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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

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福助くん その3

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福助くん その2

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    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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2017年11月

2017年11月30日 (木)

人格・能力・財力

 

 つくづく思うのですが、人格と能力と財力、これはまったく別個でバラバラの要素であって、いかなる相関関係も見られないんですよね。

 

 能力を教養と読み換えても同じですけど、尊敬すべき高潔な人格で能力も頗る優秀なのに貧乏というボクみたいな人がいる一方で(異論や反論はありそうですけど)、差別主義で排他的で利己的の極みともいえる性格にもかかわらず大統領になった大金持ちもいるくらいです。大富豪なのに好ましい性格という人はあまりいなさそうですが、いい人だからカネ持ちになるとは絶対的にいえないわけですね。

 

 ボクなんかはみごとに楽天家で未来志向だったものですから、人格と能力を磨けば、それが即ち地位を築くことになり、やがては財力に結びつくはずだと素朴に信じてきました。それがほぼ完全に裏切られてしまったことから、他人を羨む、じゃなかった分析するようになり、人格と能力と財力は、まったく何の関係もないことを確信するに至ったのであります。

 

 ということは、ですね。先週から大きな話題になってきた相撲だって、もしもホントにガチンコであるなら、人格と身体能力が一致するはずがないということです。実際に酒席での狼藉は今に始まったことではなく、後輩どころか一般人を殴って引退した横綱もいるじゃないですか。そういう乱暴者だからこそ、相撲が強いわけでね。逆に人格に優れているからといって横綱になった例が過去にあるのでしょうか。

 

 なのに、何か事件が起きるとやたらに品格だの何だのを持ち出す。それなら最初から人格だけで選んでおくべきでしょう。国技と冠されるせいか、相撲ほど建前と本質が乖離しているスポーツはほかにないんじゃないかな。

 

 そして、昨日のブログでちょっと触れた「売り手市場」の女の子たちにも同じことを言いたい。人格(優しさ)と能力(個性)と財力(収入並びに所属企業)は何の関係もないので注意してください。ご立派な大企業の名刺を持っていても夜になるとエロオオカミに豹変する奴もいるだろうし、こいつなら優しくしてくれると結婚したら、誰にでも優しくて浮気沙汰が絶えず、生活力もなかったりする。

 

 数年前までは、この3つの要素に何とか関連性を見つけようと奮闘してきたのですが、もはや諦めました。結果的に言えることは、人格と能力と財力をまったく個別に評価しなさいということです。その後で求める要素に順序を付けて、得点を評価しましょう。

 

 たとえば「優しさ」や結婚における「安定性」を重視するなら、人格評価を3割増しにするとかね。今の財力はどうでも、将来の安定性も大切というのであれば、能力は2割増しにする。となると財力は10割−(3割+2割)で5割減点しないとバランスが取れません。その総合得点に従って、恋人なり結婚相手を選べばいい。

 

 と、ここまで来て気がつきましたが、こんなことは大抵の女の子たちが感覚的に理解していることなんですよね。にもかかわらず恋人選びや結婚で失敗するケースが珍しくないのはなぜなのだろうと、新しい謎を見つけてしまったのです。

 

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2017年11月29日 (水)

包容力

 

 仕事をしながら、BGMにしているFM放送を聞くともなく聞いていると、「優しさ」だの何だのという話が耳に入ってきました。どうやら若い女性が複数集まって、男に求める要件を語りあっているらしい。

 

 いわゆる「雨夜の品定め」は男に限ったことではなく、特に「売り手市場」にいると自覚している女性ほど強気なことを言うので、面白いことは面白いのですが、いやはや何だかんだと自分を棚に上げた注文ばっかりで呆れてしまいました。中でも前述した「優しさ」なんていうのは、どんなことにも読み換えられるワイルドカードみたいなものではありませんか。少なくとも「優しくありたい」と思わない男はほとんどいないはずですが、先方からの「優しくしてよ」という要求は、言外にしても相当にハイレベルな自分勝手ではないでしょうか。

 

 それに比べてボクなんかは、月曜日のブログで書いたように「悪女」ですぜ。こんなのは要求や注文というより、飛んで火に入る夏の虫ってくらいなもので、そのバカさ加減には自分ながら感心してしまいます。けれども、1人の美女のために国を傾けるというのは、男として本望というか、憧れる価値があるような気がするぞ。

 

 そんなリスナーの心境をよそに話はどんどん盛り上がっていき、やがて「包容力」なんてところに行き着きました。でね、「中高年ほど包容力があるんですよね」「そうそう」なんてことになったのですが、ここでボクはノートパソコンに向けていた頭を上げて、おいおい、と。

 それってかなり激しい勘違いじゃないかなぁ。ボクも立派な、じゃなくて押しも押されぬ、というより、明らかに中高年ですから、そうした前向きの評価は嬉しくなくもありません(どっちだ?)。ただね、見た目は同じ現象にしても、考え方は真反対に近いのです。

 

 若い女性がつけ上がらないように、敢えて警告しておきますが、それは「忍耐力」なのでありますよ。「我慢強さ」と言い換えてもいい。ある程度の経験と年季を経たオッサンの多くは、「忍耐力」を持っていて当然なのです。さもなきゃとっくに社会からはじき出されていますから。

 しかし、それを「包容力」として自分の利益に直結して考えられてしまうと、どんどん迷惑をかけたり、依存したり頼ったりしてもいいんだとなってしまいます。わぁお、そんなの勘弁してよ、というのがね、ボクの感想なんだよな。

 

 健気な美人もしくは菜々緒みたいな絶世の悪女なら別ですけど、「売り手市場」にいて強気一辺倒の女性には近づくなというのが父親からの教えであります。そんな彼女たちが「忍耐力」を「包容力」と自分たち向けに曲解して賛同していることに、朝っぱらから驚愕させられたのであります。

 

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2017年11月28日 (火)

優等生

 

 学校というのは過去のことしか教えてくれません。とはいっても、未来のことを教えてくれるところなんて世界のどこにもないですけどね。

 

 そんな学校で教えている先生たちは、いわば過去の専門家であって、そこで実施される試験で成績上位の優等生にしても、過去の知識やノウハウやスキルに精通していることが証明されただけに過ぎません。つまり、成績が優秀だからといって、今日そして明日も通用するとは限らないのです。

 

 誤解して欲しくないのですが、ボクは過去なんか無視していいとはいっていません。知識のみならず戦略や戦術などの分析も知らないより知っていたほうがよほど有利なことは事実です。しかしながら、そうして学んだ過去を現在から明日に向けて「応用」していくには、テストではどうしても見破ることができない別の能力が必要不可欠なんですよね。ここのところがどうして分からないのかなぁと、ボクは昔から歯がみしてきました。

 

 そんなことを近年になって思い返したのは、親子喧嘩で知られる某家具メーカーの娘さんです。入試偏差値の高い国立大学を卒業して都市銀行に総合職で入社しており、成績は相当に優秀だったと考えられます。けれども、その後の「お家騒動」を経て父親から経営権を奪い取った後の戦略が、どう考えても過去のものとしか思えないのです。

 だってさ、今さらイケアやニトリの低価格路線と勝負しても勝ち目はないじゃないですか。わざわざ古参の強敵が支配するレッドオーシャンに船出するというのであれば、確かな勝算なり圧倒的な資本力、あるいはオリジナリティがなきゃダメでしょう。ボクは最初から、この女性社長は創造性に欠けていると判断してきましたが、やることなすことが案の定でありまして、むしろパパのほうがよっぽどクリエイティブなんですよね。

 

 もしも彼女がビジネススクールを修了したMBAホルダーでも同じことで、過去の事例をテーマにしたケーススタディにいくら知悉していようが、そうしたフレームワークが明日も有効とは限りません。会計だって同じことで、知らないより知っていたほうがいいに決まっていますが、だからといって経理部長が社長に向いているとはいえないですよね。もちろん向いた人もいるでしょうが、過去の数字をいくらいじっても、明日の売上げと利益が向上しなければ、経営がうまくいったとはいえないじゃないですか。そのためには、どんな産業・職種だろうが、お客さん=仕事が増えることが第一の条件となります。

 

 つまるところ経営とは、ドラッカーが言ったように「顧客創造」に尽きるわけです。もっと端的にいえば、経営というのは過去の継承ではなくて、明日を創造することなんですよね。継承するだけなら、社長室に招き猫を置いておけば十分です。過去というのは、そうした創造性を発揮するための踏み台もしくは参考資料に過ぎない。こうした視点が欠けた学校優等生ほど仕事が定型化・類型化していくので、時流の変化を乗り切れない凡庸な社長になるということなのです。

 

 にもかかわらず、日本の企業組織は「出る杭は打たれる」という体質を濃厚に持っています。これも学校の延長でありまして、過去にとらわれない常識外れなクリエイターを嫌うんだよなぁ。

 そろそろ教育における「想像性」と「創造性」をきちんと分けて評価したほうがいい。ちなみに前者を社会的に延長したものが「忖度」でありまして、これがまた相当に厄介な日本社会の宿痾になっているとボクは思うのです。

 

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2017年11月27日 (月)

悪女

 

 菜々緒という女優さんは、近年では稀な典型的悪女顔だなぁと注目するようになりました。本人も周囲もそれをしっかりと認識しているらしく、auのテレビコマーシャル「三太郎」シリーズでは「クラブ竜宮城」を仕切る乙姫ママに扮して、高飛車な魅力を炸裂させています。おかげで、これまではテニス選手のマリア・シャラポワがボクにとっての美女の代表だったのですが、今年から菜々緒に変更させていただきました。とはいっても、世の中に1マイクロメートルも変化はありませんけど。

 

 ボクはどうも昔から「良妻賢母」的な女性に興味が沸かないんですよね。そりゃまぁ美形で優しい女性に文句なんか一切ありませんが、おそらく3日で飽きるだろうなぁと不遜なことを思ったりするのです。その逆に、被虐趣味なんぞ1マイクロメートルもありませんが(くどいね)、性根が思い切りねじ曲がっていて、とことん身勝手な美形の女性に魅力を感じてしまうんだよな。相手が年上だろうが誰だろうが、常に上から目線というところも見逃せません。美人というのは年齢不詳のエイジレス&タイムレスなのでありますよ。

 

 顔かたちがみごとに整った美形ということが絶対的な条件ですが、そこに悪女的要素が絶妙なスパイスとして機能するわけですね。あたかも胡椒が食品の腐敗防止&長期保存のために使われたように、男心を刺激し続けてやむことがないのであります。早い話が、予定調和を旨とする「良妻賢母」に比べて、気まぐれが多くて謎も山のようにある悪女のほうが面白いじゃないですか。昨日まで言っていたことと、今日やることがまるで違う。それでも絶世の美女だからこそ許される。そんな悪女を久しく見たことがないので、菜々緒に瞠目してしまうのです。

 

 こういう女性が、ごくたまに優しいことを言ったりしたりする。だからこそ感動させるんですよね。もしもそんな悪女が身近にいれば、たちまち何もかも失って悲劇のズンドコに突き落とされるでしょうが、そういう女性がボクの美女像なのであります。幸いなことに、あるいは不幸なのか、現実にそんな悪女に出会ったことはありませんけどね。

 

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2017年11月24日 (金)

もう駅弁は買わない

 

 先般の大阪出張で帰りの新幹線が午後5時頃だったので、駅弁でも買おうかと構内を見て歩いたのですが、価格と内容がどうにもボクには納得できず、空腹にもかかわらず断念しました。

 

 何しろ、どんな店でも、どんな弁当でも1000円以上ですからね。それ以下の価格の弁当も希少ではありますが、ないわけではありません。けれども、ほとんどオニギリみたいなもので、だったらコンビニのほうがよほど安いじゃないですか。

 

 では、1000円レベルの弁当はどうかといえば、あくまでも私見ですけど、たっぷりのご飯の上または横にオカズを置いただけで、とても価格に見合う内容とは思えなかったのです。考えてもみてください。昼のランチで1000円といえば、相当に豪華ですぜ。その証拠に、この価格帯のランチを出す店は昼時でもほとんど混雑していません。にもかかわらず、新幹線の中で食べるテイクアウェイの弁当がこんなに高額でいいのかなぁ。内容よりも何よりも、価格にまるでバラエティがないことが不愉快の原因でありまして、これはもう場所に依存した特権商売じゃないかといえば言い過ぎでしょうか。

 

 あのですね、世界的な高級繁華街・銀座でボクが行きつけにしている立ち飲み屋は、グラスに大盛りのワイン2杯に簡単なオカズが2品で1500円程度ですよ。それに比べて、ご飯のカタマリにちょいちょいと具を乗っけて1000円というのは(あくまでも個人的な感想です)、あまりにも高過ぎやしませんか。

 

 もちろん、万円単位の高級ディナーを食べたこともあるし、生意気な姉ちゃんたちの機嫌を取るだけで数万円というキャバクラに行ったこともあります。その金額に比べれば1000円なんて安いかというと、そうではないんですよね。費用対効果=コストパフォーマンスに納得できなければ、1000円だって法外な価格に感じるのです、ボクはね。

 

 とにかく、協定料金だか不文律だかカルテルでもあるかのように同じ価格帯の弁当ばっかり。そうした、いわば1000円の壁を破るような市場競争がない限りは、きっと中身も期待できないだろうなぁ。と、嘆息してピーナッツをかじりながら、ひもじい思いを抱えて帰京したのであります。

 

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2017年11月22日 (水)

マフラー

 

 喧嘩を売るつもりはまったくないので誤解しないで欲しいのですが、あくまでも個人的な意見として、マフラーが大っ嫌いです。

 

 毎年11月始めくらいから活発に増殖する、首のところに巻くアレでございます。どんなにカッコいいファッションでも、あのマフラーをつけた瞬間に、石焼き芋屋さんか明星ラーメンチャルメラのオッサンにしか見えないんですけど。グルグル巻きのモコモコ状態で、顔だけポッカリと出している女性も少なくありませんが、可愛いというより、ボクはアザラシなど海棲の鰭脚類(ききゃくるい)やジャバ・ザ・ハットを連想してしまうのです。

 

 暖かいといえば確かに暖かいのは事実でしょうけど、そうした機能性ではなくて、みんながやっているからやっているオシャレ、という感覚がね、年を取ったせいか、最近はいよいよ気持ち悪くなってきたのです。

 

 休日の繁華街に行けば、誰も彼も似たような格好でございまして、ボクはまるでマフラーの国に迷い込んだアリスって感じになってしまうんだよなぁ。オシャレというよりも、逆に没個性で横並び、自主性や独創性に乏しい感性がモロに露呈されているように思えるから不快になるのであって、マフラーに罪はないので念のため。

 

 ちなみに、ボクはある時から「引き算」を心がけるようになりました。持ち物だけでなく、生き方も、そして服装も同様なので、首にぶら下げるマフラーなんて明らかに余計な「足し算」になってしまうのです。若い娘なら「足し算」が可愛いとなるかもしれませんが、ある年齢を越えたら煩雑で邪魔くさくてみっともなく感じないでしょうかねぇ。だからジャラジャラ系も大嫌いでございます。むしろ「引き算」のほうがシンプル&ベイシックで、それゆえにスッキリと美しく清潔に見えるのではないでしょうか。

 

 そんなわけで、ボクも1本だけマフラーを保有しておりますが、もはや美意識に合致しないので何年も使っていません。そんなのはアンタの勝手な意見だろ、と言われたら、ハイそうですと素直に引き下がりますけどね。

 

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2017年11月21日 (火)

『誰よりも君を愛す』

 

 京子さん、ボクは山本や川崎や酒井なんかに比べて、誰よりもずっとずっと君を深く愛しているんだ。だから、お願いします!(右手を差し出す) 

 

 『誰よりも君を愛す』という歌をまともに聴いたことがないので、さすがは剛毅な川内康範の歌詞だけあって、美人をめぐる厳しい競争にも決して負けない強い愛を説得する内容かと思っていました。

 ところが、YouTubeで初めてフルバージョンを聞いてみて、いつものようにボクの大勘違いであることが判明しました。冒頭の事例を借りると、正しくは以下のような意味なのです。

 

 京子さん、ボクは和子や陽子や敏江など、これまでつきあってきた誰よりも、ずっとずっと深く君を愛しているんだ。

 

 何だよ真逆じゃねぇか、というより、いくら競争相手が多い美人にしても、お見合いパーティじゃあるまいし、ほかの誰よりもオレは君を愛している、なんていう口説き文句を聞いたことがありますか。そんなことを他人と比較できるかってなりますよね。幸福の度合いを他人と比べる人は結構いますけど。

 

 アホか、みたいな冗談で始めてしまいましたが、『誰よりも君を愛す』。タイトルだけでもすごいでしょ、キッパリしているじゃないですか。迷いなんか1マイクロメートル(1/1000㎜。今はミクロンは使いません)だってありません。作詞した川内康範はテレビドラマ『月光仮面』の原作と脚本で知られており、2007年には森進一が『おふくろさん』の歌詞を勝手に変えたと激怒して再びテレビなどで紹介されたことがあります。

 

 この『誰よりも君を愛す』は1959年の作品です。吉田正が作曲して松尾和子と和田弘&マヒナスターズが歌って大ヒットしました。彼が月刊『明星』に連載していた同名の小説がモチーフらしいのですが、39歳の頃ですからね、元気と精力が羨ましいほど横溢しております。

 

誰にも言われず

たがいに誓った

 

かりそめの恋なら

忘れもしようが

 

ああ 夢ではない ただひとすじ

誰よりも 誰よりも 君を愛す

 

 やはり凄みというか、壮絶ともいえそうな心意気を感じさせますよね。冗談やお世辞抜きで、こんなにも一直線で一途な思いを表現した歌詞は、ボクにはとても書けません。「誰よりも、誰よりも」と重ねておいて、「君を愛す」と力強く断言する。「愛する」じゃなくて「愛す」とスッパリ引き締めたところが、川内康範の流儀だと思います。いずれにしても、こんなド迫力でせまられたら、ほとんどの女性は陥落してしまうんじゃないかな。経験ありませんけど。

 

 ただし、2番目の歌詞からは、誰でも共感できる恋の辛さが綴られています。

 

愛した時から

苦しみが始まる

 

愛された時から

わかれが待っている

 

ああ それでもなお 命かけて

誰よりも 誰よりも 君を愛す

 

 愛を得た瞬間は喜びが溢れていても、その分だけ逢えない時が辛くなり、いつか別れることも覚悟しておかなきゃいけない。軟弱なプレイボーイもここまでは同じでしょうが、大正9年生まれの川内康範は、「それでもなお」として、命がけで君を愛す、というわけです。しかも、誰よりも、誰よりも。

 

 じれったくなるほどスローなテンポのメロディのもとで、松尾和子と和田弘&マヒナスターズがかけあうように歌うのですが、前述してきたように、詞の内容は鋼鉄のように固い意志が貫かれています。

 

あなたがなければ

生きてはゆけない

 

あなたがあるから

明日が生きられる

 

ああ いく歳月 変わることなく

誰よりも 誰よりも 君を愛す

 

 冗談めかして解説してきましたが、これほどまでに思いつめたことが、はるかな大昔ですが、ボクにも確かにありました。こういう恋愛をですね、若い人はどんどんしなきゃいけません。ヘンテコに大人になると、小狡い打算ばっかりでさぁ、それが透けて見えてほとほとイヤになることもあるんですよね。

 しかし、そこで挫けてはいかんのです。ボクも川内康範のように、背骨をいつも真っ直ぐにして生きていきたいなぁ。

 

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2017年11月20日 (月)

墨塗りの教科書

 

 今から70年ほど前のことですが、太平洋戦争に敗北した日本では、アメリカの占領軍=GHQの指示によって、教科書の軍国教育や皇国教育に関する部分を墨で黒塗りにすることになりました。オセロのコマと同じで、どちらが表で裏かは分かりませんが、たとえば昨日まで白だったものが、今日からバタバタと黒にひっくり返されたわけですね。おそらく先生たちは子供に「軍国主義から皆さんが主役の自由な民主主義になるんですよぉおお」とか何とか説明したと思うのですが、であるなら、それまで教えてきたことは、先生たちにとって何だったのでしょうか。

 

 墨塗りの部分は教科の一部に過ぎなかったにせよ、それが教え子を最前線に送り出す動機や理由付けになってきたのではないでしょうか。あくまでも想像ですが、現代の高校が国立大学合格者数を自慢するように、軍隊への志願者数や陸軍や海軍士官学校の合格者数なんかを誇りにしていたかもしれません。積極的に軍部と結託することで、自分の地位を保持または向上させようとする先生だっていたでしょうね。

 

 しかし、敗戦によって時代も社会もコロリと変わり、昨日まで教えてきたことが今日はすべて逆になりました。その時に、果たして先生たちはどう反応したのでしょうか。過去のことを現代の視点で裁いてはいけないことは承知しています。けれども、寡聞かつ不勉強で申し訳ありませんが、敗戦の責任を感じて自害した軍人はいても、教科書の墨塗りに逆らって逮捕されたとか、それまでの軍国教育を恥じて自殺したという教師をボクは知りません。

 

 以前にも書きましたが、スポーツの練習中は真夏でも水を飲むなと教えられてきたのに、いつの頃からかどんどん飲めという指導に変更されています。しかしながら、それについて先生から「これまでは間違った指導でした、ゴメンね」なんていう謝罪を一度も聞いたことがないのです。水を飲まなかったおかげで何人の児童や生徒や学生が熱中症で亡くなったという統計があるのかどうかも知らされていません。少なくとも、そんな間違った指導をしてきた先生たちは、せめて墓前で合掌するべきですよね。

 

 つまり、先生というのは常に教えられる側より上位にいて、自らの誤謬を認めたり詫びたりするなんてことは滅多にないのです。せいぜい子供が自殺した時くらいですよね。さらに、勉強しなかったことによる結果責任は、いかに先生の教え方がヘタクソだろうが、教えられた側が全面的に一生をかけて背負うことになります。先生のおかげでオレはこうなったと犯罪者が言ったところで、屁理屈だとして誰も見向きしないでしょう。

 

 でもさ、ホントにそうかなぁ。

 今でも天然茶髪の許可証がなければ黒に染めなさいなんてアホな指導をやっている高校があるらしい。あと10年も過ぎたら、そんな指導をしていたことを、それこそ黒く塗りたくなると思うぞ。もっと前には、海外留学したいと相談に来た学生を「就活に影響するから」と引き留めた大学教員も実際にいます。この指導も今なら噴飯ものですが、学生のほうはそうはいきません。貴重なチャンスを失うところだったのですから。幸いに、この学生は教員に失望して、自分で何もかも調べてアメリカの超有名大学に留学して成功していますけどね。

 

 ボクたちの仕事は自分のやったことに全責任を持っているのに、教員だけは教育勅語や学習指導要領に従ってきたから、仮に間違っていようが、方針が急に変更されたとしても、自分のせいではないから免責されるというのでしょうか。そりゃね、責任を取れることと取れないことがあります。さもなきゃ先生になりたいという人がいなくなるじゃんかという危惧もあります。

 

 だったら機械の歯車とどれだけ違うのでしょうか。やがて70年前の教科書墨塗りと同じことを再びしなきゃいけない日が来るかも知れません。その時も唯々諾々と従うのでしょうか。

 

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2017年11月17日 (金)

カバンレス

 

 昨日の大阪出張はカバンを持たない手ぶらでした。最近は取材時でも百円ショップで買った網入りの透明バッグの中に筆記具を入れることにしており、カバンを持つことが激減しました。必要なものを突きつめていけば、それで十分なんですよね。

 

 今回も要件は新しい店の内覧会であり、オーナーが挨拶するだけだったので、筆記具と小型のメモ帳、それにICレコーダーだけが基本的な装備。だったら、わざわざ重いカバンを持ち歩く必要なんてないじゃないですか。パーティ用のダークスーツならポケットを膨らませたくないのでカバンに入れた方がいいでしょうが、革のジャケットだったので、それくらいは内ポケットに収納できます。

 

 とはいっても、さすがに東京から600KM近く離れた大阪ですから、不安を感じなかったわけではありません。それで思ったのは、カバンというのはビジネスマンにとっての「習慣」あるいは「常識」になっているだけで、必ずしも「必要」とは限らないということです。何かを持ち運ぶなら、紙のバッグでもいいじゃないですか。それをわざわざ高級な牛革のバッグにするというのは、やはりファッションのひとつということになります。であるなら、夏のクールビズがノーネクタイになったように、カバンレスだってありじゃないかと。

 

 必要性だけでなく、自分の個性を表現することも目的というなら、女性のバッグと同じくらい多彩でなきゃいけません。ところが、メンズのバッグはブラックかブラウンが圧倒的に多く、形も似たようなものばかり。もちろん高価なブランドものはしっかりと作られていますが、それでも男のバッグというカテゴリー的常識の中に収まっていると思います。さもなきゃ売れませんからね。

 

 そうした不文律みたいなものを見直してみようじゃないか、というのがボクのカバンレスなんですよね。みんなが持っているから持っている、みんながやっているからやっている。それでいいのでしょうか。

 

 日本という国はどんな国にも増して同調圧力が強く、常に標準=スタンダードを求めてしまう。優等生ほどその傾向が強いのですが、それを突き破っていくことが、精神的なグローバリゼーションではないかとボクは思うのであります。

 

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2017年11月16日 (木)

緊張と弛緩

 

 アタマの中にくるくると回転するハードディスクがある感じかな。仕事が増えれば増えるほど超高速で回転してデータを読み取るようになり、異常に記憶力が昂進すると同時に、思考も瞬時にあちこちに飛躍するようになります。ところが、仕事がはかどって締め切りの数が少なくなると、回転速度もめっきりと遅くなり、言葉のつなぎ方にも独創力が欠けて、類型的になっていく。ヒューゴー賞を授与されたダニエル・キイスの大傑作『アルジャーノンに花束をFlowers for Algernon』に似ているといえばそうかもしれません。

 

 ボクは誓ってハツカネズミでも機械仕掛けのアンドロイドでもありませんが、書き仕事というのはそんな傾向があるように思います。ということは、忙しければ忙しいほど大傑作が生まれるような気がするじゃないですか。でも、そこのところが人間でございましてね、いけない薬でもやらない限りは確実に疲労が蓄積されていくのです。そんなわけで、傑作をモノにする直前でチャンスを逃し続けて30年以上。今年も季節労働(時計です)が一段落したおかげで、ハードディスクの回転速度がヘロヘロとゆっくりとなり、もうすぐ停止しそうなほどです。

 

 これはあくまでも比喩でありまして、ボクのMac Book AirHDDでなくて駆動部分のないSSD(ソリッド・ステート・ドライブ)になっていると思うんですけどね。このあたりは文科系の悲しさで、ちょっと調べただけの付け焼き刃なイメージですけど、まぁね、少しばかりアタマのネジが緩んできたことは事実でございます。あ、今週の土曜日は二の酉じゃないか。

 

 このように緊張と弛緩が繰り返されることを、英語でTension Reductionテンション&リダクションと言います。ライター稼業ではなく、もっぱらマーケティングに利用されている心理的なテクニックであり、アメリカの警察ドラマでは「Bad Cop, Good Cop良い刑事・悪い刑事」と呼んだりします。「ホントのことを言わなければブタ箱に放り込んでやる。てめぇなんか3日も生きてはいられないぞ」とか何とか、コワモテの刑事が容疑者をさんざん脅しまくって取り調べ室から退場。かわりに入ってきた柔和な面相の刑事が「お前もなぁいろいろと事情があると思うんだ。さもなきゃこんなことはやらないだろう。オレはお前の味方なんだから、取りあえず言えることから言ってみろよ」と優しいことを言い出す。

 

 コワモテの刑事に恐怖に近い緊張感を強いられたおかげで、北風と太陽みたいなもので、ついホロリと白状してしまうわけですね。こういうテンション&リダクションでモノを売りつけたり契約を迫るビジネスもあるらしいので、くれぐれもご注意ください。そういえば銀座でリトグラフを高値で売りつける画廊を見つけました。まだやってんだぁ、しぶといですよね。

 

 という弛緩した心境で、これから大阪に向かいます。のぞみで約2時間半。この距離がね、忙しい時ほどノロく感じて、本日みたいなヒマな心境の時はあっという間なんだよな。気持ちとはまるきり反比例する時間認識も考えてみれば不思議なことなので、次の機会にテーマにしてみたいと思います。

 

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2017年11月15日 (水)

逃げるのは恥だ!

 

 会社を設立した当初は調子良かったけど、業績が次第に悪化。そんな時に「ほかに大切な仕事もあるので」と創業者がいち早く辞めてしまったら、みんなどう思いますかねぇ。会社なら幹部や従業者と顧客に迷惑が及ぶだけですが(それでも大変な事態です)、政治ともなると多数の人々に大きな影響を与えますからね。はい、都知事の小池さんのことであります。

 

 ボクは以前から、このブログで何度も何度も何度も何度も、リーダーの必須要件はアタマの良さなんぞではなく、「たとえ負け戦になっても逃げ出さない人格」と規定してきました。政策立案なんていうのは参謀やら取り巻きにナンボでも任せることができます。しかしながら、すべての結果責任はどうしたってもリーダーが引き受けなきゃダメでしょ。にもかかわらず「電撃辞任」だもんなぁ。その逃げ足の速さは、さすがというほかありません。こういう人を絶対に総理大臣なんかにしてはいけない。

 

 あくまでも仮の話ですが、威勢良く戦争を始めて、敗色が見えてきたらとっとと隣国に亡命するような人を国のトップにしたいですか。彼女はおそらく「それとは決して同じではございません」と強弁するだろうけど、断言しますが、これは明らかにまったく同じことでございます。それに、女性のリーダーや指導者や会社の社長や幹部や上司の皆さんも、彼女と変わりないんじゃないかと見なされかねないので、ボクは女性の評判まで著しく毀損したと認識しています。

 

 人気漫画を原作にしたテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』がヒットしたようですが、これはあくまで個人的なことですよね。普通の人も兵隊さんも、やばくなったらどんどん逃げたほうがいい。イジメだってそうです。しかしながら、繰り返しますが、リーダーだけは別です。逃げるのは紛れもなく恥であり、その後には死屍累々、多数の犠牲者が残ることになるではありませんか。だから絶対に逃げてはいけない。つまり、すぐに逃げ出すような奴をリーダーに選んではいけないのです。

 

 小池さんは、大変にありがたいことに、そうしたボクの持論をきっちり証明してくれました。もうちょっと眼力を磨きましょうよ。さもなきゃ、また騙されますぜ。

 

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2017年11月14日 (火)

ムカツキを鎮める方法

 

 ついに「忖度」が「無理を通せば道理が引っ込む」という状態になってしまいました。例の獣医学部の新設ですけど、理屈や事情はどうあれ、国会でもう少し論議するべきではありませんか。それに森友学園の国有地払い下げのほうは早々と忘却の彼方なのでしょうか。

 

 それだけでボクのような正義と倫理の人(自己申告)は超不愉快なムカツキを感じてしまうのですが、これ、あくまでも前フリでございます。今回のテーマは、そうしたやり場のない不快感や苛立ちをどうしたら鎮められるか、ということであります。

 

 こうしたムカツキは、政治から会社関係や仕事、身近に至るまでいろいろありますよね。その理由を突きつめれば、人間が集団で組織的な社会生活を営んでいることにすべて起因していることに気づきます。たとえば無人島に1人でいるとしたら、人間を恋しく思っても、同じようなストレスを感じるはずがありません。

 

 かといって1人だけで真っ当な生活をすることは困難です。というわけで、通勤時間の混み合った電車内と同じで、心理的な軋轢はどうしても避けられないのです。

 

 であるなら、奴らは人間ではないと考えたらいかがでしょうか。ボクはかつて映画『猿の惑星』に衝撃を受けたせいか、ラッシュアワーの電車に乗り合わせた時には、みんなが服を着た猿だと考えるようにしています。それでは逆に恐怖を感じる人もいるでしょうから、そんな場合は犬だと思えばいいのです。犬好きの人なら必ず賛同してもらえるはずですが、人間を連想させる顔が結構あるんですよね。

 

 はははは、そうか、犬が吊革にぶら下がったり、スマホでゲームをやったり、迷惑にも足を組んだり、マスカラを塗ったり、大口開けてヨダレを垂らしながら寝ているのかと。そう思うことができれば、ムカツクのがアホらしくなるじゃないですか。

 

 会社でも同じで、社長はポメラニアンで、その取り巻き連中がチワワ、いつも小うるさいことを言う課長はブルドッグ、みたいに感じることができれば、1人でヒヒヒヒと笑うこともできるじゃないですか。

 

 もちろん、そんな簡単に気分を変えることはできません。だから日常的にそうしたイメージを作り上げておく。早い話が動物園ですな。ロボットを加えるとSFチックな世界になります。こういう想像を子供の時にはいつもしていたと思いますが、そんな世界に逃避してムカツキを鎮めるのが最も現実的な方法ではないでしょうか。

 

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2017年11月13日 (月)

こんなにも多くの……

 

 連続殺人のことを英語でSerial murderと言います。かの有名なイギリスの切り裂きジャックなど、いわゆるサイコパスは古今東西で出没するので、今回の座間の事件もまたかよと呆れるほかありません。

 

 ある一定の割合でそうした人格や性癖が形成されるのかも知れませんが、そんな難しいことは専門家に任せるとして、ボクたちがもっと驚くべきことがありますよね。第一に、若い人たちの自殺志願者がこんなにも多いということです。ボクのようなオッサン世代でも電車に飛び込むケースがまだまだあって、そのたびに公共交通が大混乱して迷惑を被っていますが、SNSという見えない世界で「死にたい、この世からいなくなりたい」と叫ぶ若者たちが増えているというのはどういうことでしょうか。

 

 厚生労働省による「平成29年版自殺対策白書」によれば、実際に自殺に至るケースは減少傾向にありますが、それでも15歳~34歳の死亡原因では自殺が第一位。こんな深刻なデータは先進国では日本だけのようです。15歳~19歳に限れば死亡者の3割以上を占めていますからね。結果だけでもこれなので、潜在的な自殺予備軍は相当な数にのぼると考えるのが普通ではないでしょうか。

 

 次に、自殺可能性を高めると想定される家出ですが、警察庁の最新データによれば、2016年に行方不明とされたのは全体で8万4850人にのぼります。12年に比べれば減ってはいるものの、年齢別では10歳代が最も多く、うち2割を占めるのですから、タダ事ではありません。こちらも表面化しない潜在的な家出志願者は相当数になるんじゃないかな。

 

 つまり、座間の事件の背景には、多数の自殺志願者と家出=行方不明者がいるということです。渋谷のセンター街に関東周辺からの家出少女が目立つと報道されたのはいつのことかな。この時に、警察に届け出ることもなく、放置していた親が多いことに驚きました。中高生が一泊だけにしても、どこにいるか分からないという状態は、いくらスマホが普及しても異常と考えるべきですよね。

 

 様々な事情があるはずなので、一概に親のせいにするのは気の毒ですが、子供の勝手気ままを許すことにはちょっと問題があるだろうと思います。「わーいアタシはオレは自由だぜい!」なんてことは本音ではあまり思わないんじゃないかな。束縛を嫌うように見えても、親が常に自分を気にかけてくれるということが愛情の再確認につながるからです。

 

 ここからはボクの仮説ですけど、自殺志願も家出も、彼らの自己評価が低すぎることに原因があるような気がします。自分は学校(職場)で好かれていないらしい→親からも大切に思われていないようだ→他人に比べて自分のデキが悪いからだろう→だったらこの世からいなくなったほうがいい。こんな思考回路で、自分を棄てるような方向に走っていくのではないでしょうか。

 

 これね、実はボクも経験があるのです。小学校3年頃に、実の父親から「お前は豚目だなぁ」ですからね。父親は二重で、ウソかホントか「オレは目千両と評判だった」なんてことを無神経に自慢されたら、息子は相当に傷つきます。その心ない言葉がトラウマとなって、ボクは自分の顔が大嫌いになったのですが、幸いに男というジェンダーに属していたので、イケメンでないならその他の方面で頑張ってカバーしようとしてきました。

 

 まさか娘にそんな残酷なことは言わないと思いますが、「お前は豚目だなぁ」みたいなことをしみじみ言われたら、生きていく気力を喪失しますよね。

 

 これはあくまでも卑近な例ですけど、学校の成績や教室での人気なども含めて、似たようなことを繰り返しながら自己評価がどんどん低くなれば、「自分なんてどうだっていい」となるじゃないですか。

 

 ということは、そうした若者たちが自分に自信を持ち、正しく自尊心を持てるような体験や環境があれば、少しは自殺志願や家出が減るという理屈になります。ウェブで自殺幇助のサイトがあるなら、逆に生きている人間にはすべて生きている理由と価値があるのだと感じさせるHPがあってもいい。それ以前に、誰かを好きになって、その誰かをどうにかしてハッピーにしてあげたいと願う習慣を付けた方がいいですよね。

 

 人間が生きている価値を突きつめれば、学力や人気なんぞではなく、人を愛することができるってことです。これは意識すれば誰にだってできます。その結果として、できれば子供を作って次世代に遺伝子を継承する。人間にとって、それ以外に大事なことがあるでしょうか。

 

 ボクのようなオッサンになると何かといろいろ障害があるのですが、そうした恋愛を謳歌できるのが若い男女なのですから、もっと自分を大切にしようよ、となるわけです。この理屈、ヘンですかねぇ。

 

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2017年11月10日 (金)

曇り時々失意

 

 ある企画の撮影立ち会いで、ひと区切りつけたカメラマンに「もっとヘタクソに撮りたいと思ったことはないですか?」と聞いたことがあります。

 

 名前が出ていようがいまいが、作家として扱われない商業目的の写真には様々な制約があります。というより、均整の取れた美しい構図を壊すなんて、とてもじゃないけど許されません。大多数の人間が見て心地良いと感じられるバランスと光と陰や奥ゆきのもとで、ようやくシャッターが押される。だからこそ広告&広報的な利用が可能になるわけでね。ベネトンのように敢えて衝撃的な写真で世間を騒がせるのも手法としてあり得ますが、その場合は「作家性」という隠れ蓑がなければできないことだと思います。

 

 ボクも彼もプロとしてそんなことは百も千も万も承知の上だからこそ、逆にそう訊ねてしまったのですが、答は予想通り「そりゃそうですよ」でした。もっと正しくいえば、ヘタクソというのは仮の形容であって、「自由に」という意味なので念のため。

 

 ボクのようなライターも同じで、誰もが読んで概ね理解でき、さらには納得できる文章が求められます。この稼業を始めた頃から、変化球をいろいろ覚えてきましたが、結局はストライクゾーンを抜けてキャッチャーミットにきちんと収まらなきゃいけません。そんな仕事を長く続けていると、たまにバックネットの上のほうに突き刺さる暴投をしたい時があるんですよね。たとえば、何度読んでもまるで理解できず、20歳くらい年を取ったら何となく分かるようになる謎の文章とかね。文法や文章作法、お約束などをまるきり無視するとか、何十行も句点や読点がなく、延々ダラダラと続く文章も書いてみたいなぁ。逆に7文字以下の短文の羅列とか。

 

 そうなるとね、文章はコミュニケーションの手法にもかかわらず、他人に理解されることを拒否したものになりかねません。そういう重大な掟破りを、無性にやりたい時があるのです。これはもう独りよがりの自己満足としか言えませんが、実のところ、その本質はアートと紙一重の違いしかないんですよね。

 

 内容にしても、言いたいけど今は言えないことが沢山あるので、これをどんどん暴露していきたい。罵倒や悪口も思いのままに書きつけることができたら、きっと気持ちいいだろうなぁ。

 でもね、社会的な存在として生き続けたいのであれば、そんなことできるわけがない。かくて、長年の苦楽を共にしてきた悪友の予定調和クンと一緒に生きていくしかないのです。

 

 はぁ、今日も曇り時々晴れ、または失意あるいは諦念、かな。

 

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2017年11月 9日 (木)

可哀想とは何か

 

 犬の福助がめっきり老け込み、昔は飛び跳ねるように動いていたのに、近頃は水を飲みに行くにも右に左にヨタヨタと歩いております。

 

 今年で15歳というのは、昔の常識では考えられないほどの長寿であり、衛生環境が飛躍的に向上した賜といえるのですが、見ていると不憫でもあるんですよね。エサの食いつきも近頃はすごく悪くて、かつては秒速で完食していたのに、今では残したりします。そんな時に、何を考えているのか、黒いビー玉のような瞳でボクの顔をじっと凝視するんですよね。

 

 そんな時に哀れを感じる、つまり可哀想だと思ってしまうのですが、どうやら犬のほうは自己憐憫という感情はまったくないようです。ヘルニアで下肢が動かなくなった犬が特注の車輪を付けているのを見たことがありますが、「わーい、これで自由に動けるぞ」といわんばかりに走り回っていました。それがないからといって、自分の不幸を嘆き悲しんですっかりふさぎ込むというのも見たことがありません。足が動かない。そうか、仕方ないか。みたいなね。

 

 そうすると、ボクたちが犬や他人、あるいは自分に対して「可哀想」と思う感情って、いったい何なのでしょうか。英語でも哀れみや同情を表すPityという言葉があるので、おそらくこれは人類共通だと思います。ボクは読んだことはありませんが、夏目漱石は小説『三四郎』の中で、a pity is akin to loveを「可哀想だた惚れたってことよ」と訳しています。

 たとえば放蕩者の父親を持つ美しい娘が、借金のカタとして郭に売られるなんていうシチュエーションは、確かにそうかもしれません。惚れてなきゃ可哀想なんて感情は起きないですからね。しかしながら、犬や猫を可哀想と思ったからといって、惚れるという感情とは大分開きがあるような気がします。

 

 あくまでもボクの仮説ですが、これは人間だけが持ち得る他者共感能力=シンパシーの一種ではないでしょうか。大昔の厳しい自然環境では、人間が孤立したらすぐに捕食されるか飢え死にしてしまいます。つまり、お互いに協力してお互いを守り合うことが生存に必要な絶対条件だったのではないでしょうか。

 そうするためには、他者のことをあたかも自分のように感じなければいけません。隣の男がクギを踏み抜いて「痛い!」と叫んだら、自分も神経を突き刺されたような気がして「こりゃ大変だ!」と助けようとする。そうした感情から「可哀想」が派生してきたのではないかな。

 

 ところが、文化・文明の発達によって天敵となる捕食者がどんどん駆逐され、人間が食物連鎖の頂点を極めるようになってから、そうした本能を欠いた人間も生まれるようになったようです。だからこそ犬や猫を何匹も殺して平気な無慈悲な奴もいるわけです。こういう人は、akin to loveに至るa pityという感情がそもそもないと考えられるので、人を愛することができない。愛される喜びも分からない。ああ、何という恐ろしい孤独でしょうか。しかし、彼らはおそらくそれすらも感じないだろうなぁ。

 

 最近になって登場した人類最強の天敵になりそうな人工知能=AIにしても、「可哀想」という感情を持たせるには何百年もかかりそうに思います。よしんばそう感じたとしても、人間のように人を愛してセックスして子供をこしらえるなんてことは金輪際できません。

 

 だからね、カメラが誕生して絵画の意味が写実から大きく変わったように、AIによって、それまでは面倒くさくて仕事の邪魔ですらあった人間的感情が前向きに再定義されるような気がするのです。それを追求できるのは大学の文系学部だけですから、もっとガンバレよと言いたいわけですな。

 

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2017年11月 7日 (火)

『愛人』

 

 歌というのは時々ウソをつきます。というか一方的な願望あるいは空想ともいえるのかな。ボクにとって、テレサ・テンの『愛人』は、そうした見果てぬ夢Impossible Dreamといえるでしょう。

 

あなたが好きだから それでいいのよ

たとえ一緒に街を 歩けなくても

 

 このフレーズを耳にするだけで「惚れてまうやろっ!」(ちょっと古いか)ではありませんか。さらにたたみかけるように続きます。

 

この部屋に いつも帰ってくれたら

わたしは待つ身の 女でいいの

 

 たった4行の言葉だけで、関係性と情況がまる分かりになる、実に優れた歌詞です。元吟遊詩人志望者のボクから見ても、昔の歌謡曲は現代とは比較にならないほどの表現力を備えているんですよね。

 作詞は荒木とよひさ、作曲は三木たかし。1984年の『つぐない』からコンビとなり、翌85年に15枚目のシングルとしてリリースされたのが、この曲です。さらに86年には3曲目として『時の流れに身をまかせ』を発表。いずれも大ヒットとなり、これでテレサ・テンのイメージが決定的に定着したといっていいでしょう。このためカバーする歌手も多いのですが、『愛人』だけは寡聞にして極端に少ないような気がします。あくまでも私見ですが、女性にとって共感しにくいシチュエーションだからではないでしょうか。要するに不倫の歌ですからね。

 

尽くして 泣きぬれて

そして愛されて

時がふたりを 離さぬように

 

見つめて 寄りそって

そしてだきしめて

このまま あなたの胸で暮らしたい

 

 つきあい始めの頃はそんな心意気だったにしても、深夜になると奥さんのもとに帰って行き、土日や祝日は連絡するにも気を使うということを数回も繰り返せば、若い女性ほど「もうやめよっかな」と思うのが普通ですよね、きっと。

 

 それ以前に、「結婚しない人とエッチはしない」という姿勢があたかも「真面目」で、そのほかのケースはすべて「遊び」または「倫理に反する行為」と断定する女性も実際にいました。結婚による法的地位、または生涯の財政保障とエッチを交換するというのは、ボクには娼婦より不真面目としか思えませんが、どうやら貞操っていうのは価格と長期契約が伴うみたいです。こんなの大昔と何も変わらないですよね。どこが女性の自立だよって、ボクは思うんですけど。

 

 そうした古典的な世界観を継承する女性から見れば、この『愛人』的な女性は紛れもなく「不道徳」「掟破り」「破戒」いや経済的には「価格破壊」といっていい。だからさ、奥様はみんな不倫と愛人を激しく敵視し、糾弾するんじゃないかな。その一方で、男たちは、いつになってもこういう無償の愛を求める生き物なのです。

 

めぐり逢い 少しだけ遅いだけなの

何も言わずにいてね わかっているわ

心だけ せめて残してくれたら

わたしは見送る 女でいいの

 

 こんな女性がホントにこの世にいるのでしょうか。銀座あたりのホステスクラブではフェイクラヴのセールストークであり、ヘタすりゃハニートラップの疑いも濃厚だったりして、とてもじゃないけど、ほぼ絶対的にあり得ません。にもかかわらず、それが現世に実在するかのように、テレサ・テンは儚く優しく哀しげに歌い上げるのです。死亡の原因にナゾが多いこともあって、歌手としての成功の陰で薄幸だったかもしれない一生を想いながら、ボクは聴くたびに心を揺さぶられて、惚れてしまうのでありますよ。

 

 そんな女なんていないに決まっているけど、ひょっとすると万々が一、どこかに生存しているかもしれない。そんな男の身勝手な願望を表現した歌に違いないでしょうが、ボクはこれこそが文字通り“掛け値なし”の「純愛」だと信じているのであります。

 

 なお、明日は早朝から取材がありますのでお休みさせていただき、翌9日木曜日から更新する予定です。

 

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2017年11月 6日 (月)

もっと事実を!

 

 最近は前代未聞の大量殺人事件が頻発しているように思います。ちょっと前なら通り魔関係が目立ち、昨年には相模原の知的障害者福祉施設で19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせた衝撃的な事件がありました。これが戦後に発生した殺人事件では最も犠牲者が多い、最悪の記録となるそうです。

 

 それに比べれば、と言えば顰蹙を買いそうですが、座間市のアパートで見つかったのは今のところ9遺体。女性8人、男性1人と報道されていますが、相模原のように障害を持つ弱者ではなく、自殺願望があるとはいっても不特定な健常者と想定されるので、連続殺人といっても性質はかなり違います。

 

 今回の事件を知ってボクがすぐに思いついたのは、アメリカのテレビドラマ『クリミナルマインドFBI行動分析課』でした。サイコパス=反社会性人格障害者をテーマとして、毎回毎回、さすがのボクもへコたれるくらい陰惨な連続殺人が実に丁寧に丹念に描かれているので、ついに日本の犯罪もアメリカに追いつけ追い越せかよと慨嘆したくらいです。

 

 でね、大きな事件ですから、おそらくテレビや雑誌ではこれからヒマがあればああだこうだと特集を組むでしょう。メディアですから、それ自体は当然の反応ですが、ボクが閉口するのは「解釈」「推定」「分析」があまりにも多すぎるってことです。

 あのですね、1~2か月程度で9人もの人間を殺した奴の心理が本当に分かると思いますか。温厚篤実なボクだって(自己申告)、正直に告白すれば、殺してやりたいと思った人間がいないではありません。しかし、そう思うのと、実際にやることの間には、目も眩むほど途方ない落差というかギャップがあります。たとえばカネ持ちになりたいと思って鋭意努力することと、殺してやりたいと思って実行してしまうことを同列には論じられないですよね。いや、ボクもそんなことをしたことがないので、それすら「推論」に過ぎないのであります。

 

 つまり、彼の内部で膨らんでいったに違いない暗黒衝動は、言葉でいくら解説しようとしても、ホントのコトなんて本人すら客観的に認識できていないはずです。にもかかわらず、テレビのコメンテイターの皆さんは分かったような解釈や理解の仕方をするんだよな。

 もしボクがコメンテイターとして呼ばれていたら、ただ一言「分かりません」しかないでしょう。安心してください、こういうつまらない、けれども真っ当なことを言う人はテレビには出られないのが普通ですから。

 

 おそらく事実だけでは番組が保たないので、素人や玄人まがいの皆さんに生半可な憶測を繰り返させるんでしょうね。それがテレビの定番的な手法らしいので、ボクは5年以上も前に見限って、地上波はほとんど視聴しなくなったのであります。

 

 では、ボクを再び地上波に振り向かせるにはどうしたらいいか。

 そんなもん決まっています。事実です。とにかく事実。しかも、できるだけ詳しく。犯人の動機や心理は、よほどの専門家でも手を焼くことになると予測されるので、そちらは任せるとして、ボクはひたすら事実だけを知りたいのです。テレビの場合は取材能力が希薄なので無理な要望なのは分かりますが、ちょっと考えるだけでも、いくらだって調べる方法はあるじゃないですか。取材を受ける方は迷惑かも知れませんが、そうした根掘り葉掘りの細部の向こうに、ようやく彼を支配した暗黒衝動の影みたいなものが見えてくるんじゃないかな。

 

 解釈や推論や分析はもう沢山、というのは犯罪に限りません。政治も経済も社会もそうですよ。とにかくもっと事実を! それも詳細に! というのがボクの近頃における心境なのでございます。ちなみに、こうした姿勢による取材にもとづく記事を「調査報道」と言います。

 

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2017年11月 2日 (木)

『ホンダラ行進曲』

 

 先週の土日はまるまる原稿制作に取り組み、一昨日から昨日にかけては、「どうしても」という厳しい締め切りがあったので、夜中から働いていました。ようやくホッとしたのも床の間、じゃなかった束の間で、今は面倒な校正処理に追われています。

 

 こういう時にふと思い出す、実にまったくバカバカしい歌があるんですよね。

 

ひとつ山越しゃホンダラダホイホイ

もひとつ越してもホンダラダホイホイ

越しても越してもホンダラホダラダホイホイ

 

 今では中高年以上の世代しか知らない、クレージーキャッツの『ホンダラ行進曲』です。1963年4月にシングルレコードで発表されたのですが、いくらクレージーキャッツが人気全盛の頃といっても、よくもまぁこれほど無意味な歌を出せたものだと、つくづく感心します。

 

 だってね、リフレインがこれですぜ。

 

ホンダラホラダラ ホンダラホダラダ

ホンダラホダラダホイホイ

ホンダララッタ ホンダララッタ

ホンダラホダラダ ホイホイ

ホンダラホダラダ ホイホイ

 

 スキャットの一種だよなと納得しつつも、こうやって書き写しているのがアホらしくなるほど意味がありません。でもね、じゃアンタは書けるのかと自問すると、おそらく、いや絶対に無理です。「ホンダラ」からして思いつけないのですから、「ホンダラッタホイホイ」も「ホンダラダ」にも至るわけがない。

 

 作詞は東京都知事になったこともある青島幸男。昔はタレントもどきとしてあまり評価しませんでしたが、この歌ひとつで天賦の才能を持っていた人だと再認識しました。カタカナばっかりで、漢字と平仮名の含有率が極めて低い歌詞ですけど、そこはかとない虚しさが底流にあるんですよね。

 

どうせこの世は ホンダラダホイホイ

だからみんなで ホンダラホイホイ

 

どうせ女は ホンダラダホイホイ

だから男は ホンダラダホイホイ

 

 ある種の諦念と言うべきか、現実に傷つき、絶望の淵に行きながらも、ギリギリのところでヒッヒッヒと笑い出すような、実は凄みのある歌詞なのです。それを萩原哲晶の曲がテンポよく展開していくんですよね。

 

 そしてエンディングに近くなると、哲学的ともいえるフレーズが用意されているのです。

 

あっちへ行っても ホンダラダホイホイ

こっちへ行っても ホンダラダホイホイ

 

行っても行っても ホンダラホダラダホイホイ

どうせどこでも ホンダラダホイホイ

だから行かずに ホンダラダホイホイ

 

 ほらね、人によって様々に読み解ける奥ゆきがあるじゃないですか。こうなると、スキャットというよりお経に近い雰囲気といって過言ではありません。そしてエンディングです。

 

何をやっても ホンダラダホイホイ

だからやらずに ホンダラダホイホイ

 

 あはははは、ちっともポジティブな歌ではないんですよね。停滞、いや後ろ向きとすら言えます。どこにも行かない、何もやらない。にもかかわらずタイトルは「行進曲」。世の中の矛盾、アンビバレンツを凄い圧力で凝縮し、ヤケクソをスパイスにして缶詰に入れたような歌ではありませんか。

 

 青島さんが生きていたら、最後の歌詞の意味を聞きたいところです。何もやらない人ではなく、人一倍やって直木賞まで受賞した人がなぜ「だからやらずに」なのでしょうか。

 名曲とはおよそいえませんが、1度聞いたら忘れられない迫力がある歌です。

 

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2017年11月 1日 (水)

ホントかな?

 

 ハロウィンのバカ騒ぎが年々エスカレートしているみたい。ボクの事務所の最寄り駅である恵比寿は渋谷のすぐ隣なのですが、駅のロッカーに着替えを入れている仮装の若者たちが増えてきたような気がします。

 

 若者とバカ者はそもそも紙一重で、バカ騒ぎだってそれなりの経済効果はありますから、渋谷でやっている分には「お好きにどうぞ」です。彼らも「自分たちの好きでやっている」と言うはずなので、それはそれで完結する話ではあります。

 ただ、昨日の続きになりますが、果たして彼らはホントに「好き」でやっているのかとボクなんかは疑うんだよな。

 

 純粋に自らの意思で「好き」だから仮装して騒いでいるのでしょうか。であるなら、あんなに若者ばかりになるはずがありません。もっと厳密にいえば、独身の若い男女であります。もしもホントに自分が意思したことなら、鉄道や釣りやゴルフやマリンダイビングなどのように、もっと年齢分布が広がっていてもおかしくない。ところが、テレビで見れば分かるように、明らかに偏っているんですな。

 

 生物学で何と言うのか知りませんが、これはまさしく求愛行動の一種だろうとボクは睨んでいます。というか、それ意外に考えられない非生産的行動じゃないですか。フロイト的に言えば、性的リビドーの発露になるのかな。盆踊りなども同じで、異性を惹きつけ、知り合って、最終的には子供をつくるためのイントロダクションってことです。それがダンスや歌などの芸能に昇華されると初期の目的や意味が希薄になってしまいますが、その途中のどっちつかずをうまく利用しているのが、AKBや欅坂といった女子の団体様だと思うのです。だからこそ敢えてレベルの高い芸をしてはいけない。それでユニゾンを通してきたのかな。

 

 ということで、早い話が異性を求める本能的行為がいろいろと変異してきたのが、多くの社会的イベントの本質ではないでしょうか。

 

 とはいっても、人間が動物である限りは、たとえ壊れていようが本能に支配されることは仕方ありません。かくてハロウィンについて何をどう言ったところで、よほどの大事件が起きない限りは誰も耳を貸さず、ますます日本的に再解釈されて定着していくでしょうね。

 

 それに文句をつける気は毛頭ありません。ただ、人間には本能とは別に理性というものも備わっています。それをたまには発動させて、自分の「好き」を再点検しようじゃないかと。実は自分が好きでやっているのではなく、内的な性的衝動が突き動かしているんだと客観的に自己認識できれば、他人に迷惑をかけることも少しは減るのではないかとボクは愚考するのであります。

 

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