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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2018年7月

2018年7月31日 (火)

言葉が軽いなぁ

 

 「神なんたら」という言い方が出てきたのは、いつ頃からでしょうか。それほど最近ではないと思いますが、ここ数年は使用頻度がものすごく高くなり、それに伴って価値がどんどん下落しています。つまり経済におけるインフレ状態ですな。

 

 「過ぎる」というのも同じくらいの時期に出現して、やはりインフレ状態となり、今ではトレンドオフになったといっていいでしょう。「美人過ぎる」と形容された市議会議員はまだいるのかなぁ。ボクはそれほどとは思いませんでしたが。

 

 というわけで、ボクだけかも知れませんが、近頃は言葉が軽い、あまりにも軽すぎるんだよな。かなり大昔に「日本の男は奥様や恋人に愛しているとか好きとかを言わなすぎる」みたいな評論が目立ったことがあります。それから20年ほど過ぎると、今度は言い過ぎだもんね。何かといえば「愛している」なんてさ。ウソつけ、やりたいだけだろってね。愛なんて言葉は、江戸時代には違う意味で使われていたんですから。有名な直江兼続の兜だって、愛染明王とか愛宕権現という戦いの神様にあやかろうとしただけでね。

 

 その真偽はさておいても、「愛している」という言葉を何度も使うと、逆にボロが出て次第に信用されなくなるのは分かりますよね。むしろ、言わなくてもお互いに分かり合えるほうが上等の愛じゃないかと。少なくとも「引き算派」のボクとしては、愛していると口に出さなくても、相手に愛を強く感じさせるようなことをしたい。そんな大切な言葉は、今生の別れの時までとっとけよ、と思うわけであります。

 

 そして、いよいよ真打ちとして登場したのが「異次元」なんですよね。これまた便利な言葉で、「異次元の金融緩和」から始まって、「異次元の友達づきあい」「異次元のなれ合い」「異次元の忖度」「異次元の文書改ざん」に続いて、「異次元の背任」「異次元の収賄」「異次元の裏口入学」「異次元の接待漬け」と、いくらだって言えてしまうんだよな。次は「異次元の居座り」かな。ああ、何とまぁ言葉が軽くなってきたことか。

 

 今年の夏で戦後も73年目。「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」と喝破したジョン・アクトン(1834~1902年)の言葉を噛みしめながら、この国は戦争で亡くなった英霊や民間人犠牲者を本気で追悼しているのかなぁと、つくづく不快に感じるのであります。もしも彼らが霊となって帰ってきたら、今の日本にどれだけ失望するでしょうか。

 

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2018年7月30日 (月)

エアコンが死んだ

 

 何もこんな日に限って、というタイミングで悪いことは起きるものです。このところの豪雨や台風の被害とは比べものになりませんが、事務所のエアコンが壊れてしまいました。

 

 先週7月26日に「Macが死んだ」とご報告させていただいたのですが、それを踏まえれば「エアコンが死んだ」ということになります。悪いことはそれだけではないのですが、クソ暑いシーズンだけに、冬ならまだしも、どうして今なんだよとボヤかずにはいられません。

 

 いくら設定温度を下げても、生ぬるい風しか出てこないので、ヘンだよなと室外機を見てみると、普段は細いホースから水が出ているのに、そうした気配はまったくなし。つまり、モーター関係の機能は支障がないけど、冷媒が抜けているとしか考えられません。昔はエアコンや冷蔵庫の冷媒にフロンガスが使われていましたが、オゾン層を破壊することが判明したため。現在ではノンフロンとなっています。ちなみに、フロンガスは天然には存在しない化合物で、潜水艦の冷房のために開発されたと聞いたことがあります。とはいっても人間のためではなく、魚雷などの爆薬が熱で発火することを防止するためだったようです。

 

 てなことを想い出しながら、室内機を念のためにあれこれチェックしてみると、なななななな何と「99年製」とあります。コロリと忘れていましたが、この事務所に引っ越したのは2000年で、その時に購入したんですよね。つまり、今年で18年を経過していたのです。保証期間はもちろん、補修パーツの法定在庫年数もはるかに越えているので、メーカーに文句もいえないほどの長さですよね。暑い日も寒い日も元気で働いてくれてご苦労さんと冥福を祈ってやりたいところですが、台風が行ってしまえば再び猛暑がやってくるのは確実なので、そんな余裕はありません。

 

 そこで急遽ネット通販を調べて、出力と室内機のサイズだけをチェック。似たようなものを探し出して、すぐに購入ボタンを押しました。だからコモディティ商品はネットが主流になっていくんですよね。ただし、取り付けは8月半ば。これから2週間も我慢しなければなりません。

 

 けれども皆さん、安心してください(心配なんかしてないか)。実は、ボクの事務所にはもう1台、まったく同じ型のエアコンがあるのです。前述した引っ越しの時に、こんなこともあろうかと、大型で1台ではなく、敢えて小型を2台購入したのです。取り付け場所の問題があったんですけどね。

 

 もう1台のほうは幸いに元気を装っていますが、死んだエアコンと同じ18年物なので、いつ壊れるか分かったものではありません。仕事にも影響するので、スイッチを入れるたびにハラハラドキドキであります。それにしても、Macに次いで、そのほかも含めて、またしても18年問題。この数字は、皆さんも悪魔の祟りとして記憶しておいたほうがいいかもしれませんよ。

 

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2018年7月27日 (金)

意余って言葉足らず

 

 古今和歌集で、紀貫之は在原業平の句を「その心余りて言葉足らず。しぼめる花の色なくて、にほひ残れるがごとし」と評したそうです。花が萎んでしまって色を失ったのに、香りだけ残ったようなものだと批評したわけですな。

 

 そういうアンタは何者なんだと調べてみたら、三十六歌仙の1人だってさ。しかも「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と女性に化けて書きつけた「土佐日記」の著者だそうです。何てことはない、ネカマの元祖じゃないか。

 

 それはともかく、この「意余って言葉足らず」は、ボクのようなライターではしばしば頻繁に起きることです。情動や事実が100あったとして、その20~30しか書けていない。若い頃に、そんな雰囲気を感じたデスクから「これは意余って言葉足らずだな」と突き返されたことがあります。さすがに30代になってからそういうこともなくなりましたが、そんなもん隠し方やレトリックがちょっとばかりうまくなっただけで、本質は何も変わっていません。

 

 そもそも文章というのはシリアルな表現なので、一度にすべては書けないのです。となれば、本人は事実を書いているつもりでも、同時に何かを捨てる、あるいは取り置くことになります。長い文章なら、それを再び引っ張り出すことも不可能ではありませんが、ツイッターやライン全盛の昨今では、そんなヒマはありません。だから勢い、誤解されそうな省略や感情のデフォルメが行われることになります。かくて炎上ということになってしまう。

 

 こんなのもすべて「意余って言葉足らず」なんですよね。特に怒りや絶望というネガティブな方面で発生しやすい。胸の中には燃え上がるような怒りがあっても、それをどう言葉にしていいか分からない。すべてが凍り付くような絶望感があるのに、うまく表現できない。逆に、言葉ばかりが上滑りして、違う「意」を伝えるようになってしまうことがあります。

 

 ああ、よく分からん。いまもって「意余って言葉足らず」。そもそも、言葉ですべてを表現できると考えるほうが間違いではないかとも思うんですよね。感情や未練や屈託は澱のように心の底に残っており、どこかで決着をつけたいと思いながらもできない。そういうややこしいことごとを持っているのが大人ってものなんです。ということは、花が萎むどころか枯れかけているのに、くっさーい匂いだけが充満しているジーサンになっていくのかなぁ。ああイヤだイヤだ。

 

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2018年7月26日 (木)

Macが死んだ

 

 すいません、人間のことではないので誤解しないでください。

 

 そろそろラフデザインを作らないと期日に間に合わないと、デスクトップパソコンのMacのスイッチを入れたのですが、ウンともスンとも言わない。静かなまんま。春先に一度使った時には、ギュウィーンと元気に動き始めたのに、この暑さにやられてしまったのか、まるで反応がないのです。

 

 とはいっても、何しろ1999年あたりのPowerMacですから、およそ20年。耐用年数はとっくに過ぎており、しかも当時のデスクトップモデルはやたら重いので、直そうという気にもなりません。

 

 日進月歩のパソコン界では骨董品ともいえるモデルをどうして持ち続けたかというと、その中のソフトウェアに用があったのです。アドビのPageMakerといっても、もう分かる人はいないかなぁ。現在では同じ会社のInDesignがDTPでは主流になっており、PageMakerは最終バージョンが2001年ということで、とっくに販売停止されたソフトなのです。

 

 編集業務では、デザイナーに誌面構成の指示を出す時などにラフデザインを作ります。広告系でもクライアントに掲載素材などを説明するラフを作ることは頻繁にあります。内容が分かりさえすればいいので、手書きでこしらえるのが普通です。これをいちいちデザイナーにお願いしていたら時間も手間もかかるだけでなく、仕事にならない時には出費になりますからね。

 

 ところがボクは衆知のように字が猛烈に下手くそなので、手書きのラフとなると、ピカソレベルの天才的なデッサン、あるいは小学校低学年くらいの知能しかないと誤認される可能性が相当に高い。そこで、PageMakerを活用してきたのです。けれども、前述したように、このソフトは販売停止となり、OSもバージョンアップしたことで、使えるパソコンもなくなってしまいました。そんなわけで、前世代のPowerMacPageMakerを温存。年に何度か使ってきたのですが、とうとうご臨終ということです。

 

 ボクの時代感覚では、2000年頃なんて先々週あたりなのですが、その時に生まれた子供は高校を卒業して大学に入学する年齢です。気づいてみれば浦島太郎の玉手箱ですな。これまで動いていたほうが不思議なくらいですから、冥福を祈るしかありません。

 

 それにしても20年かぁ。過ぎゆく歳月の早さを感じながらも、いったい自分は何をやって、果たして何を残してきたというのでしょうか。浅学非才というだけでなく、思慮分別も今もって十分とはいえない。PowerMacの死がボクに伝えることはいろいろあるのですが、明るい話題には決してならないので、このへんでやめましょう。それにしてもデジタル系IT系は無常ですな。もう少しスローダウンしたほうが健康にいいような気がします。

 

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2018年7月25日 (水)

遊び人

 

 会社には経営理念というものがありますが、あなたは自分に関する経営理念ってありますか?

 

 そんなもの、ある人よりない人のほうが普通ですよね。ボクだって、与えられた仕事をきちんとこなして、毎日を過ごすのが精一杯でしたから。もちろん、その間に恋をして、結婚もしたりして、家庭を築き上げ、維持していくのですが、もうそれだけではダメなんじゃないかな。

 

 企業経営にしても、とにかくモノやサービスを生産または提供してカネを儲けて拡大再生産すれば社会が豊かになっていくというのは、戦後半世紀くらいまでの話ですよね。近年は、企業を動かしていく理念にオリジナリティがなければ人集めにも影響があるんじゃないかな。つまり、人間はパンのためだけに働くわけではないってことです。

 

 会社については経営陣が考えるとして、個人としても自分の生き方を支える理念は必要ですよね。さもなければ、いったい何のために生きているか分からなくなります。

 

 でね、あくまでも参考までに、ですけど、ボクは最近になってこうありたいなぁという目標ができました。それが「遊び人」なのです。アホかと笑われるかもしれませんが、遠山の金さんだって町人社会では遊び人として知られていた、というのは冗談ですけど、もしも日本人の1割が「遊び人」になったら、この国の文化風土はガラリと変わっていくと思います。そして「遊び人」というのは、単なる消費者ではなく、クリエイターにもなり得る存在だということをもっと理解したほうがいい。

 

 本日は締め切りがあるので、ここらへんにしておきますが、生活を自主的にエンジョイする「遊び人」を、堅実で実直で誠実な、つまり「実」ばっかりの日本人はバカにしてきました。でもさ、そんなのは太平洋戦争以降のことで、その前までは道楽に命まで賭ける「遊び人」が少なからずいました。経済が安定して文化が爛熟すれば、そうなるのは当然なんですよね。むしろ彼らが率先して文化を盛り上げてきたといっていい。

 

 真面目で実直で堅実というのは、創造力に欠けていることの裏返しでもあることを、そろそろボクたちは知るべきではないでしょうか。その意味では「遊び人、上等!」みたいなフレーズでリクルートする会社が最も現代的なのかなぁとも思います。少なくとも、そんな余裕がない会社には若い人は来ないと思うんですけどね。

 

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2018年7月24日 (火)

Down by the Riverside

 

 いろいろあって精神が思い切りへこたれている時に、音楽に救われることがしばしばあります。最近は“Down by the Riverside”かな。賑やかでノリのいい明るいメロディで、歌詞も超簡単。でも、なかなかよくできているのです。

Gonna lay down my burden

Down by the riverside

Down by the riverside

Down by the riverside

 

I'm gonna lay down my burden

Down by the riverside

I ain't gonna study war no more

I ain't gonna study war no more

I ain't gonna study war no more

 

川辺に行って、重荷を捨てよう

川辺に行って

川辺に行って

重荷を捨てよう

もう戦争なんてうんざりだ

 

 様々な歌手がカバーしているアメリカでは超有名なスタンダードですけど、ボクはルイ・アームストロングが今のところの一番のお気に入りです。太いガラガラ声で素晴らしい迫力があるんですよね。でも、始まりの歌詞がちょっと違います。

 

I'm gonna lay down my sword and shield

Down by the riverside

川辺に行って、剣と盾を捨てよう

 

 「もう戦争なんてうんざりだ」からは同じ。二番も微妙に違います。

 

I'm gonna lay down my heavy load

Down by the riverside

川辺に行って、重い荷物を捨てよう

 

 英語のウィキペディアによれば、南北戦争の頃から歌われてきた黒人霊歌(ゴスペル)だそうです。最初の歌詞だけで、戦争に疲れ果てた黒人兵士がふらふらと川のほとりにやってきて、重い背嚢を放り出して寝転ぶ様子が想像できます。おそらく南軍の兵士も北軍の兵士も、川のほとりで同じように歌っていたんじゃないかな。

 それが次第に普及して、20世紀になると教会のコーラスだけでなく、ディキシーランドジャズの定番になり、面白いことにカントリー&ウェスタンとしても歌われています。

 

 ルイ・アームストロングの場合は、おそらくベトナム戦争を背景にしているのはないかと思いますが、その前の第2次世界大戦でも、その後の朝鮮戦争やイラクやアフガニスタンでもきっと歌われたに違いありません。その意味では、反戦あるいは厭戦歌ということになるのでしょうが、そうした重みはほとんど感じられなくて、前述したようにリズミカルで馴染みの良いメロディなので、次第に身体が揺れてくるんですよね。

 

 そして“Down by the riverside”という同じフレーズを合唱しながら繰り返していく中で、それぞれが様々な想いを込めていくわけです。

 

Gonna join hands with everyone

Down by the riverside

Down by the riverside

Down by the riverside

 

I'm gonna join hands with everyone

Down by the riverside

I ain't gonna study war no more

I ain't gonna study war no more

I ain't gonna study war no more

 

 こんな歌詞もあるほか、いろいろバージョンがあるようです。でも、疲弊した時には、Gonna lay down my burdenというフレーズは個人的になかなか効き目があります。辛いことや悲しいことを自分のせいだと引き受けてどんどん沈み込むのでなく、そんなものは川辺に捨ててしまえと聞こえるのです。

 これは浄土真宗の教えとも似たところがあります。畢竟、救いというのは、他律的な神事なんぞではなく、自分自身の中にしかないんですよね。

 

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2018年7月23日 (月)

外出禁止令

 

 暑い、ではなく「熱い熱い」と言いながら凍え死ぬ人を主人公にしたSF小説があります。大寒波が襲っているにもかかわらず、病による幻想で熱波の中にいると錯覚した人の話です。あれ? その逆だったかな。いずれにしても、超異常気象によって人間が死に絶えていくストーリーだったと思います。

 

 近頃の暑さはホントに尋常ではないので、どうも地球は「ビッグ6」の準備を始めているのではないでしょうか。

 

 もっと喧伝したほうがいいと思うのですが、この惑星では生物の大量絶滅を5回も経験しております。これを「ビッグ5」と呼びます。最も古いのはオルドビス紀末で、三葉虫など生物種の85%が絶滅。デボン紀後期は様々な海生生物の死骸が海底に山積みとなり、2億5100年前のベルム紀末(っていつだよ)にはあらゆる生物種の9095%が絶滅する史上最大規模のカタストロフを経験したそうです。

 

 そして、アンモナイトや爬虫類が絶滅した三畳紀末を経て、長らく待たせいたしました、恐竜が完全に死滅した白亜紀末となるわけですね。6550万年前に衝突した小惑星と火山の爆発を原因とする説が定着しています。

 

 超文系のボクの文学的理解によれば、それまで2回の大絶滅をしぶとく生き延びた三葉虫はベルム期末に地球から完全消滅。そのかわりに海底の主役となったアンモナイトも三畳紀末に危機的な状況になりましたが、絶滅は免れたものの、やがて1億2000万年ほど栄耀栄華を共にした恐竜とともに消え去ったということになります。

 

 ここまでで、しつこいようですが大絶滅が何と5回ですぜ。ということは、6回目が到来しないなんて誰にもいえないじゃないですか。その時には、人類と一緒に発達してきた犬などの哺乳類も運命を共にするでしょうね。

 

 それ以前に夏の過ごし方も変わらざるを得ないと思います。今の段階では「不要不急の外出は避けましょう」ですが、それが政府からの「外出禁止令」に変わる日も遠くないんじゃないかな。

 

 雲ひとつない青空の中で、太陽が凶悪な表情でギラギラと照りつけてきます。大都市に林立するビル群のガラス窓がそれを反射するのですが、地上は人の姿がまったく見えず、ガランと静まりかえっています。外気は体温をはるかに超える45度以上としましょうか。30分も外にいれば熱中症どころか細胞が茹で上がってしまうので、人間は冷房の効いた建物の中や電車・クルマの中にしかいられないからです。

 

 それでも昼間にどうしても外出しなければならない時があるので、冷房装置付きの熱気シェルターがあちこちに設置されています。これが満員にならないように、猛暑の日は「外出許可」が必要。そのQRコードをスマホでかざさないと扉が開かないようになっています(細かいね)

 

 そんな操作を経てガラス張りのカプセルみたいなシェルターに飛び込んできた若い女性が、そこで身体を冷やしていた若者と出会うわけですな。

 

「何か緊急の届け物でもあったの?」

「領収書がすぐに必要だって言われて」

PDFでは経理が精算しないからかな。こんな死にそうな日にひどい話だよな」

「そうは思うけど、指示されたら仕方ないですから」

 

 そのあたりで2人は名乗り合い、急速に親しくなるのですが、ここで地震が起きるわけですね。

 激しく揺れたせいか、扉を開ける機構が壊れてしまい、何をどうしても開けることができません。それだけでなく、温度調節装置にも悪影響を及ぼしたらしく、カプセル内の気温がどんどん下がっていきます。20度から15度、10度。とうとう0度近くに。身体が冷え切った2人は互いを見つめ合い、何も話すことなく頷いて、そろそろと近づきます。つまり、抱き合って温まろうということですね。カプセルの中はどんどん冷え込んでいくのに、ガラス一枚を挟んだ外側は灼熱の世界。冒頭でご紹介したSFとは真逆の状態。彼らの目の前には焼けるほどの熱気があるというのに、それを見ながら凍えて死ななければならない。こんなストーリーはいかがでしょうか。

 

 それにしても、とにかく暑い。冷房の効いたオフィスでも、窓を抜けて入ってくる陽射しに酔いそうになることがあります。着たい服はもちろん、着るべき服も見当たらない。半ズボンは嫌いだし。。。早く秋が来ないかなぁ。

 

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2018年7月20日 (金)

感性の時代(後)

 

 論理性が重視される社会や時代は、先を読むことは不可能ではありません。論理に予想外の飛躍はあり得ないからです。ところが「感性」はそうはいきません。「え、どうして?」なんてことが平気で勃発します。商品にしても、何がヒットするかを正しく予測するのは困難です。だからすべてのビジネスマンと研究者はデザインを学ぶべきだと、ボクは前々から指摘してきたわけです。

 

 ただ、ひとつだけ概念的なヒントを教えるとすれば、どんなこともスパイラルしていくということです。

 

 ボクはその原理を発見して自分の会社の名前にしたのですが、何しろボクごときが気づいたことですから、決して難しいことではありません。

 たとえばハイテクが流行すれば、しばらくすると人間はそれに飽きてハイタッチを望むようになります。こうしたトレンドは一定の期間を経て、反対から反対に変遷すると考えられます。これだけなら円環ですけど、ボクたちは文明社会の中で生きています。そうした文明社会を構築する科学技術や医療は、決して後戻りすることなく、一方向に進んでいきます。

 この条件を、先の円環に加味すれば、トレンドの変遷は螺旋=スパイラルになるじゃないですか。

 

 ちょっとややこしくなりましたが、たとえば機能美が滑らかでツルツルとしたデザインとすれば、ボクの理論では、いずれその反対側のデコボコ&ザラザラに嗜好が移るでしょう。ただし、同じところに戻るのでなく、そこにテクノロジーの発達が加味されなければ単なる逆戻りに過ぎないので、流行を生み出すことはできません。

 

 これをもっと理論化しろといわれても無理です。シンギュラリティも含めて、これからのテクノロジーがどんな未来をもたらすかなんて誰も予測できないですよね。

 

 だーからさぁ、もはや論理性に魅力なんか感じられなくなってきたのです。だったら、いわば論理の王様ともいえる人工知能に敢えて逆らってやりたいなぁと。

 

 そのうちに人工知能が文章も書き始めるようになります。その時には、人間ごときのラフで凡庸な論理性では太刀打ちできなくなるでしょう。これはSFドラマ『スター・トレック』のミスタースポックを思い浮かべてください。

 

 てことは、フフフフ、やっぱり大切なのは人間特有の感性じゃないか、明智クン。これからは感性をフルに起動した文章しか人工知能には勝てないと思うぞ。ボクが「感性の時代」と指摘した意味を分かっていただけたでしょうか。

 

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2018年7月19日 (木)

感性の時代(中)

 

「いかなるビジネスマンもエンジニアも研究者も、これからはデザインに敏感でないとダメですよね」

 

 こんなことを10年ほど前から言い続けてきたのですが、美大や芸大の教員を除いて、はかばかしい反応を得たことがありません。それどころか、これからは小学生の頃からプログラミングだってさ。しかしながら、そのために必要なアルゴリズムも実はデザインの一種であることを、どれだけの人が分かっているんだろうか。

 

 ついでに言えば、法律も行政も、ちなみに健康保険や年金も、およそ制度と名のついたものはデザインなのでありますよ。であるなら、デザインに敏感でなければ、ビジネスだってうまくいくはずがない。これはちょっと飛躍し過ぎとしても、市場で売買される商品はもはや機能よりデザインが重視されるといっていい。同じ機能で、いや劣っていたとしても、デザインが優れていれば、そちらのほうが人気になり、売れるからです。

 

 もちろん優れた機能とオシャレなデザインが両立していたほうがいいに決まっています。けれども、技術系と美術系ではセンスや発想がそもそも異なるので、両者を統合するのは並大抵のことではありません。けれども、それを強引に押し切ったプロデューサーが故スティーブ・ジョブズだとボクは考えています。

 

 こうしたプロダクトデザインといえば、すぐに機能美を感じさせる流線型でスタイリッシュなデザインを思い浮かべる人がいるはずです。でもね、おっとどっこいで、必ずしもそうとは限らないんだよな。漫画でウマヘタが流行ったことがあるように、デコボコしたヘンテコで気持ち悪いモノもヒットする可能性があります。だからね、このブログのテーマも「感性の時代」としているのです。

 昨日のブログで紹介した「機能が形態を決定する」というのは、文章が論理的でなければならないというのと同じで、感性のひとつの側面に過ぎません。人間の感性はもっともっとややこしくて、非定型で非機能的、非論理的なものを求めることもあるんだよな。さもなきゃ絵画なんて、写真の登場でとっくに衰退していたはずです。

 

 ここで歴史を振り返れば、「アール・デコ」というのがありました。正しくは1925年にパリで開催されたデザイン博の略称で、それがいつの間にか「アール・デコ様式」として呼ばれるようになったのですが、ではどんなデザインなのかを的確に解説した文献を見たことがありません。それ以前のアール・ヌーボーと比較すれば、すぐに理解できると思うんだけどなぁ。

 

 20世紀末まで一世を風靡したアール・ヌーボーは、早い話が自然界の模倣です。木々や葉っぱや様々な生き物のデザインを写し取ったといっていい。フォルムはややこしくて手がかかるけど、それだけに美しく感じたわけです。エミール・ガレなどの芸術作品のみならず、ツタが絡まったような凝った細工が施された門扉なんかもそうですよね。

 

 ところが20世紀になると、それまでの産業革命の積み重ねが加速して、急速に工業化が進展。つまり、何でもかんでも機械で大量生産するようになってきました。そうなると、アール・ヌーボーのように複雑な線や面で構成されたデザインなんてまったく不向きです。直線や曲線など幾何学的なラインで構成されたデザインのほうが製造しやすい。そして、ここが肝腎なところですけど、人間はその頃から、ラジオやクルマや飛行機などの製品を活発に作り始めるようになりました。これらは自然界には存在しなかったモノですから、そもそも模倣することができない。かくて人間の手がけるデザインは、ようやく自然から解放されたのであります。

 

 ただし、それだけにお手本にするような対象や先行的なモノがありません。だからこそ機能に忠実であろうとしたわけです。バウハウスの思想をごく簡単に言ってしまえば、そういうことだとボクは信じています。実は人間の根源的な感性もかなり加えられているんですけどね。

 要するに、それが機能美であり、つまりはモダニズムに発展していきます。アール・デコは、まさにそうしたトレンドをリードした世界初のデザイン様式というところに価値があるわけです。それを「直線主体で」などとカタチだけで説明しようとするからワケが分からなくなるのです。現代のプロダクトの多くだって直線主体じゃないですか。

 

 もうひとつ付け加えると、プロダクト=工業生産品以外で、アール・デコとほぼ同時期に機能美を追求していた分野があります。それが建築であり、ル・コルビジュエの業績といってもいい。彼はいみじくも「住宅は住むための機械である」と喝破しています。今では「機械」という言葉に抵抗を感じる人が多いかもしれませんが、当時は文明や人間の創造力を象徴する輝かしいものだったのです。何だかAI=人工知能に対する評価と似ていますよね。

 

 そんな彼とは真反対に位置するのが、サグラダファミリアで有名なガウディです。こちらは確か「建築は内部空間を持つ芸術」と言ったんじゃないかな。古代ローマ建築からバロック様式など、歴史的な建築物はそうした傾向が強いですよね。

 

 いずれにしても、ガウディを前世紀のアール・ヌーボーとすれば、ル・コルビジュエはまさしくアール・デコであり、建築に機能美を見出した先駆者だったのではないでしょうか。

 

 それで話は終わりではなく、彼が属していた建築界では1980年代に「ポストモダン」が流行しました。前述したモダニズム=機能美は、便利だけどちっとも面白くないとして、そのポスト=後釜として再び装飾性が復活したのであります。たとえば、不要とも思える小さな縦長の窓がズラリと並んだ新宿の都庁舎もポストモダンと評されました。

 

 現在ではコンクリート打ちっ放しを始めとして、金属とガラスとの組み合わせとか、いろいろ何でもありの多様な状態になっていますが、このポストモダンを体験することで、ようやく建築界はル・コルビジュエの呪縛から解放されたのではないかと、ボクは判断しています。

 

 では、これからどうなるか。またまた長くなったので、明日も続けたいと思います。

 

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2018年7月18日 (水)

感性の時代(前)

 

 ほとんどの学校では、文章の基本的な書き方として「論理性」が強調されます。そりゃね、「論文」という言葉があるくらいですから、論理が支離滅裂ではそもそも話の内容が理解できません。しかしながら、プロのライターとしての立場から敢えて異論を言わせていただけば、いまの時代に論理的な筋道なんていうのは、実はどうでもいいんじゃないかと。

 

 では何が大切かといえば、「情緒」というか「感性」なんですよね。それを伝えようとする文章があまりにも論理性にこだわってしまうと、肝腎な部分が換骨奪胎されてしまって、逆に何が言いたいのか分からなくなってしまいます。情緒的な文章の特徴は、そこかしこに論理がつながらない飛躍があり、だからこそ心にダイレクトに響くわけです。

 

 たとえば、ある著名なジャーナリストで晩年はテレビキャスターだった某氏は、阪神淡路大震災の翌日に現場を訪れ、そこかしこに立ちのぼる火災の煙を見て「まるで温泉地のようであります」と形容して大顰蹙を浴びました。今なら「被災地に失礼だ」としてネットで大炎上でしょうね。しかしながら、「あちこちで火災の煙がまだ立ちのぼっております」という“論理的”な表現に比べて、感性に対するインパクトは「温泉地」のほうが勝っていませんか。

 

 それと同じで、はっきり言わせていただければ、論理的な文章はちっとも面白くないのです。もっと明確に説明するなら、論理の根本に感性的な根拠が乏しい文章ほど、読むのが苦痛または退屈になってくるのです。これは相当にオブラートに包んだ言い方でありまして、早い話が、とってつけたような内容と思ってもいない常識論ばっかりが並んだ文章のことです。偉い人たちの年頭の挨拶なんか典型的じゃないですか。

 

 逆に、相当に難解な文章でも、その論理の奥底に「喜怒哀楽」を強く感じる文章は、何とか理解しようと努力したくなりますよね。

 

 たとえば息子を失った母親の哀しみを綴った文章があまりにも論理的では、奇妙にすら感じます。「保育園落ちた日本死ね」という言葉が大きな話題になったのも、論理を超えた怒りがそこに表現されているからです。学校で文章指導を受けて成績が優秀だった人には、こんな表現はできません。

 

 ラヴレターなんかも典型的ですよね。ボクの若い頃は、気に入った英語の歌詞を日本語訳して彼女に送るなんてことが流行しましたが、そんなもん相手にモロばれですよ。人柄を見抜くのは女性の得意技ですから、「あいつがこんな気の効いたことを書けるはずないじゃん」と見破られるのがオチで、オリジナルでなければ心には到達しません。

 

 ボクなんかはむしろ、ツイッターやラインの短文のほうが感性的で面白いのではないかと推定しています。今の若い人が長い文章が書けないと見なすのは実は間違いであって、短い文章で本質を表現することを毎日やっているわけです。そうなると、論理性なんかより情緒や感性のほうが説明しやすい、というか大切なわけですよ。あるビール会社のコピーで「神泡」なる広告表現を見て、ついに「神」もここまでインフレしたかと呆れましたが、言いたいことは分かるじゃないですか。

 だったら、論理性なんか完全に無視した論文があってもいい。

 

 ボクは反骨的な親父の影響からか、子供の頃からヒネておりまして、先生の言うことはまず疑うという習慣がありました。文章は起承転結が基本と言われれば、逆に小室哲哉の初期の曲のように、いきなりサビのところから始めるとかね。誰でも展開しそうな論理ではちっとも印象に残らず、凡庸な文章になるに決まっています。それよりも書いていてちっとも面白くない。カタルシスが得られないのです。

 

 だから、もしもボクが文章の先生であるなら、いや就職指導の担当者であっても、作文もエントリーシートにしても、とにかく読んだ人を笑わせるとかびっくりさせるようなインパクトを与えなさいと言うでしょう。そのためにはチマチマした論理性よりも「面白さ」が大切だと。実際には、現実的にはボクのようなライターは「正確さ」が基本中の基本になってくるので、それにひきずられて、読者を刺激する面白さが犠牲になることがしばしばあるのです。

 

 だからさ、大学時代くらい「論理的な文章」から自由であっていいように思うのです。すいませんが、理系は別です。「飛行機は気合いで飛ぶ」などという非論理的&非科学的なエンジニアがいたら、間違いなく飛行機は墜落しますから。少なくとも文系だけは破天荒に、想像力を大空の向こう、せめて白鳥座M378星雲までは広げてほしい。

 

 そして、文章だけでなく、各種の商品も、機能よりデザインが重視される時代になってきたとボクは思います。面白くて、ユニークであれば、もはや機能なんてどうだっていいのです。要するに機能=論理性よりも、デザイン=感性が優先されてしまう。かつてドイツのバウハウスでは「形態は機能に従う」とされました。これが「機能美」の原点なのですが、現代では「形態は感情に従う」という説があります。象印のポットを、なぜ象さんのようにデザインしなかったのか、ボクは不思議です。初期の頃にそうしていたら、もっと心に残る会社になったんじゃないかな。

 

 ちょっと長くなったので、この続きは明日に。

 

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2018年7月17日 (火)

良心の陰で

 

 ちょっと複雑な話なのですが、あなたがモテモテの若きイケメンで、スタイルも抜群で脚も長いとしましょうか。自信満々で世界的なメンズモデルになるためのオーディションに向かったのですが、不幸なことに交通事故に遭遇して死亡してしまいます。けれども、天国でのちょっとしたアクシデントによって、地上に戻って生まれ変わることになりました。

 

 ところが、ですね。生まれ変わったあなたは、ものすごくデブだったとします。たまたま鏡なんかですっかり変わってしまったオノレの姿を見て、「ギョッエー!」と頬に両手をあててムンク(叫び)することから始まる、アメリカのドラマがあるんですよね。

 

 正しくは女性の話なのですが、仮にあなたが俳優だったとして、この役を「キミにぴったりだよ」とオファーされたらどう思いますか。

 

 いくら前々からデブを自覚していたとしても、そんなあからさまな役をオレにふるなんて、嫌がらせの一種じゃねぇかと不愉快に思いますか。それとも逆に、個性を生かせるチャンスだと思うでしょうか。そんな体形にもかかわらず俳優になるくらいですから、むしろ「こんなオレでも主役が張れる」と大喜びするかもしれません。

 

 アメリカのTVドラマ『私はラブ・リーガル』を観るたびに、そんな複雑な心境になります。生まれ変わった主役はデブな体形にくじけることなく、女弁護士として活躍するんですけどね。

 

 彼女の場合は公称で身長165㎝、体重85㎏ですが、同じ身長で体重が181㎏と倍以上の巨体にもかかわらず、そのことに悩む役でレギュラー出演している女優さんもいます。こちらは『This is Us36歳、これから』というTVドラマです。腹違いの三つ子(?)の1人という設定で、子供の頃から過食に悩み、30代になると飛行機に乗る時は2人分の座席を購入しないと座れないほどの肥満体。様々なダイエットや痩身キャンプなどに参加しながら、やはり巨漢の恋人といろいろあるわけですが、何というかなぁ、こんなにもアケスケで遠慮が一切ないキャスティングってありかなと、デリケートな日本人は思ってしまうわけですよ。

 

 デブなことに悩む役柄を、デブな俳優に演じてもらう。「そりゃちょっとあんまりじゃないの、監督」とプロデューサーが突っ込んでもおかしくないと思うんだよな。

 

 ところがアメリカでは、そんなことは平気みたい。もっとも、前述した巨体の女優さんはいろいろなドラマや舞台で活躍しており、そうした多様性を認めるというより、積極的に活用できる文化風土があるからこそ可能なストーリーとキャスティングのようです。

 

 ということはつまり、むしろボクたちのほうこそ、デブやブスに偏見や差別意識を隠し持っており、アンタッチャブルなものにしているのではないかと。子供の頃はともかく、大人になると、過度に肥満な人の前で体形の話題は避けますよね。傷つけまいという良心の発露にほかならないつもりでも、コンプレックスを持つ側はそのことによって他人の差別意識を感じてしまい、もっと傷ついたりする。

 

 日本ではデリケート過ぎる問題なのに、アメリカのテレビドラマはそのまんまで、テーマにふさわしい俳優さんにやらせてしまう。これはもう感性の大逆転というのでしょうか、ボクたちのほうが、彼女彼らを普通の人間として見てはいなかったことに気づかされます。あなたも、きっとそうではありませんか。たまたま体重が普通より重いだけ、たまたま普通よりキレイでないだけで、つまり、それだけのこと。デブやブサイク以外にも、普通ではない人はもっといろいろいるじゃないですか。

 

 何というのかな、気にし過ぎて気にしない素振りが、かえって差別や偏見を深いところに沈めているのかもしれません。難しい問題なので、これは継続して考えていきたいと思います。

 

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2018年7月13日 (金)

ベニー・グッドマン

 

 ベニー・グッドマン(1909~986年)の『世界は日の出を待っているThe World is Waiting for the Sunrise』をずっと聴き続けています。もう100回近くは聴いたんじゃないかな。映画も作られたくらいのジャズ界の大御所なので、今さら説明は不要と思いますが、確かにそれだけの実力がある人だとつくづく思います。

 

 日本のバンドの演奏と何度も聴き比べたのですが、クラリネットの音にパワーがあるんですよね。日本のバンドはピアノやベースなどとの調和を意識しているせいか、柔和で優しい印象。ところが、ベニー・グッドマンのクラリネットはほとんど喧嘩腰というか、かなり挑戦的なのです。

 

 クラリネットはもともと温和でふんわりした音質の楽器ですが、ベニー・グッドマンはまるでトランペットのように息を吹き込みます。だから最初は音が尖っているように感じたのですが、何度も聴き続けていると、彼の流儀なんだなと分かってきます。それが際立つのが早弾きのフレーズでありまして、音のひとつひとつが粒立っているように聴けるんですよね。

 

 ピアノやベースも、彼のクラリネットによるパンチの嵐をみごとに受け止めおり、スウェイバックしながらジャブで返すような弾みがあります。ジャズセッションというのは、こういうことなんだと感じさせてくれるみごとな演奏なので、何度も何度も聴き続けて飽きないのです。

 

 1度でいいからナマで聴いてみたかったなぁ。それにつけても、いつも思うのですが、ボクは生まれるのが遅すぎたんじゃないかな。できれば戦前の1930年代に40代くらいなら良かったのに。大恐慌や軍国主義の台頭で暗い時代に感じられますが、実は文化が相当に爛熟していたのではないかとボクは想像しています。スウィングジャズの代表曲である『シング・シング・シングSing, Sing, Sing』も1936年にトランペット奏者のルイ・プリマが作曲。1938年にベニー・グッドマン楽団がカーネギー・ホールで初演して大喝采を浴びました。

 

 ほらね、こう書くだけで、いい時代だよなと。昔を回顧するジジーになったら終わりと言われるけど、これくらい大昔なら許されるんじゃないかな。

 

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2018年7月12日 (木)

2針時計

 

 腕時計の記事も仕事にしている関係で、たまに「何本くらい持っているのですか」と聞かれます。もちろん仕事ですから、時計を持っていないわけではありません。ただし、主な対象が高級機械式時計であり、およそのところ、1本で価格は20万円前後から1億円以上。よほどのおカネ持ちでなければ、何本も購入できませんよ。

 

 ただ、折々に欲しい時計があることはあって、東尋坊の崖の上から、じゃなかった清水の舞台から飛び降りるような、って同じかな、そんな覚悟で購入してきました。大まかにまとめてしまえば、最初は海外旅行で便利なワールドタイマー。それからスタイリッシュな角形モデル、いざという時のゴールドウォッチという流れかな。オッサンになると、見栄を張らなきゃいけない場面もありますから。

 

 それとデイリーユースですね。今はアラーム付きのレビュートーメン版「クリケット」を愛用しています。というわけで、ないわけではないけど、ご期待に添えるほどでもないわけです。

 

 あくまで、ちなみに、ですが、いま欲しいなぁと思っているのは2針時計です。つまり、秒針がない時計。このタイプは超薄型が多く、厚さを抑えるために秒針をつけないことが少なくありません。以前は、それじゃ動いているどうか不安だよなと思っていたのですが、近頃は秒針の慌ただしさにへこたれそうになる時があって、静謐ともいえる2針に惹かれるようになりました。

 

 日常的にはチチチチと秒針が時を刻むほうが仕事モードになれますが、週末とか休日はもっと優雅に過ごしたいじゃないですか。それに、あり得ないと笑っていただいて結構ですが、もしも妖艶な女性とデートする機会があれば、忙しく動く秒針なんか不粋極まりないでしょ。時よ止まれキミは美しい、って思うじゃないですか。

 

 現実にはそんなチャンスはありませんが、大切な時間ほどゆっくりと過ぎていってほしい。そのために、秒針が邪魔になる時もあるのです。

 

 こんな心境になるまでに。およそ20年ほども費やしたかなぁ。分かっていただけると嬉しいっす。

 

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2018年7月11日 (水)

コンビーフ

 

 ボクの世代はアメリカからの食物輸入がやたらに活発だったせいか、「生まれて初めて」が少なくないんですよね。そのシンボルがマクドナルドでありまして、第一号店は1971年に何と銀座三越の1階でオープンしました。銀座のど真ん中の三越でハンバーガーですから、すごいものです。

 

 ボクはそれよりもフィレオフィッシュが感動的に美味に感じられて、それ以来、白身のフライが好物です。ピザもお初の分野でございまして、あんなトロトロのチーズなんて、それまで食べたこともなければ見たこともありませんでした。当時に比べるとチーズの量が激減したような気がしますが、そのほうが健康にいいのでしょうか。

 

 さて、本題です。ボクがコンビーフという面妖な缶詰に出会ったのは小学校の給食です。普通の缶詰は円筒形なのに、コンビーフの缶は台形。それだけで小学生のボクはカルチュアショックですよ。しかも缶の開け方からして普通ではありません。掛け時計のゼンマイを巻くようなカギが上部に付いており、それを外して、芯のところにある細いスリットに缶詰の帯の端っ子を入れて巻き取るのだと、先生は教えてくれました。この説明で分かりますかねぇ。そのカギで缶の帯みたいなものをキレイに巻き取ってフタを開けると、赤黒く繊維っぽい塊に、白いラードがあちこちに浮いております。見るからに脂っぽいのですが、それがアメリカのリッチな雰囲気を漂わせているように感じられました。

 

 何しろ、その当時に食していた肉は鶏と豚がほとんど。ビーフなんて高価でしたから、滅多に食べられません。それが、缶詰といえども目の前にあるわけで、ボクは日本の給食制度に心から感謝いたしました。

 

 ところが、それをどう食べていいか分かりません。そこで缶の開け方を指導した栄養関係の先生が、「その隣にマヨネーズの小袋があるでしょ」と。缶からコンビーフを小皿に移し、このマヨネーズを塗りたくった上で、しっかりとかき混ぜなさいと言うのです。今でも覚えていますが、マヨネーズの酢の刺激臭と牛の脂の何ともいえない匂いが鼻腔の奥まで漂ってきました。「こんなもん食えるのか」というのが最初の感想でしたが、調理はそれで終わりではありませんでした。隣に置かれた2枚の食パンのうち1枚にそれを塗って、上からもう1枚を挟んでかぶりつきなさいというわけです。

 

 おそるおそる口に入れて味わってみると、食パンの乾いた感じと甘さが、マヨネーズと牛脂の臭みをきっちりと中和してくれます。かくて「こんなうまいもの食べたことない」という感想に変わったのであります。

 

 幸せなことに、それ以降もケンタッキーや北京ダックやキャビアなど、初めて食べた美味なものは数知れません。現代の子供たちにとっては生まれた時から常識的にあるものばかりなので、おそらくボクのような感動はないに違いありません。ははははは、ざまぁみろと自慢してどうすんだとなりますが、何かね、そうした事々を思い出すだけでハッピーになれるのはなぜでしょうか。久しぶりにスーパーでコンビーフを買ってこようかな。

 

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2018年7月10日 (火)

一撃必殺

 

 ものすごくヤバいタイトルになってしまいましたが、テーマは「リアリティ」です。司馬遼太郎に言わせれば、これを完全に喪失したのが太平洋戦争でありまして、いつか神風が吹くかのような妄想的な戦略や戦術で玉砕を繰り返したということになります。

 

 それに比べて、日露戦争は驚くほどのリアリティで準備が進められていました。最も有名なのは、バルチック艦隊を迎え撃った時の「東郷ターン」と呼ばれる連合艦隊の回頭戦術ですが、それ以上に勝利に貢献したのは「火薬」なんですよね。ピクリン酸を使用して強烈な破壊力を実現した「下瀬火薬」が知られていますが、この火薬を充塡した砲弾に取り付ける「伊集院信管」なるものも開発されています。不発が少なく砲弾が瞬間的に爆発する仕組みになっているそうです。さらに、砲弾を撃ち出す時の火薬も、イギリスから輸入したコルダイトを使用。発射時の煙が少ないために、視野を妨げられることなく連続して打ち込むことができました。

 

 それに対して、ロシア艦隊は昔ながらの黒色火薬ですからね。一発撃つたびに煙まみれになって、連射どころか狙いをつけられない。これではドッカンドッカンと敵弾が命中して船体がたちまち炎に包まれるのも不思議ではありません。日本海海戦を調べれば調べるほど、世界の予想を裏切る圧倒的な勝利は、戦う前から入念に用意されていたことが分かります。

 

 これを「リアリティ」と呼ばずしてどう呼ぶのでしょうか。

 

 このメンタリティは明治維新を経て突然に生まれたものでは決してありません。薩摩藩が体質として備えていた本能的な流儀ではないかとボクは考えるようになりました。実際に、幕末には島津斉彬が造船技術を輸入。高炉などもいち早く建設して近代化に取り組んでいます。江戸幕府という中央権力から距離的に遠いからこそ、より現実的な展望ができたのではないでしょうか。

 

 さらに歴史を遡ると、剣道においても「一撃必殺」を理念とする実にリアルな流派があります。それが1718世紀後半に成立した「示現流」です。ボクは鹿児島で練習風景を見せてもらいましたが、その迫力に仰天しました。「ギョエー」と怪音を発しながら、太い木刀を横たわった木の枝の束に打ち付けるだけ。昔は朝から晩まで何千回と続けたそうです。こんなにもすさまじい勢いの真剣を受けたら、防ぎようがありません。テレビの殺陣のようにカッコ良く刀で止めたとしても、よほどの怪力でなければそのまま押し切られてしまいます。

 

 ボクは以前に空手やボクシングにおけるパンチ力というのは、速度×質量×方向にほかならないと書きました。物理の力学ではそれ以外の要素は考えられません。示現流は、まさにこの法則に忠実な剣法なのです。質量は刀剣と体重に関係してきますが、こんな練習を毎日やってメシを食べれば、筋力だってどんどん付いてきますってば。

 

 その腕で、渾身の力を込めて一方向に切り込んでいく。眠狂四郎の円月殺法なんか単なる目くらまし。剣道ダンスと呼ばれるような型ばっかりの流儀は、一気に粉砕されてしまうでしょう。

 

 このため、示現流には「二の太刀」がないとされています。まさに「一撃必殺」のリアリティが生み出した究極の剣術だとボクは信じております。その風土というか、流行の言葉でいえばDNAが、大砲に必要な鋼鉄を精練できる高炉を日本で最初に建設し、薩摩藩士だった東郷平八郎が率いる連合艦隊を勝利に導いたのではないでしょうか。

 

 そうなると、ルーツを山口県=長州藩とする安倍首相はどうなんですかね。少なくとも「働き方改革」なんて言い換えもいいところで、ボクのリアリティに則れば「給与制度改革」になるんですけど。

 

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2018年7月 9日 (月)

カリスマを支えるもの(後)

 

 クリプトン星からやってきたスーパーマンならいざ知らず、人間なんて体形や能力に極端な違いなんてありません。にもかかわらず、途方もないカリスマやワンマンを生み出すのは、本人の力というより、周りの人たちにほかならないと思うのです。中にはスティーブ・ジョブズみたいな天才がいることは否定しませんが、彼にぶら下がる人たちが無数にいたことも事実であり、そうした人たちがカリスマと崇め奉ったんじゃないかな。

 

 だってね、普通の人たちにとっては、カリスマやワンマンがいたほうが楽なのです。難しい意思決定を任せられるだけでなく、結果責任も回避できますからね。カリスマなんぞになるより、その後ろに隠れていたほうがよほどトクじゃないですか。だからカリスマやワンマンは、自ら「なる」ものではなく、「させられる」というのが正しい解釈だとボクは思います。

 

 ところが、最初は便利な傀儡としておとなしく御輿の上に乗っていても、やがて自分の権力を行使しようとする人も出てきます。御輿に乗せた以上は簡単には引きずりおろせないと躊躇しているうちに、陰の首謀者は遠方への左遷など粛清に近い異動を迫られ、反抗する意欲や方法を完全に殺いだところで、独裁政権が発足というのが歴史的な事実ですよね。

 

 そうなってしまったら、日大教職員組合の発言と同じで「逆らうのが怖い」となります。それまでのキャリアを捨てるような転属や異動を強制された人もいたようですね。ボクだって正直を言えば、同じ恐怖を味わったことが何度となくあります。だから分かるのですが、この恐怖の本質は「失う」ってことなんですよね。長く生きれば、カネだけは人によりますが、持っているものは次第に増えてきます。ワンマンやカリスマに抵抗できないのは、それを奪われてしまうからです。失うには惜しいものが多くなると、理不尽な要求にも従う奴隷のようになり、その連鎖は末端まで続きます。中には自らカリスマやワンマンのパシリになることで、権力のおこぼれを頂戴しようとする人も出てきまよね。

 

 かの西郷隆盛はそうした心理をちゃんと見抜いておりました。

 

 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この「始末に困る人」ならでは、艱難を共にして国家の大義は成し得られぬなり。

(「西郷南洲遺訓」)

 

 そういう人間が果たしてどれだけいるかなぁ。少なくとも官僚の人事制度を変えて、ダメな連中をどんどん解雇して、中途採用をバリバリ増やさないと、そんな人材が国家の運営に携わることはできないでしょう。ここでも制度に問題があることが分かります。「始末に困る人」の育成がボクは教育の大きな課題だろうと思いますが、それと合わせて、やはり既存の制度を徹底的に見直さないと手遅れになるでしょう。

 

 そのためには、シニアにこそ頑張っていただきたいとボクは思うのです。定年退職して年金暮らしなら、命もいらず、名もいらず、官位も金だってもういいよとなりませんかねぇ。最後のご奉公とばかりにエイヤッと蛮勇をふるって立ち上がった「始末に困る人」たちを広く受け入れる制度ができれば、少しは公平・平等な社会が生まれるのではないかと期待しているんですけど、無理かなぁ。

 

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2018年7月 6日 (金)

カリスマを支えるもの(前)

 

内容はかなり違っても、文部科学省の科学技術・学術政策局長が逮捕された受託収賄事件と、いまだに収束していない日大の危険タックル事件は、根っ子に共通した問題があります。

 

その前に、文部科学省は「競争的資金」の分配をやり過ぎたんじゃないかな。ボクがこの政策を知ったのは「21世紀COEプログラム」の頃からですが、それから十数年がかりで「国公私立大学を通じた大学教育再生の戦略的支援」として急速に膨張してきました。とにかく補助金付き公募プログラムがやたらに多いのです。

 

「特色GP」だの「現代GP」という黎明期は、これまでのような横並び支援ではないことから、ボクなりに高く評価して記事で頻繁に紹介してきました。受験生にとって大学選びの参考にもなるじゃないですか。ところが、毎年のように新プログラムが追加されては数年後に終わっていく。あまりにも数が多くて、新陳代謝も目まぐるしいので、文部科学省はいったい何をしたいのだろうかと疑うようになりました。

 

今回の受託収賄のネタになった「私立大学研究ブランディング事業」もそのひとつですけど、タイトルからして何だかなぁでしょ。いわく「学長のリーダーシップの下、大学の特色ある研究を基軸として、全学的な独自色を大きく打ち出す取り組みを行う私立大学の機能強化を促進する」ですもんね。2016年度から始まったようですが、ボクが学長なら「放っといてくれ」ですけど、大学経営にとって何千万円だかの補助金は無視できません。それに17年度は188大学が応募して60大学しか選定されていないので、これをウェブサイトなんかでアピールできるのは他大学との差別化材料になります。

 

でもね、中央官庁による税金分配で民間の鼻面を引き回すようなことはそろそろやめたほうがいい。そう思い始めていたら、案の定ともいえる不祥事がとうとう勃発したわけです。

 

そもそも私立大学に補助金が支給されるようになったのは、1975年の私学振興助成法の成立からです。それまで私学はビンボーで借金だらけだったかも知れないけど、「学の独立」あるいは国から見れば「自由放任」でした。ところが、この法律のおかげで、少しばかり経営が楽になるかわりに、文部科学省の監督権限も強化され、ついでに天下りも受け入れなきゃいけなくなったわけですな。

 

この私学補助金がのあり方が「横並び」の批判を受けるようになったので、今度は「競争的資金」の分配に積極的になったとしかボクには思えません。

私立大学は国立大学と違ってそれぞれの建学理念があるはずですから、それに基づいた多種多様な大学があっていい。にもかかわらず文部科学省から「グローバル化するなら大金を補助しますぜ」となったら、またしても横並びで英語と留学ってことになりますよね。

 

こんなことをやっているから、3500万円の税金=補助金をエサにして自分の子供の不正入学を要求する官僚が出てきたんじゃないかと。おかげで、おそらくですけど「競争的資金」をコアにした大学行政は早晩見直しを求められるんじゃないかな。さもなきゃ似たようなことが必ず起きますってば。それにしても、裏口入学させるなら税金でなく自腹でいけよ。木っ端役人のあまりな姑息ぶりにはほとほと呆れてしまいます。

 

ここまでは収賄側の話です。賄賂には受け取る側と贈る側が必ず存在するので、一方の東京医科大学はどうかといえば、やぁーっばり、いたんですな。ワンマン、カリスマ、いや大狸か鵺かっていうくらいの実力者が、「この子の点数のせといて」とゲタを履かせることを指示したらしい。同大学の入試関係者は唯々諾々(としか思えません)と従ったので、こんな大問題に発展したのです。これって、日大の危険タックル事件と似ていませんか。

では、全国の大学にワンマンやカリスマの理事長や学長が蔓延しているのでしょうか。

 

ボクは問題が2つあると思います。第一に、大学のトップが掌中にする権限が「ジャンケンポン」のような緊張関係を持たないことが大きい。封建時代じゃあるまいし、民主主義の世の中で、たった1人に権力が集中する支配構造はおかしいですよね。アメリカ大統領だって議会を通さなきゃできないことが少なくありません。民間企業ならまだしも、公益&公共&社会的要素の強い大学ですぜ。そんな権力構造を促したのが「ガバナンスの強化」ってヤツです。前述した「ブランディング」の能書きにもあるように、教学・経営のトップに強い権限を持たせるように図ってきたのも文部科学省なんだよな。

 

これは民主的に見える教授会が新しいことには何でも反対するので、「やりにくくて仕方ない」という意見を反映した行政政策と理解することもできます。いずれしても、そうした風潮がなければ、小うるさいインテリの教授を支配下にしたカリスマやワンマンが生まれるはずがない。

 

こうした非対称な権力関係の中で、ルールを無視したタックルの指示や、受託収賄事件が発生したのであります。そして、もうひとつ、学内の関係者はなぜカリスマやワンマンの暴走を止めることができず、協力してしまったのかということにも言及しなければなりません。

 

かなり長くなったので、それについては来週ということで。

 

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2018年7月 5日 (木)

天気と温度

 

 海外に行く時に最も気を使うのが服装であります。相手への礼儀もさることながら、特に春先なんかは、まだ冬物でもイケるのか、それとも夏物にしておいたほうがいいのかと悩まされるわけです。

 

 何しろ今年のスイス・チューリヒは、3月後半というのに雪が降った日もあったくらいです。こちらも先回りしてインターネットの天気予報でかなり寒い日もあることを直前に把握。だから、空港への出がけにユニクロでヒートテックの「極暖」を購入しようとしたのですが、あれは長袖しかないんですよね。ボクは半袖のワイシャツは一枚もないかわりに、下着のシャツは九分だろうが八分だろうが長袖が大嫌いなのです。何だかもたつくように感じませんか。

 

 それで仕方なく、持ち合わせていた通常の半袖ヒートテックを持参しましたが、ある人に「半袖の極暖ってヘンじゃないですか」と言われて「なるほど」と膝を叩きました。いくら暖かい生地を使っても、腕が出てしまう半袖はそもそも矛盾したスタイルですよね。

 

 そんなわけで、ボクのノートパソコンにはチューリヒとジュネーブ、それに6月半ばに行ったばかりのドイツ・ドレスデンの長期予報のページがリーディングリストに入っています。90日くらい先の天気予報と気温が表示されるので便利この上ないのですが、欠点が1つだけあります。平気で表示内容がコロコロ変わるので、毎日チェックしておかないと、いつの間にか快晴から豪雨、気温20度からマイナスになっていたりすることもあるのです。

 

 考えてみれば、天気なんてものは変動するのが当然で、その予報が外れたからといってテレビで気象予報士が「ごめんなさい」とお詫びするのは、日本特有の実直なメンタリティのようです。というわけで、長期の予報ほどアテにはできません。それでもまぁ参考や指標にはなるので、海外に行かれる方はぜひチェックしておいたほうがいいでしょう。

 

 今回初めて行ったドレスデンも日本並みに暑いと予報されていたので、ワイシャツを1日2枚の計算でスーツケースに入れて出かけました。汗まみれでシワシワのワイシャツで夕食なんて格好悪いですからね。

 

 帰国後は暑い日々が続くので、ヨーロッパも同じかなぁと調べてみたら、7月4日のドレスデンは最高が30度、最低が17度。チューリヒは最高が29度で最低が16度。ジュネーブも最高が30度で最低は16度。昼間の最高気温は日本と似たようなものですが、朝夕は気分良さそうです。悔しいなぁ。といっても仕方ないのですが、何だかね。

 

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2018年7月 4日 (水)

大事なことほど正解はない

 

 昨日の午前中は締め切りを控えていたので、夜中の3時くらいからパソコンに向かっていたのですが、聞くともなくスイッチをオンにしていたラジオがやけに賑やかなんですよね。

 

 あまりに静かなのも落ち着かないので、BGMとしていつも同じ局にしていたのでまるで気づかなかったのですが、サッカーのワールドカップで日本対ベルギー戦を生放送していたわけです。渋谷の街頭は論外、スポーツパブやHUBでのバカ騒ぎが大嫌いなので、ワールドカップもはっきり言って大嫌いですが、原稿に没頭しているボクが我に帰るきっかけにはなりました。明け方の世間は日本代表の惜敗で大変なことになっていたようです。

 

 でもさ、ゲームでの敗北を「ナントカの悲劇」と呼ぶのだけはやめようよ。始まりは「ドーハの悲劇」だったと思うのですが、ルールが定められたスポーツの結果に悲劇なんてあるのかなぁ。低気圧の強風にあおられたクルマがガードレールを突き破って谷底に落下するとか、不可抗力がもたらしたアクシデントを「悲劇」と呼ぶわけでね、いくらアディショナルタイムにおける予想外の得点にしても、それを「悲劇」と呼ぶのは思い上がりも甚だしくないですか。

 

 近頃は「神対応」とか何とか、やたらに仰々しい言い回しが流行しているようですが、もしかしたらきっかけは「ドーハの悲劇」だったかもしれません。サッカーでの敗北は、いくらアンラッキーがあろうとも、やはり実力差と理解するほかないはずです。けれども、過剰で壮麗な言葉を使うことで、その本質が隠されてしまう。それでは本当の実力を蓄えることにつながらないじゃないですか。「不思議な勝ちはあるが、不思議な負けはない」という野村克也元野球監督の言葉が分かるサッカーファンなら、「悲劇」なんて言葉は絶対に使わないと思うんですけどね。

 

 それよりもボクの興味をひいたのは、予選の対ポーランド戦での時間稼ぎ戦術です。ルールはよく分かりませんが、1点差で負けであっても、そのままならフェアプレーポイントで同率のセネガルを抜いて決勝トーナメントに出場できる。このため残り10分くらいを戦う気のないパス回しに終始。おかげで昨日の大騒ぎも可能になったのですが、「卑怯じゃないか」というブーイングもすごかったらしい。だからといって果敢に戦っても、逆に点差が開いたら予選で敗退ですから、それでも批判されたでしょうね。

 

 セオリーらしきものはあるだろうけど、こちらが正しいなんて誰にも言えない。学校や先輩が教えてくれることにしても過去のことであって、現在にあてはまるとは限りません。もちろんネットの中にも正解があるはずがない。

 

 つまり、ですね。こういう場合は、自分がやりたいことを決断するほかないんですな。何がなんでもどうしても決勝トーナメントに行きたいなら、批判は無視して、生き残るための最適な手段を選ぶべきです。それよりも名誉や評価を重んじるというのであれば、リスクの高いフェアプレーを続けるべきでしょう。花より団子か、団子より花か。論議はいくらでも高められますが、それを決める指導者は常に1人しかいない。その重責と孤独を引き受けて、逃げ出すことなく決断するのがリーダーの仕事にほかなりません。

 

 それが分かっている人は、監督の采配を簡単には批判しません。どちらに転んでもブーイングを免れないのであれば、自分が後悔しないほうを選ぶしかない。大事なことほど客観的な正解なんてないことを、あの試合から学ぶべきではないでしょうか。

 

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2018年7月 3日 (火)

和服

 

 若い頃はあまり意識しなかったのですが、いくらか年齢を経ると、和服ほど色っぽい装いは世界にないと思うようになります。

 

 欧米のパーティドレスでは、肩はもちろん背中までモロ出しです。映画祭なんかでは裸に薄手の布きれをまとっただけという女優さんも珍しくありません。それに比べて、和服で露出しているのは、腕の一部と胸もとに首筋、それに足袋の上部から覗く足もとくらい。身体のほとんどが隠されているにもかかわらず、だからこそ後れ毛などの艶っぽさが際立つんですよね。世阿弥は「秘すれば花」と言いましたが、ボクの持論である「引き算」と同じで、見えないからこそ逆にイマジネーションが刺激される。つまり、大脳皮質のエロスを刺激する、ものすごくインテリジェントな装いなのであります。

 

 年齢や体形を問わないことも、女性には見逃せないメリットではないでしょうか。欧米の服が体形に合わせて立体的に縫製されているのに対して、和服は平面裁断なので、着付けによって「ジャストフィット」させることになります。つまり、少しばかり太っても痩せても、背が低くなっても高くなっても(あり得ないか)、着付けだけで調整できる。だからこそ母親の和服をそのまま娘に譲渡できるわけです。洋服ではよほど似通った体形でない限りは、補修や調整が必要になってきますからね。

 

 このため、和服で問われるのはカタチやスタイルではなく、「色・柄」であります。逆にいえば、和服は「色・柄」を着るファッションではないでしょうか。ちなみに、和服はいかなるドレスコードでもオールマイティですから、大変に便利な装いでもあります。

 

 子供の頃に母親の着付けを手伝わされた時には、「何て面倒くさい衣服なんだろう」と思っていましたが、今ではまるで逆です。あの格好でどこに行ったのか知りませんが、母親にとって数少ない楽しく浮き立つ瞬間だったに違いないと思います。グローバル社会だからこそ、男は日本史と論語と茶道、女性は和服の着付けと正しい所作を必須教養にすべきではないでしょうか。

 

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2018年7月 2日 (月)

人間だもの

 

 ボクは常に幾何学のように計算機のように、合理的でありたいと思ってきました。逆に大嫌いなのが、感性的、情緒的、非論理的な会話や意思決定です。

 

 けれども、なぜだかプレゼントまたは贈り物が、もらうのはもちろんとして、さしあげるのも好きなんですよね。だからといって獣医学部の設置認可という下心は毛頭なく、ほんのちょっとした、それこそ「気持ち」の交流が好きなのです。ところが、この贈り物を「袖の下」とか「付け届け」として悪用するヤカラが増えたおかげで、世の中はすごく窮屈なことになってきたようです。

 

 週刊新潮で里見清一さんという医師が『医の中の蛙』という秀逸なエッセイを連載していますが、病院では医療者への贈り物は受け取らないということが徹底されているみたいですね。彼は逆に「それでも贈り物は断るな」(2018年7月5日号)という立場で論を進めています。

 

 実際には、これは大病院や公的病院に限った話で、ボクの個人的な経験からいえば、民間のクリニックや歯科医院で贈り物を断られたことがありません。行きつけの歯科医院ではハガキの礼状をもらうくらいです。それで想像がつくように、ボクは若い頃に歯科医院にオールドパーを持参して知人に仰天されたことがあります。名古屋では常識的だったと思うんですけどね。今でも海外取材に出かけた折に、チョコレートを買ってお土産にすることがしばしばあります。

 

 そこまでしても、神経を抜くときにはイヤな気分になり、痛い時は痛いですから、特別な待遇を期待しているわけではありません。こちらとしては「やたらに痛がるワガママな患者ですいませんねぇ」という軽い感謝の表明に過ぎないので、ヘンに構えられると、むしろ居心地が悪くなります。

 

 某大病院で診ていただいた時にも、チョコレートをお土産として医師にお渡ししたのですが、断られないまでも、そそくさと足元に置かれたので、「ああそういうことか」と院内の事情を察しました。これは随分前のことなので、前述のエッセイによれば、黙認から断固たる禁止へと流れが変わってきたようです。

 

 贈り物を大っぴらに認めれば、どんどんエスカレートさせる小狡いヤカラが必ず出てくるので、「原則禁止」は続けるべきです。でもね、どんなことにもグレーゾーンはあるのですから、「飴玉ひとつでも断る」というのはどうなんでしょうか。このあたりの姿勢に里見先生はエッセイの中で詳細な反論を展開されていますが、ボクはグレーゾーンはグレーゾーンのままでいいんじゃないかと思うんだよな。エッセイの終わりに「もちろんモノによる。ダイヤの指輪なんか出されたら付き返すんだぞ」と学生に指導していると書いておられますが、それでいいんですよね。

 

 グレーゾーンを突き抜けたモノはアウトという自覚が双方にあれば、贈り物は絶対に賄賂なんぞにはなりません。税務署だって贈与と見なすはずがない。東京五輪誘致の際に話題となった「おもてなし」という概念も、その延長にあるとボクは思うのです。

 

 そうした対価を越えた「気持ち」を杓子定規に規制するというのは、ボクは反対だなぁ。たとえば病院のICUでに勤務するのは看護師には激務でしょう。ウトウトしかけた真夜中に患者からのアラートで呼び出され、行ってみたら原因不明の緊急事態で大騒ぎなんてことも普通にあるはずです。そんな看護師さんたちに、たまに甘いモノを贈るのも絶対禁止というのでは、世の中ギスギスしてきますってば。

 

 しかしながら、御礼や感謝の気持ちとして何かを贈りたいというなら、慎重に選んだほうがいい。特別な事情がない限りは、残しておくことのない「消えモノ」=食べ物が最適ではないでしょうか。そして、相手が複数の場合は、小分けして配れるモノが絶対要件となります。大きなバウムクーヘンなんかむしろ迷惑ですよね。切り分けなきゃいけない羊羹やカステラなども病院には不向きだと思います。ご家庭への進物ならいいんですけどね。

 

 また、賞味期限はできるだけ長いほうがいい。いくら美味でも「2〜3日」では、早く食べろと急かされているように思われます。さらに好き嫌いができるだけ少ないジャンルを選んだほうがいい。ここが最も難しいポイントですが、少なくとも山海の珍味的なモノは避けるべきじゃないかな。

 

 ちなみに、ボクは先般のドイツ取材で日本からお土産を持参したのですが、対象が高級時計工房に勤務するドイツ人なので、さすがに悩みました。ネットでいろいろ調べた結果、どうやらセンベイにはあまり抵抗がないらしい。けれども、アマカラというのかな、みたらし団子のタレみたいな混淆した味は苦手なようです。インターネットでここまで分かるんだから、さすがは高度情報社会ですよね。

 

 そうした調査をもとにしてボクが選んだのは、5種類のひとくちセンベイを5枚ずつまとめて和紙の袋に詰めた30個入りのセットでした。これなら皆さん気軽にピックアップできます。その中に嫌いなモノがあっても、5枚全部ということはほぼないでしょう。袋やパッケージに漢字をアレンジしているので、「日本」ということも分かるはず。しかも、そんなに高価ではなく、むしろ「えっ」と驚かれるほど安いのです。その狙いが当たったかどうかは分かりませんが、そういうことを考えるのが贈り物を選ぶ楽しみなんですよね。

 

 そうした贈り物を許容するグレーゾーンというのは、「人間だもの」を言い換えた境界であることを、皆さんきちんと理解すべきではないでしょうか。ボクたちは機械じゃないんだもの。

 

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