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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

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    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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2017年4月

2017年4月28日 (金)

デラシネ

 

 この年齢になって今さらなのか、それともこの年齢になったから分かるのか、子供はどうしても親の生き方をなぞってしまうようです。

 

 カエルの子はカエルという身体的な個性はいうまでもなく、感性やら考え方や行動パターンといった、パソコンでいえばOSの部分まで継承するような気がします。生まれた時から自分に最も近しいところに存在する人間の見本ですから、影響を強く受けるのは当然といえば当然ですけどね。

 

 ただ、それが「良かれ悪しかれ」というところがポイントでございまして、親子二代にわたって女性問題でコケたゲスな国会議員が話題になりましたが、むしろ悪い方面のほうが発露しやすいのではないでしょうか。子供の頃から「こんな奴にはなりたくない」と親を嫌悪していても、いつの間にかそっくりなことをやっていたりしてね。OSならバージョンアップは常識ですけど、そのようにバグや不具合の修正やら、代々の発展・発達ということをまったく期待できないことが際立った特徴といえそうです。

 

 それともボクだけのことなのかな。プライバシーなので詳しくは紹介しませんが、父親のいけないところを受け継ぐだけでなく、早い話が失敗の仕方がよく似ているんだよな。もちろん自分のやってきたことを親のせいにする気は毛頭ありませんが、ふと昔を回顧して呆れたり苦笑することがしばしばあります。

 

 もう亡くなったので無理なのですが、その意味で生前に確認しておけばよかったと思うのは「デラシネ」感覚であります。フランス語で「根無し草」という意味で、1969年に五木寛之が発表した『デラシネの旗』によって一世を風靡した言葉です。日本敗戦後の朝鮮半島から命からがらで帰国した経験が、故郷喪失という無常感に結びついたなんて解説されていますが、ボクは当時からホントにみんな分かって使っているのかよと疑っていました。

 

 血族の系譜がそれなりに確かで、少なくとも親子2代が同じ場所または家に住み続けた人に、「デラシネ」としての違和感や不安感が理解できるとはとても思えないのです。「根無し草」といえば、フーテンの寅さんのように気楽な感覚として羨む人もいるでしょうが、彼だって柴又に何とか定着しようと必死でもがいてきました。だからこそ映画『男はつらいよ』の悲喜こもごものエピソードが成立するわけで、そうした意識がなければ、単なる迷惑まき散らし男ではありませんか。

 

 このブログでもちょっと触れたことがありますが、ボクは子供の頃から転居を繰り返してきました。だから広域自治体としての故郷はあっても、目をつむると思い出すあの山や川なんてのはありません。柴又に親戚や妹のいる寅さんよりも孤独かもしれない。

 そうしたボクにとってのデラシネ感覚を最も象徴するのが、「この国」という言い方だと思うのです。もちろん正真正銘の日本人であり、納税など国民の義務もつつながなく果たしてきました。それどころか、日本は世界のどこよりも自分にとって住みやすい国だと思います。けれども、火曜日のブログの繰り返しになりますが、「薄皮一枚」だけ故郷としてのリアリティが実感できないんだよなぁ。

 

 だからねぇ、「わが国」とはなかなか素直に言えなくて、「この国」のほうがよほど言いやすい。ただ、「この国」で文章などを始める時には、客観的かつ批判的な視点にならざるを得ません。政治や社会がヘンテコな方向に傾きかけた時にこそ、この言葉が必要になってくるとボクは思うんですけどね。

 

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2017年4月27日 (木)

ハンバーガー

 

 ボクの事務所のあるマンションの向かいのビルの1階に、って、やたらに「の」ばっかりの文章になってしまいましたが、ハンバーガーショップがオープンして2年ほどにもなるでしょうか。

 

 まさに目と鼻の先ですから、どんな店なのか興味津々ですよね。それで散歩ついでに外からメニューをチェックすると、ハンバーガー1個が、ななななななななな何と、せせせせせせせせ(はぁはぁ)1000円もするではありませんか。もちろんチーズだの何だのといろいろ選べますが、すべてが1000円以上。それ以下のメニューは金輪際ありません。ハンバーガーといえばマクドナルドくらいしか知らないボクにとって、これは衝撃的なプライスです。

 

 そんな大金を費やしてハンバーガーを食べるかぁ? というのが第一印象でした。1000円の予算なら、かなり充実した昼の定食がいただけるではありませんか。いくら「こだわり」の素材にしても、ハンバーガー「ごとき」にそんな魅力があるのだろうかと思ったわけです。

 

 だから、いつものようにすぐに閉店か移転するに違いないと予想していたら、あにはからんや(もはや古語かな)、今でも昼時には列ができるくらいの盛況なのであります。だったらライターたるもの1度くらいは食べてみるべきですが、こびり付いてしまった常識みたいなものを払拭するのは案外に困難でありまして、たまに店の前で立ち止まりはしても、「ハンバーガーで1000円ねぇ」と溜息をつきながら通り過ぎることを繰り返してきました。

 

 そうこうするうちに、昨年4月に恵比寿駅前にアトレ西館がオープン。その1階にニューヨーク生まれの「モダンなバーガースタンド」をルーツとする飲食店が誕生しました。当初は50分待ちなんていうディズニーランドのアトラクション並みの大人気。そのメニューがね、やはりハンバーガー1個で680円〜。ダブルなら980円〜と、1000円近辺なのです。

 

 さすがに最近は落ち着いてきたようですが、それでも席はいつもほどほどに埋まっています。どこでもそうですが、若い人が多いですよね。とはいっても年齢制限があるはずもなく、ボクだってウェルカムなはずですが、前述したようにハンバーガーで1000円という価格帯がどうにも抵抗があるのです。

 

 これはどう考えても、マクドナルドで育ってきた感覚というほかありません。つまり、ハンバーガー=安いファストフードという認識が骨の髄まで刷り込まれている。ところが日本の食文化はここにきて大きく変化してきたようです。ハンバーガーは依然としてファストフードではあっても、中に挟まれているのは、ボクたちが馴染んできたペラペラのハムのような牛肉ではありません。何㎝の厚さになるか知りませんが、要するに本格的なビーフであり、その挽肉=ハンバーグなのであります。

 

 語源から考えれば、こちらのほうがどう考えたって本筋ですよね。むしろボクたちのほうがまがいモノとは言わないまでも、原型を相当に簡略化した廉価版ではないでしょうか。にもかかわらず、それに囚われると「ハンバーガーで1000円?」という抵抗感になってしまう。しかも実際に食べないでこんな文章を書くなんて、お恥ずかしい次第です。

 

 その意味では、こうした店で行列をつくる若い人たちはボクよりもはるかに自由な意識を持っていることになります。最近の若い奴は………、と始めるとロクな文章が続かないのが普通ですが、なかなか見どころがあるんだなぁと感心しました。やっぱね、あの店にいちど顔を出して見ようかな。

 

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2017年4月26日 (水)

男の香水

 

 そろそろ男も香水を、と言うだけで「ゲッ」と拒否反応を示す人がいるかもしれません。香水をプンプンさせた男なんてホストか女たらしでロクなもんじゃねぇ、とても娘を嫁にやるわけにはいかんといきまくお父さんもいるだろうなぁ。

 

 でもさぁ、だったら加齢臭って、どうよ。押し入れの隅に長年積もり積もって腐ったホコリみたいな匂いを我慢している人は、案外多いのではないでしょうか。

 

 昔から日本人は無臭と言われており、和服に忍ばせる「匂い袋」という奥ゆかしい小道具はあるものの、香水はまるで発達しませんでした。CSの某番組で英語ネイティブ&日本語も流暢なハーフのタレントが「白人って臭くないですかぁ」と爆弾発言をしておりましたが、まぁそのような認識が一般的ですよね。

 

 女性は化粧の延長線上として香水が自然に着地したのですが、そんなわけで男の場合は前述のように色眼鏡で見られてきました。けれども、腋臭や体臭の強い男がいないわけでは決してなく、汗をかいてそのままなら誰だって臭くなるってものです。若いうちならそれも魅力と感じる女性もいるだろうけど、中高年メタボの汗かきで、さらには加齢臭ともなれば、公害に近いんじゃないかな。

 それでも男の香水を白眼視していたら、自分の匂いに意識的な人たちは著しく不利になります。くんくん、あ、こいつ、もしかしたら、みたいに思われかねないじゃないですか。

 

 逆にみんなが普通に香りを身につけるようになれば、臭い消しの目的が強いとしても特段に目立つことがなくなります。

 

 そりゃね、エレベータの中に残り香を置いていくような強烈さや、トイレの芳香剤みたいなチープなものは論外です。しかし、せめてコロンくらいは軽くつけてもいい時代じゃないかなぁ。良い匂いの男が増えるのは、女性にとっても決して悪いことではないでしょう。

 

 ただね、そうした香水のつけ方というか、ノウハウを知らないんですよね。かく言うボクだって、そんなもん分かりゃしません。「男の香水講座」なんていうのがあったら、ぜひとも参加したいくらいです。

 中には、アトマイザーでシュッと上方に吹き出して、その香りのカーテンみたいなところをササッとくぐり抜ける、という方法も読んだことがありますが、そんな冗談みたいなやり方で香りが本当に身につくのかなぁ。香水は高価なので、これでは「歩留まり」がすごく悪いですよね。

 

 上着の襟の裏側にちょいと付けるという方法もあるようですが、ボクはやったことがありません。これは誰かの鼻が襟の直近にくることが大前提であり、すなわち服を着た状態で女性と抱き合う機会がなければ、効果を発揮し得ないからです、残念!

 

 身だしなみとしては、香水より弱いコロンを外出1時間ほど前に軽く素肌につけて、香りが落ち着くのを待つという感じかな。つける部位や方法はともあれ、男の香水は「ほのか」が最重要なキーワードだと思います。さもなきゃ若い女性に「キモい」と言われかねないので、その案配が実にまったく難しい。分量や部位を様々にトライアルして、親しい女性または奥様のご意見を拝聴するというのが最も現実的な方法ではないでしょうか。

 

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2017年4月25日 (火)

違和感(続)

 

 薄皮一枚、というのかなぁ、そんな違和感に子供の頃から悩まされていたように思います。どうにも溶け込めない現実感覚というのか、もしかすると自分だけが遊離しているんじゃないかと。

 

 仕事が忙しい時は紛らわせることもできるのですが、大きな山を越えてホッとしている時なんかに、こういう感覚が蘇ってきます。1年半ほど前にも似たようなことを書いたので、タイトルを()としたくらいです。

 

 だからといって、日常生活などに問題はまったくありません。仕事も含めて、きっちり社会に適応してきたつもりですが、たまにね、不安でどうにも落ち着かない孤独感に襲われるのです。たとえばアポの時間より早く現場に到着して何気に待っていると、ボクが見て体験していると思い込んでいることは、ホントに現実と呼ばれるものなんだろうか、と。

 

 ひょっとすると夢みたいな想像の中に生きているのではないか、なんてことを感じているのはボクだけではないらしくて、中国の唐代には『邯鄲の枕』なんていう小説も書かれました。「邯鄲の夢」ともいわれるように、人生の栄枯盛衰を束の間の夢として見てしまった男の話です。

 

 これをもっと分かりやすく映画にしたのが1999年に公開された『マトリックス』ですよね。主人公のネオは「あれ? 何だかヘンだぞ」という違和感に悩まされており、やがて自分が機械の作り上げた仮想世界に生きていることに気づかされます。

 

 そうした違和感を唐の頃から意識した人がいて、現代でも似たようなことを基本テーマにして映画を撮る人がいるということは、やっぱね、この現実というのは、どこか違和感をもたらすような要素があるってことになります。

 

 特に人間社会ですけど、こんなものは25万年ほど前にホモ・サピエンスが出現するまで存在していなかったわけですから、彼らのイマジネーションを実体化してきたものに過ぎません。だからこそ、世間的な様々な約束事や常識みたいなことが、突然にリアリティを失って見える時があるのです。

 

 では自然のほうは現実感があるかといえば、必ずしもそうではありません。桜の花びらが渦を巻く風の中に舞い散るのを見た時は、息を呑むほど茫然としました。こんなにも美しい光景が現実であるはずがない、なんてね。

 

 ボクのような違和感を持ったことがないという人には、ひどくつまらない話に思えるはずなのでもうやめますが、たかが薄皮一枚なんですよね。その正体が果たして何であるのか、今もって分からないのです。


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2017年4月24日 (月)

バツイト

 

 以前にご紹介したように、歯石を除去するためのフラップ手術を2回ほど経験しました。簡単にいえば、歯茎をメスで切開してからゴリゴリと歯垢や歯石を削り取るという、昔の歯科ではほとんどなかった本格的な外科手術です。

 

 痛いことが大嫌いなボクは、こんな大仰なことが本当に必要なのだろうかと疑ってしまいますが、インプラントのような自費診療ではなく、健康保険の対象になっているので、やはり必要不可欠な処置のようです。全国健康保険協会東京支部のウェブサイトによれば、それをしないで歯周病が進行すると、歯と歯肉の境目=ポケットが深くなり、やがて土台の骨が溶けて歯がポロリと抜け落ちるという恐ろしい事態が写真付きで解説されています。

 

 そんなことになるまで長生きしたくはありませんが、このフラップ手術をしないと仮歯を本格的な入れ歯にできないというのだから仕方ありません。土台が崩れたら、せっかく入れた義歯もダメになってしまうというのは、素人のボクにも分かる理屈です。

 そんなわけで、仕方なくというか、正直いえば泣く泣く4月半ばに2度目の手術を受けました。ちょっとでも痛みを感じると、左手を上げて、口を開けたままで「いはいんへすへど」(痛いんですけど)と麻酔を何度も要請。おかげで処置自体に痛みはそれほど感じないのですが、およそ90分も口を開けっ放しにする関係で、顎の付け根が次第に苦痛になってくるのです。こんなに長いのはボクだけなのかな。

 

 5月下旬に最後の1回が予定されているので、「途中でお休みがあるといいんですけどねぇ」と主治医に要望。インターバルを挟んでいただく予定なので、いくらか気が楽にはなりました。

 

 いつものように違う方向に話題が発展してしまいましたが、このフラップ手術は歯茎を切開する関係で、治療後はそれを縫い合わせることになります。ということは、しばらくすると糸を取らなきゃいけませんよね。

 

 これを「抜糸」と呼ぶのですが、「次回はバッシですよね」と受付に聞くと「はい、バツイトになります」というではありませんか。もしかすると漢字の読み方を知らないのかと確認すると、「歯科ではバツイトと言うんですよ」と逆に教えられてしまいました。歯科で一般的な治療は「抜歯」であり、こちらも「バッシ」ですから、混同を避けるために敢えて“重箱読み”にしているのです。

 

 普通なら「それ違うよ」と突っ込みを入れるところですが、こうした特殊な読み方をしている業界はほかにもあるんじゃないかな。治療後に顎がちゃんと嵌まるだろうかと本気で不安になりましたが、ボクたちの知っている「普通」や「常識」なんて所変われば品変わるということを再認識できて、ちょっと勉強になりました。

 

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2017年4月21日 (金)

だから嫌われる?

 

 自分ながらセンスや感性に乏しいなぁと呆れることがしばしばあります。本日も某テレビで、濃いめのチェックのシャツにストライプのネクタイを組み合わせたゲストコメンテイターを見て、「うっひゃあ」と驚きました。とてもじゃないけど、ボクはこんな格好はできません。

 

 これは、いわゆる「パターン・オン・パターン」というコンビネーションでありまして、ヘタすりゃ見た人に目眩を起こさせる危険なワザなので、オシャレ上級者しかやっちゃいかんとボクは大昔に教えられた記憶があります。簡単にいえば、格好いいとゴチャゴチャが紙一重なんだから、センスや感性の鈍い奴はしないほうが無難ということです。

 

 前述したように、ボクはそんなものの取り置きは親の代からないので、模様ありのシャツには単色のネクタイ、柄物のネクタイをする時はプレーンなシャツを合わせてきました。ああ、にもかかわらず、ボクと似たような年齢のオッサンがパターン・オン・パターンだもんなぁ。それでテレビに出るのですから、自分のセンスに相当な自信があるのだろうと尊敬いたしました。

 

 このように、センスや感性にも必ず言語化された理論はあるはずだとボクは思うんですよね。「これイケてる、これイケてない」だけで理屈がなければ、感性も共有されにくいので、世界が閉じてしまうじゃないですか。

 にもかかわらず、そうしたセンスや感性を言葉にしない人も少なくないんですよね。草間彌生に「どうして水玉なんですか」と聞いたら、「それしか描きたくないのよ」と言われそうですが、彼女のようなアーティストでない限りは、口で説明されなきゃ分かるはずがありません。

 

 そんなわけで、デザインやイラストなんかも「ここがこうだからこのように良い」とか「ここがこうだからこのようにイケてない」と論理的に言わなきゃいけないとボクは信じてきました。さもなきゃ適切に修正できないし、将来に向けての進歩もないですよね。けれども、そこで言葉を失ってしまう人もいるのです。

 

 ここに2人の人間がいるとすると、犬や火星人から見れば同じホモ・サピエンスかも知れませんが、同じ景色を見ていても、心に映る風景はそれぞれ違います。遺伝子が異なり、生育史も違えば、世界観だって相当な隔たりがあって当然です。だからこそ人間は言葉を発明したのですが、こんなものは発想を引き出すキーワードに過ぎないことをご理解いただけるでしょうか。たとえば「明るい」という一言だって「眩しいくらい」のレベルから、「暗くはなくなった」というところまで感じる段階はいろいろあります。

 

 だからね、言葉っていうのは、数学における数字や公式のような確固たるコミュニケーションにはほど遠い伝達手段なのです。それゆえに「言葉を尽くす」みたいなことをしないと、正しく通じません。それどころか意図的にねじ曲げて理解しようとする「曲解」というワザもあるから怖いんだよな。

 

 だから、うまく言語化できないものにぶち当たった時は、黙るというのも確かに有力な方法です。何よりバカがバレない、とはあくまで冗談なので気を悪くしないでいただきたいのですが、「いいね」「うん、いいね」「すごくいいね」「うん。ものすごくいいよ」だけでは何も話が進まないじゃないですか。

 

 というわけで、ボクは仕事柄もありますが、何でもかんでも言葉にしようと努力します。けれども、そのプロセスで批判めいたことも含まれることが少なくありません。そんな危惧もあって、近頃は黙りがちになる時もしばしばあります。

 

 前述したように、人間1人ひとりの世界観は、いかに似たように感じられても絶対的に異なると思うのです。その一方で、同じ人間であることは共通しているのですから、はるかな昔の原記憶や、基本的な感性に極端な違いがあるはずがない。だからこそ言葉を発しなきゃいかんだろうと。さもなきゃ人間は、知恵があるだけに、恐ろしく孤独な存在になってしまう。

 

 えーと、何だか愚痴めいてきましたが、言葉をうまく使う人は、キーワードとしての機能を熟知しているんだろうなと。「それではダメなんですよ」では相手の気分を悪くさせるけど、「もう一息ですよね」なら受ける印象は180度違います。それに気づいたのは、恥ずかしながらつい最近ですから、まだまだうまく言い換えられません。
 だから、嫌われるんだろうなぁ。

 

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2017年4月20日 (木)

GINZA SIX

 

 先週の金曜日に、銀座の松坂屋跡地に誕生したGINZA SIXに行ってきました。

 

 とはっても、全部で241のテナントが入居する銀座最大の複合商業施設であり、ボクは杖というハンデキャップを持つオッサンなので、全部を見て回る体力はとてもじゃないけどありませんでした。よって、詳しいことは他のネットを参照してください。

 

 ただ、建物の感想としては、実にシンプルというか、店舗などの配置がとても見やすく分かりやすい設計になっていると思います。ごく簡単に説明すると、中央に吹き抜けのある「ロ」の字型になっており、見通しも大変によろしいのです。

 

 それに比べて、と瞬間的に思い出したのが六本木ヒルズなんですよね。調べてみたら開業は2003年。はや14年も経過したのかと、時の流れの慌ただしさに愕然とします。

 仕事や映画観賞などで何度も行ったことがありますが、今もって全貌を把握したとはいえません。テナントも変わりますから、まさに迷路みたいなものです。実際に、隣のホテルに宿泊した外国人が軽い買い物に出かけて帰り道が分からなくなり、寒さと飢えで遭難しかけたと聞いたことがあります。って、そんなのウソぴょーんですけど、迷ったことは事実だそうですよ。

 

 そんな六本木ヒルズとGINZA SIXを比較することにまったく意味はありませんが、時代が求めるものが変わってきたのかなという感じはします。面倒くさい謎解きなんかより、もっと分かりやすく、より利用しやすい商業施設が求められるようになったのかもしれません。日本全国、いや世界中から老若男女が集まる銀座という土地柄もあるでしょうね。

 

 その意味では、GINZA SIXは誰もが気軽にショッピングを楽しめるようになっていると思います。田舎から出てきた人を六本木ヒルズで一人ぼっちにするのは心配ですが、ここなら待ち合わせ場所さえ決めておけば大丈夫じゃないかな。

 

 その中の店舗については、241のすべてを見たわけではないので何も言えませんが、ボクが最も興味を持ったのは、アバンギャルドなデザインの着物を展示した和装屋さんでした。大胆な色彩と絵柄が美しいだけでなく、デニム地などを使ったものもあるそうです。商売柄で、どうしてもこうした新しいものに目を惹かれてしまいますが、何しろ和装といえば上から下まで揃えたら何十万円もかかりますよね。それだけに長く着られるものを選ぼうとする傾向が強くなるため、伝統的なデザインのほうが圧倒的に売りやすいんじゃないかな。だからこそ、こうしたチャレンジングな試みに肩入れしたくなるわけです。

 

 いずれにしても、週末の新しい散歩先として、しばらくは銀座6丁目に通ってみようと思います。

 

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2017年4月19日 (水)

ファクス

 

 ファクスが壊れました。コピーとの複合機でありまして、そちらの機能は正常だったので、どうやらPBX(社内交換機)に問題があるようです。

 

 昔なら大慌てで業者を呼んで修理してもらうところですが、「その日は予定が一杯なので」という返事に「じゃ空いている日でいいです」と切迫感はまったくありません。ファクスを使う頻度が激減しているからです。今年はマンション管理組合に総会欠席の紙を送ったのが1回。受け取るほうも、昨年にどこからかDMみたいなものが来ただけ。

 

 今や電子メールのほうがよっぽど便利ですからね。カラーで送受信でき、プリントする紙だって不要。大量のデータも圧縮してファイル便に乗せれば瞬時なので、コストを大幅に削減できます。そんなわけで、ボクの事務所でファクスを使うことは滅多にありません。受け取る方も同様なので、大慌てで修理する必要はなく、いっそのこと解約しちゃおうかなとも考えたくらいです。

 

 かつてはオフィスの必需品で、そういえば女性のスタッフに「これ、ファック、スしといて」と妙な間を空けて発音する奴がいたなぁ。ジョークというよりセクハラまがいですけど、当時は許されていたのです。

 

 そんなわけで、もはや世間様もファクスなんてとっくに用済みだろうと思っていたら、修理担当者によれば意外にも違うらしい。

 

「頻繁に利用されるお客様はまだまだ多いですよ。だから通信不能になると大至急で修理を要請されるので大変なんです。個人的には電子メールのほうがよほど便利なのにと思いますけどね」

 

 ネットを検索してみると、実際にファクス利用者は依然として少なくないことが分かりました。海外では博物館に展示されるくらいの骨董品になっており、ほぼ絶滅状態にもかかわらず、日本だけ生き残った理由は、電子メールなどをうまく扱えないデジタルディバイドだけでなく、紙として残せることを重視する傾向も強いみたいですね。

 

 電子メールのテキストデータは後から変更や消去も可能ですけど、いったんファクスで送って印刷された紙はそうはいきません。たとえば商品発注伝票などは、日付も記載されるので、それが契約書と同じような証拠能力を持つということもメリットになっているようです。

 

 だったら発注伝票をスキャンしてJPEGにすりゃいいじゃんとボクは思いますが、そんな手間をかけるんだったら、そのままファクスしたほうが手早いじゃないかと反論されそうだなぁ。

 

 海外に比べて日本が異質というより、時代や社会なんて急には変わらないと考えるべきでしょうね。特にファクスは送り手と受け手が存在するので、余計に変化するのに時間がかかるのかもしれません。

 ボクのような急進派はじれったく感じてきましたが、こだわる人にはそれなりの理由があるわけで、ちょっと勉強になりました。

 

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2017年4月18日 (火)

宝クジに当たったら

 

 もしも、奇跡的に、たまたま買った宝くじが高額当選したら、あなたはどうしますか。

 

 すぐに「貯金!」とか「投資!」と叫ぶような、思慮や想像力に著しく欠けるつまらない回答はNGです。銀行や証券会社を儲けさせると嬉しいことや楽しいことでもあるのでしょうか。

 

 ついでに不動産もアウトです。都心の高額物件なら2億や3億は秒速ですぜ(契約や登記などの手続きはありますが)。だったら伊豆あたりの大型別荘なんて、どうにも発想自体が貧困というほかありません。老後に備えて高級老人ホームの権利を買っておくなんていうのも、もってのほかです。

 

 もちろんワタクシ、そんなものを買えるほどの財力も才能も、宝クジにみごと当選するほどの強運も持ち合わせておりません。だからさぁ、ひとときの思考的娯楽として、仮に当たったならば、何に使おうかなぁと。

 

 ちなみに、ボクの場合は、と書きかけて、根が貧乏性で贅沢をした経験がないせいか、あまりにもつまらないことばかりなので呆れ果てました。もっと「夢」を感じられる使い途はないのでしょうか。

 

 けれども、「夢」を感じられるカネの使い途っていったい何だろうと、しばらく考えてみました。皆さんも、ちょっと考えてみませんか。

 

 では、答あわせです、って、学校の試験じゃないのでもちろん正解なんてありません。ボクなりに考えたところによれば、自分のためのカネの使い途なんて、どうあがいても限界があり、とてもじゃないけど「夢」があるとは思えないのです。

 

 では、どうすりゃいいか。むしろ逆に、他人や社会のために使うというのが、最も「夢」を感じられる方法ではないでしょうか。

 

 知人や恋人などが喜ぶ何かを買ってあげるというのはもちろん、ボクなんかは学校や病院を作りたくなるなぁ。宝クジの当選金なんぞでは間に合いそうもありませんが、それだけにどんな学校や病院を作ろうかと考えるだけでも、半日くらいはヒマつぶしになります。

 

 日々の仕事に追われるだけでなく、たまにはそんな「夢」と遊んでもいいのではないかという提案でございます。

 

 

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2017年4月17日 (月)

『小指の思い出』

 

 立場が人を作る、とか人を育てる、なんていわれます。ボクは逆に、立場が人を歪めるとも言えるのではないかと。北朝鮮なんかもそんな気がするなぁ。普通に暮らしていたらとてもいい人なのに、様々な疑心暗鬼が絶えず心を脅かすような立場になったら、粛清とか暗殺とか戦争準備を指示してしまうのではないでしょうか。だーからね、指導者には確固たる崇高な理想が必要なのであります。

 

 それはさておき、「あなたが噛んだ、小指が痛い」で始まる『小指の思い出』です。1967年に伊東ゆかりがシングルレコードとして発表。たちまち大ヒットして、同年の第9回レコード大賞で歌唱賞が授与されています。ボクは子供ながら、このイントロをすぐに覚えてしまいました。当時は演歌のほかにジャンルはなく、いわゆるポップスは流行歌=はやり歌と表記されており、年齢を問わず愛唱されていたのです。

 

 それにしても、ただならぬ内容の歌だよなと思ったことを覚えています。

 

あなたが噛んだ 小指が痛い

きのうの夜の 小指が痛い

そっとくちびる 押しあてて

あなたのことを しのんでみるの

私をどうぞ ひとりにしてね

きのうの夜の小指が痛い

 

 昨晩に何があったかは一言だって表現されていませんが、あーしたり、こーしたり、いろいろあったんじゃないのと想像しないでいられるでしょうか(いやいられない)。女性の小指を恋人の男性が噛む(それすら歌詞ではきちんと説明されていません)という状況は、小さな子供にも普通のことじゃないよなと気づかせます。

 

あなたが噛んだ 小指がもえる

ひとりでいると 小指がもえる

 

 痛い、だけでなく、燃えちゃうんですよ。萌える、にしても、どんだけ気持ちのいいことをしたのでしょうか。というのはあくまでも冗談で、こんなにも深い含みのある歌詞はとてもボクなんぞには書けません。

 

 有馬三重子による余韻たっぷりの歌詞に、鈴木淳のスローでロマンチックな曲想がぴたりと合致するだけでなく、清楚な可憐さと大人の情感を融合した伊東ゆかりの歌唱が実に素晴らしい。スタンダードになった名曲のほとんどは、こうした奇跡的または運命的ともいえる出会いがあるんですよね。

 

 ちなみに、カラオケで歌ってみてください。伊東ゆかりのようには絶対に歌えないことが分かります。歌詞と歌詞の微妙な間がね、素人には決して埋められないのです。だから歌を敢えてメロディから遅らせたりするのですが、それをすると情感が損なわれてしまうんだよな。昨晩のあれこれを含羞も込めて思う歌ですから、秘かにポツリポツリと語らなきゃいけない。つまり足し算ではなく、「引き算」ができないとダメなのです。

 

 後にサザンの桑田佳祐がカヴァーしていますが、これはもう別の歌といっていいんじゃないかな。いずれにしても、昔の歌と歌手はすごいなぁと改めて感心せざるを得ません。そして、それまで抑えられてきた熱い恋心と情愛が、最後となる3番で奔流のように歌われるのです。

 

あなたが噛んだ 小指が好きよ

隠していたい 小指が好きよ

誰でもいいの 何もかも

私の恋を おしえてみたい

ほんとにだけど 言えないものね

隠していたい 小指が好きよ

 

 じっと目を見つめながらこれを歌われたら、どんなにいけない関係であろうとも、ボクならさっさと垣根も平気で越えて、小指を噛みたいほど惚れるだろうなぁ。

 ちなみに、の2回目ですが、こういう歌を上手に歌おうと思ってはいけません。ヘタでも音程がずれても構わないので、特定の人を思い出しながら心を込めて歌うことがコツです。今の歌手はこういう歌がヘタクソになったのではないでしょうか。

 

 さて、どうしてボクがこんな昔の歌を思い出したかというと、先日に久しぶりに本格的な革靴を履いたんですよね。そしたら、右足の小指が痛くて痛くて。その隣の薬指(足でもそう呼ぶのでしょうか)の関節にあたるところに白いタコができてしまいました。今でもそれが痛いので、「小指の思い出」。色気のカケラもないオチで恐縮です。

 

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2017年4月14日 (金)

国家の本質は政権?


 ある程度の仕事経験を持つ人にはご理解いただけると思うのですが、いったんケチが付いた仕事って、まるで呪われたようにうまくいかないことが続きますよね。おかげで本日は早朝から定期検診があることもすっかり忘却。慌ててブログに取り組んでいます。

 

 取りあえずの話題として、緊迫する朝鮮半島情勢ですが、あの国を見ていると、いろいろなことに気づかされます。

 

 まず、以前にも指摘したように、国家というのは必ずしも地理的や民族的に自然発生したものではなく、政権が作ったものだということを再認識させられるのです。だってね、戦前までは日本の植民地だったにせよ、北も南もなかったんですよ。

 それが日本の敗北で、重い蓋がなくなったかのようにいきなり2つの国家に分断され、それぞれ大国を背後にした悲惨な戦争で同じ民族が殺し合うことになったのです。こりゃもう国家というのはどう考えても政権そのものということになるではありませんか。ということは「愛国心」というのは、つまり「愛政権心」ってことになるのかな。今なら「愛自民党心」でしょうか。ならば国旗掲揚や国歌斉唱は、いったいどんな意味を持つのかと考えてしまいますよね。

 

 戦争にしても、やはり政権が強力に推し進めた結果の事態であることが分かります。生活を切りつめてまで戦車や戦闘機やミサイルや核開発を進めるなんていうのは、やはり国民の総意とは考えられません。ご家庭で財布をはたいてナイフやライフルを何本も買うより、美味しいものをもっと沢山食べたいって思いませんか。

 

 おっと、もう時間がありません。そろそろ病院行きのバスに乗らなきゃいけませんが、東西に分断されたドイツだって1990年に再統合されたのですから、そろそろ一緒になれないのかなぁと。それを阻んでいるのもやっぱり政権だとしたら、そんな制度なんかさっさとやめて、むしろ大昔のように小さな領主たちが小さな権力を持って寄り集まっていたほうが平和だったのかなとも思ってしまうんですよね。

 とするなら、近代国家は戦争をやって勝つために生まれてきたのでしょうか。帝国主義の論理も分かるんですけどね。いずれにしても、20世紀の歴史をもう一度しっかり見直すべきではないかと本気で思う今日この頃なのであります。

 

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2017年4月13日 (木)

もう乗らない

 

 声高に文句は言いませんが、絶対に乗らないと決めた航空会社がいくつかあります。えーと、そのうちの1つが、一昨日に乗客を無理矢理に引きずり降ろそうとした映像が問題になったユナイテッド航空です。

 

 ボクがアメリカでの乗り換えで似たようなことを経験したのは90年代末頃でした。全員が搭乗してシートベルトを締め、いよいよ離陸という段階で、突然に航空機のドアが開き、職員が乗り込んできました。こんな経験は一度もなかったので、何事かと思っていたら、大きな声で「ボランティア!」と叫ぶわけです。別に車椅子の介助者を募集しているわけではなく、飛行機から降りる希望者を募るという意味でした。でね、オマケとして「ミールチケット」を付けるというではありませんか。

 

 飛行ルートの途中に台風が居座っていて迂回しなきゃいけない。ついては乗客を減らして機体を軽くしないと燃料がもたないというのが理由でした。この「ミールチケット」が取りあえず効いたらしく、2~3人がそそくさと飛行機から降りました。それでもまだ足りないらしく、しばらくすると「空港ホテルの一泊無料宿泊券」にアップグレード。それでまた3~4人が降りて、どうにか飛べるようになったのは定刻から1時間以上も後でした。

 

 そんな経験をしたので、今度の報道は「まだそんなことをやっていたのか」という印象なんですよね。

 

 この荒っぽさはエコノミークラスでしばしば体験したので、無理して自腹でビジネスクラスに乗ったこともありますが、その当時は席が驚くほど狭くて、新幹線のグリーン車のほうが快適ではないかと思ったことを覚えています。

 

 これらはすべて20年ほど前の話なので今は知らないということを念押ししておきますが、とにかく、ここに紹介した以上の不愉快なことにも遭遇したことから、「この会社は飛行機でなく、空飛ぶ乗り合いバスなんだ」と強く認識しました。でね、もう絶対に乗ってやるもんかと。

 

 幸いにアメリカ本土に行く機会がなくなったので、この宣言は貫徹してきました。しかしながら、その空飛ぶ乗り合いバスが米国では最大のネットワークを持っているので、利用せざるを得ない人も多いでしょうね。

 

 それでも、こういう会社のあんな態度を是正するためには、乗車拒否しかないんじゃないかな。つまり他の航空会社との「競争環境」を作らない限りは、役人体質丸出しというと日本の公務員に叱られそうだけど、強権を平気で発動するような体質を許すことになるでしょう。

 

 朝っぱらから気分を悪くさせるような話で恐縮です。ちょっと思い出したものですから。えっ? そのほかに絶対に乗らないと決めた航空会社はどこですかって? ?><*``0’%%#””と、0&$W+_{|$$#です。

 

 

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2017年4月12日 (水)

『オルガ』

 

 日本のシャンソンは、オリジナルは確かにフランスにしても、歌手によっては本場よりも優れているのではないかと思わせる楽曲があります。

 

 たとえば金子由香利の『再会』は、もともとはニコレッタという歌手が1969年に発表したのですが、原曲はフラットなポップス調というか、抑揚に乏しく感じられます。そのせいか、フランスではほとんど人気がなかったようです。ところが、これを故・矢田部道一氏が訳して金子由香利が歌い、日本では一気にポピュラーとなりました。今ではシャンソンのスタンダードな名曲であり、多くの歌手がカヴァーしています。

 

あら! ボンジュール

ひさしぶりね

その後 おかわりなくて

 

あれから どれくらいかしら

あなたは 元気そうね

 

 これだけで内容を想像できるのが歌詞の優れたところですが、この歌を金子由香利は、かつての恋人がまるでそこにいるかのように情感を込めて語りかけます。豊かな声量を持つ人なのですが、敢えてそれを抑えながら呟くように歌うからこそ、心中を往来する過去の甘い生活や悲しい別れを想わせるのです。

 「あら! ボンジュール」だけは、日本語でそれはないだろうと最初は笑いましたが、よくよく考えてみれば「フランス(やはりパリかな)の街頭で出会った」ことを強調しているんですよね。「あら、こんにちは」では銀座か浅草それとも新宿ということになって、シャンソンのお洒落な風味が著しく減退していたはずです。

 

 いずれにしても、金子由香利はニコレッタの原曲を再解釈し、独自の歌い方でシャンソンの新しい名曲にしてしまいました。それくらい素晴らしい歌手ですから、オリジナルに忠実な楽曲でも、やはり情感に満ちた彼女特有の世界が展開されています。飽きるほど聴き続けた前述の『再会』にかわって、ボクが最近特に気に入っているのが『オルガ』です。

 

古びたショールを肩に

真っ赤に酔いしれて

酒場の扉を開けて

オルガは入ってきた

 

 訳詞がなかにし礼だけに、どうです、これからいったい何が始まるんだろうとワクワクするようなイントロでしょ。シャンソンは哀愁に満ちた曲想はもちろん、歌詞=言葉の世界がね、奥ゆきのあるドラマになっているのです。それに比べて、と言うのは爺の繰り言の定番的な前ふりですが、近頃の日本の歌は底があまりにも浅いなぁと。

 

 この『オルガ』は作曲がシャルル・アズナブール、作詞が『ラ・ボエーム』のジャック・プラント。さらに歌手はジュリエット・グレコですから、シャンソン界の大御所が揃っています。でもね、ボクはグレコよりも金子由香利のほうがしっくりと心に刺さるんだよな。

 

オルガは口ずさむ

古びた恋の唄を

本当よ わたし 歌手だったの

本当よ 大スターだったのよ

誰もがわたしに よくしてくれたわ

 

 酒場で語られる、酔った老婆のウソとも本当ともつかない昔話をみんなが面白がってはやし立てる様子を、金子由香利はあたかも演劇の一場面のように表現します。転調を繰り返す難しい歌なのですが、それに合わせてみごとに声音を使い分けているのです。

 

 そして、オルガの奇矯な思い出話をからかうみんなも、この歌を聴く人自身も、やがて年老いて、彼女のようになってしまうかもしれないと感じさせるところがね、すごいんだよなぁ。

 

 イタリアにそんな料理はないといわれるナポリタンのように、といえばあまりにも下世話な比喩ですが、決してフランスの真似事ではなく、日本には日本のシャンソンがあり得ることを金子由香利はいみじくも実証しました。

 行きつけになってしまった銀座のシャンソニエから、彼女に続く歌手が育っていくことを切に期待する今日この頃なのであります。

 

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2017年4月11日 (火)

落ち込みやすい日

 

 TBSの朝番組によれば、本日のボクの星座=蟹座は「落ち込みやすい日」だそうです。自慢じゃありませんが、ワタクシ、めっぽう暗い性格なもので、ほとんど毎日が落ち込みやすい日となっております。だったら、よーし、本日はその占いと勝負してやろうじゃないかと、決意を新たにしちゃいますぜ。

 

 第一ですね、こんな根拠の乏しい占いなんてものをテレビのキー局で、しかも早朝のニュース番組でやっている国なんて、どれだけありますか。寡聞にしてボクの知る限りでは日本だけです。少なくともヨーロッパのテレビで見たことがありません。中国は知りませんが。

 

 たとえばニュース専門チャンネルのCNNで「本日の星占い」なんてやっていたらどう思いますか? そういうことを信じる放送局なのかと失望しませんかね。そりゃ信仰は自由だけど、公共性の高い放送にそれを持ち込むのはどうかってことに、テレビ局の関係者は気づかないのでしょうか。何年も前から地上波に呆れてほとんど見なくなっているので、ホントはどうでもいいんですけどね。

 

 それに、日本の総人口は昨日のブログで紹介したように、約1億2700万人です。キリのいいところで1億2000万として、12星座が同率で存在するとすれば、蟹座は約1000万人いることになります。これだけの大人数が一斉に「落ち込みやすい日」に突入するなんて、すごい光景だよな。ゼロ歳から80歳を越えたご老人まで、地域を問わず、みんなが頭を抱えてうずくまる「落ち込みやすい日」になっちゃうんですかぁ。

 

 この数字は十二支の占いでも同じになるので、「本日のウマ年は」といっても全国1000万人が同じ運命を辿ることになります。さらに、こうした占いを大体の人は自分のことしか見ませんが、ボクのような偏屈な人間になると他人の運勢まで読んでしまうので、いろいろ見ているうちに、要するに全体として「吉凶相半ば」するようにバランスされていることに気づきます。

 

 けっ、そんな作為的なものが信じられるかいって思ってしまうからこそ、毎日が「落ち込みやすい日」になるんだろうな。仮に「新しい出会いがありそう」なんてされたら、とっとと疑いなく信じたほうがハッピーだもんね。

 

 昨日に歯茎のフラップ手術で歯石を取りまくった関係で、左の顎下がまだズキズキしております。すると、やっぱり「落ち込みやすい日」はもしかするとアタリなのかなぁ。「モノは考えよう」と言われたら、「それもそうですね」というほかありませんが。

 

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2017年4月10日 (月)

国と地方自治体

 保育所に入れない待機児童の問題は、もしかすると「逃げ水」と似ているのではないでしょうか。というのも、ボクが幼児の頃にオフクロが保育所探しに苦労したなんて聞いたことがないからです。

 その頃は保育所が今より多かったなんてことはあり得ず、ちゃんと調べてはいませんが、むしろ少なかったんじゃないかな。にもかかわらず、待機児童なんていう言葉はありませんでした。

 ボクがこの言葉を初めて聞いたのは、2001年に総理大臣になった小泉純一郎氏の所信表明演説です。昔なら紙の資料を引っ張り出して探さなきゃいけませんでしたが、さすがはインターネット時代でありまして、テーマが明確ならすぐに検索できます。該当部分は以下の通り。

 「女性と男性が共に社会に貢献し、社会を活性化するために、仕事と子育ての両立は不可欠の条件です。これを積極的に支援するため、明確な目標と実現時期を定め、保育所の待機児童ゼロ作戦を推進し、必要な地域すべてにおける放課後児童の受け入れ体制を整備します」

 今から16年も前に、こんなにご立派な言葉で「待機児童ゼロ作戦」宣言がなされていたのです。なのに「保育園落ちた日本死ね」が昨年の新語・流行語大賞の候補(トップ10)ですからね。
 衆知のように、その背景には共働き家庭の増加があります。これを美しく換言すれば「女性の社会進出の活発化」となり、正直なホンネで言い直せば「出産後も働かざるを得ない家計環境」となるのかな。
 いずれにせよ、子供を産んでも働きたい、あるいは働かなきゃいけない女性がどんどん増加すれば、保育所の数はますます足りなくなって当然です。つまり、小泉氏が演説した頃から保育所は「逃げ水」みたいなもので、少しずつ増やしていくようなやり方では需要にまるで追いつかなかったといえるでしょう。

 かといって保育所を一気に増加すれば、将来的にどうなるか。日本の総人口が減少に転じたことを考慮すれば、そんなに多くの保育所が存続できるとも思えません。

 このあたりの見通しや予測を、本来は厚生労働省や総務省が策定しておくべきなのに、できなかったからこそ「日本死ね」と呪詛されたのです。それが10数年以上も続いてきたことを考え合わせれば、国政はもはや社会動向を正確に把握し、諸処の問題を解決できなくなってきたと判断できるのではないでしょうか。

 待機児童に限らず、医療や年金に福祉・介護などなど、国が満足に対応できていない問題や課題は山のようにあるんじゃないかな。そりゃそうですよ。58万人程度の国家公務員(平成28年度末予算定員)が、1億2700万人=5340万世帯(平成27年国勢調査)の面倒を見切れるはずがありません。手に負えなくなってきたと言ったほうが早いかな。

 仮に人員を増やしたところで、予算がかかる割に効果は薄く、両手ですくった砂粒が指の間からこぼれ落ちるように多くの問題が必ず残ります。というのも、行政は国→都道府県→市→区→町村といったピラミッドになっているからです。この構造で、たとえば国の役人が町や村の実情を肌身で知ることなんてできますか。せいぜい分かるのは数字というデータだけですよ。

 だーからね、このブログでしばしば指摘してきましたが、社会の問題や課題に迅速かつ適切に対処していくためには、地方分権しかないんじゃないかな。社会が高度化・複雑化して、さらに情報化によって変化も加速しているのですから、少なくとも行政と国民の距離をもっと近くすべきでしょう。

 もちろんインターネットの活用も考えられますが、それだけでは人間の体温や息づかいみたいなものは伝わってきません。やはり大胆な行政改革を行って、国政は外交や防衛などに限定。国の権限のほとんどを地方自治体に拡散すべきです。それしか「逃げ水」に追いつく方法はないはずなのに、現実は逆でありまして、むしろ国の権限が昔より強くなっていると思うのはボクだけでしょうか。

 それがね、もしかすると巷間言われる現政権とナントカ会議が目指す「戦前回帰」の正体ではないかと。国家統制の強化とまでは敢えて言いませんが、それが国民のニーズを満たすにはかなり困難な政体であることは、前述した理屈からご推察いただけるのはないでしょうか。

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2017年4月 7日 (金)

死に方

 

 犬の福助が病院から戻ってきました。

 

 近頃はエサの食いつきが良くないなぁと感じたので、念のために動物病院で診てもらったら、グラグラの虫歯や歯石などで、かなり口内が悲惨なことになっていたようです。だから大好きなエサを出すと皿までは跳ぶようにやって来るのに、口をつけるのをためらっていたのだと分かりました。

 

 そんなことに気づいたのは、ボク自身が1年あまりも歯医者にかかっており、虫歯の処置やら歯石除去などを経験してきたからです。タコやイカ、エビといった歯応えのあるものが好きなのに、虫歯の進行でロクに噛まずに呑み込んでいた時があったので、もしかして福助も同じではないかと疑ったわけですね。

 

 ボクのほうは順調に義歯化が進み、とはいっても来週は歯茎の皮を剥いて歯石を削り取るという身の毛もよだつようなフラップ手術が予定されています。それをしないと仮歯から解放されないというのだから仕方ないじゃないですか。歯の神経をゴリゴリほじくる処置が完全に済んだというのに、まだこんなことをやらなきゃいけないのは、長年の不摂生の報いではあります。

 

 何しろ歯磨きなんていうのは口臭を防ぐ程度の意味しか感じていなかったので、1日1回の秒速でしたからね。

 

 人間はそうした予防措置が普及していても、犬が毎朝歯磨きするところなんて見たことがありません。このため、飼い主が歯ブラシを使うケースも増えているらしいのですが、福助の口の中に何かを突っ込んだら、ほぼ間違いなく食われます。ということで放置していたら、上記のような状態になってしまいました。

 

 ただ、福助はもう15歳ですからね。昔なら10歳でも長生きとされたので、それを5年もオーバーした爺さんです。だったら歯もグラグラにもなるだろうし、頑固な歯石だってへばりつくってものです。衛生環境と栄養が飛躍的に向上したおかげで、人間の長寿化が進行。それに伴ってペットも長生きするようになったようですが、口内はそれに追いついていないみたいですね。

 

 これは人間もまったく同様で、骨粗鬆症や認知症など、高齢化によってもたらされた新しい病気が問題になっています。ガンにしても老化によって顕著になってきたといわれますから。

 

 赤ん坊が大人になる時に心身の各部位が均等に成長していくわけではないように、老化や死もバラバラで不規則に進行していくということです。それによる生き方の阻害を防ぐためには、冷淡なようですが、身体全体のバランスが崩れてしまわないうちに死んだほうがいいということになります。

 

 つまり、犬も人間も、「死に時」というのがあるのかなぁと。象は自らの死期を察するとどこかに去るといわれますが、人間の行き先なんて病院が精一杯でしょう。かといって、お願いすれば死に神が「あいよっ」と気軽にやってくるわけでもありません。

 

 かくのごとく、長寿は周囲にとっても本人にしても、必ずしもめでたいことではありません。医師は健康維持と病気の治療並びに延命措置が基本的な職責なので、文系がこの問題を扱わなくてどうするとボクは思うんですよね。具体的には安楽死、または自殺です。これらは今の日本では考えることすら禁忌になっているようですが、ボクなんかは「豊かな老後か、しからずんば毒薬を」みたいな精神的過激派でございまして、どうせ自らの意志で生まれたわけではないのだから、死ぬ時くらいは自分自身で決めたいなぁと。

 

 その是非も含めて、高齢化に伴う現代の「死に方」について、文学者や大学の先生はもっと発言すべきではないでしょうか。寡聞で恐縮ですが、上智大学名誉教授で哲学者のアルフォンス・デーケン氏くらいしか思いつかないのです。

 

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2017年4月 6日 (木)

いつかその日に

 

 机の中に1本の銀色の円筒があります。繊細なヘアライン仕上げが施されたアルミニウム製で、直径23㎜、長さは160㎜。中に何が入っていようが、歪みのまったくないしゃきっとした姿はそれだけで美しく、取り外しできるキャップの部分も、空気を完全に遮断するかのように隙間なく嵌めることができます。

 

 このように素晴らしい出来映えの銀色の円筒がね、嬉しいような辛いような、ボクにとっての新しい悩みのタネなのです。

 

 これをいただいたのは、今年のバーゼルワールドで取材を終えた時です。某ブランドのプロダクトデザイナーに話を聞いた帰りがけに、彼から「キミは煙草を吸うか」と問われました。ボクは5年前からやめているので、正直にそう言えばいいのに、何となく口ごもってしまいました。すると「ちょっと待ってろ」ということで、しばらくして手渡されたのがこの円筒です。

 

 勘の鋭い人はもうお分かりかもしれませんが、中には太い葉巻が入っております。帯封には英語で「ハバナ、モンテクリスト」。よく分かりませんが、葉巻はキューバのハバナ産が最上というのはアメリカのテレビドラマで聞いたことがあり、そもそもこんな特別製の円筒に入れているのだから、「さぞや」という逸品に違いありません。

 

 だったらさっさと吸い口を切って、その反対側に火をつけりゃいいじゃんかと思うでしょ。ところが、ボクは禁煙を始めて5年目ですから、なかなかそうはいかないんですよね。以前に肺炎に罹患して息も絶え絶えになったことがあり、医師によれば煙草も原因というので、エイヤッとやめることにしました。一応、ボクは自ら決めたことは厳守するタチなもので、例外を認めるわけにはいかないのです。このブログだって、土日祝以外は基本的に毎日書くぞと決めてから、無断ですっぽかしたことは一度たりともありません。

 

 でもねぇ、たまに円筒を開けて葉巻を取り出し、その香ぐわしい匂いをかぐだけで、猛烈に吸いたくなってくるんだよなぁ。甘くて心地良い乾いた香りがね、「たまにはいいじゃんか」と鼻腔をくすぐりながら悪魔のように囁くのです。

 

 まぁね、1本くらい葉巻を嗜んだところで、それが病気の直接的な原因になるはずがありません。ただ、それを境に再び喫煙者に戻る可能性も高いんじゃないかな。水流が堰をいったん越えれば、簡単に押しとどめることなんてできないのです。

 

 そんなことを考えながらも、2~3日に1回はついつい習慣のように葉巻のにおいをかいでしまうんだよな。ああ、神様、何と罪深い円筒なのでしょうか。

 

 それでね、ボクは決めたわけです。

 何かものすごいことを達成して、人生でこれ以上ないほど嬉しく幸福な時に、自分へのご褒美にするつもりです。そんな日が果たしていつやってくるのか、もしかすると死ぬまでないかもしれません。それでも、いつか、いつかそんな日がやってきたら、この葉巻に火をつけてやろうと。それだけでも励みにはなるのかなぁ。ま、モノは考えようと言いますからね。

 

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2017年4月 5日 (水)

生き方

 

 特に探しているわけではありませんが、消息不明の友人がいます。中学の頃からの知り合いで、その年齢でクリームの『クロスロード』なんかを一生懸命に聴いている音楽的に早熟な奴でした。ちなみにクリームというのは、かのエリック・クラプトンが率いた伝説的なロックバンドらしいのですが、こんな説明をできるのも今だからであって、当時の中坊にとっては何がなんだかという特殊な世界でありました。

 

 彼はボクと似たような学業成績だったらしく、2人とも同じ高校に進学。ところが2年生になる直前に、九州に転校することになりました。父親は国家公務員らしく、定期的な異動による転勤だったようです。自宅まで遊びに行ったこともあるのに、そんなことをまるで知らず、というよりお互いに親の仕事に興味なんかなかったのですが、しばらく離れることになりました。やがて両方とも東京の大学に進学したことから、交流が復活。カネのないド貧乏な中で酒を飲んだり繁華街で遊んだりしていましたが、2年ほどして彼は大学を中退。かなり後に何かの機会で邂逅したときは、有名な歌手の照明を担当しており、北京に行ったこともあると聞いたことがあります。

 

 そんな彼が結婚して、すぐに離婚してから連絡が途絶えるようになり、随分前にたまたま偶然に恵比寿駅のプラットフォームで出会ったのが最後となりました。最後と言っても亡くなったという噂も聞いていないので、まさに音信不通。元気でいるのかなぁと思い出すことがあります。

 

 でね、なんでこんなことを紹介したかというと、ボクもそうですけど、彼もあんまり生き方が上手とはいえないんだよなぁ。可能性と時間がたっぷりある若い人にとっては「生き方に上手や下手があるのか」と訝しく感じられるかもしれませんが、けん玉や野球やゴルフなどとまったく同じで、ありますよ、それは。ごく簡単にいえば、環境や組織にうまく適応できるかどうかということです。それがヘタクソということは、つまり個人主義でワガママ、自我が強すぎということにもなるのでしょうが、とにかく我慢するのが得意ではないんですよね。

 

 そういう性格の人は、昔なら熟練した職人に弟子入りして、黙々と技術を受け継いでいくという道がありました。性格も口も悪いけど腕はいい、という方面ですよね。汚く食べ散らかす客を叱りつける寿司屋の頑固オヤジなんかも、その成れの果てといえそうです。

 しかしながら、現代では機械化とコンピュータ化によって、そうはいかなくなってきました。寿司屋だってマーケティングだの顧客ファーストとか言われる時代であり、大資本をバックにした回転寿司が強敵ですもんね。組織も金融系が顕著ですが、離合集散を繰り返すことでメガ化しており、強大なパワーを持つ存在に成長しています。そんなわけで、学校の頃からきっちりと環境や組織に順応しておかないと、簡単にはみ出す、あるいは追い出されるようになってきたのではないでしょうか。

 

 こうした状況判断はどうでも、生き方の上手下手に限れば、頑張って努力すればどうにかできるというものではありません。どこからやってきたかは知りませんが、生来の習性みたいなもので、それしかできないというのが本当のところなのです。ボクは幸いなことに、結果的に彼よりは適応力があったかもしれませんが、その本質的な中身にあまり違いがあるとは思えません。

 

 だから鬱屈したりヘコたれた時には「あいつはどうしているんだろう」と相哀れむような気持ちになってしまうのです。K君、元気でやっているか?

 日本経済新聞には、そうした友人や恩師などとの交流を回想した「交遊抄」というコラムがあります。登場するのはもちろん功成り名を遂げた人たち。内容もボクには羨ましいような恵まれた話ばっかりで、消息や行方が不明な人は絶対といっていいほど出てきません。ほらね、生き方の上手下手はここにあるじゃないかと、このコラムを学校で教えるべきじゃないかなぁ。

 

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2017年4月 4日 (火)

罪深い話

 

 某旅行会社の倒産で8万人以上の被害者が出ているそうです。まったくひどい話ですが、某紙のコラムを読んでますます腹が立ってきました。似たような事件に遭遇した若者たちを描いた昔のテレビドラマを引き合いに出した後で、結論は「罪深い話である」だってさ。それで終わり。こんなコラムというか評論ってあるかよって思いませんか。

 

 少しばかり年をとった人なら、格安旅行会社の倒産なんてちっとも珍しいことではないことを知っているはずです。それによってカネを支払ったのに航空券が入手できないとか、ホテルの予約手配が無効になるという被害が定期的に報道されてきました。そのたびに「詐欺まがい」だの何だのと大きな騒ぎになってきたじゃないですか。

 今回の倒産は旅行会社では4番目の規模といわれており、ちなみに第1位はおよそ20年前=1998年のジェットツアーで負債総額は252億円。この時も新聞やテレビが大報道を繰り返した記憶があるほか、21世紀になっても大なり小なりのトラブルや破綻事件が続いてきました。

 

 企業の倒産自体はちっとも珍しいことではなく、むしろ経済の新陳代謝とすらいえるのですが、旅行会社の場合は個々の金額が小さいだけに被害者の数が圧倒的に多く、しかも若者がほとんどということが特長です。なけなしのカネをはたいて買った彼らの夢を踏みにじる悪魔の所業というだけでなく、最も怒りを感じるのは「逃げ得」になってしまうということです。

 

 カネだけ先に貰って航空券などを渡さず、とっとと逃げてしまうのだから明らかに詐欺であり、社長を始めとする関係者は監獄にぶち込むべきだとボクは思うのですが、どうにもそうはなっていません。通常の企業倒産とはワケが違うのですから、別の罪や罰の立法と同時に、社会的な保障が絶対的に必要ではありませんか。あるいは旅行業の免許を今より厳しくするとかね。

 そうした罰則規定や被害者救済策を指摘または提案しなければ結果的に再発を許してしまうのですから、それこそメディアとして「罪深い話」になることに、どうして気づけないのかなぁ。

 

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2017年4月 3日 (月)

非「合目的」的

 

 我ながらワケが分からないタイトルかなと自戒しますが、そんなあり方もありじゃないかということで、敢えて生煮え状態で提示することにしました。

 

 たとえばプロダクトデザインですけど、19世紀末までは自然界を真似て造形した「アール・ヌーボー」というデザインが主流となっていました。花や葉っぱや枝なんかの複雑な形状を鉄の門やら椅子やアクセサリーなんかに写し取るようにデザインしたわけですね。それはそれで大変に美しいのですが、複雑な分だけ手間と熟練した技術が必要になってきます。

 

 ところが、19世紀を経て20世紀に移り変わると、何事も大衆化が一気に進み始めた関係から、工業化による大量生産が求められるようになりました。職人技や面倒くさい工程が不可欠なアール・ヌーボーはそれに向いていないのはもちろん、価格だって大衆的なレベルにはコストダウンできません。

 そこで、複雑な装飾要素を大胆に省略した量産化しやすいデザインが必要になってきたわけです。ただし、それだけでは実用に向いていないので、その製品が担うべき機能を忠実に反映したデザインでなければならない。見やすいとか使いやすい形ということです。

 それが1920年代から爆発的に流行した「アール・デコ」の正体でありまして、だからこそ丸や四角や直線を組み合わせた幾何学的なラインがベースになっているわけです。細かく曲線が分岐したようなややこしい格好は金型が作りにくいので、量産に向いていませんからね。

 

 それゆえに、アール・デコは自然の直接的な模倣ではない、人間による初めてのオリジナリティの高いクリエイティブ・デザインと評価することができます。

 ただし、どこまでも奔放なデザインが許されるのはアート=芸術の領域であって、工業製品では前述した機能性が最優先されます。さもなきゃ工業化して量産する意味を失ってしまいます。このあたりをバウハウスでは「機能が美を規定する」とか何とか言ったんじゃないかな。いずれにしても機能美とか合理主義と呼ばれるデザイントレンドが、こんな感じで20世紀になってから始まったと解釈することができるでしょう。

 

 でね、そうしたトレンドが、やがてボクたちの思考や生活の中にも入り込むようになったんだよな。

 

 たとえば学校はできるだけ無駄を排除して、求められる機能を忠実に果たす人間を量産するのが優秀と判断されるようになりました。そのための大きな指針が戦前は教育勅語だったんじゃないかな。戦後になっても教育方針がコロリと逆向きになっただけで、試験で高得点を取れる賢い子供たちを量産できるのが良い学校とされることに変わりはありません。東大・京大、あるいは国立大学に何人合格したかなんてことが今でも高校の評価基準になっているじゃないですか。

 

 あれっ? ということは人間も工業製品のように機能美や合理主義で判断されるのかなぁというのが、今回のテーマなのです。いささか分かりにくいかもしれませんが、デザインは自然界の模倣から自由になった=解放されたはずなのに、その旗印となった機能主義が今度は人間まで工業製品のように扱うようになったのではないか。

 

 自然界だって実は合理的で機能的なのですが、人間までそうなることはないんじゃないかな。そもそも自由というのは、自然界ではあり得ない概念のはずです。このあたりは話が難しくなるのでカットするとして、だからね、この地球上で人間くらいは非合理的で不可解な存在であってもいいのではないかと、ボクは思うようになってきたのです。

 もちろん他人に被害を及ばさない範囲内に限られますが、少しくらいは自堕落や怠惰も含めた非「合目的」的な生活をしてもいいんじゃないかと。

 

 これがね、ボクが考える21世紀的な人間復興、すなわち新ルネッサンスなんですが、意味、分かりますかねぇ。たとえば放蕩息子とか道楽者というか、そうした人たちが内的に抱える無駄の極致ともいえる蕩尽の欲求が、実は経済的には合理的かもしれないじゃないですか。こういう解釈はまだまだ機能主義的だよなぁ。うーむ、まだ甚だしく生煮えなので、これはいつか詳しく続けることにします。あまり期待しないで待っていてください。こうしたゆるーい感じがね、非「合目的」的なのかな。

 

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