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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2017年7月

2017年7月31日 (月)

『メインテーマ』

 

 薬師丸ひろ子という女優さんがあまり好きになれなくて、あの大ヒット曲『セーラー服と機関銃』(1981年)はパス。そのかわりに、作曲者である来生たかおの『夢の途中』のほうを愛聴してきました。彼女のせいでは決してなくて、あの年齢=15~20歳くらいまでの女性がボクはすごく苦手なんですよね。

 

 世間知らずのくせに鼻っ柱が強くて、ワガママで自分勝手で、って同じ意味か、ついでにやたらと理屈っぽくてね。そうした他人に対するイマジネーションを欠いた精神性が、どうにもダメなんだよな。こういう傾向は子供の頃からチヤホヤされ、可愛いと言われ慣れて成長した美人に共通しており、早い話がブサイクなボクには取り付く島がないわけですね。世の中にはイケメンよりボクのようなブサメンが圧倒的に多いはずですから、そういう態度は交友関係を狭めてしまうと思うんですけど。

 

 長々と年甲斐もなく愚痴みたいなことを言ってしまいましたが、そんな薬師丸ひろ子の歌で最近気に入っているのが『メインテーマ』(1984年)です。計算してみたら、ゲッ33年も前かよとびっくりしました。彼女が出演した同名の角川映画の主題歌で、通算3枚目のシングルとして発売されています。

 こちらは作曲が南佳孝、作詞が松本隆。南佳孝は『モンロー・ウォーク』などでお馴染み。松本隆といえば松田聖子などのヒット曲をバンバン出してきた歌謡界の大御所です。

 

 だからといって全部が名曲というわけではありませんが、『メインテーマ』はボクの好きな透明感のある哀愁に満ちており、なかなか良い歌に仕上がっていると思います。前述した乙女の強気と、恋に揺れ動く心情がメロディとしてもきちんと葛藤しているところに好感が持てます。

 

 ボクがとりわけ感心したのは、以下の歌詞です。

 

愛って よくわからないけど

傷つく 感じが素敵

笑っちゃう涙の 止め方も知らない

20年も生きて きたのにね

 

 ね、すごい感性でしょ。だからボクは詩人になれなかったのかとしみじみするくらいです。「傷つく感じが素敵」と強気になりながら、涙の止め方も知らない。けれども、それを笑ってしまう。こんな屈折しまくりが乙女の心なんですな。極めつけが「20年も生きてきたのにね」。はぁ、ワタクシ結構な年齢になるのですが、今もって「涙の止め方」なんて知りませんぜ。

 

愛って よくわからないけど

深呼吸 不思議な気分

わかってる 昨日の賢い 私より

少しだけ綺麗になったこと

 

 うーん、もうとにかく瑞々しいのであります。この歌は上手に歌えば歌うほど違和感が強くなってくるので、ある程度ブッキラボーな感じで歌唱しないと似合いません。その意味でも、やはり当時の薬師丸ひろ子が歌わなくて誰が歌うのという楽曲なんですよね。

 

 ヘビーローテーションにするほどではありませんが、たまに聴くとね、枯れ気味のオッサンにもしばし水分を供給してくれる歌です。

 

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2017年7月28日 (金)

インスタグラム

 

 SNSにはまったく興味がなく、ケータイもスマホではない旧型なのでどうだっていいことですが、マーケティングにインスタグラムが広く利用されるようになってきました。

 

 ツイッターが文章ベースのSNSであるのに対して、インスタグラムは映像を共有する仕組みです。良い写真や変わった画像は短時間にフォロワーを増やすので、最近はマーケティングに積極的に利用されるようになってきました。「インスタ映えする」なんていう言葉もあるように、新製品を特殊な背景で見せるディスプレイなんかを提供すれば、「インスタグラマー」が撮影して多数のフォロワーに見せるといったことでしょうか。

 

 すいません。歯切れがいつものように良くないのは、ボクがSNSもインスタグラムもやったことがないからです。さらに、自分でやってみようという気持ちもあんまりないなぁ。理由は簡単で、そんなに友達なんていないからです。今のコミュニケーション規模なら、このブログで十分だと思います。

 

 それにビジュアルよりもテキスト=言葉に反応するタチなので、いくら変わった写真でも「へーそうなの」くらいの感動しかありません。ただ、雑誌などで記事を書いてきた経験でいけば、写真は「キャプション=簡単な説明文」次第で印象がガラリと変わります。つまり、ビジュアルメディアが完全に言葉から解放されるためには、利用者の感性が相当なハイレベルに達していなければ成立しません。

 

 だからといって、ボクはインスタグラムに抵抗感や嫌悪感を持っているわけでもありません。やりたい人はやればいい。それによって、かつてなかったコミュニケーションが派生してくる可能性だってあります。

 

 ボクがむしろ危惧するのは、インスタグラムが言葉に対する嫌悪から始まったのではないかということなんですよね。つまり、文字で表現すればどうしたって異論反論が生まれてきます。そのうち妙な反感が増幅して炎上なんてことが頻繁にあるじゃないですか。

 

 文章ってさ、ボクのようなライターが言ってはいけないことだろうけど、屁理屈を勝手に作れるんですよね。素晴らしい人に出会って、99%の人が称賛する中で、僅か1%の人が嫉妬まがいの中傷や悪口を書くってことは普通にあり得ますよね。それに果敢に対抗しても、無理矢理の論理で反駁されたら、逆にどんどん拡散していくことになります。

 

 ボクもたまに文章=言葉のいい加減さに呆れ果てることがありますが、インスタグラムを愛好する人の根っ子には、そんな気分があるような気がします。だってさ、写真なら誰もどうこう言えません。そこにある写真を面白いと感じるかどうかだもんね。

 

 それをもって思考力の衰退なんてことに簡単に結び付けるからダメなのであって、インターネットのおかげで文字や文章の魅力が急速に失われ、信用に値しないものと嫌悪する人が急増してきた結果ではないでしょうか。これって考え過ぎかなぁ。

 

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2017年7月27日 (木)

幸せに……

 

 幸せになりたいですかぁ~~、と聞かれたら、ほとんどの人が「はい」とか「もろちん」と答えるでしょうね。2%くらいの天の邪鬼気味な人が「幸せっていったい何だよ」と難癖をつけてきますが、だからといって彼らが幸せになりたくないわけではありません。

 

 ところが、ボクはずっと以前から「自分が幸せになってはいけない」と思ってきました。幸せといっても、個人の人生観などが大きくかかわってくるので、とてもじゃないけど明確に定義するのは困難ですが、少なくともボクは幸せという状態になってはいかんのだと自戒してきたんですよね。

 

 その理由は明らかで、若い頃に迷惑をかけた人がいるからです。どんな迷惑かは、このブログで微量をあれこれと脚色して紹介していますが、現実はそんなものではありません。そのことの一つ一つを今もって忘れたことはなく、それを踏まえたら、とてもじゃないけどボクが幸せになるのは自分自身としても許せないとなるわけです。

 

 似たような気持ちを表現した「自罰的」という言葉もありますが、それほど積極的に自分に対することでもありません。とにかく幸せになれそうな雰囲気や甘い気分を感知すると、すぐに警報が鳴って、「お前さあ、そんな気分になっていい資格があるのかよ」と暗い声が心の中で囁くのです。そのたびに、あんなことをやった、こんなこともした自分は、確かにそんな幸福に浸ってはいかんのだよなと、我にかえるんですよね。

 

 そう考えるようになると、悪いことや不幸が普通の状態となり、むしろそのほうが落ち着けるようになります。だからこそボクはポジティブシンキングならぬネガティブシンキングが得意であり、「あなたほど悲観的な予測がバラエティ豊かな人はこれまで見たことがない」と外国人に褒められた、じゃなくて皮肉を言われたこともあるくらいです。

 

 いずれにしても、こうしたペシミスティックが身に付いてくると、不幸や悪いことに耐性ができて、アクシデントにもあまり驚かなくなります。「ああ、やはりボクは幸せになれないのか」と再認識して納得するだけでね。

 

 だからといって自殺するほど絶望しているわけでもないので、実際にはいい加減で自分勝手な、ワガママが180度くらいねじ曲がったような自虐心にほかなりません。でね、このように考える人はボクだけではあるまいとも思うのです。欧米では教会に行くことで、そうした自分と向き合い、神に許しを請うこともできますが、日本ではそんな空間がありません。神社仏閣でこんな内省的な告白は似合いませんからね。

 

 だったら似合うようにして、教会の告解室みたいな場所を作れば、日本の伝統宗教も息を吹き返すんじゃないかな。なんてことを考えるあたりに、ボクの罪が潜んでいるような気もします。

 

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2017年7月26日 (水)

頼むぞ新幹線

 

 えーと、またまた早朝の新幹線で新大阪に行かなきゃいけません。

 

 何かに負けた罰ゲームかよと思っている人もいるでしょうが、はい、その通りです。21日に長野方面、昨日は東北、明日は関西と来たら、こりゃもう罰ゲーム以外に考えられないじゃないですか。

 

 心当たりはまるでないけど、もしかしたら、誰かがボクを東京から追い出そうとしているという可能性もないわけではありません。でも、それほど積極的に恨まれることをした記憶はないけどね。

 

 じゃなんでまた始発から2本目の新幹線に乗らなきゃいけないのか。

 さもなきゃアポイントメントに間に合わないからです。世の中のことをあまり考えすぎるとロクな結論にならないので、このあたりはスッキリと機能的にさばいていきましょう。

 

 昨日はみごとに目黒駅で山手線の罠にハマってしまったので、本日は品川駅を目指して最初からタクシーに乗るつもりです。へっ、ザマミロ山手線。次はお願いだから新幹線、定時で運行してね。というわけで、昨日のタイトルは「またかよ山手線」だったので、本日は「頼むぞ新幹線」とあいなりました。

 

 毎日ブログを書いていれば、たまにはこんな駄作も仕方ないとお許しくだされ。何だか最近は文体が崩壊気味だなぁ。

 

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2017年7月25日 (火)

またかよ山手線

 

 昨日朝は、東京駅から11時前に出発する東北新幹線に乗るつもりで事務所を9時過ぎに出ました。ボクは時間ギリギリというのがすごく苦手で、新幹線にしても乗車30分前にはホームあたりにいないと気がすまないのです。

 

 昨日もかなりの余裕を持って恵比寿駅から山手線に乗車。これでもう安心と思ってイヤホンで音楽を聴いていました。ところが、電車が目黒駅で停車すると、止まったままでなかなか動き出しません。イヤーな予感で口の中が苦酸っぱいような味になった頃に「五反田駅に停車中の電車で車両点検が必要になったので、ご迷惑をおかけしますがしばらくお待ちください」という内容のアナウンス。口だけで謝罪されても、こちらは「新幹線に間に合うのかよ」と神経がピリピリですよね。

 

 というのも、以前も新宿駅から中央線特急に乗ろうとした時に、日曜日早朝にもかかわらず山手線が渋谷駅で止まってしまったのです。上野駅の線路の上を誰かが歩いていたらしいのですが、ボク的な時間感覚では「待てど暮らせど」電車が動く気配がありません。それでエイヤッと電車の外に出て階段を下り、改札を抜けて、タクシーで新宿に向かいました。これが実は好判断で、後で聞いたら1時間くらい遅延したようなのです。そのまま待っていたら大遅刻になったでしょう。

 

 そんな経験があるので、すぐに動きそうなのかそうでないのかを確認したいところですが、こういう時に限って駅員が近くにいないんですよね。3分ほど待って「こりゃダメだ」と改札へ駆け込みました。新幹線の乗車券で入ったので、それを取り急いでキャンセル処理というのかな、取り消してもらう時に「いつ頃動きそうですか」と念のために訊ねてみると、「分かりません」とキッパリしたお答え。天下の公共交通を運用している側が、そんなにも能天気な返事をしていいのかなぁ、と愚痴りながらタクシー乗り場に向かうと、すでにボクと似たような焦り組が列を作っているではありませんか。

 

 ここから先は、思い出すだけで胃が痛くなってくるので省略します。結局、ギリギリのギリで間に合いましたが、目黒駅に止まった電車がすぐに動いたかどうかは知りません。

 

 大昔は日本の鉄道は世界に誇るほど時刻表に忠実に運行されていました。ところが2005年の福知山線の事故以来、やたらに止まるようになったように思います。このため、成田空港に行くときはタクシーを利用するようになったのですが、これからは新幹線などもそうすべきだと痛感しました。

 

 もちろん安全も大切だけど、定時運行だって同じくらい遵守すべきことなのに、こんな状態でいいのでしょうか。

 

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2017年7月24日 (月)

小さな幸せ

 

 どんなに豊かでも貧乏にしても、それがいつもの日常生活となってしまえば「あたりまえ」となり、新鮮な驚きや感動はどんどん消えていきます。どんなに熱情的に愛し合ったカップルでも、2人で暮らすようになって2~3年もすれば、「トイレの便座は必ず下ろしといてよ」くらいなことを言い合うようになるでしょう。ロミオもジュリエットも、トニーだってマリアだって、一緒になれたことの喜びはどんどん薄くなっていくんじゃないかな。

 

 日常生活というのはそもそもそういうものであって、いちいち感動したり大きな喜びや悲しみが頻繁にあったら、疲れてしまってやっていられないでしよう。そのために神様は、ボクたちの感性を適当に鈍くさせるように仕掛けたのかもしれません。戦場だって戦いが毎日のこととなれば、やっぱり銃を撃ち合うことに慣れてくるんじゃないかな。そして戦友の死にも鈍感になっていく。さもなきゃ生き残っていけません。

 

 そうした慣れは、いわば生存のための精神的な戦略ではないかとボクは考えていますが、おかげで退屈したり飽きたりアクシデントを求めたり、さらには不満や不平、あるいは不幸を言い募ったりすることもあるわけですね。

 

 けれども、日常生活で鈍磨した感性が見逃してしまう小さな幸せというのは結構あるものです。いつも幸せに苦労知らずでやってきた人には見えないかも知れないけど、たとえば青い空に浮かんだ雲の形が犬の笑顔に見えて微笑むなんてこともあるんですよね。そういう気持ちを失うなといっても、前述したように失うのが人間のサガなのですが、たまに知人からそんなことを聞いたりすると、眼が開いたような気持ちになります。

 

 意識さえすれば、毎日ひとつくらいの小さな幸せを見つけることはちっとも難しいことじゃないんだよな。それをする気がないから、大きな幸せもやってこないんだと、たまに自覚するのも大切なことではないでしょうか。

 

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2017年7月21日 (金)

色気が抜けたら……

 

 本日は長野方面に早朝から出張です。そんなわけで、こんなブログを書いているヒマはないのですが、昨日にご報告するのを忘れたんだから仕方ありません。かといってタイムリーなテーマが見当たらないんですよね、暑くて。

 

 そういえば、チョイワルで一世を風靡した御仁が、今度は爺さんたちの色狂い、じゃなかったライスタイル誌、その名も『GG(ジジ)』という月刊誌を創刊されたようです。このタイトルはさすがに冗談かよと思わせますが、ボクは爺さんが格好つけるのは反対ではありません。若い奴は何を着ようが若さでピカピカなのですから、小汚くなってきた年寄りこそ綺麗に格好良くしようぜというのが、このブログで展開してきたボクの論理ですからね。

 

 そして、そのすぐ裏側には色気というのが張り付いていないといけません。年を取ると肉体的なパワーが衰えてしまい、色気といってもなかなか難しいのですが、早い話が「誰かに惚れようする意欲」だとボクは解釈しております。

 たとえば夏の暑い日に、真っ白な肌の薄着の女性が自分の隣を通り過ぎていったら、絶対に振り向かなきゃいけない。それを「最近は腰が」とか「肩が痛くて」や「首が回らん」などと言っているようでは、正真正銘のジジーじゃないですか。ボクなんかは即座に身体を反転させて、セクハラにならない程度にセクシーな後ろ姿を鑑賞しちゃいますぜ。

 

 そういうことをする亭主を嫌う奥様もいるでしょうけど、そうしないからといって奥様のことだけを考えているとは限らないし、第一につまらないことおびただしいですよね。疲れたから週末はゴロ寝という亭主に呆れ果てて、ホテルで高額のランチやスイーツを食べているミセスが山のようにいるんだよな。

 

 そういう女性に色目を使えというのではなくて、色気を失ったら生きている甲斐もなくなるぜと言いたいわけです。ほとんど人間としては水気を失ったミイラ状態と考えていい。でね、最も大切なことは、「誰かを好きになりたい」と思ってもいない人を、誰も好きにならないってことです。オレはアタシは、誰かを好きになりたいなぁと思ってますよというキラキラ光線がね、人を惹き付けるのです。逆に「私はもう旦那だけで十分」あるいは「悲恋に疲れて当分はそんな面倒なことはしない」というブラックビームが出ている人をナンパする奴はいません。たまに、それでもすごい色気の女性もいるんだけど、この場合は無駄を覚悟で振り向くということになります。

 

 だからさ、問題はモテるorモテないじゃないわけ。あなたが誰かを好きになりたい、あるいは誰かに惚れたいのかどうかってことでしょう。そういう気持ちこそが本質的な色気につながるんじゃないかとボクは思うのです。もうちょっと難しく言えば、他者との深いコミュニケーションを望むかどうかということですから、色気がないというのは危機的な状況なわけです。

 

 そんなわけで、爺さんがオシャレするのは大賛成ですが、その年齢になったら横並びはやめたほうがいい。ライフスタイルそのものをかっきりと自立させることが、最もカッコいいオシャレではないかとボクは思うのであります。

 

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2017年7月20日 (木)

言わずもがな

 

 人づきあいの上で、口に出して言っていいことと言わない方がいいことがありますよね。さらに後者には「言わずもがな」なんていうハイレベルな戒めもあります。

 

 こういう習慣というか感性的な土壌みたいなものが、現政権を揺るがしている「忖度」につながるのだろうと思います。正直言って、ホントーにメンドーくさいですよね。権力者の指示に従うのはもちろんとして、口に出さない思惑まであれこれ想像して配慮しなきゃいけないなんて、胃に3個くらい穴が開いちゃうぜ。

 

 文章にしても、学校の先生から行間を読みなさいなんて言われたけど、そんな真っ白いところに深い意味やニュアンスがあるなら、手を抜かないでちゃんと書いとけよって思いませんか。

 

 かといってアメリカ人のように「どんなことも言わなきゃ分からない」と居直るのも、あまり知性を感じさせません。言わなくても分かるところに配慮や気遣いがあるわけでね。

 だから、心の内はどうあれI love youとお互いに言い続けないと不安を感じる関係って、演劇に近い虚構ではないかとボクなんかは思います。恋愛ドラマでも、いきなり「愛しています」「私も」では、そりゃ良かったご勝手にどうぞ、で終わりじゃないですか。それを言い出す前の微妙な関係こそがドラマチックなストーリーになるわけです。

 

 その半面で、あまりにも言葉が足りないんじゃないかということもしばしば経験します。ちょっと声をかければ何でもないことなのに、それを怠ることから誤解や錯覚が生まれて、後戻りできなくなるような事態に発展することもあるはずです。

 

 これはなかなか興味深いテーマなので、いつか「言葉足らず」や「言わずもがな」の人たちによるディスコミュニケーションがもたらすドタバタ小説を書きたいと考えています。

 いずれにしても、これは段階的なことであって、普通の人はどうしたって言葉がコミュニケーションの基本なので、最初は「言わなきゃ分からん」から始めるほかないでしょう。それを繰り返した上で、ようやく「言わずもがな」が成立する。つまり、経験や知識、文化や習慣などの共有が「学習効果」として言葉をどんどん減らしていくことになるわけですな。ジーサンの「あれ」をバーサンがすぐに察して「これね」と差し出すのと同じです。

 

 こういう段階論で考えれば、「言葉足らず」も「言わずもがな」もストレス要因にならないと思うのですが、いかがでしょうか。

 

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2017年7月19日 (水)

寛容vs不寛容

 

 前にも書いたと思うけど、「寛容」と「不寛容」が対決したら、0対100で絶対的に「不寛容」の勝ちとなります。1000回対戦しても、0対1000になるだけ。そりゃそうですよ、「寛容」は「不寛容」も認めざるを得ないけど、「不寛容」のほうは「寛容」なんて平気で蹴飛ばすことができますから。

 

 今さらISISやカルトを持ち出すつもりはないけれども、いわゆる「原理主義」というのは、他の宗教や思想や柔軟な解釈を認めない「不寛容」がひとつのアピールポイントになっています。つまり、自由民主主義という概念はそもそも理屈として通じません。「私はあなたの意見に反対だが、あなたがその意見を表明する権利は認めよう」なんてまだるっこしいことは言いませんから。「私たちの意見や思想に賛同しなければ即ち悪であり敵である」という論理に、ボクたちの自由で民主的な社会 (とりあえず寛容としておきますけど)が勝てるはずねぇだろと。

 

 何でまたこんなことを持ち出したかというと、世界のワタナベっすよ。不倫なんてものは、大昔からいろいろとありました。どこぞの夫婦もド派手な夫婦喧嘩が現在進行形ですが。ま、そりゃね、不倫はいけません。何よりも奥様に迷惑がかかります。でもさ、そんなことをやってしまうのが人間のどうしようもないサガでして、これは男女とも共通していませんか。

 それをアカの他人にもかかわらず、ビシバシ断罪して芸能人生命を危機に陥れたり、「マスコミの追求が甘い!」なんて言われた日にゃ、ボクはどうしたら、って何もしていませんけど、戦慄するんですよね。その典型的な犠牲者が靴下を履かない石田くんのような気がするぞ。

 

 誤解しないで欲しいのですが、「不倫しろ」とか「不倫を許せ」とお願いしているわけではありません。大人なんだから、そんなもん何が起きようが、裁判沙汰になろうが、自己責任で引き受けるべきです。しかしね、外野に座っている皆さんがヤイノヤイノと騒ぐだけでなく、ほとんど吊し上げ状態に追い込むってのはどうなのでしょうか。

 

 それも「不寛容」の一種にほかなりませんから、ボクのような心の広い「寛容派」にはまるで勝ち目がありません。しかしながら、人生を多様に豊かに楽しんでいるのは、どう考えても「寛容派」ではないかとボクは思うのです。正直言えば「不寛容」って応用が利かないから、全然つまらないですよね。

 

 だから、そろそろ矛を収めて海外旅行などの遊びにでも行ったほうが、みんながハッピーになれるような気がするなぁ、

 

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2017年7月18日 (火)

大人

 

 子供の時はまだしも、思春期を経て青年になるまでに、実に数多の懊悩がありました。自分はいったい何者だとか、どこから来てどこへ行くのか、それに成長期にはつきものの親子間の軋轢、さらには異性との出会いや失恋まで加わると、人生というのはほとんど大騒ぎに等しい面倒くささではありませんか。

 

 社会人になってもそれは変わらず、むしろ上司だのクライアントという沢山の他人が新たに関わってきて、ちっとも静かになりません。ボクは自分の欲求をあまり抑えられないタイプなので、それによって波乱やら大きな渦を巻き起こしてきたかもしれません。

 

 こんなことを繰り返していると、ちょっと前までお年寄りがとても羨ましく見えたものです。頭髪の有無は別にして、身体も精神もほどよく枯れて、それなりの諦観とそこそこの満足感とともに、小川の流れのように、静かにゆるやかに死に近づいていく。だったら早く年を取りたいものだと何度思ったことか。

 

 ところがね、きっと人にもよるんだろうけど、ボクはなかなかそうはならないんだよなぁ。ああ落ち着いた、どうやらこれが終着点かと思ったはずなんだけど、まだまだいろいろなところでジタバタをしてしまう。別にボクが望んだことではないにしても、顔や髪や体形がいくら年老いたとしても、要するに精神的には何も成長していないのでありますよ。

 

 にもかかわらず、外見だけはかつてボクが思ったような枯れたジーサンになっているとしたら、こりゃもう悲劇にほかなりません。整形手術の失敗に近いんじゃないかな、って違うか。精神と肉体のギャップもしくは理想と現実といった甚だしいズレがですね、近頃目立つジーサンたちの蛮行というか、セクハラ、パワハラの背後にあるような気もします。

 

 巷間言われるように、確かに老成すりゃいいってもんではありません。今や人生80年の時代ですから。青春とは、年齢ではなく心のありようをいうなんて無茶苦茶な言葉も流行したことがあります。いかにもアメリカ的な発想ですけど。

 でもさ、ある段階からやはり「大人」になるべきだろうとボクは思います。ならなきゃいかんのですよ。この場合は「おとな」でなくて「たいじん」と読みたいので念のため。いつまでたっても小人のボクは、何をどうすりゃ心安らかになれるのでしょうか。

 

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2017年7月14日 (金)

出会いチケット

 

「品川から新大阪まで、2時頃の新幹線に乗りたいんだけど」

「お一人ですよね、Dチケットでよろしいですか?」

「えっ? もう一度お願いします」

「Dチケット一枚、ですよね」

「すいません、しばらく新幹線に乗ってなかったので分からないんですけど、Dチケットって何ですか?」

「あれ? 違ったかなぁ。お客さん、妙に身なりがいいのでてっきり……」

「身なりのほうはどうもありがとう。でも、Dチケットって何ですか」

「やだなぁ。ここで説明して欲しいんですか?」

「そりゃそうですよ、これから大阪に行くために特急指定券を買いに来ているんだから」

「えーと、新幹線には普通車とグリーン車がありますよね」

「飛行機のようにファーストクラスはないけどね」

「それに加えて、昨年末から新しいシートが新設されたのです」

「じゃ車両編成が増えたってことかな? ホームの長さが足りないと思うけど」

「妙に詳しいっすね。そうじゃなくて、既存のシートに新しいサービスがプラスアルファされたと考えましょう」

「なんか上から目線な言い方だなぁ」

「失礼しました。要するに、ですね……」

「要するに、何だよ」

「要するに……。で、どうしても知りたいですか?」

「知りたいから聞いてんだろ、ヘンにためるなよ」

「まず、お客さんが乗る品川駅から新大阪駅までは2時間15分くらいかかります。新神戸なら2時間30分」

「そんなことはネットで調べたらすぐ分かるよ」

「この時間を、お客さんはどのようにお使いですか?」

「以前はノートパソコンで仕事をしていたけど、揺れるので目が疲れるから、最近はイヤホンで音楽三昧って感じかな」

「いいですね。好きなジャンルはやっぱオールディーズや演歌?」

「ほっといてくれよ。関係ないだろ」

「失礼しました。月に1回の経営会議で、この時間を放置しておくのはいかにも勿体ないという意見が出ましてね」

「勿体ないといっても、そんなの客の勝手でしょう」

「いやいや、どうしても車内に座っていなきゃいけない2時間というのはビジネスチャンスじゃないかとなったわけです」

「車内販売は何度も来るけどね」

「あれはそこそこキツい仕事なので、腰を痛めて辞める女性も多いんですよね」

「また別の話題か。いい加減にしようよ」

「たとえば友人や知り合いがご一緒なら、無駄話とかして到着までの2時間を楽しく過ごせるじゃないですか」

「上司やクライアントなら逆にすごく疲れるぞ」

「まぁまぁ。でも、お一人なら話す相手さえいない、と」

「そうだよ、悪かったな」

「だったら、お隣に話す相手がいればベターっすよね」

「確かにね」

「特に異性なら最高じゃないですか」

「大昔に奇跡的に美女が隣にいたことがあったけど、それはそれで緊張して大変だったよ」

「関係性の端緒が設定されていないからです」

「いきなり難しい単語が羅列されたけど、意味が分からない」

「相手がどんな人かという以前に、話しかけていいのか悪いのか、よく分からないってことです。その端緒、つまり話してもいいですよ、ということが共通の前提としてあれば、気軽にアタックできるじゃないですか」

「確かに。合コンやお見合いなんかと同じだよね」

「ということで、Dチケット制度が始まったわけです」

「要するにどういうことだよ」

「Dというのは出会いの略。つまり出会いチケットということです」

「それで?」

「たとえば新大阪までの2時間が、割増料金を払えば出会いの場になるってことですよ」

「男も女も、そのチケットを買えば異性が隣に配置されるってことですか?」

「ピンポーン。新大阪までなら男性は通常料金プラス4000円の割増になります」

「でもさ、いくら男でも、女なら誰でもいいってことはないだろ。女の人ならなおさら好き嫌いってのがあるはずだよ」

「はい。そこで女性の場合は通常料金から3000円引きになります。差し引き1000円がこちらの仲介料となります」

「イヤな奴が隣に来ても女性はそれで我慢しろってことかな」

「ボクなんかそうですけど、話してみると案外いい奴だって印象が変わったりしますしね。今時の女性はそんなリスクよりコストメリットを選ぶ方が少なくありません」

「でもさ、あまりにもな年の差があったり、気に入らないブサメンやブスだったりすると、カネ返せってことにならないかな」

「そのあたりは窓口である程度配慮しております。これまでの乗客50万人によるビッグデータをAIが分析した統計資料がありまして」

「いつからそんなことやってたんだよ!」

「まぁまぁ。それをベースに男女ともにそれぞれ20分類を設定。各クラスターでベストマッチング3位までが指定されております」

「じゃボクの場合は?」

「田中麗奈な感じの吊り目でショートヘアのボーイッシュなタイプがお好みですね」

「そそそそそそ、そんなことまで分かるわけ?」

「そりゃもう将棋の名人と対戦して連勝したAIですから」

「分野がちょっと違う気もするけど、まぁいいや。それでもこんなのオレの好みじゃないとか、アタシこんな奴は大嫌いなんてこともあるじゃないですか」

「ご心配なく。そんな時は車掌に気軽にお声かけください」

「どうなるの?」

「Cチケットをご購入いただきます」

「ま、まさか」

「その通りです」

「チェンジってこと?」

「ピンポーン」

「車掌がほとんどキャバクラの黒服みたいになっちゃうぞ。もう国鉄ではないにしても、公共交通を担う大企業がそんなことをやっていいのかなぁ」

「民営だからこそできるサービスって思いませんか」

「否定はできないけど」

「んで、チケットどうしましょうか、お客さん」

「じゃ田中麗奈一枚、じゃなかったDチケット貰おうかな、あくまでも試しで」

「喜んで!! あ、失礼しました。バイトが長かったもので」

 

 以上は作者の妄想であって、こんなチケットは販売されていませんので念のため。

 

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2017年7月13日 (木)

クラシック

 

 ある歌手に聞いたのですが、日本でクラシックの音楽家はなかなか食えないそうです。特に声楽=歌手として自立できるのはほんのひと握りというから、ボクには意外でした。

 

 東京ではクラシックのコンサートがかなり多く、年末ともなればベートーベの交響曲第九番をあちこちでやっていて、どこも満員ですもんね。それでも全体として見れば、クラシックを好む人口は減っているようです。ボクなんかは好きな曲はバロックから西田佐知子にサザンにマンハッタン・トランスファーまでいろいろあるので、クラシックのヘビーユーザーではないけど、たまに聞きたい交響曲もあります。チャイコフスキーとかね。

 

 ただ、レコードとして売れる楽団や指揮者や演奏家は昔から限られていたように思います。かつては「カラヤン」というだけでブランドやトレンドみたいに無闇に信奉して、神棚にレコードを上げちゃうような人もいたんじゃないかな。ボクは天の邪鬼なので、そういう風潮には常に背を向けてきたのですが、いきなり人気のハシゴを外すのもこういう人たちのような気がします。

 

 いずれにしても、もはや音楽は一曲いくらでダウンロードできるため、人気歌手でもCDの売上げは年々低下。クラシックならなおさら売れない、ということになっているかもしれません。

 

 アーティストを目指すなら最高峰とされる東京芸術大学も同様で、二浪三浪しなきゃ合格できない最難関なのに、卒業後は大変みたい。ボク自身はそうした「高等遊民」的な分野があっていいし、あるべきだとも思いますが、好きなことをやって生きていくことのリスクは覚悟しなきゃいかんでしょう。

 

 にもかかわらず、クラシックのトレーニングは譜面通りが基本で、ジャズのようなアドリヴは完全に御法度。だから、そんな人がポップスやジャズの世界に入ると、自分の個性を出すのに一苦労となるようです。

 

 いや、実に興味深い世界ですね。だって、もしもクラシックを継承する人がいなくなったら、たとえばバッハから数えても400年以上にわたる積み重ねがプツンと途切れることになってしまいます。

 厄介なことに、音楽は絵のようにカタチとして残すことはできないんだよな。ハイレゾで記録するといっても、ライヴで演奏したり歌う人がいなければ、ラテン語みたいな骨董品になっちゃいますよね。

 

 何が言いたいのかオボロになってきたけど、そうしたクラシックをきちんと維持できるのが本当の文化ではないのかと。つまりさ、今になって多様性が喧伝されているけど、もともと音楽の世界は多様なわけです。それを「食える・食えない」の二元論で分けたら、どうしたって衰退していくジャンルを作ることにつながります。だから、そういうつまらないことを言わせないように下支えするのが政治の役割だとボクは思うのです。

 

 そのためには、政治家自身がコンサートなんかに足を運ばなきゃいけない。ウィーン古典派を語らせたら止まらないという政治家がいたら、ボクは尊敬してしまいます。そういえば、あの首相は不規則発言以外に何か趣味があるのかな。やっぱさ、少しはカネと関係ないことを身につけましょうよ、ということになるわけです。それが教養とかリベラルアーツと言うなら、日本はまだまだ途上国のような気がしてなりません。

 

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2017年7月12日 (水)

Wonderful World

 

 ルイ・アームストロングが1968年に歌ってヒットしたWhat a Wonderful Worldとよく間違えられるのが、サム・クックのWonderful Worldです。何てったってWhatしか違わないもんね。

 

 前者は『この素晴らしき世界』という邦題が付いているのに対して、サム・クックのほうは1960年発表の先輩にもかかわらず英語のまんまの放置状態も何だか差別的ですよね。しかも、ルイ・アームストロングの歌はベトナム戦争の北爆の映像を背景にして、シニカルな政治的メッセージのように使われることが少なくありません。

 

 どうもね、ボクはそういうインテリぶったあざといやり口は好きじゃないんだよな。それに比べてサム・クックのほうは、アップテンポのスーパー能天気な内容ですけど、若きハリソン・フォードが主演した映画『恵司ジョン・ブック』じゃなかった『刑事ジョン・ブック 目撃者』(1985年)の中で実に上手に使用されているのです。

 

 警察内部の不正に気づいた刑事役のハリソン・フォードは、それを察知した悪徳警官に撃たれて負傷。警官による殺人の唯一の目撃者であるアーミッシュの子供と母親と一緒に彼らの村に身を潜めます。中世のキリスト教原理主義みたいな宗教を信仰している村であり、クルマや電話といった文明の利器が一切ありません。だから、悪い連中が警察の情報ネットワークをフルに活用しても、なかなか探し出せないわけです。

 

 やがて傷が癒えたハリソン・フォードは、納屋に隠していた自分のクルマのところに行きます。カバーを取って動くかなとエンジンキーを回すと、ラジオから、この曲が軽快なリズムで流れてくるんですよね。

 

Don’t know much about history,
don’t know much biology.
Don’t know much about a science book,
don’t know much about the french I took.
But I do know that I love you,
and I know that if you love me, too,
what a wonderful world this would be.

 Historyは歴史、Biologyは生物学といった具合で、高校あたりの授業科目を英語で何と言うかが全部分かってしまう大変に勉強になる歌でございます。2番になるとGeographyTrigonometryAlgebraですもんね。念のために日本語にしておくと、地理に三角法に代数です。

 

 そういう科目の勉強はちっとも分からないけど、ボクがキミを愛していることだけは分かるし、もしもキミがボクを愛しているなら、何て素敵な世界になるだろうか。と、ここで初めてWhat a wonderful world という言葉が出てくるわけですね。お勉強はあまり得意ではないけど、思春期らしく女の子に恋をした生徒の心情が描かれています。

 

 この刑事は、ラジオから流れてきたイントロをちらりと聴くだけで「おっ」と若い頃を思い出したような嬉しそうな表情をして、自分も小さく口ずさみます。それだけでなく、傍らで見守っていたアーミッシュの母親の手を引いて、簡単なダンスに誘ってしまう。このシーンに、この歌がみごとにマッチしており、まことによろしい雰囲気になるのでありますよ。

 母親役は、後に映画『トップガン』でトム・クルーズの教官に扮するケリー・マクギリス。戒律の厳しい宗教を信仰するシングルマザーらしい貞節心を寡黙な中にうまく表現しています。けれども、次第に顔が優しくほころび、彼と一緒に笑顔になって踊ってしまう。

 

 少年の頃の淡い恋心を描いた歌が、大人の男と亭主を失ったシングルマザーが互いに惹かれ合う気持ちと重なっていくのです。このシーンだけで、何だか胸が一杯になってしまうんですよね。何度もビデオ(当時はね)を借りて観た映画ですが、それ以降の怒濤の展開にはまったく興味がなくて、ほとんど見ないで返却したくらいです。

 

 オールディーズ特有のふんわりした気分になれる歌だとボクは思うんですが、いかがでしょうか。

 

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2017年7月11日 (火)

親知らず

 

 この忙しい時に、予約を入れていたので仕方なく歯科医で「親知らず」を抜いてきました。

 

 このように書くと、それで一巻の終わりですが、ボクなりに長い逡巡があったんですよね。具体的には右下顎の1番奥です。虫歯の傾向はあるにしても今は痛くありません。そんな歯をわざわざ抜かなくてはいけないのでしょうか。

 

 やや斜めに埋没しているせいか、上の歯とはまるで噛み合っていないので、不要と言えば不要です。構造的に「いざという時のブリッジにもなりません」と歯科医。これを放置しておくと虫歯が進行するほか、歯周病菌が蔓延するなど、いいことは何もないので抜いたほうがいいという。

 

 そこまで言われたら「はぁそうですか」ってなりますよね、健康保険対象の治療だし。それで不承不承にしても納得すると、例によって麻酔を打ち込み、しばらくすると特別な器具で瞬時にスッポンという感じで抜かれました。麻酔は数分で抜歯の実働はほとんど秒速。歯科医は「ほら、ここんところの歯垢がすごいでしょ。やはり抜いて良かったですよ」と見せてくれましたが、ボクには歯にこびりついた汚いゴミにしか思えません。何よりもしみじみと鑑賞したいほど綺麗なものではないですからね。

 

 ただ、実に長い間にわたって、こいつは舌の友達でありました。何の役にも立っていないからこそ、たまに舌で触れて、その健在を確認していたように思います。歯列の1番奥で、ただ生えているだけですけど、それがあるってことだけで、いつもと同じという安心感を得ていたのかなぁ。

 

 そそくさと窓口で精算していると、看護師いや歯科助手に「抜いた歯、持って帰られますか」と声をかけられました。さすがにそんな趣味はないので即座に首を左右にふりましたが、ちなみにということで「そんなものをわざわざ持って帰る患者さんがいるんですか」と訊くと、「たまにいらっしゃいますよ」というではありませんか。

 

 乳歯なら下の歯は屋根の上へ、上の歯は床下というのは聞いたことがありますが、永久歯で親知らずで、しかも汚い虫歯ですからね。ただ、何となくの喪失感はあって、数十年という歳月の証をなくしたような気はします。いらないモノはどんどん捨てるというのが、ここ数年のボクの習慣ではあるんですけどね。

 

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2017年7月10日 (月)

ウソがつけない

 

 ワタクシ、ウソがつけない身体になってしまったようです。

 

 あ、すいません。ボクは男なので、『週刊新潮』連載「黒い履歴書」もどきのエロい話題でも、三浦恵理子さん主演のAVタイトルでもありません。先週の続きになってしまいますが、自我や憎悪まるだしの表現に出会うと、精神や思考よりも先に身体が反応してしまい、吐きそうになったり、震えがきたりするんですよね。

 

 昔はね、そんなことなかったんです。身の毛がよだつような、歯が浮いてどこかに飛んでいってしまうようなヨイショを傍らで聞いていても、心の中で「こいつはアホか!」と思うだけで、普通な顔して飲食できましたからね。どこかの元官僚が「面従腹背」と言っておりましたが、それこそがサラリーマンも含めた組織人の基本中の基本であって、上司を選べない立場でいちいち逆らっていたら、たちまちホームレスですよね。

 つまり、正直なんていうのは組織人としては明白な欠点であり、全身全霊をかけて心底からウソがつけなきゃ出世なんて無理です。

 

 ボクはそのあたりをかなり頑張ってきたように思うのですが、近頃はどうもダメなものはまるでダメ的な体質になったらしいのです。たとえば首相の顔を見ただけで嘔吐しそうになります。「だから民進党さんは票が取れないんですよ」とか何とかの傲慢極まりない発言を心ならずもいろいろと思い出して、アタマの中がウワーンウワーンと鳴り響くわけです。

 

 こういう人間がテレビのニュース番組を見ると大変です。何で今ごろになって獣医が足りないなんて特集をやるんだよ、と背中をボリボリ。ひどく痒くなったりするのです。その理由を後から考えて、あ、どこかの学園の何とか特区を側面から擁護しているわけかと気づいたりね。

 

 そんなわけで、身体の変調がインジケーターやアラートだと考えれば、大変に便利といえば便利です。いろいろ思考を重ねて結論を出さなくても、身体がいきなりYESNOと反応するので、そっちの方向だけ理由を考えればいい。脳の消費エネルギーを節約できるじゃないですか。

 

 幸いに、今回の都議選では自民党が大敗を喫しましたが、次の国政選挙がどう転ぶか分かりません。その時に身体中がジンマシンみたいになったらイヤだなぁ。

 

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2017年7月 7日 (金)

般若

 

 小学校4年の時に友人宅に遊びに行き、家の中にも廊下があることを知って驚いたほどの貧乏暮らしでした。それまで自分の家が普通だと思い込んでいたので、難しく言えば、この時から「相対化」が始まったわけですね。

 

 両親はそこそこに真面目に働いていたので、その頃から収入や財産の多寡なんて個人の性格や能力とはあまり関係ないと理解していました。貧乏であるのはたまたまの結果に過ぎないのですから、ちっとも恥ずかしいことではありません。けれども、貧乏だからゆえに「卑しい」とみんなに思われることは実に恥ずかしいことなので、できるだけ避けたいと努力してきました。

 

 気品のあるふるまいはさすがに生来的に無理としても、わがままや恥知らずなことをしないというか、じたばたしないというか、私怨や自我を丸出しにしないとかね。ま、優雅に、エレガントにオシャレに生きている「フリ」を続けてきたつもりです。

 

 その目論見が成功したとはいえませんが、それでも田舎に引っ越した時には学校の先生やガキ大将に生意気だと睨まれたこともあります。昔のことなのでイジメはまったく経験していませんが、もしも仮にあったしても「卑しい」と思われるよりはマシだと耐えたかもしれません。

 

 さて、あまりにも長い前フリで恐縮です。恵比寿駅前の居酒屋ビルの中に「鳥一代」という店があって、ボクは「とりかずよ」と呼んできましたが、芸能人のかずよさんのほうの離婚騒動です。

 こういう話題をブログで取りあげるのは前述してきたボクのポリシーに完璧に反するのですが、いやぁ、YouTubeにアップされた動画が、他人事とはいえ身の毛がよだつほど怖いのです。それで瞬時にアタマの中に浮かんだのが「般若」という言葉でした。「このハゲーッ」とか「ボケーッ」と大声で叫ぶ女性国会議員の顔も、きっと般若していたんじゃないかな。

 

 ちょっと知的な話題に軌道修正すると、「般若」というのはサンスクリット語で「智恵」という意味でありまして、仏教における様々な修業の結果として得られる「悟り」だそうです。にもかかわらず、なんでまたあんな恐ろしい形相のお面になったかというと、般若坊という人が彫ったとか、『源氏物語』で六条御息所の嫉妬心に悩まされた葵の上が、般若経を読んで、その怨霊を退治したからなんてウィキペディアでは紹介されております。要するに般若と般若の面に直接的な関係はまるでなく、能の舞台では「嫉妬や恨みのこもる女の顔」として扱われています。

 

 こんな説明をしなくても、YouTubeの動画を数秒見るだけで、彼女が自らの身を焼き尽くすほどの嫉妬の炎にとらわれていることがよく分かります。

 

 旦那が何をしたか知りませんが、だからといって「バイアグラ!」とかまでプライベートを暴露するのはどんなもんでしょうか。男も女もオセロのコマのように愛情が簡単に裏返って憎悪になることは誰だって分かっていることですが、仮にも芸能人が、あそこまでやるかな。カネがあっても、有名なセレブであっても、嫉妬や怒りに苛まれると平気で卑しくて下品なことをしてしまうのでしょうか。誰か止める知人はいなかったのかなぁ。

 

 スキャンダルとしては大変に面白いので、YouTubeではあっという間に視聴回数が約345万回に達しております。ブログのテーマにしたので、ボクも最後まで見るべきだとは思うのですが、やはり5〜6秒で気分が悪くなり、とてもじゃないけど無理でした。

 

 怖いなぁ。いや、本当に怖い。こういう心理にきちんと向き合えないから、小説家になり損ねたのかもしれません。シャンソンなんかの歌の中で、ロマンチックに脱色された愛憎や嫉妬や悲しみを知るだけで十分ですもんね。それにしても再々度で恐縮ですが、怖いなぁ。もう恋するのをやめようかと思ったくらいです。お互いの健康にも良くないので、早く削除してさっさと離婚したほうがいいと思いますけど、それでは満足できないのでしょうか。

 

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2017年7月 6日 (木)

足が長いとなぜカッコ良いのか

 

 昨日は「報告しましょう」と大見得を切りましたが、もしも高額当選していたらそんなことを言い出すはずないので、結果は最初から分かっていましたよね。その通りです、またまた最低の300円ばっかり。運がないよねぇ。

 

 さて、話はコロリと変わって、足の長さです。変わり過ぎかな。

 

 大昔に、ボクと身長がそれほど違わない某人気歌手の股下が80㎝もあると聞いて仰天したことがあります。ちなみに、不肖ワタクシの場合は、ズボンやジーパンの裾上げで判明した股下は長くて73㎝くらい。とてもじゃないけど7㎝なんていうのは生物学的に容認できる個体差ではないので、いくら芸能界にしても盛り過ぎじゃねぇかと不満を感じたわけです。

 

 日本人だけでなくアジア人は一般的に、欧米やアフリカ系の人たちに比べて足が短く胴が長いといわれております。テレビや映画を見ても、これは事実にほかならないと納得せざるを得ません。日本人は農耕民族だからという意見もありますが、では欧米は狩猟ばっかりで農耕&牧畜がないかといえばそんなことはないですよね。というわけで、白人はどうして手や足がボクたちより長くて、尻と胸が突き出ているかという生物的な原因または理由はボクの範疇ではないので、勝手に調べてみてください。

 

 ボクが不思議に感じたのは、どうして足が長いとカッコ良く感じるかということなのです。だから前述の某歌手もあり得ないほど盛ったと思われますが、相撲や柔道などの格闘技では、むしろ足が短いほうが強いんですよね。女子レスリングなんか典型的で、足が長くて腰が高い欧米系の女性はタックルで簡単にコロコロ倒れてしまいます。それに比べて霊長類最強とされる彼女なんかは、申し訳ないけど胴長で決してカッコ良い体形とはいえません。でも世界一強い。

 

 そっちのほうが生存に適していると思われるのに、なぜだか若い娘さんのほとんどは足が長い、格闘技では不利な体形をカッコ良く感じるらしい。どうでもいいようなことだけど、不思議ですよね。進化論はよく分かりませんが、少なくとも現代まで足が長い人たちが生き延びてきたということは、そこに生存にかかわるメリットが必ずあるはずです。

 

 そんなことを考え続けて幾星霜。宝くじの高額当選はまだにしても、ある時に、ボクなりの結論が閃いたのです。さて、再度問います、若い女性が足の長い男をカッコ良く感じる理由って何でしょうか。

 

 ボクは人類史上世界最速といわれるウサイン・ボルトをテレビで見て、はっと気づいたのであります。彼は手も足もすっごく長いじゃないですか。だからゆえに足が速いのではないか、と。これは人類の進化・発達史上では「逃げ足が速い」と言い換えられます。

 

 この論理をまとめると、足が長い=逃げ足が速い=捕食者から逃走しやすい=生存に有利、という展開になるのではないでしょうか。そんな体形の人と子供を作れば遺伝子の継承も有利になるはずなので、足が長い=カッコ良い=素敵よね、という横滑りになった概念が刷り込まれていったのではないかと。

 

 あはははは、検証材料はまったくありませんが、かなり有力な説だと自負しております。少なくとも、近頃やたらに増加してきた足長男子に好意を持っている女の子に、「逃げ足だけは確かに速そうだね」と捨てゼリフを言えるではありませんか。

 

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2017年7月 5日 (水)

宝くじ

 

 このところひどいことや悪いことや不運なことばかり起きるので、きっと高額当選するに違いないと勝手に思い込んでいました。はい、宝くじのお話です。

 

 事務所のあるマンションから徒歩で1分程度のところに、みずほ銀行があります。その玄関口の隣に宝くじ売場がある関係で、「ジャンボ」だけを買い続けてきました。とはいっても、忙しい時にはすっかり忘れて買い漏らすこともしばしばですから、とても定期的とはいえません。むしろ気まぐれと呼ぶべき周期です。

 

 ただね、この売場に決めて買い続けると「きっといつか」みたいな奇妙な期待感を勝手に持っているせいか、ほかの売場に行くつもりはまったくありません。歳末には当選が多いことで知られる西銀座デパートで長蛇の列を見かけたりしますが、ああいうのはちょっと意味が分からないんだよなぁ。当たりくじが特定の売場に偏在するなんてことは、確率的にあり得ないと思うのです。

 

 逆に、「あの売場でずっと買い続けてきたら当選しました」というほうが確率が高いように思うわけです、文系のボクとしては。それでね、同じ売場で宝くじを買い続けて何と17年にもなるかな。だったらそろそろ、って思いませんか?

 

 実はね、これまで隠し通してきた秘密を告白すると、ホントに当たったんですよ、結構な金額が。とはいっても10万円ですけど、ボク史上では最高の当選額であります。これが次回の高額当選を予告する暗黙のサインのように感じられたのです。ついでに言えば、それからが大変で、詳しく書きませんが、10万円以上に値するひどい不幸を経験しました。

 

 だったらさぁ、今回こそは1億円くらい当たっても決しておかしくないだろうと思っていたのです。あれやこれやが10万円なら、今度こそはという最悪に近いことがあったんですからね。エネルギー保存の法則に則れば、不運と幸運の総量は同じになるはずなんだよな。

 

 では、果たしてどうなったか。これは明日のブログで報告しましょう。

 

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2017年7月 4日 (火)

壁(続)

 

 昨日はあたかも談笑しているように見えて、まるで噛み合っていない会話を紹介しました。ニコニコと笑いながら、お互いが全然違うことを話題にして、勝手にしゃべって勝手に頷き合うという震撼すべき光景です。

 

 ボクの創作ではないかと疑う人もいるでしょうが、誓って本当に経験したことです。20代半ばの頃かなぁ。帰宅時の大混雑を尻目にした路上の大宴会だったので、よく覚えています。

 

 でね、こうした「会話もどき」なんて決して特別なことではなく、ボクたちも似たようなことをしていないか、というのが昨日の結論でした。これまた「同じ言語を使っているんだからそんなことはないだろう」と否定する人がいるかもしれません。

 

 ところが、そんなことは現実に、しかも普通に頻繁にあるんですよね。たとえば「片想い」です。ある女性に、ある男が惚れたとする。彼は何くれとなく彼女の世話をしたり、面倒をみようとしたり、メールを送ったりプレゼントをあげたりする。けれども、彼女は別に好きな男がいて、そちらのほうに関心が向いているとしましょう。

 

 若い独身女性の場合、いや年を経ていても「実は別に好きな人がいるんです」なんてホントのことは、相手がストーカーになりそうなギリギリの段階まで言わないですよね。取りあえず「キープ君」あるいは「友達」とでもいうのでしょうか、つかず離れずの微妙な関係を維持するはずです。

 

 この時の「キープ君」と彼女の会話なり交流が、互いの意識の上でみごとなまでにすれ違っているのです。たとえばメールのハートマークなんか典型的で、彼女のほうはほとんど挨拶がわりの記号でしかないのに、貰ったキープ君はその1000倍くらいの愛を感じとってしまう。おかげでキープ君はどんどん恋が成就する方向に動いていると思い込む一方で、彼女は適当にあしらっているだけなんてことはあちこちに山のようにある話じゃないですか。

 

 でね、そうしたハートマークが20個くらいたまったので、いよいよ景品と引き換えてもらおうとする段階で、それが何の価値もなかったことを知るわけですな。

 

 ボクのようなオッサンは似たようなことを何度も経験しているので精神に免疫がありますが、若者や女性との交際経験が少ない人はそうはいきません。「そそ、そんなはずねぇだろ」となり、中には逆上して「あげたものはすべて返せ」と無茶なことを叫んだりします。それだけならまだしも、愛情が憎悪に変換されてアイドルの女の子をめった刺しなんてことが現実に起きているではありませんか。

 

 こういうことはすべて、人間同士のコミュニケーションに関する期待や誤解が原因なのです。言語あるいは非言語で発せられたメッセージが、そのまま相手の本当の意思表示であるというのは大いなる錯覚なんですよね。むしろ人間は本当のことを正直に言うほうが圧倒的に少なく、平気でウソをつくし、隠しごとだってする。さもなければ円滑な社会生活を送れないからです。たとえば「おめえらはホントに心底からバカだな」という内心をすぐに口に出す正直者は直ちに会社から抹殺されるでしょう。「考えておきます」を「前向きに検討する」と解釈して何度も電話するセールスマンも嫌われますよね。

 

 となると、そうした虚偽表現と本当の気持ちとの落差をどうやって補えばいいのか。そこでようやく、人間に対する想像力が何よりも必要じゃないかとなるわけです。そしてそれはすなわち自分を客観的に理解することでもあります。「もしもオレだったら」と想定することで、すなわち自分も理解することにつながっていくわけですね。

 

 ということから、ボクはずっと想像力=イマジネーションこそが知性の本質であり、人間を救うための基礎になると考えてきました。だからこそ勉強して賢くなるんだよ、若者諸君。それに比べれば、大学入試の合格なんてオマケに過ぎないのです。

 

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2017年7月 3日 (月)

 

 随分前に、池袋の地下街でホームレスらしき人たちが集まって車座になった宴会を見たことがあります。どこからか日本酒やウィスキー、ビールなどの飲み残りを持ち寄ってきたらしく、それに缶詰などのおつまみも加わって、かなり豪勢な雰囲気だったので感心しました。

 

 こちらもヒマだったので近くでしばらく見ていると、会話もはずんでおり、時々大きな笑い声と拍手なんかもしばしば聞こえてきます。そうなると、いったい何を話しているのだろうと興味が沸くではありませんか。少なくともボクは仕事柄で好奇心が強いんですよね。

 

 そこで彼らに気づかれないように足をゆっくり進めて身体を移動。大きな柱に隠れて耳をそば立てました。さて、いったい彼らは何を話題にして盛り上がっていたと思いますか。

 

 1人はかつて働いていた会社でいじめられた上司の悪口。1人は政治や行政の問題。もう1人は地下街の複雑な構造について。さらにもう1人は心ない地下鉄職員のやり方について。

 えーと、つまりですね、それぞれが勝手な話題をそれぞれ勝手に話しており、まるで会話として噛み合っていないのです。ところが、誰かが話している時はみんな黙って聞き、「そうだよなぁ」とワケの分からない合いの手が入り、「んだんだ」と進んでいくため、賑やかな談笑に見えてしまう。

 

 誰も他人の話をまともに聞いているわけではなく、自分の番が来たら自分の話題を話しているだけなのに、宴会らしい賑やかな会話のフリがどんどん進んでいく。それを知ってボクは身体が震えるほど驚愕しました。精神的な問題を抱えているかもしれませんが、要するに会話になっていない会話を、それぞれの頭の中でそれなりに組み立てているらしいのです。

 

 これを果たしてコミュニケーションというのだろうかと、帰りの電車の中で真剣に考えてしまいました。そして、それに比べて真っ当だと思い込んでいるボクらの会話も、もしかすると彼らと大きな違いはないのではないかと気づいたのです。

 

 何かを話して理解してもらったと感じても、相手はまるで違うことを分かったように思っている。何を話そうが、その論理も内容も実のところ壁を越えた向こう側には全然届いていない。ただ残るのは、お互いに話合い分かりあったというフリと錯覚だけ。あなたは、こうした徒労を感じたことはありませんか。

 

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