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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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2016年12月

2016年12月29日 (木)

『スタンド・バイ・ミー』(後)

 

 昨日の歌謡大会の続きですが、すでに賞金を手に入れた気分で高揚していたボクに思いっ切り冷や水を浴びせたのが、ズン、チャ、ズズズンと響く、ベースの乾いた重低音でした。次の人が歌う曲のイントロですが、音楽好きなら即座に『スタンド・バイ・ミー』と分かったはずです。

 

 この歌謡大会に「選曲の部」があったら、それだけでボクは敗北でしょう。この曲に比べたら『ダイアナ』なんて小学校低学年の片想い。というのはあまりにも個人的な言い過ぎですが、メロディラインも編曲も、そして歌詞もまるで大人なのです。

 スティーヴン・キング原作の同名映画の主題歌として知った人も少なくないと思いますが、この映画が日本で公開されたのは1987年。歌謡大会はそれ以前の話なので、当時はかなりプロフェッショナルで渋い選曲だったのです。

 

 オリジナルは1961年にベン・E・キングが作詞・作曲して歌ったシングル盤で、黒人霊歌にインスパイアされたそうです。75年にはジョン・レノンがカヴァー。ボクはビートルズ世代ではありませんが、この曲は彼のヴァージョンを通して知りました。エレキギターがシャリシャリと刻む軽快なリズムとレノンのハイトーンな歌声によって独自の世界観が表現されています。

 それに対して、オリジナルは前述したようにベースの重低音を基調とした本格派のリズム&ブルース。人によって好みは違いますが、いざ自分が歌おうとするなら、ベン・E・キングのほうがはるかに難しい。歌詞と歌詞との間を埋める表現力が必要になるからです。

 

 それが分かっていたので、ボクはアップテンポで歌い通せる『ダイアナ』に逃げたのですが、まさかあの会社で『スタンド・バイ・ミー』を歌う人がいるとは思いもしませんでした。選曲は確かに負けたけど、これを上手に歌うのは無理だろうというのがボクに残された唯一の希望だったのですが、それもあっさりと覆されてしまいました。

 

When the night has come

And the land is dark

And the moon is the only light we’ll see

No, I won’t be afraid

No, I won’t be afraid

Just as long as you stand

Stand by me, so

 

Darling, darling

Stand by me,

Oh stand by me

Oh stand now, stand by me

Stand by me

 

 難しい単語も意味深なフレーズもなく、「夜がやってきて周囲が暗くなり、ボクたちが目にできる唯一の明かりが月だけになっても、ボクは怖れないよ。キミがそばにいてくれる限り」「だからいつもそばにいて欲しい」という願いを込めたシンプルな内容でも、これを英語でオリジナルのように歌うなんて素人には無理です。ところが彼は、押しつけがましい表情や仕種もなく、クセのない英語で実にナチュラルに歌いました。「歌は語れ、セリフは歌え」としばしば言われますが、そんなこと簡単にできるはずがない。けれども彼は、大切な話を誰かに打ち明けるかのように、静かに歌い始めたのです。

 

 彼は広告の営業部に属しており、ボクより10歳ほど年上の30代前半。後で聞いてみたら、学生時代はプロを目指したバンドを組んでおり、しかもボーカルだったそうです。「それ、早く言ってよ!」じゃないですか。

 

 そんな先輩に勝てるはずもなく、結果は彼がダントツのトップで、ボクは2位。自己採点では2〜3周遅れという印象です。それでも半額の賞金を貰いましたが、社会人をナメてはいけないという、良い経験になりました。

 

 というわけで、ジョン・レノンがあんなアレンジでカヴァーした心境も分かるんだよなぁ。ベン・E・キングのオリジナルを超えるのはどうしたって無理ですから、素直に自分なりに原曲をなぞるか、方向を変えるしかありません。

 その方向がね、友達の乏しいボクには見当もつかないのです。おかげで今も彷徨を続けているということになるのかな。

 

 なお、冬季休暇ということで、このブログも明日から来年1月3日までお休みさせていただきます。4日から仕事始めで更新する予定ですが、思い付いたことがあれば随時アップするので、たまにチェックしてみてください。

 

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2016年12月28日 (水)

『スタンド・バイ・ミー』(前)

 

 今から振り返れば途方もなくのどかで平和極まりない時代だったと思いますが、最初に入った会社は年末に歌謡大会を行っていました。希望者がカラオケで好きな曲を歌い、それを審査員が採点して上位入賞者に会社から賞金が授与されるという催事です。

 

 この会社は春と秋の年2回、律儀に社員旅行も実施。それで生まれて初めてタケノコ掘りを経験しましたが、ボクは生来こうした集団行動に馴染めず、というより会社というのは学校生活の延長なのかよと怒りすら感じました。朝から観光バスの中でビールをくらって昼過ぎにはすっかり出来上がり。夕方になったらムクムクと元気になって、上司や同僚と麻雀に興じたり、温泉地のストリップや酒場なんかに連れ立って出かけることが仕事の役に立つとは思えませんよね。

 

 歌謡大会にしても、まったく子供じみているので普通なら辞退するところですが、この時は賞金がボクにとっての強烈なインセンティヴになりました。おそらく当時の新入社員はみんな不満だったはずですが、学生時代のバイトのほうがよほど高収入だったんですよね。

 

 ボクは決して歌がうまいわけではありませんが、中学の頃からギターを弾いており、高校では短期間にしてもバンドを組んだこともあるので、この賞金を何とかせしめてやろうと考えたのです。

 歌そのものに自信のない奴が、みんなに拍手されて高得点を取るためにはどうしたらいいか。そっくりな歌真似もひとつの方法ですが、それで笑いを取ったり感心されるほどの芸はありません。であるなら、選曲で勝負するほかないじゃないですか。

 

 いろいろ調べてみて、ボクが十分に歌える音域で、それなりのサビを効かせられる歌として選んだのは、ポール・アンカの『ダイアナ』でした。年上の女性への恋心を歌っているので、年長者ばかりの審査員の共感を得やすいという下心もありました。いわゆるロカビリー時代のヒット曲であり、ほどほどの懐メロ感を伴ったオールディーズだったので、誰が歌うにしても、その曲自体をまた聴きたいという時期だったことも大きな理由です。仮に途中で失敗したところで、「オー、プリーズ、ステイ、バイ・ミー、ダイアナ」というクライマックスで挽回も可能じゃないですか。

 

 だからといって酒場のカラオケなんかで熱心に練習したわけではありません。ボクは同じことを繰り返すと急激に興味を失うタチなので、いきなり本番のほうがうまくやれるという自信があったからです。ただし、日本語で歌えばロカビリー・オリジナルの山下敬二郎と比較されてしまいます。それでは逆効果ですから、敢えて英語を選び、歌詞はイメージトレーニングも含めて完璧に覚えました。実際に歌ってみたのは1~2回くらいかな。

 

 さて、当日。ボクの番が来るまでに歌った参加者はまるで敵とは思えませんでした。声の調子も自分ながら絶好調だったせいか、『ダイアナ』を歌い終えた後の大反響も予想通り。これなら1位に違いないと確信しました。ところが、その直後にものすごい強敵が登場したのであります。

 

 またもや長くなったので、冬休みに入る時期ですが、この続きは明日ということで。

 

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2016年12月27日 (火)

引き算(続)

 

 昨日のぐるぐる巻きマフラーもそうですが、最近はゴテゴテのファッションがどうにも馴染めなくなってきました。地球環境並びに都市部はどんどん温暖化しているので、何も蓑虫みたいな格好をする必要はないと思うんだけどなぁ。

 

 いえね、これはあくまで個人的な感想であり、ボクごときがファッションを云々できる資格も専門知識もありません。ただ、もしもファッションが生き方を表現するものであるなら、年を取れば取るほど「足し算」でなく「引き算」を心がけるべきではないかと。

 実際問題として、いい年をしたオッサンが頑張って盛ったところで、誰も感心してくれませんよ。それよりも「すっきり」「さっぱり」のほうが好感を持たれやすいのではないでしょうか。

 

 この「引き算」理論については、以前にも2回ほどこのブログで開陳いたしました。それを再度要約しておくと、生まれたばかりの人間は丸裸で何も持っていません。それが成長していくうちに、知識や経験や財産や家族などが次第に「足し算」されていきます。ところが、子供が独立して家を出ることが象徴的ですが、ある時点から「足し算」でなく「引き算」のほうが目立つようになります。定年で退職すれば、仕事や取引先との付き合いも「引き算」されることになりますよね。

 

 ごく稀に、トランプ大統領のように「足し算」しまくりの人生に見える人もいますが、死んだら結局はみんなと一緒。無への回帰を誰も避けることはできません。カネや不動産を残せば親族は喜ぶでしょうが、それにこだわる欲求や執着は、若い頃は「足し算」の強力な原動力になっても、やはりある時点を超えてしまうと、大変に見苦しいものに変質してしまいます。

 

 それに逆らおうとする「あがき」も人間の業として理解すべきですが、ボク自身はきちんと覚悟して「引き算」を適切に実行することが、格好いい年の取り方ではないかと思うのです。その真逆が「ゴミ屋敷」でありまして、いくら本人が私有財産と強弁しようが、どんな思い出が込められているとしても、腐臭がプンプンする粗大ゴミの山なんて、その状態よりもむしろ、精神性を醜く感じませんか。

 

 それとファッションとは何の関係もないように見えるでしょうが、オッサン及びジーサンの格好は、流行を追うよりも必要最小限のほうが潔くて格好良いんじゃないかな。せいぜい許せる添加物は帽子くらい。そのほかは前述したように、色使いも含めて「すっきり」「さっぱり」、それに「清潔」が基本ではないでしょうか。

 

 かといって、ボクは年寄りが枯れるべきだとは思いません。実行するかどうかはまったく別問題として、恋する気持ちを失った人生ほどつまらないものはないじゃないですか。そのためにも、ほどよい「引き算」を意識したオシャレで格好よくなることを心がけたほうがいい。その上で何かワンポイントだけ、ナチュラルに志や個性を表現する「足し算」があれば、すごく目立ちますよね。

 

 これは男に限らず、女性にも同じことがいえるように思うのです。

 

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2016年12月26日 (月)

マフラー

 

 今年の冬は厚織りのマフラー姿がやたら目立つように感じます。大きくてカラフルなマフラーをややこしいぐるぐる巻きにしたおかげで、顔がぽっかりと浮かんでいるように見える人もいますが、あれで首まわりは重たくないのかなぁ。

 

 どんな格好をするのも個人の好き勝手ですから、それを批判する気はまったくありません。もとよりファッションというのは「みんながやっている」ことに支えられているからです。けれども、オシャレで感性の鋭敏な人たちは、ある程度普及した段階でその流行にさっさと見切りをつけて、別のことを考えているんじゃないかな。

 

 つまり、世の中には「みんながやっているからやる」という人と、「みんながやっているからやらない」という人の2種類がいるわけです。魚釣り禁止の岸壁で釣りをしたり、河川敷で危険なゴルフ練習をやったり、駐車禁止の路地に平気でクルマを停めるなどの迷惑行為をする人も共通して「みんながやっているから」という言い訳をしますけどね。

 

 まさかファッションがそれと同じ迷惑行為とは言いませんが、「みんながやっている」ことが弾みになったり、時には免罪符のようになることは共通していますよね。

 たとえばマフラーを率先してぐるぐる巻きにした人が「石焼き芋屋か、お前は」なんて嘲笑された時期があったと思うのです。ボクも大昔に赤いトレーナーとジーンズを履いたおかげで「2キロ先からもお前と分かる」と言われたことがあります。

赤は流行にならなかったにしても、マフラーぐるぐる巻きは「格好いいじゃん」と感じる人たちが真似をするようになり、それをテレビやファッション雑誌なんかが注目して特集するようになると、爆発的なトレンドになります。かくてマフラー姿を今では石焼き芋屋や夜鳴きソバ屋と誰も嗤わなくなり、こぞって「素敵!私もしてみたい」みたいなことになるわけです。

 

 人間というのは個人としての権利が法律で定められてはいますが、動物としては1つの種ですから、同じように行動するのは当然というだけでなく、太古の昔は身を守る術でもあったと思います。鋭利な牙を持つ捕食者のエサにならないためには、誰かがやってうまく逃げのぴることができた方法は積極的に真似したほうがいい。そんな理由から「みんながやっているからやる」というのは人類に共通した性向ではないでしょうか。

 

 ただし、そのためには「みんながやっているからやる」ことを敢えてやらない人が常に必要となります。凶暴な捕食者だって自分の生存がかかっているのでバカではありません。洞穴に隠れる人間が増加すれば、そこを狙えばいいと考えるようになります。そうした「みんながやっていること」に疑問や反撥を感じたのか、それとも飽きたせいか、とにかく危険を顧みずに洞穴から出て、木に昇ってみた奴もいたんじゃないかな。中には失敗して食われた人もいるでしょう。しかし、そうしたトライアル&エラー&サクセスの継承を繰り返して人類は存続できたとボクは考えています。

 

 であるなら、ですよ。「みんながやっているからやらない」と考える変わり者をもっとリスペクトして大切にしなきゃいけない。いじめたりハラスメントの対象にするなんてもってのほかなのです。

 

 その意味では、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会のテーマ「人類の進歩と調和」は秀逸というほかありません。「進歩」とは「みんながやっているからやらない」という変わり者たちの果敢なトライアルを意味しており、それを「みんながやっているからやる」という人たちが広めていくことが即ち「調和」だからです。

 

 そして、どうやら日本人は「みんながやっているからやる」という人の含有率がちょっとばかり高くて、「みんながやっているからやらない」人の割合がかなり低いのではないかとボクは判断していますが、果たしてどうなのでしょうか。

 

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2016年12月22日 (木)

ありがとうファースト

 

 皆さんは1日に「ありがとう」と何回言っていますか?

 

 滅多に言わないという人は、うつ病または認知症の疑いがあるので、お近くの病院の精神科または神経科などにご相談ください。というのは、あくまでも冗談ですから、このブログを最後まで読んでくださいね。

 

 近頃は愉快なことより不愉快なことのほうが多く、電車だって頻繁に止まったり遅延します。駅員はもはや慣れたものですが、おかげで対応がぞんざいになることがあって、それに激怒する乗客もいます。他人から叱られないと分からないのは大人として情けない話ですが、だからこそダメなことには断固として怒るべきだとボクは思ってきました。

 

 ただね、叱る・怒るというのはエネルギーをものすごく消耗します。さらに事後の精神状態も甚だしく悪化するんですよね。個人的な鬱憤晴らしやストレス解消で子供たちに過度な体罰を加える教員もいるようですが、そうではない大多数の人たちにとって、叱る・怒るというのは、叱られる・怒られるよりも苦痛なのです。にもかわらず「またジジーが切れやがってさ」とスルーされたら、その努力も即座も水の泡ですからね。

 

 そんなわけで、叱りたい、怒りたいことは多いけど、そうしたらこっちも気分が悪くなる。じゃどうすりゃいいんだと思いませんか。

 

 でね、日々を何とか気持ちよく、精神的に健やかに過ごすための方法をボクなりに考えてみました。

 

 それが「ありがとうファースト」でございます。

 

 2001年に公開されたアメリカ映画『ペイ・フォワード 可能性の王国』を覚えているでしょうか。恩返しの意味の「ペイ・バック」をひっくり返して、善意や思いやりを「先に贈る」ことを考えた子供の物語ですよね。そうすれば人から人へと善意が様々な形でどんどん増殖して世界は変わるのではないか。残念ながら映画の結末は悲劇的でしたが、これを応用すればいいんじゃないかと思ったわけです。

 

 1日の始まりの朝から、何はなくとも、誰にでも、とにかく「ありがとう」と言ってみる。コンビニで缶コーヒーとパンを買ったら「ありがとう」、キオスクでいつもの週刊誌を買っても「ありがとう」、エレベーターで誰かが扉を開けたまま待ってくれたらもちろん「ありがとう」、駅の自動改札にも「ありがとう」って、これは冗談ですけど、とにかく他人とかかわりを持ったら、にこやかに「ありがとう」と言うわけです。

 

 英語で「サンキュー」は気軽に言えても、日本語で「ありがとう」はなかなか言えません。この言葉は奇妙なことに立場の上下を含んでいるからですが、だったら若い人たちは「ありがとうございます」でいいじゃないですか。

 

 こうした「ありがとうファースト」「ありがとうございますファースト」が普及すれば、朝っぱらから皆さんの気分はぐっと良くなるので、ひょっとしたら世界だって変わるかもしれません。

 

 どうやら「ペイ・フォワード」運動は挫折したようですが、それに比べて「ありがとう」「ありがとうございます」を言うのはずっと簡単です。怒る・叱るから始めれば1日中が不愉快になりますが、「ありがとう」「ありがとうございます」と先に言えば、その後の精神状態も大きく変わってきます。「都民ファースト」や「アスリート・ファースト」も結構ですが、ボクたちは「ありがとうファースト」で行きましょうよ。

 

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2016年12月21日 (水)

ひと回り

 

 このところは11月並みの暖かさ、というか寒さらしいですが、来週からは本格的な冬の気候に逆戻りなんていわれています。

 

 であるなら、コートが欲しいなぁと。いえ、まともな防寒具がないというほど極貧ではありませんが、愛用しているコートがね、大昔に購入したものなのです。おそらく10年以上も前なので、ワタクシ、かなり物持ちの良いほうではないでしょうか。

 

 でね、このコートが、自慢ではありませんがカシミアでございまして、へへへへへへ、高級品、の「はず」なんだよなぁ。というのも、たまたま連れて行かれたバーゲンでエイヤッと衝動買いしたので、タグには「毛100%、カシミア」とちゃんと書いてはあるものの、出自が今ひとつ明らかではありません。「いったいどこのブランドだよ」って感じなんですよね。

 

 それでも、カシミアらしい、のではないかと感じさせる柔らかな肌触りで、ヒザ下までのロング丈なので大変に暖かいのです。それに飛行機の荷物棚に荒っぽく長時間放り込んでおいても驚くほどシワにならない。これはヘタすりゃ本物のカシミアかも知れないと思ってきたのですが、実は最近になって気づいた難点がひとつだけあります。

 

 大きいのです。近頃はテレビドラマ『下町ロケット』(TBS系)で吉川晃司が「パッツンパッツン」と評されるほどのスリーピースを着ていたように、タイトフィットがトレンドであり、昨年に公開された映画『007 スペクター』のダニエル・クレイグなんかも身体にぴったりのコートを着用しておりました。ところが、これにまったく逆行する「サイズ感」なのです。

 

 いかにもダブダブでトレンドを外した大仰なデザイン。こんなことはそれまで考えたこともなかったので、念のためサイズを調べてみました。もしかしてLLかXLだったのかなぁとコートをひっくり返して見てみると、何とMではありませんか。ちなみにボクの下着のシャツはLなので、まったく適正というか、サイズ表記としては小さいくらい。

 

 こんなのウソだろと思いながらも時は経過。しばらくして何気にテレビを見ていて、その理由がやっと分かりました。たまたまヒラリーの旦那であるクリントンが大統領だった頃の記録映像を見たのですが、肩が大きくはみ出たデカいコートを着ていたのです。彼の在任期間は1993~2001年なので、20年くらい前はオーバーサイズが普通だったと考えられます。してみると、ボクのコートはその当時の流行を反映していたわけですね。

 

 もっと面白いことに、ウェブをチェックしてみると、2016/17年秋冬のメンズのアウターは「XL」が注目されているらしいのです。まだまだ一般的なトレンドになっているとは思えませんが、来年あたりからみんなが競ってオーバーサイズのコートを着るようになるかもしれません。

 

 すると、ワッハッハッハなことに、流行は「ひと回り」して、ボクの大型コートも「オシャレ」と見直される可能性があります。デザインまで回帰するとは限りませんが、それまでもうちょっとの辛抱なので、当分は「親父のお下がり」という言い訳で着ていこうかな。それはそれで「いい話」に感じられるではありませんか。

 

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2016年12月20日 (火)

そこまでやるか!

 

 虫歯の治療はほぼ片付き、あとは仮歯をセラミックの人工歯に入れ替えるだけだろうと思っていたのですが、おっとどっこいで、大変な難工事が待っていました。

 

 以前から、歯周病で歯の隙間=ポケットが深いところが数か所あり、これを放置しておくと、いずれブリッジの土台が揺らぐことになるとは聞いていたんですよね。それでどうするかというと、歯茎をいったん切って剥がしたうえで、歯の根っ子あたりをこそいで病巣を取るという治療をしなきゃいけないというのです。

 

 これはもう完全な外科治療であって、ボクの知っている昔の歯科医院ではあり得ない、そこまでやるかという「手術」であります。それでも、いつもの治療よりは高価ではあっても、ちゃんと医療保険の対象になっているので、いわゆる標準的な治療のひとつらしい。というより、それをやらないと仮歯を本チャンに取り替えてくれないようなのです。もちろん、そのほうが永続性は高いに決まっていますが、ボクってば、そんな大工事をやったところで、これからいったい何年生きられるのかなぁと。

 

 とはいえ、歯科医と論争できるほどの専門知識はありませんから、これはもう委ねるほかありません。そんな気持ちで予定日を迎えたのですが、麻酔を打ちまくった後に、ゴリゴリ&ギシギシと削られ、ビュイーンと鋭いハイトーンで水も噴射する機械も使用。その途中でピクンと痛みを感じたので、麻酔もさらに盛大に増量してもらいました。

 口のあたりしか開口部のない布を被せられていたので、実は何をやったかは視認していません。むしろそんなものを自分の眼で見たくもありませんから、以上はあくまでもボクの想像に過ぎないので念のため。

 

 こりゃ麻酔が覚めたら痛そうだなと予想していたら、まさにその通りで、ヒリヒリとズキズキが強まってきました。そこで帰宅してすぐに、痛み止めのロキソニンをゴックンです。ボクは度外れた臆病者でございまして、何よりも痛みに弱いのです。若い頃のダスティン・ホフマンが主演した映画『マラソンマン』(1977年日本公開)みたいに、ナチ残党の歯科医が器具をテーブルに用意しただけで、あることはもちろん、ないことだって平気で白状しちゃいます。

 

 そんな大変な手術を経て今朝に至ったのですが、口内は気分爽快とはいえません。ただし、数年前と比べて、前歯も含めて、すべての歯を使ってものを噛めるようにはなったことは事実です。焼肉屋でもサンチュと一緒にカルビを口に入れて、普通に食べられるようになりました。QOLは確かに大幅に改善されたのですが、これまでにおよそ1年がかりって、やっぱ長いですかねぇ。

 

 それもこれも、本人の不健康な生活にすべての要因があるので、皆様も毎日の歯磨きなどを欠かさないよう、くれぐれもご注意ください。

 

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2016年12月19日 (月)

躊躇

 

 やっぱワープロは便利ですよね。読めるけど絶対に手書きできない漢字を使うことができますから。以前は例として「薔薇」を出していましたが、「躊躇」というのも最近は目立ちます。とはいっても、文章の中ではなく、心の中で頻発するようになったんですけどね。

 

 説明不要とは思いますが、「ためらう」ってことです。いろいろな人たちや様々な方面に配慮して、率直な意見の表明を控えることがやたらに多くなってきました。

 

 それにしても、この躊躇や薔薇という漢字を昔の人は本当に書いていたのかなぁ。書き順も分かりませんが、筆に墨汁でこんな画数の多い文字を書いたら、紙が真っ黒けのべちゃべちゃになりませんかねぇ。ものすごく細くて丈夫な筆か、大判のポスター並みに大きな紙でないと書き切れないと思うのですが、歴史的にはどうなのでしょう。年末お馴染みの「今年の漢字」だって、そんなに難しい字はないですぜ。今年の「金」だって墨がボタボタ垂れていたので、もしも同音の「謹」とか「禽」だったら大変じゃないかな。

 

 博物館などで著名人の手紙を見たこともありますが、達筆過ぎて読めないにしても、そんなに難しい漢字は使っていなかったように思います。ワープロがなければ、ボクだって「躊躇」をせいぜい「逡巡」あるいは「思い悩む」とか何とか別の言葉や表現を使ったでしょう。その意味では中国における漢字の簡略化は必然的な変化というべきなのかな。

 

 ちなみに、ボクの商売では、こうした「言い換え」が重要な能力の1つになっています。いろいろな局面がありますが、たとえば校正の際に1行とか2行あふれていて何とかしてくれという時に、意味が変わらない範囲での短縮化を迫られます。こんなことに時間をかけても原稿料にカウントされないので、「早い話がどうよ」という方向に言い換えますが、そんな場合には頭の中に類語が沢山あったほうがいいわけです。

 

 こうした作業がやたらに早い人を、ボクは「ロープぎわの魔術師」と呼んできました。かつてのプロレス用語で、ギリギリまで追い詰められてもヒラリと身をかわすことから、こう命名したのです。ボク自身も長年の経験から、処理は素早いほうだと思いますが、こんな能力は決して頭がいいというわけではありません。何をどう考えて、どのように表現するのかというオリジナリティ、あるいは個性または独創性こそが文章の本質ではないでしょうか。それを決められた文字数に収めるというのは、時には思考を狭めることにもなります。

 

 ところが学校の試験では、こうした枝葉末節的な処理能力を問われることが少なくありません。末尾だけを微妙に変えた4つの文章から正解を1つ選べなんていう入試問題もありました。機械的に採点できる短答式試験で問題を高度化=難題化しようとすれば、重箱の隅的な些末な出題にならざるを得ません。こんな試験で高得点を取っても、面白い文章は書けないと思いますよ。

 

 というようなことを書いてしまっていいのかと、今さら躊躇しても遅いんですけどね。そんなこんなで、実は本日も書き上げておきながら消去してしまった文章があります。

 たまにはリミット=自主規制を完全に解除して、好き勝手なことを書いてみたいなぁ。

 

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2016年12月16日 (金)

その後の四十七士

 

 元禄15年12月14日(1703年1月30日)に、赤穂浪士は主君の仇である吉良上野介の邸宅に討ち入りを敢行。みごとに本懐を遂げました。年末の風物詩という感じで、ちょっと前まではテレビドラマや映画になっていましたが、近頃はあまり流行らないみたいですね。

 

 この討ち入りに至るまでの赤穂浪士の動向は『忠臣蔵』の『義士銘々伝』として各人各様に物語が残されています。さらに、かの三波春夫は「『先生!』『おおっ、そば屋かぁ』」というセリフが印象的な『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』(作詞・北村桃児、作曲・長津義司)を1964年にシングル盤でリリースしています。


 俵星玄蕃は赤穂浪士ではありませんが、彼らが死を賭して貫こうとする武士道に胸を打たれて、助太刀しようと吉良邸に向かうところから始まります。

 

槍は錆びても この名は錆びぬ

男玄蕃の 心意気

赤穂浪士の かげとなり

尽くす誠は 槍一筋に

香る誉れの 元禄桜

 

 駆けつけた吉良の屋敷はまさに討ち入りの真っ最中。どさくさの中で、夜鳴きそば屋に変装して内偵を続けていた杉野十兵次次房から、「先生!」と声をかけられるわけですね。

 

姿そば屋に やつしてまでも

忍ぶ杉野よ せつなかろ

今宵名残に 見ておけよ

俵崩しの 極意のひと手

これがはなむけ 男の心

 

 大石内蔵助から志は感謝されますが、助太刀は固辞されたので、玄蕃は両国橋で吉良の援軍を阻止することにします。

 そんなストーリーをメリハリある早口のセリフで語り上げていきながら歌につなげるという、いわば和風の1人ミュージカルともいえる仕立てを「長編歌謡浪曲」として三波春夫が創案。作詞の北村桃児も三波春夫のペンネームです。

 

 YouTube にフルバージョンがアップされているので、ぜひ視聴していただきたいのですが、8分を超える長い曲ながらも、張りのある力強い歌声で次第に盛り上がっていき、滑舌明瞭な語り口によって、深夜に「サクッ、サクッ、サクッ」と雪を踏みしめて杉野が俵星のところにやってくる様子がまるで見えるように感じられます。

 三波春夫といえば「こんにちは、こんにちは、世界の国から」という万博の歌でお馴染みでしょうが、そんな好々爺みたいな柔和な歌は臨時のアルバイトみたいもので、この『俵星玄蕃』こそが真骨頂だろうとボクは思います。そういえば年末になると、この歌を口ずさむ奴がいたなぁ。

 

 さて、本題です。この俵星玄蕃は江戸時代の講釈師による創作といわれていますが、「四十七士」の討ち入り後について克明に紹介した映画やテレビは、不勉強ながら、あまり見たことがありません。吉良の首を槍先に掲げて(ちょっと残酷ではありますが)、主君の墓に向かうあたりで終わっていますよね。

 

 そこで、ちょいと調べてみると、翌年の1月20日に徳川綱吉は天下の大法を破ったことから、全員に切腹を申しつけています。ただし、寺坂吉右衛門は大石の指示で途中から泣く泣く離脱したので、腹を切ったのは四十七士でなく、四十六士です。

 このあたりを丁寧に解説したウェブサイトがあり、それによれば切腹の所要時間は1人5~6分程度。驚くほどの短時間なので、しばらく逡巡して腹に刀が刺さってからすぐに、スッパリと首を介錯されたのではないでしょうか。ともあれ46人が自殺を宣告され、直後に刑が執行されたのですから、大変に凄惨な結末というほかありません。現代ではかなり衝撃的なので、年末にそんなことまで詳しく描くわけにはいかないですよね。何しろ最年少は内蔵助の息子の大石主税で、弱冠16歳ですから。

 

 さらに、彼らの子供も罪を背負って流刑となりました。15歳までは執行が猶予されるのですが、それでも4人が伊豆大島に。同地で1人は病没。残り3人は僧侶になることを条件に戻ることが許されたようです。

 

 武器を使用した私怨による討ち入り=組織された集団による復讐は、小規模な軍事クーデターともいえるので、幕府としては甘い処分で済ますことはできません。まだ第5代に過ぎなかった綱吉が過酷な極刑を科したのは理解できます。かといって、そんなことを怖れていたら赤穂武士の名が廃るという心意気もよく分かるんだよなぁ。

 

 人間というのは何事かを為すために生まれてきた、というのがボクの信念なので、とにかく長生きすりゃいいってものでもありませんよね。けれども、離脱した寺坂吉右衛門の享年は83歳。どのように生きたかは知りませんが、彼も義に殉じたといえるのでしょうか。

 うーむ、知れば知るほどいろいろ考えさせられる、実は深い物語なのです。

 

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2016年12月15日 (木)

スーツ

 

 スーツは軍服がルーツと言われますが、あの格好で敵と戦っていたとはとても思えません。ライフルを撃つたびにネクタイは緩み、ボタンだって簡単に外れてしまう。そもそも、あんな窮屈な姿で突撃なんかできるはずがない。20世紀に勃発した2つの世界大戦の映像を見ても、戦場ではいわゆる工場の菜っ葉服に近い戦闘服で銃を構えています。現代でもアメリカの海兵隊は迷彩服で腕まくりですよね。

 

 ではスーツの起源とは何だったのでしょうか。ボクはファッション評論家ではないので詳しく調べていませんが、こうした戦闘現場で敵と直接的に命のやりとりをしない人たち、つまり指揮官や将兵たちの制服だったんじゃないかな。あるいは戦時でなく平時の制服ですよね。下士官クラスはシングルで、将軍になるとダブルブレステッド。これが現代ではサラリーマンの制服となり、社長など経営幹部の皆さんはボタンが2列のダブルで、若者がそれを着ると生意気だと顰蹙をかったりします。

 

 あれ? そうすると戦場で兵隊さんが着用してきた戦闘服はどこに行ったのでしょうか。ボクは工場などの製造現場で働く人たちの制服になったと思っています。エンジニアも含めて、前述した菜っ葉色やグレーなど汚れが目立たないカラーリングが一般的みたいですが、そのスタイルは戦前からほとんど変わっていないんじゃないかな。

 

 一方、スーツのほうはブリティッシュだのイタリアンだとのスタイルがいろいろあり、ゼニアいやロロピアーナだと生地にうるさい人もいます。それに流行も加わるので、ビジネスマンのオシャレは百家争鳴なわけです。

 エアコンの効いた社内で知恵を絞る内勤や幹部の皆さんはスーツにこだわることができても、くそ暑い夏の真っ昼間に、汗をだらだら流しながら取引先回りをしたり、セールスなどで外勤する人たちはそうはいきません。着ている服だけは指揮官に昇格しても、やっていることは兵隊さんと同じではありませんか。ボクは尊敬を込めて「兵隊さん」と呼ぶのですが、それでも現代の戦いではスーツを着なきゃいけない。

 

 もっぱら省エネの観点からノーネクタイのクールビズが定着しましたが、それでもスーツが外勤の営業系にふさわしい制服かといえば、決してそうは思えないのです。現場の兵隊さんにとってスーツはまさに戦闘服であり、日々着倒して消費することになるので、やたらにカネをかけても勿体ない。そんなわけで2~3万円でスーツが購入できるファッション量販店が増加。くたびれやすいズボンは2本つけますぜという販売方法も常識化しています。

 

 だったら、ですね。前述した工場の菜っ葉服や研究所の白衣なんかを含めて、亜熱帯になりつつある日本の現場仕事にふさわしいユニフォームを新しく創造するべきではないかと、ボクはかねがね思ってきました。

 動きやすくて機能的であるのはもちろんとして、個性を反映できる余地がきっちりあって、何よりもカッコいいこと。指揮官や将校がスーツから着替えたくなるほどオシャレでなきゃいけません。言下に「そんなの無理!」と言われそうですが、かつてジーンズはそこらのスーツ姿より格好良く感じられことで、爆発的に普及したんですぜ。それと同じような新しいスタイルの創造は絶対に可能だと思います。それをやろうとしないからできないだけでね。

 

 ファッションというのは定期的に循環しており、リーインカーネーション=転生を繰り返しているような気がします。しかしながら、そのサイクルから抜け出したファッションが奇跡的に誕生することがあるのです。それがココ・シャネル(1883〜1971年)であり、VANジャケットを倒産に追い込んだジーンズだったのではないでしょうか。

 であるなら、21世紀も20年近くを過ぎた今こそ、ファッションの慣例を破った新しいスタイルを生み出すべき時期ではないかと思うんですけどね。

 

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2016年12月14日 (水)

酒とストレス

 

 忘年会真っ盛りの時期になりました。ボクは数年前から体質が変わって酒をあまり飲めないので分かるようになったのですが、飲み過ぎほどカネと時間と体力の無駄遣いはないですよね。

 

 酒飲みに喧嘩を売っているのか、あるいはイソップの「すっぱい葡萄」じゃないかと揶揄されかねませんが、ならば深酒した時の記憶を明瞭に持っている人なんているでしょうか。

 自慢じゃありませんけど、これまでに普通の人の一生分くらいは飲みまくり、アルコール性肝炎で通院したこともあるので、自信を持って断言しますが、翌朝に覚えていることなんて飲み始めだけですよね。2軒目、3軒目のハシゴともなれば、何を話したのか、誰が支払いをしたのかさえ分からないことがあります。よくまぁ自宅までたどり着いたものだと我ながら感心することもあるくらい。そんな状態で建設的な討論なんて、絶対に無理です。

 

 では、人間はなぜ酒を飲むのか。よく言われるのは「ストレス解消」ですけど、そんなことで本当にストレスは解消されているのかなぁ。酩酊状態という霧の中をフラフラと歩き回ることで、悩み事や苦しい事を瞬間的に忘れるだけじゃないですか。ストレスが本当に解消されなければストレス解消にはならないのに、それを先延ばしする口実に過ぎないですよね。

 

 たとえばボクにとって日々の主要なストレスは締め切りですが、酒をいくら飲んでも解消されるはずがない。原稿をアップすることが本当のストレス解消なわけです。トラブルや問題を抱えている人も同様で、その原因を解決または解消するために、どうしても酒が必要になるなんてことはあり得ません。

 

 だからといって忘年会や酒を否定するのではなく、今でも一杯や二杯による軽い恍惚感は好きです。ただし、そこから先の深酒がどうにも無駄じゃないかと。時には怒りまくり、泣き上戸もいれば、やたらに笑いまくる人もいますが、これは感情の異常な暴発状態であって、それでストレス解消になるはずがない。この感覚が好きというのは、まさに病みつき、または酩酊依存というべきじゃないかな。

 

 若い頃は、もしも酒が飲めなくなったらこんなに悲しいことはないと本気で思っていました。でもね、そうなった今は絶望的かといえば、そんなことは決してありません。みんなと一緒に酩酊できないのは確かに残念ですが、仲良く酔ったからといって特別な友誼を交わせるわけでもなく、実はそれぞれ個別の酩酊界で孤独に遊んでいるだけではないでしょうか。

 

 それに、酒を飲むと不用意に本音や内緒話を吐露する人なんて、翌朝から信用されないですよね。とすれば、親睦を深める、あるいは飲みニケーションなんて、やっぱり酒を飲むための口実ということになります。「無礼講」という言葉を素直に信じるのは若い新人くらいでしょう。

 

 ありきたりの結論で恐縮ですが、ちょっとした酒と美味しい食事と、優れた音楽などのエンタティンメントさえあれば人生は十分に楽しくなります。気のおけない友人がそばにいればベストです。

 前後不覚に酔っ払う若者が激減したと嘆く中高年もいるようですが、ボクは少しも残念とは思えません。

 

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2016年12月13日 (火)

地球がもし1/100だったら

 

 事務所のマンション1階に設置されている集合郵便受けには、毎日毎日いろいろな投げ込みチラシが入っております。すぐ隣にゴミ箱があるので、住人の多くが即座にそのチラシを捨てています。1枚ものならまだしも、小冊子のような分厚いものもあるので、夕方にはゴミ箱がほぼ満杯。管理人がいない休日にはあふれかえって、床にこぼれ落ちていることも珍しくありません。

 

 そうした投げ込みを入れないよう警告した張り紙も貼られてはいますが、1枚入れてナンボで仕事をしている人たちに効き目があるはずもなく、リュックや大きな紙袋を持った若者や中高年が、監視カメラに背を向けてこそこそ、かつ素早くせっせとチラシを投げ込んでいきます。

 

 ったくもう、と思いながら、ボクも不要なチラシはゴミ箱行きですが、そうしたポスティング自体を責める気にはなりません。投げ込みチラシはマーケティング手法の1つであり、これを投げ込む人も雇用または仕事として収入を得ているわけですから。郵便受けはエントランス内部にあるので、厳密にいえば彼らは不法侵入または無断侵入となるでしょうが、まぁまぁそれはそれとして許しましょう。でもね、新聞の折り込みにしたほうが確実に家庭内に届くので効果的な気がするぞ。新聞を取っていない家も確かにあるけど。

 

 それに、今や電子化、インターネットのご時世ですぜ。ボクの事務所だけでなく、恵比寿界隈、いや渋谷区、東京都内までを考えると、膨大なチラシが印刷され、日々郵便受けからゴミ箱に直行して、どこかに捨てられていることになります。紙とインクの壮大な無駄というほかないじゃないですか。

 

 それでしばらく考え込んでしまったのですが、やはりボクたち人類は地球資源を大量に消費していると思うのです。リサイクル活動も普及してきたので、単純に消費一辺倒ではないにしても、こうしたことを繰り返していたら、さすがの地球資源も必ず枯渇するに決まっています。

 

 でね、思いついたのが「地球がもし100分の1の大きさだったら」という本です。えっ? もうバレちゃったかな。そうです、その通り。ネットのチェーンメールでジワジワと拡散し、これをまとめて2001年に刊行された『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス/C・ダグラス・ラミス、池田香代子)のアイデアをパクって変形したものであります。

 

 この本は、世界の人口を100人として、男女や経済状態などの比率を人数として縮小したものですが、人間ではなくて、その容器である地球のサイズを小さくしてみたらどうだろうかと思いついたのです。

 

 地球の半径は約6380km。これで計算すると、体積は約1兆870億立方キロメートルになるそうです。質量は5.972×1024乗キログラム。トンに直せば5.972×1021乗。って分かるかい、そんなもん!

 

 昔の物撮では隣にタバコなんかを置いてサイズを比較できるようにしましたが、さすがに地球となると月くらいしか比べるものがありません。そのサイズを100分の1にしたところで大した違いはないだろうと思いますよね。ところが、地球の人口は約73億人。もうすぐ74億人に達するでしょう。地球の表面積は約5.1億平方キロメートルですが、陸地は3割程度しかありません。ただし、高山や砂漠に居住するのは難しいので、まともな生活ができる陸地は1.3億平方キロメートル程度とされています。

 

 それでも「分かるかいっ!」という数字ですが、人口74億人として1人あたりに直すと、約0.018平方キロメートル。もっと分かりやすく換算すると、約1万8000平方メートルで、要するに5454坪程度。そこでようやく効力を発揮するのですが、もしも仮に、地球が100分の1の大きさなら……。

 すいません。算数はすっかり忘れたので、体積と表面積は同じように小さくならないとしても、取りあえず地球の表面積が100分の1だったとするならですよ、1人あたり54〜55坪程度。ちょっとした庭付き一戸建て程度の広さしかなくなります。かなり過密ですが、それでもなお人口が増えたら、ということを言いたいわけですね。

 

 資源についてはもっと簡単で、石油の埋蔵量などを100分の1にして、現在の消費量で割り算すれば、何年で枯渇するかを計算できます。同じように鉄やら金やプラチナなどの鉱物資源だけでなく、農地や森林などの広さによる生産性も計算できるではありませんか。

 

 幸いにボクたちは、その100倍の大きさの惑星に住んではいるけど、というストーリーなのですが、うーん、やっぱ分かりにくいかな。いきなり「埋蔵資源は何年たったらなくなる」という方向のほうが説得力はありますよね。

 

 いつもなら、ここで文章をデリートして、ゼロからやり直すのですが、たまにはボクの思考プロセスをお見せするということで、敢えてそのままアップすることにしました。こうしたしょうもないことを日々考えながら、朝起きたらトイレに行き、歯を磨き、顔を洗って、食事したりしているわけですね。

 

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2016年12月12日 (月)

日本語で言おうよ

 

 いろいろな留保や注釈が付きますが、ボクは今のところ現都知事のやり方や政策を支持しています。伏魔殿なる言葉がありますが、そう呼びたくなるような意思決定における闇があぶり出されただけでも大きな成果ですから、どこかの記者が言いかけてみごとに反論された「大山鳴動してネズミ一匹」なんてことは決してないと思います。

 

 それとは逆に、まったくいただけないのがカタカナの連発であります。適切な日本語がない外来語ならともかく、「ワイズ・スペンディング」なんて噴飯物ではありませんか。賢いカネの使い方=無駄遣いの廃止という意味なら、そう言えばいいのに。

 だいたいね、トニー谷の大昔から近年のルー大柴まで、ついでにクヒオ大佐もはさんで、会話で英語を頻繁に使う奴というのは、あくまで個人的な意見ですが、お笑い芸人か怪しい奴、あるいは信用ならざる詐欺話ではないでしょうか。日本語で言うと疑われるので、分かりにくいカタカナを使ってケムにまく、または都合のいいように誤解・曲解させるってわけです。失礼ながら、やはり個人的な感想ですが、情報系の新興企業の経営者、学者や研究者なんかも外来語を多用する傾向が強いように思います。そのほうが賢くみえるからでしょうか。ボクはむしろ外来語を分かりやすい日本語に言い換えられる人のほうが賢いのではないかと思いますけどね。

 

 ただ、百歩くらい譲って、現都知事のカタカナは同情する余地がなくもありません。というのも、女性ということで侮る人もいるほか、豊洲、東京五輪競技場建設計画の見直しから、直近では政党復活予算の廃止など、都議会与党に敵対するような政策を進めてきたからです。

 

 猛烈な逆風びゅんびゅんが予想される状態の中で、「無駄な予算の徹底的な見直し」などと革新的な政策を率直に言えば、「だったらオレらは無駄遣いしてきたのかよぉ」と火に油を注ぐことになりかねません。それまでの政治人生でも、女性ということから一歩を引かざるを得ない局面も多々あったはずです。そこで、意味的な緩衝材を挟むという目的で、敢えて外来語を使ってきたんじゃないかな。おかげで「あら、またカタカナですよね」と自戒するくらいに習慣化してしまったわけです。

 

 それを象徴するのが「都民ファースト」と「アンシャン・レジューム」でしょう。

 

 まず前者ですが、どうして「都民優先」ではいけないのか。これはもうまったく自明で、今さらそんなことを標榜するというのは、それまで「都民優先」の行政ではなかったことになるからです。実際にそうじゃんかとボクは思いますが、都議会の与党議員の皆さんはもちろん、丹下健三が設計した壮大な東京都庁に勤務する職員の方々がやってきた仕事を否定することになります。けれども「都民ファースト」という言葉なら過去にありません。よってそうした過激な否定的意味は薄弱となり、何となく新しい政策のように見えるのです。

 

 ボクは東京五輪における合言葉の1つ「アスリート・ファースト」について関係者にこう質問しました。「ではそれまでアスリート・ファーストではなかったのですか?」。このカタカナを「競技者優先」と訳したら、誰だって同じことを訊きたくなるでしょ。どうやらロンドン五輪までは必ずしもそうではなかったらしいのですが、であるなら「関係者優先」「国益優先」、それとも「地域の都合優先」だったのでしょうか。

 

 それと同じように、今になって「都民ファースト」=「都民優先」を旗印にするってことは、これまでの行政がそうではなかったということを意味しています。都民が税金を納めているのにかかわらず、都民を優先した政策をしないってのはどういうことだよ、という疑問に対する1つの回答が「アンシャン・レジューム」なわけですよ。うひゃー、今度はフランス語だもんね。前都知事は東大卒でしたが、現都知事も負けずに賢いみたい。

 

 でね、フランス革命という歴史的な経緯を大幅に省略すると、早い話が「旧体制」ってことです。この旧体制に巣くう「頭の黒いネズミ」たちが、都の膨大な予算を我が物のように操ってきた、と。

 

 そんなことを都議会ではっきり言えば、議員の皆さんの怒りが沸騰するに決まっています。そこで、カタカナを使って衝撃を緩和しているに違いないとボクは解釈しております。

 

 何とまぁ政界は、いや人の世は実にまったく面倒くさいことか。だからこそ、そうした特段の理由がない限りは日本語で言うようにしましょうよ。

 気がついた人もいるでしょうが、この文章も特定の固有名詞や引用を除いて、外来語は一切使っておりません。そのほうが論旨は明解となり、言葉の無駄もないではありませんか。

 

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2016年12月 9日 (金)

秘密

 

 うーん、「秘密」。ワクワクするようなドキドキもののタイトルですから、それだけで好奇心が刺激されたのではないでしょうか。

 もちろん違法な裏技やドスケベな内容ではないので、女性も子供も安心してください。なんて明かしてしまうと、「なんだよ」とがっかりされて、いきなり別のサイトをクリックするかも知れませんが、ちょ、ちょっと待って欲しいんですよね。実は、いくらか変態気味かもしれないと思っていることなのです。

 ヒント1、お金のことです。ヒント2、銀行に関係があります。

 何てね、ライターも年齢を経ると、しょうもなく引っ張るテクニックばっかり覚えてしまって仕方ねぇなぁ。
 ズバリ言えば、ボクは財布を持っていません。だってね、いま時、札束を入れるウォレットなんて、負担になるだけでなく、危険ではありませんか。大きな支出はクレジットカード、スーパーやコンビニなどの日用品支払いなんかはSuicaなどでも済むのですから、現金はせいぜい5千円程度あれば十分でしょう。タクシーでも案外遠くまで行けます。

  でね、千円札5枚くらいならズボンのポケットにも十分に押し込めるじゃないですか。というわけで、ボクがいつも使っているのはクレジットカード4〜5枚がギリギリ入る超薄型の札入れです。その中にいつも千円札を3〜4枚折りたたんで挟んでいますが、これが手持ちの全財産ということになります。

  えーと、ここからが秘密らしい話ですけど、その千円札の向きをすべて同じに揃えているのです。何枚もポケットに入れる時があればなおさらで、野口英世の顔はもちろん、札の角まできちんと重なっていないと落ち着きません。これは1万円札であっても同じです。

  こんなことをするようになったのは、たまたまラジオ番組で銀行の窓口を担当する女性からの投書を聞いたからです。それによれば、毎日毎日、紙幣を同じ向きに並べて扇子のようにして数えているうちに、自分の財布の中の札も無意識に揃える習慣がついたというのです。「これは面白そうだ!」とボクも真似しているうちに、いつの間にか生理的に馴染んでしまい、向きがバラバラでは気分が悪くなるようになりました。

  もう1つ。前述したように、現代では大枚のキャッシュが必要になることは滅多にありません。会社の経理も小口の処理が面倒くさいので、交通費などの経費は直接に銀行引き出しや振り込みにしています。こうすれば会社に滞在する現金もなくすことができます。
 そんなことができるのも、ボクの事務所から徒歩1分程度のところに銀行があるからで、ボク自身のお金もそこのATMを財布代わりにしています。手数料無料なので、必要な時に必要な額だけ引き出せばいい。

  この時の金額ですが、皆さんはいくらにしていますか? 取りあえず必要な額なんだから、スーパーにまとめ買いに行くときは1万円くらい、下北沢で古着を買おうかなという週末は余裕をみて2万円くらいかな、という雰囲気ではないでしょうか。

  えー、不肖ワタクシは、いつも引き出す金額を奇数にしているのです。そのうち圧倒的に多いのは5000円。次に7000円。万単位でも千円レベルを偶数にしたことはありません、このようにしておくと、誰かがボクのカードを不正使用しても、金額を見れば一発で分かるではありませんか。とはいっても、本職の悪党がチマチマとカネを引き出すことはないでしょうけどね。

  そんなわけで、たまに預金通帳を記帳すると、日付は違えどもズラリと5000という数字が並んでいて、なかなか壮観です、なんてことはないにしても、極めて特徴的ではありますよね。

  つまらないことをくだくだ書いているうちに、やはりちょっと変態が入っているかもと自覚するようになりました。さて、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 

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2016年12月 8日 (木)

小狡い小者

 

 1か月ほど前の2016年11月4日()に、「背中」と題したブログの中で、以下のような文章をアップしました。

 

 やっぱネットというのは、言い方は悪いかもしれませんが、素人のコピペ・メディアであって、誰かが言った分かったふうなことが複写されて拡散しているだけなんですよね。

 

 どうだオレってすごいぜと自慢するつもりは決してありませんが(少しはあるけど)、上記のような実態が明白となり、「まとめサイト」なるものが次々に閉鎖または削除されています。今朝のニュースショーでは、DeNAの社長による謝罪会見が何度も放送されていました。

 

 このDeNAでは他のサイトからの無断転用を積極的に推奨していたというから驚きます。それに比べれば、「マスゴミ」なんて心ない批判をする人もいるようですが、紙メディアでは芸能関係にしても特ダネや独占や特報を争い、しかも裏取りをしています。ウソや根拠のない「飛ばし記事」がなかったわけではありませんが、すぐにバレたり、高額な被害請求が伴う裁判沙汰に突入するのが普通です。

 

 ただし、最近はネットのやり方を逆に真似る人もいるせいか、残念ながら紙メディアでもパクリ記事の発覚が目立つような気もするんですけどね。

 

 ここからはボクの憶測なので眉に唾して欲しいのですが、こうした傾向は受験教育の浸透が背景にあるのではないでしょうか。要するに試験で高得点を取った者が勝ちなんだから、カンニングでない限りはその方法を問わない。むしろ無駄なことは極力排除して、できるだけ効率的に点を取ることが「得」ってものじゃないかと。

 

 学習塾もこうした「消費者」のニーズに応えようと、得点するためのノウハウやテクニックを重視するようになり、無駄な寄り道なんか一切しなくなる。だから、試験の成績は優秀なのに、本といえば教科書と参考書以外読んだことがないという優等生が増えているような気がします。

 

 それはそれで自由競争のもとでは必然的な現象であり、資本主義社会では法に違反しない限り、他人を出し抜くことが大きな利益につながります。だけどね、そんな受験勉強やビジネスなんて、つまらなくないですかぁぁぁぁとボクは呼びかけたいのです。

 

 受験勉強にしても、そこから派生した自発的な学習こそが社会に出てから役に立つんですよね。国語なんかでも、たとえば作者と作品を覚えるだけで次に行くのでなく、源氏物語はエッチっぽいから長編だけど現代語訳から読んでみようかなと。その時は無駄に感じられても、ちょっとばかりの点数を取るよりはるかに自分の勉強になるはずです。

 

 ビジネスも同じで、苦労して新しい業態を創造するより、成功者の真似をするほうが効率的です。たとえばスターバックスをゼロから生み出すよりも、二番煎じの後発で同じことをやったほうがローリスク・ローコストに決まっています。

 

 だけど、そんなことが面白いのでしょうか。賢ければ小狡い方法はいくらでも見つけられるはずです。こうすりゃこうなるというノウハウ本も多く、経営関連の書籍は山のように書店にあります。でもさぁ、そんなことを真似したり小賢しいズルを思いつくより、自分だけのオリジナルを開発するほうが、楽しくて喜びも大きいじゃないかと、ボクは思うんですよね。

 

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2016年12月 7日 (水)

読解力と思考習慣


 このところ長いブログを続けてきたので、書く方もいささか疲れてきました。ツイッターのほうが短くて分かりやすく、インスタグラムなら一目瞭然じゃんかという意見もあるだろうなぁ。実際に、一言ですむことをわざわざ面倒くさく、ややこしい言葉を知ったかぶりで連ねるだけの文章も結構ありますからね。

 

 けれども、人間の思考というのは、イエスとノーという二元論だけで構成されているわけではありません。それがツリー状に連鎖したのが初期の人工知能であるエキスパートシステムでしたが、80年代に限界を迎え、やがて自動学習がブレークスルーしたことから分かるように、脊髄反射的な二元論は人間の思考力を奪ってしまうんですよね。

 

 なんて思っていたら、今朝の新聞ではOECDによる15歳を対象にした学力調査(PISA、2005年実施)の結果が報道されていました。それによれば、参加した72の国と地域の中で、科学的リテラシーはシンガポールに次いで第2位、数学的リテラシーでも第5位と、12年に行われた前回調査を上回っています。新聞では「脱ゆとり教育」に転換した効果が継続していると分析していますが、おっとどっこいで、読解力に関しては第8位。前回は3位でしたから、かなりのダウンです。

 

 出題方法にもよるのですが、ある予備校関係者も子供たちの読解力が相当に低下していることを嘆いていました。何の予備知識がなくても、普通に文章を読むことができれば正解できる問題でも、誤読あるいは判断不能に陥る子供が少なくないというのです。

 

 おそらく、ストレートに展開する足し算や引き算的な論理は理解できても、それに別の論理が重なったりすると、途端に解釈できなくなるのではないでしょうか。さらに「ということもいえなくもない」とか「ということがあるだろうか(いやない)」といった二重否定や反語表現が生理的にダメな子供も多いんじゃないかな。かくいうボクも実は苦手でした。何で言葉は算数のように明解ではないのだろうと、ずっと不満に感じていましたからね。

 

 石川啄木はローマ字で日記を書いたようですが、ボクは数学の公式のように日本語の論理を表記すべきだと思っていました。その証拠に今では加減乗除の記号や=を意識的に文章中で使っています。

 

 ただ、読解力というのは「思考体力」の別名だと思うんですよね。「僕に分からせてよ」と口を開けて待っているだけで、自分から文章を理解しようという意欲と粘りがなければ、分かるはずの文章も分からなくなります。そうした思考体力が昔に比べてひどく弱くなったような気がします。

 

 文章というのはアクロバティックな論理展開を楽しむという側面も強いのですが、短くて刺激的な文章が中心となるSNSで、果たしてそれが理解できる思考体力が育成できるのでしょうか。相手の心境を推察することは上手になりそうですけどね。

 

 またまた長くなりそうなので、本日はまとめに入りますが、要は考えることは楽しいことであり、嬉しい発見につながるのです。それを実感するには、自分自身で考える習慣を持つほかありません。それ以前に、何でもかんでも他人のコピペで済ますなんて、実にまったくつまらない人生であることを、まず知るべきなのではないでしょうか。

 

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2016年12月 6日 (火)

『ハレルヤ』(後)

 

 子供の頃は、もし神様がいてもボクなんか視野に入っていないと思っていました。サンタクロースが入ってこられる煙突も暖炉もなかったしね。それでも1回や2回、プレゼントが枕元に置かれていたことがあります。

 

 社会に出て仕事をするようになると、神頼みをする奴を軽蔑するようになりました。神がいようがいまいが、これまで自分に何かをしてくれた気配はまったくなかった。だったら、仮にいたとしても、いないと同じじゃないか。

 

 それから、いろいろ辛いことや苦しいこと、ちょっとだけ幸せなことも経験して、自分の卑小さが分かるようになりました。そんなちっぽけな人間には想像もつかないけど、もしかすると、人智を超えたところに偉大な神がいるのかもしれない。

 

 けれども、やっぱり悲劇は喜劇を引き連れて、何度も何度も海の波のように繰り返しやってきました。そのたびに、神を呪ったり恨んだり、たまには祈ったりもしたけれど、効き目はまったくなかったよな。

 

 そんな過去をつらつらと思い返しながら、ようやく分かったのは、神が本当にいるのかどうかはまったく問題じゃないってことです。自分が信じるかどうかなんだってね。厳しい苦難にへこたれて、その信仰みたいなものを放棄しても、必ず神というのは復活します。なぜなら、存在ではなく、信じることが神を生かしておく根源にほかならないからです。何もかも失った絶望の淵に行けば行くほど、孤独に耐えられなくなり、すがりつくものを求めるようになります。その時に唯一残された希望が、神を信じるということなのかな、と。

 

 ボクはまったくの無宗教ですが、YouTubeでジェフ・バックリィの『ハレルヤ』を聴いて、そんなことを考えました。スタジオバージョンやコンサートの録画もありますが、Official Videoは現時点での視聴回数が何と8156万回に達しています。作詞作曲したレナード・コーエンのオリジナルも約6000万回で、年を経たオジサンの円熟した低音もボクは好きです。でも、内容的にはジェフ・バックリィの若さと、絞り出すような高音が実によく似合っている歌だなぁと感心せざるを得ません。だから彼が亡くなった今でもそれだけ愛されているんでしょうね。

 

 静かな哀切感が次第に敬虔な気分にまで盛り上がっていくドラマティックな歌なので、神のことを考えるようになりますが、内容的には失恋の歌に近いんですよね。昨日に少し紹介した「冷たくて壊れたハレルヤ」が初めて登場するのは3番の歌詞なのですが、これまたボクたちには分かりにくいのです。

 

Baby I've been here before

I've seen this room and I've walked this floor

You know, I used to live alone before I knew you

I've seen your flag on the marble arch

And love is not a victory march

It's a cold and it's a broken Hallelujah

 

Hallelujah, Hallelujah

Hallelujah, Hallelujah

 

 ボクごときには手に負えないので、昨日同様にウェブサイト『泳げ!対訳くん』から日本語訳を引用させていただきます。

 

ベイビイ,この前もこうだった

この部屋だって覚えてるし

この床も前に歩いた

わかってるだろ?

知り合う前までは

ひとりでも平気だったんだ

大理石で作った

戦いの勝利を祝うアーチの上に

お前の旗が見えてたよ

恋なんて華やかで景気のいいものじゃない

寂しくて悲しい「ハレルヤ」なんだ

 

 It's a cold and it's a broken Hallelujah=直訳では「冷たくて壊れたハレルヤ」となるところを、「寂しくて悲しい」と意訳していますが、いずれにしても自分の恋が終わったことを暗喩しています。

 

 かつて彼女と結ばれて「息をするたびにハレルヤという気持ちになった」こともあったけど、という幸福な思い出が4番目。そして、最後の歌詞に至ります。

 

Maybe there is a god above

But all I've ever learned from love

Was how to shoot somebody who outdrew you

And it's not a cry that you hear at night

It's not somebody who's seen the light

It's a cold and it's a broken Hallelujah

 

Hallelujah, Hallelujah

Hallelujah, Hallelujah

 

きっと天国ってところには

神様もいるのかもしれないけど

今まで誰かを好きになって

それで身についたことなんて

自分よりイケてるライヴァルを

つぶすやり方くらいのもの

夜になると聞えてくるのは

誰かの泣き声じゃない

悟りを開いたヤツの声でもない

寂しくて悲しい「ハレルヤ」なんだ

 

 ほら、この歌詞を読むだけなら、どう考えても失恋の歌としか思えないじゃないですか。にもかかわらず、どうしてあれほど哀切なメロディと歌唱なのかなぁ。もっと深く敬虔な、何かの思いが託されているとしか感じられないのです。まだまだ理解が足りないかもしれないので、これは継続的な宿題にしていくつもりです。

 

 ただ、今の時点で思うのは、「冷たくて壊れたハレルヤ」というのは「届かぬ祈り」なんじゃないかと。直接的には人間のはかなさや愚かさのことです。けれども、人間はそもそも聖なる生き方なんて到底できません。であるなら、毎夜の「届かぬ祈り」こそが、人間が生きていることの証ではないか。

 やはりネットで誰かが指摘していたのですが、この歌の「ハレルヤ」は神に向けたものでは決してなく、もしかすると、そうした人間の存在を憐れみながらも称えたものと解釈できるかもしれません。

 

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2016年12月 5日 (月)

『ハレルヤ』(前)

 

 いろいろな意味で、こういう歌は日本にはちょっとないだろうと思わせるのが『ハレルヤ』です。ハレルヤはヘブライ語で「主(神)を称賛せよ」という意味で、賛美歌の中にはウーピー・ゴールドバーグが踊り出すような元気な楽曲もありますが、ボクが好きな『ハレルヤ』はギター1本で呟くように始まります。同じ旋律を繰り返しながら、まるで神への呪詛のように、血を吐くかのように「ハレルーヤ、ハレールヤ」と、虚空に向けて歌い上げていくんですよね。

 

 欧米の映画やテレビドラマのエンディングなどにもしばしば使われているので、メロディを聴けば「あれか」と思い出すはずです。最後のほうになると、普段でも瞼が熱くなりますが、心の調子が悪い時などは、思わず自分が涙していることに気づかされる名曲です。

 

 ところが、英語の歌にもかかわらず意味がまったく分かりません。それどころか、作詞作曲した人が今年になって亡くなっていたことも知りませんでした。

 

 レナード・コーエン。カナダのシンガーソングライターで、詩人であり、小説も書いたそうです。1934年生まれなので、かのボブ・ディランより7歳ほど年長。フォークソングといえるかどうかは分かりませんが、こうした分野の先駆けであることは事実でしょう。

 2016年11月7日に永眠されましたが、1984年に発表されたアルバム『哀しみのダンス Various Positions』の中に収録された『ハレルヤHellelujah』が、多くの歌手がカヴァーするヒット曲となりました。

 

 それからの詳しい経緯については、『「ハレルヤの転生」:レナード・コーエン追悼』(wired)として、若林恵氏がみごとな評論を発表しているので、興味のある人はネットを検索してください。

 

 それによれば、ボブ・ディランもこの曲にいち早く注目。88年のツアーで歌っていますが、例によってしゃがれた鼻声のディラン節になっており、この曲の奥深さが伝わったとはいえないようです。

 

 今のようにギター1本程度で静かに歌い上げていくスタイルで世界を感動させたのは、ジェフ・バックリィというシンガーソングライターでした。66年生まれの彼は、94年に『グレースGrace』というアルバムを発表しましたが、97年に30歳の若さで水死。その悲劇によって、生前にたった1枚だけ残されたアルバムに収められた『ハレルヤ』が、永遠の生命を与えられたといえるかもしれません。

 

 YouTubeなどで彼の演奏をフルで試聴できますが、鬼気迫るというのでしょうか、レナード・コーエンのオリジナルを超えるほどの哀切感が胸に伝わってきます。ところが、ですね。冒頭でも述べたように、歌詞がかなり難解なのです。

 

Well, I heard there was a secret chord

That David played and it pleased the Lord

But you don't really care for music, do you?

Well it goes like this: the fourth, the fifth

The minor fall and the major lift

The baffled king composing Hallelujah

 

 これが曲の始まりですけど、ネットの『泳げ!対訳くん』によれば、以下のように訳されています。

 

ああ,聞いたことあるよ

秘密のコードってのがあって

ダビデがそいつを弾いたところ

サウル王がすごく喜んだって

だけどお前は「音楽」なんて

どうでもいいと思ってるんだろ?

とにかくその秘密のコードってのは

こんな風に進行するんだよ

F, G, そしてAmそれから元に戻って

途方に暮れたダビデ王が

ハレルヤを作ったんだよ

 

 そもそも旧約聖書を知らなければ、ダビデもサウル王も、何のこっちゃじゃないですか。にもかかわらず、意味なんかまったく分からない日本人のボクの心を揺り動かすのです。

 

 この歌を理解するヒントは、中盤からリフレインされる、以下のフレーズにあります。

 

It's a cold and it's a broken Hallelujah

 

 それは冷たい、そして壊れたハレルヤなんだ。

 

 ほらね。この歌は決して賛美歌の一種なんぞではなく、むしろその逆に、神を称える栄誉から取り残されてしまった人間の悲しみを歌っていることが想像できます。ということで、またまた長くなってしまったので、あれこれと調べ直しながら、続きは明日ということで。

 

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2016年12月 2日 (金)

真ん中

 

 日本はやっぱ中道が育たない国なんだなぁと思います。これを本気で説明するとすっごく長くなるので、簡単に言えば「真ん中」のポジションということです。

 

 こう表現すると、「ええー、オレって会議でも真ん中をキープしようとするけどね」という人もいるでしょう。でも、定規で長さを測れるようなことなら客観的に真ん中を規定できますが、政治も含めた方針や思想って奴は、そうたやすく判断できないんですよね。

 

 たとえば右と左があるとするなら、その間はグラデーションになっており、どちらかが優勢になってくると、途端にそっちのほうの色が濃くなっていくわけです。ということは、ちっとも真ん中じゃなくて、勝ち組に加勢するために洞ヶ峠で日和見を決め込んだ筒井順慶と大きな違いはありません。

 

 歴史的な事実は知りませんが、早い話が決定的な意見表明を保留しているだけのことであって、そんなことを中道とか真ん中と言ってはいけないのです。敢えて言えば「第3極」みたいなことですけど、それだって意見保留の上手な言い訳になったりしますよね。

 

 政治的な思想を例とするなら、戦後は左翼が大きな力を持ってきました。労働組合運動も活発となり、それが憲法9条を支えてきたといっていい。だってね、この条文を普通に読んだら自衛隊が存続できるはずないじゃないですか。軍事費だって当時は確か年間予算1兆円でシーリングされていたと記憶しますが、今では2兆円を超えたようです。憲法の条文がもしも「理想」を語ったとするなら、現実が大きくズレていてもちっとも不思議はありませんけど。

 

 そして、ここが問題なのですが、左翼系の言論がメディアで支配的になると、左側の論理を語る文化人は、右側の人たちより人気を集めることで「食える」ようになります。こういう時代が比較的長く続いてきたのですが、かといって「反戦」「非戦」というのは一国の理念や方針だけで実現するものではありません。交通事故と同じで、本人がいくら安全運転していようが、認知症の老人が高速道路を逆走してきたら死傷事故につながるじゃないですか。

 

 皮肉なことに、中国が経済力を急速に高め、北朝鮮も拉致事件が公となって核装備がリアリティを持つことで、日本全体がアジアの政治情勢に警戒感を持つようになりました。そうなると、今度は右側が激しく巻き返してくるようになります。長く続くデフレや不景気で自信を失った日本人にとっても、大和魂とはさすがに言わないまでも、文化や伝統や歴史や国民の性質を褒め称える排他的な民族主義はかなり心地良く響くわけです。

 

 逆に左側の言論人は急速に元気を失い、それによって右側の人たちはますます勢いづく。明け透けに言ってしまえば、もはや昔のように空想的で素朴な平和主義では食えない状況になっています。

 

 そうなると生活もありますから、いずれ雪崩をうってみんなが右側に流れていく可能性も否定できません。そんなことあるかいという人は、1940年に結成された「大政翼賛会」をちょっと調べてみてください。すべての政党が「勝ち馬に乗り遅れるな」と解散して合流した歴史があるのです。

 

 日本というのは聖徳太子の十七条憲法にある「和をもって貴としとなす」のおかげで穏当な民族性だと思い込まれているようですが、実は相当に極端だということを自覚したほうがいい。もしも日本人がそんな民族性とするなら、わざわざ「和をもって」なんて言葉を憲法の条文にするはずがありません。

 つまりね、何でもかんでも二元論に集約されてしまい。真ん中=中道を認めないのです。歴史的な建築もそうじゃないですか。どんどん取り壊して建て替えていく。つまり、壊すか残すかの二元論となり、ほとんどは壊して建て替えとなります。補修して維持という「真ん中」にはなかなかならない。そうなるのは世界遺産レベルの価値が確定したものに限られています。

 

 中国でも孔子の中庸は過激な思想とされているらしいので、こうした傾向は日本だけではありませんけどね。ボクは誓って言いますが、右でも左でもありません。どっちつかずの日和見なモノカキでありますが、オリンピックの競技場や築地市場の移転問題も、「真ん中」の意見が認められなかった、あるいは敗北したことが現在の混乱を招いていると思うのです。

 会議でも生き方にしても、「真ん中」に踏みとどまるというのはものすごく難しい。でも、それを今こそ目指すべきではないでしょうか。

 

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2016年12月 1日 (木)

大丈夫かニッポン

 

 ロボット掃除機「ルンバ」の後追い製品がまたぞろ出てきました。敢えてメーカー名は挙げませんが、こうした二番煎じ三番煎じの製品開発は、エンジニアにとっても不本意ではないでしょうか。いくら改良型といっても、基本的なアイデアはパクリにほかならないですもんね。

 

 円盤状の掃除機が勝手に室内をぐるぐる回ってゴミを吸い取ってくれるロボット掃除機「ルンバ」は、驚くことに2002年9月に発売されたそうです。随分昔ではありませんか。ウィキペディアによれば、それから10年で累計800万台が販売されたそうです。

 

 その人気にあやかって、日本の家電メーカーも重い腰を上げて追随するようになったのですが、ちょっとくらい形を変えろよってボクは思うわけです。角が丸い三角形というのも近頃は出てきたみたいですが、遠目にはみんな同じ格好じゃありませんか。そのほうが馴染みもあるし、って、そんな開発姿勢でいいのかなぁ。

 

 たとえば「ルンバ」は車輪を使っているのだから、ボクなら脚をつけてやろうと考えます。4本足で動くロボット掃除機にすれば、段差やら電線などのコード類なんかもひょいとまたげるので圧倒的に便利じゃないですか。

 

 さらに映画『スターウォーズ』シリーズのR2D2のように、会話とまではいかなくても応答機能を付けたい。ご主人が仕事から帰ってくると、それをセンサーでキャッチ。玄関口まですっ飛んできて、ランプを点滅させながら「ピョヒーヒョロヒョロ」ってやるわけですな。別にちゃんとした会話をしなくてもいいじゃないですか。ソニーのロボット犬「アイボ」みたいな感じで、勝手に行動すれば、人間はそれに意味を見出すことができるのです。

 

 孤独な若者だけでなく、パートナーに先立たれた、あるいは離婚されたシニアや高齢者なんかも、こういう掃除機は嬉しいんじゃないかな。

 にもかかわらず、相変わらず吸引力がどうの、隅っこまでキレイにできるとか何とかで勝負するなんて、前世紀の発想ですよね。

 

 このブログで以前にも書きましたが、たとえばテレビなんてものを国内で作って儲かる時代ではなくなりました。製造コストはアジアの途上国のほうが圧倒的に安いからです。だったらテレビではないテレビを作ればいいということで、家庭の情報センターみたいなテレビを想定して、その機能を詳しく紹介しましたが、今もってどこも開発していないようです。スマホと自動連動させて貯金や引き落としなどの金銭情報から、近隣のニュースなどの情報を見やすく集約する。自動洗濯機に汚れ物をいれて洗い上がる時に、テレビが「本日午後から雨なので外干しは危険。自動乾燥機にしましょう」と提案してくるとかね。

 そういう機能を音声で使うことができれば、パソコンをうまく使えないご家庭ではすごく便利じゃないですか。クレジットカードの使用情報から「今月に入ってから娘さんのカード決済頻度が急増していますが、ヘンな男に騙されていませんか」なんてね。

 

 テレビが製造コストで負けるなら、テレビでないテレビを作る。「ロボット掃除機」がヒットしたからといって後追いは恥ずかしいから、掃除機ではない掃除機を作ればいいのです。ならソニーにアイボってのがあったから、それに自動掃除機能を加えたものはどうか。それだけでは馴染みが薄いので、姿形をR2D2を想起させるものにすれば誰でも機能の見当がつくよね、と。

 

 なんでこういう発想が出てこないのか、あるいは提案はあっても開発になぜゴーサインが出ないのでしょうか。ボクは門外漢のせいか、理由がまったく分かりません。そんなもん簡単に作れる技術力があるはずなのに、発想と開発姿勢はメチャメチャに保守的じゃねえかと思うわけです。

 

 それだけでなく、ボクはノートパソコンでひどい目にあってきました。海外で故障して泣きたくなった顛末は、このブログでとっくに紹介しています。1回や2回じゃありませんぜ。しかも複数の国産メーカーです。

 それにくらべて、4年ほど前に購入したMacBookAirはまったくの故障知らず。近頃はバッテリーの消費が早くなってきた程度です。

 

 すいませんが、そんなわけでボクはもはや国産の家電ならびにパソコンのメーカーを信頼することができません。使っている掃除機も実はダイソンです。おいおい、こんなことで大丈夫かよ、ニッポン。少なくとも後追いや二番煎じだけはやめようよ。

 

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