笠木恵司の主な著書

  • キャリア・チャレンジ2009-2010
  • 資格試験合格後の本
  • 学費免除・奨学金で行く大学・大学院進学・休学・留学ガイド
  • 価値ある資格厳選200
  • インターネットでMBA・修士号を取る
  • 腕時計雑学ノート
  • 「国際標準」ビジネス資格完全ガイドブック
  • 日本で学べるアメリカ大学遠隔学習プログラム
  • テレビ局完全就職マニュアル
  • 資格の達人
  • MBA入学ガイドブック
  • 学んで! 遊んで! 役に立つ! インターネットキャンパス
  • 日本で学べるアメリカ大学通信教育ガイド

お気に召したら、ポチっと↓

  • 笠木恵司のブログ

福助くん その6

  • D_p1000397_s
    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

  • 5djustice3f5d5575e032a1
    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

« 2018年7月 | トップページ | 2018年9月 »

2018年8月

2018年8月31日 (金)

感情の引き算

 

 人に好かれたいモテたいなんていうスケベ心は大昔からありませんが、ある年齢を経たら、感情も「引き算」しなきゃいけないと考えるようになりました。

 

 感情というのは「好き嫌い」が象徴的でありまして、仮に思っていてもあからさまに顔に出す人は社会生活が困難になっていきます。人間の感情はミラー効果というのがあって、誰かから「こいつイヤなヤツだな」という電波を感じると、「オレだってお前なんか嫌いだ」と反応するのが普通です。だったら「好き」も伝染すればいいのに、必ずしもそうならないのが不思議ですが、少なくとも嫌われることはあまりないはずです。

 

 こうした感情がいけないというわけでは決してなく、鋭敏な好き嫌いは深い想像力や豊かな創造力につながります。「好きでもないけど嫌いでもない」という中途半端な感情は、実のところ何の役にも立たないといっていい。むしろ積極的な好悪の感情が文化・文明を発展させてきたといえるんじゃないかな。たとえば暑いのが死ぬほど嫌いな人が、扇風機では飽き足らなくなって冷房装置を発明するわけです。実際には潜水艦の兵器庫を冷却することが始まりだったらしいですけどね。少なくとも「心頭滅却すれば火もまた涼し」と澄まし顔で座禅している人が、エアコンを作ろうなんて思いもしないはずです。

 

 かの万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチも、本人は怒りっぽくて、何かにつけて不平不満だらけの人だったんじゃないかな。さもなければ、モナリザなんかの名画を描いた上に、飛行機やヘリコプターの原型も考案するなんていう八面六臂の活躍は無理でしょう。

 

 というわけで、優れた才能を持つ人なら、盛大な好き嫌いは人類全体に貢献する結果と引き換えにして、むしろ許されると思うのです。しかしながら、そんな天分を持つ人はひと握りですよね。

 

 だから、ボクたちも若いうちは感性を大いなるバネにして自らの才能を積極的に試すべきです。でも、ある年齢を経て自分を凡人であると認識したら、その感情を「引き算」していかなきゃいけない。このブログで持ち物を「引き算」していく必要性を何度も指摘してきましたが、感情も例外ではありません。特に好き嫌いは自分自身の負担になるだけでなく、前述したミラー効果で他人に伝染していくからです。

 

 そこで、今回の体操選手をめぐるパワハラ騒動を見直してみると、18歳の若い女性選手の指摘に対して、功なり名を遂げたシニアの権力者が「全部ウソ」と正面から反論するのは、あまりにも大人げのない最悪の対応というほかありません。もしも仮に狂信に基づいた妄想であっても、そうした反発によって、彼女はますます硬化していくでしょう。同じ土俵に上がって同じように対立するのでなく、異論反論もやさしく受け止めるフトコロの深さが権力者や指導者に求められている本質だと思うのです。日頃そうしていれば、あんな記者会見に発展することもないと思うんだけどなぁ。

 

 権力を持つ人は、天才と同じように周囲が感情の発露を許してしまう環境になりがちです。だからこそ逆に、好き嫌いの「引き算」を自ら強く意識しないと簡単にワンマンになり、ひいては裸の王様になってしまう。近頃はそうしたケースが頻発していますよね。

 

 かくいうボクがそうではないとは言いません。何しろ大昔から食べ物以外の好き嫌いが激しく、おかげでボクを好ましく思わない人も少なくないと思います。それによる幾多の悲しい経験や深刻な悩みを重ねた結果として、感情を「引き算」していく必要性を発見したのであります。もちろんまだまだ思うようにはできていませんが、そうでもしなれば他人の心にもイヤな渦を作ることになってしまう。冒頭で述べたように、今さらみんなに好かれたいなんていう大それた野望はありませんが、迷惑をかけることからそろそろ卒業しなきゃね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2018年8月30日 (木)

このろくでもない世界

 

 ルイ・アームストロングが歌ってスタンダードになったWhat a wonderful worldという楽曲がありますが、ボクはあまり好きではありません。G・ダグラスとジョージ・デヴィッド・ワイスが作詞・作曲して1967年にシングル盤をリリース。翌年に同名のアルバムも発表されましたが、この歌を世界的に有名にしたのは、やはりロビン・ウィリアムスが主演した映画『グッドモーニング、ベトナム』(1987年)じゃないかな。

 

木々は緑に、赤いバラもまた咲いている、私とあなたのために

(中略)

私は思う、何と素晴らしい世界なんだろう。

 

(中略)とした途中の歌詞は、空に虹がかかったり、友達が握手したり、赤ん坊が元気だったり、とにかく「素晴らしき世界」がひたすら描写されています。好きな歌ではないので詳しく紹介しませんが、そんな楽曲をベトナム戦争の惨状を描いた映画でBGMに使うなんて、明らかに強烈な皮肉です。そもそもベトナム戦争を嘆いて作られた歌らしいのですが、にもかかわらず、だからこそ、あれほど前向きで美しい曲と内容になったんですよね。

 

 おそらく今ではそうした暗い背景が脱色されて、タイトル通りの「賛歌」として解釈する人も多くなってきたんじゃないかな。でもねぇ、この歌を希望に満ちて堂々と朗唱されると「ちょっと違うんじゃないか?」とボクは感じるわけです。秘められた怒りや悲しみという陰が感じられなければ、ただの能天気な歌になってしまう。

 

 現実の世界は、「素晴らしい」どころか、缶コーヒーのテレビCM「このろくでもない世界」のほうが圧倒的に正しい。この制作者は間違いなく原曲を知っているはずですが、宇宙人ジョーンズの剽軽な行動のおかげで、やはり意味が逆転。こちらは「ろくでもなさ」を愛すべき人間らしさとして肯定的に表現しています。誰が作ったか知りませんが、裏返しの裏返しですから、大した才能というほかありません。

 

 あ、本題を忘れていました。「このろくでもない世界」に対する絶望をグダグダと書きつけるつもりでしたが、もういいや。不愉快なことを書いても、いよいよ不愉快になるばかりだもんね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

2018年8月29日 (水)

1.19%

 

 すいません。本日は締め切りがありまして、そそくさと終わります。

 

 このブログで公言しているように、ボクはニュース以外にテレビの地上波をほとんど見ません。24時間テレビなんか「あ、もうこんな時期なのか」と気づいてすぐに他局に変えたので、実質2秒くらいでしょうか。いつまでこんな番組を続けるつもりなのかな。

 

 そうしたバラエティやドラマに比べてニュースなら大丈夫かといえば、ちっともそんなことはないんですよね。同じ局のニュース番組で、珍しくボク好みの美形女子アナが出ていたので、しばらく見ていると、中央省庁の8割が障害者雇用数を水増しというとんでもない話題になりました。それまで公表されていた数字の約半分、「1.19%」が実際の雇用率だというアナウンスを聞いて、ボクは耳を疑いました。その内容でなく、読み方のほうです。

 

「いってんじゅうきゅうパーセント」

 

 えっ? えーっっっっっ! という感じですよね。あまりにも堂々と明瞭にはっきりと発声したので、ボクのほうが間違っているのかと疑ったくらいです。1.19%を、いってんじゅうきゅうパーセントと読んだんですよ。目が点、じゃなくて耳がダンボ、でもないか、とにかく仰天しました。それって、いってんいちきゅうパーセントじゃねえの?

 

 しばらくすると「失礼しました」となって訂正してくれたので、ああやっぱりとホッとしました。新人アナウンサーだったらしく、ボクが大嫌いな関西弁の先輩男性アナウンサーが「小数点以下はいちきゅうなんですよね。間違いは誰でもあるからさ」みたいに優しくフォローしていましたが、そんな問題かなぁ。これまでも「旧中山道」を「いちにちじゅうやまみち」と奇想天外な読み方をしたアナウンサーはいましたが、漢字ならまぁ仕方ない要素はあります。人名や地名はいろいろありますから。けれども、数字の読み方を間違えるというのは初耳、じゃなかった前代未聞(これなら意味的に正しいですよね)です。

 

 もしかすると帰国子女かなと一瞬は思いましたが、それまではスムースな日本語だったので、何かの事情で算数をまるきり勉強しなかったか、小数点以下の数字が出てくるところで学校を休むような事情があったかもしれません。それでも高校1年あたりには是正されると思うんだけどなぁ。

 

 とにかく、漢字ではなく数字の読み違いというのはものすごい話です。訂正とお詫びだけでなく、報道に携わる仕事なんですから、基礎教養をチェックしておくべきじゃないかな。どうにもね、このテレビ局は顔だけで採用しているとしか思えません。小数点以下の読みを入社試験で出題する会社なんて、全国にひとつもないでしょうけど。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

 

2018年8月28日 (火)

石原裕次郎

 

 銀座の百貨店で開催されている「石原裕次郎の軌跡」と題された展示会に行ってきました。1階には有名なガルウィングのメルセデス・ベンツ300SLが置かれており、暑いさなかにもかかわらず人だかりがありましたが、ボクのお目当ては裕次郎のファッションでした。

 

 ボクにとって石原裕次郎は同時代的な存在ではないせいか、評価する映画は『太陽の季節』(1956年)、『狂った果実』(同年)、『銀座の恋の物語』(1962年)、『二人の世界』(1966年)が精一杯。ファンの人には申し訳ないのですが、テレビドラマの『太陽にほえろ』や『西部警察』なんて大人の学芸会です。オモチャ感ありありのショットガンをバンバン撃ちまくり、あちこちでクルマが横転して大爆発なんて、あまりにもバカバカしくて見ていられませんでした。

 

 それでも石原裕次郎に興味があったのは、敗戦後の日本社会が必要としていた若者の理想像だったのではないかと思ったからです。カネ持ちの家で苦労知らずに育たないと決して身につけることができない、悪意のない無垢な純情を備えていました。これは加山雄三も共通しているのですが、他人を嫉妬したり、自分の利益のために弱者を踏みつけにする、小心者特有の貧乏臭さがまるで感じられない。ごく簡単にいえば「お坊ちゃん」なのですが、生きることに汲々とする戦後の混乱期~成長期には、彼のような若者像が憧れだったのではないでしょうか。

 

 そんなヒーローがどんな服を着ていたのかということに興味があって、わざわざ出かけたのですが、さすがに時代は変わったなぁという軽い失望感がありました。フルオーダーらしい特別なディテールは随所に見受けられましたが、全体としてダボッとしたスタイルで、アームホールは大きく、腕も太く仕上げられています。つまり、現代のようにスリムに絞ったデザインではないわけです。ズボンも太いし。ファッションは時代感覚に制約されるので、当然ではありますけどね。

 

 しかしながら、エルメスのスカーフを裏地に使ったジャケットがいくつか展示されており、これには感心させられました。知る人ぞ知るオシャレらしいのですが、さすがは映画俳優というほかありません。

 

 ただ、展示会全体のデザインというか演出があまりにもショボイんですよね。古い衣服を展示するから仕方ないにしても、工夫がなさ過ぎる。温泉地の秘宝館とはいいませんが、そんなホコリっぽさを感じました。もうちょっと華やかにしないと、裕次郎に申し訳ないと思うんだけどなぁ。デジタルアートを絡ませて、彼の生きた時代に来場者をタイムスリップさせるとかね。主催者が予算を相当に渋ったのではないかと疑ったくらいです。

 

 いずれにしても、ボクが会社を設立した1987年に裕次郎は52歳で亡くなりました。そういえば、昭和の歌姫といわれた美空ひばりも同じ年齢で世を去っています。それよりもボクは長生きしていますが、だからといって何かを為したかといえば大したことをやっていません。彼らのことを思う度に、人生というのは長さじゃないんだよなと、いつも再認識させられるわけであります。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

 

2018年8月27日 (月)

個人の自立

 

 バスケットボールの日本代表選手による買春が大きな話題になりました。もちろんカネで性を買うのはいけないことですが、未婚女性が結婚相手を資産や収入、家柄や地位で値踏みするのはOKなのかなぁ。「私は年収1500万円以上の人としか結婚しないの」と豪語する女性は、買春とは逆の専属的な売春宣言ではないかとすら思うんだけど。しかも、愛や恋が始まる前の条件設定ですから、こりゃもう背中に値札を付けたも同然ということを、ご本人は自覚しているのでしょうか。それだけでなく、他の女性にも同じように値札を付けることを意味するのです。

 

 そのおかげで、夜の巷で買春する男は、昼間に出会う女性にも「いくら払えば抱けるかなぁ」と舌なめずりするようになるんじゃないかな。「いやいや滅相もない」と否定したところで、カネで女性の貞操というか選択の自由を買い取りした経験者であれば、「あなたは値札がついてないので」という理屈は成立しません。だから「男の生理だから仕方ない」とか「そんなに目くじら立てなくても」と買春を擁護する意見に、ボクは一切賛同することができないのです。

 

 極論すれば、資本主義では不可避な商品化が「性」や「結婚」も例外ではないということですから、人権意識がもっと浸透しない限り、経済力を備えた女性が今度は男を買う側にまわることも十分にあり得るわけです。

 

 好意的に考えれば、前述のバスケットボール選手も、1人だったらそんなことはしないと思うんだよな。日本代表という体面もあるしね。それでも具体的な行為にまで発展したのは、みんなと一緒という「ノリ」が大きな背景ではないでしょうか。1人ではできないくせに、集団になると平気でやってしまう不道徳や悪事なんて昔からいくらだってあります。近年は「ノリ」というワケの分からない言い訳になりましたが、要するにビートたけしの不朽の名言「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ってことなんですよね。

 

 つまり、21世紀になっても、日本の教育は個人の自立ということをまるで教えていないという証拠ではありませんか。

 

 かの大戦時に特攻隊の志願者を募る時は、兵隊を一列に並ばせて「希望者は一歩前へ」と声をかけたそうです。当時の軍隊ですから、そんな指示に抗うのは勇気が必要ですが、それでも命が惜しいので数人はそのまま立ち尽くして前に出ません。すると教官は「もといっ!」と列を戻してから、もう一度「一歩前へ」と促す。それを数回やるだけで、全員が前に出たそうです。

 

 そんな悲惨な戦争が終わってから、今年でもう73年ですよ。けれども、ボクたちのメンタリティが変わったとはとてもいえません。むしろ「勝ち馬に乗る」という傾向が強まってきたとすら感じます。この言葉もまた1940年に大政翼賛会が成立した前後に「勝ち馬に乗り遅れるな」として大流行しました。

 

 おいおいホントに日本は負けたのかよと疑うほど、ボクたちの精神性は変わっていないのです。連帯責任も同様で、無責任の別名であることにそろそろ気づかなきゃダメでしょう。スポーツも会社も「自ら思考する組織」が最強であると提言されたのは1990年代だったと記憶しますが、これは現代でも通用する普遍の鉄則ではないかとボクは思うんですけどね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2018年8月24日 (金)

直感に従え

 

 近頃めっきり苦手になってきたのが、インスタントラーメンです。カップだろうが袋入りだろうが、とにかく薬くさく感じて最後まで食べられなくなってきました。若い頃は大ファンだった銘柄でも「え、こんな味だったっけ?」と、箸がまるで進みません。

 

 これまで美食に親しんできたわけでもないので、年齢のせいなのかなと思ってはみたものの、店で食べるラーメンなら平気なんですよね。とすれば、あくまでも個人的な感想ですが、インスタントに含まれる何かがボクの体に合わなくなってきたと考えるほかありません。確かにド貧乏の学生時代でも袋入りラーメンは1日2食が限度で、3杯目は一口だけで吐きそうになって泣く泣く捨てたことがあります。

 

 それと同じように、というにはあまりにも縁遠いかも知れませんが、すべての知識や理論は、教育による移転だけでなく、「直感」を育成することを目的にするべきじゃないかな。というのも、活発な技術革新のおかげで、これからの社会を予測することが困難になってきました。シンギュラリティがどうのこうのという以前に、20年先の日本社会はこうなるなんて誰にも言えないではありませんか。この先10年だって、何が終わって何が始まるのか、ボクにはまるで想像できません。

 

 となれば、過去のフレームワークや方法論や経験則なんて通用しなくなるといっていい。大昔に編集者から「このタイトルでは絶対に売れない。オレの経験にかけて断言できる」と大見得を切られたことがありますが、それほどの自信を持って言えることはなくなるんじゃないかな。ボクは表だってその意見に反対はしませんでしたが、むしろ経験則を破ってきたのがベストセラーじゃないかと腹の中で思っていました。実際に、近頃の人気書籍は、昔の常識に逆らうように長い文章的なタイトルが目立ちますよね。結局は4文字くらいに短縮して呼ばれるようになるのですが、その頃には堂々たるベストセラーになっているわけです。

 

 こうした常識外れが、これからはいたるところで発生するとボクは予測しています。そんな時に、是非や理非や勝算などをどのように判断したらいいのでしょうか。教科書や参考書なんてもはやヒントになり得ません。ジーサンたちの繰り事に近い体験談もお伽話以上の意味はないですよね。ビジネススクールで山のようにケーススタディをこなしたところで、やはり過去の事例に過ぎないので、そのフレームワークに無理矢理に落とし込んでもうまくいくはずがない。

 

 そうした五里霧中の状態で頼りにできるのは、本能に近い「直感」以外にあるでしょうか。イヤなものはどんなに納得しようと努力しても生理的にイヤであり、面白いと興味を惹くことに理屈なんかありません。こうした「直感」を「感性」と言い換えてもいいんだけど、すべての知識や理論は、そこまで肉体化して初めて現実的に応用できるのではないでしょうか。

 

 ということは、言葉と数字を教室や書物を通して勉強するだけではダメなのです。何でもかんでも実際にやってみて、体に覚えさせていくほかない。そのためには徒弟制度を科学的&心理学的に見直してもいいんじゃないかと思うくらいです。

 

 その意味では、インスタントラーメンがまずく感じるようになってきたにもかかわらず、かつては美味しかったからという経験則に従って食べ続けていけば、妙な病気を招来したかもしれない。食品添加物などの安全性は確認されているはずなので、よもやそんなことはないはずですけどね。

 いずれにしても、そうした個人的な「直感」を知識と理論で磨き抜くことが、先の見えない時代を生き抜くために必要ではないかと思うわけです。「直感」に従えば、少なくとも後悔することはないんじゃないかな。

 ただね、経験則と混同しやすいことが問題であり課題なので、くれぐれも注意してください。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

 

2018年8月23日 (木)

お寺と坊さん

 

 人口ピラミッドで最も厚みのある団塊の世代が「時期」を迎えているのか、お墓と葬儀をめぐる話題がやたらに多くなってきたように思います。それ以前から「終活」という新語も流布しており、遺言やら資産の整理を勧める記事も目立ちますよね。

 

 そのフィクサー、とはさすがに言いませんが、「退職金」の運用はもちろん、「生前贈与」をテーマにした金融系のテレビCMを頻繁に見かけるようになりました。みんなが死ぬ時期を待ち構えているのかな。そりゃね、人間は生きていれば必ず死ぬことになり、何らかの財産を残すことになるのでしょうが、マスメディアで宣伝するのはちょっとあさましくないでしょうか。そんなCMを見るたびに、決して大げさではなく、ボクは吐き気を催すのであります。

 

 さて、話は戻りますが、お墓といえばお寺であります。お墓は小さいといえども必ず土地が必要になるので、結構なビジネスになるようです。このため、現在ではお寺も坊さんも、ほとんどが墓守りまたは墓地の経営者になり下がっているんじゃないかな。お寺と坊さんの役割を歴史的に世界的に見直せば、そんなものはあくまでオマケであって、死んだ人より生きている人のケアが本業だろうとボクは思います。親戚が集まって供養する法事にしても、故人を偲びながら自分たちが生きてあることに感謝し、より良い人生をまっとうしようね、ということを再認識する場であるとボクは思い込んできました。

 

 そうした場で、あるいはお盆に、死ぬということはどういうことなのか、それに対して生きる意味や価値はこういうことだよと、ありがたい説教を通して生者をリードするのがお坊さんの本来的な役割ではないでしょうか。しかしながら、ボクの極狭な経験によれば、あまりにも不勉強なせいか、そういうことを積極的にやろうとする気持ちが感じられない。態度だけはエラソーですけどね。少なくとも寺や坊さんは、お経を読み、戒名を書いてナンボという仕事ではないはずです。

 

 近頃は檀家がどんどん少なくなっているらしいですが、これでは当然の結果というべきでしょう。生者にとっての存在意義が希薄になれば、誰も寄進なんてしませんよ。どんな宗派であれ、歴史ある既成仏教のお坊さんたちは、地域の心理カウンセラーであることをきちんと自覚すべきじゃないかな。特に現代は先を予測することが困難になってきたので、悩める人はいたるところに山のようにいます。

 

 ボクが以前に取材した尼寺は、夫婦のトラブルから逃げてきた奥さんを守り通す場所として、まさに「駆け込み寺」となっていました。であるなら、会社での人間関係に疲れたサラリーマンや挫折したエリート、あるいは部下と上司の板挟みで困惑する中間管理職を慰撫するような駆け込み寺にすればいいのに。

 

 そのためには、坊さんを代々の世襲にしないほうがいい。そうでもしなければ、またぞろ危険な新興カルトが発生するんじゃないかな。寡聞ながら、坊さんたちがオウム事件に本気で向き合ってきたとはとても思えないからです。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2018年8月22日 (水)

選ばれてあることの……

 

 歳を取れば取るほど、自分が極めて平均的な凡人にほかならないことを痛感するようになりました。そのことをイヤというほど知るために、これまでの歳月があったようなものです。

 

 そりゃまぁ、少しは他の人より優れた能力もあると思うんですよ。人柄もすごくやさしくて親切だし(異論もあるでしょうが)。それでも、とりたてて大きな違いなんてありません。八百屋に並んだスイカ程度のことじゃないですか。

 

 そんなことを想いながら、アジア大会や高校野球、それに珍しい苗字の女優さんと絶賛熱愛中らしい大金持ちのちょび髭若社長なんかの報道を見ると、とはいっても全部で5分くらいなものですが、以下の言葉が浮かんできました。

 

 選ばれてあることの恍惚と不安二つ我にあり。

 

 もともとはアルチュール・ランボー(1854~1891)のお友達だったフランスの詩人、ポール・マリー・ヴェルレーヌ(1844~1896年)が『智慧』という詩に書きつけた言葉らしいのですが、ボクは太宰治(1909~1948年)で知りました。こちらは『葉』という短編の中で、詩人の名前とともに、そのまま引用されています。

 

 前述したように、ボクは「選ばれてある」者では決してないので、その恍惚なんぞは想像もつかない、というか何だかおぞましいようにも感じますが、もうひとつの「不安」のほうはよく分かります。期待されればされるほど、結果に対する不安が募るというのは、天才も凡人も共通しているみたいですね。

 

 問題は、つい「おぞましい」と形容してしまった「恍惚」なんだよな。というのも、認知症の老人問題をいち早くテーマにした『恍惚の人』(有吉佐和子、1972年)という小説がありましたよね。それに青江三奈(1941~2000年)という歌手が『恍惚のブルース』をヒットさせたこともあります。そんなわけで、恍惚というのは官能方面の形容であって、天才やエリートの皆さんの昂ぶりではないように感じるからです。

 

 そんな昂ぶりを感じたことがまったくなかったわけでもありませんが、今となっては冒頭で述べたように、隣のスイカよりちょっと大きいとか青いなんていうことを錯覚しただけなんですよね。となれば、ボクにとっては以下の言葉に直したほうが適切なようです。

 

 選ばれてないことの安楽と落胆二つ我にあり。

 

 これ、ボクのオリジナルなので無断引用しないでください。えーと、結局、何が言いたいかというと、やっぱりこの言葉に尽きるのかな。凡人は天才のように大きな期待を背負うことがないので、安楽&気楽であるってことが唯一の取り柄ということなんですよね。

 にもかかわらず、たまにボクのように、まるで「選ばれてある」者のように過度に責任や義務を強く感じる人がいます。そもそも非凡な能力なんか持っていないのですから、これは厳しく辛い生き方になってしまう。そんな人が「生き良く」なるためには、自らの才能を客観的に正しく認識し、潔く落胆するほかありません。それ以外に凡人の人生を救う道はあり得ないのです。そこのところから始まって、死ぬまでに何を為すかが、棺を閉じた後の評価になるんでしょうね。

 さて、ボクは何を為したのか、為そうとしているのでしょうか。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

2018年8月21日 (火)

予備のワイシャツ

 

 あなたは会社のロッカーにワイシャツを常備していますか? 

 

 経営幹部や営業系なら取引先関係者の突発的な不幸に対応した喪服一式がぶら下がっているでしょうが、普通の日にワイシャツを着替えてから退社することがありますか、というのが質問の本意です。

 

 もちろん家族の待つ自宅に直帰というなら、特に着替える必要はないですよね。けれども、若い男なら知り合ったばかりの女性とデートしたり、合コンやナンパなんかで夜の街に繰り出すじゃないですか。オッサンにしたって、酒場を通り過ごして自宅なんていう人はマイノリティですよね。

 

 そんなオフタイムの時に、新しいワイシャツに着替えていますか、ということなのです。特に夏場は汗まみれになるのが普通ですよね。エアコンの効いた社内で完全内勤としても、同じワイシャツを1日中着ていたら、たいていは皺まみれになります。そんな格好で退社して酒場のおしぼりで脂ぎった顔を拭くよりも、ワイシャツそのものを着替えたほうが気持ち良いのではないでしょうか。

 

 ちなみに、ボクが海外に出張する時は日数分を超えた予備のワイシャツを必ず持参します。ホテルに戻る余裕のない場合は別ですが、ご招待でディナーなどをいただく時に、昼間から着続けたヨレヨレのワイシャツでは失礼にあたるからです。もちろん旅先という理由で許されることは間違いないでしょうが、人間性を判断されることもあるので、基本的な礼儀としても、そうした配慮は必要だと思うのです。

 

 実際にはジャケットなどを着ているので、わざわざワイシャツを新しいものに着替えても、見た目はそれほど違わないかもしれません。けれども、出がけにシャワーを浴びた後のように、ボク自身の気分が清々しくなることが大切なのです。着替えることで昼間とのメリハリがきっちりつくので、これから美味しい食事などオフタイムを楽しむぞぉと決意を新たにできるんですよね。

 もしかすると、妙齢のご婦人と嬉しいアクシデントが勃発するかもしれない。そんな時に汗臭いワイシャツでは興ざめですからね。昼間のホワイトとは違うやや派手目の新しいワイシャツに微量のコロンは、大人としてのエチケットではないでしょうか。

 

 こういうことが、ボクが期待する「働き方改革」のひとつのシンボルなのであります。それによって、社員=従業者=労働者を仕事漬けから本当に解放することになると思うからです。見聞や識見が会社と自宅から自由になればなるほど、発想や創意工夫の幅も広くなるのではないでしょうか。すでにやっている人もいるはずですが、こういうことを社会的な習慣にすることでオシャレに抵抗がなくなり、仕事も人生もより楽しく面白くなってきます。ワークライフバランスなんていう珍妙でワケの分からないカタカナを使うのはもうやめて、退社時にはワイシャツを着替えて、胸ポケットにチーフを挿すという新しい習慣づくりから始めましょうよ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2018年8月20日 (月)

遊び感覚だよっ(後)

 

 どうもね、ボクたちは仕事と人生について、あまりにも生真面目に考え過ぎてきたのではないでしょうか。経験がきっちり豊かな識見として蓄積されていくなら、まさに「石の上にも3年」ですから、真面目も価値あるライフスタイルだと思います。

 ところが、ここまで述べてきたように、若い人でもネットさえ参照すればプロ並みの本格的な料理をこしらえることが可能です。都内のややこしい道路でも、カーナビを使えばプロのドライバーと同じ最短ルートを利用できますよね。それと同じように、先輩がコツコツと苦労して身に付けたことを、ネットとAIを利用して新人が易々とやってしまう、なんてことがこれからはどんどん起きてくるはずです。

 

 つまり、指示されたことを真面目にやり続ければ、それなりのベテランになれる社会はもはや過去のものといっていい。だったら、仕事と人生に対する考え方を根底から変える必要があるんじゃないかな。

 

 そこで、いささか飛躍するようですが、そろそろ仕事も人生も実は遊びの一種と考えていいような気がするんですよね。「遊び」というと誤解されるかもしれませんが、不真面目ということではありません。子供の成長が象徴的ですが、知恵や創意工夫を発揮するのは、実は勉強よりも遊びなんですよね。学校の勉強は定型的で範囲も定められていますから、それこそ「真面目」にやるだけである程度は伸びていきます。だから教師に従順な女子の成績が良いということになるんじゃないかな。ところが「遊び」のほうはそうはいきません。ゲームにしても相手に勝つためには自分の頭を使った作戦が必要になってきます。慣れが必要と思われるけん玉にしても、自分なりに工夫しなければ上達できるはずがなく、新しい技だって思いつかないでしょう。

 

 どっちの脳を使っているかは知りませんが、少なくとも「真面目」の蓄積をネットやAIが軽々と乗り越えていく時代であるなら、ボクたちは「遊び感覚」で人間としての能力を発揮したほうがいい。

 

 仕事を大人の遊びの一種だと考えることができれば、通勤も苦痛ではなくなります。会社に行けば面白いことが待っているんですからね。退屈に感じるルーチンワークも、遊びの一種として見直せば、いろいろな発見があり、そこから改善・改革が生まれることだってあるはずです。

 

 考えてみれば、ボクたちは「真面目」という別称の「我慢」を随分長いこと強いられてきたのではないでしょうか。唐突ですが「愛国心」も同じで、時の政府の意思に唯々諾々と従うのでなく、革命の反旗を翻すことも国や郷土に対する愛情の発露といえるではありませんか。

 

 近頃は「働き方改革」が流行語になっていますが、論議されているのは労働時間や就業規則、それに給与体系といった外枠ばっかり。働き方の中身も改革するというなら、ボクは「遊び感覚」を是非オススメしたい。これは労働者を本質的に解放する革命的な概念なんですけどね。

 それはまぁ大げさとしても、人生も仕事も楽しくて面白いほうがいいじゃないですか。そのために何よりも必要なのが「遊び感覚」ということなのです。大学のキャリア教育は、そこのところをきちんと教えているのかなぁ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

2018年8月17日 (金)

遊び感覚かよっ!(中)

 

 長い期間をかけて積み重ねてきた経験や知見が、もはや新人でも瞬時に共有できる環境になってきた、みたいな意見を昨日のブログで解説しました。つまり、職場では10年選手のベテランだからといって安心することなんてとてもできないわけで、これからは新卒の若手社員とも同じ土俵で勝負していかなきゃいけない。立派な学歴や地位や経験があるからといってエラソーな顔ができたのは大昔の話で、素というか真の能力や実力がより一層求められるようになってきたわけです。

 

 けれども、そんなことはボクのようなフリーランス稼業では常識でありまして、そもそも学歴や年功序列の原稿料なんて聞いたことがありません。名前が知られていなければ、駆け出しのライターも10年選手もギャラは同じ。むしろ、雑誌が大好きな若い人の流行を追いかける場合は、年齢がハンディキャップになってきます。裏原宿のファッショントレンドをオジサンが取材しようとしても、相手が心を開いてくれない可能性が高くなるからです。このあたりの年齢的な感覚ギャップは昔よりも広がっているんじゃないかな。

 

 水商売も同じで、若手もオッサンも給与体系にほとんど変わりはありません。ということは、年を取れば取るほど不利になるといっていい。

 

 つまり、「やがては功成り名を遂げて」なんて気楽なことを言っていられる業界のほうが恵まれているわけです。戦後の一時期は確かに存在した日本型社会主義はとっくに崩壊しており、国際競争の激化と高度情報化がそれに追い打ちをかけたおかげで、ちょっと前までは大企業でも高給中高年のリストラ、即ち「姥棄て」ならぬ「オジ棄て」による人件費圧縮が課題になっていたはずです。幸いに少子化の進行でコンビニなどの働く場所は増えてきたようですが、新聞のスクラップなどをして1日をつぶせば月末に高給を貰えるなんていう組織は、もはや役所くらいしか考えられません。

 

 そんなわけで、いわば「上がり」といえる安楽な状態はどんどんなくなり、引退する直前まで厳しい競争が続くと考えられるんじゃないかな。というより、これまでが楽過ぎたんじゃないかとボクなんかは思いますけどね。

 

 前向きに考えれば、能力や実力さえあれば、いつまでもどこでも活躍できるともいえそうです。学歴や肩書きや地位のパワーが将来的になくなるとは思えませんが、少なくとも現場では「無冠の帝王」みたいな評価が広がるんじゃないかな。ここに至って、ボクの念願であった本来的な能力主義が実現しそうな気配をみせていると解釈するのは不可能ではありません。

 

 ただね、こういう社会が生きやすいとは思えないんだよなぁ。仕事が厳しいのは甘受できても、他者との競争がね、しんどいのであります。誰かを追い落とさなきゃ上に行けない豊かになれないというのは、すごく悲しいじゃないですか。このためウソかホントか、欧米では若い時にメチャメチャ働いて蓄財し、早期の引退を目指す人が少なくないといわれます。それもまた極端な話ですから、もうちょっと生きやすく、働きやすくならないものでしょうか。

 

 ボクは漫画『釣りバカ日誌』の浜崎伝助がかつての理想だったと信じますが、現実的にはちょっと無理ですよね。しかしながら、彼の「遊びの精神」は今でも生き方や仕事で大いに活用できるのではないでしょうか。それこそが、「生きにくい世の中を、何とか生き良くする方法」を生み出すモチベーションにできると思うのです。そうした自己流の働き方改革をみんなが意識的にやらない限り、ますますギスギスした競争社会になっていくのではないでしょうか。

 

 またまた長くなったので、来週に続きます。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

2018年8月16日 (木)

遊び感覚かよっ!(前)

 

 世の中、何でもありになってきました。

 その理由をごく簡単に説明すれば、やはりインターネットとAIということになります。この2つの技術革新が、これまではシリアルに積み重ねられてきた経験則をフラットで平等なものにするため、時には原因と結果が逆転するようなこともあり得るということです。

 

 えっ、よく分からない? そうですよね、うまく説明するのは大変に難しいのですが、たとえば幼児は様々な知識や経験を獲得しながら大人になるため、これからこうなる、そこからはああなるといった予測がある程度は可能ですよね。ところが、情報化の進展とビッグデータ解析技術などの発達によって、そんな知識や経験則を瞬時に得られるようになってきました。たとえばタクシーのベテランドライバーが10年かけて覚えた都内の最短距離や抜け道も、カーナビを使えば新人だってすぐに同じルートを走れるじゃないですか。

 

 ボクはインターネットが始まった初期の頃は、本格的な「情報民主主義」が到来すると予測していました。かつては王侯貴族、近代なら大学や高学歴のインテリが書物や資料として囲い込むことで階級的な利権としてきた知識が、無料で民衆に解放されるのですから、これこそフランス革命に次ぐ第2の民主革命ではないかと。ついでにいえば、誰もが自由に意見を表明できる公平な場も得たことになるではありませんか。しかしなから、実態はそれどころではなく、前述のように年齢=経験という蓄積も無になってきたわけです。

 

 というわけで、世の中は経験則も含めた知識と情報に関して完全にフラットになりつつあります。おかげで、萌芽→普及→発達→終焉という流行のプロセスも極端に短縮化されるため、見た目には「何でもあり」という状態になってきたとボクは理解しています。

 

 このあたりの解釈や理論化は学者や研究者にお任せしますが、要するに昨日入社してきた新人と、20年も業界で働いてきたベテランとの間に大きな違いはなくなってきたといえるんじゃないかな。

 

 ここのところが、オジサンたちにとってはシンギュラリティよりずっと早い時期から具体的な脅威になってくると思われるのです。20歳そこそこの新人が、AIなどを使えばシニアと同じ経験則を利用できる。だったら、オレの数十年間は何だったんだとなるでしょ。現実のビジネス社会では、AIそのものよりも怖ろしい事態がすでに進行しているとボクは考えています。

 

 だったら、オジサンたちはどうすりゃいいんだと心配になりませんかねぇ。というわけで、このテーマは明日も続けたいと思います。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

 

2018年8月15日 (水)

糖分かよっ!

 

 酒があまり飲めなくなってきたのと並行して、甘いモノが好きになってきました。近頃はスイーツ、というのかな。

 

 ところが悲しいことに、長いこと酒好きの辛党を続けてきた関係で、スイーツの基礎知識がまったくないのです。今頃なら、かき氷の宇治金時とミルク金時が最上位というくらい。ちょっと前までは金つばに凝っていたので、あずき分野はかろうじて分かっても、ババロアだのプリンだのケーキ系となると、もはやまったく分かりません。

 

 これはスイーツに関するボクなりの世界観が確立されていないことを意味すると解釈して、駅前のアトレの売場に行ったりするのですが、酒の飲み過ぎはあっても、スイーツの食い過ぎというのはボクにはとても考えられません。もしあるとしたら、肥満や糖尿病は避けられないんじゃないかな。

 

 物事の世界観をつくる方法は、ボクだけではないと思いますが、自分の中にスタンダードを持つことですよね。流行の言葉ならベンチマークというか、評価基準です。たとえばワインでは、ボクの場合はカリフォルニアのシャルドネだけを飲み続けることで、白ワインの標準的な味として覚えるようにしました。それが身につけば、甘いとか重いとかフルーティであると比較できるようになるわけです。

 

 けれども、スイーツでそうした基準を作ることが可能なのでしょうか。もうそうなら、何を食べればいいのかなぁ。プリンやチーズケーキかなと狙いをつけたこともあるのですが、にわか甘党のせいか、どうにもね、そんなに食べることができません。ちょっとだけで十分だもんな。

 

 しかも高カロリーで、糖分の含有量もハンパではないので、前述したように食べ過ぎは健康を害することになる、というあたりでハッと気づいたのですが、これって酒もほとんど同じですよね。つまり、人間にとって酒とスイーツは、同じ分野に属すると考えられるのです。その正体を突き詰めれば、やはり糖分というほかありません。自然の食物ではあり得ない形の純粋に近い糖分は、栄養補給ではなく、嗜好品と断言できます。だからこそ、酒の代替としてボクは甘いものが好きになったんじゃないかな。厳密にいえばアルコールは糖分が発酵作用で分解された結果ですが、原材料は同じですよね。

 

 ここに至って、人間というのはつくづく面白い生き物だなぁと感心させられます。アルコールもスイーツも人間の生存にはまったく関係しない飲食物なのに、世界各地で様々に発展してきました。それを踏まえると、糖分というのはカロリーや栄養素という単純な機能だけでなく、人間の体内で特別な働きをしているとしか考えられません。お恥ずかしいことに栄養学方面はまったくの不勉強なので、スイーツの深い森で迷子にならない程度のスタンダードはつくりたいなぁと考えております。

 

 かといって酒を飲み過ぎたようにスイーツを食べ過ぎることはどうにもできません。だから、この分野は門外漢で終わってしまうという予感も強いんですけどね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2018年8月14日 (火)

強気と弱気

 

 仕事も人生も同じですが、強気と弱気が循環するのはボクだけかな。昔の躁鬱病、今では双極性感情障害と呼ばれている状態ではありませんので念のため。

 

 ちなみに、この双極性障害は英語のBipolar の直訳です。Polarというのは「極」のことなので、気分がたとえば北極から南極へと、真反対の方向に極端に移り変わる感情障害のことです。アメリカのテレビドラマでは頻繁に出てくる言葉なので、随分前から知っていました。

 

 強気と弱気も、それと似ていなくもないのですが、もうちょっと複雑なんですよね。強気の裏腹に弱気がぴったりと張り付いており、弱気も薄皮を一枚めくると強気が顔を出したりするのです。強気は不安や心配を払拭する前向きのエネルギーであり、「オッケー大丈夫!」みたいに楽天的です。逆に弱気は、何でもかんでもネガティブな心配や不安の対象にしてしまうけど、慎重で細心と解釈できなくもありません。いずれにしても、ちっとも気が休まることはなく、いつもクヨクヨと考え続けています。

 

 面白いことに、強気も弱気もある程度の期間を続けると、その状態であることに疲れてくるんですよね。強気は簡単にいえばイケイケドンドン状態なので、エネルギーもそれなりに消費します。それで、ふと立ち止まって後ろを振り返った時に、するりと弱気の虫が忍び込んでくるわけです。

 

 弱気も同じで、あんまり心配しているうちに、そのこと自体にくたびれ果ててしまう。そうなると「えーい、もういいや」というやけくそ気味の諦めが、オセロのように強気の感情にひっくり返るきっかけになるのです。

 

 その振り幅は時によって異なりますが、ボクの場合はかなり頻繁な頻度で繰り返します。さらに、もっと大きなスパンでも行ったり来たりしているんじゃないかな。

 

 それを知ったところで、いかに分析したところで、何の役にも立たない話なので恐縮ですが、その感情を自己管理する方法がないわけではありません。要するに他人と会えばいいんですよね。個性というのは、見せたい自分の継続が他者に植え付けた印象のことを言うとボクは定義しています。だから、強気の人間がたまに弱気になっても、それを露骨に見せることはほぼありません。臆病にも見えるほど慎重な人が、突然にイケイケになったら、精神を疑われるでしょう。

 

 というわけで、他者に会うことで、普通は自己修正して揺り戻しを行ったり、振り幅を縮めることになるんですな。ああ、ここに至って初めて、自分なんていうのは他者との相関関係で形成されたものにほかならないと再認識するわけです。もっと簡単にいえば、自分1人だけでは個性なんて何の意味も持ち得ません。やはり人間というのは、どこまで行っても社会的動物であることを痛感させられる。

 

 これが、ボクのおよそ3~5年単位で繰り返している思考ルートなのであります。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2018年8月13日 (月)

暑さをエネルギーに

 

 昨日、ようやく待望のエアコン取り替えが終了しました。新品だけに、冷風の勢いはまるで違うように感じますが、えっ、それだけなの? と茫然とするほど進歩していないことに驚きました。

 

 取り付けに来た担当者に訊いても「細かな機能は加わっているようですが、18年前と大きな違いなんてないですよ」と、あっさり断言。もちろん電気消費量などは大幅に改善されていると期待しますが、少なくとも見た目だって処分した99年製とほとんど同じで、デザイン的にも何ら変わっていません。エアフィルターを自ら掃除する機能を持つタイプもあるらしいのですが、たまに自分でやったほうがキレイになるんじゃないかな。

 

 情報環境はインターネットを中心として、まさに日進月歩で革新されてきたというのに、考えてみれば、エアコンに限らず日本の家電は進化することを諦めたかのように感じます。掃除機だって、集塵袋をなくすという抜本的な革新を果たしたのはダイソンであり、日本のメーカーではありません。どうしちゃったのかというくらい、創意工夫が感じられない。こんなことはとっくに以前のブログで徹底的に指摘したので、同じことを繰り返せば、ボクも進歩がないことになります。

 

 そこで提案したいのが、夏の暑さを地域全体のエネルギーにできないかということです。猛暑だ酷暑だと、パラソルで紫外線を避けたり、室内をエアコンで快適な温度にするという受け身の姿勢ではなく、太陽熱を積極的に活用できないものでしょうか。平均気温が28度くらいから32度に上昇したとするなら、4度分の余計なエネルギーが地表に降り注いでいる勘定になります。それだけの熱量を人工で作ろうとすれば、どれだけガソリンが必要になるのか検討もつきません。

 

 だったら、ですね。これは紛れもなく風力などの自然エネルギーと同じなのですから、人間が利用できないはずがない。太陽光発電があるなら、太陽熱発電だってあり得るじゃないですか。少なくとも湯くらいは沸かせるだろうし、クルマのボディで卵焼きができます。これをね、文系発想で恐縮ですが、地域全体でやればいいのにと妄想するわけです。たとえば熱を吸収して発電するような塗料を発明してビルやアスファルトに塗りつけるとか。それでもって、地域全体を冷やすエアコンみたいなものを稼働させ、ついでにスマホも充電できるじゃないですか。

 

 暑さや寒さは、これまで住宅やビルなどの建築物個別で対応してきました。それを地域全体で統合・管理・応用するという発想に変えるだけで、いろいろと方法があるような気がしてならないのです。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

 

 

 

2018年8月10日 (金)

個の自立

 

 頭の中が夏バテしてしまったせいか、思考がぐるぐると同じところを回り続けています。日本という国はまだまだ近代化されていないんじゃないか。科学技術は近代化どころか現代化、いや世界の最先端を行く分野も少なくないというのに、社会制度や精神性に関しては、個人としての自立がまるで不十分ではないかと思うのです。

 

 ちなみに、この「近代化」という言葉が、ボクの勉強不足で長きにわたって定義できませんでした。というのも、英語の modernという言葉は、歴史的な「近代」という意味だけでなく、「現代」という意味で使われることも少なくないからです。建築界で「ポストモダン」という言葉が使われたのは1980年代ですからね。それ以降も、この言葉は折に触れてトレンディに徘徊してきたので、「モダンというのはいつのことだよ」と疑問を感じてきたのです。

 

 百科事典などを見る限りでは、市民革命による封建制・身分制の廃止や、それを背後から推進した産業革命からとされているようです。歴史的には1819世紀頃ということになります。

 

 とはいっても歴史なんてのは、ここまでは封建時代で、さぁここからが近代ですよぉ、と高校の先生が線引きするほど単純ではありません。紐のように細い糸が捩り合っているだけでなく、世界各地が同じように発達してきたわけではないですから。先の西洋史としての近代にしても、着目するポイントによって解釈が大きく違ってきます。封建主義を打倒した市民革命であれば個の自我の解放を伴う社会制度改革であり、産業革命なら言うまでもなく科学技術の飛躍的な進展ということになるわけです。

 

 日本では、その両方が明治維新から始まったとされるので、近代といえば、それ以降を指すのが常識です。確かに科学技術や社会制度はそういうことであっても、果たしてホントにそうかなぁと。精神的な意味での近代化、すなわち個人の自我は明治維新を境に変わったといえるのでしょうか。「近代的自我の目覚め」なんていう言葉は確かにありますが、大正、昭和、平成を経ても、そんなものはまるで普及していないような気がするんだよな。

 もしも、近代的自我が確立しているのであれば、カルトにはまったり、根拠不明の長期政権や、組織内での自称カリスマや独裁者などがこれほど跳梁跋扈することを許すはずがない。自我が個として自立していないからこそ、封建的な支配構造が易々と成立するわけです。

 

 ということは、やはりね、どうも日本の義務教育は構造的な問題を抱えているとしか思えないわけです。もっとぶっちゃけていえば、自我の目覚めを抑え込んでいく濃厚な圧力が、ボクの小学校・中学校の実体験としてあります。やたらに集団行動や規律を強制されるのが、ボクはホントに苦手だったんですよね。今でも当時の学校を軍隊のように感じており、嫌悪感を払拭できません。

 

 かといって近代的自我がなにものであるのか、自立した自我とは何か、さらには個の自立ってどういうことなのか、ボクにはまだ分かりません。いまの時点で唯一いえるのは、自己批判できる天の邪鬼のことではないかと。すなわち自分の中にも、自分自身に対する異論反論を持つことが、近代あるいは現代的な自我といえるのではないでしょうか。そうした精神性や思考は、それまで社会あるいは体制のほうから押しつけてきました。その「社会性」を個人の中にそれなりに取り込むことが真の近代化であり現代化だったと思うのです。それがまるで未成熟に終わったからこそ、横並びや権威への無批判な服従や、くだらない流行が頻発するわけでね。

 

 これは日本に限ったことではないにしても、もう少し天の邪鬼が増えてくれない限り、日本は近代化されたと世界に公言できないんじゃないかなぁ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2018年8月 9日 (木)

老害

 

 台風で皆さんがそそくさと家路を急ぐ昨日の夕方、ある発表会に行ってきました。これを詳しく書くと仕事になってしまうのでやめますが、夢と理想を持ち、それを決して諦めることなく、長きにわたって仕事として続けてきた人たちがいることに感動しました。

 

 会社や大学といった、多数の人たちが集まった組織で最も大切なのは、業績や売上げや、ましてや利益や利権なんぞではありません。ジーサンたちが絵空事と嘲笑ってやまない、夢や理想なんですよね。

 

 ボクは、仕事なんていうのは大人の遊びの一種ではないかと考えてきたので、現実論ほどつまらんものはないと思ってきました。だってさ、経営に関するデータなんていうのは常に過去のことでありまして、子供の通知表と同じで、次の学期も保障するものではないですよね。

 

 現実が過去の集積であるなら、未来を創るのはいったい何でしょうか。夢と理想がないのに、良い結果が出るはずがないじゃないですか。若い人たちはそのことをよく知っているからこそ、組織に理念を求めるのです。

 

 なのに、ああ、なのに、年を取るとそうした若き日のことをコロリと忘れてしまう。そして体制内のくだらない政治に熱中したり、自己保身ばかりに邁進するようになる。以前にも書きましたが、ジーサンこそ実現不可能に見える途方もない夢を若い人たちに語るべきなのです。

 

 それができないのに、高い地位に留まって後進の道を阻むことを「老害」と呼びます。ボクの頭の中は現実論が40%を占めており、それに失望あるいは絶望した諦観が30%ですけど、まだまだ夢や理想も30%ほど残っています。さもなきゃ、こんなブログを毎日続けるはずがない。だからさ、年齢なんて関係なく、こうありたいと願う未来を語れなくなったら、それが引き際ってことなのです。

 

 あなたは、そんな夢や理想を持っていますか?

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2018年8月 8日 (水)

人間として

 

 件の終身会長は、大きなクルマの運転席に座ると、自分自身も大きくなったような気がする人なんでしょうね。大排気量の四輪駆動車なら、自分がそれだけ強くなったような気がする。その逆に、自分を大きく見せる、強く見せるために、無駄にバカでかいクルマや大排気量のクルマを買う人もいるはずです。あ、軍隊とか核ミサイルもそうかな。

 

 人間というのは弱い生き物ですから、核ミサイルは除いて、それがいけないということではありません。ただねぇ、そうした妄想が精神の内側まで浸潤すると、「男としてのけじめ」なんてことを公言するようになるわけです。必要なのは「一般社団法人の会長としてのけじめ」であって、梶原一騎じゃあるまいし、「男らしさ」なんて誰も求めていませんってば。そういえば薄曇りのサングラスにメタボな体形など雰囲気はそっくりですけどね。

 

 それよりも、これからは「人間として」という文言が大切になってくるんじゃないかな。

 

 ボクは昔から男なんてのは優柔不断で細かくて神経質で不安やストレスに極めて弱く、要するに女性よりもはるかに女々しい生き物だと認識してきました。逆に女性は優しくて細かいところに気がつくなんて、アッハハハ、大嘘ですよね。さもなきゃ出産なんて空恐ろしい命がけはできません。子育てもストレス過多な仕事ですから、ボクなんかはPTSDになるに決まっています。オレの子育てが悪かったから、こんな性格のバカ野郎になっちまったと後悔することは間違いないはずです。

 

 というわけで、もはや性別なんか関係ないとしたほうがいい。それよりも「人間として」が重要になってくると。しかしながら「男らしさ」「女らしさ」の規範は歴史的な錯覚がきっちりと残っていますが、「人間らしさ」というのはまだ確定された概念にはなっていないと思います。倫理とか道徳的にはあるにしても、「男として」と胸を張るほどの共同幻想には至っていませんよね。でもまぁ、人工知能が発達することで、それが重要なテーマとしてすぐにでも浮上してくるとボクは予測しています。それによって、ようやく人間は男女という生物学的・社会的な縛りから自由になれるのかもしれません。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2018年8月 7日 (火)

流行の終わり

 

 トレンドというのは残酷だなぁとつくづく思います。

 

 このトレンドという言葉自体もあまり好きではないのですが、それはともかく、事務所の窓から見える某レストランが、一時は行列ができるほど混みあっていたのに、今は昔という状態になっているからです。

 

 ここで実名を出すと、なぜだか「じゃもう行かない」という人が増えて衰退にますます拍車をかける営業妨害になりかねないのでやめますが。その隣の隣のハンバーガー屋さんが今度は人気らしく、日曜日には満員でやはり行列ができています。栄枯盛衰・諸行無常というほかないですな。

 

 ボク自身は行列と待つことが死ぬほど大嫌いなので、某レストランにもハンバーガー屋さんにも行ったことがありません。なので、味を論評することは控えます。でもね、あのレストランの味が急に変わることは考えられず、要するに一度は盛り上がった人気が下火になったというだけのことですよね。要するに、味が好きというよりも、行列そのものが好きな人のほうが多いんじゃないかな。だから、何がいいのかよく分かりませんが、目下のところ絶賛繁盛中のハンバーガー屋さんだって、いつか同じように落ち目になるに決まっています。

 

 人間はそもそも飽きっぽい生き物だと思いますが、とりわけ日本はその傾向が強いのではないでしょうか。ここ20数年にわたって、毎年のように海外に出張してきましたが、日本のように駅前や都心が頻繁に様変わりする国はヨーロッパでは珍しいと思います。発展途上国は別ですから、日本はまだまだ成熟した先進国になっていないと考えられるかもしれません。そのくせ、ですよ。見えないインフラだけはしっかり老朽化しているのですから、何なんだろうね。電線の地中化だってろくすっぽ進んでいないのに、上っ面ばかりをどんどん建て替えていく。イギリスでは300年くらい前の建物でパブを営業している店だってあるのにね。

 

 他国のことを言っても仕方ありませんが、日本には誇るべき伝統や歴史的建築物があったはずなのに、それをどんどん壊して現在に至っています。新しいものや流行、もしくはトレンディに価値を感じるというのは、ボクにとっては子供に思えるのです。けれども、行政が自ら音頭取りして、とにかく再開発を進めたがるみたい。それによって、どれだけの利権が誰に転がりこむか知りませんが、そうしたビジネススタイルはもはや前世紀的じゃないかなぁ。少なくともサスティナブルではありませんよ。

 

 ボクが好きだった新橋のうどん屋は数年前に閉店しました。つけ麺が気に入っていたラーメン屋も消えてなくなり、豚肉の生姜焼きが絶品だったレストランもすでにありません。逆に、できたばかりの紅茶スタンドがやけに人気なんだよな。大人だけでなく女子高生も集まるから不思議です。このように書いていくと、いかにもボクが時代遅れのようですけど、指摘したいことはただひとつ。何でもかんでも消費するだけならイナゴの大群とまったく同じで、いずれ草原は丸裸にされて何ひとつ残らない砂漠になってしまうということなのです。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2018年8月 6日 (月)

「引き算」続き

 

 そんなわけで(どんなわけだよ)、書棚の整理が無事に終了。結果的にブックオフの言い値がいくらになろうが、とにかくすっきりさっぱりいたしました。

 

 ここで再度、ボクの考え方を紹介させていただきます。

 

 人生の最初の頃はほとんど「足し算」ばかりでありまして、財産にはならないにしても、持ち物は増える一方という状態になります。家族なんか典型的ですよね。田舎からたった1人で出てきて、結婚して2人、子供が生まれて3人、4人みたいに増殖していきます。

 

 それはそれで大変に結構なことですが、時が経って子供が成人して独立すれば、今度は3〜4人から夫婦2人に戻り、不幸にも相方を亡くしたら、再び1人に戻ることになります。つまり、人生は足し算のフェイズで始まり、引き算に移り変わっていく2つのフェイズがあることになります。

 

 しかしながら、この「引き算」のフェイズに入ったことを自覚できない人が少なくないんですよね。ゴミ屋敷はおそらく別の理由でしょうが、なかなかモノを捨てられない、というより執着がどんどん強くなっていく人がいます。あれはああでなきゃいけない、これはこうするべきだろうという「べき論」を語るのも、そうしたオブセッションの一種じゃないかな。

 

 だから「もったいない」ということと、無駄なモノを持ち続けることは意味が違うだろうというのが、お待たせいたしました、ボクのポリシーなのであります。

 

 よほどの資産家または大家族なら引き算をするヒマがないかもしれませんが、ボクの場合はむしろ意識的に「引き算」をやってきました。ある満月の夜中に(冗談です)、突如として「片付けよう」と閃いたんですよね(ここホントです)。それでごそごそと不要な服や下着を整理、というより持ち物をどんどん捨ててしまいました。今でも着る、または使う可能性が低くなると、躊躇なく即ゴミ箱行きです。

 

 おカネだけは捨てるほどないのが残念ですが、およそ3〜4年がかりでボクの個人的な「引き算」大作戦はほぼ終了しつつあります。できれば死ぬ時は身ひとつが希望なんですよね。しょせん1人で生まれてきたのですから、死ぬ時だって1人が当然じゃないですか。ただね、ただし、悲しい思い出や、心が引き裂かれるほど悔しかった過去だけは、どうにも整理できません。忘れることができればいいのに、折に触れて甦ってくるんだよな。「引き算」したつもりでも、しつこく、しつこく何度も思い出してしまう。

 

 本なんかより服なんかより、この見えない過去こそが「引き算」すべき本当の重荷であることに気づいたのであります。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

2018年8月 3日 (金)

「引き算」断行

 

 またしても、書棚を整理しました。

 

 この事務所に引っ越した時には、確か段ボール箱で15個ほどをブックオフに売り払っています。それで2000円ちょっとですからね。あまりの安値に衝撃を受けたので、今でも覚えております。

 

 それから18年を経て、やはり本が増殖を続けており、そろそろ2度目の「引き算」の時期だよなと、断行したわけです。商売柄ではありますが、特に辞書類が大きなスペースを占めていたので、今回はこれをメインテーマとしました。前回は小説や評論の類を資料性に乏しいという理由であっさり処分できましたが、ランダムハウス英和辞典などの大型辞書はやはり躊躇してしまいます。重くてデカい、すなわち価値も高いという非合理な体感を持っているからです。

 

 でもねぇ、実際問題として、こうした辞書類はもはやネットには勝てません。調べるだけでなく、類語辞典なんかもボクは頻繁に利用していますが、それを紙の辞書でやろうとすると時間がかかって仕方ないのです。

 

 事務所の1番上の書棚にそうした各種の辞書類をまとめていますが、最後に引っ張り出したのは10年以上も前になるんじゃないかな。そこで、これらを完全に処分することにしました。

 

 そんなこんなで、無事に生き残った本を見直してみたら、あらまぁ何ということでしょう、新書が圧倒的に多いんですよね。これにはボク自身も驚きました。いわゆるハードカバーよりも、600~800円前後の新書のほうが、残しておきたい本が多かったのです。常に移り変わる時代を相手にしたノンフィクションなんかより、文芸作品=フィクションのほうこそ大切ではないかという考え方もあって、ボクはそれを否定する者ではありません。けれども、こうした新書のあり方は、紙媒体が危機的な状況だからこそ参考になるのではないでしょうか。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

2018年8月 2日 (木)

Feelin' Groovy(後)

 

 いやあ、さすがは戦後73年。あちこちの業界に鵺みたいな権力者が寄生しているようです。日大アメフトに続いて日本ボクシング連盟ですかぁ。真偽はまだ不明なので何とも言いようがありませんが、どちらも責任者というか権力者がさっさと裏に隠れてしまい、表に出てきて釈明するつもりは金輪際なさそうなところが不愉快です。民主主義の世の中なのですから、権力者ならびに責任者は説明責任があるはずなんですけどね。

 

 さて、“Feelin' Groovy”の続きです。ボクがサイモンとガーファンクルの楽曲を初めて知ったのは、1968年公開の映画『卒業』でした。巷間言われるほど大した内容の映画とは思えませんが、主題歌の『サウンド・オブ・サイレンス』を始めとして『ミセス・ロビンソン』『スカボロー・フェア』などの音楽が、まったく新しい時代の到来を感じさせたのです。彼らのおかげでスリーフィンガー・ピッキングを練習したんじゃないかな。『ボクサー』のイントロとかね。

 

 そして、アート・ガーファンクルの澄み切った高音とポール・サイモンとのハーモニーが絶品だったんですよね。こういう男声コーラス手法もあるのかと、やたらにびっくり仰天。ボクの古くさい音楽観に対して、江戸末期の黒船のような強烈なインパクトを与えたのです。

 

 それだけでなく、彼らの歌詞によって、英語の詩には「韻」というものがあることを初めて知りました。

 

Hello Lamppost,

What cha knowin' ?

I've come to watch your flowers growin'

Ain't cha got no rhymes for me?

Doot-in' doo-doo,

Feelin' groovy

 

 これは“Feelin' groovy”の2番ですけど、knowin' growin'が韻を踏んでいます。日本の現代詩では韻を踏むことなんてほとんどなく、というより日本語で韻を踏むというのは、とても分かりにくい概念です。ダジャレならいくらだってありますけどね。そんなわけでボクは学校で韻というものをほとんど教えられませんでした。けれども、彼らの歌を通して、詩といえば韻を踏むほうが世界的な常識であることを知ったわけです。もちろん漢詩もそうですよね。

 

 ちなみに、後のヒット曲『コンドルは飛んでいく』(1970年)なんかはよく例に出されますが、snail(かたつむり)とnail(クギ)、street(通り)とfeet(足)が韻を踏んでいます。

 

 で、ね、それによって歌はどうなるか。メロディとの馴染みが抜群に良くなるのです。近頃の日本の歌は主義や主張、考えをそのまま表現しているので、詩として未完成というだけでなく、メロディへのノリが悪いこと夥しいのですが、これも韻を踏んでいないからなのです。韻を踏んだ歌詞はスムースに、かつリズミカルに呼応しながらメロディに乗せることができます。面倒なので紹介はしませんが、カーペンターズのカントリー&ウェスタンは、歌詞とメロディが不可分な記憶となって自然に心の中に染みこんできますよね。

 

 日本語の歌でも、正確な意味での韻ではありませんが、同じような効果を持たせた『横浜たそがれ』という歌があります。「横浜、たそがれ、ホテルの小部屋、くちづけ、残り香、煙草のけむり、ブルース、口笛、女の涙」と、詩はすべて名詞だけで構成。サビのところではじめて「あの人は行って行ってしまった」ですからね。この名詞の連なりが韻のようにたたみかけてくるように感じられるのです。山口洋子の最高傑作ではないでしょうか。

 

 いつものように遠回りしてしまいましたが、2番の歌詞を訳しておくと、以下のようになります。

 

こんにちわ、街灯さん。調子はどうかな?

花が咲いているかどうかを見に来たんだけど、

返事はないのかな?

ああ、いい気分だ

 

 こんな歌をくちずさみながら、みんなが軽いステップで街を歩いていくような社会がボクの望む「生き良い世の中」なんだけど、そんなにも簡単なことすらできていないって、どういうことなんだろうか。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2018年8月 1日 (水)

Feelin' Groovy(前)

 

 このブログのサブタイトルは、「生きにくい世の中を、何とか生き良くする方法」です。2009年10月に初めてブログを書いてから9年を経過しており、すでに2000本近くですから、まさに塵も積もれば山ですな。

 

 でね、このサブタイトルはどこから着想したかというと、その当時に取材した立命館大学の「生存学」研究センターです。ごく簡単に説明すれば、「治らない」病気や障害を抱えた人たちがどうやって生きてきたのか、そしてどうやって生きていくのかを研究する学問なんですよね。このため、研究センターでは難病の患者会などと連携していますが、某女性国会議員の超差別的な評論を借用すれば、「生産性」に乏しい、あるいはないといっていい人たちが、どうしたら生き良くなるかを研究しているわけです。

 

 某女性国会議員は夢にも思っていないかもしれませんが、人間なんていつだって治療法のない難病に罹患したり、寝たきりになってしまう弱い生き物です。今のところは健康で「生産性」が高くても、交通事故などのアクシデントで半身不随になる可能性は否定できないじゃないですか。にもかかわらず、重ね重ねで恐縮ですが、某女性国会議員が指摘したように、「生産性」のない人たちに税金を使うのは無駄だということになれば、性的マイノリティだけでなく、障害を持った人は死ねと言うのに等しいことになります。

 

 そうした人たちが生きにくい社会は、つまりボクたちも生きにくい社会ということになりますよね。そんなことから「生きにくい世の中を、何とか生き良くする方法」を探し求めることを、ボク自身の遠大なる目標にしたのです。

 

 ああ、それなのに、世の中は当時よりも逆行しており、パワハラやセクハラが蔓延。苛烈な残業や職場いじめによって、「生産性」が高いはずの人たちですら自ら死を選ぶような事態が頻発しております。こんなつまらない、生きにくい世の中でいいんでしょうか。ボクたち1人1人が、自分のこととして、より良い生存、あるいは共存のあり方を考えていきましょうよ。

 

 そんな難しいことでなくても、すでに科学技術は相当なところまで発展してきたので、そろそろ本気でスローダウンしたほうがいいのではないでしょうか。

 

Slow down, you move too fast

You got to make the morning last

Just kicking down the cobblestones

Looking for fun and feeling groovy

Ba da da da da da da, feeling groovy

 

ゆっくり行こうよ、そんなに急がないで

朝食も終えたんだから、

石ころでも蹴りながら

楽しいことを探そうよ、ああ、いい気分だ

気分がいいね

 

 サイモンとガーファンクルが1966年に発表した“The 59th Street Bridge song”です。このタイトルよりも、歌詞の中に出てくる“Feelin' Groovy”で知られています。ボクは昔から最初のフレーズ“Slow down, you move too fast”が好きというか、ずっと忘れることができませんでした。

 

 ただ、それはいくらか余裕のある時であって、焦ったり、困ったり、追い詰められたり、死にたいと思う時には聞こえてきません。そして深い絶望が呼び込むのは、常に無音の闇なのです。

 

 あ、本日は締め切りが1本ありました。というわけで、この続きは明日ということで。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

« 2018年7月 | トップページ | 2018年9月 »

*禁・無断転載

  • このブログ内に掲載されているすべての文章、画像の無断転載、転用を禁止します。他のウェブサイトなどへの転載を希望する場合は、必ず著者へご一報ください。
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

Amazonウィジェット

無料ブログはココログ