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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

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福助くん その3

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福助くん その2

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    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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2019年1月

2019年1月31日 (木)

迷惑メール

 

 ネット社会は便利には違いないけど、ムダな仕事も増えましたよね。そのひとつが、迷惑メールの処理です。

 

 ボクのメルアドがどこかから漏れたらしく、「私は25歳。あなたは素敵な人だから付き合いたい」とか、そのものズバリで「ファーーーーーック!」なんていう放送禁止用語や、「お前のパスワードを知っているぞ、これだろう!」という脅迫メールを受け取ったこともあります。念のために付け加えると、これらはすべて英語。たまに翻訳ソフトを使ったヘタクソな日本語になっているものもあります。流行みたいなものがあるらしく、似たような怪しいメールが断続的に頻繁にやってくる時期もあるんだよな。

 

 いずれにしても、添付ファイルにウィルスが仕込まれていたり、個人情報を抜き取るサイトへの誘導や、ビットコインを振り込ませることが目的なので、迷惑メールどころかレッキとした違法行為、紛れもなく犯罪ではないかと思うんですけどね。

 

 最初の頃は面白がって英文を最後まで読んでいたのですが、今では速攻でゴミ箱行きです。役に立たないメルマガなども同様に処分。そんなわけで、迷惑メールを仕分けて片っ端からゴミ箱送りにすることが毎朝の仕事になってしまいました。1週間で相当な量が溜まるので、これまた金曜朝には完全消去するようにしています。

 

 マウスをちょいと動かしてクリックするだけですから、大した労働量ではないとはいうものの、ネットがなかった時代に、こんなことはやりませんでした。つまり、明らかにネット社会が生み出したムダということです。全世界の人たちがボクと同じことを毎朝しているとすれば、膨大なエネルギーが迷惑メールの後片付けのために消費されていることになります。

 

 こういう非生産的な仕事がボクは大嫌いなので敏感なのですが、LINEなどのSNSも何の役にも立たないムダなコミュニケーションが多いんじゃないかなぁ。もちろん人助けになったり、重要な情報も流通しているはずですが、大半はお互いの存在を確認して、つながりを維持するための会話に終始しているのではないかと思います。それはそれで情報の意味があるので否定できませんが、要するに現代人はリアルとバーチャルの2つの世界を生きなきゃいけないわけですね。

 

 ゴミ掃除も2倍となり、交流による負担や心労も2倍。現実の社会だけでなく、ネットの中でも他者に気を使わなきゃいけないってことです。かといって、楽しみや喜びも2倍になったかというと、少なくともボクはそうではありません。何だかなぁ、これから人間はどこに行こうとしているのでしょうか。

 

 とにかく、迷惑メールだけやめてくれないかなぁ。誰に頼めばいいのか分からないネット特有の匿名性もボクには不愉快なんですよね。

 

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2019年1月30日 (水)

『ヒトラーとドラッグ』

 

 恐ろしいだけでなく、嘔吐感すら催す本をようやく読了できました。『ヒトラーとドラッグ−第三帝国における薬物依存』(ノーマン・オーラー著、須藤正美訳、白水社)です。

 

 本文が310ページ、索引や出典などが60ページで合計370ページのぶ厚い単行本であり、価格も3800円(税別)と今どき珍しいほどの高額。それでも購入したのは、『週刊文春』での立花隆氏の書評から、以前から疑問を持っていたナチス・ドイツの軍事戦略に対する疑問が氷解するのではないかと予感したからです。

 

 洋書にありがちなくどいほどの情景描写とペダンチック(衒学的)な能書きを容赦なくカットすれば、半分くらいのページ数も可能なはずですが、カルテや主治医の日誌などの資料も豊富に掲載されており、ホロコーストさえ否定する親ナチス派を警戒して、事実関係に徹底的にこだわったのかもしれません。

 

 感想を紹介する前に、ボクが抱いていたナチス・ドイツに対する疑問を紹介しておくと、なぜ多大な犠牲を払ってまで東部戦線=ソ連戦(ロシア)に執着したかということです。ナポレオン・ボナパルトも1812年にロシアに侵攻。いったんはモスクワに入城しながら、「冬将軍」と呼ばれる過酷な季節の到来もあって、結局は壊滅的な大敗を喫して退却。自身が流刑に処される原因となりました。こんな歴史はヨーロッパの人なら誰でも知っているはずですから、いくら地勢的な緊張関係は避けられないとしても、わざわざ攻めのぼっていくのは危険極まりない軍略としか思えないのです。ましてや勝ちにこだわって兵士や装備を追加投入するくらいなら、さっさと撤退して防御を固めたほうがよほど有利ではありませんか。

 

 実際に、ヒトラーに退却を諫言しようとする将校も少なからずいたのですが、容赦なく失脚あるいは粛清されたほか、戦場でも逃亡する自軍兵士は撃ち殺せと指示していたそうです。すでにフランスを占領して西ヨーロッパを掌中にしていたのですから、こんな悲惨な戦いを続ける価値も意味もないと普通は考えませんか。

 

 この本を読むと、そうしたヒトラーの無謀としか思えない戦略は、どうやら薬物がもたらした妄想的な思い込みが引き金になっていたらしい。それどころか、戦争の初期から前線では覚醒剤などのドラッグが盛大に使用されていたのです。

 

 1939年9月にナチス・ドイツは突如としてポーランドに侵攻。それに呼応してイギリス、フランスが宣戦布告して第2次世界大戦が勃発したのですが、当時のドイツの軍備は優勢とは言えませんでした。同書によれば、ドイツ側は兵員が300万人で戦車は2439輛。それに対して連合国は兵員が400万人以上で戦車も4204輛。航空勢力もドイツの戦闘機は3578機でしたが、連合国は4469機。戦闘能力は別にして、単純に1・5倍程度の差があったと考えられます。

 

 ところが戦車部隊で編成されたナチスの機甲師団は、アルデンヌの森を抜けてフランスとイギリス軍を中心とする包囲網をあっという間に突破。航空兵力も駆使した機動力の高い世界初の連携作戦は「電撃戦」と呼ばれていますが、僅か1か月足らずで当時最強といわれた軍隊を保有するフランスの占領に成功。この戦いでフランス海岸のダンケルクまで追いつめられた約35万人のイギリス兵を救出する「ダイナモ作戦」は、2017年に『ダンケルク』、昨年も『ウィンストン・チャーチル~世界をヒトラーから救った男』として映画にもなっています。

 

 このように大戦初期のドイツ軍は、軍事的な劣勢を易々とはね返すほどの移動能力と戦闘能力を持っていました。けれども、怒涛とすら表現できる驚異的な侵攻を可能にしたのは、愛国心でも忠誠心でも誇りでもなく、メタンフェタミンを中心とする覚醒剤だったんですよね。同書には様々な薬品名とそれぞれの製造量、軍隊への配給量などが詳細に記載されているので、これは間違いのない事実だと思われます。

 日本でも神風特別攻撃隊の出撃時には覚醒剤が与えられ、それが戦後になってヒロポンとして民間に普及。中毒者の行動が社会問題化して禁止されたという経緯があるほか、近年の中東の戦場でも使われていた形跡があるので、戦争に薬物はつきものといっていいかもしれません。

 

 ゲルマンの純血主義と健全潔癖をスローガンとしていたナチスですが、もともと重工業が遅れて発達したドイツでは、廉価な設備投資で可能な薬品産業が伝統的に強かったようです。いずれにしても、真夜中のヨーロッパ大陸を猛スピードで駆け抜けていく何輛もの戦車の中で、ドラッグをキメた運転者と乗組員がギラギラと血走った眼で真っ暗闇の前方を見つめている不気味な姿をボクは想像してしまいます。

 

 そして、ヒトラー自身も薬物に溺れており、もともと乏しかった軍事知識や戦略にもとづく偏執的な妄想で撤退を許さなかった東部戦線は総崩れ。政治的扇動者として天才ではあっても、軍事指導者としてのヒトラーは2流あるいは3流に過ぎなかったんですよね。彼を崇拝する生き残り組の将校たちも似たようなレベルですから、ちっとも格好良くない。誰が言ったか「一点突破全面展開」なんていうのも、戦国時代の桶狭間じゃあるまいし、近現代の高度な武装戦では負け戦を早めるだけの貧弱な結果に終わることがほとんどなのです。

 

 同書の後半は、ヒトラーと主治医の薬物をめぐる奇怪な依存関係がこれでもかという詳しさで描写されており、時には吐き気すら感じるほど震撼しました。おかげでボクには珍しく、昨年に買った本を今年まで持ち越してしまったのです。戦争中の国家を率いる指導者がドラッグの依存症だったなんて、スティーブン・キングも驚愕するホラーとしか言いようがありません。彼の采配で600万人を超えるユダヤ人が虐殺され、500万人前後の将兵と150~300万人の民間人が死亡したんですからね。

 

 こんな悲惨な事態に至ったのは、アドルフ・ヒトラーを最高権力者の地位から引きずり下ろせなかった独裁体制が構造的な原因といえるでしょう。だからこそ有志による暗殺が何度も試みられたのです。

 ドラッグはさておき、人間は精神を蝕まれたり病気になるだけでなく、必ず老いていき、どんなに優秀な人も錯誤や間違いを犯します。それによって致命的な事態に陥らないためには、早期の交替を可能にする民主的な政治体制しかありません。日本でも大政翼賛会による独裁的な政治体制を経て太平洋戦争に突入しましたからね。

 

 しかしながら、歴史は繰り返さないとはいうものの、似たようなことは何度もカタチを変えて巧妙に繰り返されます。モリカケ問題に発展した「忖度」だって、官僚たちの政権へのすり寄りというか服従ですよね。内閣人事局の創設による政権主導の官僚人事が影響しているといわれますが、これも昨日に書いた「支配と従属」の強化ってことです。

 どんなに重要な会見でもなぜだか上着の前を開けたままのトランプ政権も含めて、ものすごくイヤーな予感がするのは、ボクだけなのでしょうか(ってことをこれまでに何度書いたかなぁ)

 

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2019年1月29日 (火)

支配と従属

 

 人間は持つ者と持たざる者の2種類に分けられる……。なんてことを言った人がいますが、これはかなり欺瞞的な表現じゃないかな。ボクが正しく言い直せば、「人間は持つ者と奪われる者の2種類に分けられる」となります。

 

 ゼロサムゲームなんていう言葉が流行したこともありますが、この有限の世の中で途方もないカネを持つなんて、どう考えてもどこかから奪ってくる、あるいは集めてくる、もしくは貰う(頂く)ことでしかあり得ないではありませんか。にもかかわらず<「持つ者と持たざる者」に分けてしまうと、綺麗にまとまってはいても、世の中の真実を隠蔽してしまうことになります。

 

 人間は、この2種類だけでなく、さらに2種類に分けることもできます。すなわち、支配する人と支配される人です。奴隷が存在した時代は支配・被支配の関係が分かりやすいのですが、近代から現代は圧倒的に平等になり、社会が進化したように見えても、必ずしもそうではないんですね。選挙で指導者を選ぶなど、いかにも民主的に感じるかもしれませんが、こう言い換えると実態が分かるはずです。支配する人と従属(服従)する人。支配・被支配は客観的な関係性を表現していますが、「従属」には本人の意思が伴います。これが選挙の時には「支持」なんていう素敵な言葉に変換されるんだよな。

 

 ということで、きちんと言い直せば、人間は支配する人と従属する人の2種類に分けられる、ということになるわけです。けれども、実に多くの人がこの現実に気づかず生活をしています。でもね、ひとたび支配する人たちが意思すれば、悲惨な戦争が始まり、その現場で従属する人たち同士が互いに殺し合うことになるのです。

 

 しかしながら、支配されるのは不愉快でも、従属は楽で心地良いんだよな。「ビールください」「あ、じゃオレも」、「鶏カラください」「ボクもそれ」みたいな卑近な選択から始まり、難しい意思決定まで委ねることができるからです。この握り飯が美味しいという★印を貰った店に殺到する。人気のアイドルグループが言うことは何でもかんでも無条件に賛同する、という程度ならまだしも、不安な心情を利用して全面的な帰依と依存(どちらも服従の言い換えですが)を求めるカルトもありましたよね。そして、化けの皮を剥がせば共同幻想に過ぎない社会的ヒエラルキーに唯々諾々と従う人たちがいる。こういう従属者は上位に媚びへつらいながら、下位の人間を踏みつけ、時には持つものを奪い、投獄しても痛痒を感じないという性癖を備えています。

 

 いま時そんなアホな、と嘲笑する人たちがボクにははっきりと見えますが、では税金とか年金ってどうなのと問い返したい。その金額を計算する根拠となる基礎統計に間違いがあれば、収奪ってことになるではありませんか。こういうミスが給付を受ける側のプラスに働くなんてことはあり得ないですからね。

 

 かつて社会保険庁では「消えた年金記録」が大問題になりました。最近は厚生労働省による「毎月勤労統計」などで誤りや不正が続々と判明しています。こうした統計データは政策提言や学者の研究にも利用されるので、行政への信頼を根幹から揺るがす事態にもかかわらず、何だかね、おそらくスルーされていくんじゃないかな。何しろ、コトを荒立てないのが奴隷根性なんですから。

 

 ボクには、そうした現代の事象から映画『ベン・ハー』(1960年日本公開)で描かれた帝政ローマ時代のような状況が透けて見えます。人間が「個」であることに強くこだわればどんな社会になるか想像もできませんが、少なくとも「被支配」「従属」という言葉にもう少し敏感になるべきじゃないかな。

 

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2019年1月28日 (月)

鈍感力

 

 今では神経質で偏執的な側面すらあると自己分析していますが、子供の頃は実にまったく鈍感、というか愚鈍とすら思われていたんじゃないかなぁ。一人っ子で育ったせいか、口数が少なく、早い話がボーッとした発達不良といっていい。それによる朦朧としたモノクロの思い出がいきなり鮮やかに着色されたのは、小学校4年の春頃でした。給食の時に突然、ボクの作文が校内放送で読み上げられたからです。当時の先生が何を考えていたのか知りませんが、この作文が今に至るボクの原点であり、物事を分析する視点や表現方法に大きな違いはほとんどないと思います。

 

 その一方で、ボーッとしていることも相変わらずだったせいか、父親の転職で名古屋の田舎に引っ越してからは、とりわけ中央志向の強い無理解で無神経な先生から被害を受けるようになった気がします。とはいっても、あんなこともあった、こんなことも言われたと、恨みがましく思い返すようになったのはつい最近なんですけどね。

 

 たとえば小学校高学年の音楽で、ピアノの前で歌う授業があったのですが、伴奏を終えた先生がボクに向けて嘆息気味に呟いたのは、「音痴ね」という無惨な一言。今なら炎上間違いなしの凄絶で差別的な表現であり、そのまま自宅に引きこもっても不思議ではないですよね。おかげさまで、小・中学校で音楽の成績は2以上を貰ったことがありません。中3の頃からギターを弾き始めてようやく和音などの音楽理論が分かりましたが、それでも成績は3が精一杯。けれども、高校では未熟ながらバンドを組んだりコーラスも編曲したことがあるほか、社会に出てからはカラオケにも人並みに通いました。10年ほど前にプロとアマチュアの間には天性の差があることを痛感したので、とっくにやめましたけどね。そのかわりにジャンルを問わずライブハウスに頻繁に行くようになり、このブログの過去ログを見ていただければ分かるように、音楽についての話題は少なくありません。

 

 小学校の段階で先生から「音痴」と言われたら、普通は音楽が大嫌いになり、再起不能な打撃を受けるはずですが、どういうわけだかボクはそんな風には感じなかったのです。宝塚に行くわけじゃあるまいし、進学に音楽なんて関係ねぇやという開き直りもあったかもしれませんが、基本的にはバカで鈍感だったとしか言いようがありません。

 

 それに気づいたのは、『遠き落日』や『失楽園』で知られる作家、渡辺淳一が2010年に発表した『鈍感力』です。ボクは仕事上で強い要請がない限りは、この種の本を購入したことがないので中身は読んでいません。しかしながら、普通は欠点や短所とされる「鈍感」に「力」を加えてポジティブな意味に逆転するというのは、さすが人気作家らしい独創的なワザというべきでしょう。

 

 つまりボクには音感のかわりに「鈍感力」が備わっていたので、ここまで何とか生き延びられたのかもしれません。以前にもご紹介したように、高校まで何度も引っ越しを経験しており、そのたびにイジメまがいの洗礼を受けていたはずなのですが、その実感がまるでないんですよね。のどかで牧歌的な時代だったのか、それともあまりにも能天気なので、イジメても面白くないと対象から外されたのかもしれません。

 

 体育の先生から「お前は走り方を知らんのか」と呆れられたこともあります。夏場は得意の水泳でみんなの見本にされることもしばしばだったので、さすがに「運痴!」という罵声を浴びることはありませんでしたけどね。秋冬の体育の成績は2で、夏の学期だけは5に急上昇。小学校から水泳一筋で、陸上競技や球技には興味も熱意もなかったので、先生の感想は当然といえば当然ではあります。

 

 振り返ってみれば、様々な場面で他人からの中傷や批判や叱責に耐える「鈍感力」が、ボクの成長を見守ってきたといえるんですよね。どんなことにも優れた才能を発揮する文武両道のスーバースターなんて、滅多にいるはずがない。その意味では、誰もが何らかのカタチで心を傷つけられる可能性があります。ボクはたまたま「音痴」でしたが、算数がダメとか、漢字を覚えられないとか、それこそ「教育力」に乏しい先生たちから無慈悲な暴言を受けることもあるはずです。そうしたネガティブな評価に敏感に反応する子供たちが、やがて引きこもるようになったのではないでしょうか。これも以前に指摘したことですが、イジメや自殺なども含めた子供の問題行動の多くは、同級生ではなく、教員自身が主たる要因になっているはずです。

 

 しかしながら、そうした理不尽は学校だけでなく社会にいくらでもあるので、ある程度の「鈍感力」がなければ生き抜いていくことはできないでしょう。ところが、ボクは経年によってその能力が衰えつつあり、かわって神経質な敏感さが浮上してきたのかもしれません。「鈍感」であるためには、精神的な若さや体力も不可欠なんですよね。

 

 というわけで、このブログのテーマである「生き良くする方法」のひとつは、そうした「鈍感力」にほかならないことを発見いたしました。それが、ああ堂々の栄えある1個目の方法ということになるのであります。

 

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2019年1月25日 (金)

距離感

 

 ヨーロッパに向かう航空機内で、メインの食事がすっかり片付けられ、搭乗客のほとんどが眠り込んで静まりかえったところで、ギャレー(調理場)の横にある扉の窓のシェードを開けて、退屈まぎれにシベリアの雪原を見つめることがしばしばありました。自分の席で開けると強い陽光が差し込むので、皆さんの迷惑になるからです。そんな配慮をしたところで、地上は見える限りが真っ白で何もないのですが、たまにキラキラと陽光をハネ返す丸い鏡のような場所が続くこともあります。高度1万メートルの上空を行く航空機からは小さな池のように見えますが、実際には大きな湖なんでしょうね。

 

「ソ連時代に墜落した旅客機が秘密裏になかったことで処理され、そのまま手つかずで放置されているケースも結構あるらしいよ」

 

 こんな噂話を聞いたこともあるので、もしかして機体を発見できるかもしれないと目を凝らしていると、眼球の奥が辛くなり、慌てて視線を機内に戻したものです。

 

 これまでに何度も何度も経験してきたルートなので、慣れてしまうとそんなこともしなくなります。食後に数時間ほど寝て、起きたら2時間くらい映画を見てから再びうたた寝。客室内のライト点灯で目が覚めて朝メシを食ったら1時間後には空港を目指して降下。半日ほど飛べば、ヨーロッパのどこかには到着できます。

 

 だから身体的な距離感がないんですよね。日本から、たとえばスイスのチューリヒまでは空路で約9500キロメートル。日本海をフェリーで渡って、ウラジオストックあたりから鉄路で行くなら、残りは9000キロくらいでしょうか。平均時速を60キロとして夜通し走り続けても約1週間。クルマなら夜は寝なきゃいけないので、列車の2倍以上、およそ2週間はかかるということです。18世紀末にアリューシャン列島のひとつに流れ着き、日本への帰国許可を得るために、当時のロシアの首都・サンクトペテルブルクに行った大黒屋光太夫なら、数か月、いや数年を要したかもしれません。数年はちょっと大げさで1年くらいかな。すいません、伝記をまともに読んだことはないのですが、ともかく馬と一緒の徒歩とするなら、果てしもなく時間のかかる冒険旅行であったことくらいは分かります。

 

 さて、そうした時間をかけた旅と、ボクのように飛行機で半日という旅とは何が違うか。もうお分かりかと思うのですが、つきつめれば経験できる「情報量」ということになります。シベリアは広大ですから、列車の車窓から見える景色は何日も変わらないと記述した旅行記もあるみたいですね。それにしたって、よくよく観察すれば違いは必ずありますよ。そして、何よりも地球の大きさを実感できるはずです。ここのところがね、ボクにはとても羨ましく思えるのです。

 長くて12時間程度のフライトで到着するヨーロッパと、1週間以上をかけてたどり着くヨーロッパでは、景色の見え方も違ってくるんじゃないかな。

 

 今どき、海外出張にそんな時間をかけたら、コストとパフォーマンスがまるで折り合わない無理な話になってしまいますが、そんな旅を死ぬまでに一度でいいからしてみたいなぁ。どこかの社長のように恋人と一緒にプライベートジェットでしっぽりも結構ですけど、現代で最も贅沢なのは、徒歩に近い体感を持ち続けることができる、時間と手間をたっぷりかけた旅ではないでしょうか。

 

 あ、人生ってのがもしかするとそれかもしれないと、今頃になって気づくのですから、ボクはやっぱり迂闊なマヌケ野郎なんだよな。

 

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2019年1月24日 (木)

小銭と札

 

 ボクが財布を持たなくなって、どれほどの年数になるでしょうか。

 

 きっかけは、あるコンビニのレジでした。ボクの前に立ったスーツ姿の会社員が精算のために立派な財布を取り出したのです。でね、それに付属した小さなポケットに入れられた小銭をグシャグシャとまさぐり始めました。彼は信じられないほど不器用なクセに律儀な性格らしく、100円、10円、5円、1円と端数ちょうどの小銭を引っ張り出そうとエラく時間をかけるので、ボクはイライラしてしまいました。

 

 男ならバシッと札を出さんかい! と心の中で叫びながら、男が小銭、いや札でも同じだけど、モタモタとカネを弄ぶのは大変に格好の悪いことだと痛感したのであります。アメリカの映画やテレビドラマでは、バーカウンターで黙って札を置いて立ち去るシーンが描かれていますよね。あれが、ボクの理想なんだよな。その後で細かい釣り銭を貰って勘定でもしていたら、ハードボイルドもぶち壊しじゃないですか。タクシーなどの支払いも「釣りは取っといてくれ」。男はこうでなきゃ。ラブホなんかの前で降り際に、フトコロから財布を取り出してガサゴソとカネを探すブサイクな仕種を女性は許せるのでしょうか。フィリップ・マーロウがそんなことをするはずがない。その中に大枚の万円札というのも品があるとは思えません。

 

 そんなことから、コンパクトなカード入れはあっても、いわゆる財布的な入れ物は持たないことにしたのです。恥ずかしながら、これがまぁボクなりの男の美学といえば言えなくもありません。だったら札はどうするのか。以前はマネークリップに挟んでいましたが、最近は前述したカード入れの隙間に常時2〜3000円を入れておく程度。小銭のほうが解決困難な課題だったのですが、近年は幸いにSuicaを使える店が急増しており、そんな店を最優先に選ぶことで、小銭を一掃することに成功しました。それでも、マクドナルドのようにSuicaはアウトでやむなく現金決済という店もあるので、溜まった小銭はできるだけ早急に銀行のATMに突っ込むようにしております。かくて、ほとんどコインレスの日常が成立するんですよね。

 

 格好いいどころか、パラノイアあるいはファナティックな気配すら感じられるかも知れませんが、とにかくポケットの中はなるべく空にしておきたいのです。特にスーツの場合はカタチを崩してしまいますからね。

 

 だから、どんなに高級な財布を見ても、邪魔くさいと感じるだけで、羨ましいとか欲しいと感じたことがありません。その日に必要と思われる札だけをポケットに裸で入れて、基本的にはカード払い。現代はこれでも十分に生活できます。

 

 もちろんライフスタイルはその人の勝手なので批判はしません。大きな財布が必要ならそれで結構。ボクは持たないことを主義にしているだけなので念のため。でもさ、蛇の脱け殻など金運アップのお守りを入れておく先がないので、ツキもなくしているのかなぁ。

 

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2019年1月23日 (水)

正義の行方

 

 ほらね、昨日に述べた機能主義や合理主義がエスカレートすると、こういうヤカラが必ず出てくるんですよね。路上ライヴをやっていた女の子の帰りがけにわざわざ自主製作のCDを購入。その直後に彼女の面前で踏みつけた男のことです。

 

 彼の場合は不正を糺すことが目的であり、テレビ局のインタビューで「法律」や「ルール」にもとづいた挑発的な行為だと語っています。普通に考えれば分かるように、彼女が無許可で路上ライヴをやっていたとしたら、それを注意・警告すればいいだけのことで、CDを踏みつけるのは法律やルールとまったく別の話ではありませんか。

 

 もしも仮にキース・ヘリングがニューヨークの大きな壁にペイントしていたら、違法なんだから銃で撃ち殺されても仕方ないと言うのかなぁ。だったら、クルマの運転中に信号のない道路を横断している人間を見かけたら、やはり道路交通法違反なんだから、直ちにアクセルを踏み込んで轢き殺してもいいってことになりかねません。実際に、そんなクルマが増えてきたから恵比寿も危なくて仕方ないんだけどね。断っておきますが、どこの国の法廷でも、そんな無茶なことが免罪されるはずがない。

 

 にもかかわらず、こういうアホなことをやる奴が古今東西で絶えないのは、正義そのものが「排他的」な意思を内在しているからです。正義は一神教と同じで、他の神を認めることはありません。前述した機能主義も合理主義も基本的には同じで、主義に合致しないものの排除が前提といっても過言ではないはずです。機能を突きつめようとすればするほど、ほんの僅かな無駄も許せなくなる。合理主義を通そうとするあまりに、非合理や不合理が不愉快極まりなくて腹立たしく感じる。かつてはボクもそんな人間だったから、よーく分かるんだよな。

 

 おそらく自然界や社会の原風景というのは、人間にとってカオス=混沌だったと思うんですよね。そこに機能主義や合理主義や、ましてや正義なんていう落差のあるエントロピーを持ち込もうとするなら、排他的にならざるを得ないじゃないですか。ゴミの山となった部屋の中を整理するためには、不要なモノを捨てることが最も手早い方法なのです。

 

 つまり、いかなる主義も思想も、すべては排他的なんですよね。これが昨日のブログで言いたかった最大のキモなのです。

 

 たとえば正義であるなら、少額の病的な万引も、純愛に近い不倫もビシバシと摘発して等しく罰を科さなきゃいけません。それはそれでDo the right thingとしても、乳飲み子を抱えた貧しいシングルマザーが牛乳を盗んでも無慈悲に投獄される世の中なんて、ボクはゴメンだな。路上の音楽も壁の落書きも、すべて違法として厳密に扱われていたら、キース・ヘリングはもちろん、シリル・コンゴといった世界的なストリートアーティストは出てこなかったでしょう。

 

 そもそも、法律もルールも、そして正義も流動的な存在であって、絶対的ではありません。社会や時代がちょっと変わるだけで、法律やルールは改正され、正義の概念も変わってきます。エスカレータの片側を空けることだって、そろそろやめようという動きが出ています。ということは、そこをドカドカと上り下りする人も、もうすぐ違法として逮捕されるでしょう(そうあって欲しいけどね)

 

 にもかかわらず、ことさらに正義や機能性などを主張して譲らない人は、機能主義や合理主義や正義の人なんかではありません。ここで正しく言い直せば、そんなものは「排他主義」にほかならないことを自覚しているのかなぁ。他者を中傷誹謗したり、攻撃やイジメのための「錦の御旗」にするだけだから、早い話が何だっていいんだよな。そういう姿勢が思想そのものや様々な制度を歪め貶めてしまい、結果的にボクたちをどんどん生きにくくさせるのです。

 

 だったら、そういう主義や思想はもうやめようよ、と。無駄なものも受け入れる機能主義や、やむを得ない不合理や非合理の円満な解決も模索する合理主義、あるいは人間的なゆえに発生する不正義にも寄り添う正義とかね。そうした配慮ができないのであれば、どんなに高邁な思想や考え方であっても、「排他主義」の一種なのですから、もうボクは賛成することはできません。セクトに分派した学生運動の末期に、そうしたことを公言する人がいても良かったのにね。

 

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2019年1月22日 (火)

脱・機能主義(後)

 

 今はどうか知りませんが、大学生の就活面接で「社会貢献」という言葉が流行したことがあります。その前は「沢山の人に出会える仕事」だったかな。もとより社会に貢献できない企業や仕事が長続きするはずがなく、人と出会わないで済むような仕事もあるはずがない。

 

 それと同じで「役に立つ」という言葉も強力な説得力を持っています。いわく「社会の役に立つ」「地域の役に立つ」「他人の役に立つ」などとバリエーションもいろいろ。でもさぁ、この世の中に、何の役にも立たないものなんてホントにあるのでしょうか。むしろ、どんなモノやコトやサービスも何かの役に立つから存在しているわけで、さもなければとっとと自然淘汰されるというのがダーウィン進化論ですよね。

 

 というわけで、人間もそうした自然を探し出して模倣し、太古の昔から自分たちの「役に立つ」ものを作り続けてきました。その「役に立つ」という目的意識は、年季を経ることでどんどん絞り込まれて錬磨され、デザインも機能に徹した必要最小限のミニマルが追求されて今日に至ります。だから、現代のビルなんかツルツルでピカビカ。ギリシャやローマ建築のようなややこしい装飾や文様なんかカケラもありません。自然の複雑なカタチを門扉やランプシェードなどに採り入れたアールヌーボーも、発達し始めた工業技術による大量生産に適していないことから19世紀末に消滅。かわって20世紀の新しいトレンドとして登場したのが、金属の型枠を作りやすい直線や曲線による幾何学を基本とするアールデコという位置づけになります。

 

 でもって現代を覆っている特徴的な思潮が「機能主義」ではないかと。それだけなら人類の「役に立つ」はずなので何の問題もないはずですが、困った副作用があるんですよね。それが「無駄を排除する」という発想です。工業生産品だけならともかく、しばしば同じ理屈が人間にも適用されてきたんですよね。仕事がうまくできなければ「無駄な奴」とみなされて退職や閑職に追い込まれる。優秀な人でも、病気になって仕事に支障が出れば「落伍者」となり、たちまち机とイスが奪われる。世の中は「元気で役に立つ」人たちによって運営されており、さもなければ無駄または保護されるべき存在に堕してしまう。

 

 そんな考え方を限界まで律儀に徹底的に追求したのがナチスでありまして、ユダヤ人を「害悪」として大量殺戮しただけでなく、ロマ族(ジプシー)などの少数民族や、知的障害、身体障害、精神障害のある人も対象となっていました。彼らはナチスによって「生きる価値なし」、即ち「無駄な存在」と認定され、およそ20万人がガス室で処分されたといわれています。

 

 こうした悲惨な歴史を背景として、やっとようやく、最近になって生まれたのが「多様性」という概念なのです。生物はもちろん、人間だっていろいろあっていい。だからこそオリンピックだけなくパラリンピックも注目されるようになりました。けれども「何かの役に立つ」という発想はまだまだ根強く残されているんだよな。そこのところにボクは大きな問題を感じるのです。

 

 もうそろそろ、そんな機能主義的な縛りから解放されてもいいんじゃないかなぁ。むしろ何の役にも立たない、どう考えても無駄なものを作ってみようよ。特定の目的に応えるほうがよほど簡単だということが分かるはずです。

 

 荘子は「無用の用」として、何の役に立たないように見えるものでも実は何かの役に立っているとしましたが、ボクはそれでもまだ甘いと思う。徹頭徹尾の「無用」を認めることが、人類を本質的に自由にするんじゃないかな。それに比べて、機能主義や合理主義の何とまぁ息苦しいことか。そんなことは人間より賢い人工知能に任せておいて、ボクたち人間は無駄や無意味を積極的に謳歌・享受すべき時代に突入しつつあるのではないかと主張したいわけです。

 

 それによってようやく「存在」そのものの意義が保障されると思うのですが、いかがでしょうか。今朝は歯医者に行かなきゃいけないので、慌ただしい論理展開になってしまいましたが、分かる人には分かっていただけると思うんですけどね。

 

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2019年1月21日 (月)

脱・機能主義(前)

 

 たまにエラソーなことを書いてきましたが、この年齢になってようやく分かった、なんてことが予想以上にあるんですよね。たとえば今回のジュネーヴ出張の往還でハタと気づかされたのが、男の恋と女の恋の違いであります。

 

 とはいっても、ボクが現地の女性と甘い逢瀬があったなんてことは金輪際あるはずないじゃないですか。エリカやレイチェル、あるいはアビゲイルなんていう名前で「私は25歳。素敵なあなたにどうしても会いたいの」なんていう怪しさ満載の英文ジャンクメールはいつも来ますけどね。それにしても今朝のメールはヘンだったなぁ。Kennyという名前で、Do u feel cold? が標題です。でもって本文は、Be careful not to catch coldというだけ。開けたらヤバい添付ファイルも不審なウェブサイトへの誘導もありません。もちろんKennyなんて女性の知り合いもいませんから、いったい何が目的なのかな、このメールは。Youuと略すのはSNSに慣れている証拠ですけど、今年のヨーロッパは暖冬で、決して寒くはありませんでした。さらにインフルエンザが流行しているのは、ボクが知る限りでは今のところ日本だけじゃないかなぁ。というわけで、このメールは果たしてどこからやってきたのでしょうか。

 

 おっと、また寄り道しちゃいました。話をもとに戻すと、恋に年齢や職業、貴賎貧富なんて関係ないとはいうものの、将来を描けない恋は絶対に長続きしません。「老いらくの恋」と呼ばれる歌人などの艶っぽいスキャンダルも歴史的に少なくないのですが、期間にいくらかの長短はあっても、その結末はうたかた=ワンナイトスタンドと大きな違いはないでしょう。だから、成就を望む恋であるなら、どうしたって年齢限界があるということになります。

 

 それでも和歌山の大金持ちのように、ジーサンになっても分不相応で不格好なジタバタを続けるのは、男にとっての恋が紛れもなく「ファンタジー」だからであります。これは思春期から死の直前まで継続される飽くなき不滅の認識といえるんじゃないかな。ファンタジーだからこそ結婚しても平気で浮気はするし、あれこれと目移りするのでありますよ。

 

 ところが、女性の恋の多くは社会的な「生存戦略」なんですよね。最近になって男女同権や平等が声高に言われるようになってきましたが、女性差別は様々に残っており、完全な自立にはまだまだ無理があります。周囲も仕事のキャリアなんかより、より良い結婚や出産を奨励しますよね。大昔からの慣習に則れば、結婚こそが女性の社会的な立場を安定させることになるので、こりゃもう恋というより「生存戦略」としか考えられないじゃないですか。

 

 この「生存戦略」における手練手管、じゃなかった戦術的な武器となるのが美貌やスタイルですが、誰もがそれに恵まれているわけではありません。となれば処女性や貞節が第2の武器となるので、以前にも書いたように「私は結婚しない人とエッチはしません」と主張した女性の言い分も筋が通っていることになります。どこからどこまでが「エッチ」に該当するかは微妙ですけどね。結婚詐欺やそれまがいの「遊び」が何より罪深くて可哀想なのも、この「生存戦略」を大きく毀損することになるからです。

 

 ただし、動物的な性衝動や欲望に男女差は基本的にないはずなので、どちらからの恋も瞬間湯沸かし的な要素はあります。そりゃもう絶対にあると思うぞ。けれども女性のほうが社会的な規範や抑制が強いというだけのことでしょう。社会で活躍する女性がこれからどんどん増えれば、必然的に「生存戦略」も変わってくるので、それによる「くびき」から次第に解放されていくんじゃないかな。その意味では、現代はまさに「生存戦略」の過渡期にあたるんじゃないかとボクは睨んでいます。明治・大正期の伊藤野枝のように、意思さえあれば、誰もが「くびき」を自ら外して自由に生きられる時代だと思うんですけどね。むしろ世帯主としての自覚を強制される男よりも奔放になれるんじゃないかな。

 

 おおおーっと、またまた本題から離れてしまいました。今回の本当の論点は、この「くびき」、つまりボクたちを束縛する制約のことなのです。そのひとつが、いかにも便利で知的にすら感じられる「機能主義」なんじゃないかと。

 長くなったので、明日も続けます。

 

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2019年1月11日 (金)

ウルトラスリム

 

 女性に目立つのですが、足にぴったりと貼り付いたウルトラスリムのジーンズが人気になっているようです。それを見るたびにボクは、大変に失礼ながら、まるでジャグラーの足芸のように苦労して爪先から脚を突っ込む奇天烈な格好を想像してしまいます。伸縮性の高いストレッチ素材を使っているはずなので、まさかそんなことはないと思いますけどね。いずれにしても、要するにお尻から脚のカタチを、薄皮1枚だけを隔てて、まるまるそのまんまで見せつけるスタイルなわけです。

 

 ボク自身もジーパンやスラックスはスリムです。その密着感に慣れてしまうと、生地と肌の間にスキがある緩いズボンでは落ち着かなくなるのですが、最近はシルエットとして必ずしも美しいスタイルではないと思うようになりました。

 

 というのも、日本人、いやアジア人とまとめるべきかもしれませんが、脚が欧米やアフリカ系の人たちのように真っ直ぐではないんですよね。畳に正座が良くないとか、理由はいろいろあるようですが、特にスネのあたりが外側に大きく湾曲しているのです。ヒザが竹の節のようになっているのは欧米人と共通にしても、そこから足首に至るスネの骨格がまるで違います。前述したように、ウルトラあるいはスーパースリムなジーンズやズボンは、ジャストフィットなだけに、それを強調するシルエットにならざるを得ないのです。

 

 太っていようが痩せていようが、このことに変わりはありません。逆にいえば、太モモからヒザ下のスネまで真っ直ぐなラインであるなら、メタボでも肥満だろうが、それなりのスマート感を与えます。ところが、ヒザからスネが湾曲していれば、いくらスレンダーの体型でもウルトラスリムは「く」の字のように曲折した不格好な脚をさらけ出すことになり、逆効果になってしまうわけです。

 

 日本人すべてがスネが曲がっているわけではなく、最近の若い人たちや、モデルの一部やハーフのタレントなどで膝頭が小さく、真っ直ぐな美脚の持ち主を見かけますが、残念ながら大多数の人はそうではないと自覚したほうがいいですよね。

 

 にもかかわらず、脚を綺麗に見せるにはどうしたらいいか、すでに商品化されていますが、お尻の頂上からカカトに向けてナチュラルなテーパーを施したズボンしかないだろうとボクは考えています。それによってできた生地の余裕部分が、繰り返すようで恐縮ですが、スネの不愉快な歪みを隠して格好を良く見せてくれるんじゃないかな。

 

 それ以前に、何でもかんでも流行なら我を忘れて一目散に飛びついてしまうという、無思慮で浅はかな態度を見直したほうがいいようにも思います。あ、これはファッションに限らないですけどね。

 

 なお、来週から恒例のスイス・ジュネーブ取材に出張するので、年末・正月に続いて、ブログをお休みさせていただきます。再開は帰国後の21日を予定していますが、例によって気まぐれで投稿することもあるので、たまにチェックしてみてください。

 

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2019年1月10日 (木)

さすがフランス

 

 率直に言って、ボクは現代のフランスと、とりわけパリが好きではありません。同国の航空会社に搭乗して、客室乗務員の尊大な態度をはじめとして何度もさんざんな目にあったことが大きな理由ですが、そのほかにもちゃんとした根拠があります。若い女性や女子大生が華の都としてパリに憧れるのを否定しませんが、あんなコンクリートばかりの街に何の用があるのかなぁ。東京やロンドン、ニューヨークと大した違いはないですぜ。ブランド品なら世界中のデューティフリーで買えるしね。ムーラン・ルージュのあるモンマルトルやサンドニなんかも、ボクにとってはかつての浅草のような色褪せた観光地に思えます。

 

 それでも、ウトウトした眼でボーッと見ていた深夜のテレビニュースにはちょっとばかり感心させられました。日本のテレビ局の取材記者が、確かパリのル・モンド紙だと思うのですが、同社の玄関口を出て来た編集者らしき人にマイクを向けて、こんなことを訊いたのです。

 

「ゴーン氏の逮捕が話題になっていますが、彼を長期拘留する司法制度も世界的に問題視されているようです。いかがお考えですか?」

 

 おそらく、このテレビ局は、捜査段階にもかかわらず被疑者を1か月近くも拘置できる先進国では特異な「人質司法」と呼ばれる刑事司法制度への批判を期待していたはずです。警察や裁判を描いたアメリカのテレビドラマを見慣れたボクも、ホントにひどいやり方だと思います。有罪が確定するまでは推定無罪とするのが近代法の原則なのに、当初72時間に加えて、その後の勾留状で20日間もクソ狭い拘置所にぶち込めるというのは、明らかに文明的な法治国家とはいえないでしょう。ゴーン氏の場合は、さらに別件の逮捕を重ねて長期化させていますからね。

 

 ところが、この編集者の意見を聞いて、ボクは大爆笑すると同時に、さすがは市民革命の先進国だと見直したのであります。

 

「司法制度はその国の国民が決めるべきことですから、それがおかしいと日本人が思うなら自分たちで改めればいい。私たちが口を差し挟むような問題ではありません。それにゴーン氏を強欲だと感じているフランス人も少なくないよ」

 

 あははははは。どうです、実にアッパレ至極の理知的回答でしょ。取材者の目論見がすっかり肩すかしになったにもかかわらず、それを堂々と放送したテレビ局も褒めておくべきかな。何かといえば欧米を事例としてご注進に及び、自分独自の考えを持たない、あるいは持っていても具体的に明言しないメディアや評論家諸氏への痛烈な皮肉になっています。要するに、そんなことを外国人であるオレに言わせるより、お前たち自身が考えて自分たちで改革しろよってことです。普通の神経を持つ記者なら、どこかに穴を探して頭を突っ込みたいほど恥ずかしく思ったでしょうね。いつまで「外圧」を利用するつもりなのかなぁ。

 

 あまり言いたくはないけど、さすがはフランスというほかありません。ボクもこれくらい切れ味の鋭いコメントができたらいいんですけどね。

 

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2019年1月 9日 (水)

スマホと人生

 

 ガラケーに比べてスマホは圧倒的に便利ですが、電池の消費量もあまりに激しいことに驚きました。これまでのガラケーは、頻繁に電話しなければ2週間以上は保ったのですが、スマホは毎日の充電が必要な場合もあるようです。

 

 ボクのスマホはそれほどではないにしても、2日に1回程度かな。充電を常に意識するだけでも、スマホに自分が使われているようで不愉快ですが、そうした負担を感じさせない配慮なのか、電池残量と、これまでの使用状況から予測される残り時間を表示する機能があります。しかも、個々のアプリの使用状況まで%で分析されているほか、ご丁寧に「電池を消費するアプリ」まで特定されているから凄いですよね。

 

 こうなると、余計なアプリはどんどん機能停止またはアンインストールにして、電池消費を抑えたくなります。ネットを調べてみると、電波のやりとりが最も電池エネルギーを必要とするらしいので、まずは位置情報をカット。自分の正確な座標を検出するためには、複数のGPS衛星をキャッチして三角測量みたいなことをしなければならないからです。ということは、近距離通信Bluetoothの接続も控え目にしたほうがいいのかな。そういえば、ノートンのWiFi専用セキュリティアプリも電池をかなり消費することが分かったので、怪しい無料ネットワークに接続する時以外はオフにしておく。ボクは音楽が好きなのですが、そのダウンロードもパケット消費と合わせて要注意。

 

 そんなこんなの工夫で、充電頻度は次第に延長。競争社会に生きてきた人間にとって、そうした目に見える結果は達成感となって嬉しいんですよね。となれば、これをもっと長時間に伸ばせないかと。そんなある日に、たまたまスマホを会社に置き忘れて遠方に外出しました。すると電池寿命がとうとう3日に達したではありませんか。

 

「あ、そうか。なるべく使わなければいいんだ!」

 

 すぐに「おいおい、だったらなんでスマホを買ったんだよ」と自分ツッコミしましたが、まるで漫才のようなアホバカ極まりない結論というほかありません。けれども、これがね、人生における寿命意識と似ているように思うんだよな。

 

 とにかく、なるべく、できるだけ健康で長生きしたい。周囲も国家も、ご長寿を褒めそやす。確かにめでたいことではあっても、それが自己目的になってしまったら、何のために生きているのか分からなくなります。健康であり続けるために、すべての享楽と贅沢を我慢して生きる、ということもあり得るんじゃないかな。そんな修行中の坊さんみたいな長寿に、果たして何の意味や意義があるのやら。

 

 このブログでしばしば指摘してきましたが、人生というのは量=長さではなくて質だとボクは思っています。どうせ誰も彼もがいずれ死んでしまいますから、少しばかり早かろうが遅かろうが、その質が極端に変わったりはしませんよね。

 

 というわけで、あまりにも常識的な結論で恐縮ですが、スマホも人生も、どれだけ長くではなく、どのように有意義に使うかが課題ってことです。しかしながら、もしも人間にバッテリー残量表示のような機能があったとしたら、どう生きるようになるのでしょうか。それだけでSFの短編が1本書けそうに思いますが、率直な感想としては、そんなものがあろうがなかろうが、やはり生き方を大きく変えることはないんじゃないかな。それこそが人間であり、業の深さといえば、そういうことになるんでしょうね。

 

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2019年1月 8日 (火)

ぎぼむす

 

 正月3日の午後は散歩をかねて銀座に行くつもりだったのですが、何気に流していたテレビドラマに見入ってしまい、出かけることができなくなりました。TBS系の『義母と娘のブルース』。その筋では“ぎぼむす”と略されており(どの筋だよ)、昨年の夏頃に放送。ボクは地上波をほとんど見ないので気がつかなかったのですが、全10話を総集編としてまとめた再放送の3回目/最終回だったんですよね。

 

 かなりの高視聴率を得たドラマだったらしいのですが、ともかく綾瀬はるかの演技が素晴らしい。映画『僕の彼女はサイボーグ』(2008年公開)で感動して以来、ぶっ飛んだ役をやらせたらこの女優さんの右に出る人はいないということを改めて確信しました。おそらく衆知のように、生真面目過ぎるキャリアウーマンが、どういうわけだか余命いくばくもない子持ちの男と結婚。旦那が亡き後にシングルマザーとして血のつながらない娘を育てていく物語ですが、総集編の最終回だけを見たボクには様々な疑問が炸裂しました。いくら彼女が「日なたのような人」と褒めても、竹野内豊にイケメン以外の魅力があるとは思えません。広くて瀟洒なマンションは、ローンを死後の生命保険で完済したとしても、仕事をやめた彼女はどうやって収入を得ていたのか。何が何だかが結構あったのですが、綾瀬はるかの怒濤ともいえる演技がすべての疑問を綺麗さっぱりと押し流していったのです。

 

 いわゆる美人顔では決してないと思うのですが、不思議に惹き込まれて、魅力を感じさせる女優さんなんですよね。大したことでもないのに「申し訳ございません」と地面に頭をすりつけるほどの土下座など、誇張されたマンガのような演技も一切の躊躇なくやり通していくところが、心を揺さぶるのではないでしょうか。『ボクの彼女はサイボーグ』では、ロボットにもかかわらず健気で一途な気持ちを貫いていく姿勢にホロリとさせられましたが、それから10年を経て、大人の女性らしい色気と艶が加わっています。こうなったら、もはや最強というほかありません。突拍子もないヘンテコなシチュエーションや過激な演技も心から納得しちゃうんだよな。

 

 パン屋の店長が「う、うなじが」と言いかけた口を自分で押さえたシーンがありましたが、その通りでありまして、ひっつめ髪というのでしょうか、後ろでまとめたヘアスタイルも彼女にはとても良く似合います。匂うほどの間近で襟足とうなじを見たら、店長ならずとも男なら誰だって心臓がバクバクするはずです。

 

 それにシナリオも実に良く出来ています。いくら原作があるといっても、義母と娘の交流をあれほど面白く、時には涙させるストーリーにするのは並の技ではなく、非凡な才能と相当の手腕が必要。ドラマでは最重要な会話(ダイアローグ)も、それぞれの役柄の個性が際立つように仕掛けられています。調べてみたら、稀代の傑作『JIN−仁−』も手がけた森下佳子の脚本ですから、なるほどなぁと深く納得いたしました。

 

 ついでに、といえば失礼ですが、娘役の上白石萌歌もなかなかの出来ではないでしょうか。綾瀬はるかの細おもてに対するような丸顔なので、いかにも血がつながっていないことを強調したキャスティングだろうと思うのですが、妙に眼力(めぢから)のある女優さんで、知的な愛嬌も感じさせます。そのせいか、素っ頓狂な綾瀬はるかの演技を随所でしっかりと受け止めており、ドラマに立体的なリアリティを与えていました。

 

 ボクは子供の頃から気の強い変わり者の女性が好きでしたが、それだけじゃあダメなんだよな。女性に限らず男も、健気さと愛嬌、何よりも他者を思いやる優しさがなきゃね。そんなことを思わせるテレビドラマでありました。

 

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2019年1月 7日 (月)

おもしろおかしく人間主義

 

新年あけましておめでとうございます。

本年もご愛読よろしくお願いいたします。

 

 年が改まったので心身ともに新たな気分で、と言いたいところですが、昨年末から不愉快なことが2つほどありました。詳しく説明すると関係者を中傷することになるので控えますが、原則や規則、ルールなどを楯にして、自らの思考を完全に放棄する人が目立つような気がします。だったらさぁ、人間がそこにいるのではなくて、「オッケー、グーグル!」なんかの機械=AIに任せればいいじゃないですか。「浅草の名物は?」と訊くだけで、「浅草むぎとろ本店」なんかが出てきますからね。ジャズのライブで毎週のように浅草に行っていますが、とろろが名物なんてまったく知りませんでした。

 

 正月早々にも、有料契約のサポートセンターに(過去ログを読めばすぐに分かりますが)、あるセキュリティ・アプリについて問い合わせたんですよね。担当者の当たり外れが極端なところだとは薄々分かっていましたが、ベテランが正月休みのせいか、運悪く新人の女性に電話が回ったらしい。というのも、いちいち保留にされて長いこと待たされるわけです。それも一度や二度でなく何度も、それこそ「いちいち」なのであります。そこで、

 

「近くにサポートの人をサポートする人がいるみたいですね」

 

 と皮肉を言ったのですが、これがどうも彼女のプライドを傷つけたらしく、それからは「他社のアプリについては対応しかねます」の一辺倒。ボクが問い合わせたのは、そのアプリの内容なんぞではなく、本体システムの「設定」側で「強制終了」のボタンが復帰しないということです。明らかにスマホ側の問題ですから、サポートセンターが責任を持って答えるべき事柄なのですが、それを頑として認めない。ヘンなオジサンとでも誤認されのかなぁ。

 有料のサポートなので、オフィシャルにクレームをいれることも考えましたが、さすがに正月元旦からそれはないだろうと心中で自粛しながらも、ついついボクは余計なことを言ってしまうんだよな。

 

「こうした問い合わせが今後もあるかもしれないので、他社のアプリとはいっても、対処方法を蓄積しておいたほうがいいんじゃないですか」

 

 と、やさしく宥めるように言っても、もはや故・土井たか子さん並みのダメなものはダメ状態。あたかも「そんなつもりはまったくありません」と言わんばかりの応答だったので、さすがに温厚で篤実なボクも「もう結構です」と電話を切りました。このように紹介するだけで再び腹が立ってきました。やっぱクレーム入れようかなぁ。

 基礎的なことなら、コンシェルに聞いたり(案外役立たずですけど)、Q&Aを参照すれば分かるじゃないですか。応用問題に回答できなくてなぁにがサポートセンターだよ、カネ返せ! はぁはぁはぁ。

 

 ちょっとアタマに血がのぼったので、冷静になって本来のテーマに戻ると、どんな仕事にしても、機械でなくて人間をわざわざ配置している意味を考えるべき時代ではないかってことなのです。

 前述したように、たとえばグーグルの音声認識ならびに対応は目覚ましいものがあります。近所のレストランや鰻屋を探すとか、「〜って何?」なんていう単純な質問なら人間よりはるかに早く詳しく回答してくれます。昨年に書きましたが、「幸せって何?」という抽象的な疑問でも、ネットからそれなりのウェブサイトを探し出してきますからね。

 

 だーからさー、サポートセンターや保険などの相談窓口といった、およそ不特定多数の人に対応する仕事は、機械でも十分にできる時代なのです。にもかかわらず、あなたという人間が、なぜどうしてそこにいるのかを考えなきゃ。機械では決してできない人間的な対応が求められているからだとは思いませんか。

 

 にもかかわらず、自分のアタマで思考することがよほど面倒くさいのか、人間であることをさっさとやめてしまう人が多いんだよな。もちろん、感情的な軋轢もあるでしょうけど、それはそれでいいんです、だって人間だもの。ただ、その感情が、物事をますますつまらなくする方向に走ったら、それこそ機械に負けてしまいますぜ。何かを言われて悔しいと思ったら、ガシャンと建前のシャッターを下ろすのでなく、そいつを納得させるにはどうしたらいいかと前向きに考えたほうが、後々の役に立つではありませんか。

 

 仮に「今回の件は無理としても、今後の貴重な課題として受け止めさせていただきます」と言うだけでも、質問者は閉塞感から気分的に解放されます。その問題や課題が本当に組織の上層部に回って、経営幹部が「そだねー」と理解して改善されたら、会社のブランドイメージや業績はますます向上することになりますよね。

 原則や規則やルールや法律に、全員が納得するものなんてあり得ません。時代がちょっと変わるだけでもズレてしまって不具合が目立つようにもなります。そんな不完全なものを「最大多数の最大幸福」に近づけていくためには、現場の意見をくみ取り、常により良く改革していくほかありません。だからこそ、機械のように杓子定規な原理原則主義ではアカンのです。いや、機械ですらビッグデータから学んでいますぜ。

 

 要するに、既存のフレームに逃げ込むのでなく、自分のアタマで、自分の肌感覚で、それぞれの仕事に人間らしく対処しようじゃないかってことです。そのためには、仕事をメシ食うためだけの義務としてやってはいけない。では、どうするか。

 

 どんな仕事にも必ず興味を感じることはあるはずので、それを自分なりに探して、おもしろおかしくやったほうがいいじゃないですか。そもそもルーチンな仕事は機械にどんどん代替されているので、人間には人間にしかできない仕事が与えられているはずです。なのに、人間自身が機械になってどうすんだよ。負けるに決まっているじゃないか。

 

 というわけで、今年のテーマは「おもしろおかしく人間主義」。決して簡単なことではないからこそ、目指すべき価値があると思うんだけどなぁ。

 

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