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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2018年4月

2018年4月27日 (金)

チャーチルとダンケルク

 

 スイス取材の往路の飛行機内で、映画『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』を観ました。原題はもっと簡単で、“Darkest Hour”。「最も暗い時間」という意味になるのかな。このタイトルを見た時に、ボクは1967年公開の映画『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督)を思い出しました。玉音放送をめぐる軍事政権内部の抗争を描いた、かなり見応えのある映画なので、連休でヒマならレンタルしてみてください。

 

 さて、『ウィンストン・チャーチル……』ですが、特殊メイクを担当した日本人がアカデミーを受賞したことで大きな話題になりましたよね。映画のデキも感動的なのですが、ボク自身は第2次世界大戦初期のドイツ軍の圧倒的な強さを再認識しました。

 

 1940年5月10日に、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルグに侵攻。5月17日には北フランスまで蹂躙しています。これに立ち向かったフランスとイギリスによる連合軍はまるきり歯が立たず、約35万人の兵士がドーバー海峡ギリギリまで追いつめられました。彼らを救出する作戦「ダイナモ」をテーマにした映画が、昨年に公開された『ダンケルク』です。

 この映画では撤退の現場が描かれていましたが、『ウィンストン・チャーチル……』は、その作戦を指揮したチャーチルの苦悩と政争が中心になっています。エピソードの積み重ねが巧みで、特殊メイクを施されたゲイリー・オールドマンも愛嬌のあるチャーチルを好演。さらに妻役のクリスティン・スコット・トーマスが素晴らしい。国王のジョージ6世を演じたベン・メンデルゾーンも秀逸です。やはりドイツと講和すべきかと苦悩するチャーチルの弱腰を励ます妻に、「私は不愉快でならない」と吃音でドイツ軍への怒りを吐露するジョージ6世。良い映画は脇役も優れているのです。

 

 ダンケルクからの撤退作戦は奇跡的に成功。ドイツとの単独和平条約を画策していたハリファクス子爵の目論見は崩れますが、この時に彼は「チャーチルは言葉を武器にして戦場に送り届けたのだ」と呟きます。まさに、このセリフこそが映画の基本テーマなんですよね。

 

 ただ、それにしても当時のドイツ軍は強かった。ダンケルクから1か月も経たない6月10日にフランス政府はパリを放棄。同月14日にドイツ軍は無血入城しています。

 

 ちなみにドイツは遅ればせで始まった産業革命が急速に進展。20世紀になった頃の鉄鋼生産量は本家のイギリスを抜く規模に成長していました。その当時に作られた世界最大の飛行船ツェッペリン号が、実はドイツの工業力を象徴していたのです。だから第1次世界大戦での惨めな敗北が国民にはどうにも信じられなかった。そこでユダヤ人などによる「背後からのひと突き」が敗因という説が流布するようになり、次の世界大戦の下地となっていったのです。

 

 ヒトラーは、こうした国民感情をうまく煽り立てて政権につくと同時に、徴兵制と再軍備を進めていきました。という話を続けていくとキリがないのでやめますが、たとえばティーガー戦車は前面の装甲の厚さが何と10センチ。敵弾が当たってもはじいてしまいます。この重量57トンにも達する大型戦車を中心にした機甲部隊が、高速でヨーロッパを走り抜けていったわけです。

 

 そんなドイツ軍が、どうして北アフリカやロシアにまで足を伸ばしたのか。それさえしなければ、ヨーロッパの半分くらいは領土として残ったかもしれません。つまり、指導者によって国家はあっという間に滅びてしまう。その一方で、国民の勇気を鼓舞することさえできれば、いかに劣勢であっても暴虐非道な侵略から国を守ることができる。そんなことを感じさせる映画なのであります。

 

 

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2018年4月26日 (木)

ミクロン??

 

 あなたは「1/1000㎜」をどう呼んでいますか?

 

 年齢や、理系か文系かという出身分野や職種にもよるのですが、ボクは長いこと「1ミクロン」と呼んできました。微細なことを説明するのに「ミクロン単位の高精度」とかね。今でもそのように表現した文章は結構あると思いますよ。

 

 ところがですね。以前にたまたま生産工学系の原稿を書いた時に、何となく気になって念のために調べてみて驚きました。「ミクロン」は、もはや使用禁止の単位用語になっていたのです。

 

 知らない人のために正確なことを紹介しておくと、そもそも「ミクロン」は1879年の国際度量衡会議(そんなものがあったとはね)で承認された単位です。ところが、それから90年近くを経た1967年の国際度量衡総会で廃止されてしまったのです。正しくは「1マイクロメートル」でありまして、確かにメートル法としては「ミクロン」と区切ってしまうよりも、このほうが連続性はありますよね(ちょっと文系的表現かなぁ)。

 

 国際度量衡総会で廃止されても、日本の計量法では暫定的に使用することができたことから、国内では長く「ミクロン」が使われてきたらしいのですが、それも1997年10月1日をもって禁止されているのです。20年ほど前のことにもかかわらず、なぜだか「マイクロメートル」の普及は遅くて、今でも「ミクロン」と呼んだり書いたり、雑誌やネットなどでも散見できます。

 

 ちなみに、1㎜とは正しくは「ミリメートル」で、1/1000メートルのことですよね。だったら、その1㎜の1/1000は新しい単位の「マイクロ」を冠した「マイクロメートル」にして当然ではありませんか。さらに、その1/1000は近年トレンドになっている「ナノメートル」。参考までに、その1/1000は「ピコメートル」となります。1000の単位ごとに(これも文系的表現ですよね)新しい呼称を付加して、語尾を「メートル」にするのが単位体系として合理的ですから、「ミクロン」というのはやはり不統一というほかありません。

 

 でも、微細なものに対して「マイクロ」とはあまり聞きません。それよりも「ミクロ」「ミクロン」のほうが迫力を感じるじゃないですか(これも文系的だなぁ)。だったら「ミクロメートル」あるいは「ミクロンメートル」と呼べばいいのに、と文系のボクなんかは思うのですが、その発音では英語が共通語の国際社会で通じないんでしょうね。

 

 おそらくですけど、これまでは最小の単位だったからこそ「ミクロン」という独立した呼び方が許されたのではないでしょうか。けれども、度重なる技術革新によって時代はとっくに「ナノメートル」以下のレベルに突入しており、計算上の都合もあって呼称を統一する必要性が出てきたのだと思います。

 

 しかしながら、「ナノ」という新しい単位はたちまち普及しても、「ミクロン」で馴染んだことを「マイクロ」とはなかなか呼べません。ボクたちは、新しいことに喜んで飛びつくくせに、いったん覚えたことはなかなか変えたくないんですよね。

 

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2018年4月25日 (水)

無駄話

 

 無駄話といえばネガティブなイメージが圧倒的に強いのですが、これを続けるには大変な才能が必要なんですよね。

 

 一人っ子で育ったボクにはそうした能力が欠けているらしく、ついつい踏み込んだ意味と結末のある話をしようとするみたい。でもって、もしかすると同席した皆さんの顰蹙をかっているのではないかと危惧する今日この頃なのであります。

 

 取材や商談など目的が明確な会合なら、それこそ意味のない雑談は時間の浪費というものです。お互いにヒマじゃないんですから、とっとと大切な話をしようよとなりますよね。ボクは自慢じゃありませんが、取材経験が長いので、相手の時間を無駄にしないためにも、なるべく単刀直入に本題に入るようにしています。「いやぁ、今日は暑いですね」「もうすぐ30度を超すんじゃないの」みたいな会話を延々と続けても、お互いに得るものは何もありませんからね。

 

 ところが、慰労や親睦といった実に漠然たる目的の集まりで、たとえば「これからの教育は想像性でなくて創造性の涵養を旨とすべきじゃないか」と言われても、知識も興味もない人はどう答えていいか分かりません。ざっくばらんの無礼講な酒席で、池上彰がいきなり中東情勢を解説するようなものです。

 

 そうした場合の会話は、中身がどうのではなく、時間の隙間を埋める「つなぎ」が本筋の役割といっていい。だから大学の講義みたいな濃密な内容はかえって逆効果になってしまうわけです。

 

 では、そうした場ではどんな内容が望ましいのでしょうか。

 

 無駄話には非才のボクがつらつら考えるに、誰でも心あたりのある身近なことから始めるほうが馴染みやすいのではないでしょうか。

 

「朝早く人に会わなきゃいけないので、珍しく6時過ぎにマンションの自室を出たんですよね。その時に、10年ほど前に引っ越してきた隣の男が、たまたまドアを開けて出てきたわけです。都心なので挨拶なんかしたことはなく、これまでに一度か二度しか顔を見たことがありません。その彼がですね、よく見ると……」

 

 あ、元小説家志望なもので、ついつい話を作ってしまいました。こうしたストーリーものも実はタブーなのです。親戚の厄介者の話とか、ベランダでキュウリを栽培して実ったと思ったら大きなカラスに食われたとか、後を引かない単発ものが望ましいと思います。

 それで思い出したんだけど、漫画の『サザエさん』のようなエピソードが最適な事例ではないでしょうか。ボクには笑えるどころか、ちっともまるで全然決して面白くない4コマ漫画ですけど、とにかく人畜無害なことだけは確かです。作者本人もそれを意識していたようですが、誰にも迷惑をかけることがありません。これこそが無駄話の極致&真髄でありまして、みんなが「くだらねぇ与太話だなぁ」と呆れれば呆れるほど、「つなぎ」としての役割をまっとうできるのです。

 

 しかも、そんな『サザエさん』的な無駄話の隠された最大のメリットは、その酒席なり会合やミーティングが終わったら、誰もが直ちにすっかり忘れてしまうってことなんですよね。それによって、首尾一貫した「つなぎ」としての無駄話が完結するのであります。

 

 そうした話が、残念なことにボクはできません。どうやって修業したら無駄話のテクニックが身につくのかなぁ。

 

 参考までに、前述の話の続きは次のようになります。

 

「隣の男はジョギングに出かけるつもりなのか、丸首のトレーナーとジャージのズボンを履いていたわけ。ボクはお先にどうぞって感じで彼に譲り、マンションの廊下をついていったんだけど、後ろ姿をよく見るとどうもおかしいんだよね」

 

「何が? ジャージをパジャマ代わりにしている人は珍しくないでしょう」

 

「いやさ、それがね。トレーナーもズボンも、前と後ろが明らかに逆だったんですから」

 

 そんなことを急に言われても、相槌の打ちようがないですよね。オチを考えるほうも大変なので、やっぱ天候や気温や花粉症なんかをテーマにしたほうがいいと、ボクも思うのであります。

 

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2018年4月24日 (火)

特権階級

 

 ああ、この国もそろそろ特権階級が固定化されてきたんだな、と感じます。セクハラ発言が大騒ぎになっていながら、シレっと退職した高級官僚に5300万円を支払うというのですから、「盗人に追い銭」とはさすがに言いませんが、こりゃもう治外法権の特権階級としか言えないではありませんか。

 

 歴史をざっくり眺めてみると、欧米に比べて日本というのはガラガラポンと社会が大変わりすることが頻繁にあったんですよね。12世紀の終わり頃には、って遠い話だけど、ものすごい内戦を経て武家政権が成立。かと思えば1516世紀になると再び戦国時代に突入。全国各地の領主=守護大名が隣国と争乱を続けてきたわけですな。鎌倉時代に初めて言われた「下克上」という言葉が象徴的ですが、武家政権すなわち軍事政権が支配層である限りは、同じく武力を使用したクーデターによって階級がひっくり返されるのは不可避といっていい。歴史上の人物にしても、出自の怪しい人が少なくないですよね。

 

 要するに、支配層が完全に固定されるなんてことは江戸時代までなかったのであります。もちろん、どんな時代も皇室は温存されてきましたが、政治権力や財力が伴うヨーロッパの貴族階級やアメリカの超富裕層とはちょっと違うのではないでしょうか。

 

 それはともかく、ようやく300年近く続いた江戸時代にしても、19世紀末になれば明治維新でガラガラポン。武士階級がにわかに消滅して世の中が一新されたかと思ったら、20世紀半ばには太平洋戦争に突入ですよ。大敗北を喫して日本国内が瓦礫と化したので、青空のもとでゼロからのスタート。いやまぁ慌ただしい歴史ですが、おかげさまで先祖代々続く貴族や富裕層が存続できる余地がかなり乏しかったわけです。

 

 それから70年以上。自衛隊はイラクなどに派遣されましたが、取りあえず戦争はもちろん内乱だって縁遠い状態が続いてきました。それはそれで歓迎すべきことでも、人間というのは実に興味深い生き物でありまして、社会が落ち着き始めると、自分の地位や階級も落ち着かせようとするんですよね。資本主義というのは、簡単にいえばカネが血族よりも力を持つ社会ですから、早い話が上流階級になりたいならカネを貯めりゃいい。それを断固として阻むのが超累進制の相続税ですけど、それをすり抜ける方法はいろいろあります。

 

 中でも学校がね、ボクは現代の階級制度を支える根本的な土台というか構造になっていると考えているのです。衆知のように、日本の公的な教育支出はOECD諸国の平均を大きく下回っています(GDP比)。にもかかわらず大学進学率がどんどん上昇してきたのは、その教育支出を家計が国にかわって負担しているからです。ということは、家族の経済状況が子供の学歴や学校歴に直結することになるんですよね。

 

 たとえば私立の幼稚園の平均的な学費は年間およそ50万円。有名私学の付属幼稚園ともなれば、卒園までの3年間で合計450万円ほどかかるとされています。入園を許されるかどうかは別にして、こんな大金を小学校入学前の幼児に費やせる家庭は決して多くはないですよね。ところが、今や大企業の社員で「あいつとは某幼稚園の頃から一緒だったんだよ」と話す中高年がいる時代になりました。この「某」とは、言えば分かる超有名で入園倍率もメチャ高い私立大学付属の某幼稚園です。

 ほらね、社会の階級は学校制度を中心としてどんどん固定化されつつあるのです。これは資本主義の権化であるアメリカはより以上で、学費の高騰によって親がカネ持ちでなければ大学も行きにくくなっています。

 

 大昔は血族、ちょっと前なら武力、そして今では経済力が学校という装置を経て階級を固定化していくとまとめたら大雑把過ぎるかな。でもさ、これが隠しようもない現実ではありませんか。ボクなんかはもともとはみ出し者で、子供もいなくて余生も乏しいですからどうだっていいけど、若い人たちはどう考えているのかなぁ。

 

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2018年4月23日 (月)

上着脱ぎを解禁

 

 普段から意識していない人には唐突かもしれませんが、今年から上着を脱ぐことを解禁することにしました。だってさ、すでに本日も渋谷あたりでは気温27度。全国では30度を超す真夏日の地域もあるくらいで、ちょっと外出したら汗ダラダラですもんね。

 

 こんな陽気にスーツの上着またはジャケットを我慢して着ていたら、たちまち脇の下あたりからグショグショです。にもかかわらず、ボクは上着を脱ぐことを長く躊躇してきました。というのも、欧米ではパブリックな場で上着を脱ぐのは失礼にあたると聞かされたからです。

 

 衆知のように彼らはワイシャツの下に何も着ていないのが普通です。つまり、ワイシャツそのものが下着なのですから、上着を脱いでそんな格好になるのは確かに失礼ですよね。その1枚下は裸なのですから。

 ところがボクたちは、ワイシャツの下に綿などのアンダーウェアを着ています。冬場の保温効果もありますが、湿度の高い夏場にわざわざ下着を着るのは、汗を吸収させる意味があるからです。欧米のように素肌にワイシャツでは、ちょっと汗ばむだけで身体に張り付いてしまいます。素肌とワイシャツの間に1枚下着があるほうが、着心地もスムースではありませんか。

 

 このようにワイシャツを下着とは認識しにくい服装習慣があるため、人前で上着を脱ぐことに抵抗感はあまりないはずです。けれども、ボクは随分以前に「ワイシャツは下着」と知らされたことから、親しい友人などとのプライベートな席以外ではなかなか上着を脱ぐことができなかったのです。

 

 ただし、例外もあるんですよね。スーツのスリーピースのようにベストを着用していた場合は、それだけでも上着と認識されるので失礼にはあたらないというのです。要するにワイシャツの上にベストさえ着用していれば、「下着姿」とは見なされない。ならば、ということで、昨年の夏はベストをやたらと愛用しておりました。たまに「コーヒーください」と言われることもありましたが(冗談です)。

 

 もちろんワイシャツ姿のほうが圧倒的に涼しいとはいうものの、どうにもだらしなく感じて、何かを着たくなるんですよね。ボクにとってノーネクタイのクールビズは失業者と紙一重、ましてやワイシャツだけの姿はホームレスと紙一重に見えてしまうのです。

 

 ベストなら生地面積は小さく、体温上昇もジャケットよりは乏しいだろうと判断していたのですが、それも今年はもう限界ですな。

 

 前述したように、4月の下旬で夏日か真夏日か知りませんが、この気温ですから、今年もどんな猛暑が続くか見当もつきません。そんなクソ暑い陽気に汗をダラダラ流しながらも「上着を脱ぐのは失礼」と言うほうが失礼ではありませんか。礼儀かマナーか知りませんが、冷涼な気候が長いヨーロッパで生まれた慣習を、熱帯雨林気候になりつつある日本で頑なに真似する必要もないじゃないかと決心したわけです。

 

 誰かが同席している場であれば、「上着を脱いでもよろしいでしょうか」などと事前に「許可」を求めたほうが、よりスマートですけどね。

 

 ファッションにビギナーのボクは、できるだけ原理原則に忠実であろうとしてきました。しかしながら、できることとできないことがありますよね。きちんと理由や背景さえ踏まえれば、現実に則した応用主義者であっていいのではないかと。何だかクルリと一周して元のところに戻ったように見えますが、これは決して無駄な回り道ではなかったように思うのです。

 

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2018年4月20日 (金)

不信

 

 自分が信じられない、という感覚を分かっていただけるでしょうか。乖離性人格などの精神的障害ではなく、たとえば外出の際に、施錠したドアを何度もガチャガチャとやる人がいるじゃないですか。それだけならまだしも、しばらくしてから「オレってばカギかけたかなぁ」と確認に戻ったりね。

 

 こういう時は、やるべきことは100%ちゃんとやっています。そんなのやったに決まってるだろ、と自信を持っている時ほど危ないんですな。そんなわけで、自分をどうにも全面的に信用できないのです。だから、校正でも同じ事項を何度も再確認することがあります。

 

 若い頃は、人間なんて信用できない、誰だって思い違い勘違い、注意不足によるケアレスミスをすると思っていました。ボクたちが見ている現実とされているモノだって、人それぞれに見方は違うはずですから、世界観なんて一致しなくてあたりまえ。言葉にしても、ボクの理解と他人の理解が同じでは必ずしもないんですよね。ということで突きつめていくと、人間同士が確実に共有できるモノなんて、時間しかないんじゃないか、と。

 

 こうした認識が、近頃は他者に対する客観だけでなく、自分に向いてくるようになり、お前のやることなんか実は信用できないんだぜ、みたいな意識が強くなってきたんですよね。記憶にしても、自分の思い込みに過ぎないかもしれない。

 

 そこで、取材原稿のルールを私生活にも適用して、心配なことには根拠を用意することにしました。とはいっても難しいことではなく、たとえば海外出張では持ち物リストを作って最終的にチェックするわけです。さらに戸締り確認リストを作ったこともあります。それに全部チェックマークが入っていれば大丈夫。その中には「スーツケースのカギは閉めたか」という項目もあります。以前に航空機に乗ってからスーツケースを施錠したかどうかが急に不安になり、到着するまで悩まされたことがあるからです。もちろんちゃんとカギはかかっていたので杞憂に過ぎなかったのですが、そんな気持ちにまたならないように、出がけの戸締まりリストに付け加えたのです。

 

 自分を信じられる人は、そんなボクをアホかと思うでしょうね。はい、ボクも若い頃は自分のやることやったことを何の根拠もなしに信じることができました。おかげでいろいろと見落としたりミスをしたことがあるので、そんな「怖いものなし」の状態が、いかに怖いかがよーく分かるんですよね。

 

 ボクのようなライターもしくは編集者に必要な資質は、「病的でない程度の神経質さ」とかつて聞いたことがあります。それには取りあえず該当するのかなぁ。ただし「病的でない程度」という表現は、グレーゾーンがあまりにも広すぎますよね。

 

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2018年4月19日 (木)

どいもこいつも

 

 何だかなぁ、昔から日本の男はここまで卑劣で卑怯で恥知らずだったのでしょうか。

 

 テレビや週刊誌で派手に騒いでいるので今さら繰り返しませんが、セクハラもパワハラなど、すべてのハラスメントは非対称な立場が大前提となります。その上で、強い側が弱い側の人権を直接的あるいは間接的に侵害することをいうわけです。財務省の事務次官ともなれば行政権力の最高峰ですから、それと女性記者では立場の違いは明らかではありませんか。さらには取材する側とされる側ということになれば、こりゃもう二重に抵抗しにくい力関係となります。

 

 にもかかわらず「キスさせて」と言われたら、若い女性記者ほど困惑して悩むでしょうね。そんなの軽い冗談じゃないかと思う男もいるでしょうが、あなたが記者として、大切な取材で会った男から話もそこそこに「股間触っていい?」と言われたらどうしますか。彼の機嫌を損ねたら、大切な情報が得られません。だからといって男に自分の足の間にぶら下がっているものをまさぐられたくはないとしたら、「まぁまぁ、それはちょっと」と誤魔化しながらも、何とかして本来的な取材を続けようとするはずです。

 

 テレビ朝日の女性記者は、それと似たようなことを1年半にわたって経験したとされています。さすがに思いあまって会話を録音して告発しようとしたようですが、相手は何しろ行政権力の頂点にいる男ですから、ヘタに刺激すれば、その後の取材活動はもちろん、放送の許認可権を持つ総務省まで敵に回す可能性があります。そこで上司はもみ消すことに決めたものの、彼女はその決定に納得できず、週刊誌に録音をリークしたとされています。こんなのはメディアとしての掟破りですが、訴えを聞いてもらえないのだから仕方ありません。

 

 いわば彼女の人権より企業の営利が優先されたことになるので、前述した二重に加えて、三重の意味で彼女の尊厳は踏みにじられたことになります。ついでにいえば、「そんなのはどことでもあり得ることだから、うまくやり過ごすことも覚えていかなきゃ」と分かったふうなことを言う上司もきっといたでしょうね。そういう態度こそがセクハラをはびこらせるわけでね、これで通算すると四重にもなるわけです。

 

 ともかくですね、ここに登場する男たちのすべてが卑怯千万で姑息きわまりない。そして、もうひとつ。あくまでボクの憶測に過ぎませんが、省庁内部の権力闘争も否定できません。果たして彼が失脚して誰がトクをするのでしょうか。はぁ、これで五重の人権侵害かよ。

 

 つまらん。ああ、つまらん。こういうことを詳しく糾弾することくらい虚しいことはないですよね。新渡戸稲造が1900年に英語で執筆・出版した『武士道』は世界的なベストセラーになりました。調べていくと「武士道なんてそれまでなかった」という指摘もあります。もし仮にそうだとしても、新渡戸稲造は日本の武士階級の振る舞いから理想とすべき要素を抜き出し、それをまとめて「武士道」と命名したことになるでしょう。

 

 いずれにしても、セクハラの認定うんぬんという後ろ向きの論争なんかではなく、もっと前向きに正直に理想を目指そうよ。女性や他人のためではなく、回り巡ってそれが必ず自分のためにもなるんですから。

 

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2018年4月18日 (水)

静かにしろよ!

 

 地上波のテレビをほとんど見なくなったということを以前にご報告しました。あまりにも子供じみた内容のバラエティが多くて、5分と見ていられないのです。

 

 それでもニュースのついでにチャンネルをそのままにしていると、クイズ番組の宣伝が流されたりしますが、いま時ですね、東京大学や京都大学出身者を知性のシンボルみたいに祭り上げるのはどういうセンスなのかなぁ。単純な知識や情報はネットで検索すれば一発で分かります。にもかかわらず、些末なことを問いかけて「おおお、さすが東大」なんてね、いつ頃の話だよって思うわけですね。

 

 そうした知識はインターネットによってどんどん大衆化されてきたので、もはや囲い込まれた特権ではなくなっています。本が典型的ですが、かつては特定の知識を得るためには代価が必要でした。ところが今ではスマホやパソコンを動かす電気代さえあれば、ネット経由で簡単に入手できます。広辞苑なんてバカデカい辞書を買って本棚に置いてなくても、難しい言葉を瞬時に調べることができますからね。それと同じように、昔は大学に行かなきゃ触れることのできない知識(知識人も含めて)が厳然とありましたが、誰でもその気になればアプローチできるものになりつつあることを、もっとリアルに認識すべきだとボクは思うのです。

 

 つまり、知識の有無なんぞでなく、その知識を使って何をするか、という方向に行かなきゃおかしい。にもかかわらず、相変わらず旧態依然のクイズ番組ばっかりですから、秒速でCSやBSに戻らざるを得ないじゃないですか。

 

 もうひとつ。たまにはテレビのスイッチをオフにしてみてください。ものすごく静かになることを実感できるでしょう。それで分かるように、地上波の民放はとにかくBGMが過剰でうるさい。もっと静かにしろよ。駅のホームでの大音声のアナウンスも海外では聞いたことがありませんが、あれは警告なども含まれているので許すとして、ニュースくらいはBGMなしのシンプルでピュアなスタイルでやってくれないものでしょうか。悔しいけど、そこのところだけはNHKはエラいと言わざるを得ません。民放に比べて圧倒的に静かなのであります。

 

 こんなことをやっていたらテレビ離れが始まるぞ、と以前に予告したことがありますが、実際にネットTVが普及しつつあります。凋落したのはフジテレビだけだと思っている業界人がいるとしたら、あまりにも甘い。速攻で虫歯になるほど甘過ぎですな。出版業界と同じく、放送業界も存続の危機を迎えていると認識すべきでしょう。大昔に似たようなことを指摘すると、「だったら見なきゃいいでしょ」と豪語したテレビ関係者がいました。「だから見ないんだよ」という人が急増している現実を、もうちょっと深刻に受け止めたほうがいいと思うけどなぁ。

 

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2018年4月17日 (火)

みんなと同じ?

 

 みんなが歩いている方向に行こうとするなら、伝統的あるいは既成の序列が大きく影響します。たとえば東大や京大といった入試偏差値が上位の大卒者が先頭集団となり、無名の私立大学卒はずっと後ろのほうになります。これはボクの意見では決してなく、社会もしくは大企業などの紛れもない新卒者評価であり、かくて入社を待つ列の途中でガシャンと入口の扉が閉じられることもあるわけです。

 

 大学進学率はとっくに50%を超えているので、高卒ましてや中卒ともなれば、実際問題として従事できる職種も限定されるかもしれません。憲法第22条で「職業選択の自由」がうたわれていても、会社も雇用者を「自由」に選ぶことができるので、現実は必ずしもそうはなっていないですよね。しかも、それについてちょっとでも文句を言おうものなら、列の前のほうから「オレたちは必死で勉強したんだから当然じゃないか」という大合唱が聞こえてくるはずです。幼少時から私立や学習塾などに投資してきたのだから、という理屈もありますよね。まったくその通りで、学校の成績には家庭の経済格差が抜きがたく関係しており、勉強したくてもできない、あるいは意欲が殺がれてしまう環境で育つ子供が少なからずいます。ところが、そうした事情は自己責任や自助努力の不足として隅に追いやられてしまうことが少なくありません。借金にはなるけど、公的奨学金だってあるじゃないかと。

 

 こうした社会の事情や通念にいくら抗議したところで、そんなもん受け入れられはずがありません。かくて貧困や格差は親から子へと世代間を継承していく。アメリカなんて完全にそうですから、すでに日本もそうした気配を強めつつあります。政治の支配層が社会的な先頭集団である限りは、その列の順序を入れ替えるような大改革をやるはずがないじゃないですか。

 

 なのに、ですよ。どうして、なぜ、みんなと同じ方向を見て、同じ列の中にいようとするのかなぁ。前述したように、既成の価値観と常識で作られた列の中にいる限りは、後ろから先頭に上がっていくのは困難じゃないですか。

 

 もしも自分がトップ集団にいるならそれで満足できるでしょうが、下位の集団の中にいて、その順位にもしも不満や不平があるなら、そんな列からさっさと飛び出せばいいのにと、ボクは思うんですよね。

 

 もちろん列の中にいるほうが安心であり安泰のような気はします。そこから外に出るのはとてもリスキーです。だから「ここでいいや」と思うなら仕方ありません。でもさ、どうにも自分の能力が活かされていない、とか、これからもこの順位が続くのかよと絶望しかけているなら、できるだけ早くそんな列を出てしまおうよ。物理的または社会的には無理にしても、精神性や知性、つまり発想や創造性をそんな列の中に頑なに留めておくことはないじゃないですか。

 

 人と同じことをしていたら、人と同じにしかなれません。人と違おうとするなら、人と違うことをやらなきゃ。みんなが毎日のラッシュアワーを我慢して通勤しているなら、2時間くらい早めに会社に行くとかね。そういうことを、果たして学校で教えているのかなぁ。ボクには延々と続く人間たちの長い長い列が見えて仕方がないのです。でもさ、いったいどこに行こうというのでしょうか。

 

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2018年4月16日 (月)

手巻きが好き

 

 どうもね、ボクは手巻きが好きなようです。とはいっても寿司の話ではなく、腕時計のことであります。

 

 時計がなぜ動くのかよく分からない人もいるので、ごく簡単に歴史を説明すると、初期の頃はゼンマイを人間の手で巻き上げていました。古い柱時計では時間調整と独立して、巻き上げ用の穴と専用のカギがダイヤルにありましたよね。といっても覚えている人は少ないかなぁ。懐中時計もそれと同じだったのですが、19世紀半ばに時間調整とゼンマイ巻き上げを兼ねたリューズ機構が発明され、それが20世紀になって腕時計にも導入されました。

 

 このため、リューズを回してゼンマイを巻き上げるのが普通だったのですが、ロレックスが1931年に世界初の実用自動巻きを開発。半円形ローターが腕の動きで回転してゼンマイを巻き上げる仕組みが広く普及して現在に至っています。この自動巻きと区別するために、今では手巻きと呼称されるわけです。

 

 一杯に巻き上げられたゼンマイがほどけてエネルギーを失うまでの時間をパワーリザーブと言いますが、一般的には40〜50時間程度。つまり、自動巻きでも腕に着けずに放置して2日も経てば止まってしまいます。このためパワーゼロからのスタートアップとして手で巻くこともできます。

 

 このパワーリザーブが、最近はかなり長期化してきました。最も多いタイプは3日間前後。金曜日の就寝時に腕時計を外し、月曜日の出勤の際に再び腕にする時も動き続けていることが目安になっているようです。朝起きて慌てて時計のゼンマイ巻きや時間・日付などを調整するのは面倒ですからね。中には5日間、1週間、あるいは1か月、さらに50日間という途方もなくロングタイムの複雑機構も発表されています。

 

 しかしながら、このパワーリザープに関しては電池で動くクォーツのほうが圧倒的に優れており、所定の交換時期が来るまで、2〜4年くらいは何もしなくても動き続けます。このため宝飾を施したレディスモデルではクォーツが少なくありません。豪華な高級モデルほど常に着用しているわけではないので、大切に保管している間も動き続けるクォーツのほうが便利なことは確かです。素敵なネイルアートを施した華奢な指では、小さなリューズを何度も回したり時間調整するのも辛いんじゃないかなぁ。そういうことは近くにいる男に頼るという方法が現実的なので、いつでも遠慮なくお任せください。

 

 さらに、1976年にはシチズンがエコ・ドライブのルーツとなる世界初のアナログ式太陽電池時計を開発。今ではソーラー=光発電&充電の腕時計は珍しくありません。こうなると、前述したように腕時計のメカニズムをまるで知らなくても何の支障もないわけです。電池交換なしで、ほぼ永続的に動いてくれますから。

 

 だから、手巻きも自動巻きも面倒くさくて、クォーツだって電池交換が必要になるから、ソーラーのほうがメチャメチャに便利じゃんと力説する人もいます。確かに利便性だけを問うなら、そういうことになるのでボクは反対しません。いろいろな時計があったほうが、世の中は楽しくなるのです。

 

 そうはいっても、ボクはオールドスタイルの手巻きが好きなんだよね。自動巻きのローターが必要ないので、薄さを徹底的に追求したモデルでは手巻きの秒針なしということも珍しくないのですが、そうした機能的なことではありません。

 

 ボクが普段使いとして愛用しているアラーム付きの機械式時計は、通常の時計用とアラーム用の2つのゼンマイを装備しているので、リューズを前後に回して両方を巻き上げなきゃいけない。そりゃもう面倒といえば二重に面倒ですよ。アラームは25秒くらい鳴ったら終わりなので、それだけでも巻き上げが必要になるからです。時計表示のほうも40時間以下じゃないかなぁ。

 

 机の上に置いておいたら止まっていることもしばしばですから、取材の待ち合わせで「そういえば」と思いついた時などに小まめにリューズを回しています。とにかくボクが手で巻いてやらないと時計は動き続けることができない。そこに利便性を超えた情緒的なつながりを感じるのです。自動巻きも人間が身につけることが必要なので、基本的に同じですよね。パソコンやスマホはもはや文系には完全なブラックボックスですけど、機械式時計はオレが動かしているんだという自覚が持てるんですよね。そうした一体感はどんなものにもあり得ますが、電気や電子機器は充電が必要にしても、ゼンマイを巻き上げるような主体的で能動的な作業が伴わないじゃないですか。

 

 あくまでボクの個人的な感想に過ぎないのですが、そこのところの「面倒」が好きで、手巻きを愛用している次第であります。

 

 

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2018年4月13日 (金)

『春うらら』

 

 今年はあっという間に終わってしまったようですが、何もかも凍りついた冬から春の訪れをほのかに感じる頃がボクの最も好きなシーズンです。肌を刺す冷たい空気さえも、おだやかな陽気が始まる予告編であり、心地良い緊張感として受け止められる。ついでにいえば、特に差し迫った締め切りや約束事はなく、さりながらも大きな仕事が待っているという、不安のないリラックスした心境の時に、アタマの中を流れてくる楽曲があります。

 

みぞれまじりの春の宵

二人こたつに くるまって

ふれあう素足が ほてりほてり

誘いかけよか 待ってよか

 

 田山雅充が1976年にデビュー・シングルとしてリリースした『春うらら』です。作曲は本人、作詞は最首としみつ。ボトルネック奏法だと思うんだけど、エレキギターによる軽快なイントロダクションが実に良いデキでありまして、春らしい浮き立つような気分が伝わってきます。それに、ちょっとエッチな雰囲気が素晴らしい感性で表現されているんだよな。

 

まだまだ小さい きみの胸

僕のてのひら 大きいよ

くらべてみようか そろりそろり

きみは耳たぶ 熱くして

ああ ああ 春うらら

ああ ああ 溶け合って

 

 ボクもはるかな遠い遠い昔に似たようなことがあったような記憶もないではありませんが、若い男女の健全な性愛が純粋&素直に描かれています。まさか処女に童貞ということはないにしても、そういう経験にはまだまだ乏しい無垢なエッチ、というといささか矛盾しているかも知れませんが、こういうふんわりしたムードの歌は最近ないですよね。

 

 その「ふんわり感」を印象づけるアクセントが、オノマトペ(擬音・擬態語)であり、その使い方がみごとなので、以下に抜き出してみました。

 

ふれあう素足が ほてりほてり

 

ここで煙草を ぷかりぷかり

 

ヤカン煮立って カタリカタリ

 

くらべてみようか そろりそろり

 

浮かれ調子が ひゃらりひゃらり

 

冷たい肌も ぽかりぽかり

 

 オノマトペを重ねることで、具体的な言葉以上に状況をイメージさせるので、曲なしでも詩として完結しているんですよね。以前にご紹介した『プカプカ』も似たようなスタイルですが、擬音・擬態語が日本ほど豊かではない英語圏ではあり得ない歌詞ではないでしょうか。ということは、海外に出せば再びヒットする可能性も高いとボクは思うんですけどね。

 

今夜もおふとん一組で、

きみと僕とで抱き合えば

冷たい肌も ぽかりぽかり

二人もう一度、夢の国

 

 いいなぁ、こんな感じ。ボクも「夢の国」に行ってみたいよぉぉぉぉぉ。

 

ああ ああ 春うらら

闇の中に漂う二人

ああ ああ 溶け合って

朝の来るのも 忘れそう

 

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2018年4月12日 (木)

ズボンの裾

 

 日頃はジーンズで無頓着に過ごしているのですが、たまにジャケットやスーツで革靴を履いた時に、ズボンの裾の長さというのは、男にとって永遠の課題ではないかと思うことがあります。

 

 上着に関しては、腕をおろした状態で袖口からシャツが1~2㎝ほど見える長さというのが不文律になっており、それを知りさえすれば話は簡単。長すぎたらリフォーム屋さんで合わせて詰めて貰えば一丁上がりですが、ズボンの裾はそうはいきません。

 

 なぜならトレンドがあるからで、近年はどんどん裾が短くなってきました。それだけでなく、素足に革靴ですからね。ここはイタリアかよ、って感じです。厳密には短い靴下を履いているみたいですが、要するにくるぶしを見せる「抜け感」が流行らしい。

 

 それに対してオッサンたちのズボンは、靴の上に布が蛇腹のようにたるんでいるのが常識的です。これは「靴下を他人に見せるのはみっともない」という、これまた伝統的な不文律を守っているからですが、真冬ならともかく、今のように暖かくなってくると、どうにも長い。長すぎて見た目に暑苦しいじゃんかとボクだって感じます。

 

 だったらさぁ、どんな長さが適正なんだよ、と思いますよね。それこそが難しいところなのであります。長さだけで済む問題ではなく、裾幅が大いに関係してくるからです。

 

 たとえばロジャー・ムーアが主演していた頃の007映画なんか典型的ですが、ズボン自体がいまよりはるかに太いんですよね。あんな大きな袴みたいなズボンを履いて強敵と格闘できるのかなぁと心配させるくらいです。

 

 ともあれ、裾幅が20㎝をはるかに超える幅広の場合は、これを綺麗に着地させるためにはある程度の長さが必要になってきます。でなければピノキオみたいになってしまう。そこで、後ろ姿でいうなら、地面につかないカカトぎりぎりに合わせていたようです。これなら全体として靴を覆うようにスムースなカタチが出来上がります。

 

 それが、なぜだかあれよあれよという間にズボンが細くなっていき、裾幅は20㎝程度からそれ以下が普通になってきました。中には、そんなズボンにどうやったら足が入るのか首を傾げるほどの極細を履いている若い人も見かけます。近頃は女性のジーンズも足にぴったり張り付いたタイツみたいになっていますけどね。

 

 とにかく、ズボンの裾幅が細くなれば、足元のシルエットもシャープにしないと格好がつきません。そこでたるみをなくした短いスタイルへと発展してきたわけですね。ビジネススーツの場合は裾が「靴の甲にかかる程度」=ワンクッションからハーフクッションで靴下を見せない長さが推奨されてきたのですが、渋谷あたりではブラックスーツにもかかわらず短い裾の若者を結構見かけます。こんなことは「首相案件」でも「官邸主導」でもないので、着る奴の勝手ですけどね。

 

 流行に従うか、それとも伝統的な不文律に従うか。さらにズボンの裾は1~2㎝で印象がガラリと変わるので、自分の望むシルエットが実現できる寸法を見つけるのが最も大切なことになってきます。裾の調整は、切って短くすることはできても、元に戻したり伸ばすことはできないので、自腹でトライアル&エラーを繰り返していくのが男の宿命といえるでしょう。そこに流行も少なからず絡んでくるので、「永遠の課題」なんて大げさに表現したのですが、尻から下のラインを綺麗に見せられるズボンとの出会い自体からして相当に困難なことなのです。ましてや幅や長さをや、ってなことになるわけですね。

 

 そんなにも神経質になったところで、他人が気にとめることなんてほとんどありません。だったら、どうせ自分のためなんだから、自分自身が納得できればいいじゃんかと。大変に素朴な結論で恐縮ですが、紳士は泰然自若が基本。あれこれとトレンドを追いかけるのも何だかなぁとボクは思うんですよね。

 

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2018年4月11日 (水)

不勉強

 

 敢えて自分を棚に上げて恥ずかしながら文句を言わせていただくと、皆さんちょっと不勉強が過ぎるのではないでしょうか。たとえば昨日も、海外旅行用携帯変圧器に関して、その発売元に対象となる電化製品を問い合わせたのですが、どうにも要領を得ないんですよね。

 

 日本の交流電圧は衆知のように100ボルトですが、ヨーロッパあたりでは230ボルトです。世界的には日本の100ボルトのほうが異常に低いのですが、このため国内仕様の家電は海外では使えません(海外にも対応したスマホやパソコンなどは別)。通電して数秒後には壊れてしまいます。それでも使いたければ、専門用語で「ダウントランス」というのですが、電圧を下げる変圧器が必要になります。その機器に関して、ちょっとした疑問があったので問い合わせたのですが、最初の女性担当者があまりにも無知でありまして、まるで噛み合わないやりとりをした挙げ句の果てには「現地で使ってみていただいて……」と怖しいことを平気で言うのです。それで壊れたら海外ですから取り返しがつかない。だから事前に確認しているというのに、こんな回答はあり得ないじゃないですか。それでちょっとキレてしまって「これでは子供相談室だから、もうちょっと分かる人に代わっていただけませんか」と。

 

 続いて出てきた男性担当者が頼りになるかといえば、これまたボクと知識は大差ないんですよね。問い合わせの内容は面倒なので省略しますが、その応答の中で出てきた「ヘアドライヤーは使えるようです」という説明が不勉強を感じさせる発端でした。というのも、その変圧器には、使用できない電気製品として「ACモーターがついているもの」と警告されていたからです。ヘアドライヤーにファンがついていなければ熱風が出てくるはずはなく、団扇や扇子じゃあるまいし、ファンをモーター以外で回せるはずがない。「どういうことですか」と問いかけると「えーと、すいません。分からないので調べてみます。後ほど連絡させていただいてよろしいでしょうか」。呆れるほど正直な答だったので、こちらも電話番号と名前を教えたのですが、実際問題として、ボクはヘアドライヤーが設備されていないホテルに泊まったことがありません。三つ星が常宿なので、いわゆる普通のホテルに泊まる限りはヘアドライヤーを持参する必要はないわけです(事前に確認してくださいね)。女性で愛用のヘアアイロンなどがないと髪が思うようにセットできないというなら別ですけどね。考えられるのはアジアの安宿ですが、そんなところに滞在するバックパッカーが、変圧器とヘアドライヤーをわざわざ荷物にするかなぁ。ちなみにボクは、これまでの人生でヘアドライヤーを使ったことは数回しかありません。熱くてすぐにやめました。普通の短髪なら洗った後に30分も放っておけば完全に乾きますよ。

 

 それから3時間ほど経過して、問い合わせたこともすっかり忘れた頃にコールバックがありました。

「製造元に問い合わせたのですが、ヘアドライヤーはACモーターでなくてDCモーターで動いているそうです」

 理系の人なら、そんなことが今頃分かったのかと驚くかもしれません。ボクは文系ですが、何かの取材の時に、家電の多くは内部でAC=交流からDC=直流に変換した電力を使っていると聞いたことを思い出しました。ただし発電所からの送電は衆知のように交流なので、この無駄をなくす「直流送電」が注目されたことがあるからです。

 

 いずれにしても、変圧器という専門的な機器を発売している会社の対応として、あまりにも稚拙と思いませんか。発売だけで中身は分からんというなら、最初から製造元のしかるべき担当者に電話が行くようにしておくべきでしょう。

 

 それより何より、自分が売っている製品をもうちょっと詳しく知っておこうよ。知識というより、愛着や熱意というべきかな。もしもボクなら、1度くらいは自分でいろいろな電気製品を持参して海外で試してみるけどなぁ。今時、ヨーロッパでも10万円あれば往復できますって。そういう気持ちも意欲も知識すらないのに、外部からの問い合わせ担当者になるってのはどういうことなんだろうと、電話を切ってから深く嘆息したのであります。

 

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2018年4月10日 (火)

2枚のハンカチ

 

 あくまでも個人的な意見なので、何をどうしろと言うつもりはありませんが、目下のところ絶賛大流行の背中のリュックがそんなに便利ですかねぇ。どこに行って何をしようとしているか知りませんが、果たしてそんなリュックに入れるほどの荷物を持って移動する必要があるのでしょうか。

 

 それはともかく、混み合った電車の中で背中のリュックは大変に迷惑なのであります。ボクは幸いにそこそこの身長なので、リュックの上のほうがアゴに当たったりする程度ですが、背の低い男性や女性は顔面がふさがれて息苦しくなるのではないでしょうか。このため、メディアでは「電車などの中では下に置くか手に持ちましょう」と指導しているようですけど、それを励行している人をあまり見たことがありません。人間というのは背中に目がついていないので、想像力に欠けた人は他人迷惑が分かりにくいんですよね。

 

 ちなみにボクは、仕事で外出する時以外は完全に手ぶらです。パーティなんかも同様で、ドレスアップしたスタイルに手荷物は不粋極まりないですよね。女性は別なので念のため。キラキラ光るラメを敷き詰めた小さなポーチなんかは、ドレス姿をより印象付ける華やかなアクセントになります。

 

 だから仮にリュックを持っていたとしても、そこに何をいれるのか見当もつきません。女性が持つ柔らかい大きなバケツみたいなバッグも不可思議な持ち物ですけど、各種の化粧品とかクリームとかブラシとか手帳とかスマホとか中にはゴキブリの死骸とか、ま、いろいろ荷物はあるんでしょうね。

 しかしながら、たとえば男がデートなんかで繁華街に行くとして、いったい何が必要というのでしょうか。最低限として、カネとカードと携帯電話と2枚のハンカチがあれば十分じゃないかとボクは思うんだけど。

 

 あ、ここで注釈しておくと、2枚のハンカチのうち1枚はもちろん自分のため。でね、もう1枚は女性のためなのです。だから新品で真っ白が大原則。このところ、というか、正直に言えば今まで使ったことはありませんが(笑)、女性が涙を流すような事態に遭遇した時のために、これだけは無駄と知りつつも常備するのが習慣となっています。紳士たる者は、淑女の緊急時を想定した準備を怠ってはいけないのです。

 

 では、リュックの中に、あるいはズボンや上着のポケットの中に、そうした2枚目のハンカチを忍ばせている人がどれだけいるかといえば、調べたことはありませんが希有でしょう。つまりは、皆さん流行を追っかけてカバンを背負ったから荷物が増えるだけで、荷物があるからリュックを背負っているわけではないはずです。そんなことが分かってしまうから、渋谷に行くたびに、何だかなぁと吐息を漏らす今日この頃なのであります。

 

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2018年4月 9日 (月)

オーラの正体

 

 かつて知人が新興宗教にハマってしまった時に強く感じたことですが、それが最近は様々な形に発展しているような気がしてなりません。

 

 神様はあるべくしてあるのではなく、それを必要とする人たちがどんどん祭り上げていくということです。人間というのは、どこにでも、どんなことにも、誰にだって「神」のようなものを見出そうとするんですよね。その心境が劇的に際立つのが、思ってもいなかった不幸に見舞われた時です。衝撃があまりにも強くて自分を自分として維持できなくなり、どこかに「すがれる」人を見つけてしまう。その人こそが神であり、信仰を生み出すってことになるわけです。

 

 「イワシのアタマも信心から」と言われるように、これは決して珍しい説ではありません。それでも神様を必要とする人たちがいる限りは、預言者や教祖たちが陸続と登場してきます。霊的な能力やカリスマ性があろうがなかろうが、「私が預言者です霊能力者です神様です守護霊も見えますよ」と告知するだけで、ある程度の数の人たちは寄ってくるわけですな。そうなれば、彼の背後にオーラだって見えるようになります。これをアウラなどと気取って言う人もいるようですが、霊的な放射体が実在するわけでも何でもなく、見る人がそれを見ようとするから見えるってことなのです。オーラの正体は、その対象者が放つものでは決してなく、それを見た自分自身の中にあるわけですね。

 

 こんな当たり前のことをわざわざ書くのは理由があります。取りあえずは権力関係かな。総理大臣がまさか神とは思いませんが、官邸に人事権を牛耳られたせいか、官僚がそれに近い見方を強制または自覚したからこそ「忖度」を繰り返して公式文書を「改ざん」「隠蔽」してしまったのではないでしょうか。こんな例は過去にいくらでもあって、たとえばワンマンで独善的な社長はしばしばカリスマのように祭り上げられます。それを批判すると、信者たちからボコ殴りのように扱われたりするんだよな。業績がイケイケのうちは尊敬すべき神様を続けられますが、いったん経営がうまくいかなくなると地に墜とされて、掌を返すように袋叩きで悪罵の限りです。某居酒屋チェーンの創業者だって、『青年社長』(高杉良・著)としてメディアが派手にもてはやした時期があったんですから。

 

 そうした風潮が、ネットやSNSという新しいコミュニケーションツールを持つことでますます加速されているようにボクは思うわけです。「神ってる」なんていう面妖な造語もあるように、神様に祭り上げられるのも早いけど、墜ちるまでの期間も圧倒的に短い。オーラがピャイーンと輝いたかと思うと、スっと簡単に消えてしまう。おかげで醜悪な大事件すら簡単に忘れてしまうので、優秀な研究者が自殺に至ったにもかかわらず、その原因を作った女性が「今度は芸能界?」だもんね。彼の奥様のやりきれない心情に想いが及ぶってことはないのでしょうか。生き残った者が勝ちなのかなぁ。

 

 大学だって実は同じことで、日本でトップとされる東大や京大や有名私大が特別なオーラを放っているわけでもないのに、進学率が上がれば上がるほど神格化されていきます。けれども、日本の大学がグローバル社会のランキングでは下位に過ぎないと分かれば、今度はハーバードやコロンビアが神様ですよ。その大学に入学したからといって、オーラが等しく分け与えられるわけでもないのに、そのように見てしまう人が少なくない。

 教育機関というのは畢竟、何を教えて何を学ぶかということ以外に評価はあり得ないだろうとボクは思うのですが、その中身ではなく、オーラのほうに惹かれる人が圧倒的に多いんですよな。前述したように、オーラの正体なんて見ている人間の側にしかあり得ない。だからね、アウラもそうだけど、オーラなんて根拠のない言葉はもうやめようよ。

 

 オーラというのは、自らの依存心をカッコ良く置き換えた言葉に過ぎないのです。自由というのは、自分の好き勝手にできるということでは決してなく、そうした依存心から毅然として自立するという意味ですよね。世論調査やアンケートや大多数の意見に引きずられることなく、自分自身でオリジナルに物事を判断していく。そういう人たちが増えることを知識社会というのではないかとボクは思っていたのですが、実態はむしろ逆になりつつあるように見えてしまうのです。

 

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2018年4月 6日 (金)

21万6000円

 

 まるっと2年は通っていた歯科治療が完全に終了しました。どれだけ歯の神経を抜き、ギュイーンと削りまくったことでしょうか。日曜の深夜にひどい歯痛に悩まされ、翌朝早々に歯科医に駆け込んだこともあります。今ではそれも懐かしい思い出……、になるはずもありませんが、奇妙な達成感があることも事実です。

 

 何しろ、お恥ずかしいことですが、かなり若い頃から歯医者に行っていたものの、途中で脱落することが再三でありまして、治療を完全に終えたことが一度もなかったのです。今の事態は、その積み重ねがもたらした因果応報ではあるので仕方ないとは思いますが、最後の最後にツケが回ってきたんですよね。

 

 それが、21万6000円(消費税込み)であります。

 

 口の中はブリッジでつなげた義歯だらけで、ほとんどサイボーグ状態といってもいいのですが、最後まで残してきた右の上側の治療が健康保険の対象外になるというのです。合計で10本にも及ぶのですが、すべてをブリッジでつなげることができず、途中でジョイントみたいものを挟んで連結しないと真っ直ぐにならない。この処置は保険に含まれてないので自費治療になると説明されました。さもなければ、ある歯の神経を抜いて削り直すことになるというのです。保険と自費治療。「どちらにしますか?」と迫られたら、普通は痛くないほうを選ぶじゃないですか。

 

 すべて自費治療になってしまうインプラントに比べればずっと安いとはいうものの、何しろ21万6000円だもんね。ドラム型の全自動乾燥洗濯機と高級ジャケットを一気に購入できる金額です。そのカネが口の中にすーっと消えていく感覚、って分かりますかねぇ。

 

 とはいえ、おかげさまで両方の歯でモノを噛めるようになりました。こんなことは10数年以上なかったことです。平気で大口を開けられるので、気分は悪くはありませんが、それにしても21万6000円。これから10年そのままなら、1年あたり2万1600円。月なら1800円。毎日に直せば60円ほどになります。1日に3食として1回あたり20円かぁ。それなら何とか納得できるかな。

 

 こんな計算をするボクって、ケチなのでしょうか。無駄な浪費もかなりしているんですけどね。とにかく、この投資を回収するまでは簡単には死ねないという自覚を強くしているところでございます。

 

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2018年4月 5日 (木)

無金利社会(後)

 

 昨日の続きですが、ボクが提案した「無金利社会」では、逆にカネを貸しても金利がつかないことになります。すでに銀行預金が似たような状況になっていますが、貯金しても利子がつかないということは、年金だって掛け金を超えるような水準の分配を期待できないってことになるわけですな。日本の場合は投資運用というより、世代間扶養を原則としてきたので、もしかすると金利はあまり関係ないかもしれません。それよりも若年人口の減少が大きな問題なのかな。

 

 ただし、各種の保険制度は設計をやり直さなきゃいけません。契約者からカネを集めるだけでなく、それを運用して利益を得るのが保険会社の基本的なスキームなので、金利がかなりのウェイトを占めていると考えられるからです。

投資と金利は関係ないように思われますが、借りたカネを返す、または利益を分配する時には金利の動向が大きく影響するはずです。

 

 つまり、投資であれ貸付にしても、金利が絶対的に関係してきますから、それが資本主義の原動力であると同時に、ホルモンの役割も果たしているんですよね。経済が低迷していれば、金利を下げてカネを借りやすくする。過度に景気が過熱してインフレが懸念されるようになったら、金利を上げてスローダウンさせる。カネが経済の血液とするなら、まさに金利はホルモンといえるじゃないですか。早い話が糖尿病のインシュリンみたいなものです。

 

 そんな金利を禁止すれば、甚大な影響が出てくるのは当然です。経済学に素人のボク(だからこんな過激な提案ができるのですが)にはとても説明しきれませんが、少なくともカネを貸しても、それ以上のカネが得られるわけではないので、資産格差が過度に拡大することはなくなるはずです。これが最大最上のメリットですけど、銀行をはじめとする金融業は大打撃を受けるでしょうね。金利があるからややこしかった経済理論も必要なくなるので、経済学者も職を失う可能性があるかな。

 

 こう考えていくと、相当にヤバイ事態になってしまうように見えますが、もっと大きな効果を見据えて欲しいのです。つまりですね、金利をなくすことで、ようやく人間は資本の奴隷から解放されるに違いないとボクは考えているのです。

 

 大会社の社長だって大株主でない限りは“雇われママ”であって、資本家に従わなきゃいけません。では大株主にあたる資本家は誰かというと、近年は個人でなく「機関」なんですよね。代表的なのは年金の運用団体です。莫大な資金を動かす組織としての「機関投資家」は、どうしたって資本が自ら増殖しようとする意思に従わなきゃいけない。それに逆らえば法的に罰せられるくらいですからね。もともとは個人の小さな掛け金なのに、それが大きくまとまって資本というカタチになると、人間を超えた怪物のように意思を持つ存在に変貌してしまうのです。

 

 このように突き詰めていくと、ボクたちは様々な形で資本に使われていることに気づきませんか。

 

 いわばカネが神様で、人間はそれに奉仕する司祭や使徒と言い換えてもいいでしょう。これではダメじゃんかと、カネ=資本の束縛から逃れようとしたのがマルクスやエンゲルスではないでしょうか。しかしながら、経済を政府や官僚が支配・管理する共産主義や社会主義は人間から活力を奪ってしまうんですよね。景気循環を繰り返さざるを得ない自由&資本主義よりも、計画経済のほうが合理的であっても、人間の気持ちはそうはいきません。頑張った会社や人も、頑張らなかった会社や人たちと収入がほとんど同じだったら、創意工夫の意欲を失うのは当然ではありませんか。

 人間が頑張るのは必ずしもカネのためだけではありませんが、それについてはいつかテーマにするつもりです。

 

 とにかく、おこがましいことを承知でいえば、共産主義や社会主義は、そうした人間的な要素を無視しているのではないでしょうか。現在の状態を著しく毀損することなく、個人の意欲を尊重しながらも、富が自己増殖することで過度な格差や弊害を生み出さないようにするためには、やっぱ金利をなくしたほうがいいんじゃないですか、と。

 

 専門家の皆さんは大笑いするでしょうが、フランス革命が勃発するまで、封建社会の序列をひっくり返せるなんて誰も考えていなかったはずです。日本の場合は外圧にしても、幕府があれほど早く瓦解することを予測できた人は希有でしょう。だからね、すぐに無金利を施行するのでなく、特区かなんかで実験的にコミュニティを作ってもいいじゃないですか。あ、そうするとカネがどんどん外部に流出するかな。

 

 いずれにしても、ボクたちは自由に生活しているように見えて、実はカネの奴隷に過ぎないことだけは気づいて欲しいなぁと思うのです。

 

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2018年4月 4日 (水)

無金利社会(前)

 

 民主主義も資本主義も、いろいろ問題はあるけど「そのかわりになるようなものがあるなら持ってこいよ」という感じで今日に至っております。おそらく当分は変わりないでしょうが、そろそろ限度に来ていることも事実だよなと思いませんか。

 

 技術革新と人工知能の進展で、おそらく早晩、人間は仕事の多くを失うことになるでしょう。となれば生活の糧をどうすんだよとなります。仕事をしなくてもカネが平等に分配されるベイシックインカムという方法も実験段階にあるようですが、「究極のバラマキ」とも揶揄されるように、ちょっと無理があるような気がします。

 

 というのも、お金に対する理解や解釈はいろいろとあるけど、基本中の基本は「地域通貨」と同じく、他者への奉仕の対価として得られるものだと考えられるからです。

 

 なのにベイシックインカムを認めれば、つまりは何もしなくたって生きていけることになってしまいます。これは「人類の進歩と調和」にとってちょっとヤバイことになるんじゃないかな。しかしながら、技術や経済がここまで加速されると、それについていけない人や疲弊する人だって出てきます。資本主義は、まさに資本というカネが主役であって、人間を尊重するものでは決してないことにそろそろ気づこうよ。

 

 そこそこに進歩しながら、もっと豊かに、もっと自由に、もっと楽しく生きていくことはできないものでしょうか。今の制度では他者を踏みつけにすることでリッチになれます。そうじゃなくてさ、社会貢献や他者を助ける人たちがリッチになれる社会がボクの理想なのであります。

 

 そんなことを考えていて、惰眠を貪る犬の福助を見てハッと思い付いたのであります。経済の専門家が聞いたら呆れるかもしれませんが、「金利」こそがすべての悪の元凶じゃないかなぁ。少なくとも資本主義を異常に加速させている原因は、金利以外に考えられないのです。

 

 前述したように、カネが奉仕に対するご褒美とするなら、カネだけが単体で利息を生み出すのはどう考えてもおかしいじゃないですか。だから「地域通貨」は金利が伴いません。それと同じことを世界的にやれば、もうちょっとスローダウンできるんじゃないかな。

 

 これはボクのオリジナルではなく、イスラムの聖典では金利(リバー)を禁じています。不労所得の増大が社会に不正義をもたらすことを危惧したとされていますが、これは素晴らしい慧眼といっていいんじゃないかな。マルクスよりもはるかに優れた改革思想になり得るとボクは思うのですが、現実にはイスラム社会も資本主義の例外ではあり得ず、間接的な方法で金利を取るようになっているらしい。

 

 では金利をなくしたらどんな社会が生まれるのでしょうか。たとえばカネを借りても利息がつかないので、借りたカネを上回るほどの仕事をしなくてもいいとなります。仮に年利4%なら、100万円を借りたら104万円を稼がなきゃいけません。それでやっとトントン。けれども金利がなければ、4万円分は自分の利益になるじゃないですか。だから無理して頑張る必要もなくなります。リッチになりたいと頑張ることもできますからね。

 

 何よりも、ある程度蓄えられたカネが勝手に膨張していくことで所得格差を拡大させるということがなくなるわけですよ。

 

 ボクは以前から資本主義は限界にきていると感じており、それに代わる新たな社会制度を模索していたのですが、ってちょっと大げさですけど、ようやく解決の糸口を見出したような気がしたのであります。

 

 長くなるので、明日のブログで続けます。

 

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2018年4月 3日 (火)

男のサガ

 

 どういうわけだか不明ですが、功なり名を遂げた男って、しょうもない女にひっかかることが少なくないようです。

 

 国内を話題にするとはばかられるので、アメリカ・ハリウッドを例にすると、とりあえずはシルベスタ・スタローンかな。1985年から2年間だけ結婚した、ブリジット・ニールセンという女優さんがいます。彼女を「しょうもない」というのは失礼かもしれませんが、とにかく不似合い極まりないのです。まず身長が相当に違う。モデル出身だけあって、スタローンの肩に腕を軽く乗せられるくらい背が高い。それでも肉感的な色気に満ちていたので、そのあたりに惚れてしまったに違いないとボクは思います。

 

 ただし、それだけのことで、演技力もなければ深い心理描写も無理。あくまで映画で見ただけの印象ですが、入口のドアを開けたら裏側に出てしまったというくらい奥ゆきが感じられない女優さんです。化粧はインパクトあるんですけどね。さらには某監督と浮気したせいか、早々と離婚に至りました。一時はアルコール中毒になってリハビリセンターに入所していたこともあるようですが、2014年に公開された映画『エキスペンダブル・レディズ』に出演しています。ボクは衛星放送でチラリと見たことがあるのですが、要するに低予算のB級映画なわけです。あくまで男の側の感想を無遠慮に言わせていただければ、スタローンは「なんでこんな女と付き合っちゃったのかな」と述懐しているんじゃないかな。

 

 まぁね、それでもグラマラスなボディとご一緒できたんだからいいじゃんかと慰めることもできますが、それすらできないのがクリント・イーストウッドなんですよね。2回のアカデミーも受賞した堂々たる大御所の映画監督ですけど、47歳くらいの頃から10年ばかり、ソンドラ・ロックという女優さんを自分が監督する映画に主演させてきました。『スピード』などに出演していたサンドラ・ブロックではないので間違えないように。

 

 やせ気味で神経質でヒステリックな印象も与える性格が悪そうな女優さんでありまして、およそ世間的に受けるタイプではなかろうとボクは思うのですが、若きイーストウッドはひいきのしまくりで、挙げ句の果ては人気シリーズ『ダーティハリー4』にもヒロインとして出演させています。

 

 傍目には「何でまた?」と思わせる組み合わせは、おそらくほかにもあるはずですが、瞬時に燃え上がった炎は必ず消える時がきます。「あらららら? オレってどうしてあんな女に」と覚醒するのですが、女性のほうは一度掴んだ天界からの蜘蛛の糸をそう簡単に放すはずがありません。ソンドラ・ロックも慰謝料を求める訴訟を起こしたとウィキペディアでは紹介されています。

 

 恋や浮気なんてしょせんは「流行病(はやりやまい)」みたいなものであり、「蓼食う虫も好き好き」ですから、無関係な外野が何だかんだと言うことではありません。ただし、これが会社の社長とか政治家とか、何らかの権力を持つ男となると、被害はあちこちに拡大していくことになります。

 そして、やがては城が傾いたりすることになるわけですな。それもまた男の甲斐性と言えば確かにそうなのですが、人間というのは、男も女もつくづくしょうもない生き物であるなぁと。だからといって結論は何もありません。やっぱ「一期は夢よ、ただ狂え」ってことなのでしょうか。

 

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2018年4月 2日 (月)

時間という財産

 

 若い頃はカネのなさに幻惑されて、時間こそがかけがえのない財産であることに気づくことができませんでした。

 

 年長者に比べて、自分が持っているものはすべて劣っているように感じたものです。だから、若さに伴う未熟や欠乏から一刻も早く逃げ出したいといつも考えていました。けれども、そこそこの年齢になって分かるのは、時間こそが人間に与えられた唯一の富といっていいんですよね。

 

 その時間を費やして経験や知識、地位や資産などと交換していくことが、人生の積み重ねみたいなものになっていくわけです。もちろん無駄に浪費してしまう人もいますが、それでも時間は後戻りしたり、立ち止まってはくれません。もちろん貯め込むことも不可能です。

 

 いずれにしても、ジーサンと若い人の決定的な違いは残された時間なんですよね。たとえば美女をめぐって、若い人とジーサンが競合したとしましょう。そのジーサンが仮に功成り名を遂げた大金持ちであろうと、若者の持つ時間にはどうしたって勝つことはできないのです。財産目当てですり寄る女性がいることも否定しませんが、ごく一般的に恋愛は未来に向かうことが前提となるので、残された時間が乏しいというのは致命的に不利なのであります。

 

 このように時間が貴重であることは誰もが認識していますが、それを何かと交換していくのが人生といっても過言ではないとボクは思います。前述の例なら、聡明で優しい妻であり、幸せな結婚生活だったりします。あるいは途方もない大冒険かもしれないし、莫大な財産と交換することだって不可能でありません。

 

 時間さえあれば、およそいかなるものにも交換できるということを教えてくれる人はいませんでした。仮に教えられたところで、日々刻々と過ぎゆく時間と多忙の中で意識するのは困難ですけどね。

 でも、若い人ほどたまにはそうしたことを自覚したほうがいいよなと、新社会人を見かける春がくるたびに苦い後悔を込めて思うわけです。

 

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