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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2017年2月

2017年2月28日 (火)

偏見からの自由

 

 だからといって何かの役に立つわけではありませんが、2つの物事が突然に結びついて、「ああそういうことか」と深く納得することがあります。

 

 先週の日曜日も経験したのですが、それを説明するためには、まずは大前提からご紹介しなければなりません。

 

 ボクは、実際の舞台を鑑賞したことはありませんが、宝塚歌劇のファンであります。このように公言すると、「男のくせに」とはいかないまでも、ちょっと怪訝な顔をする人がいます。そりゃそうです、東京の宝塚劇場で当日券を待っている人たちはすべて女性ですから、男なのにファンというのは変人、あるいはそっちのケ、または女装癖でもあるのかと誤解されている可能性がなくもありません。

 ボクはそのいずれもでもないと断言しておきますが、このように判断される根拠は、宝塚が女性による女性のための舞台であって、男は絶対的少数派という特殊性です。だったらさぁ、歌舞伎はどうなんだろう。こちらは逆に出演者は男ばっかりで、女性を演じることも普通にありますよね。それがゲイではなく「芸」として評価され(うまいね!)、国が指定した人間国宝=重要無形文化財だっているくらいの格調高い伝統芸術なのに、宝塚が好きな男は変わっていると見なされるのは、論理としてまったくフェアではありません。

 

 そして、歌舞伎が海外公演を行うほど世界に通用するというなら、歴史や伝統こそ負けるものの、宝塚だって同じような特殊性を備えているので、グローバル化すればするほど、こうしたローカルの魅力が際立って浮上してくるとボクは考えています。世界中どこでも同じようなデューティフリーショップしかなかったら、実際そうなっているのが残念ですが、海外旅行の楽しみは激減しますよね。

 

 それ以前に、勉学によって獲得すべき知性の本質は、偏見からの自由ではないでしょうか。にもかかわらず、バカな先生ほど子供をカタにハメようとします。ボクが出会った希少な賢い先生たちは、他人と同じでないことを才能の萌芽と認識していました。だってね、これはこうなんだからこうしろと決めつけたら、世の中それで終わりであって、何の新発見もなくなるじゃないですか。だからさぁ、心の中にも、国境にも壁を作ってはいかんのですよ、大統領!

 

 さらに、ですよ。劇団四季なんかのミュージカルが決していけないとは思いませんが、いかに日本人がうまく演じたところで「輸入品」であることに変わりありません。本物はあくまでもブロードウェイやウェストエンドにあるわけです。けれども、宝塚の舞台は仮にアイデアやストーリーを真似たにしても、どこまでいってもニッポンだけのオリジナル。だからこそ応援したいのであります。

 

 でね、このことに気づいていたのはボクだけではなかった、というのが今回のメインテーマです。

 

 先週の日曜日は、例によって新宿歌舞伎町をぶらぶらと歩いておりました。華麗な虚飾が支配する夜も素敵ですが、昼間の歌舞伎町は厚化粧が剥げた「素」の繁華街が見られるので実に面白いのです。ボクが特に興味を感じたのは、女を騙す、じゃなかった楽しませるホスト諸君の顔を並べた看板でした。誰も彼も同じメイクにそっくりの髪型なんですよね。つまり、似たような顔ばっかりじゃないかと、少なくともボクには見えるのです。

 

 それまでも、何とまぁオリジナリティに欠けた連中だろうと思ってきましたが、今回の散歩における乱雑で無定見な思考を通して、ハッと真実が閃いたのであります。

 

 彼らは、彼ら自身も特に意識することなく、宝塚の男役の真似をしているのではないか。男の荒々しい動物性が感じられない中性的な男性像がそこにあって、それを女性が望むからこそ、ホスト諸君は宝塚っぽく選択淘汰されてきたと考えられるのです。男性主体のビジネス社会なら間違いなく嘲笑されるスタイルや格好だからこそ、女性は夜の世界で安心して夢を見られるといえるかもしれません。そんな名前あるかいというキラキラネームも、宝塚が発祥ですよね。

 女性が描いた漫画やアニメもまったく同じで、「こんな男いるはずないだろ」という細身の長身・長髪でデカ眼の美顔がボーイズラヴしたりするんだよなぁ。

 

 大人でこうした嗜好を持つ女性は、生物的&心理学的には未成熟かもしれませんが、そこはそれ偏見のないボクですから、敢えて解釈すれば、男性優位の社会に対する生理的な嫌悪感が隠されていると理解することもできるでしょう。

 

 いずれにしても、歌舞伎町のホスト業界は宝塚歌劇の影響を強く受けていた。どうです、これって新発見になりませんかねぇ。何の役にも立ちませんけど。。。。

 

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2017年2月27日 (月)

発想の転換

 

 見るともなく見ていたので、その女性コメンテイターの名前は確認しませんでしたが、実に興味深い意見を聞くことができました。

 

 以前に司会者や出演者が揃って「分かったふうな」態度なので、すごく不快だと指摘した日曜朝のニュース番組です。だったら見なきゃいいのに、ほかにロクな番組がなく、イヤイヤながらちょっとだけ視聴してしまいました。その時は南スーダンのPKOがテーマでした。派遣された自衛隊の日報では「戦闘」と記述されているのに、防衛大臣が憲法に抵触しないように「武力衝突」と言い換えて国会で大きな騒ぎになったアレです。

 

 ちなみに、南スーダンは2011年に独立したものの、13年から泥沼の内戦状態に突入。そこで自衛隊が国連による平和維持活動の一員として参加していますが、1992年に成立したPKO協力法では「中立性が保たれていること」「武器の使用は最小限度とすること」などの5原則があります。ところが現地では「戦闘」だか「武力衝突」がエスカレートしてきたのです。

 

 もともと日本国憲法では「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明確に規定しています。にもかかわらず自衛隊というレッキとした軍隊を保持し、紛争解決、じゃなかった平和を維持するために、日本から遠く離れたアフリカまで派遣していること自体に大きな問題はあります。

 

 それはそれとして、南スーダンでは政府軍と非政府軍が衝突を繰り返しており、約250万人が難民化。こんな状態なら自衛隊は撤収すべきというのが正論に思えます。

 けれども、この内戦は民族間の争いに基づいており、やがて大量虐殺が発生する怖れがあるとして、前述の女性コメンテイターはむしろ軍を増派したほうがいいと指摘したのです。自衛隊ではなく、国連の平和維持活動全体についての意見なので誤解しないで欲しいのですが、これまでの紛争研究によれば、PKOの参加部隊が多ければ多いほど効果があるという意見でした。

 

 これはまさに発想の転換であり、ボクは眠気が醒めるほど瞠目しましたが、「分かったふう」な皆さんは完全に無視。同意はもちろん、反論すらありません。「分かったふう」に見せながら何も分かっていない人たちだなぁと呆れてしまいました。

 

 自衛隊をめぐる日本という小さな状況では、そりゃ撤収が最適な判断でしょう。けれども、南スーダンの一般民衆のことを考えたら、そうはいかないじゃないですか。民族の大量虐殺にまで及んだ内乱は歴史的に決して珍しいことではないので、PKO部隊が撤収で減少すれば、重石が軽くなったも同然で、どんな悲惨なことが起きるか想像もつきません。そうしないためには撤収より増派というのは、ボクには納得できる意見なのです。

 

 例えば夫婦喧嘩、といえばインテリの皆さんに笑われそうですけど、お互いに強烈な憎悪を抱く2人の異性が同居を続ければ、いつ殺し合いに発展してもおかしくありません。ところが、その家に近所のオジサンとオバサンが仲裁の意味で住みついたら、派手な喧嘩はできなくなりますよね。少なくとも包丁を振り回すような暴発的事態は避けられるはずです。

 

 南スーダンでは日本を含めた14か国がPKOに従事しているといっても、警官含めて8000人程度の規模なので、この家庭を例にすれば「大丈夫ですかぁ」とたまにオバサンが顔を出す程度の抑止力しかありません。そこで盛大にドンと5万人ほどを増強&派遣する。この規模なら政府軍・非政府軍ともに簡単に武力を行使できなくなります。銃を取って撃ち始めれば、即座にPKO部隊が出動して鎮圧するからです。彼らに必要な生活物資は各国から定期的に空輸すれば、現地に迷惑をかけることもありません。5万人の兵士は給料という定期収入もあるので、彼らが暮らすことで南スーダンが経済発展していく可能性だってあるじゃないですか。

 

 安全が確保されれば、他国や国境近辺に逃れた難民たちも故郷に帰還してくるはずです。その段階で選挙をやり直してもいい。普通に考えてもそうなるのは自明であり、PKOの継続的な研究でそれが証明されているなら、増派を検討したほうがいいと思いませんか?

 

 自衛隊の撤収が日本という国における「部分最適」であることは間違いないでしょう。そのほうが「事なかれ」だしね。ただし、南スーダンの民衆も前提にした世界平和という「全体最適」を求めるなら、PKOの増派も有力な選択肢になるはずです。

 平和が大切というなら、日本だけでなく世界のことも考えましょうよ。それこそがPKO派遣の主たる理由だったはずです。さもなければ、自国の尊厳だけを大切にする排他的な民族主義と変わりないじゃないですか。

 

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2017年2月24日 (金)

ガラガラポン

 

 本日は時間的余裕がないので取り急ぎということになりますが、日本という国はそろそろガラガラポンしたほうがいいんじゃないかなぁ。

 

 人間が集団となって組織を構成する社会というのは、寒天やゼリーみたいなもので、常温で放っておくと次第に固まってきます。具体的には、利権や既得権、財産などが同族または法人として次世代に蓄積され、やがては階層化していくということです。

 

 太平洋戦争に敗北して今年で72年。いろいろあったことはありましたが、日本は他国から大規模に侵略されたことや軍事紛争はなく、オイルショックやリーマンショックや大地震はあったにしても、概ね安定した社会が続いてきました。そうなると、いったんは敗戦でチャラにされた特権や富が、政治権力も含めて再び偏在&固定化されていくわけですね、

 これは資本主義だけでなく、社会主義や共産主義も人間が主体である限りは同様で、もしもソ連が崩壊していなければ、北朝鮮のように親子代々の政権継承や、官僚や指導者の家系が生まれていたんじゃないかな。

 

 その一方で、貧困は学歴を根拠として連鎖していきます。貧乏で夫婦喧嘩が絶えない家庭で子供が安心して勉強できるはずがない。学習塾にも満足に通えないとなれば、生まれつきの能力がどうであれ、学歴が劣るのは当然ではありませんか。昔ならいざ知らず、現代では家庭の環境と財力が子供の学力を決定するといっても過言ではないとボクは思います。

 

 ということから、アメリカも日本も格差社会が大きな問題になってきました。けれども、ボクもそうですが、いったん手に入れた利権や財産を手放したいと思う人なんていません。それをできる限り損ねることなく子供に継承させたいとも願うはずです。だから内側からの改革は基本的に無理。となれば、外的要因=ショックによるガラガラポンで固まり始めた階層をもう一度ひっくり返すしかないじゃないですか。

 

 最も効果的なガラガラポンが戦争であることは歴史を知ればすぐに分かりますが、それで殺されるのは将校ではなく兵隊と一般庶民ですから、こんな悲惨な事態を望んではいけない。そして、いかなる方法でガラガラポンしたところで、半世紀も経てば社会は再び固定化されていくでしょう。

 

 知るべきなのはボクたちの内部に潜んでいる強烈なエゴであり、かといってそれがなければ個体の存続が危うくなる生物としてのアンビバレントなのかな。そのジレンマを適切に自律的に是正していく社会と法律体系が、これから目指すべき方向だとボクは考えているのですが、いかがでしょうか。

 

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2017年2月23日 (木)

「ハナ木」にしようよ

 

 お役所が言い出して定着したことって、果たしてどれだけあるのかなぁ。ファッションでまず思い出すのは、腕をすっぱりと半袖にした「省エネスーツ」。言い出しっぺの羽田孜さんはお気に入りだったようですが、ボクの近辺であんな不格好なスーツを着た人を見たことがありません。

 

 けれども、近年のノーネクタイ「クールビズ」はボタンダウンのシャツと合わせて常識化してきたので、この2つで計算すれば成功率は50%ということになるのでしょうか。もっとも、補助金などの政策金融で国家的に育成してきた産業は昔から甘えん坊で競争力に乏しいと言われてきました。敢えて名前は挙げませんが、かつては国内シェアがトップだったコンピュータ系の凋落が著しいですよね。やっぱ『官僚たちの夏』なんてヨイショ小説じゃねーのと、非才なボクなんかは嫉妬がらみで思ったりします。あくまでも個人的感想ですけど。

 

 さて、本題は「プレミアムフライデー」です。ボクにとっては青天の霹靂、というほど大仰なことではありませんが、昨日に初めてその言葉を聞きました。今週号の『週刊新潮』で「週刊鳥頭ニュース」(佐藤優と西原理恵子)が早々と取りあげて批判していましたが、ボクも金曜日を午後3時に切り上げるというのは相当に無理があると思います。

 

 だってね、今や連絡ごとは電子メールが圧倒的な当社において、最も電話が多いのが金曜日なのであります。すいません、「最も多い」というのは相当な粉飾ですが、それでも電話がかかってくるのは金曜日の比率が高く、残業見直し気運が高まってきた最近まで遅い時間も珍しくありませんでした。

 

 一般的な会社の皆様も、土日の休み前の金曜日には片付けておかなきゃいけない仕事や連絡がいろいろとあるはずです。にもかかわらず、午後3時でさっさと退社できるのでしょうか。

 

 ということから、前述の「週刊鳥頭ニュース」で佐藤優氏は、イギリス留学時の経験を踏まえて、週半ばの水曜日を半ドン(分からなければネットで調べてください)にすることを提案しています。しかしながら、ボクは木曜日の早引けを強くオススメしたい。

 

 かつて「ハナ金」=花の金曜日という言葉がありました。今回の「プレミアムフライデー」はそのパクリに違いないとボクは睨んでいますが、その当時でも金曜日は忙しく、「わーい明日は休みだから今夜は遊び倒そうぜ」なんて人はあまりいなかったように思います。週末に向けて寄せては返す仕事の波が、金曜日には首のあたりまでひたひたに浸かっているので、そんなに早く退社できねぇよという感じだったんじゃないかな。

 

 その証拠に、しばらくして言われたのが「ハナ木」=花の木曜日だったのです。金曜日は仕事もプライベートもいろいろあるので、「みんなで遊ぶならやっぱ木曜日でしょ」ということです。それなら仕事を翌日に持ち越して、さっさと六本木や西麻布や赤坂や新宿や銀座に出かけられますから。このハナ木も言葉自体は衰退したようですが、習慣としては継続しているように思います。シティホテルなどにきっちり取材したいところですが、パーティや発表会、それに忘年会などの集まりが金曜日に開かれるケースは、ボクの経験では少ないように思うのです。

 

 そんなわけで「プレミアムフライデー」よりも「ハナ木」を復活させたほうが現実的ではないでしょうか。というより、個人的にはとっくにそうしていますけどね。

 

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2017年2月22日 (水)

映画『マトリックス』の思想(後)

 

 何となく違和感を持ちながらも普通に暮らしている毎日が、実はコンピュータが構築した仮想世界だった。そこに暮らしていると思い込んでいる人間の肉体はカプセルの中で眠り続けており、生体活動で発生した電力を仮想世界に供給する乾電池となっていた……。

 

 これが映画『マトリックス』の基本的な設定ですが、機械が支配するバーチャルワールドだけでなく、核戦争(かな?)によって荒廃した現実社会で人間はコロニーを作っていました。それが「ザイオン」と呼ばれる地下都市です。ユダヤ教における「シオン」の英語読みで、ダビデが征服した街であることから、いろいろ深読みする人もいるようです。けれども、ストーリー的には都市名にそれほどの意味はなく、単純に神々の街=リアルに生きる人間たちが住む場所、と理解したほうがいいのではないでしょうか。

 

 それよりも気にすべきなのは、この都市「ザイオン」が何度も滅びてきたという「アーキテクト」の説明です。それを裏付けるように、映画では地下都市の天井を破って超大型ドリルが何本も地面に突き刺さります。機械仕掛けのタコのような凶悪なセンチネルも集団で空中を飛び交い、街は瓦解する寸前まで追いつめられていきます。

 

 これまでのネオは救世主たり得ず、彼も「ザイオン」も生まれては滅亡を繰り返してきました。そこで想起するのが「ビッグ5」なのです。

 地球上の生物が短期間に大量に死んでいった5回の大絶滅をこう呼びます。ウィキペディアによれば、多細胞生物が登場してから、オルドビス紀末、デボン紀末、ベルム紀末、三畳紀末、白亜紀末に生物の大量絶滅がありました。地層に明確な境界線が残されていることで判明したようです。

 そして、大量絶滅という過酷な環境変化を生き延びた生物が、今度は地球の新しい主として繁栄するということを繰り返してきたわけですね。

 

 人類も実は同様で、白亜紀末に恐竜が絶滅したからこそ、哺乳類が今のように生態系の上位に躍り出ることができたのです。仮想世界を創り上げた機械は、そうした大量絶滅と同じ効果を「ザイオン」に担わせてきたと考えられます。

 

 このブログで以前に、生物はアクセルだけを備えており、ブレーキがないと指摘したことがあります。つまり、一方的に繁殖するだけで、それを制御する仕組みを体内に持っていないのです。ネズミのような姿のレミングは、増えすぎると崖から落ちて集団自殺とすると考えられてきましたが、これは誤解であることが明らかになっています。

 

 要するに、生物の爆発的な増殖を食い止めるブレーキは、外的要因しかないんですよね。恐竜はたまたま巨大隕石の衝突だったのですが、そうした環境の劇的変化によって、これまでに通算5回の大絶滅があったということです。

 そして人類ですが、1950年に地球人口は25億人を突破。50年後の2000年には約61億人と2倍以上に急増。現在では約74億人に達したと推定されています。70年足らずで約3倍ですぜ。しかも貴重な資源を使い放題で、環境や空気も汚しまくりですから、ボクが地球ならこのへんで人類を絶滅させたろかいなと本気で思いますよね。

 

 「ザイオン」の設定は、そんな自然界の仕組みをメタファーしているのではないでしょうか。映画『スター・ウォーズ』が長きにわたるサーガ(叙事詩)なら、『マトリックス』は予言的な黙示録といえなくもありません。もちろん映画なので最後に人類は救われますが、果たして現実がその通りになるかどうか。

 もうちょっと本気で環境汚染と人口爆発を危惧すべきだとボクは思うんですけどね。さもなきゃ、いずれ「ビッグ6」を数えることになるんじゃないかな。

 

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2017年2月21日 (火)

映画『マトリックス』の思想(前)

 

 謙遜でも卑下でも自虐でもなく、たまに自分自身をなんて頭の悪い奴なんだろうと思う時があります。正しく言い直せば、「ものわかりが遅い」のです。すぐに理解できるはずのことが、腑に落ちて納得できるまでに、ものすごく時間がかかったりします。ああそういうことかと頭の中でランプが灯っても、今頃かよと我ながら呆れることもしばしばあるわけですね。

 

 そのかわりといっては何ですが、記憶力は決して悪くないようです。今はかなり衰えましたが、若い頃は何でも映像として覚えており、教科書なんかも左ページの右下に誰それの肖像画があったということまで指摘できました。

 

 でね、上記2点を融合すると、「あれ?」と感じた疑問に適切な答をすぐに見つけられないために、その疑問をなかなか忘れられないということになるわけです。疑問を忘れたら答も見つかるはずがないので、決して悪くはない思考習慣ではありますが、常にいろいろひきずっているような感覚で、気分が晴れるということが必然的に少なくなります。もしもボクが不機嫌そうに見えたら、そういう事情なんだと察してください。

 

 このように長らく持ち続けてきた疑問の一つが、1999年から公開された映画『マトリックス』です。映像革命と呼ばれるほどの斬新な表現に加えて、キアヌ・リーブスやローレンス・フィッシュバーンらのコスチュームが素晴らしくスタイリッシュで世界的な大人気となりました。『スター・ウォーズ』のSFXにも驚きましたが、『マトリックス』はそれを超えるほど都会的でカッコ良かったのです。サングラスも話題になりましたよね。

 

 2003年公開の『マトリックス リボリューションズ』を完結編とする3部作であり、DVDなどで何度も視聴しましたが、なぜ機械=コンピュータはネオを生み出したのかということがよく分かりませんでした。あれほど完璧な仮想空間を創り出せる機械が、何でまたネオを救世主として覚醒させたのでしょうか。そんなバーチャルワールドから抜け出した人間たちが現実世界で作った社会=ザイオンを、どうして機械は執拗に破壊しようとするのか。

 

 犠牲を払いながらもバーチャルワールドの深奥に隠された「ソース」にたどり着いたネオと「アーキテクト」との哲学的かつ情報論的な対話によって、何となくヒントは出されているように感じましたが、ボクなりに説明できるほど理解できませんでした。それがやっと分かったように思ったのは数年前です。

 

 ごくごく簡単に言うなら、あれはヘーゲルの弁証法なんですよね。つまり「正・反・合」ってことです。プログラムされたバーチャルワールドは、それだけでは完璧ではないと機械は考えました。なぜなら一つの理念、概念、手法=アルゴリズムで自動生成されていくからです。これを是正するためには、それを否定する理念、概念、手法を対峙させなければならない。

 つまり、エージェント・スミスが監視・管理するバーチャルワールドを「正」とするなら、これに「反」を対抗させることで、「合」という弁証法的な発展=アウフヘーベン=最適化に向かうことができる。そのためにこそ、ネオを生み出す必要があったのです。

 

 映画の中でも「アーキテクト」は、「何度もネオが誕生してザイオンとともに滅びる歴史が繰り返されてきた」と語ります。ネオの本質は、「マトリックス」を適切に永続させていくための触媒=仕掛けだったと言い換えてもいいでしょう。ところが、ネオは予め設定された「反」以上の強力な意志とスーパーパワーを持ってしまった。同時に機械を代表するエージェント・スミスもバーチャルワールドを脅かすほど怪物化。そんな「正」と「反」の存在をかけた死闘が完結編で描かれているとボクは理解しました。では、その結果としての「合」とはいったい何なのか。

 

 エージェント・スミスとネオという相対立する両者が消滅したことでもたらされた、「調和」=「平和」なんですよね。それが劣化・老化したり、オーバーホールや発展が必要になれば、再びネオは救世主として登場する。そんな物語だったとようやく分かるボクって、やっぱバカというほかないじゃないですか。

 

 それだけでなく、ザイオンの運命にもしっかりした根拠が隠されているのですが、これは明日続けることにします。

 

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2017年2月20日 (月)

解釈合戦

 

 メグ・ライアン演じる女性外科医は、患者を死なせてしまい自責の念に苛まれていました。その悩みを打ち明けるつもりで同僚の女性小児科医のところに行くのですが、彼女は病気の赤ん坊を診ている最中でした。「どうにも原因が分からないのよ」という彼女に、「じゃ私が」とメグ・ライアンが言いながら首からさげた聴診器を赤ん坊にあてようとします。

 

 ザッピングしたWOWOWでたまたま放映されていた映画『シティ・オブ・エンジェル』(1998年公開)の一場面ですが、この時なんですよね、ボクが感心したのは。

 

 彼女は自分の近況を話しながら、聴診器の先にある集音部(チェストピースと呼ぶようです)をしばらく握った後で、赤ん坊の胸にあてたのです。しかも他愛ない世間話をしながら、何気なく実に自然にその仕種を加えていました。

 このように説明すれば、先端の冷たさを赤ん坊の肌に感じさせないよう予め暖めたと理解できますが、仮にそうしなくとも、医師でない限りは気づけない仕種です。映画はそもそもフィクションなので、これをスルーした演技でも、ことさらに言い立てる人もいないでしょう。にもかかわらず、さすがはハリウッド映画というべきか、こうしたディテールをきちんと押さえていることに感心させられました。

 

 ただし、映画自体は大昔に見ましたが、死を告げる天使が人間の女性に惚れるという無宗教の人間にはおよそ荒唐無稽なストーリー。退屈したことがあるので、すぐにチャンネルを替えました。

 

 それにひきかえ、といえば話が遠すぎて比較できるはずもありませんが、日曜日朝のテレビは金正男事件で賑やかでしたよね。監視カメラに一部始終がきっちり記録されているような殺人を「暗殺」と呼べるのか大いに疑問ですが、例によってコメンテイターが集まってああだこうだと分析する「解釈合戦」に視聴者はあくびが出ないのかなぁ。独自の調査や証言もなく、ボクでも知っている程度の事実だけをもとにして、推測や憶測や予測のし放題。トランプ大統領についても同様ですが、もう分析や解釈の段階ではないだろうと思うんですけどね。

 

 たとえばトランプによる傲慢な大統領令をテーマにするなら、その意図や目的をどんなに深読みしても仕方ないじゃないですか。ご本人だって人気取り以上のことは何も考えていないかもしれません。ボクたちが知りたいのは、そんなアメリカに対して、日本はどう対応していくべきかってことだと思うのです。2003年に勃発したイラク戦争時のように、脊髄反射のごとく無条件に賛同するのも問題を感じますけどね。

 

 今回の「暗殺事件」にしても、それによって利益を得る人間が第一容疑者となるのは捜査の常識です。加えて複数者がかかわる組織的な犯行であることは明らかになっていますから、そんなことを国外で公然とやってもいいのかなぁ。ISILによる他国での爆殺事件をテロというなら、これはまさしくテロであって、国際紛争の一種といえないのでしょうか。そんなにも分析・解釈・推測・憶測がしたいのであれば、マレーシアでの他人事ではなく、日本の国家としての対応まで論及すべきでしょう。こちらの拉致事件も含めて、ね。

 

 何度も「情報が錯綜している」とテレビでは言っていますが、重大事件ほど情報は錯綜するものであって、それを適切に腑分けするのが「情報通」とされるコメンテイターではないのかなぁ。

 

 とにかく、もう分析や解釈ばっかりの井戸端会議には飽き飽きしているというのが、スポーツや芸能も含めた近頃の報道番組に対するボクの感想なのです。だから冒頭のようにWOWOWにザッピングしたりするわけでね。

 このようにダルくて当事者意識の希薄な雰囲気がトランプを大統領にした温床だとすれば、日本もいずれ似たようなことになるのかな。

 

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2017年2月17日 (金)

カワハギ

 

 上越から戻って参りました。すべてが予定通り、というより早め早めの進行で、ボクにとっては大変に気持ち良くスケジュールがこなせました。

 

 ただし、一点だけ。やっぱ口内炎が痛くて。前夜は醤油が唇の裏にしみて、ロクに食事ができませんでした。栄養補給の意味で、夜中にチョコレートを口の中で溶かしましたけどね。

 そのかわりに、というわけではないでしょうが、翌日はまさに雲ひとつない青空で、コート不要の暖かさ。郊外はまだ雪が残っている状態だったので、これはもうラッキーというほかないでしょう。

 

 幸いついでに口内炎のクスリも効き始めたらしく、昼食の回転寿司も、そこそこに楽しむことができました。これがね、お世辞でもヨイショでもなく、冗談抜きで安くておいしいのです。

 特に気に入ったのはカワハギでございまして、白身の上にちょっとだけ盛られたキモとのバランスが絶妙。濡らすように少しだけ醤油をつけて口内に放り込むと、白身はほどよく張りがあって歯応えもよろしく、にじみ出る旨味にキモの苦甘さが独特のアクセントを加えてくれます。「おや? うーむ、これは、むむむむむ」という感じで、クセになってしまうほどの美味。実際に何皿もおかわりしてしまいましたが、東京の回転寿司でこれはちょっと期待できないでしょうね。

 

 さすがは日本海というべきですが、ボクが訪問した新潟県庁の廊下には、氏名や生誕地を大きく表記した写真パネルが何枚も掲示されていました。子供の頃の写真もあったので、いったいどんな人たちなんだろうと最初は不思議でしたが、すぐに気づきました。横田めぐみさんの名前と写真もあることから分かるように、拉致された人たちだったのです。

 

 そういえば、この豊かな海の向こうには北朝鮮もあるんだよなと感慨にふけっていたら、喫茶店のテレビで金正男が毒殺されたらしいと宮根氏が張り切ってツバを飛ばしていました。

 この問題に関しては、日本海側と太平洋側ではリアリティはかなり違うはずです。深い紺色の海を挟んだ先には分断された国家があり、そのうち一つが拉致誘拐や核実験まで行い、ミサイルだって平気で飛ばしてくる。その実感は、こちらに来てみないと肌身で分からないと思います。これは沖縄の基地問題もきっと同じはずですから、やはりインターネットで何もかも分かったふうな顔をするのは間違いなんですよね。

 

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2017年2月15日 (水)

犬のように・追伸

 

 昨日のブログで、しかも最初のほうで触れたように、本日朝から上越方面に出張します。だから今日・明日のブログは休みますね、という告知が主目的だったにもかかわらず、例によって話題がどんどん無駄に膨らんだおかげで、書き漏らしてしまいました。

 

 そんなわけで、本日はさっさと済ませて、明日はブログをお休みとさせていただき、翌17日金曜日から再開する予定です。

 

 さて、と、懸案だった歯痛と腫脹は順調に治まってきたのですが、今度は唇の裏の口内炎が新しい悩みとして浮上してきました。以前に歯の処置で麻酔を打ち、それが完全に醒めない状態で空腹のあまりに熱いスープをすすってしまったのです。それで火傷をしたらしく、水一滴でもしみるとすごく痛くてね。歯磨きすら難渋するようになってきました。

 

 今年は口の中がまるで厄年のズンドコ(どん底のことです)というべきか、次々に問題が出てくるのは長年にわたる不摂生のせいでしょうか。口中が満身創痍なのに果敢に出張ですから、少しばかり自己憐憫してもおかしくないですよねエッヘン、って自慢するようなことではありませんけど。

 

 でもって昨日の続きのようになりますが、犬にも近頃は虫歯や歯周病があるらしいので、おそらく口内炎だってあるはずです。なのに、犬がエサを食べる時に痛そうな顔をしたり、粘膜への刺激でボクのように「しょっぱい」表情をするのを見たことがありません。もしできるのなら、ぜひやって欲しいなぁ。

 

 健康長寿は衛生環境が大きな影響を及ぼすらしく、犬も人間と同じく高齢化してきました。写真の福助も何と15歳ですから相当な年齢です。その割に座布団に噛みついて引っ張ったり、「メシまだかよ」と吠えたり、少しはジジーらしくしろよと思うことがしばしばです。

 

 おっと、またもや別の話題になりましたが、犬が長生きすれば、ボクのように歯や歯茎の問題から口内炎なんかに悩まされることもあるんじゃないかと。ということは、動物病院だけでなく、いずれ「ペット専門の歯医者さん」も登場するかもしれません。ボクが知らないだけで、すでにあるのかな。何しろ歯科医院は全国で7万軒以上とコンビニよりも多いらしいので、あり得る話ではあります。

 

 その反面で人間様の少子化はいっこうに歯止めがかからず、加えて貧富の差も拡大&固定化。かくて大学進学は、もはや学力の差ではなく、ひとえに学費の問題に収斂されつつあります。やっと国による返済不要の奨学金がスタートするようですが、条件は厳しく、金額も微々たるレベルですからねぇ。

 本当にヘンな国だなぁと思いませんか。ともあれ、そんなこんなで、行ってきまーす。。。。。

 

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2017年2月14日 (火)

犬のように

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 昨日ご報告したように、一時期は右下顎がひどく腫れてしまいましたが、歯科医院で切開してもらったおかげで、何とか通常の面相に戻りつつあります。実は明日から上越方面に出張なので、あまりにも非対称な顔では皆さんを不快にさせてしまいます。『オペラ座の怪人』のようなマスクを被るわけにもいかないので心配していたのですが、まだ腫れはしっかりと残っているものの、「えっ? 前からこうでしたよ」といえば納得できなくもない状態になりました。

 

 それにしても、このところ「出がけ」を狙ったかのようにアクシデントが勃発するんだよなぁ。一昨年はマンションの廊下で転倒。左足首を折らないまでも、打撲で腫らしてしまいました。それから10日後くらいにスイス・ジュネーブ出張なので焦りましたよ。昨年は左上の歯が歯周病かなんかでぐらぐらとなって、こちらも眠られないほどの激痛と腫れの二重奏。この時もジュネーブに行く直前でしたから、痛みはともかく、頬の形が不格好なビリケンさん状態では取材になりません。

 

 こうした歴史を鑑みると、ボクってば何とまぁ運の悪い奴なんだろうと、悲しい自己憐憫に陥らざるを得ません。どうやら神様や仏様に好意を抱かれていないらしいと絶望的になってきます。

 

 ただね、こういうアクシデントが旅行時でなく直前に起きたということだけは評価できます。現地に着いてから突然に歯痛となったら、皆さんに多大な迷惑をおかけすることになります。海外ならなおさらで、医者探しすら簡単ではありません。ボクではありませんが、そんなケースが実際になくもないんですよね。

 

 それに比べれば「不幸中の幸い」といえなくもないわけです。ただし「ものは考えよう」というのも曲者でありまして、クルマが大破するほどの事故に遭遇しておきながら、「軽いケガで済んだのはひとえに信心のおかげ」と言い放った人もいるんですよね。グシャグシャに壊れたクルマを間近に見たら、「これがラッキーかよ」と怒りに震えて絶句するほど身勝手な解釈ですが、これを論理では否定しきれないから困ったものです。

 

 こうした「不幸中の幸い」は、絶対値ではなく相対論なので、こんな勝手な解釈を許してしまうんですよね。前述の交通事故にしても、ヘタすりゃ死んでいたと仮定すれば、どんな大怪我でも「その程度で済んだ」といえなくもないじゃないですか。

 

 ボクが文学の解釈や研究をまったく評価していないのもそれが理由でありまして、絶対的な根拠が必要な歴史や史実分析とは違って、「こう解釈できる」という評論を「そうじゃない」と否定するのは困難なのです。それゆえに文学史では有名な「大論争」がいくつかあり、今でもきちんとした決着は付いていません。

 

 たとえば北村透谷が山路愛山に反論したことから始まる「人生相渉論争」というのがあります。「人生に相渉る=影響を及ばさないような文学は無駄の極致」と指摘した愛山に対して、「文学はそんな下世話なことを目的にしているわけじゃねぇ」と透谷は噛みつきました。

 この時に透谷が「人生に相渉るとは何の謂ぞ」と反駁したことから「人生相渉論争」と呼ばれるのですが、こんなことを100年かけて論争しても「人それぞれ」「解釈次第」になるに決まっているではありませんか。この論争は実際に19世紀末に始まったのですが、似たようなことは今でも一杯あります。こんな解釈論争に時間をいくら費やしても無駄というのがボクの持論であり、それゆえに大学の文学部を不要とした文部科学省通達には賛成しないまでも、学問としての内容を問い直したくなる気持ちは分かるんだよなぁ。

 

 それに比べて、いつも感心させられるのは犬のありようです。ミニチュアダックスは胴体が長いので、その分だけ背骨に荷重がかかり、ヘルニアが持病になりがちです。それが悪化して、下肢をクルマ椅子に載せて引っ張っている犬も珍しくないのですが、彼らから自己憐憫や悲しみは微塵も感じられないんですよね。あたかも「たまたまそうなっただけ」と達観しているかのように、ボクたちにとっては悲劇とも思える運命を淡々と受け入れています。

 

 それが人間にとって本当に望ましいかどうかは別にして、たまに彼らをひどく羨ましく思うことがあるんですよね。ボクたちがエデンの園を追い出されたのも、それと関係があるのでしょうか。

 

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2017年2月13日 (月)

『ロシアン・スナイパー』

 

 随分前に金属を被せた奥歯が金曜日の夕方頃から突然にうずくようになり、土曜日に我慢したおかげで大変なことになってしまいました。そもそもの原因は右上で連結したブリッジらしく、その仮歯との噛み合わせが高くてうずうずしており、これを金曜日に調整したのですが、どうやら時すでに遅かったようです。歯根から膿が出ているらしく、それが歯茎全体を圧迫している感じなんですよね。

 

 金曜日の時点では、以前に抜歯した時に貰った鎮痛剤のロキソニンが絶大な効き目を発揮。痛みが取れたので土曜日もそれでやりすごそうとしたら、これが大失敗なのであります。ロキソニンの効き目がどんどん短くなって、規定の6時間おきでは間に合わず、4時間おきに服用しても、痛みが取れません。「こりゃダメだ」と諦めて日曜朝に歯科医院に行ったら、何と主治医がお休みというから運がありません。

 

 歯根の奥で暴れ回っている菌を殺す抗生剤とロキソニンも補充して貰いましたが、夕方にはとうとう右下のアゴが腫れ始めるという最悪の事態に突入。時計を見ながらロキソニンを飲みつつ、短い眠りの後に痛みを感じては目が覚めるということを繰り返していました。

 

 さて、お待たせました。そんな夜中にCS放送の映画専門チャンネル「ムービープラス」でうつらうつらしながら視聴したのが『ロシアン・スナイパー』なのです。第2次世界大戦で309人ものドイツ兵を射殺した実在の女性狙撃手、リュドミラ・パヴリチェンコを描いた映画で、戦闘場面はなかなかの迫力。腕が飛び、脚がもがれるような残酷な殺し合いに比べれば、ボクの歯根における抗生剤と菌の戦いなんてたいしたことじゃないよな、と奇妙な比較をしながら自分を宥めていたわけです。

 

 2015年に公開されたロシアとウクライナの合作映画ですが、このタイトルはいかにもあざとい。その前年にクリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』が公開されていたので、それにあやかった二番煎じもいいところじゃないですか。調べてみると、原題は『セヴァストポリの戦い』。配給会社はちょっと恥を知るべきです。製作者に失礼ですよ、こんなB級タイトル。

 

 この原題が示すように、1941年9月から翌年7月まで続いたロシア国境のセヴァストポリをめぐるドイツ軍との攻防戦を中心に、伝説的な女性狙撃手の活躍と苦悩、そして恋なども描かれています。彼女は1943年に当時のソビエト連邦では最上級にあたる「ソ連邦英雄賞」を授与されており、当時は同盟国だったアメリカにも派遣されました。

 

 というわけで、切手にもなったほどの国民的英雄なのですが、映画の出来としては今ひとつ感が否めません。こうした実在の伝記映画にはありがちなのですが、エピソードを外さないようにするあまりに、何が描きたいのかという創作の核心部分が甘いんですよね。ロン・ハワード監督の映画にもそうした傾向はありますが。

 

 20代前半の女性が、なぜ銃を取って戦場に行ったのか。そこで何を感じて、どうしたのか。それに伴う葛藤などを描くことで、今の人たちにいったい何を伝えたいのかというコンセプトがいささか薄味なのです。イケイケドンドンのプロパガンダになっていないことは評価できますが、そのかわりに対峙させるべきテーマの設定が難しかったのでしょうか。ロシアになっても、先代のソビエト連邦のご威光には逆らえないのかな。

 

 いずれにしても、もはや歯から右下のアゴ全体にまで広がった痛みと腫れから気を紛らわす方便にはなったようで、夜中に起きてからいつものTBS系ニュースワイド『朝チャン』に至っております。9時になったら歯科医院に行く予定。腫れた下顎は切開することになるでしょうけど、この映画のような戦闘による負傷よりはマシだと思うほかないですよね。どこに行ってしまったのでしょうか、ボクのナイチンゲールは。。。。

 

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2017年2月10日 (金)

大人の条件

 

 少しばかりご縁のある方が亡くなられたので、記帳を求められました。名前だけでなく、故人との思い出の一部を記したり、「安らかにお眠りください」などと書き加えるのが常識ですよね。

 

 ボクはもともと手書きの文字がおそろしく汚いことから、そうしたオフィシャルな文章が心底から苦手なのです。記帳した字だけ見たら、こいつは小学生かと思いますもんね。

 

 そもそも親戚が極端に少なかったので、冠婚葬祭なんて、20代半ばでいきなり父親の葬式の喪主になったのが初めてでした。焼香のやり方も親から教えられたことがないので、何かの時に後ろから見ていて、漫才のネタではありませんが、皆さん抹香を食べているのかと本気で思ったほどです。

 

 そんなわけで、葬式は思いきり苦手なので、結婚式と合わせて「ボクは行かない主義なので」とあちこちで触れ回ってきました。喪服もとっくに処分してしまったので、そこのところ、よろしくご衆知願います。

 

 けれども、そうした冠婚葬祭を中心とするオフィシャル&フォーマルなシチュエーションで、スマートな所作ができる人というのは尊敬するんだよな。心中の本当の思いがどうであっても、ああいう場では定められたマナー、儀礼がすべてですから、そのスタイルにきちんとはまってなきゃいけない。ボクのようにぎこちない仕種をするだけで、大人になっていない子供のように見られてしまうんですよね。

 

 こうしたプロトコールは人間としての中身にまったく関係ないので、大昔は「くだらねぇ」と片付けていたのですが、社会を構成するメンバーである以上はそうも言っていられません。いわば「大人の条件」の一つでもあるので、何も教えてくれなかった親をちょっとばかり恨んだこともあります。

 

 いずれにしても、こういうシキタリは場数を踏んで応用にも慣れていくことが最も良い方法なので、ボクのように嫌がらず、積極的に参列したほうがいいでしょうね。だからといって知識や経験が豊かになるというものでもありませんが、人間社会にうまくビルトインされるためには必要不可欠なことなのだと、今頃になって思うのです。

 

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2017年2月 9日 (木)

おふくろの味

 

 ある駅前に、「おふくろの味」と書かれた大きな看板を掲げた食堂がありました。わざわざカネを払って外食するのに、母親の料理と同じなんて冗談じゃねえ、と思ったボクは性格の悪い変人でしょうか。

 

 もちろん、地方から東京に出てきて、ホームシックのあまりに「おふくろの味」を懐かしむということはあるでしょう。しかしながら、そんな状況は人口流入が盛んな大都市部と周辺に限られているので、食堂としてあるべき味の勝負を避けて、立地に思い切り依存した発想ではないかと思うのです。

 

 それだけでなく、「おふくろの味」って決して一律ではなく、むしろいろいろあるはずですよね。家庭によって、というよりお母さんが独自にこしらえたものであるからこそ、懐かしむ対象になり得るわけです。マクドナルドのハンバーガーや吉野家の牛丼なんかをたまに懐かしく感じても、全国どこでも似たような味ですから、それを「おふくろの味」と呼ぶ人はいません。

 

 ということは、前述の店で食事した人が「こんなのオレんちのおふくろの味じゃねぇよ」と不満を感じる可能性も高いということになるので、よくよく考えればかなりリスキーなキャッチフレーズなのです。

 

 こうした「おふくろの味」が大人になってから特別な郷愁をもたらす本当の理由って分かりますか? 

 これはボクの独断なので異論は承知の上ですが、早い話が「手抜き」の味だと思うのです。毎日毎日、家族のためにつくる料理が、外で食べるプロのコックや板前さんと同じ味や品質であるわけがない。プロの料理はしばしば「ひと手間」が加わっていると言われますが、実際には「ひと手間」どころではありません。素材から調理の組み立てそのものが違っており、だからこそカネを取れる料理になるのです。

 

 そんなことを家庭でやっても、まさか「今日の夕食は手間がかかっているので750円ね」と料金を徴収できません。そうなると、家族みんながそこそこに満足できる味に向けて、どれだけ手抜きできるかが基本的なスタンスになります。そのやり方が、それぞれの「おふくろ」の考え方や性格や趣味嗜好によって異なるからこそ、結果的に味が多様になり、おぼろげな思い出の中で後になって懐かしむほどの個性に化けるという仕掛けになっているのではないでしょうか。

 

 というわけで、ボクは食堂で「おふくろの味」を掲げる店は信用しないことにしております。なんちゃってね、大げさに構えるようなことではありませんが、料理に限らず、「手抜き」をこのような別の言葉に換えている事例は結構、案外、いろいろあるんですが、お気づきでしょうか。

 

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2017年2月 8日 (水)

神格化

 

 元都知事の石原慎太郎氏は、豊洲新市場の用地取得に関する東京都からの質問状に「すべて浜渦に任せておりました」と回答したそうです。本日の報道によれば、都議会は石原氏の参考人招致を決めましたが、その質疑応答でも所詮は「浜渦が……」の連発になるんじゃないかな。全責任を負うべき都知事職にあったくせに、部下か側近かよく知りませんが、他人のせいにするなんて、およそ文学者の態度とは思えません。

 

 こんな言い訳は、「みんながやっている」から悪いことやマナー&ルール破りをするというのとまったく同根で、往生際の悪い責任逃れをどこまでするんだろうと呆れてしまいます。

 

 かつて石原慎太郎氏は絶大なる人気を誇っておりました。そうなると神棚に祭り上げられたのと同じで、批判できない、批判を許さないというのが、残念ながらボクたちの社会の実相です。逆に、そうした「神様」にうまく取り入ることができれば、いろいろ何かとメリットが得られるわけですな。

 

 このように書いているだけで吐き気を催しますが、「神様」は突然のようにハシゴがハズされるのも特長でございまして、地面に向けて真っ逆さまに突き落とされることもあります。不正蓄財や収賄など、歴代大統領のほとんどが悲惨な末路やスキャンダルにまみれてきた韓国よりはマシですけどね。

 

 ただ、それまで崇めてきた態度を豹変させて、墜ちた神様を「水に落ちた犬は叩け」とばかりに邪険に扱うのは恥ずかしくないのかなぁ。でもって死んでしまえば、今度は褒め言葉ばかりの大絶賛ですからね。上げたり下げたり、いやまぁ忙しいったらありゃしません。

 こういうところが庶民、あるいは一般大衆の怖さではないかとボクは考えています。だから寅さん映画なんかで描かれる「庶民賛歌」のようなものに、いささか違和感を感じざるを得ないのです。誰が庶民なのかという定義や自己認識にもよるでしょうが、もっとずっと小狡いんじゃないかなぁ。さもなきゃ生き延びられない立場にあるので、仕方ないじゃないですか。

 

 そうした人たちが、自分に都合のいい人を神棚に上げ、都合が悪くなると途端にハシゴを外す。これはいかなるリーダーも同じです。かつて小泉純一郎氏はチルドレンの1人に「議員なんて使い捨てなんだよ」と語りましたが、テレビでその言葉を聞いて感心した記憶があります。

 

 神格化の波にのれば天にまで近づくことができますが、いったんハシゴが外されたら一気に墜落する。リーダーなんて決して割の良い立場ではありません。けれども、誰かがそれをやらなければみんなが「烏合の衆」になってしまいます。だからこそリーダーたらんとするなら、仮に墜落しても決して失うことのない強靱な信念と高邁な理想を持っていなきゃいけない。そういうことを、どこぞの政治塾はちゃんと教えているのかなぁ。

 

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2017年2月 7日 (火)

キレイゴト

 

 いつの頃からか、建前より本音のほうが評価されるようになりました。「キレイゴト抜き」なんてサブタイトルした本も目立ちますよね。かといって自分自身が本音を言うというのではなく、他人が漏らした本音に拍手をするという感じなんですよね。相対的に建前の立場は極めて低くなり、というよりどんどん悪くなってきました。

 

 この建前は、基本的にオフィシャルな用語ですが、これを個人に転用した言葉がキレイゴトということになります。これは、もっぱらというより、100%が人の意見を非難する時に遣われます。「お前さ、そんな話はキレイゴトじゃねぇか。現実を見ろよ、現実を」というのが典型的な用例かな。

 

 さて、人種や国籍だけで入国を制限するトランプの大統領令(厳密にはちょと違うかも知れませんが) は、今さら言うまでもなくアメリカ人の本音の発露でしょうね。テロをやるような人殺しや、俺たちから仕事や富を奪うメキシコからの不法移民は壁を作ってでも阻止しろ、というのは、それまでの民主主義や人権重視という建前やキレイゴトをすっかりかなぐり捨てた、ものすごいエゴの爆発というほかありません。

 

 でね、建前やキレイゴトをバカにするような社会は、結果的にこういう反動を生み出すことになるとボクは言いたいわけです。

 たとえば小学校の教室に、肌の色が黒い転校生がやってきたとします。小学生はまだバカですから、自分たちの環境に侵入してきた異物をさっそく排除する動き=いじめが始まるでしょう。紛れもない日本人のボクだって、転校直後にはそういうことがありましたから。

 

 そんな時に「こらこら、みんな仲良くしなきゃ」と先生が指導したところで、「けっ、そんなのキレイゴトじゃねぇか」となるわけです。この時に先生が子供たちに負けずにアホなおかげで、建前やキレイゴトがみごとに敗北してしまうと、どんどん本音やエゴが蔓延していくことになります。テストの点数やスポーツが好成績というだけで、全人的な優位性を与えてしまうことにもなるでしょう。

 

 その一方で、人間というのは肌の色だけでなく、出生地や家族の文化的な伝統から性的な嗜好、さらには趣味やら日々の生活習慣に至るまで実に多様です。もしも同じ人間ばかりなら、環境変化や重篤な感染症などによって人類はとっくに絶滅していたはずです。ヘンな奴が適当にいるからこそ、生存を続けることができたのであり、その子孫が紛れもなくボクたちなのですから、いろいろな連中がいて当然ではありませんか。

 

 こういう理屈を建前やキレイゴトにしてしまうと、排除する理由はいくらだって見つけられるわけです。昨日はメキシコで今日はイスラムだけど、そろそろ日本人も、てなことになりかねません。そんなことはちゃんとした大人なら誰だって分かることなのに、建前やキレイゴトが軽蔑されるような社会では、本音やエゴを言った者勝ちになるのかぁ、というのが今のアメリカに対する感想です。

 

 でもって同国の歴史を遡れば、こういう軋轢は17世紀にイギリス人が入植してから連綿と続いてきたらしいんですな。先住民を虐殺しておきながら、後から来た移民に「お前らは後から大陸に来て美味しいところだけかっさらいやがって」というような不平や不満が、早い者順で繰り返されてきたようです。こうした悲惨な歴史を背景として、民主・平等・博愛・人権尊重といった協調と調和の理念が育ってきたんじゃないかな。ゲームの理論で証明されていますが、利益を独占するより分け合う方がローリスクで、みんな生きやすくなりますからね。

 

 ここで敢えて言葉を換えますが、建前やキレイゴトに含まれている「理想」をいったん失えば、再び取り戻すのは容易なことではありません。にもかかわらず「理想」を阻む圧倒的な強敵が「現実」にほかならないことを、他国の惨状を見るにつけ思い知らされてしまうボクなのであります、はぁーあ。

 

 しかしながら、理想を生み育てるのも、そんな現実なんですよね。

 

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2017年2月 6日 (月)

オヤジたちは何処へ

 

 マチネー、というのかな、日曜日にホテル併設の某ライブハウスの昼公演に行ってきました。昼夜の2部制で某歌手の公演があったのですが、夜が満席というので仕方なく午後2時半から始まる1部にしたわけです。それにしても、日曜日の昼間にあれだけ客を呼べるというのは立派なものです。

 

 このライブハウスは2年ほど前にも来たことがありますが、その時はどうにも聴くに堪えない女性のジャズボーカルで、さすがに辛抱強い温和なボクも30分ほどで出てしまいました。あまり悪口は言いたくないのですが、ちゃんとオーディションをやっているのかなぁ。

 

 それはともかく、このライブハウスの隣にガラス張りの大型イタリアンレストランがありまして、昼時だったせいかほとんど満席でした。でね、お客さんは老若男女のうち「男」だけ見当たらないのです。つまり、娘さん、若い女性、お母さん、おばさん、それにお婆さんということで、男はほとんどいません。これは平日昼間のシティホテルもまったく同様ですよね。

 

 もちろん平日の「昼間のパパ」は働いているので、ホテルのレストランなどでゆっくり食事する余裕はありません。だったら、週末くらいは街に出てもいいと思うんだけど、皆さん仕事で疲れて果てており、そんな体力はないのでしょうか。オヤジはひたすら働いて稼ぐだけで、カネを遣うのはもっぱら女性の仕事になっているように見えます。

 

 けれども、ボクの個人的体験では決してそうではなく、今だから言えることですが、日本のオヤジたちはちょっと酒の飲み過ぎじゃないかなぁ。平日夜は「飲みニュケーション」かなんかで午前様もどきが続くので、週末は完全休養日にせざるを得ないのでしょう。

 

 それはそれで仕方ないことであり、酒のつきあいも含めた仕事漬けが必ずしもいけないとはボクも思っていません。でもねぇ、それだけでは奥様もつまらないだろうし、長い老後をどう過ごすのかという疑問も沸いてきます。年代にもよるのだろうけど、ワークライフというか、生活のバランスがあまりにも偏っていませんかねぇ。

 これではジジーたちは黙して消え去るのみではありませんか。もっとオシャレして小綺麗になり、奥様を嫉妬させるくらいにならなきゃね。シニアがあまりにも元気でヘンテコな色恋沙汰が頻発するのも問題ではありますが(気配はあります)、そんなことにならない免疫をつける意味でも、ほどよく週末を遊ぶことを強くオススメいたします。


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2017年2月 3日 (金)

恥という思想

 

 今週はどうもメンタリティ=感性にこだわりがあるらしく、本日は「恥」について考えてしまいました・

 

 というのも、文部科学省の高級役人の天下りであります。衆知のように文部科学省は大学に補助金を出しており、国立大学は言うまでもなく私立大学も例外ではありません。本日は朝から打ち合わせが入っており、調べ直す時間がないので端折りますが、私立大学が補助金を受け取るようになったのは戦後しばらくしてからです。つまり、国からカネを貰わないからこそ「学の独立」を標榜していたのに、ある時期からヒモ付きになり下がったともいえるわけです。

 

 そんな関係にある私立大学に、文部科学省から「ある局長が近々退職予定なんだけど教授にどうかな」と言われたら、無下に断れるはずがありません。ちなみに、2015年度の私立大学交付額(一般補助と特別補助の合計)は、日本大学がトップで約95億円、次いで早稲田大学が約90億円とされています。この金額が学生数に応じた完全な横並びならまだしも、不祥事などがあれば減額措置も取られるので、「お上」に逆らうわけにはいかないじゃないですか。

 

 こういう圧倒的に「非対称」な関係を背景として官僚の天下りを斡旋するというのは、新聞報道にもあるように今では法律違反になっていますが、それ以前に人間の感性として「恥」だと認識できないのかなぁとボクは思うわけです。

 

 あくまでもたとえば、ですが、お代官のところに年貢を払えない農家の美しい娘がやってきて、「もう少し待っていただけないでしょうか」「うむ、そちの態度次第じゃな」「というと?」「近う寄れ、ふふふふふ」と臭い息を吐きながら、お代官のヒヒ爺が娘の帯をくるくる解き始めて「あーれー」というのと同じではないですか。いや状況は相当に違いますが(ここ笑うところです)、「非対称」な立場を利用していることは、どちらも共通していますよね。

 

 しかも、使われてきたカネは国民の税金ですから、それがもたらした権力を退職後に関してまで私物化するなよということです。けれども、それを「恥」とはちっとも思わず、むしろ組織的に口裏合わせなどもやったらしい。

 

 この「恥」という概念は英語にもあって、Shame on you! と言われたら「この恥知らず!」というような意味です。男女の三角関係ならビンタが飛んできたもおかしくありません。もちろんボクはそんなこと言われたことありませんよ、誓って(ここ笑うところ、かな?)

 

 ただし、恥と感じる中身はおそらく彼我でかなり違いがあるはずなので、これは概念というより文化といえるのかなぁ。それとも思想といったほうが適切でしょうか。

 とにかくね、トランプが連発する理不尽な命令が大統領の地位を笠に着た横暴というなら、我が方の天下りのような立場や権力を利用した陰湿なズルも同じ根っ子じゃねぇかと。

 

 今週ずっとこだわってきた「感性」の仕上げとして、もうちょっと「恥を知る」ことを大切にしませんかと呼びかけたいわけですね。

 

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2017年2月 2日 (木)

好き嫌い

 

「急な話ですけど、新潟に行ってもらえますか?」

 

 喜んで! とはさすがに居酒屋の兄ちゃんではないので言いませんでしたが、久しぶりの国内出張なので、ちょいと嬉しいニュアンスを込めて「大丈夫です」と答えました。上越新幹線で2時間ちょっと。敬愛する作家、坂口安吾の生誕碑もあるよなぁと、今からワクワクしています。

 

 というわけで、ボクは事務所にずっと居続けるのがものすごく嫌いなのです。これは生理的なレベルといっても過言ではありません。室内にいるとどんどん鬱屈してしまうので、用があろうがなかろうが、一定時間は外をほっつき歩くのが習慣化しています。

 そんなことを歯科医院で話したら、「いいですねぇ出張があって」と歯科衛生士に言われてしまいました。そうかぁ彼女たちは医院から外へ出られるのは飯時と仕事終わりだけだもんなぁと、今頃になって気づいたのです。

 

 こうした病院や介護系だけでなく、教師も学校から出る機会はそれほど多いとはいえないでしょう。あってもせいぜい学区内程度ですから、もしもボクがそうした仕事に就いていたら、3年も続けられなかったかもしれません。逆に、そうした仕事が好きで、知らないところにはあまり行きたくないという人もいるはずです。ちなみに、有名な画家のフェルメールは、生誕地のオランダ・デルフトから外に出たことがほとんどなかったそうです。

 

 それで思うのは、人間というのは我慢できることも事実ですが、中長期的に見れば、おそらく嫌いなことはやらないのではないでしょうか。ここ数日の続きみたいで恐縮ですが、人間は意志がある反面で、感情的な好き嫌いに支配されているように思うのです。

 ただし、前述した医療や介護系や教師のように、若い頃に意思決定せざるを得ない専門職もあります。ボクのように「放浪癖」のある人がそうした仕事を選択してしまうと、ちょっと辛いんじゃないかな。転職してやり直すにしても、せっかくの学歴やキャリアなどをチャラにしなきゃいけない。

 

 では20歳過ぎの大卒段階ならちゃんとした選択ができるかといえば、それもどうでしょうか。就職率そのものは格段に上昇しましたが、入りたい会社・やりたい職業に就ける確率となると決して高くはないですよね。それ以前に、本当は自分が何をやりたいのかよく分からんというのが大多数のホンネのような気がします。

 いくら1年次からのキャリア教育で職業意識を植え付けても、「何でもできるような気がする」からこそ「何がしたいのかよく分からない」という心境は、大昔からあまり変わっていないんじゃないかな。

 

 だからこそ、社会に出てからの流動性が大切になってくるのです。30歳を目前にして「そういえばオレは地域に貢献するつもりだった」と思い返しても、日本では公務員就職は年齢制限がありますからね。中途採用もないわけではありませんが、募集は若干名程度です。アメリカのように門戸を公平に開放して、もっとやり直しが楽な社会にすべきではないでしょうか。

 

 その一方で、論理をひっくり返すようで恐縮ですが、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉もボクは好きなんですよね。これは、カトリック系の修道女で昨年末に亡くなられた渡辺和子さんの著書のタイトルです。人生はいつも「こんなはずじゃなかった」の連続ですが、そんな状況でも決してめげることなく「咲く」努力をしてほしい、という内容のようです。申し訳なくも読んだことはありませんが、このタイトルは至言というほかありません。

 

 以上を慌ててまとめるとすれば、好き嫌いという自分のエゴと、社会が自分に求めるものを調和・融合、あるいは「折り合い」をつけていくのが人生といえるかもしれません。

 

 それでも中には「置かれた場所」から飛び出したい衝動を抑えられない人もいます。とすれば、自分の奥底にある好き嫌いをどのようにコントロールするかが、好きな言い方ではありませんが、セルフマネジメント=自己管理の大きな要素になってくるわけです。

 

 なんてね、分かったふうな知ったかぶりに落とし込むのもボクは大嫌いなので、必殺のちゃぶ台返しをするなら、人生は結局のところ「なるようにしかならない」んじゃないかな。だから「Let it be」。意訳するなら「人事を尽くして天命を待つ」。ちょっと違うかもしれませんが、それほどにも読み換えることができる、こちらも畢竟の名言ではないでしょうか。

 

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2017年2月 1日 (水)

習慣が感性を養う

 

 大学病院の不祥事が相次いでいます。

 ちょっと前には未熟な腹腔鏡手術で通算30人にも上る死者を出した医師がいましたよね。昨日は肺がんの検査結果を見逃して1年間放置。もはや手術不能の病状にまで追い込んだ不手際が公表されました。さらに、子供に別の患者の薬を投与して翌日に死亡した事件も発覚。医師の卵とはいえ、ワインを飲ませて女性を酩酊させ、集団強姦を行った卑怯千万な連中の裁判も始まっています。

 

 もちろんすべての大学病院が同じ問題を抱えているわけではなく、医師だって良心的な人のほうが圧倒的に多いと思いますよ。ただ、これはボクの個人的な経験と限定しておきますが、いささか傲慢なところがあるように感じたのです。もしかすると、患者から「先生様」扱いされることに慣れてしまっているんじゃないかな。民間病院でも似たような傲慢医師はいるはずですが、大学病院はちょっと質が違うなぁと感じたことを覚えています。

 

 とはいえ、今回のテーマは大学病院ではありません。あくまでも仮に、ですけど、「先生様」扱いに慣れた医師というのは、患者を親身に考える感性が次第に鈍くなっていくのは当然ですよね、と言いたいわけです。

 

 ここから昨日の続きになりますが、であるなら感性というのは「習慣」が作るといえるのではないでしょうか。「オレ様の治療法が唯一」ではなく、「より効果的な二の矢、三の矢の治療」を想定するのは、理屈や理論でなくて感性だろうとボクは思うのです。「標準治療」に従うのも結構ですが、病気というのは頗る多様であり、同じ病名でも個人個人の原因や症状は基本的にそれぞれ異なるという認識=感性を持っていないと、重要なことを見逃すこともあるはずです。

 

 こうした感性は、教えられたら身につくというのものではありません。思考の奥深くで精神性にも結びついていることですから、認識が感性にまで転化して、それがコンピュータではいえばOSの中にきちんと組み込まれていないと、応用できないのです。

 

 そのためには、やはり習慣として繰り返していくほかないでしょう。たとえば「こんなもんでいいよね」と適当にやり過ごすことを習慣にしてしまえば、物事の深いところまで気づくことができなくなります。もちろん能力的にも伸びることはありません。

 その一方で、いつも「これでいいのかなぁ」と疑問を持つ習慣があれば、感性も鋭敏になっていかざるを得ないじゃないですか。それで幸せになれるかどうかは別問題ですけど。

 

 手前味噌で恐縮ですが、このブログは土日祝を除いて毎日書いております。プロのライターといっても、日々の出来事ではなく、それなりにテーマを設定して、そこそこの内容に仕上げるのは決して楽ではありません。ネタがまったく見当たらなくて、書いては消すを何度も繰り返すことだって普通にあります。

 けれども、「こうする」と心に決めて、それが習慣になってしまうと、辛くても書かないほうがむしろ気分が悪い。だから出張などで時間が取れない時は、事後でなくて事前に告知するようにしています。さもなきゃ逃げることに等しい、というのがボクの感性になってしまいました。

 

 このように習慣化することで感性が磨かれるとするなら、天賦の才能や知力なんかまったく関係ないですよね。どんな子供でも、毎日の習慣を通して勉強しないとどうも気分が悪いという感性を持てれば、成績が上がらないはずがありません。その上で何にでも疑問を持ち、自分の力で答を見つけることが快感になってくれば、安易なヒト真似やパクリは生理的に我慢できなくなるんじゃないかな。

 

 そうなると、どんなに辛い苦労があるとしても、自分だけのオリジナルを創造したくなります。そうした人の中からスティーブ・ジョブズやノーベル賞受賞者が生まれてくるのだと、ボクは思うのですよ。

 

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