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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

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    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

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福助くん その2

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    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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2016年11月

2016年11月30日 (水)

ロボットの経済学

 

 たとえばクルマや冷蔵庫を作るためには、大きな工場と大きな設備や機械と多数の人手が必要になります。それ以前に、物理学や機械工学や化学なんかが発達していないとダメですよね。さらに、クルマや冷蔵庫を動かすためにはガソリンや電気が不可欠です。

 

 ところが、人間を1人作るなら、それほどの設備も燃料も必要ありません。少なくとも男1人に女が1人いれば、部屋がなくてもクルマの中で、って冗談ですけど、何らかの疾患や支障がない限りは、資金不要で、まさに気持ち良く人間を再生産できます。

 

 では、ロボットを一体作るにはどれだけかかるでしょうか。アトムのようなロボットはまだ現実化していませんが、空を飛ばないまでも、初期型の完成までに数十億円、いや数百億円単位の投資が必要になるのではないでしょうか。

 一方、デート代や結婚式費用などを除いて、直接的な初期投資が出産費用程度で生まれてきた人間の平均生涯年収は、大卒者で2億~3億円という調査があります。もちろん教育投資も必要ですが、ごくごく単純に費用対効果だけを計算すれば、ロボットより人間のほうが今の段階では圧倒的に「コスパ良すぎ!」ということになるはずです。

 

 そう考えると、かつてアフリカ大陸から奴隷を大量に輸入した米国は、みごとなまでに狡賢く合理的ではありませんか。輸送費はそれなりにかかっても、食事と小さな住み家さえ与えれば、死ぬまでに1億円分くらいの仕事はやってくれる。ついでに人間も再生産してくれますから、米国が急速に発展・成長したのも不思議ではありません。

 

 もちろん、この論理には人道や人権というヒューマニズムがすっぽ抜けております。ただね、どうしてロボットが必要なんだろうと。人間ができないことをやらせるという理屈もあるでしょう。だったら囲碁や将棋のAI=ロボットは無駄の極致ではありませんか。そんなのは人間同士でやりゃいいんですから。

 

 思考がまるでまとまっていないので恐縮ですが、ロボットの本質的な価値に関する研究や論考がそろそろ必要ではないかと考えているわけです。たとえば「えー、ロボットいかがっすか。今なら1億円ポッキリですぜ」と言われて、「そりゃ高いなぁ、人間のほうがよっぽど安いじゃないか」というようなことにならないでしょうか。

 

 これまでもっぱら科学や好奇心で語られてきたロボットを、いよいよ本気で社会学ならびに経済学すべき時期ではないかと思い始めている今日この頃なのであります。

 

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2016年11月29日 (火)

ムカッときたら

 

 日曜日朝に放送された健康関連のテレビ番組で、「アンガー・マネジメント」が紹介されていました。アンガーとは「怒り」のことなので、それをマネジメント即ち管理するってことですね。

 

 巷では暴走ジーサンやブチ切れジーサンが増加してきたなんて報道や意見があります。クルマの逆走や暴走は別にして、ジーサンが怒りっぽくなるのは理屈としてよく分かります。定年で年金世代となり、社会の階層やクビキから解放されて、いつ死んでもおかしくない年齢になったのだから、もう我慢なんかできるかよってことですよね。そうなると怖いものなしですから、ちょっとしたことでも不愉快になり、ちゃんとした理由があればなおさら怒りが爆発してしまう。

 

 ボクの個人的見解では、ジーサンが特別にワガママになったわけでもなく、もともと現代は尊重だの謙虚だの節度という美しい習俗が失われつつあるので、怒るジーサンも怒られる人も、どっちもどっちではないのかなぁ。

 

 ということで、そのテレビ番組では「怒りをコントロールする効果的な方法」が紹介されていました。ボクは昔から決して怒りっぽくないほうではなかったので(ややこしいぞ!)、どれどれと歯を磨きながらテレビに注目していたわけです。すると、例によってCM明けに解説された方法というのが、実にまったくワハハハハではありませんか。

 

 簡単に言えば、「6秒待つ」ってことです。6秒待てば「反射的な怒り」を抑えられるらしい。そうすれば売り言葉に買い言葉で、双方が激高することもないと。その双方がジーサン同士だったら、ヘタすりゃ壮絶な殴り合いになるかもしれません。

 

 えーと、だったら、皆さんストップウォッチかクロノグラフを持って歩けっていうのかなぁ。「そんな言い方があるかい!」みたいな怒りを感じた時にスタートボタンをカチッと押す。ま、普通の時計の秒針を見てもいいんですけどね。そして、じっと6秒が過ぎるのを待つってことですか。そんな面倒なことをしようという時点で、ボクならいきなり冷静になります。その意味では確かに「アンガー・マネジメント」になってはいます。

 

 ボクが「6秒待つ」をワハハハハハと嗤った理由は、そんな方法はとっくに編み出していたからです。

 自慢ではありませんが、いや自慢かな、今を去ること6年前の2010年11月10日に、「『自分訓』を作ろう!」と題したブログで、そっくりな提案をしていたからです。いちいち検索するのは面倒という皆様のために、そのまんま該当部分だけコピペしました。

 

●ムッときたら、5つ数える。

 

 そこで、ムカッときたら、心の中で「5つ数える」。5秒とはいかないまでも、ちょい抑えることで少しは冷静になることができ、論理的に考えられるようになります。そうした状態での会話は、相手にも不快感を与えません。この「ムカッときたら、5つ数える」は、自分ながら良くできていると思います。それがいつもできないから困るのですけどね。

 

 タイトルは「ムッときたら」で、文章は「ムカッときたら」になっていて不統一で恐縮ですが、内容的には「6秒」理論とほとんど同じですよね。心の中でゆっくりと「5」を数えれば6秒くらいになるでしょ。要するに、こんなのはボクだって考えられる方法なわけです。

 

 問題なのは、このブログの最後にあるように「それがいつもできないから困る」ということなのです。それがいつもできるようになる方法というのは、寡聞にして知りません。だったら、それを考えてみようかな。

 たとえば「二の腕の裏側の皮を思い切りツネってから5つ数える」なんてのも効果がありそうな気がします。近頃ちょっと怒りっぽくなったという中高年の皆様に、ぜひ治験をオススメいたします。

 

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2016年11月28日 (月)

オリヴィア・ウィリアムズ

 

 日本のテレビや映画では、大人顔の美人が登場する余地が乏しいのかなぁと以前から思っていました。朝のニュースショーなんか20代前半の女性ばっかり山盛り状態ですもんね。TBS系『あさチャン』の夏目三久なんか相対的に年増の大ベテランに見えますが、調べてみたらまだ32歳ですぜ。

 

 日本のテレビはあまりにもつまらないので、CSやBSで外国の映画やドラマばかり見てきましたが、アメリカやイギリスでは20代はほとんど駆け出し同然で、30代になってようやく一人前という感じなんですよね。オリビア・ニュートン・ジョンのように30歳で高校生役はどうかと思いますが(1978年公開の映画『グリース』)、テレビドラマ『スーパーガール』に主演したメリッサ・ブノワだって『gree/グリー』で高校生を演じた時は24歳になっていました。

 

 そんなわけで、映画界は実年齢を気にしないというより、企業の採用面接などで年齢や人種、宗教などを問わないというのが欧米のスタンダードらしいのです。「んで、キミいくつ? 26歳! そりゃアウトだよ」なんてことを絶対に言ってはいけない。

 それに敢えて反旗を翻したことで、偏見を声高に語りたいのを我慢していた人たちが喝采したのがトランプってことになるんですけどね。政治信条はともかく、人権意識の逆戻りだけは勘弁して欲しいなぁ。回り回って自分自身のクビをも絞めかねないってことに、どうして気づかないのでしょうか。心の底でアメリカ人は嫌いだと思っている人は世界に結構多いんですよね。

 

 いささか遠回りしましたが、歳月を経たら誰だって失う若さを、日本ほど重視する国は珍しいんじゃないかな。あるいは発展途上国の特性かもしれません。だってさ、農作業などの肉体労働は若い人ほど得意ではありませんか。あるいは「旬」の影響かも。ボクは貧乏性のせいか、古米の冷や飯でも文句なんかありませんが、グルメ業界では「旬」をやたらに強調しますよね。その発想が女性にも適用されているとすれば、これほど失礼な人権蹂躙もないでしょう。そう思うのは個人の自由でも、公言はさせない。それが文化の程度というものではありませんか。

 

 わぁお、どんどん本題から離れていきますが、オリヴィア・ウィリアムズです。ちょいと垂れ気味ですが切れ長の大きな眼が特徴的な、ものすごく知的な雰囲気の美人女優です。1968年ロンドン生まれなので、今年で48歳。いわゆるアラフォーを通り越して、アラフィフの熟女ってことになります。日本で近いと思われるのは白川由美かな。実物がどうなのかはさておき、物事を熟慮できる知性と、それに必然的に伴うべき優しさを感じさせるのです。頭がいいってことは、他人のことも想像=思いやることができるはずですからね。

 

 彼女に出会ったのは、スーパー!ドラマTV『ケース・センシティブ 静かなる殺人』でした。しかし、このタイトル、ひどいなぁ。まるで視聴する気になりません。ただ、いつも見ているCSチャンネルが軒並みネタ切れの時期らしく、『CSI』やら『NCIS』なんていうアメリカでヒットしたドラマばかりを連続放映していたので、ザッピングしていたらひっかかったのです。

 

 このためほんの一部しか見ていませんが、確かにタイトル通りで、実に地味なドラマでした。イギリスの製作らしく、いかにもなセピアっぽい画面で、アメリカのような派手なアクションもありません。そのかわりに犯人の心理を追うのがテーマのようですが、あまり面白いとは思えなかった。けれども、彼女が女性刑事として主演していたのです。

 ボクが初めて彼女に注目したのは、やはりCSで放映されたテレビドラマ『ドールハウス』でした。エリザ・ドゥシェク(『トゥルー・コーリング』でも主演)という若い女優が主役で、彼女は置屋の女主人みたいな役です。どちらかといえば悪役に近いのに、まるでそうは見えない女優だったので、ミスキャストもいいところじゃないかと。けれども、日本ではちょっとお目にかかれない美熟女だなぁと感心したわけです。

 

 日本での放映とオリジナルではズレがあるので、アメリカでの放映時期を紹介しておくと、『ドールハウス』が2009年~10年、『ケース・センシティブ』が11年~12年。いずれもオリヴィア・ウィリアムズが40代になってからの作品です。そうなると、若い頃はどうだったんだろうと思いませんか?

 

 それでネットを調べてみると、あくまでもボクの個人的な意見ですが、大したことないんだよなぁ。もちろん綺麗なことは綺麗ですけど、今のような深い滋味、最近は食の記事も書いているのでこんな表現になってしまいましたが、円熟した落ち着きはありません。

 結婚しているかどうかは確認できませんでしたが、少なくとも顔や表情を見る限りでは、上手な歳の取り方をしているんじゃないかな、と。

 

 ボクにとっての美人女優は大昔からダントツでイングリッド・バーグマンですが、その第2位くらいに躍り出てきた感じです。バーグマンには『カサブランカ』を始めとする代表作がありますが、これから彼女に似合う主演ドラマを探すのは難しいでしょうね。そのあたりで年齢のデメリットはやはり否定できないのですが、それにしても「いい女」なのです。日本でファンが急増するとはとても思えませんが。

 

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2016年11月25日 (金)

奇妙な屁理屈

 

 考えてみれば、ボクは実につまらん屁理屈を妄信してきたような気がします。もしかするとボクだけでなく、ボクの世代全体に共通しているかもしれません。

 

 最もシンボリックな例を挙げれば、「カッコいいはカッコ悪い」「カッコ悪いはカッコいい」ということです。常識を逆転させる言い方なので、ボクのように中途半端に知恵がついた、つまり中途半端にバカで阿呆な奴がコロリと引っかかる罠なんだよな。

 

 「カッコいい」というのはカッコいいからそう言うのであって、日本語の論理ではそれ以上でも以下でもありません。逆に「カッコ悪い」もそう感じるのだから、それ以外にあり得ない。ところが、「カッコいいはカッコ悪い」「カッコ悪いはカッコいい」と変えると、泥臭く地道に生きることのほうがカッコいいのかなと思いませんか。カッコいいというのは格好だけの話で、要するに軽佻浮薄じゃないかと。中身がまるでない奴が着飾っているイメージですよね。

 

 でもね、「カッコいい」というのはそんなに教条的で単純なイメージではないのです。たとえばスーツのスリーピースが魅力的といっても、本なんか生まれてから教科書以外読んだことがありませんという女好きのチャラ男が着ていたらカッコいいと思いますか。カタギの生活をしているほとんどの男女はそうは思わないですよね。特定の若者にとって、ジーパンを腰でなく尻のあたりにズリ下ろして履くのがカッコいいらしいですが、普通の人にとっては実にカッコ悪く感じるはずです。

 

 けれども、だからといって「カッコいいはカッコ悪い」「カッコ悪いはカッコいい」という理屈にはならないでしょう。カッコいいと感じる物事には、時代性から社会性、集団文化や思想など込み入った背景があります。だから一概にこれがカッコいいと断定できないだけのことで、それを理屈として混同してはいけないのです。

 

 率直に言って、ボクらの世代はオシャレを憎んできました。オシャレする奴は外見ばかりで内実がまったく伴わない。だからカッコなんか気にせず、とにかく働け。キリギリスは冬に食糧の蓄えがなくて飢え死にしたぞ。そんなことにならないように汗まみれで地道に働き、結婚して家を持って子供を作って育てることこそがカッコいいんだと。

 

 そのこと自体はおかしい理屈ではありません。しかし、やっぱり、だからといって「カッコ悪いはカッコいい」ことにはならない。やっぱカッコ悪いより、カッコいいほうがいいに決まっています。そして、カッコ良くみえることには必ず理由があります。だから「カッコいいはカッコ悪い」「カッコ悪いはカッコいい」という奇妙な屁理屈は、その理由を隠蔽しているとしか考えられないのです。

 

 また、前述したように、カッコいいというのはいろいろなバリエーションがあります。国会議員の候補者がホストみたいにシャツのボタンを下のほうまで開けていたら、いくらクールビズでも誰も投票する気にはならないでしょう。つまり、それはカッコ悪いのです。でも夜の巷となると、そんな怪しいカッコに安いコロンがぷんぷんでも引っかかってしまう女性はいるでしょうね。

 

 とすれば、自分のありよう=スタイルにあった格好が最もカッコいいということになりますが、ファッションはノンバーバル(非言語)のコミュニケーションですから、時代性からかけ離れていたり、他者を拒否するような格好はカッコ良くないわけです。

 

 カッコいいと一口に言っても、その内実にはいろいろ複雑なものが含まれているのです。そのせいか、「カッコいいはカッコ悪い」という人に限って、無意識に好むのが制服なんだよな。だからナチスは軍服にこだわりました。某女子団体がその制服を真似たコスチュームを着たことで謝罪に至ったように、ぶっちゃけカッコいいと感じる人は少なくないでしょう。それはいったいどうしてかということをきちんと分析しておかないと、再びファシズムを招きかねないとボクは思います。ところが「カッコいいはカッコ悪い」という奇妙な屁理屈に収斂させてしまうと、そうした研究にフタをかぶせるようなことになってしまうのです。

 

 つまるところ、カッコいいことはカッコいいのです。逆にカッコ悪いことはカッコ悪い。その「カッコいい」「カッコ悪い」には必ず理由がある。それは時代や社会によって大いに変わり得ます。だからこそ「カッコいいはカッコ悪い」なんていう、つまらん屁理屈は言ってはいけない。日本語の論理としても絶対的におかしいのです。

 

 ボクが言いたいのは、「カッコいいのはカッコいい」のだから、何事もカッコ良くやろうよ、ってことなんですよね。カッコ悪い、泥臭いと思われていることでも、やり方やスタイルを変えればカッコ良くできるはずです。そのためにも「カッコ悪いはカッコいい」なんてことを言ってはいけない。

 

 軍人として国に殉じるのがカッコ良くて、徴兵拒否がカッコ悪いということを覆したのがベトナム戦争でした。モハメド・アリは実にカッコ良かったじゃないですか。最後は無罪ですぜ。そうした「カッコいい」を見つけるためにも、奇妙な屁理屈を言ってはいかんと思うのですよ。

 

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2016年11月24日 (木)

悲哀(後)

 

 テレビでは早朝から「関東に雪が降る。こんなに早いのは54年ぶり」と騒ぎまくっていました。気温は3~4度から上昇する見込みはないそうです。冷たい雨がいずれみぞれとなり、じきに雪になると予想されています。

 

 けれども、ふふふふ。安心してください、今回はマンションの廊下で滑る心配はありません。通算4度目の転倒なんて、バカや阿呆やマヌケを通り越して、何かに呪われているとしか思えないですもんね。というわけで、先週に思い切ってナイキの運動靴を購入しました。裏側には細かい溝がびっしりあるので、いつもの人工スウェード靴に比べてグリップ性能は抜群。キュキュッという、クルマがコーナリングする時のような擦過音も心強いではありませんか。

 

 これを新宿で購入する時に、近頃の運動靴がやたらに高額になっていることを知りました。ボクが最後に買った20年以上前は1万円でも特別なほうだったと記憶しますが、今では2万円を超えていても驚きませんよね。革靴だって買えるんじゃないかという値段の運動靴ばかりなので相当に躊躇しましたが、それでも何とか折り合いをつけられる靴を見つけました。世間では運動靴にこだわる人が珍しくないようですね。

 

 んでもって、先週から継続してきたテーマの3回目=最終回です。運動靴に今のようなステイタスはなく、それを履いている大人は失業中または貧乏でカネに余裕のない人、あるいは働く意欲がない人と見なされた時代の話です。

 

 娼婦を殺したと警察署に出頭してきた中年の日雇い労務者も、おそらく薄汚れた白いスニーカーを履いていたのではないでしょうか。当初は「ワシが殺した」の一点張りで、なかなか細かい事情を話しません。それを取り調べた刑事は、前回に紹介したように、母親が東京オリンピックのチケット詐欺に騙されたことから、弱者を餌食にする悪を強く憎む正義漢でした。

 

 そんな彼にとって、社会の底辺で身体を売って生きてきた娼婦を惨殺した犯人を野放しにしておくわけにはいかない。しかし、目の前でうなだれている中年のしょぼくれたオッサンが殺したとはとても思えません。

 

 世間話などを続けてオッサンの心を開いていくうちに、その娼婦の常連客だったことが分かります。月に1度くらい「温かいオ×××を買うのが楽しみだった」と供述。彼女をひいきにしたのは、それだけでなく、やさしかったことも理由だというのです。周辺の聞き込みによると、どうやら彼女は発達障害らしく、必ずしもオッサンに好意を寄せていたわけでもないようですが、心に悪意や邪念のまったくない無垢な聖女のような娘だったらしい。ただし、これは『人間交差点』で描かれていたことではなく、ボクの思い込みかもしれません。

 

 いずれにしても、オッサンはカネの関係で頻繁ではないにしても、たまに彼女を抱くようになりました。それで聞くともなく身の上話をしたりされたりするようになり、彼女の恵まれなかった過去や哀しい境遇を知るようになります。

 

 考えてみれば、自分だって貧乏な農家に生まれ、何ひとついいことはなかった。小さな田畑は長兄夫婦が継ぐので末っ子の自分が食べられる余裕はない。それで仕事を求めて東京に出て来たものの、中卒の学歴ではまともな職につけず、いつの間にか山谷で日雇いを続けるようになってしまった。肉体労働を売って日銭を得る自分は、彼女のやっていることと何も違いはないじゃないか。にもかかわらず、彼女は心からやさしく抱きしめてくれた。

 

 オッサンが買ったのは、身体なんかではなかったのです。

 

 そんな時に、彼女が惨殺されたことを知ります。ナイフで何度も刺された遺体が放置と報道されていました。定食屋に置かれた新聞には「ゆきずりの犯行か?」と大きな見出し。それを知って自首したのです。

 

「あんないい娘が、見ず知らずの奴に殺されたなんて可哀想でショウ。あんな暮らしをしながら、本当に気立てのやさしい娘だった。殺される理由なんて、そんなもんどこにもないのに、見も知らない奴に突然に殺されてしまった。こんなにも可哀想なことはないでショウ。だからね、ワシが殺したんです。ワシに殺されなかったとしたら、本当に、本当に可哀想な人生じゃないですか」

 

 この「でショウ」というのは方言を象徴しており、漫画の吹き出しで実際に使われていました。オッサンは涙を流しながらも「ワシに殺されたのでなかったら、哀しいでショウ」と話すのです。

 

 この心情がどうも理解できないという人に何も説明する気はありません。自分だけが大事という人に、オッサンの気持ちが分かるはずないじゃないですか。この物語をうまく描写することはできなかったかもしれませんが、ボクにとってオッサンの供述は、ドストエフスキーの『罪と罰』なんかメじゃないほど感動させられました。

 だからどうのってことでもありませんが、世の中が良くなければ良くないほど、他者を思いやり慈しむことが必要になってくるんじゃないかなぁ。さもなきゃ、何のために人間は生きているんだよと思うのです。

 

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2016年11月22日 (火)

悲哀(中)

 

 自首してきた労務者を取り調べた刑事は、悪を誰よりも憎む人でした。特に弱い人間を餌食にする犯罪を心の底から憎んでいました。

 

 だからこそ、母が危篤と分かっていても、路地の陰で辛抱強く容疑者を待ち続ける。そんな張り込み中の回想から始まるのが、漫画シリーズ『人間交差点-HUMAN SCRAMBLE』の最高傑作の1つ「あの日川を渡って」です。

 

 彼の母は酒乱の暴力亭主から逃げるように離婚。薄給の仕事を続けながら、再婚もしないで、一人息子を大切に育ててきました。そして、東京オリンピックの開会式に、入場券を握りしめて小学校低学年の息子と2人で電車に乗り、初めて川を渡ることになったのです。東京在住の人はもうお分かりかと思いますが、この川は多摩川のほかに考えられません。そして、親子は東京と川をはさんだ反対側の川崎あたりに住んでいたのではないでしょうか。

 

 今はそれほどでもないようですが、昔は多摩川の両側で家賃は相当に違いました。もちろん東京側のほうが高額で、川崎方面となると家賃相場はかなり低くなります。矢島正雄の原作はこうした状況を巧みに取り入れており、「川の向こう」というだけで、この親子の生活ぶりを言わずもがなで想像させてしまうんですよね。

 

 入場券はたまたま職場の知り合いから購入できたのですが、それを握りしめて開会式場のゲートに行くと、係員は一目見ただけで「こりゃ偽物だよ」と言うではありませんか。そんな詐欺が横行していたらしく、「またかよ」という顔つきの係員に2人は追い返されます。

 

 母は眼の端から流れ出る涙を人差し指で何度も拭い、唇を噛みしめながら彼の手をひいて再び電車に乗ります。その悔しそうな顔を下から仰ぎ見て、彼は弱い者を食い物にする卑劣極まりない悪者を退治する刑事になろうと決意したのです。

 

 危篤の母を気にしながらも、なお張り込みを続けたのは、そんな思いを彼女は必ず分かってくれると信じていたからです。やがて容疑者が現れ、逮捕。先輩刑事からの「早く行ってやれ!」という言葉に促されて、病院に急ぎます。

 

 まだ母には息があり、病床に彼が来たことを知ると、小さな声をふり絞るように「オリンピック、ゴメンね」とささやく。「いえ。僕にはとても楽しいオリンピックでしたよ」と言う彼の声を聞いて、安心したように優しい微笑みを残して亡くなるわけですね。

 

 大昔に読んだ話なので細部はすっかり忘れてしまいました。だから、会話も含めてボクの創作的な部分もきっとあると思いますが、内容の大きな幹はまったく変わっていません。

 それをウロウロながらここまで覚えていることから分かるように、日本の漫画、あるいは成年漫画というか劇画は、ボクにとって世界文学全集なんかに掲載された文豪たちの作品よりもはるかに心に刺さりました。そんなわけで、世間的に大家とされる文学者の作品や、文芸評論家による大仰な言葉ばかりの批評をまるきり信用しなくなったのです。

 

 あらららら、またまた長くなってしまいました。とにかく、そんな過去を持つ刑事だからこそ、娼婦殺しで自首してきた日雇い労務者の心を開いたといえるわけです。でも、その続きは休み明けの明後日にしましょう。慌てて書いても、うまく伝わらなきゃ意味ないですからね。

 

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2016年11月21日 (月)

悲哀(前)

 

 東京・山谷のラブホテルの一室で、若い娼婦の惨殺死体が発見されます。捜査がまだロクに進まないうちに、ある日雇い労務者が警察署に出頭。自分が犯人であると告げます。

 

 当時の山谷は、失業者または定職のない人が工事関係で即日払いの仕事を求めて集まる地域でした。この犯人も地方から東京に流れてきて、スーツ姿のビジネスマンが駅に急ぐのを横目に見ながら、将来が見えないその日暮らしをアテもなく続けてきた1人で、いつの間にかオッサンと呼ばれる中年になっていました。学校の社会科では高度経済成長期という言葉で一口にくくられる時代かもしれませんが、そんな豊かさから落ちこぼれた人は実は少なくないのです。

 

 配属されたばかりの新米の刑事が、その犯人を取り調べることになったのですが、何をどう聞いても、そいつが殺したなんてとても思えません。そのうちに確かなアリバイがあることも判明。この刑事は呆れ果てて「警察はカツ丼屋じゃないんだぞ!」と叱りますが、やがて彼は訥々と自首に至った娼婦との悲しい関係を話し始めるのです。

 

 これはボクの創作ではなく、矢島正雄・原作、弘兼憲史・作画による漫画シリーズ『人間交差点-HUMAN SCRAMBLE』にあったストーリーです。弘兼氏はその後『島耕作』が代表的なロングセラーとなりますが、ボクは『人間交差点』のほうがはるかに好きです。その中で今でも心に残っているのが、この物語ですけど、本日は朝方の締め切りがあるほか、取り調べる刑事のほうもちょっとワケありの過去があって長くなりそうなので、続きは明日ということで。

 

 それまで、どうして日雇いのオッサンがやってもいない娼婦殺しで自首したのかと考えてみてください。大昔に読んだことがあっても、よく理解できなかったという人がいるかも知れませんけどね。

 

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2016年11月18日 (金)

だったら行くな

 

 韓国の入試センター試験にあたる大学修学能力試験が17日に実施されたことから、大統領のお友達の娘による不正入学が大きな話題になっています。高校生のデモも行われたなんてテレビ報道もあるので、国民こぞって憤懣やる方ないということでしょう。

 

 自分たちが一生懸命勉強しても落ちるのに、ろくすっぽ高校に通学していなかった娘が韓国トップの女子大に入学した。ひどい不公正じゃないかと。

 

 確かにね、裏口入学は明らかに不公正です。では、入試の合格は完全に公平・平等なのでしょうか。たとえばカネ持ちの親なら子供を優秀な学習塾に送り込むとか、ベテランの家庭教師もつけられますよね。その一方で、夫婦喧嘩ばっかりの貧乏人の子供が自宅でまともに勉強できるでしょうか。こんなのはあくまでも一例であり、入試制度自体は公平・平等でも、それに向けて受験勉強する環境や条件はちっとも公平・平等ではありません。知能はもともと高いはずなのに、親や家庭環境のせいでまともな学歴を得られず、貧困を継承するなんてことは普通にある話じゃないですか。

 

 にもかかわらず、入試の不公正だけを糾弾するということは、そうした社会的な不平等や不公平は逆に是認することになるわけです。派手なデモをやったり、テレビで文句を言っている親や受験生は、それに気がついているのでしょうか。

 

 その意味では、不正入学した娘がブログでほざいたと報道された「親の権力や財力を利用して何が悪い。それができないなら親を恨め」という傲慢このうえない発言も、一面の真実を言い当てているとボクは思います。

 

 それだけでなく、いくら大統領の友達だからといって、そうした政治権力が介入した不正入学を許した学校管理職の責任も重いはずです。ろくすっぽ通学していないのに卒業証書を与えた高校だって同罪です。何が教師だ、聖職だ、それでも学問の府かよ。しょせんは権力者の意向に唯々諾々と従う自己保身に長けた羊の群れじゃあないか、はぁはぁ。

 

 つい興奮してしまいましたが、そうした不公正に本当に不満を持つのであれば、抗議のデモをやるよりよほど有効な行動があります。

 

 みんなが、そんなインチキを許した高校や女子大に行かなきゃいいんです。

 

 資本主義&民主主義社会では、これが最も効果的な抗議であり、現実的な罰なのであります。にもかかわらず、文句を言いながらもそんな大学を目指すということは、似たような権力や地位のお裾分けにあずかろうって魂胆を意味しませんか。

 

 それをさもしいとはさすがに言いませんが、宋代にめきめきと整備されたという「科挙」はそれとすごく似ていて、間接的に人間を中央集権の奴隷にする仕組みだったとボクは思うのです。中国全土の優秀とされる人たちが科挙で選抜されて中央の役人になったら、地方から反逆や革命ののろしは上がりにくいですよね。

 

 試験で高得点を取れば優秀とはボクはまったく思いませんが、中央集権の恩恵にあずかれる、いかにも「公正」に見える選抜制度があるなら、反乱や革命なんかより、それを目指したほうが現実的です。つまり、科挙は地方の牙を伸びる前に抜いてしまうことが目的だったのではないでしょうか。

 さすがは中国4000年、実に優れた行政だと感心せざるを得ません。しかしながら、そのおかげで近代化=革命は果たせず、むざむざと列強の植民地になった苦い歴史を持っています。

 

 ところが日本の江戸時代は藩校という制度があり、優秀な人材を地方に引き留めておくことができました。というより、人間の地理的流動自体が制限されていたじゃないですか。だからこそ、薩摩や長州という地方の雄藩による反逆あるいは革命、すなわち明治維新が可能だったという分析があります。

 

 その真偽は歴史のプロに任せますが、少なくとも現代は科挙と似たような状況になっているように思います。さすがに韓国みたいなあからさまな不正はできないにしても、東京大学入学者の親の半数以上は年収1000万円を超えるというデータがあります。

 

 今のところはノーベル賞を授与された日本人のほとんどは東京大学、京都大学出身者ですが、これからもそうだとは限りません。権力にすり寄るような発想で真に革新的な研究ができるかよと。

 

 その意味では、優秀とされる人材ほど地方に定着しなきゃいけない。そうした人たちの研究費が足りないというなら、もっとジャブジャブと中央から資金が環流していく仕組みを作る。それこそが穏やかな革命につながるのではないでしょうか。

 

 そこまで視野に入れた地方分権を早いところやっておかないと、マジでかつての清の二の舞になりかねないとボクは深く危惧しているのです。今の時代に植民地なんてあり得ませんが、膨張する一途の医療費をはじめとして、国を危うくする理由は事欠かないと思いますよ。

 

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2016年11月17日 (木)

奥歯がカリッと(後)白崎映美&白ばらボーイズ+山田晃士

 

 肩が狭く見えるほど顔面はデカいのですが、その分だけ鼻や眼など各パーツの造作も派手なので、米米CLUB石井竜也の路線だってあり得るのに、白崎映美さんに「夢に出てきそうね」と言われるほど奇怪なメイクで登場したのが、山田晃士です。

 

 昨日ご説明したように、壊れた仮歯を修正してもらったので気分が軽くなり、初めてのライブハウスでもあることから、早めに吉祥寺に向かいました。小さな店では指定席でなく早い者勝ちというのが常識みたいだからです。今年クローズした西麻布「新世界」なんかパイプの丸椅子でしたからね。白崎映美&白ばらボーイズは人気があるので、次第に詰め詰めとなって、えっそんなところに椅子があったかなとなることもありました。

 

 ところが店でスタッフに訊いてみると、入口前で並ぶ必要はなく、開場の時にチケット裏に書かれた番号順に入場するシステムだそうです。ボクのチケットは3でしたから、特に早く行かなくても良かったわけです。オッサンには指定席のほうが安心なんですけどね。

 

 前述した「新世界」と違って、小さな背もたれのある席が整列しており、何と2階席もありました。とはいっても舞台が地下2階なので、受付などがある地下1階の空きスペースに椅子があるという感じです。

 

 これから出かける皆さんのために情景描写を少しばかり。あ、店の名前を紹介しておくのを忘れていました。マンダラ系列の「スターパインズカフェ」です。

 

 さて、いよいよ幕はないけど幕開きです。白崎さんは相変わらず元気で、サービス精神も豊かでした。愛嬌のある感情たっぷりの表現でいつものナンバーを聴かせてくれたほか、白ばらボーイズのマンネリ気味なジャグリングも楽しませてくれましたが、その夜のボクにはなぜだか『月夜のらくだは泣いてるだろか』がとりわけ深く心に刺さりました。彼女の作詞作曲で2005年に上々颱風としてリリースされていますが、それまではあんまり好きとはいえなかったんですけどね。マイナーともメジャーともいえない不思議な音階の旋律が盛り上がっていくうちに、理由もなく涙が出そうになったのです。

 

 そのステージの途中でデュエットとして一曲だけ加わったのが、冒頭で紹介した山田晃士です。白崎さんなら山田さんでしょうが、この段階ではよく知らないミュージシャンですから、芸能人なみに敬称略ってことで。前説を聞いてみると、今夜はそもそも彼が主体で、2年前のコンサートで白崎さんに呼ばれたお返しみたいなことらしい。

 

 それにしても、これまで見たことがない異形のボーカルです。白崎さんと比べると、背も高いけど顔が異様に大きいことがよく分かります。しかも瞼から眉にかけてベッタリと黒に近い青色のメイクだもんなぁ。赤ん坊が見たら絶対に泣き出します。声もまた大きくて、この会場ならマイクなんか不要じゃないかと思うくらい。白崎さんとの対比があまりにもアンバランスで遠近感を失ってしまい、笑いをこらえることができませんでした。

 

 エンディングは例によってミュージカル『キャバレー』のテーマソング。映画版はライザ・ミネリ畢竟の傑作ですが、日本語の歌ならやっぱダントツで白崎映美&白ばらボーイズですよね。

 

 休憩を挟んで、次が「山田晃士&流浪の朝謡」のステージだったので、本気で帰ろうと思いました。あの顔を最後に見て帰ったら、夢見が悪くなるのは間違いなさそうでしたから。

 

 でも、せっかく吉祥寺まで来たんだからと腰を下ろして覚悟して聴いてみると、バンドがハンパでなくベラボーに上手なのです。特にスーツ姿のトランペットが秀逸で、アコーディオンもベースも相当な実力派というのはすぐに分かりました。リードギターもドラムスもそれに決して負けないハイレベル。ジャンルをうまく説明できないのですが、ジャズとロックとシャンソンをうまいこと掛け算したような感じで、実にノリのいいスピーディで迫力に満ちたサウンドなのです。

 

 それをバックにすると、彼の声量豊かなボーカルもぐんと精彩を放つから不思議です。曲名はまったく分かりませんが、こんなボーカルとバンドもいるのかぁとすっかり感動させられました。調べてみると、やはりCDもリリースしているようです。

 

 これで前売り3600円+1ドリンク別途の義務ですから、まさにコスパよすぎじゃないですか。

 

 ただ、トークはちょっと変態気味で、いきなり官能小説用語表現辞典からオノマトペ(擬音)のピックアップですから、白崎さんのファンは思いっきり引いたようです。ボクに同行してくれた知人(女性)は、彼の尻の2つの山がくっきり浮き出たソフトな生地のスラックスが気になって仕方なかったそうです。

 変態と毒をラメのようにまぶした石井竜也って感じなのかな。とにかく個性的で、悪魔的な魅力を感じさせるユニークなボーカルです。

 

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2016年11月16日 (水)

奥歯がカリッと(前)

 

 真夏の頃から絶賛マイブームを爆進してきた井村屋のあずきバーを食べていたら、奥歯がカリッとイヤーな感じで音を立てました。

 

 このブログは、本人および関係者の生活が特定されないためと、他人が喜んでいる話なんて読みたくねぇという大多数の野次馬の心境を深く考慮して、プライベートな事象は極力避けてきました。

 けれども、TBSテレビ『爆報! THEフライデー』や女性週刊誌が象徴するように、他人の不幸は皆さんの大好物のようなので、これは紹介してもいいかなと。

 

 でね、あずきバーに話は戻りますが、「あずき」という名前のクセに実に硬いのであります。アイスはタラタラのベタベタよりハードボイルド、じゃなかったハードフリージングのほうが好きですが、それでも食べ始めはまるでレンガをかじる感覚といっても過言ではありません。

 ボクの口内の右部分は欠損があって今週末に治療予定なので、左側の犬歯でアイスの角を攻撃し、ホロリと崩れた破片を同じく左の奥歯でかむというのが確立された習慣なのですが、一昨日の夜はアイスを砕くような柔らかな音色ではなく、「カリッ」と乾いた音がしました。すぐにアイスより硬いものを口内で感知。ペッと吐き出したら、仮歯の破片だったのです。

 

 ボクの左下の奥歯は4本くらいがブリッジでつながった義歯になっています。今のところはプラスチックの仮歯なのですが、それがアイスを噛む圧力で欠けてしまってしまったらしい。これはあずきバーや歯科医のせいというより、支えの少ない長い橋が強度に乏しくなるのと同じで、弱いところに亀裂が走ったようです。

 

 その翌日、つまり昨日の夜は(ややこしいね、どうも)、吉祥寺のライブハウスで待望の白崎映美ちゃんと白ばらボーイズのコンサートがあるので(このブログは実はそれが本当のテーマです)、歯が欠けたままでは面白くない。

 

 そこで翌日朝に歯科医院に連絡して、開業早々に診てもらいました。この歯科医院というのがちょっと変わっていて、診察台から見えるディスプレイで、いつもジャニーズ系タレントのコンサートを流しているのです。渋谷という場所柄なのか、それとも女性スタッフや患者の好みなのかは知りませんが、その日は外国人の坊やが5人ほどマイクを握り、客席も似たような年齢の女性がワァワァキャーキャーやっているらしい。もちろん音は聞こえませんが、思春期の子供たちがやることは世界共通です。

 

 でもって最後にテロップが流れて初めて、若い人なら誰でも知っている英国系のボーイズ・バンドあることが分かりましたが、ボクは名前くらいしか知らない。そこで「ああ、こいつらか」と。

 

 実際にサウンドを聴かなくても映像だけでたいていの想像はつきます。やや中性的なハイトーンの歌声で、ハーモニーは難しいので少なめにしておき、限られた音程のユニゾンベースに各人のソロを組み合わせてクライマックスに盛り上げていく。青い目と白い肌のハンサムな若い男を集めれば、よほどヘタクソな音楽でない限り成功するんじゃないかな。「キミは彼を見ているけど、ボクはキミを見ている」とか何とか、ありきたりな歌詞で十分といったら言いすぎかな。

 

 こういう思春期向けの楽曲は、そんな年齢をとっくに過ぎたオッサンには思いっ切り食い足りない。にもかかわらず、メジャーで成功するのはこういうパターンが少なくないんだよな。特に最近は、他の人は知りませんが、ボクを満足・納得・感動させてくれる歌手が表に出てこなくなりました。

 

 というわけで、お待たせしました。昨晩の「しつこい男ときっぷのいい女」と題された、「白崎映美&白ばらボーイズ/山田晃士&流浪の朝謡」の感想ですが、前置きがあまりにも長くなり過ぎたので、明日に続けます。山田晃士という歌手をボクは知らないのでまったく期待していなかったのですが、これがなかなかの掘り出し「者」だったんですよね。

 

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2016年11月15日 (火)

謙虚

 

 今の世の中、何が決定的に足りないかといえば、謙虚であり、次に節度であり、3番目に他者に対する尊敬ではないでしょうか。

 

 どの言葉も、自分を過大に評価していないことが特徴であり、だからこそ他者にへりくだって謙譲し尊敬し、相互の関係性を重視しているといえるわけです。ボクの子供の頃は親なんかから似たようなことを口を酸っぱくするほど言われましたが、現代ではむしろ「唯我独尊」意識のほうが強くなってきたようです。

 

 というのも、ある就活生から「根拠のない自信」という言葉を聞いたことがあるからです。自分に対する元気付け勇気付けの意味で、むしろ自信がないことの逆証明だと思いますが、この文言だけを客観的に聞けば、何という不遜で傲慢な野郎だと感じますよね。

 

 だって、そんなにも自信満々であるなら、勉強や準備なんてする必要がなくなってしまいます。大学でも会社でも「教えてくれるっていうんだから、ちょっとばかり教えられてやるか」って態度ですよね。そんな奴は学校にも会社にも来なくていいとなりませんか。

 

 民主主義における過剰な個性教育の弊害、なんてところまで指摘するつもりはありませんが、他者や世界に対する尊敬がちょっと足りなくなっていることは事実のような気がします。お前ってそんなにも偉いのかよってね。そう言いたくなるジーサンバーサンも普通にいますが、そんなことでは誰も有益なことを教えてくれませんぜ。それどころか、自分の生命に関する尊厳までもが間接的に失われていくことに気づかなきゃいかんでしょう。すでにそれは社会全体で始まっているんですけどね。

 

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2016年11月14日 (月)

背中

 

 気にし過ぎといえばそうかもしれませんが、最近は背中が気になって仕方ありません。

 

 背骨が痛いとか肩が凝るといった肉体的疾患ではないので、「後ろ姿」というべきかな。ジャケットはともかく、スーツなんかを着た時に、最近は後ろからどう見えているのかと考えるようになりました。

 

 だってね、ネットでは「スーツは背中が勝負」とか「後ろ姿が大切」などと頻繁に書いてあるではありませんか。ファッションに素人のボクは、クルマの運転だってバックミラーに注意しろと教習所で教えられたのだから、「そうか背中か。後ろ姿もチェックしなきゃいけないんだな」と素直に信じますよね。

 

 そこで自分の後ろ姿を見ようとするのですが、これがね、容易なことではないのです。少なくとも鏡が2枚必要ですもんね。そもそも自分の顔が期待から大幅に外れており、まったく希望通りではないことから、鏡を見るのが大嫌いだったので、そんなもん洗面所にしかありませんでした。50歳を過ぎてから姿見をプレゼントされて、初めて自分の体形の全貌をまじまじと見たくらいです。

 

 それで、何とか背中を見ようとするのですが、あり合わせの小さな手鏡を使っても、どうしても身体をねじ曲げることになるので、普通ではない状態になってしまいます。みなさんはどうやって自分の後ろ姿をチェックしているのでしょうか。まぁね、気にしなきゃしないでも生きてはいけるし、ボクも何十年間をそうやって過ごしてきましたから。

 

 ちなみに、ネットではどうなんだろうと検索してみました。これがまた、実にワハハハでございまして、いかなるファッション関係のサイトでも、背中や後ろ姿の画像なんて極めて僅かなのです。ボクの調べ方が悪いのかも知れませんが、あのピンタレストですら出現率はコンマ以下のパーセンテージです。

 

 スーツは背中だ後ろ姿だと文章では言っても、まともな画像はほとんどありません。やっぱネットというのは、言い方は悪いかもしれませんが、素人のコピペ・メディアであって、誰かが言った分かったふうなことが複写されて拡散しているだけなんですよね。異なった視点や深掘りした情報蓄積がほとんどないのです。

 

 だから前方から撮影した、ありきたりの写真ばかりが並ぶことになるわけで、そんなネットのどこがニューメディアなのでしょうか。

 むしろ、オールドメディアである紙媒体のほうがよほど工夫しており、だからこそ有料なのですが、衆知のように目下の形勢はとても不利です。前述してきたようなネットの不備をもっと指摘すべきではないでしょうか。これまでネット万能論みたいなことが言われ過ぎてきたのであって、クラウドにしても絶対に限界があります。「3人寄れば文殊の知恵」と言われても、3人ともが同じ意見や感想だったら「文殊の知恵」にはならないからです。特に日本固有の強烈な同調圧力は単純な二元論しか生まないので、いよいよネット過信はあかんよな、と再認識した次第です。みなさん、そのあたりを本当に分かっているのかなぁ。

 

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2016年11月11日 (金)

希望的観測

 

 痛快って、文字面だけ見ると「痛痒い」って意味のほうが近くないかなぁ。あー痒いかゆい、だからひっかく。その瞬間はたまらない快感だけど、じきに皮膚が破れた刺激が痛みにかわっていく。だから「痛快」って、ちゃんと意味が通っているじゃないですか。

 

 しかしながら、辞書では「胸がすくようで、非常に気持がよいこと」ですって。だったらなんで「痛」なんて字がくっついているんだよおぉぉぉ。

 

 それはともかく、トランプです。あれだけいろいろな中傷誹謗を受けていた人が、とはいっても彼自身がメキシコ移民や女性をさんざん中傷誹謗していましたが、そんな人物が僅差とはいえ当選したのは、「痛快」ではありませんか。

 

 なぜかといえば、メディアの論調は当初から「泡沫候補」「キワモノ」「トリックスター」「暴言王」と言いたい放題だったからです。日本だってそれに乗じて「こんな奴が大統領になったらアメリカは終わり」などと評価はさんざんでした。こうした批評を繰り返した評論家の皆さんは反省するどころか、すっかり忘れて早々と立場をすり替えているでしょうね。かのバブル全盛の頃も、崩壊の見通しを誤った経済評論家はいくらでもいましたから。

 

 先のことなんて誰にも分からないので、それはそれでムベなるかなってことですが、きちんと見据えるべきことは、アメリカの大手メディアも結局は東部エスタブリッシュメントの一員に過ぎなかったということです。大金持ちの子弟がハーバードやプリンストンなどの名門私立大学を卒業して弁護士となり政治家へ。あるいは銀行家や会社経営者の見習いや、メディアにも入社するでしょう。そうして蓄積されてきた上流の人脈は、巧みなダブルスタンダードが常識ですから、トランプみたいな偏見や暴言は心で思っていても公言しないはずです。

 

 だからといって彼らが慈善事業家であるわけがなく、貧富の差はますます甚だしくなってきました。大昔にボクは「プアホワイト」という言葉を聞いて驚きましたが、もはや珍しくないですもんね、きっと。

 

 けれども、こうした状態をエスタブリッシュメントはひっくり返したくはないわけですな。ちょっとは改善すべきだと考えてはいても、極端なことはしたくない。なぜなら自分たちの立場を危うくするからです。

 トランプだって不動産王なので富豪であることに変わりはないけど、ちょっと言動や発想がラジカルすぎて、世界の支配層から反発を招きかねない。その前に、いかにも頭の悪そうな派手な言い方をやめろよ、とかね。

 

 早い話が、アメリカが維持してきたタテマエに巧みに隠されたホンネを白日のもとにさらしてしまうのは、エスタブリッシュメントにとって都合が大変によろしくない。何事もデリケートに穏便に変化させていきたい人たちにとっては、トランプなんて論外な奴なのです。それよりも「そろそろ初の女性大統領でしょ、時代的には」と考えてきた人たちが、彼をボロクソに叩き、それが日本にも流れてきたってことでしょう。

 

 ここで大切なことは、アメリカの大手メディアは決して予想を外したわけではなく、「分裂した」とされるアメリカの下層を見ていなかったということじゃないかな。もっと極端な結論を言ってしまえば、アメリカの上層をなす人たちの希望的観測を「予測」として解説しただけに過ぎなかったのではないか。

 

 つまり、メディアもエスタブリッシュメントを支える構成員だったということが図らずも露呈されてしまった選挙だったと思うのです。そんな彼らの願望や期待を裏切った選挙結果は「痛快」ではあるけど、ボク自身も今の段階では彼が大統領にふさわしい人物とはとても思えません。あの横山ノックだって大阪府知事選で大量得票しましたから。

 ということで、やっぱ「痛痒い」というほうが近いのかな。それがボクの偽らざる感想です。

 

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2016年11月10日 (木)

時計

 

時計よ おまえに

心あるならば

二度とないこの時を

過ぎないでおくれ

 

 1970年代に『アドロ』『サバの女王』などのヒット曲を連発したアルゼンチン出身の歌手、グラシェラ・スサーナによる『時計』のリフレインです。

 外国人らしい骨太な感じの声量豊かな女性なので、サビの部分では亡くなった尾崎紀世彦を思わせるような伸びと迫力があります。そんな彼女が、小さな声で秘かに囁くように「私たちのために、時計をとめて」(作曲:R.Cantoral訳詞:かもまさる)とロマンティックに始める歌です。やっぱ大人の歌は抑えめな「引き算」がなきゃダメですよね。

 

 そこからどんどん歌は盛り上がっていき、やがて冒頭のリフレインがクライマックスとなって、朗々と歌声を響かせることになります。そんなわけで、つきあい始めた頃の恋人たちは、自分たちの逢瀬がひとときでも長く続くように、「時間をとめて」と願わずにいられようか、いやいられない、となるのが普通です。

 

 けれども、それは「時計」の機能や守備範囲ではありませんよね。よしんば時計の針を止めたところで、時間が止まるはずがない。そんなことは全知全能とされる神様の領域なので、せいぜい教会や神社仏閣でお祈りするしかないでしょう。

 

 であるなら、時計は何のためにあるのでしょうか。

 

 ボクは腕時計も専門分野にしているので、常に時計の意味を考えてきましたが、多くの人が使い方を間違えているんじゃないかと思うのです。

 電車の発車時刻や飛行機の搭乗締め切りなどに遅れないために時計を見ると考えていませんか。ならば秒単位で正確であるべきです。だからこそ高精度のクォーツから、標準時刻電波を定期的に受信して修正する電波時計、さらには衛星電波受信という進化・発展も納得できます。これらの時計なら時報に秒針がピタリと一致する快感も得られるでしょう。

 

 にもかかわらず、高級時計とされる分野はゼンマイと歯車仕掛けの機械式がほとんどなのです。これがね、なかなか不思議な現象だと思いませんか。その理由を分析するとキリがなくなるので、時間の使い方に関する結論だけをお伝えしましょう。

 

 時計というのは、閉まりかけた電車のドアに走って飛び込んだり、息せき切ってタイムカードをギリギリの時間に押すためにあるわけではないと思うのです。もちろん、そうした使い方も個人の勝手というものですが、そんなことのために腕時計を見るなんて、それこそ「時間がもったいない」ではありませんか。

 

 ボクは、時計というのは時間を使いこなすために存在すると考えています。つまり「遅れない」ではなく、「間に合わせる」ためでもなく「慌てること」ことでもなく、むしろ「余裕を知る」ためにあるのではないでしょうか。

 

 仮に9時出社なら、ギリギリの5分前に駆け込むためでなく、1530分前に到着する。そうした余裕の時間を読むことが時計本来の機能だと思うのです。だからこそ秒針のない時分針だけの時計もあるわけですよ。

 厳密に1分1秒を争うような仕事は、技術革新が進展する現代だってそうそうありませんよ。にもかかわらず、自分を自らそうした状況に追い込んでしまうと、時計の意味がまるで変わってくるのです。

 

 もっと簡単にいえば「あと5分しかない」と焦るためではなく、「まだ15分もある」と知るために時計は存在するんじゃないかな。

 

 そのあたりを誤解している人が少なくないような気がするのです。

 

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2016年11月 7日 (月)

仕事の評価

 

 仕事には定量的と定性的という2つの評価方法があります。

 いきなり小難しい表現で恐縮ですが、要するに「量」と「質」ということです。たまには頭良く見せたいので言葉をちょっと粉飾してしまいました。

 

 でね、ニッポンの人たちの仕事は、この2つが経営者に大変に都合良く、あるいは恣意的に混在させられているような気がするのです。

 

 たとえばボクの仕事は基本的に「原稿書き」でございまして、大昔は400字詰め、またはペラと呼ばれる200字詰めの原稿用紙が計算の単位となっていました。つまり400字詰め、200字詰めの原稿用紙1枚あたりでいくらということです。これは日本に限らず、アメリカでも「1文字あたり」という原稿料計算があると聞いたことがあります。

 

 これは純粋に文字の「量」に対する評価であって、内容に関する評価ではまったくありません。つまり「定性的」または「質」に対する評価ではないわけです。

 もちろん作家やライターによって単位価格は異なるでしょうが、人間は機械ではないので、時には駄作だってあるはずです。それを一律で「400字詰め原稿用紙で1枚いくら」という評価にしてしまうと、そうした質の変動は反映されにくいですよね。

 

 これは一般的な仕事も同様ですが、話はもっとややこしくなってきます。たとえば月の残業が20時間あるとすれば、それに伴う仕事量が誰でも同じとはいえません。ある人はたとえば重さで20㎏に換算できる仕事をこなすのに、ある人は私語のオシャベリが多くて5㎏程度に過ぎないなんてことはザラにありますよね。

 さらに、その質を言うなら、ある人は数千万円単位の契約に必要な資料をまとめているのに対して、ある人は自分の精算伝票整理に過ぎないということだってあり得ます。

 

 ボクのようなライター稼業では、200字程度の短い原稿が何十本もあるというカタログ的な仕事もあります。これを200字×30本=6000字だから原稿料は400字で15枚分と定量的に計算されると大変に困ったことになります。同じ原稿用紙15枚分でも、たとえば3本×5枚と30本×0.5枚では質的に大違いだからです。

 

 原稿を「1本」書く時には、構成や論理展開、さらには興味を惹くようなイントロダクションから、万人が納得できる結論または余韻あるエンディングが必要になります。結果として必ずしも狙ったようになっていなくても、原稿の長短に限らず、1本1本に同じ努力というか同質の思考作業が必要になるわけですね。

 つまり、原稿の文字数よりも、3本と30本という違いのほうに注目しないと、作業の本質的な価値は評価できないのです。

 

 これは理屈というより、自分自身でやってみないと実感できないでしょうね。また、同じ1本にしても、たとえば出張の記録・精算書と視察報告を比べれば、費やす思考労力は相当に違うじゃないですか。地方議員の中には資料をコピペして出す人もいるそうですけどね。

 

 幸いにも、出版業界ではこうしたことが理解されるようになり、かなり以前から原稿の文字量にかかわらず1ページあたりでいくらとか、質的な評価も伴うようになってきました。

 であるなら、会社の仕事も同じように判定できるはずなので、その評価基準をもっと多様化していかないと、政府が推進しようとしている「働き方の多様化」も無理なんじゃないかなぁ。

 

 仕事の評価基準が明解でなければ、結局は会社に何時間滞在していたかという、誰にも分かりやすい「量」重視になってしまうので、これまでのような残業の自慢大会に戻るだけじゃないかとボクは思うわけです。暴飲暴食による病気自慢なんてこともありますけどね。

 

 そのあたりを人事系コンサルタントの皆さんはどう考えているのかなぁ。仕事の質を正しく判断するのは大変に難しいことですが、それをやらない限り、現今の労働形態に変化はあり得ないんじゃないかとボクは思うのです。

 

 なお、明日、明後日と早朝からの取材が立て込んでいるので、このブログも2日ほど臨時休業させていただき、10日の木曜日から再開いたします。

 

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2016年11月 4日 (金)

『今はもうだれも』

 

 このブログを読んでいる人に只今進行中の該当者がいるかどうか分かりませんが、女性に手ひどく振られるとか、愛しているのに去られてしまった別離や失恋を慰める時に大変に効果的な歌があります。

 

今はもうだれも 愛したくないの

何もかもなくした 今の僕にできること

 

 ほらね、このきっぱりした「居直り感」が素敵じゃありませんか。アリスの『今はもうだれも』です。

 20代初めに、いろいろあった彼女に突然のように置き去りにされたボクも、何度この歌を聴いたことか。「もう愛せない」じゃなくて、「愛したくない」という圧倒的な意志を伴った主体性がポイントです。

 オレはよぅ、事情があって、しばらく女を愛さないことにした、そこんとこよろしこ、という感じでしょうか。振られたクセに、それを自分のせいだとうじうじ悔やんでいないところに大いなる救いがあるのです。

 

愛されたくて みんな君に

僕の中に悲しみだけが たったひとつの

残りものなの

今はもうだれも愛したくないの

 

 キャバ嬢に入れ込んだ挙げ句に夜の闇に逃げられた時も似たような心境になると思うのですが(あくまで想像です)、演歌の失恋では嘆き悲しむ未練がほとんどなので、こうした積極的なアプローチの歌は日本ではちょっと珍しいように思います。

 

 僕が聴いたのは1975年9月にリリースされたアリスのシングル盤で、彼らにとって初めてのヒットになりました。アリスはもともとフォークソングでもないし、かといってロックでも演歌でもなく、当時は立ち位置が実に微妙なバンドでした。それが、この曲で新しいポップスの担い手というイメージに着地できたとボクは理解しています。

 

 ところが、調べてみると、この曲はカヴァーなんですよね。オリジナルはウッディ・ウーというグループで、6年ほど前の1969年に発売され、オリコン66位を記録したというのですから、そこそこのヒットだったのです。作詞作曲はリーダーだった佐竹俊郎氏(1947~2003年)。後にネイルアートの材料製造会社を起業して成功させた、音楽業界では変わり種です。

 

 そこでウッディ・ウーのオリジナルを聴いてみましたが、アレンジも歌い方もほとんど変わっていません。ただし、アリス盤ではテンポがかなり早く、パーカッションも派手派手の全部盛りになっています。彼らがどうして『今はもうだれも』に目を付けたかは分かりませんが、そのヒットを受けて75年10月には『オリジナル本命盤』が再リリースされたそうです。

 

 ただ、この当時からアリスの谷村新司は仕掛けが上手だったらしく、B面に自分が作詞作曲した『明日への賛歌』を載せているんですよね。

 

明日から私は1人じゃないの

短く苦しい人生だって

あなたとならば悔やみはしない

アーアー アーアーアー

 

 A面では「もう誰も愛さない」と言っておきながら、B面では一転してこの幸せそうなリフレイン。人生もレコードをひっくり返すようにリスタートできればいいですけど(自分ながらうまいね!)、血を吐くような悲しみを心の奥に抱えた男が、そう簡単に別の女を愛せるかよって。

 

 どちらの歌もシャンソンに比べると底の浅さが否めない歌詞ですが、それでも派手なパーカッションでテンポアップした失恋歌並びに得恋歌()は、当時のボクに元気を与えてくれました。人生は死なない限り続いていき、人はどうしたって変わらざるを得ない。そこまで視野に入れたカップリングだとしたら、谷村新司はやはりタダ者ではなかったってことでしょう。

 

 でもねぇ、ボク自身はレコード盤をA面からB面にきちんとひっくり返すことができたのだろうかと、いつも懐疑的になるんですよね。

 

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2016年11月 2日 (水)

礼節

 

 あくまでもおそらく、きっとそうだったんじゃないかなという想像、推測や憶測または思い込みですけど、はるかな昔から営々と積み重ねられてきた日本の美徳というものを、仮に虚構だったにせよ、それが崩壊していく始まりとなったのはチューインガムの一噛みだったのではないでしょうか。

 

 だってね、日本が戦争に敗北してアメリカが進駐軍として乗り込んでくるまで、チューインガムをくちゃくちゃ噛むなんていう習慣はありませんでした。念のために言っておくと、チューインガムが悪いというのではありませんよ。キシリトール入りなら虫歯予防にもなるみたいですから。人前で口を開けて、あたかも音が聞こえるように噛むという行為が礼儀知らずだということです。

 

 アメリカでは野球選手なんか噛みタバコも平気でペッと吐き出したりするらしいので、礼儀知らずという感覚も文化によって違いますから、より正しく言えば、日本の「礼節」感覚が敗戦後に流れ込んできたアメリカ文化に蹂躙されたということになりそうです。

 

 でも、そんなのは客観を装った他人事の文化論であって、親から子、子から孫といった形で長く蓄積されて肉体化した「礼節」は、それを無視した行為を生理的に不愉快に感じさせるのです。

 

 カメラ機能付きケータイか、はたまた電話もできるカメラなのか、どっちが主体かよく分かりませんが、被写体(と周囲も含めて)にいかなる配慮もしないでカシャカシャ撮る行為を見るのは、個人の自由をしっかりと感じられて気持ちいいですかねぇ。自撮り棒に至っては、使っている人間が猿のように見えてボクには笑止千万なんですけど。

 

 こうした一事がおよそ万事であって、今さら「礼節」なんて古くさい言葉を持ちださなきゃいけないことに深い悲しみを感じます。でもねぇ、電車の中で化粧をすることに賛否両論がある時代ですから、もはや「恥を知れよ」なんていっても通じないんだよな。

 

 1970年11月25日、作家の三島由紀夫は私兵組織「楯の会」の隊員4名を率いて自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室に籠城。バルコニーで演説した後に割腹自殺しました。それを報じた新聞夕刊の衝撃的な写真を今でも覚えています。それ以来、彼の自殺は長くボクの中で謎として残っていました。巷間言われた「きっと頭がおかしくなったんだろう」という無礼かつ無情な解釈ではとても理解できなかったからです。『憂国』などの作品から右翼的に解釈する人もいましたが、戦後の民主主義全盛の中でクーデター決起を呼びかけるなんて、ドン・キホーテ以上の蛮行というより現実無視の笑い話じゃないですか。

 

 およそ作家というなら、そんなことは百も承知のはずなのに、なぜあのような衝撃的な事件を起こしたのでしょうか。その理由が、この年齢になっておぼろげながらでも何となく想像できるようになってきたのです。

 

「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な。抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

 

 事件に先立つ同年7月7日のサンケイ新聞に掲載された「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」と題された三島由紀夫の寄稿の抜粋です。ボクなんか足元にも及ばない頭脳と文章力を持った大作家の心情が分かるなんて大それたことは言いませんが、前述した「礼節」の喪失によって、日本の華麗な「美」を形成している大切な背景=本質も滅びつつあることに、彼の鋭敏な感性は耐えきれなかったのではないでしょうか。

 

 それをかつて「頭がおかしい」と評した人たちが生き残って拝金主義をますます進めてきたとするなら、いみじくも三島は没後を正しく予言していたことになります。嗚呼、覆水は盆に返らず。

 けれども、もはや日本は「経済的大国」ですらなくなってきたのですから、そろそろ本気で「礼節」に取り組まないと、いよいよ「日本」がなくなってしまうような気がしてならないのです。

 

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2016年11月 1日 (火)

なぜ横並びなの?

 

 給与が振り込まれる25日と、様々な支払いがある月末は銀行がものすごく混雑します。お昼頃にはATMに長い列ができ、窓口で順番を待つ人も少なくありません。

 

 いろいろな事情があるので仕方ない側面もあるとは思うのですが、どうしてみんな同じ時期に同じことをするのかなぁ。たった1日ズラすだけで、列に並ぶ必要はなくなり、銀行の待合ベンチで待たされることもなくなります。それだけムダな時間を浪費する必要がなくなるはずなのに、どういうわけだか長い年月にわたってみんなが同じ習慣を繰り返しているわけです。

 

 このブログで以前に書いたように、ボクは変わり者らしく、子供の頃からこういう「横並び」のようなことに反抗するタイプでした。特に「団結」だの「協調」といった言葉は、児童や生徒のためなんかでは決してなく、教師が統率する利便性のためだけにあると思っていましたもんね。だから時には先生に憎まれたかもしれません。

 

 社会人になってからも、ラッシュアワーの地下鉄で大喧嘩になりそうになったことが理由で、自主的早朝出勤に変更。席に座れて、喫茶店で朝食をゆっくりと食べ、さらに時間が余るので会社で新聞各紙を読んだりしていました。時間を惜しんでギリギリの時間に会社に駆け込むより、この早朝出勤のほうが圧倒的にストレスフリーで、トクすることも多いのに、なぜだかあんまり普及しません。

 

 独立してからは、ボクも含めた社員に給与を支払うのがどうして25日なのかと考えてきました。でね、ボクの結論は「無根拠な習慣」です。25日を24日にして何が不便になるでしょうか。たった1日ですから、中小や零細企業の取引規模で今のように低金利ならまったく関係ないといっていい。それよりも窓口で待たされるほうがロスでしょう。そんなわけで、ボクの事務所では20日から22日くらいを給料日にしています。

 

 そして、月末の支払日となるわけです。ボクもおカネは大好きですから、貰えるカネはできるだけ沢山で振り込みは早いほうがいい。けれども、支払いは少なく、振り込むのは遅ければ遅いほうがいい。そんなわけで、皆さんと同じくギリギリの月末まで延ばしていましたが、これだって1031日の支払いを30日にしたところで、何が違うでしょうか。手形などの約定日ってこともあるでしょうけど、現金化された即日にしか支払えないなんて綱渡りは、むしろ経営的に大問題といっていい。

 

 このあたりを、かのスティーブ・ジョブズは「経営と称されていることの多くは、無根拠な慣習に過ぎない」と喝破しています。だよねぇ。ボクは企業経営というのはクリエイティブの一種だと思っていますが、「こうするのが常識」が多すぎるように思うのです。人の思考や志向や嗜好が技術革新を背景に変わっていくとするなら、企業も変わっていかなきゃいけない。競争環境が厳しければなおさらです。にもかかわらず、どうもみんな「横並び」が好きなんだよなぁ。親子喧嘩で有名な某家具店なんかは、経営教育を受けたはずの娘より、オヤジのほうが創造的だとボクは思います。

 

 そんなことは別にしても、ハロウィンやクリスマスや正月やバレンタインデーといった、人が集まることで楽しくなることは別にして、そろそろ「横並び」を卒業すべきじゃないかな。それは大学新卒予定者の就活のように役人や経団連といった上のほうから指示されることではなく、むしろボクたち自身が懐疑的になり、おかしいことやヘンなことや非効率なことを自主的に変えていくという姿勢が重要だと思うのです。

 

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