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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2017年12月

2017年12月28日 (木)

時間

 

 年末になるといつも思うのは、時間の最強さ、というか偉大さであります。矢沢よりグレイトなんだよね(アホか)。

 

 今年も何だか慌ただしく過ごしてしまいましたが、どうあがいたところで、いかなる権力者にしても、時の流れを止めることなんてできません。

 

 人間は動物と違って言葉を持ち、常に意思疎通しているとはいっても、モノの見方を規定する世界観は千差万別で、意見もいろいろあります。このため、同じモノやコトでも見え方はそれぞれ違っているのですが、時間だけはきっちり共通しているんですよね。午前9時に出社してね、といわれて「オレは別だもんね」と固有の時間を想定する人なんていません。日の出の理解や解釈が人によって違おうとも、たとえば朝6時はすべての人間にとって同じなのです。むしろボクたちは、過ぎ去っていく時間しか共有できない孤独で悲しい生き物といっても過言ではないように思います。

 

 このブログで時間論をぶちあげようなんて大層なことは考えていませんが、時間というのは明らかに「波」なんですよね。しかも、ものすごく強大で、時には凶悪な津波にもなります。その一方的な流れの中でしか、ボクたちは生きていけない。その流れが止まる時は、個体や物質にとって死のほかにありません。そして、いつの日か宇宙全体の活動が機能停止するまで、時間は延々と続いていき、いかなる営為もすべてを無=ゼロに向けて押し流してしまう。

 

 この空恐ろしい事実にもっと驚愕つつし畏怖すべきだと思うのですが、皆さん、生きるのに忙しいですからね。年が改まる区切りにしか、こんなことに想いは及びません。いくら考えたところで、時間に対抗する術はないしね。ただし、どんなこともそうですが、客観と主観があります。客観的な時間を支配することは不可能でも、主観的な時間なら意識することで何とかならないわけでもない。このあたりに、時間を自分のものにするヒントが隠されているように思います。それについては、来年にでも。。。。

 

 というわけで、皆さま、今年もいろいろお世話になりました。このブログは新年1月4日までお休みさせていただき、5日の金曜日から再開する予定です。

 良いお年をお迎えください。

 

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2017年12月27日 (水)

エレガント

 

 ファッションや装飾品などにしばしば使われる言葉として、「エレガント」があります。「スタイリッシュ」が颯爽としたオシャレを意味するのに対して、「エレガント」は優雅、あるいは洗練と考えられているようです。

 

 でね、「スタイリッシュ」のほうは年齢や性格や生活態度はあまり問われないように思うのですが、「エレガント」のほうは本人のありようが大きくかかわってくるような気がするんですよね。すなわち「エレガント」な衣服や時計を身に付けたら、態度や所作、できれば人間としての中身まで「エレガント」であって欲しいと願っちゃったりするわけです。

 

 実際問題として、そこに大きなギャップがあると、似合わないという以前に不自然なんですよね。じゃあ「エレガント」ってどういうことだよと突っ込まれそうですけど、ボクは悠揚として泰然自若であると考えています。少なくともエスカレーターをドカドカと駈け上ったり降りたりせず、目の前に人がいたらせかせかと追い抜かずにはいられないという態度では決してないだろうと思うのです。

 

 もちろん「衣食足りて礼を知る」という言葉があるように、財産や収入が関係する場合もあるかもしれませんが、「武士は食わねど高楊枝」という言葉だってありますからね。これはおそらく主君を失ったか解雇された浪人を、町人がバカにして作った言葉だと思いますが、ボクはこうした痩せ我慢を嫌いではありません。ギスギス、ケチケチした守銭奴よりいいんじゃないかな。

 

 そのためには、心に余裕が必要となります。腹が減ったら仕方がないけど、ちょっとばかり焦ったところで仕方ないじゃないかと。そりゃね、エレガントであり続けるなんて、よほどの上流階級でなきゃ無理かもしれない。けれども、人間たるもの、そうした理想の1つや2つを持っていたいじゃないですか。そのためには、何事も先回りして、余裕を作って生活することです。その意味では、アポや出社時間はギリギリに行かなきゃ損だと思ってはいけない。30分も前に行くようにすれば、ライフスタイルは少しずつ変わってきます。焦らない、走らない、愚痴と他人の悪口は絶対に言わない、というのが基本かな。するとね、表情も次第にノーブルに変わってくる、ような気がするんだけどね。

 

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2017年12月26日 (火)

距離感

 

 ボクはFacebookLINEもやっていないのでよく分かりませんが、SNSの圧倒的な普及で、他人との距離感がすごく微妙で繊細なことになっているんじゃないかな。

 

 固定電話しかなかった大昔なら、誰かと実際に対面した時にだけ距離感を気にすれば良かったのに、今ではネット経由で簡単に時空を超えたつながりに踏み込めるので、孤独ではなくなる半面で、四六時中どころか年がら年中、他人のことを気にしなきゃいけない。ボクにとっては想像を絶する濃密な関係というほかありません。

 

 けれども、若い世代は子供の頃からそんな環境で育ってきたはずなので、他人との距離の取り方が、おそらくボクなんかより軽く100倍以上は上手になっているでしょうね。つまらない感情の行き違いで心理的なトラブルがあっても、いわゆる「神対応」ができる人がみんなの人気を集めていく。そんなことが深夜に飛び交う電波で頻繁に起きているのではないでしょうか。

 

 ボクの世代では誰にでも良い顔をする「八方美人」は嫌われるのが普通でしたが、おそらく現代では褒め言葉になっていると思います。それだけ人間関係にスレているというか、慣れているというべきか。にもかかわらず、SNSは短文によるコミュニケーションがほとんどなので、電話が苦手という傾向もあるようですね。特に年代が異なる人たちとの会話では尊敬語、謙譲語、丁寧語を使い分けなきゃいけないので、戸惑うことも多いんじゃないかな。つまり、社会に出た段階で、バーチャルなSNSとは異なる、リアルな距離感にも慣れていかなきゃいけない。うへぇー、ホントに今の若い人は大変だよな。

 

 このような距離感をどうして気にするかといえば、ボク自身がすごく苦手だったからです。そもそも小・中学校で何度も引っ越しを経験したので、アウトサイダー感覚が強いんですよね。子供の頃から知っていたわけではない人たちと、新しい関係をゼロから作っていかなきゃいけない。それができたと思ったら、また違うところに連れていかれる。人にもよるでしょうが、これは決して楽なことではありません。

 それを繰り返していくと、やがてコミュニケーションの達人になるか、あるいは徹底した人嫌いになるか、どちらかになるでしょうね。ボクの中には奇跡的に両方が共存しているので、取材という仕事もこなせるのですが、今でも距離感に悩むことがしばしばあります。そんな時のマジックワードを見つけるまでに、結構な心労を経験いたしました。

 

 そこで、ボクのように他人との距離感に悩む皆さんに、特別に無料で、そのマジックワードをお教えすることにしましょう。というほどのことでもないんですけどね。

 

 他人はあなたが思うほどあなたのことなんか気にしていない。

 

 はい、それだけのことです。時には心を傷つけたり、傷つけられたりすることもことがありますが、そんな場合でも時がすべてを癒やすのさ。そう考えなきゃ、生きていけないじゃないですか。

 

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2017年12月25日 (月)

警察からの電話

 

 嬉しいことに遭遇する確率は普通の人よりパーセンテージでヒトケタは少ないのに、ヘンなことにはアベレージの10倍以上の頻度(あくまで体感)で出会うんですよね。先週末にご紹介した京都駅のアクシデントもそうですが、実は当日の朝も、その予告編みたいなことがあったのです。

 

 こちらも新幹線のホームでありまして、午前10時前に品川を出るのぞみを待っていた時に何気なくガラケーをチェックすると、知らない番号の着信が入っておりました。カバンの中に入れていたので、鳴っても気づけなかったようです。それで折り返しの電話をすることにしました。

 

「はい、こちらは南あ・・・・警察署ですが」

 ・・・のところが電波の事情が悪いか、それとも早口過ぎるのか、あるいはホームの騒音のせいか、とにかくよく聞こえません。南麻布警察署かな、と一瞬思ったのですが、六本木に麻布警察は確かにあっても、南麻布なんていう地名があったかなと。

 

「先ほどお電話をいただいたようなのですが」

「お名前は?」と女性の声。

 

 ボクの名前を言うと、「少々お待ちください」となって保留状態。役所とNTTとアメックスとアップルの窓口は、それから長く待たされるんですよね。けれどもボクは時々冷たい風がヒュウと吹き抜けるホームに立っており、もうすぐやってくる新幹線に乗らなきゃいけません。そんなことを伝えるヒマもなく、おそらく相手もこちらの事情は埒外なんだろうなぁ。けれども、とにかく相手は警察ですからね。身に覚えはまったくありませんが、いきなり「署まで来てください」と言われかねないので待ちましたよ。

 

「ご住所を教えていただけますか?」

「はい。東京都・・・・・ですけど」

「えーと、ああそうですか、それは失礼しました」

「というと?」

「こちらは南アルプス警察署の交通課なんですが、交通違反の反則金未納の件でお電話したところ、そちらにつながったようです」

 はぁ、南アルプス警察署ねぇ。長野県かな、それとも山梨県かもねというくらいで、まったく縁のない地域です。

 

「ボクはクルマを持っていないし、少なくともここ10年はレンタカーすら運転していないので、交通違反なんてしたことがありません。しかも、南アルプスなんて行ったこともないですよ」

 ついでに運転免許証もゴールドだと付け加えれば良かったかなぁ。

「はいはい、分かりました。こちらにある番号が間違っていたようです。どうも失礼しました」

 

 番号登録が簡単なケータイといえども、間違い電話を受けたこともかけたこともあるので、「ではボクには何の関係もないことですよね」と念を押すだけで電話を切りましたが、それにしても「南アルプス警察署」ですぜ。交通違反した人が故意か間違いかは知りませんが、ボクのケータイ番号を警官に伝えて、それを違反切符に書きつけたのでしょうか。運転免許証には電話番号なんて記載されていないので、当人の申告を信じるほかないのかな。

 

 というわけで、神様がよほどボクのことを嫌いなのか、そうしたヘンな出来事が結構起きるんですよね。間違い電話は数々あっても、くどいようですが「南アルプス警察署」がかけてきたケースはボクくらいなものでしょう。

 でもって夕方の京都駅では怪鳥のような悲鳴ですから。そういえば、その日のTBSテレビ『あさチャン』で蟹座の運勢が最下位だったと思い出しました。でも、そこでは「家族の不和」となっていたんですけどね。

 

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2017年12月22日 (金)

京都駅にて

 

 あと10分ほどで東京行きの新幹線がやってくる夕刻の京都駅で、突然にハイトーンの異常音が構内に響き渡りました。ホームの屋根にあたって戻ってくるせいか、イヤホンで音楽を聴いていたボクにも分かるほど大きな音でした。

 

 何事だろうとイヤホンを外して見渡してみると、真向かいのホームで停車中の下り大阪方面行き新幹線に人だかりがあります。目を凝らしてよく見ると、どうやらドア付近で両腕を大きく広げている女性が発生源らしい。彼女が髪を振り乱しながら「キィーーーーー」というか「ヒィーーーーー」という大きな叫び声というか悲鳴を上げていたのですが、それが息継ぎなしで長く長く続くので、とても人間の声とは認識できなかったのです。

 

 向こう側のホームなので、なすすべもなく立ちすくんで様子を見守っていると、ある男性が下の方から幼児を抱え出し、それを機に女性の大音声もやみました。どうやら子供が新幹線とホームの隙間に足を落としたらしいのです。大きなカバンをいくつも持った家族連れだったので、それを慌ただしく積み込む時にまぎれて、足を滑らしたんじゃないかな。そのまま新幹線が発車すると大変なことになるので、お母さんらしい女性は咄嗟に怪鳥のような奇声を発して、駅員らに気づかせようとしたのです。

 

 家族の1人が新幹線の停車ボタンを見つけて押したらしく、すぐに駅員もやってきて騒動がおさまり、野次馬も散っていきました。顔つきや雰囲気から中国人旅行者と思われますが、ボクは今までにあのような人間の声を聴いたことがありません。子供を危機的な状況から守ろうとするあまりの行動でしょうが、それにしても母親というのは凄い存在だなぁとつくづく感心してしまいました。

 

 しかしながら、ホームでのアナウンスは「停車ボタンが押されたので緊急停止していましたが、安全確認が終了したので直ちに発車いたします」とか何とか、この事件についての説明は一切なし。新幹線の台車に深刻な亀裂が発見されて問題になったばかりなんだからさ、何が起きたのかをちゃんとアナウンスすべきじゃないかな。

 

 トラブルや遅延が珍しくない山手線ならびに湘南新宿ラインなんかもそうですけど、情報を迅速に正確に伝えれば、誰も文句は言わないよ。にもかかわらず、やたらに隠して事情をきちんと説明しないから、乗客はイライラするのです。とっくに民営化されているんだから、「由らしむべし知らしむべからず」(良い子はネットで調べてね)なんていう姿勢はやめるべきだと思うぞ。

 

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2017年12月21日 (木)

風邪です

 

 先週から鼻がグズグズしていたのですが、月曜日の夜からさらに悪化。ツバを飲み込むたびに喉の奥がヒリリと痛く感じるので、どうやら本格的な風邪に発展したと認めざるを得ません。

 

 どんな不幸もトラブルも、やってくるタイミングが抜群に悪いんですよね。昨日は撮影の立ち会い、そして今日は京都出張だもんなぁ。もちろん薬とマスクを購入しましたよ。マスクは息苦しく感じるのであまり好きではないのですが、知り合いの皆様に風邪を蔓延させる元凶にはなりたくありません。薬も近所のドラッグストアに行き、棚で500円くらいのものを見つけたので、これをレジに出して軽く相談。すると漢方薬も入った1500円くらいのものを勧められました。風邪の特効薬なんて発明したら間違いなくノーベル賞ですから、500円と1500円で効き目に3倍もの差はないだろうと確信しますが、それでも高いほうを選ぶボクは典型的な消費者なんだよな。

 

 昨日はマスク姿で地下鉄に乗ったのですが、いやはや白いマスクをつけている人がものすごく多いんですよね。疑うわけではありませんが、皆さん本当に風邪なのかなぁ。ヨーロッパではマスクをしている人をほとんど見かけないので、外国人はきっと異様な光景に感じると思います。

 

 念のために体温を測ってみると、朝方は何と37.0度でした。普通の人には平熱かもしれませんが、ボクは35度~36度が普通なので、まさに微熱状態。これってヤバイじゃんと思いつつも、撮影スタジオから戻って再度測ってみると35度台に戻っており、やれやれと安心しました。

 

 というわけで、予定通りに京都に行かなきゃいけません。経年変化で、どうやら免疫力も衰えてきたと考えられるので、マスクもつけておいたほうがいいかな。こんなことが結論なんですから、今回は何というブログでしょうか。鼻がグズグズすると思考力も落ちるみたい。はーあ。

 

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2017年12月20日 (水)

立ち呑み

 

 酒にめっきり弱くなったこともあって、最近は「立ち呑み」が多くなりました。もっぱらグラスワインですが、飲み物はビールやチューハイ、日本酒だろうが、何だっていいんですよね。とにかく、ささっと呑んで、ちゃちゃっと食べて店を出る、というのが習慣化してきました。

 

 そのせいか、腰を据えてデレデレ長々と酒を呑み続けるというのが、体力的にも精神的にも辛くなってきました。逆に「立って呑むほうが辛いじゃないか」という人もいますが、慣れるとそんなこともないですよ。パーティーでは立ち呑みがほとんどで、海外に行くと何時間も立ったままでグラスを重ねるなんてことが普通に行われています。ボクの乏しい経験から言えば、欧米は「立ち文化」であり、日本は「座り文化」という気もするくらいです。

 

 この立ち呑みの優れたところは、ズボンにシワがよらないことです。特にスーツの場合は、ズボンの股のところが放射状のシワシワにならず、上着もヒジのあたりを除いて(グラスを持つ時に曲りますからね)何ら影響を与えることがありません。そうかスーツというのは直立して着ることが大前提だったのかと、しみじみ理解できるはずです。

 

 さらに、多少飲み過ぎることはあっても、悪酔いまでに至ることが「あまり」ないということです。立ち続けることにエネルギーの一部を回すせいか、我を失うほど酔わないで済むんじゃないかな。これは寒風吹きすさぶアウトドアで酒を飲むと、身体の保温でカロリーが消費されるため、なかなか酔わないのとよく似ています。

 

 ついでにいえば、ボクは会議も立ってやったほうがいいと思います。みんなが押し黙って何分も経過したり、くだらない世間話や私語ばっかりという時間の無駄がなくなるんじゃないかな。長時間の会議を立ってやると、昨今のご時世では虐待やパワハラと見なされかねないので、議題や論点が明確になって、必要な結論に向けて怒濤のように討論が進むような気がします。

 

 とにかくね、ダラダラあるいはグダグダと形容されるすべてのことは20世紀的なオールドスタイルであって、もはや21 世紀的ではないだろうと。

 

 そんなわけで、最近は飲み物やつまみを頼むたびに料金をいちいち支払うキャッシュ・オン・デリバリーの英国パブをひいきにするようになりました。帰る時に精算を待つこともないので便利ですよ。何事もメリとハリが大切じゃないかな。

 

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2017年12月19日 (火)

ほんたうにおれが見えるのか

 

 宮沢賢治の詩が大好きになって、集中的に読んだことがあります。中でも宇宙や森羅万象を形容した煌びやかな言葉の群れが織りなす華麗な世界は、後のどんな詩人も追いついていないと思います。何しろ詩人のほとんどは文系なので、灰色鋼やエーテルだのカーバイドと言われても、何のことやら分かりませんからね。宮沢賢治はそうした科学や化学用語を敢えてちりばめることで、漆黒の夜空にオーロラのような虹色の輝きを与えようとしていたと、ボクは理解しています。

 

 彼の履歴を読むと、農学校の教員を経て、花巻で羅須地人協会を設立。地域の人たちに「農民芸術」を教えたり、無料で肥料の相談に応じたりしていたようです。朴訥な笑顔を見せた写真も残されているので、仏教の信者でもあったことから、郷土を愛する利他的で慈悲深く優しい人柄のように感じられます。

 

 そんな宮沢賢治のイメージに、冷水を浴びせかけるような詩があります。

 

おれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

 

 有名な『春と修羅』の中の一節です。詩集には制作日として「22..8」と注記されていたらしいので、宮沢賢治が25歳の頃の作品と考えられます。ボクはこの一節を読み、あまりにも意外だったので衝撃を受けると同時に、その心境が痛いほど分かるような気がしたのです。農夫を突き放したような厳しい表現は、愛情の裏返しに違いありません。理想主義者にありがちな他者への無際限な信頼が裏切られた時に、失望や絶望感が嫌悪に転じるのは決して珍しいことではないからです。

 

 こうした錯綜した感情が怒りや憎悪に発展して膨張を続けると、悪名高いカンボジアのポル・ポトのように、大虐殺に発展することもあります。ポル・ポトが嫌悪したのは農民でなく知識階級でしたが、その気持ちも分からなくはないんですよね。そりゃもう人殺しなんて、どんな理由があってもいけないことですが、インテリぶった理屈や言い訳ばっかりの饒舌な言論に閉口することってありませんか。そんな時に、もしも傍らに機関銃があれば、無言で引き金をひいちゃおうかなと、あくまでも頭の中で想像したりしますよね。

 

 それと同じで、宮沢賢治も間違いなく理想主義者であったと思うのです。そうした人に土着の農民は必ずしも好意的ではなかったはずです。「変わり者」呼ばわりする人もいるだろうし、せっかく農業を教えても、それに感謝するどころか、自分が発案したかのようにノウハウや知識を盗む人もいたに違いありません。農業というのは、人間や社会ではなく、自然という不可抗力の巨大な存在が相手なので、生き延びていくためには利己主義や狡猾さも必要なんですけどね。

 

 それが分かっていても、若い頃の宮沢賢治は、自分の中からわき起こる憎悪や嫌悪に近い感情を扱いかねていたのではないか。はい、そうです。ボクもたまにそんな気持ちになるので、それを投影して解釈しております。

 理想主義者にとって、こうしたアンビバレンツは不可避であり、芥川龍之介は『或阿呆の一生』の中で以下のように書いています。

 

誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

 

 いずれにしても、再び引用しますが、

 

おれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

 

 と心の中で呟きながら、繁華街を1人で彷徨することがたまにあります。これって「修羅」の心象なのかな。

 

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2017年12月18日 (月)

なぜ「大家族」は分裂したか

 

 長寿化そのものは歓迎すべきことですが、そこそこに健康で認知症に至ってないことが必須条件であり、もしも要介護状態になった場合は、子供たちにとって大きな負担となります。今さらここで触れるまでもなく、「介護離職」によって親子ともども貧困に追い込まれることも珍しくありません。

 

 さらに、男女ともに平均年齢が80歳を越えた今では「老老介護」も常識ですが、定年退職後に支給される年金がね、まるで足りないわけです。そうした社会状況に追い打ちをかけるように、少子化というボディブローが効いており、運送や小売り、ファストフードなどのサービス業は人手不足がますます深刻になっていくはずです。かといって遅ればせながら子供を作るにしても、待機児童の問題がこれだけ喧伝されれば、不安だから取りあえずやめておくかとなりますよね。

 

 これらをまとめると、要するに「幼児」と「老人介護」または年金を原資とする「老後の生活」が、日本が抱える大きな問題ということになります。でもってこれを支援する制度が、行政または政治の業界では「社会保障」となるわけです。

 

 この「社会保障」の問題は、財源も含めて国会では何度も論議されてきたことで、つい最近に発生したことではありません。人口ピラミッドを見れば、少子高齢化なんて何十年も前から予見できたはずですよね。実際に介護保険は1997年の国会で制定され、2000年から施行されています。しかしながら、何度も改正されていることから分かるように、決して十分とは言えません。だからこそ「介護離職」があり得るわけで、年金も不十分なら、子育ても妻の負担が大きい。この国は戦前も戦後も、税金を搾り取れる元気で健康な労働者は大切にしても、その税金を支出しなければならない人生の始まりと終わりについて極めて冷淡なんですよね。相当なケチンボでシブチンなのであります。

 

 うあぉお、事実を並べているうちに深刻な社会問題にぶちあたってしまいましたが、ボクにはそれを解決する決定的なアイデアがあるのです。

 

 実にまったく簡単なことで、親から孫までの3世代以上の親族が同居する「大家族」制度に戻ればいいのです。痴呆の程度にもよるでしょうが、年老いた祖父母の面倒を孫も一緒に見るとか、逆に子育てを祖父母が手伝うことができれば、保育所にいれる必要もなくなります。そのかわりに老後の生活費は子供や孫世代も補助する。それなら年金への依存度も劇的に減少します。

 

 そもそも大家族制度が常識だった戦前は、年金もなければ介護保険もなかったんですよね。そんな社会保障が必要になってきたのは、高度成長期の「集団就職」以降です。これが地方の農家の若い人たちを工場勤務に駆り立て、工業地帯の近辺の都市を膨張させるとともに、親世代から隔絶された「核家族」を拡大再生産していきました。

 

 単純に考えるだけでも、大家族であれば、家も冷蔵庫も洗濯機も風呂も1つあれば十分です。ところが、世帯が2つに分離していれば、それぞれ2つが必要となるじゃないですか。不動産屋と家電メーカーにとっては喜ばしいことでも、1家族あたりの出費はそれだけ増加します。親の面倒を必ずしも子供が見るとは限らないにしても、誰かが老後や子育ての手助けをしてくれるとしたら、何かと安心というだけでなく、それぞれの家計支出の削減にも直結するではありませんか。

 

 要するに、若者人口の都市集中による「核家族」で経済と大企業は発展したけれども、それまで大家族制度が担っていたもろもろを、行政による社会保障では満足に代替できないということなのです。やたらに法律や予算をツギハギするばっかりで、待機児童なんて2000年頃から問題化していたのに、今でも「保育園落ちた日本死ね」ですぜ。

 

 ボクは、だったらもう1度「大家族」みたいな相互扶助が可能な生活制度を作ったほうがいいと考えています。シェアハウスがある時代なのですから、親族でなくても似たような生活スタイルを作ることは可能ではないでしょうか。

 ただし、その前に、いったい何がこうまで無惨に「大家族」を壊したのか、原因と犯人を正確につきとめておく必要があります。泥棒に留守番や警備を頼むバカはいないように、予め犯人を捕らえて排除しておかないと、似たような失敗を重ねることになりますからね。

 

 どうして「大家族」が「核家族」に分裂してしまったのか。もう1つの「核」問題も含めて、戦後70年の功罪をそろそろ厳しく総括すべきだろうというのが、実はこのブログの趣旨なのであります。

 しかしながら、太平洋戦争に踏み切った責任が曖昧に雲散霧消してしまったように、これもまた行政の責任なんて追求できないでしょうね。やれやれ、これでも一人前の民主主義国家なのかなぁ。たまにね、心底から絶望することがあるのです。

 

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2017年12月15日 (金)

神対応

 

 やっぱ、この国はちょっとヘンだよな。浮気沙汰が週刊誌にバレたからって、いったい誰に謝っているのでしょうか。旦那への言い訳なら閨(ネヤ=寝室)でやっとけよってことです。まるきり赤の他人の全国の皆様に「ご迷惑をおかけました」って、少なくともボクは迷惑も騒がせられたとも思っていませんが。

 まぁね、みんなに見られてナンボのタレントだか俳優だか歌手かは知りませんが、こんな会見は何だかおかしいと感じませんか。泣いているフリなのに涙が見えないしさ。

 

 ついでに言えば、「神対応」という言葉も気持ちが悪いといったらジジー扱いされちゃうかな。実用日本語表現辞典によれば、「驚き感心するほど行き届いた対応に対して用いられる表現」だって。もともとは企業のクレーム対応から始まったらしいのですが、近頃はタレントのファン対応や、先の浮気妻の旦那のコメントなんかにも使われたりします。朝まで一緒にいてマッサージだけなんて、ボクなら100万%あり得ないので、あまりにも物分かりが良すぎだと感じましたが、よその夫婦のことなんで、どうでもいいんですけどね。

 

 この「驚き感心するほど」の神対応に対して、素っ気なくて冷たい場合は「塩対応」と呼ぶらしい。しょっぱい、というのはネガティブな形容でたまに使われるので納得できますが、望ましい対応に「神」なんて畏れ多いワードをくっつけるのが日本的かつ現代なんでしょうね。そんなことに神を持ち出すなよ。

 そういえば、大したことを言っていないのに、「すご過ぎる!」とバカにされたんだかホメられたのかよく分からんことを言われたことがあります。しばらく聞いていると、何でもかんでも「過ぎる!」を口癖のように「つけ過ぎる」人だったんですけどね。

 

 こういう仕事をやっている関係で、どうしてもテレビなどのメディアで使われる現代語に敏感になってしまうのですが、その軽さというか安っぽさに辟易することがあります。ちなみに、辟易=ヘキエキとは「うんざりすること、嫌気がさすこと」であります。今ではあまり使われないようですが、大変に便利な言葉ではないでしょうか。

 

 というわけで、仕事の関係でちょっとの間だけ地上波を見ていましたが、再び衛星放送に戻ることにしました。随分前に見たテレビドラマの再放送ですが、『ハリーズ・ロー 裏通り法律事務所』がなかなかいいデキなんですよね。アメリカでは2011年に放送されたのですが、キャシー・ベイツが慣れない刑事弁護に当惑と不安を感じながらも、奇想天外な弁論で正義を貫くというユニークな役をうまく演じています。1990年公開の映画『ミザリー』の狂気に満ちた恐ろしい演技でアカデミー賞を授与された女優さんで、今ではメタボ系のオバサンですが、眼にハンパでない強い表情があるんですよね。

 

 ボクがファンになるテレビドラマはほとんど長続きしないので、これもシーズン2で終わったみたい。あ、そうだ、でね、日本語のサブタイトル付きの英語なので、ヘンテコな流行語や造語が出てこないから安心だと言いたかったわけです。変化や刺激に弱いのは、ジジーになった証拠という説もありますが。。。。

 

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2017年12月14日 (木)

因数分解は何の役に立つのか

 

 ボクは視聴しなかったのですが、一昨日の12日夜に池上彰氏が若者の質問に答えるテレビ番組があったみたいですね。

 

 その中で「因数分解を覚えても社会に出て役に立つとは思えないのですが」という質問が飛び出したそうです。池上氏は、明治大学工学部中退のビートたけしの言葉を引用して、映像創作などにおけるリズム感に間接的に役立つのではないかと答えたらしい。それを視聴した事務所のスタッフも、文章構成の感覚につながるものがあるかもしれないと納得したようですが、ボクはそれを聞いて、池上さんには大変に申し訳ないのですが、大爆笑してしまいました。どう考えたって因数分解が文系の仕事の役に立つはずがないじゃないですか。

 

 池上さんよりボクのほうが賢いなんて金輪際考えたこともありませんが、勉強が何かの役に立つに違いないと発想するところが、どうにも学校優等生なんだよなぁ。因数分解というのは、ごく簡単に言ってしまえば、次のレベルの数学的な問題を解くために必要な公式なんですよね。たとえば9×3が、9を3回足す、あるいは3を9回足すことだと分かっていなければ、掛け算したことにならないのと同じです。掛け算はそのままでも社会で役に立ちますが、文系にとって因数分解の先にあるものって何でしょうか。仕事でそんな高次の計算式を使うことはほとんどあり得ないといっていい。だから、こんな公式を単独で勉強しても、社会で何かの役に立つはずがないのです。

 

 ただし、数学でいい点を取ることだけは可能になります。それだけのことにもかかわらず、皆さんは何とかして社会に出てから役立つなんて無理のあるつじつま合わせをしようとするんだよな。けれども、ボクのように底意地が悪い、じゃなかった地アタマのいい奴(あくまでも自己申告)は、すぐにそのウソを見透かすので、逆に勉学意欲が萎えてしまうのです。

 

 ぶっちゃけて言いましょう。理系の学部や国立大学に進学するつもりがない人にとって、因数分解は何の役にも立ちません。大学受験では確かに役立ちますが、要するにそれだけのことなのです。

 

 しかしながら、ここで誤解しないで欲しいのですが、因数分解の勉強自体がつまらないとは思いません。これはね、ある種の道草なのであります。あなたは散歩が嫌いですか? いつも同じ道を歩くのはつまらないので、たまには違うところにも行ってみたいですよね。勉強というのは、そうした道草ルートが膨大にあって、そっちのほうが、いろいろと役立つはずのメインの勉強より面白いことが結構あるのです。だからこそ、大学受験で点数を効率的に取るためだけの勉強がつまらないわけでね。どうせ私立文系3科目の受験だからと、ボクも高校の時は数学の勉強なんてロクにしませんでしたが、今では統計学や確率をちゃんとやっておけば良かったと後悔しています。

 

 もちろん文章を書く上で、因数分解も統計学も確率もあまり関係ありません。でも、それを知っていたら、もっといろいろなことが理論や数字として把握できて、人生がもっと愉快になったに違いないと思うのです。そうした分からないことを知りたいというのは、何の役にも立たないにしても、性欲や食欲にも等しい生理的欲求なのであります。そんなにも根源的なことを、要・不要、役に立つか否かで語り始めるから、一気につまらなくなるんですよね。

 

 そんなことを言ったら、宇宙の始まりなんか知っても仕事の役に立たないじゃないですか。分子の構造はもちろん、量子論に至っては「あんたそれを見たんかい?」と訊きたくなりますよね。それでも、物質とはいったい何で構成されているかを知りたくなりませんか。

 

 それに、因数分解が理解できると、純粋に気持ちが良くなります。ボクはそれだけでも道草の価値があると思います。だからさぁ、役に立つという屁理屈をつけるのはもうやめようよ。学問というのは勉強すればするほど面白くなり、気持ちが良くなるものだと言えばいいのです。つまらないと思うなら、問題を解いてみろよ。正解なら気分良く感じるよね。それが学ぶことの純粋な楽しさであり、みんなが解けない課題や問題を見つけて、それに正しい解答を見つけることができれば、なおさら快感ではありませんか。それでノーベル賞だって貰えるのだから、学問や研究ほど面白いことはないのです。因数分解はそうしたレベルに到達するための道具のひとつとして、実は役に立つという結論になるわけですな。

 

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2017年12月13日 (水)

コピーからプロダクトへ

 

 ネットやSNSが急速に普及したおかげで、出版産業は構造不況業種になってしまいました。このため、ビジネスの軸をインターネットに移行する動きが活発化。ボクもウェブサイトに寄稿するテキストが年々増えてきました。

 

 このまま半世紀も過ぎたら、教科書にはグーテンベルク以来の劇的な情報革命が極めて短期間に進行したと書かれるでしょうね。速度的にも量的にも、そして価格的にも、紙媒体がネットに勝てるとは到底思えません。しかしながら、ネットの問題はユーザーから直接的な購読料を取りにくいことでありまして、それが出版産業の経営基盤を揺るがすことになります。このため新聞などでは有料会員制度を進めているようですが、果たしてどこまで普及するでしょうか。

 

 ただ、このまま出版文化が衰退するのを見守るのも残念なので、何とか効果的な打開策はないものかと考えてきました。それによる結論は、やはり「コピーからプロダクトへ」という転換しかないような気がします。

 

 これまでの出版物のほとんどは、写真や文章などの情報を印刷することで商品化。それを販売してきました。つまり、紙を媒体として情報を提供することで対価を得てきたわけです。ところがインターネットでは紙のようなブツとしての媒体は不要なので、情報をダイレクトに売買することになります。けれどもネットはタダという状態でスタートしたおかげで、ユーザーが情報に対価を支払うということは期待しにくいのです。スマホのアプリや出会い系なんかは別ですけどね。だったらテレビのように広告でまかなえばいいとなりますが、ユーザーからの直接的な収入源が縮小していくことは避けられません。

 

 今後の動向はボクごときには予測もつきませんが、印刷物による出版文化を何とか守っていくことはできないものでしょうか。

 

 前述したように、出版活動の多くは情報を紙に印刷する大量複製=コピーだったのですから、これを唯一無二のものにすればいいのではないでしょうか。そのためのキーワードが、もしかすると「プロダクト」ではなかろうかと。たまたま紙に印刷した情報、ではなくて、紙に印刷することでしか理解できない、あるいは楽しめない情報と言いかえてもいいのかな。たとえば版画に近い多色刷りによる絵画集とか、厚手の上質な紙に印刷した写真集などがすぐに思いつきますが、それだけではないはずです。インターネットの検索ではなかなか見つけにくい情報を再編集した「保存版」や「年鑑」的なあり方もまだまだ価値がありそうな気がします。

 

 プロダクト、ということになれば、紙の質も当然ながら大切な要素になってくるので、より豪華な紙や、耐水性に優れた紙、あるいは極薄箔に加工した貴金属に印刷した書物も考えられます。金色の印刷物ではなくて、まさに金に印刷した本ということです。

 

 内容的にも、物としても、プロダクトとしての付加価値を追求すれば、商品としての書物はまだまだ可能性が残されているとボクは思うんですけどね。世界に一冊、または数冊しかないという本だって価値があるはずです。

 要するに、情報を紙に印刷した複製ビジネスからの脱皮が根本的な解決策ではないかと愚考しているところです。

 

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2017年12月12日 (火)

多様性

 

 先が尖った革靴が流行した時は、みんなイタリアのピノキオになっちまうぞと心配したのですが、どういうわけだか、すっかり定着してしまったようです。ネットでは若い女性の評判は決して良くないんですけどね。

 

 そして今年の夏。激増したのが裸足に革靴であります。どうやら見えない部分に小さな靴下をはいているようですが、このスタイルが知らないうちに若い人たちを浸食。やがてビジネスマンまで素のくるぶしを見せるようになりました。冬になれば寒いのできっとなくなるだろうと思っていたら、おっとどっこいでそうでもないみたいですね。

 

 誤解して欲しくないのですが、ボクはそうしたトレンドを批判する気はまったくありません。今は常識になっているファッションだって、始まりは似たようなものだったんですから。スリーピースを着た時にベストの最下段のボタンを開けておくのは、デブの王侯貴族が閉め忘れたことがきっかけというのは有名な話ですよね。彼に恥をかかせないように、みんなが真似したわけです。ズボンの裾を折り返すダブルにしても、馬車から降りようとしたら道がぬかるみだったので、端を巻き込んだことが流行したといわれます。この出自から、ダブルは今でも正礼装として認められていません。

 

 というわけで、いかに違和感があろうがなかろうが、40~50年も経ってみれば、みんながどんな格好をしているか分からないのです。ここでヘンだよとケチをつけてしまうと、後になって先見性のなさを嘲笑される可能性だって大いにあり得るでしょう。

 

 ただね、だからこそ無意識の「追っかけ」だけはやりたくないないなぁと。たとえば、素足の革靴ですが、くるぶしを見せるとなると、ズボンも短くなきゃダメですよね。これでは夏にしても風がスースー入り込んで涼しすぎる。というのは冗談ですが、ボクには見た目の感覚的にどうしてもできません。けれども逆に、面白そうだし目立つから寒くても率先してやってみる、という感覚も高く評価します。勇気と我慢が必要ですからね。

 最もイヤなのが、みんながやり始めたからやる、という追従&横並びなのです。

 

 とはいえ、ファッションというのは非言語のコミュニケーションなので、ある程度の共通項がなければ、それこそ話になりません。言語にしても、誰かが使った言葉や用法を、それイケてるじゃんかとみんなが流用しまくって現代に至っています。それと同じで、服装も完全なパーソナルメイドでない限りは物真似の集積であり、最大公約数かつ最小公倍数なわけです。

 

 それでもね、だからこそ「意識して為したことはすべて善」という立場を取りたいんですな。なぜそうするのか、と自問するところからしか本当の満足は生まれないだろうとボクは思うのです。そりゃ何から何まで全部を理解することも説明することもできませんが、自分が大切だと思うことくらいは頑固でありたい。そうした頑固も許容するのが多様性だとボクは思うのですが、この国はやっぱり同調圧力がものすごく強いんだなぁと、つくづく感じる今日この頃なのであります。

 

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2017年12月11日 (月)

『ベルリン、わが愛』

 

 先週の宝塚歌劇に関するブログでは、ネタバレの怖れもあるのでストーリーについてはほとんど触れませんでした。他の作品を見ていないので比較しようがないというのも理由です。

 

 そんなわけで、あくまでも『ベルリン、わが愛」だけの感想を言わせていただければ、第2次世界大戦前夜に実在した人物や物事が扱われているので、ボクにとって大変に興味深い内容になっていました。何しろフリッツ・ラングが監督した伝説のサイレント映画『メトロポリス』で経営が大きく傾いたウーファーUFAという映画会社が舞台ですからね。

 

 この『メトロポリス』は1926年に製作、27年に公開された空前絶後の大傑作でありまして、「SF映画の原点にして頂点」と高く評価されています。第2次世界大戦の混乱でオリジナルフィルムが散逸。完全版を見るのは不可能といわれていたようですが、ボクは84年にジョルジオ・モルダーがプロデュースした「再編集版」を見たことがあります。とてもモノクロのサイレントとは思えないほど完成度が高く、階級対立がもたらすディストピア的な未来観も、この作品が先駆けとなりました。『メトロポリス』といえば、アンドロイドのマリアが象徴的なビジュアルですが、このメタリックな姿にインスパイアされて映画『スターウォーズ』のC−3POが生まれたといわれています。

 

 ボクが見た「再編集版」ですら上演時間は約90分。2002年には新たに発見されたフィルムを加えて123分に。2008年にもやはり新発見のフィルムを加えて150分に延長されているので、サイレントなのに長さだけで2時間半という途方もない超大作だったわけです。詳細はウィキペディアに譲りますが、製作費用の総額は500万マルクから1300万マルクという説もあるほどです。ドイツは第1次世界大戦敗北後に巨額の賠償金を課せられたおかげで猛烈なハイパーインフレを経験しており、ちょっと調べただけでは日本円で換算できなかったのですが、エキストラの男性が2万5000人、女性も1万2000人という数字だけでも驚きを禁じ得ません。

 

 にもかかわらず、当時は評価が低く、途中から席を立つ人が後を絶たなかったというシーンから、宝塚の『ベルリン、わが愛』は始まります。この頃は映画の黎明期なのに『メトロポリス』はマニア好みのサイエンス・フィクション。しかも決して楽しく明るい作品ではないので当然といえば当然ですが、あまりの不人気で興行的には大失敗。会社は倒産寸前の経営危機に陥ります。これも史実ですが、舞台のドラマではそれまで助監督に過ぎなかった若手のテオを監督に起用して、次世代のトーキーによるミュージカル映画で人気回復を図ろうとするわけです。

 

 そこでテオがヒロイン役に抜擢したのが、何とレニ・リーフェンシュタールなんですよね。ベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』やナチの党大会を撮影した『意志の勝利』などの監督で知られており、このため戦後はヒトラーの協力者として批判された女性です。彼女は俳優だったかなと調べ直してみたら、最初はダンサーで後に女優となり、山岳映画の主人公として成功したこともあるようです。このあたりもちゃんと調べた上でシナリオを作っているわけですね。

 

 そんな彼らに、ナチスドイツの宣伝大臣、ヨーゼフ・ゲッベルスが陰に陽に迫ってきます。「プロパガンダの天才」といわれた人ですから、映画が庶民に与える影響力を熟知しており、ミュージカル映画を大ヒットさせたテオと、その映画でヒロインのレニよりも高い人気を得た女優のジルを利用しようとします。

 

 というわけで、筋立てもまるで絵空事ではなく、歴史的な背景をきちんと踏まえているのです。たとえばゲッベルスがジルに手を出す場面があるのですが、大戦末期にヒトラーの後を追って6人の子供と奥さんもろとも自殺した人なので、謹厳実直な家庭人だったはずと思いきや、リダ・ヴァーロバというチェコの女優と大スキャンダルを起こしています。ゲッベルスは彼女を本気で愛しており、結婚するために離婚を決意。ところがヒトラーはそれを制止して、模範的な結婚生活を続けさせたそうです。

 

 こんなことを知らなくても十分に楽しめるミュージカルですが、あれこれ調べてみるとサブストーリーがいろいろ見え隠れしてきます。ボクにとっては2度美味しい作品だったのですが、やはりネタバレは興を殺ぐので、このあたりで。。。

 

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2017年12月 8日 (金)

宝塚歌劇団

 

 宝塚歌劇団の星組公演『ベルリン、わが愛』と、タカラヅカレビュー90周年『Bouquet de TAKARAZUKA』を鑑賞してきました。

 以前から宝塚ファンと公言していながらも、チケット入手があまりにも困難なので舞台を見たことがなかったのですが、知人のはからいでようやく念願がかなったのです。

 

 その印象ですが、すべてがよく練り込まれた完成度の高いステージだと感心しました。ボクはミュージカルが好きで、国内はもとよりウェストエンドやブロードウェイでも有名なプログラムを観てきましたが、あれほど舞台の端から端を使い切る演出は稀だと思います。東京宝塚劇場は奥ゆきが浅いかわりに横幅がかなり広いと思うのですが、これを縦横無尽といっていいほど活用しており、廻り舞台やせりなどもストーリーの中で効果的でダイナミックなアクセントになっていました。

 

 出演者が多いことも宝塚の特長であり、だからこそ広い舞台を使いこなせると思うのですが、セリフのない端役の1人1人がきちんと細かな演技をしているんですよね。それをカメラで切り取れば、どんな一瞬にしても、上等な絵画のように、誰もがそれぞれ違った動作とイキイキした表情を浮かべていることが分かるはずです。

 

 しかも、皆さんの衣裳が素晴らしいんですよね。前のほうの席を取っていただいたので細部まで確認できましたが、ありがちなペラペラの布きれではなく、ブティックに並んでいる高価なドレスなどと遜色がありません。主役やヒロインはもちろん、どんな役者さんもそれを身体にぴたりと合わせていたので、本格的に縫製されているのではないでしょうか。前述したように出演者が多く、場面が変わるたびに衣裳もどんどん替わるので、それだけでも圧倒されてしまいます。こうしたファッションとしての充実感も、女性を惹きつける理由のひとつだと思います。

 

 歌や芝居も、豪華な衣裳に負けずよく訓練されており、滑舌が聞きにくいということはまったくありません。かなり厳しい練習を重ねてきたんじゃないかな。女性が男役を演じていることから、気恥ずかしく感じるフリやセリフ回しがないわけではありませんが、これも宝塚流ということなんでしょうね。

 

 場面のつなぎも大変にスムーズで腕時計に目をやるヒマがなく、ストーリーも分かりやすい。おかげで1時間半ほどの上演時間があっという間に過ぎてしまいました。本場のミュージカルに比べてダンスに立体感がないとか、ドラマを印象付ける基本テーマとしての楽曲がないなど、指摘できることがないわけではありませんが、それらをひっくるめた宝塚としての豊潤な世界観を感じることができました。さもなきゃ100年以上も支持されてこなかったはずです。

 

 この歌劇が終わった後で、30分ほどの幕間を挟んでレビューが始まったのですが、これがまた、ものすごいのであります。絢爛豪華で煌びやかというほかにボクのボキャブラリーがないのが残念ですが、ともかく超のつく大圧巻。数十人にも及ぶ女性の脚が高々と上がるラインダンスに至っては、出かけた言葉が喉の奥に引っ込んで瞠目するほどのド迫力なのです。

 

 演じるのは女性だけで、観客のおよそ95%も女性。そのせいか直接的なエロスが完全に脱色されており、女性が安心して自分の世界に没入できるということも大きな魅力ではないでしょうか。男役の胸が出ていないことが最初は気になりましたが、サラシみたいなもので抑え込んでいるようです。何もそこまでしなくていいだろうとボクは思いますが、そのあたりに宝塚的な強いこだわりがあるんじゃないかな。

 

 いずれにしても、これは世界に自慢できる日本独自の文化芸術だと思います。グローバル社会になればなるほど、こうした「ガラパゴス」の貴重な価値が際立ってきます。世界中がデューティーフリーショップみたいになったらつまらないですからね。それを20世紀初頭に小林一三翁が想定していたかどうかは分かりませんが、実にまったく大したもんだよなと素直にボクは感動いたしました。

 

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2017年12月 7日 (木)

宝くじ

 

 先週の土曜日に所用があって有楽町に行くと、マリオンのあたりから長い長い列ができておりました。いったい何事なんだろうと最初は驚きましたが、すぐに理由が分かりました。宝くじなんですよね。年末ジャンボを買い求めるための列なのです。

 

 有楽町だけでなく、新橋の売場も人気が高くて行列ができるそうですが、こういう光景を見て、算数や数学の教師はオノレの教え方の未熟さを痛感しないのかなぁ。だってさ、きちんと確率的なものの考え方を身に付けていれば、これほどアホらしいことはないと分かるはずです。にもかかわらず、老若男女、というよりオッサン世代が圧倒的多数を占めている感じでしたが、長蛇の列を作って「100枚ください」「連番とバラ50枚ずつですね。はい、当たりますように」なんてことを延々とやっているんですから。

 

 今さら解説するまでもなく、「宝くじの高額当選が出やすい売場」なんてあり得ません。もしも仮に、よしんば昨年の高額当選者が他の売場よりも多かったとしても、今年もそうだとは限らないじゃないですか。もしも例年そうだとしたら、どこかで何かが忖度、じゃなかった操作されているとしか考えられません。当選確率なんてのは、有楽町だろうが恵比寿だろうが渋谷にしても、同じでなければおかしい。

 

 こんなことは薄々みんな分かっているはずなのに、「ここは当たるよ」と噂されると、そこに殺到する。こんなにも悲しいことがあっていいのかなぁ。30分待ってようやく宝くじを購入できても、大多数の人たちは去年と同じように落胆するに決まっていることは確率的に証明できます。こんなことが年末の風物詩になったのは、やはり算数ならびに数学の教育が浸透していない証拠ではありませんか。

 

 ここで数式を出すと嫌われるので文系的に言えば、宝くじは買えば買うほど平均的な当選確率に近づいていくので、買えば買うほど損をすることになります。しかしながら、買わなければ当たらないことも事実ですから、外れて紙くずになっても許せる程度の金額にしておく。当たる秘訣はこの程度しかないのに、毎年どうして懲りもせず並ぶのでしょうか。

 一種のお祭りだと思えば納得できるんですけどね。

 

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2017年12月 6日 (水)

ズワイガニのシーフードサラダ

 

 行きたいのに、なぜだかどうしても行けない場所があると以前に紹介しました。それが沖縄でありまして、何度も取材の話はありましたが、いつも途中で仕切り直しになるとか、ほかにアポの先約があった関係で別の人が行くなど、せっかくのチャンスがことごとく潰れてしまう。何かの祟りや呪いでもかけられているのかと疑いたくなるほどです。

 

 というわけで、この年齢になっても沖縄は未踏の地なのでありますが、同じように、いやちょっと違うかな、ともかく買いたいのにどうしても買えないものがあります。

 

 それがアトレの某店で販売している「ズワイガニのシーフードサラダ」なんですよね。茹でた蟹の滋味深い美味はもちろん、それがマヨネーズなどとスパゲティに絡んで、絶妙な旨味が素晴らしい広がりと奥ゆきのある交響曲を奏でる冷製総菜です。こんなことを書くくらいですから、もちろん食べたことはあります。ただね、量なんですよ、問題は。

 

 このシーフードサラダは、ショーケースの中に小さな山となって並んでおり、このひと山を買いたい。けれども、どうしても決断できないのです。100グラムで確か400円くらいかな。100グラムなら1人暮らしのボクにとって適切な量であり、価格も納得できるので何度も買ったことがあります。ところが、ひと山となると200グラム以上。価格も1000円近くになります。

 

 そこのところがね、ボクに躊躇させるんだよなぁ。大好きな総菜ですから、エイヤっとひと山を買いたいのだけど、食べるのは1人だからと、ついついそれを100グラムに小分けしてもらうことを続けてきました。この心境、分かってもらえるでしょうか。

 

 ボクは誓って異常なケチンボではありませんが、サラダに1000円という価格が贅沢に感じてしまうのかな。サラダごときで1000円! という差別的なコスパ感覚もあるかもしれません。ショーケースの前で立ちすくみ、こうした屈折した心情がグジャグジャ&ゴニョゴニョと錯綜した結果、いつも「100グラムください」となってしまうのです。

 

 男なら思い切って「ひと山ください」と言わんかい。と、心の中で叱咤激励していながらも、口から出てくる言葉は「100グラム」。そういうヘンなこだわりって、ないですかねぇ。

 

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2017年12月 5日 (火)

暴力の連鎖

 

 いっこうに絶えることのない相撲界の暴力沙汰に対して、そうした指導は一切ダメと禁じるのは実際問題として無理があるんじゃないかという意見があります。同じような間違いを飽きることなく何度も繰り返す人というのは年齢や場所や仕事を越えてどこにでもいますから、そんな場合は「身体に覚えさせるしかないだろう」と考えてしまうのはよく分かります。怪我として残らない程度の体罰は、自分の間違いを心底まで思い知らせることができ、躾という意味でも大変に効果的だという意見にも説得力があります。

 けれども、ボクにはどうしてもできないんですよね。

 

 小学校4年から高校3年まで水泳部に所属し、何度も部長を経験したので、スポーツを指導する難しさもよく分かっています。水泳部はリレーですら役割が完全に分担された個人競技なので、野球などのチームプレーとはかなり違いますが、前述したように指示に従わなかったり、問題を起こす奴はどこにだっています。それをダメだと口頭で叱責するだけではまるで伝わらない。そんなことっていろいろありますよね。

 

 その結果、もしかするとイライラがつのってシャンペンのボトル、じゃなかったカラオケのリモコンで殴ったりするのかな。しかしながら、ボクはどういう理屈であれ理論であれ、暴力を直接的にふるうなんてことをしたこともないし、これからもしないでしょう。モノを人のいない方向にぶつけて壊したことはありますけどね。

 

 なぜなら、親や先輩から殴られたことがほとんどないからです。正確にはたった一発だけ、小学生の頃に父親からコツンと軽い拳固をくらいましたが、それ以外はまったく覚えがありません。定規でボクの指を叩き、長期の正座もさせた中学のバカ教師だけは知能と性格に問題があったので、これは別にしておきます。

 ともかく、おかげさまで、そもそも殴り方というものが分かりません。中学の頃は同級生と取っ組み合いの喧嘩もしましたが、殴り合いまでには発展しませんでした。

 

 というわけで、何が言いたいかというと、要するに非暴力は親から子へ、先輩から後輩へと連鎖していくらしいのです。その逆に、暴力も当然のことながら連鎖していきます。それを「仕方がない」とか「必要悪」と少しでも認めたら、絶対的に次世代にも継承されていくことになります。体罰や暴力の容認派に、それでもいいんですかと問いかけたいんですよね。

 

 それに、殴られたから自分の非を深く後悔するなんてケースはむしろ稀じゃないかな。反省や後悔をしかけている途中でぶん殴られると、そんな気は失せてしまうと思うのです。ボクの乏しい経験で思うのは、間違いに対する理解や解釈が極めて遅く、気づきにくい人もいるってことです。そうなる前の暴力が恒常化していくと、教育効果がどんどん薄れるだけでなく、逆に怨みが増すので、次は必ずオレが殴ってやるぞと思いますよ。

 こうした悲しい連鎖はもうやめたほうがいい。話しても分からないことは沢山あるけど、殴ったところで分からないことは分からないのです。だったら別の教え方を考えたほうがいい。大人になったらもはや間に合わないですけどね。

 

 とにかく、良いことは途絶えがちなのに、貧困も含めて悪いことだけは確実に連鎖していきます。子供を持っていようがいまいが、自分のやったことは直接的にせよ間接的にしても社会的に継承されていく。そのことに、もっと自覚的になるべきだと思うんですけどね。

 

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2017年12月 4日 (月)

リボ払い???

 

 いつものように悪魔の知らせ、じゃなかったクレジットカードの請求明細が送られてきました。自分が使ったものを、そんなもの知らねぇよと言い張るわけにはいかないよなと思いながら封筒を開けると、いつもとは違う紙が1枚くっついております。

 

 何だろうと読んでみると、後でリボルビング払いに変更できるという新システムの解説じゃないですか。ボクはそんなシステムに登録も申請も、ましてや加入させてくれとお願いしたこともありません。つまりは、勝手にそのようなシステムに参加させられていたわけです。おそらく、拒否申請をしない限りは加入に同意したことにしますよ、なんて紙切れが以前に封入されていたのかもしれません。ヒマな時ばかりではないので、そんな余計な告知は横目で見てすぐにゴミ箱というのが習慣なので、こちらの確認ミスかもしれませんが、それにしても卑怯千万なやり口と思いませんか。

 

 それ以前に、ボクはリボ払いを蛇蝎のように、いやそれ以上に憎んでいるので、仮に選択制にしても加入するはずがないのです。あんな狡猾な支払い方法を発明した人は、万死に値するんじゃないかとボクなんかは思いますけどね。

 

 もう知らない人はいないとは思いますが、念のために簡単に解説すると、1回の買い物の金額を何回かに分けて支払うことができるという制度です。たとえば10万円の買い物をして、翌月の支払日に一括ではちょっと厳しいので、2万円ずつ5回に分けてという感じですよね。金利がつかなきゃ便利この上ないのですが、この資本主義社会でそんなことあるはずがありません。たとえばボクのクレジットカード会社では「実質年率14.9%」と表記されていました。利息制限法では10万円~100万円までは年利18%まで(10万円までは20%、100万円以上は15%まで)となっており、この限度ギリギリが常識的な消費者金融よりマシとはいうものの、銀行で定期預金しても年間の利息は1%もつかないという時代ですから、ものすごい金利というほかありません。あくまでも単純計算ですけど、夏の買い物の10万円が翌年の夏には114900円に増えているわけです。これがリボルビング=回転信用ということで、残金がどんどん膨れあがっていったら恐ろしいことになりかねません。つまり、リボ払いとは借金回転継続システムとも呼ぶべき方法なのです。

 

 こうした危険性はネットを調べていただければいろいろと紹介されていますが、そんなものを、いくら選択制とはいっても、勝手に登録するのはおかしいのではないかと。このカード会社は以前にも不親切極まりないトラベルサービスを実施していたことがあって、クレームを入れると菓子折を持って担当者が事務所まで来たことがあります。だからボクにとっては「またかよ」という感じなのですが、どうにも顧客をナメているとしか思えないことをたまにやるんですよね。

 

 しかも、以前から「このカードはうちでは使えないんですよ」と言われる飲食店が目立つので、もうやめようかなと思ったこともあります。すでに30年近く無事故で利用してきた実績があるので、取りあえずは継続しているだけでね。一時期はプラチナカードを持っていたこともありますが、高額な年会費に比べてメリットがあまりにもショボいのですぐに停止しました。今ではゴールドの下のヒラ・カードであります。それでも何ら不都合はありませんからね。

 

 そんなこんなで直ちに窓口に電話して、「こちらの同意を得ないで勝手に登録しないでください」と抗議。リボ・システムから外してくれるように依頼しました。こういう余計な手間をかけなきゃいけないこと自体がユーザーには大きな負担で不快ということが分かっていないのでしょうか。そろそろ脱会しようかなと本気で検討しているところです。

 

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2017年12月 1日 (金)

懐メロ

 

 つい最近まで知らなかったのですが、恵比寿には昭和の懐メロをテーマにした居酒屋があります。キャッシュオン・デリバリーの英国パブに行く途中でたまたま気づいたので、好奇心からさっそく覗いてみることにしました。

 

 地下にある店内の壁面にはシングルレコードのジャケットがびっしりと飾られており、それはそれで大変に壮観でしたが、それ以外が何ともね、申し訳ないのですが、ちょっとチープな印象だったのです。ボクの若い頃はいつも金欠のド貧乏だったので、その思い出とオーバーラップしたのかもしれませんが、もう一度行きたいという郷愁をあまり感じることができませんでした。むしろ若い人のほうがレトロで珍しく感じるんじゃないかな。

 

 ボクの音楽ブログのラインナップを見ていただければ分かるように、シャンソンなどのほかに懐メロもかなり扱っています。年を経ると昔の古い歌が琴線をかき鳴らすようになるんですよね。香りや味と同じように、メロディがリアルな感覚を呼び覚ましてくれるんじゃないかな。

 だから、懐メロ居酒屋というコンセプト自体はオッサンたちにとって魅力的なのですが、その本質がよく分かっていないように思うのです。

 

 つまりですね、思い出なんてものはそもそも相当に脱色されています。ストーリーが自分にとって都合良く変更されているだけでなく、場面や光景などのビジュアルも天然色(ちょっと古いかな)からセピア色に化しており、汚いところはほとんど見えなくなっているのです。だからこそ苦い後悔や拭い切れない涙の悲哀にも直面できるわけでね。さもなきゃ皆さん、過去のことなんて財務省近畿財務局の森友学園交渉記録のように素早く廃棄しているはずです。

 

 だから、懐メロは文字通り懐かしいとしても、きっちりと何もかもひっくるめた過去にタイムスリップしたいという人がどれだけいるかなぁ。少なくともボクはゴメンですね。もう一度人生をやり直すというのもちょっと。スタートラインが大金持ちや大政治家や医師の息子というのなら別ですけど。

 

 このように考えていくと、BGMが懐メロでも、それを聞かせる環境まで懐かしい雰囲気になってはいけないと思うのです。ボクだけの印象かもしれませんが、もっとカフェバー的スタイリッシュでモダンな空間のほうが、安心して懐メロにふけることができるんじゃないかな。

 

 そのせいか、最近は銀座が大好きになりました。財力の関係から贅沢や高級感とはまるで無縁の店しか行ったことはありませんが、それでも銀座ですからね。地下鉄で帰る時にはブリオーニのショーウィンドーを必ず見たりしますが、そんな時にイヤホンから懐メロが流れると、あぁかつての彼女と一緒にここにいられたら良かったのになぁと。そういう感覚がね、孤独なオッサンには心地良いわけで、環境や雰囲気まですっかり昔に戻るのは勘弁してほしいなぁと思うわけです、はい。

 

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