分に感知できるようになりました。

 そうなると、食事は出されたままの状態で十分に美味しくいただけるわけです。塩気が乏しいなら、それなりにその味を理解できるという感覚かな。もちろん寿司や餃子なんかは別ですよ。あ、でも、餃子はタレなしでも十分にイケるものがありますよね。

 

 これは、喫煙中の人も、タバコなんかこれまでにすったことがないという人も分からないことじゃないかな。経験者だけが事前事後を比較できるのです、って自慢するほどのことでもありませんけどね。

 

 もはやボクは手遅れかもしれませんが、塩分の摂取量が減少すれば、循環器関連の疾患にかかる確率も減少します。血圧が過度に上昇したり、それによる心臓病やら、脳血管障害にかかる可能性も低くなるわけですね。

 

 そんなことより、タバコによるニコチンの害のほうがよほど深刻といえばその通りですが、正直いえば、ボクたちはそんな教育を受けてきませんでした。肺ガンになる怖れがあるかな程度の認識でしたから。さらに塩分に至っては、そんなにも各部位に悪い影響を及ぼすなんて想像もしませんでした。かの田中角栄も、ご飯に醤油をジャブジャブかけて食べていたそうです。そんな無茶を続けなければ、脳梗塞で倒れることもなかったかもしれません。

 

 だからね、ボクが言いたいのは「栄養教育」の必要性ってことです。2005年から「栄養教諭」制度が発足。「食の自己管理」や「望ましい食習慣」を子供たちに指導することになっており、これには大賛成です。歯磨きなども含めて、生活習慣で予防できる病気はかなり多岐に渡るのではないでしょうか。

 

 それで思い出すのは、今ではテレビで活躍中の鎌田實先生です。彼は長野県茅野市の諏訪中央病院に医師として赴任後、地域に密着した「健康づくり運動」を長期に渡って実践。脳卒中死亡率の高かった長野県を長寿日本一にしたといわれます。ボクは先生に取材したこともありますが、要するに住民に対する栄養教育を丹念に、決して諦めることなく粘り強く続けてきたことが、医療費の削減にもつながったのです。

 

 そんな鎌田先生の持論は「ピンピンコロリ」。ピンピンと生きて、コロリと死ぬ。これが自分にとっても他者にとってもベストな死に方ではないかと。そのためには、何よりも知識が必要となります。

 

 どんなことだって知識は必要不可欠ですが、昨日の引き続きでボクが最も言いたいのは、算数や国語や英語なんかよりはるかに大切な勉強があるということなのです。さもなければ社会生活はもちろん生存だって危うくなるのに、テストの点数ばっかり気にしていていいのかなぁと思うわけですね。

 

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2016年10月18日 (火)

手皿

 

 このブログでは、すでに何度も寿司の間違った食べ方を指摘してきました。ご飯のほうに醤油をつけると、飯粒がバラバラになってみっともないだけでなく、ひどくしょっぱくなるじゃないですか。

 

 にもかかわらず、いっこうに改善されている気配がありません。レポーターはもちろん、美男俳優や可憐な女性タレントがそうした不格好な食べ方をしているのをテレビで見るたびに、「誰か教えてやれよ!」と思うのですが、どうやらディレクターを始めとするスタッフ全員がそのような食べ方に違和感を持っていないようです。

 

 そんな食べ方をテレビで全国に放送しているので、おそらく寿司好きな外国人にも広がっていると想定されます。銀座コリドー街でいつも外国人が長い列を作る寿司屋でも、そうした不細工な光景が見られるんじゃないかな。

 

 マナーや礼儀という以前に、そんな食べ方で寿司を美味しくいただけるとは思えません。合理的な食べ方こそが格好のいいスタイルであり、旨いものをより旨く食べる秘訣ではないでしょうか。ちょっと上級になりますが、焼き魚の食べ方なんかもそうですよね。

 

 と思っていたら、某超有名大物歌手が、なななな何とテレビで「手皿」を堂々とやっていたわけです。手皿とは、文字通りに手を皿のようにして、箸でつまんだ食べ物の下に添えることです。これは和食では下品とされており、実際に見た目にも美しい姿とは思えません。ところが、この歌手は、まるでそれが正しいマナーのようにやっていました。しかも、箸で取った食べ物にものすごく近いところに掌をあてていたのです。

 

 この人は結構な年齢にもかかわらず、手皿が下品であることを誰からも教えられなかったのでしょう。若い頃はインターネットもなかったですからね。いつしか有名になり、みんなから一目置かれるような存在となって、大御所とも称されるようになった今では、注意できる人がいなくなったんじゃないかな。

 

 年寄りや経験者をバカにする風潮もどうかしていると思うけど、敬して遠ざけるってのもどうでしょうか。かといって、たとえばベチャベチャ音を立てて食事する中高年にわざわざ注意するというのも、かなりはばかられますよね。

 

 そんなわけで、実は年長者になればなるほど、そうした基礎的な常識を教えられる&学ぶ機会が少なくなっていきます。ある意味では「孤独」とすら表現していい。かく言うボクだって常識に欠けた部分が沢山あるに違いないからこそ、子供の頃にそうした社会生活の基礎をきっちりとたたき込んでおかなきゃいけない。ところが学校も親も、学力を重視するあまりに、ヘタすりゃ算数や国語なんかの成績よりよりはるかに大切なことを教えていないのではないでしょうか。

 

 欧米には上流階級の女子を対象として美しい所作やマナーなどを教えるフィニッシングスクールがありますが、そろそろ日本でもそうした学校が本格的に流行するかもしれません。その前に、税金を使っている初等教育できっちり人間としての基礎を教えろよって思うんですけどね。

 

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2016年10月17日 (月)

ちょっとだけいい話

 

 先週の某日、朝方は「いよいよ冬かぁ」と思わせる肌寒さだったので、厚めの服を着て出かけたら、昼前からぐんぐん気温が上昇して脇の下に汗をかいてしまいました。もともと結構な汗かき×あがり症×緊張しやすいタチなので、冬のスーツにしていたら汗じみで大変なことになるところでした。

 

 外に出る時はユニクロのエアリズムを愛用していますが、それでもダメなことはたまにあるので、何かほかに発汗対策はあるのかなとネットを覗いてみたら、相談室みたいなところに、意外な回答がいろいろあって、ちょっとばかり感動させられました。

 そのままの転載は著作権の関係もあるはずなので、以下はすべてボクの意訳並びに要約です。ただし、内容に脚色や変更は一切ありません。

 

 まず「ひどい汗かきは恋愛対象として論外なのでしょうか」と悩む男子大学生。彼は春から夏にかけて吹き出るような汗をかくので、「これが原因で恋人ができないなら恋愛なんか諦めるつもり」と、かなり深刻です。

 それに対して「私の彼もすっごく汗っかき。どうしてそんなところから汗が垂れてくるのか不思議なくらいです」という回答がありました。夏場は手をつなぐときも汗でビショビショになるそうですが、何と「それが面白い」というのです。そして「汗っかきだろうが、好きになったらそれも愛おしく思える」らしい。この回答者自らも「ホントに不思議ですよねー」と付け加えているので、まさかウソではないと思います。

 

 20代で彼女がいるにもかかわらず、「エッチの最中に汗をかき過ぎて嫌われないか」と心配して深い仲になれないという相談もありました。これについても「私の彼も汗かきで、行為後は尋常ではないほどの汗をかいています」という回答。最初はびっくりしたようですが、そんなことで嫌いになるわけもなく、逆に「面白くて笑えた」というのは冒頭の彼女と同じ意見ですよね。「親密になった今でも笑える」そうですから、実にいい話ではありませんか。

 

 こうした回答から、相手に好意を持っていることが大前提にしても、汗っかきは男が思うほどの大問題ではなく、むしろ物珍しく感じる女性がいることを、ボクはこの歳になって初めて知りました。「食事のたびに大汗をかく彼を見るのが楽しみ」という意見もあったくらいです。

 

 でね、ボクがマックブック・エアーの陰でウルっとしたのは、そうした体験に基づく意見よりも、それによって質問者を励まそうとする回答者たちの優しい心根なのです。

 

 もとよりオッサンには汗かきなんか大した問題ではありませんが、思春期から若い時期は何かと気になるものです。ドラッグストアに行けば各種の制汗剤やデオドラントが並んでいるので、それをしたり顔で紹介するのは簡単ですが、そんなことでコンプレックスが解消されるわけがありません。逆に意識が強まるといってもいいでしょう。そうした生半可な商品解説よりも、「私、汗かきって嫌いじゃありません」という一言で、どれだけ勇気づけられることか。

 

 というわけで、今時の女の子たちもなかなか捨てたものではないと安心できたのです。その中にみごとな結論を出して「ベストアンサー」に選ばれた回答者がいたので、最後に一部を抜粋・要約して紹介します。

 

「確かに汗っかきは気持ち悪いという人もいるでしょうが、それは太っている人が嫌いとか、痩せている人や低身長やブサイクはダメとかといって恋人を選ぶのと同じでしょう。だから汗が原因というより、それを気にし過ぎる相談者さん自身が恋愛を遠ざけているのだと思います」

 

 ネットはしばしば炎上などが話題になりますが、実に健全でまっとうな意見にも満ちていることを確認できました。そう簡単に人間が変わってたまるもんかというボクの持論は、いまのところ間違ってはいないようです。

 

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2016年10月14日 (金)

自然体

 

 これでやっと再び、歌が詞とメロディの時代に戻るかもしれない。

 

 ボブ・ディランにノーベル文学賞が授与されたと聞いて、そんな感想を持ちました。メディアのように時事的な話題におもねらないのがこのブログの基本理念なので、しばらくしてから論評するつもりですが、彼の歌詞は確かに優れた文学性を備えていると思います。時代的な文脈から、常に反戦や公民権運動などの社会性が読み取られてきましたが、詩としての完成度も極めて高く、さもなければ長く歌い継がれてはこなかったでしょう。当たり前のことですが、意見や考えをそのまま言葉にすれば詩になるってわけではないんですよね、The answer is blowin’in the wind。そのあたりで、いまどきの歌は詞=言葉をナメとるんじゃないかと感じることがしばしばあるのです。

 

 そんなオッサンの繰り言は別にして、本日のテーマは「自然体」です。

 あまりにも突然で恐縮ですが、社会に出てからの悪戦苦闘の中で、ボクが極めようとしていたのは、これではなかったかと。今朝の5時50分頃にTBS系『あさチャン』を見ていてハッと気がついたのです。

 

 ごく簡単に言ってしまえば「あるがまま」ってことかな。様々な欲望や自我といった情念や怨念なんかを捨て去り、すべてをそのまんま受け入れて泰然とする。勝ち負けとか失敗や成功にまつわる諸々の不安や不満や葛藤をはるかに越えた、いわば彼岸に達するということでしょうか。

 何のことはない「お前はすでに死んでいる」と似たような状態ですが(ここ笑うところです)、それを望むくらいボクは煩悩に苦しんできました。だから、心のどこかでいつもそうありたいと願って、なおもできないことの正体を追い詰めてきた結果、「自然体」という天啓を本日に至ってようやく授けられたのであります。

 

 なんてね、何だか宗教的になってしまいましたが、以前に書いたように、人間を苦しめるのは決して現実なんぞではありません。むしろ嫉妬や羨望といった自分自身を大きくはみ出したイマジネーションですから、こいつをたまに殺してやることを覚えればいいのです。それを継続することが「自然体」ってことなんですよね。

 

 またまた突然の飛躍ですけど、かの剣豪・宮本武蔵も、死を賭した仕合の前に、きっとおそらくそのように考えたのではないでしょうか。

 人里離れた野原での決闘でからくも宿敵を倒した武蔵に、ススキの穂をなびかせるように一陣の風が吹きすさぶ。「勝とうとする欲念が自ら隙を生むことになったのじゃ」と呟きながら武蔵は大刀を鞘に収め、虚しさとともに立ち去るわけですな。

 

 どうやら目標は明らかになったのですが、そこに至る効果的な方法がまだ見つかりません。ということは、これからも試行錯誤を続けるしかないじゃないですか。ほっといても安息の日はいつか来るんですけどね。

 

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2016年10月13日 (木)

我慢大会

 

 このところ音楽の話題が多かったのは、ロクな話題やテーマを見つけられなかったからです。落としどころが暗くなるならまだしも、絶望的&悲観的になってしまう。このため自主的にボツにした文章は10本以上。「ああ、つまらん」とボタン一発で消去っす。

 

 悲しみや苦しみや怒りを文章にするのであれば、眠りかけた心を昂揚させる刺激にならなきゃいかんというのが持論なもので、ボク自身はネガティブでも、なるべくポジティブに展開してきたつもりですが、そっちの方向に行けない話題ばっかり。ひたすら怒ったり悲しむだけの文章なら、書かないほうがマシだと思うのです。

 

 それにしても看過できない事件が起きたので、ちょいと封印を解かせていただきます。昨年の1225日、電通に勤務していた24歳の女性が社員寮の4階から投身自殺しました。月に100時間以上の過度な残業が原因であり、今年9月末に労災と認定されています。誰だって想像できるように、認定されたのは長時間労働にしても、それ以外に大きな負担や軋轢がなければ若い人が自ら死を選ぶはずがない。そう思っていたら案の定で、本日発売の『週刊文春』に「『君の残業はムダ』電通24歳社員自殺パワハラ地獄」と題する記事が掲載されていました。

 

 そうした事情を知ってか知らずか、早々と「残業100時間で過労死とは情けない」とインターネットに投稿した大学教授がいたのです。それに対して、実に健全なことに批判が殺到。教授は形勢不利と見るや、さっさと謝罪して投稿を削除してしまいました。それだけでも卑怯な奴ですが、このため原文を読むことはできません。ネットのニュースでは「自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない」「自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず」と引用されていました。

 

 この意見が単独で提起されたものなら同感するし、会社に泊まり込んだ経験もあります。けれども、自殺者に向けて言うことではないでしょう。長時間残業には断固として反対ですが、少なくとも労災に認定された事件なのですから、これを社会問題として認識できなければ、大学の教員として失格ではありませんか。

 

 ボクがこんなに憤慨するのは、同じようなことを経験したからです。

 

 今から20年ほど前に、某大病院で朝から診察を待っていました。酒の飲み過ぎで肝臓を痛めたからですが、この頃は院内情報化も予約制度も未発達だったので、受付で診察券を渡して、名前を呼ばれるまで待機することになっていました。ボクは朝9時頃から待っていたにもかかわらず、11時を過ぎてもお呼びがありません。午後イチで仕事のアポもあることから、シビレを切らして診察室のドアをコンコンとノック。「朝からずっと待ってるんですけど、まだなんでしょうか」と声をかけたのです。

 

 どうやらこれはルール違反の行為らしく、ドアの陰から顔を出した看護師に怒鳴られましたが、それだけではありません。待合室の患者から「オレは8時から待っている」「私なんか7時半からよ」などと口々に罵声を浴びせられたのです。

 

 ちょ、ちょっと、待ってよ。そんなに長く待つことに慣れちゃっていいのかなぁ。病人が何時間も診察を待ち続けること自体がおかしくないですか。ボクのような直接的行動は問題があるにしても、患者としてみんなが文句、じゃなかった意見を表明して、少しでも制度を改善していく方向に病院や医療を動かしていくのが真っ当な考え方だと思うのです。

 にもかかわらず、待合室はまるで「待ち時間の自慢大会」と化していました。これって奴隷根性とも言いませんかね。

 

 この「皇軍相撃つ」ならぬ「病人相撃つ」ような事態にボクは深く絶望して、「だったら朝6時から来ますよ」と皆さんに宣言して、それを実行しました。するとですね、驚くべきことにボクより早く来ている人がいるのです。病院のエントランスが開く前に患者の列ができるなんて、ほとんど発展途上国ですが、そんな早朝から並べるというのも病人の所業とは思えません。

 

 ついサービス精神で細かく描写してしまいましたが、ボクに罵声を浴びせた待合室の人たちと、前述の大学教授は精神性がほとんど共通しています。現状を改善しようとするのでなく、積極的に肯定・正当化しようとするあまりに、ついてこられない者や耐えられない者を落ちこぼれとして攻撃する。

 

 構造改革すべきだったのは、そうしたボクたち自身のメンタリティだったはずですが、豊洲市場やオリンピック関連の膨大な経費が象徴するように、いつの間にか完全に頓挫。長く続いたデフレのおかげで、時代が明らかに逆戻りしていることに気づける人がどれだけいるでしょうか。

 

 こういう絶望的な結論になるので、どんどんボツが増えていくわけです。

 

 ちなみに、今の病院は当時に比べて相当に改善されました。前述の大病院でも予約制度が完備されています。まさかボクの無謀な行為が成果を挙げたとは言いませんが、このように変わったのは「待ち時間の自慢大会」参加者と例の大学教授(のような人)のおかげではなかったことは確かです。

 

 だったら、このように不合理でくだらない我慢大会はビシバシ是正していきましょうよ。これがボクなりのポジティブな提案ではあるのですが、かなり以前から同じようなことを言ってきたんですけどね。

 

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2016年10月12日 (水)

『帰り来ぬ青春』(続・後)

 

 夜中に「あっ!」と思って飛び起きるようなことが、そこそこというか、たまにあるんですよね。原稿の勘違いやミスに気づき、翌朝に慌てて編集部に「追加訂正」をお願いして事なきを得たなんてことも、実はそれほど珍しいことではありません。

 

 原稿を書く段階では常に最善最良を目指すのが普通ですから、ボクも含めてたいていのライターは「自信をもって」勘違いやミスを犯します。つまり、本人がいくら校正を重ねたところで気づくことはできません。だから編集者や専門の校正者が第三者の眼でチェックするのですが、それでも文脈や表現が巧妙に構成されていると、スルリとすっぽ抜けてしまうことがあります。

 

 こうした勘違いやミスを避ける経験的な秘訣は、前述の逆さまで、何事にも絶対に自信を持たないってことです。とことん疑う、自分はもちろん、どんなに権威ある人が言ったことでも疑う、事実とされていることだって疑う、人間は間違える動物なのだから、1+1=2もホントにそうなのかと疑う(ここ笑うところです)、そんな姿勢が必要です。

 

 ということで、ボクは正直言ってしまえば、いつも「くよくよ」と考えております。ミスや勘違いはもちろん、文章構成や単語や熟語にもっと適切な表現はなかったのか、なんてね。このブログも、ふと思い返して以前の文章を修正することは頻繁にやっています。バックナンバーなんてきっと誰も読んでいないのにね。

 決して女性差別ではありませんが、こういうのは実に男らしくないよなぁ。もっとね、きっぱり、あっさり、すっきりとした人間になりたいといつも思うのであります。

 

 でね、そうした「くよくよ」は文章だけでなく、人生に対しても同じようにあるわけですな。あの時にはこうすれば良かった、あんなことをしたので嫌われたのかもしれない、こうしておけばこうなったのになんでしなかったのだろう、なんていう「くよくよ」はそれこそ山のようにあります。そんな想いは誰しもが多かれ少なかれ持っているはずですが、ボクの場合はその時の状況が映画みたいにビジュアル付きで再現されてしまう。そうなると比喩ではなく本当に赤面=顔が熱くなったり、心拍が急上昇することだってあります。もはや過去のことにもかかわらず。

 

 そんな人間が、ですよ。どうすりゃシナトラの『マイウェイ』を唄えるでしょうか。やっぱ、『帰り来ぬ青春』Yesterday when I was youngじゃないですか。

 

 この歌は、シャルル・アズナブールが1964年に作詞作曲して『Hier Encore』というタイトルでリリースされました。フランス語で「つい昨日のことのように」みたいな意味だそうです。

 英語版の起源は日本語のネットでは探し切れず、アメリカのウィキペディアを見る限りでは、1969年にロイ・クラークというカントリー歌手が同名のアルバムを出してヒットさせたようです。ちなみに英訳はハーバート・クレッツマーというジャーナリスト兼作詞家となっていました。そうか、ボクも作詞家は無理じゃなさそうだけど、ちょっと遅すぎるかな。

 

 その後、シャーリー・バッシーを始めとして多くの歌手がカバーしているだけでなく、シャルル・アズナブール自身も英語で歌っているので、昨日にご紹介した『マイウェイ』とは違って、同じ内容のようです。

 

 英語版のほうが分かりやすいので、稚拙ながら訳してみると、以下のようなフレーズが出てきます。

 

私が若かった昨日、

多くの美しい歌が歌われるのを待ち、

多くの悦楽を目の前にして、

あまりにも早く時間と若さを駆け抜けたおかげで、

人生について立ち止まって考えることをしなかった。

そして今、私が語れることといったら、ほとんど何もない

 

 こんな感じでしょうか。確かに後悔を歌ってはいるのですが、やっぱどことなく甘い雰囲気があります。シャーリー・バッシーの歌なんか、むしろ元気一杯な感じがするくらいです。

 

 で、フランス語のオリジナルですけど、これがまた極めつけに苦くて渋いんですな。いろいろな訳を読み比べてみると「ボクの恋はすべて生まれる前に死んでしまい、友人たちも去って、もはや戻ってこない。自らの過ちで仲間たちから離れ、自分の人生と青春を浪費してしまった」なんて、ものすごく悲惨な境遇ではありませんか。

 さらにエンディングでは、「どこに行ってしまったのか、僕の20歳の時は」ですからね。

 

 このやるせなさ過ぎの歌を、シャルル・アズナブールは40歳の時に作ったそうです。こんな歌が似合うような年寄りにはなりたくないといっても、漫画『北斗の拳』のラオウのように「我が人生に一片の悔いなし」と言い切って死ねる人はそうそういるものではないでしょう。

 

 どう考えるのも人の勝手であり、断固たる思い込みや信念を誰も否定できませんが、ボクの場合はシャンソンのオリジナルに忠実に、くよくよと、うじうじ&ぐじぐじと、鉛色の曇り空を見続けていくのかな。

 だからこそ、たまに見られる快晴の青空を眩しく美しく感じることは確かなんですけどね。

 

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2016年10月11日 (火)

『帰り来ぬ青春』(続・前)

 

 人生の晩年を唄う歌の代表格は、何といっても『マイ・ウェイ』でしょう。ポール・アンカが1968年にフランク・シナトラのために作詞した曲で、今では他の歌手にカバーされた回数が史上第2位というウルトラ・スーパー・スタンダードになっています。ちなみに第1位は『イエスタディ』だそうです。さすがにビートルズって凄いなぁ。

 この『マイウェイ』が大変に魅力的な歌であることは確かで、若い頃はそこそこに好きだったのですが、不思議なことに歳を取れば取るほど苦手になってきたんですよね。

 面倒臭いので英語の歌詞はどこかで見ていただくとして、要するに「人生の終わりの時を迎えて」「友よ、私は何よりも自分の道を生きてきたと明確に言える」といった内容です。ポール・アンカがまだ20代後半の頃の作詞なので、そう言い切れるような年寄りになれたらいいなという願望があるにしても、「すべてをありのままに受け入れ、自信を持って立ち向かい、自分の道を生きてきた」ですからね。堂々たる自尊心という圧倒的な突風が、こちらに向けてぶわんと吹いてくるように感じてしまうのです。
 でもって最後にI did it my way なんて、少なくともボクにはとてもじゃないけど言えないのです、友よ(ここ笑うところです)。その強烈な自己満足というか自己肯定にアテられてしまうので、誰が歌うにしてもトイレに逃げ込みたくなるわけですな。

 この原曲はクロード・フランソワが歌った『いつものように』というシャンソンで、1967年に彼とジル・チボーが作詞。作曲も彼とジャック・ルヴォーが手がけていますが、フランク・シナトラが歌い上げる格調高い内容とはまったく逆のダウナー系の歌詞になっています。にもかかわらず過剰にドラマチックなメロディラインになっているので、もしかしてポール・アンカはフランス語が分からず誤解した可能性も高いのではないでしょうか。

 だってね、「いつものように」(反復します)→僕たちは服を脱ぎ、→身を横たえて、→キスをして、→愛し合うだろう、という歌詞ですぜ。実は「そんなふりを演じよう」というキーワードがあって、シャンソンらしい哀切な含みが隠された歌なのですが、ちょっと曲想が元気良すぎなんだよなぁ。

 それよりも、最近は好んで聴くようになってきたのが、Yesterday when I was young『帰り来ぬ青春』です。後悔ばかりのボクの人生には、こっちのほうがよほど似合います。以前に同じタイトルで少し紹介したので()としましたが、ちょっと長くなったので、この続きはまた明日ということで。本日は1本締め切りがあるものですから。

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2016年10月 7日 (金)

ハチ公

 

 人間だって銅像になる人は滅多にいないのに、銅像にされた犬が「ハチ公」です。歴史的には「忠犬ハチ公」という名称で親しまれてきたようですが、ボクは「忠犬」という言葉にいささかの抵抗を感じるので、「ハチ公」と呼ぶことにします。

 

 渋谷駅のランドマークであるハチ公の銅像は、戦時中の金属不足で政府に接収されたと聞いていましたが、ウィキペディアによれば敗戦前日に溶解されて機関車の部品になったそうです。物資が足りない戦争中に銅製の像が堂々と鎮座しているのは体裁が悪いという理由から、それまでどこかに隠されていたみたいですね。1944年10月に接収された時には国旗のタスキがかけられらしいので、死んで顕彰された犬までプロパガンダに利用していたのかと悲しくなります。当時は軍事政権でしたからね。

 

 敗戦後の1948年に再建されましたが、かのヘレン・ケラーも直後に銅像に触れたということから、ハチ公は世界的に有名な存在だったようです。2009年にはリチャード・ギアが映画『HACHI約束の犬』を製作・主演しています。

 

 もっとも、リチャード・ギアが映画の中で「ハッチー」と呼びかけるのはちょっと違和感がありました。というのも「ハチ」の名前は、飼い主だった大学教授が、幼犬の時に踏ん張った2本の前脚が「八」という漢字に似ていることから命名したとされています。だったら「エイト」と呼べよってことでもないのですが、リチャード・ギアが演じた主人公は相当の日本通でなきゃおかしい。「8」をラッキーナンバーとする欧米人もいますけど、「ハチ」とは言わないもんなぁ。

 

 この名前の由来は1987年に公開された日本映画『ハチ公物語』で紹介されていますが、かなりの部分が実話に基づいているそうです。リチャード・ギアは脚本を読んで大泣きし、ハリウッド版としてリメイクしたのが前述の『HACHI約束の犬』というわけです。けれども、舞台がアメリカ東海岸だけに、ボクにはちょっとイタい映画に感じられました。

 

 さて本題です、って、どうも近頃は前置きが長くなってすいません。

 

 ハチ公は、飼い主が亡くなっても、約9年にわたって渋谷駅で待ち続けたことがエピソードのコアになっています。ところが、これには異論があって、駅前の屋台の焼き鳥が目当てだったという解釈があります。それが「忠犬」=忠義という軍事宣伝に利用されて全国に広まったとしており、説得力はそこそこにあるのですが、ボクが犬の福助を飼ってからの印象は違います。

 

 福助は、ボクが事務所に帰ってきてドアを開けると、いつも玄関口で待っていました。そこはエサをあげる場所ではありません。さすがに老犬になった近年は横たわったままということが多くなり、首を曲げて「おかえり」という感じで振り向く程度ですが、主人を「待つ」習慣というのは決して嘘偽りではないだろうと思うのです。

 

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉がありますが、戦争に負けてからは反軍国主義のあまりに、事実を思想的に曲解するケースも多々あったのではないかと。ボク自身はニュートラルなリベラルでありたいと思っていますが、そんな立ち位置から見れば、ハチ公は死んでから右にも左にも都合良く利用されてきたことになります。そのこと自体をボクたちは知るべきではないかと考えて、敢えて紹介することにしました。

 

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2016年10月 6日 (木)

レガシー

 

 それまであまり聞かなかった言葉を、何かのきっかけで爆発的にみんなが言い出すことがあります。たいていの場合、意味がきっちりと認識されているわけでもなく、何となくの空気感覚で、テキトーかつ便利に使われていくようですけどね。逆に言えば、そういう言葉が流行しやすいわけです。

 

 つまり、要するに、早い話が「レガシー」であります。えっ? クルマの名前じゃなかったのという人もいるかもしれませんが、英語でなくてカタカナ語の直接的な語源は2020東京オリンピックです。

 

 あまり知られていないと思うので改めてご紹介すると、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(略称=組織委員会)が策定した基本コンセプトは3つあり、その中に「レガシー」が登場するのです。

 その前に組織委員会のことを解説しておくと、公益財団法人日本オリンピック委員会=JOCと東京都によって2014年1月に一般財団法人として設立。翌15 年1月付けで公益財団法人となりました。で、その会長が森喜朗氏ということですね。

 

 ちなみに、この財団法人に当初はJOCと東京都はそれぞれ1億5000万円ずつを拠出。同年6月には東京都が57億円を追加投入したので、出資比率は97・5%に達しています。従って、組織委員会の会長がいくら「われわれは都の下部組織ではない」と強弁しても、これだけの出資比率があれば立場の上下は明らかですよね。そのせいか、今年9月末に組織委員会は先の57億円を返還する意向を表明したとされています。豊洲問題と同じように、腹を探られると困ることでもあるのでしょうか。

 

 さて、本題に戻ると、「全員が自己ベスト」「多様性と調和」「未来への継承」の3つが2020東京オリンピックの基本コンセプトです。これってご存じでしたか? 不勉強のせいか、ボク自身はちょっと前にオリンピックの記事を書くまで、そんなものがあるとは知りませんでした。普通の人は知らなくても何ら不都合はありませんけどね。

 

 かなり遠回りになりましたが、3番目の「未来への継承」の中に「レガシー」という言葉が出てきます。正確には「成熟国家となった日本が、今度は世界にポジティブな変革を促し、それらをレガシーとして未来へ継承していく」としています。この理念を具体化するため、今年になって「アクション&レガシープラン」を発表しており、ははぁ、どうやらこの前後から「レガシー」が連呼されるようになったんだなと見当をつけることができますよね。

 

 レガシーの一般的な意味は「遺産」ですが、今度の東京オリンピックでは前述したように特別な意味も付与されているので、敢えて日本語ではなくカタカナにしたと考えられます。東京オリンピック関連のモノやコトを将来にも継承できて、世界に誇れるものにしようという崇高な志を誰が否定できるでしょうか、いやできるはずがありません。

 少なくとも言葉の上では、ものすごく立派な競技大会になりそうなのです。

 

 しかしながら、ここにきて競技施設などの建設費用が予定の何倍にも膨れあがっており、都の調査チームの試算では「このままでは3兆円かかる」とも報道されました。それだけの大金を使えば「レガシー」になるかといえば、世界のオリンピック開催希望都市が目を剥くだけのことで、むしろ逆効果ではありませんか。

 

 このように言葉と実態が乖離しながら一般に広まっていくと、「今度の仕事は我が社のレガシーになるように頑張れ」「銀座での接待は営業部のレガシーなんです」ならまだしも、「今夜をボクたちのレガシーにしようよ」と女の子を口説く邪悪な奴がすぐに出てくると思うなぁ。

 

 つまり、「レガシー」を正しい意味と用法で、それこそ未来に継承しようとするなら、2020東京オリンピックが美しいお手本にならなきゃいかんということです。今から文句を言っても始まらないし、言葉に罪はありません。どうせ多額の税金を費やすのですから、この基本コンセプトを正しく広報しながら忠実に遂行していくことで、くれぐれも絵空事にしないよう頑張っていただきたいと思うのであります。

 

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2016年10月 5日 (水)

集中と分散

 

 新型iPhoneでは日本向けに「お財布ケータイ」機能が加わったそうです。このブログで何度も説明してきたように、ボク自身は当分スマホに替えるつもりはありませんが、何でもかんでもスマホに集約=搭載していくという動きはますます加速されているように感じます。IoTだってあるし。

 

 最初の頃は携帯電話にカメラという組み合わせに驚きましたが、あれよあれよという間に専用機を上回るほどの解像度と機能を持つようになりました。現在では動画すら撮影できますからね。

 でも、自分が取材された時に「ちょっと失礼してお顔の写真を」とケータイまたはスマホを向けられたら気分を害しませんか。「いやいやこれで十分に印刷できますから大丈夫」と言われても、特に年配者ほど釈然としないはずです。

 

 音楽関係も、よく分かりませんが、iPodなんかと同等以上の機能があるんじゃないかな。新型iPhoneではイヤホンがワイヤレスに進化したらしいので、これはすごく羨ましい。そうかと思えばスマホでピコピコとゲームをしている人も少なくありません。先日も山手線で「ポケモンGO」に打ち込んでいる娘さんを見ました。

 

 それに加えて、冒頭でご紹介した「お財布ケータイ」ですもんね。簡単にいえば、もはや携帯パソコンもデジタルカメラも、携帯ゲーム機もiPodも必要なくなり、Suicaや現金すら不要になりつつあるということです。この勢いが続けば、外出する時にはiPhoneまたはスマホが1台あれば、ほかには何もいらないってことになるでしょうね。

 

 それはそれで大変に便利なのですが、いろいろな機能を集約すればするほど、当然のことですがリスクも集約されることになります。盗難や紛失ならまだしも、悪質なウィルスが侵入してすべてを失ったり、写真やメールを暴露されたりする危険性もあるはずです。

 

 証券・投資業界には「卵をひとつのカゴに盛るな」というみごとな格言があります。卵とはカネのことで、カゴは投資先を意味します。ある企業の株に全額を投資すればリターンも大きいがリスクも大きい。もしもカゴがひっくり返ったら卵のほとんどが割れてしまう。だから「分散投資」を心がけなさいといった意味ですが、スマホはカゴで、情報や機能を卵と考えることもできるではありませんか。

 

 随分前のブログでも、ネットに接続しない完全にスタンドアローンのパソコンを用意して、それに重要データのバックアップや、上司や取引先に関する悪口雑言や恨み言なんかも(ここ笑うところです)ストックしておくべきだと書きました。

 それと同じように、そろそろ情報や機能の「集中」から、効果的な「分散」に向けた工夫や配慮が必要な時代になりつつあるとボクは思うのですが、いかがでしょうかねぇ。

 

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2016年10月 4日 (火)

どっちもどっち

 

 クリーニング店で仕上がったワイシャツを受け取って外に出ると、道路をはさんで向かい側の舗道で幼児2人がはしゃいでいるのが見えました。母親らしき人の姿はあたりに見えません。

 

 車道のすぐそばなので危ないなぁと思っていたら、その反対側、つまりボクの側の舗道のほうから「横断歩道よーっ」という大きな声が上がりました。察するに、すぐ近くの横断歩道を渡りなさいという指示のようです。なんで幼児2人をそんなところに放置していたのか、理由は皆目分かりませんが、外出したら飼い犬にはリード、幼児は手元にというのが鉄則じゃないかなぁ。

 

 すぐに横断歩道の信号が青になったので、幼児が車道を渡り始めました。そこにですね、予想に違わずといえばあまりにも無神経ですが、ボクが危惧した通りに、ドンという感じで自転車が猛スピードで突っ込んできたのです。乗っていたのは若い女性で、自転車ごと倒れた直後に、幼児がまさに火が付いたように泣き出しました。

 

 横断歩道の信号は青に変わったばかりだったので、車道を突っ走ってきた自転車に法律上の責任はありそうですが、それにしても運転者の女性は前を見るということをしなかったのでしょうか。幼児は白い服を着ていたので、いくら身長が低くても視認できたと思うんだけどなぁ。何かに気を取られていたとか、イヤホンで好きな音楽を聴いて没入していたのかもしれません。

 

 ボクがいた場所よりちょっと離れており、すぐに人が集まってきたので、そのまま立ち去りましたが、いっこうに救急車のサイレンが聞こえなかったので、大事には至らなかったようです。

 

 でもねぇ。こんなのは不幸中の大幸運というほかないでしょう。子育てにお母さんは大忙しという事情も分かりますが、道路の向こう側の舗道に幼児だけで好きなようにさせていたら、危ないことになるのは誰だって分かることではありませんか。

 自転車の女性にしても、いくら急いでいたにせよ、横断歩道の近辺にきたら速度を落として注意するのが当然です。運転免許を取る時には、ボールが転がってきたら子供の飛び出しに注意しろという「危険予測運転」を教えられます。けれども、自転車に免許は不要だもんなぁ。

 

 いずれにしても、このアクシデントは、ボクが見た限りではどっちもどっちなんですよね。両者ともに、あまりにも想像力が足りなさ過ぎるんじゃないだろうかと。申し訳ないのですが、しばらく腹立ちを抑えることができなかったのです。

 

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2016年10月 3日 (月)

自治組織

 

 初等教育は専門外なので知らなかったのですが、先日たまたまMXテレビを見ていたら、PTAの加入は義務なのかという論議に加えて、様々な問題が提起されていました。

 

 ボクの母親は工場などで働いていましたから、そんな活動をしていた記憶はまったくありません。念のために調べてみたら、やはりPTAは任意団体なので、加入はあくまでも自発的意志によるようです。いろいろな活動も基本的にボランティアってことですよね。

 ただし、加入しないことによる直接的・間接的なデメリットはあるらしい。PTA主催のイベントから排除されるならまだしも、大切な情報を教えないとか、ヘタすりゃいじめもどきだってあり得るかもしれません。

 

 だったら加入したほうがいいとなりますが、面倒な役職や仕事を任されるなど、いろいろな問題が伴うらしいのです。ある調査によれば「負担の重さ」「時間の制約」「人間関係」が3大不安要素とされていました。ボクは親ではないのでPTAには無縁でしたが、これは実感として理解できます。以前にマンション管理組合の役員をやったからです。

 

 役員に高齢者が多いせいか、定例の会議では世間話や噂話がやたらはさまったりして、ボクにはとても耐えられない時間の使い方でした。そこで短縮化を提案したら、「あなたねぇ、役員会は2時間以上かかるのが当たり前なのよ。なに言ってるの」と逆に叱られてしまったのです。

 すいませんが、ボクは役員に自ら立候補したわけではありません。管理人から「なり手がいないので」と何度も請われて、「それなら」と仕方なく義侠心から引き受けたんですよ。その事情を知ってか知らずか、会議の質を時間だけで判断して、それを押しつけるというのはどういう料簡なのかなぁ。これではなり手がいないのも当然だと納得しました。

 

 役員会もPTAと同じくボランティアですから、平日の夕方に開くのであれば、参加者の仕事や都合に配慮するべきなのに、まるで義務のようにみなされているわけです。

 もしも仮にPTAも似たような状態とするなら、有職者のパパやママが我慢できるはずないので、加入者が減少していくのも不思議ではありません。

 

 こうした「自治組織」を運営するなら、やはり参加者に負担感を与えず、時間的な制約はなるべく短縮して、人間関係もボスと取り巻き連といった猿社会を形成するのでなく、民主的にフラット化していくことがポイントでしょうね。要するに、前述した3大不安要素を排除すりゃいいだけのことです。

 

 幸いに現代は情報通信技術が発達しているので、みんなの顔が揃わなきゃいけない会議を頻繁にやる必要なんかないですよね。ネットのメールやSNSはもちろん、スマホならLINEという方法もあります。そうしたITがどうしても使えない人には電話なり書面で連絡すればいい。とにかく加入者を増やして円満に運営したいのであれば、集会や会議なんかの「合理化」「効率化」に向けて努力するべきです。それができない、やらないとしたら、そうした自治組織の幹部は、旧来のままにしておくことに何らかの権力やメリットを見出しているとしか思えないわけですね。

 

 これは仕事でも同じであって、言い換えるなら「昨日とは違う今日」「今日と同じではない明日」を志向しない人材や組織は簡単に行き詰まってしまうということです。でね、そうした工夫や努力の結果として余った時間を、親睦などの時間に費やせばいいじゃないですか。ほら、これなら参加してみようかって気持ちになるでしょ。やるべきことの順番が逆になっているから、抵抗感や負担感があるわけですよ。

 

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