みんなと同じ?
みんなが歩いている方向に行こうとするなら、伝統的あるいは既成の序列が大きく影響します。たとえば東大や京大といった入試偏差値が上位の大卒者が先頭集団となり、無名の私立大学卒はずっと後ろのほうになります。これはボクの意見では決してなく、社会もしくは大企業などの紛れもない新卒者評価であり、かくて入社を待つ列の途中でガシャンと入口の扉が閉じられることもあるわけです。
大学進学率はとっくに50%を超えているので、高卒ましてや中卒ともなれば、実際問題として従事できる職種も限定されるかもしれません。憲法第22条で「職業選択の自由」がうたわれていても、会社も雇用者を「自由」に選ぶことができるので、現実は必ずしもそうはなっていないですよね。しかも、それについてちょっとでも文句を言おうものなら、列の前のほうから「オレたちは必死で勉強したんだから当然じゃないか」という大合唱が聞こえてくるはずです。幼少時から私立や学習塾などに投資してきたのだから、という理屈もありますよね。まったくその通りで、学校の成績には家庭の経済格差が抜きがたく関係しており、勉強したくてもできない、あるいは意欲が殺がれてしまう環境で育つ子供が少なからずいます。ところが、そうした事情は自己責任や自助努力の不足として隅に追いやられてしまうことが少なくありません。借金にはなるけど、公的奨学金だってあるじゃないかと。
こうした社会の事情や通念にいくら抗議したところで、そんなもん受け入れられはずがありません。かくて貧困や格差は親から子へと世代間を継承していく。アメリカなんて完全にそうですから、すでに日本もそうした気配を強めつつあります。政治の支配層が社会的な先頭集団である限りは、その列の順序を入れ替えるような大改革をやるはずがないじゃないですか。
なのに、ですよ。どうして、なぜ、みんなと同じ方向を見て、同じ列の中にいようとするのかなぁ。前述したように、既成の価値観と常識で作られた列の中にいる限りは、後ろから先頭に上がっていくのは困難じゃないですか。
もしも自分がトップ集団にいるならそれで満足できるでしょうが、下位の集団の中にいて、その順位にもしも不満や不平があるなら、そんな列からさっさと飛び出せばいいのにと、ボクは思うんですよね。
もちろん列の中にいるほうが安心であり安泰のような気はします。そこから外に出るのはとてもリスキーです。だから「ここでいいや」と思うなら仕方ありません。でもさ、どうにも自分の能力が活かされていない、とか、これからもこの順位が続くのかよと絶望しかけているなら、できるだけ早くそんな列を出てしまおうよ。物理的または社会的には無理にしても、精神性や知性、つまり発想や創造性をそんな列の中に頑なに留めておくことはないじゃないですか。
人と同じことをしていたら、人と同じにしかなれません。人と違おうとするなら、人と違うことをやらなきゃ。みんなが毎日のラッシュアワーを我慢して通勤しているなら、2時間くらい早めに会社に行くとかね。そういうことを、果たして学校で教えているのかなぁ。ボクには延々と続く人間たちの長い長い列が見えて仕方がないのです。でもさ、いったいどこに行こうというのでしょうか。
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