笠木恵司の主な著書

  • キャリア・チャレンジ2009-2010
  • 資格試験合格後の本
  • 学費免除・奨学金で行く大学・大学院進学・休学・留学ガイド
  • 価値ある資格厳選200
  • インターネットでMBA・修士号を取る
  • 腕時計雑学ノート
  • 「国際標準」ビジネス資格完全ガイドブック
  • 日本で学べるアメリカ大学遠隔学習プログラム
  • テレビ局完全就職マニュアル
  • 資格の達人
  • MBA入学ガイドブック
  • 学んで! 遊んで! 役に立つ! インターネットキャンパス
  • 日本で学べるアメリカ大学通信教育ガイド

お気に召したら、ポチっと↓

  • 笠木恵司のブログ

福助くん その6

  • D_p1000397_s
    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

  • 5djustice3f5d5575e032a1
    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »

2019年2月

2019年2月28日 (木)

砂漠化する心象

 

 うっひゃー、またまた大げさなタイトルにしてしまいました。

 浅草のHUBが耐震補強のための改装工事に突入して1か月以上が経過しました。ひいきにしていたライブハウスですが、再開は3月17日の予定。あと2週間ばかりではあるのですが、どうにもね、音楽がないと心が渇いてしまって、水気のまったくない砂漠のようになってくるんだよな。

 

 そんなカサついた気持ちがたまらなくなって、先週は初めて銀座スイングに行ってきました。ロケーションは銀座というより有楽町なのですが、創業40周年というだけにブラウンを基調とした落ち着いた雰囲気。老若男女がカジュアルに集まるハイブリッドな浅草HUBと違って、客層もおそらく大企業の社員と目されるダークスーツにネクタイ姿の人ばかり。ボクは当日に予約したせいか、スピーカー脇の最悪の席でした。でもまぁ、ドラマーと目が合うほどの近くで、彼の手元がはっきり見えたのはメリットだったかな。ドラムスにも譜面があるなんて初めて知りました。

 

 当日の演奏は実にハイレベルで、世界の銀座という立地のパワーを再認識です。浅草のメンバーとはちょっと違って、ものすごくハイブラウでインテリジェント。モダンかつメロディアスな曲調もボク好みでした。

 

 ただね、ミュージックチャージそのものはリーズナブルでも、立地の関係でしょうか、メニューが総じて高い。ハムとサラミの盛り合わせが2200円ですから、HUBの価格に慣れたボクにとっては目が点です。ボトルをキープして会員になれば、もうちょっと安くできそうなので、次は飲めないウィスキーをオーダーしようかな。

 

 クラリネットで知られる北村栄治氏も頻繁に出演されているようなので、「世界は日の出を待っているThe World is Waiting for the Sunrise」を演奏しそうなメンバーの時にまた行こうと思っています。

 

 とにかくね、10日ほどもライブを聴かないと、注油を忘れて歯車などが錆付いた自転車みたいにギシギシになっちまうのです。ワイヤレスのイヤホンもあるけど、録音はライブに絶対に勝てません。ああ、心が渇いて仕方ないのでありますよ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年2月27日 (水)

意地を張る

 

 機械がどんどん発達していくのですから、人間はもっと楽になるべきですよね。クルマだって自動運転は間近であり、人工知能は確実に人間を追い越すともいわれています。だったら「ええ加減」に「テキトー」に生きていくのが人間らしさってことになりませんか。2人の人間がいて、どちらかがロボットなのに見分けがつかない時には、ファジーで予測不可能な行動をするほうが人間と判断される時代も近いんじゃないかな。

 

 ロボットという言葉は、チェコの作家、カレル・チャペックが1920年に発表した戯曲『R..R』から生まれました。この原題はチェコ語で「ロッサム万能ロボット会社」。最後の「R」がrobotでありまして、労働を意味する“robota”からの造語といわれます。ちなみに、古代スラブ語で「隷属」の意味もあるそうです(ウィキペディア)

 

 この「隷属労働マシン」であるロボットが進化していけば、これまでビジネス社会で評価されてきた「生真面目で律儀」「時間に正確」「遅刻皆無」あるいは「仕事人間」なんていうホメ言葉は、一気にことごとく逆転してしまいます。むしろ「まるでロボットみたい、キャハハハ」と若い娘さんたちにバカにされるでしょう。そのためにも諸君、これからはええ加減にテキトーに、時間に縛られず、自由に気楽に生きていこうぜぃ! と提唱したいのであります。

 

 でもねぇ、ボクはダメなんだよな。アポの時間には30分も前に到着することがしばしばでありまして、自分が決めたことは何がなんでも絶対に守り通したい。それだけでなく、無理といわれそうなことほど意地を張りたくなるのです。

 

 このブログも、9年ほど前に「土日祭日を除いたウィークデーは毎日書く、何があっても絶対に書く」と勝手に決めて、出張などでやむを得ず中断する時には「事前通告」することを自分のルールとしてきました。メチャメチャに忙しくて夕方近くにアップしたことが1回だけありますが、ルールを破ったことはありません。そもそも無料の原稿ですから、そこまで頑張る義理やイワレはどこにもないんですけどね。いつ中断しても非難される理由なんてないのに、どうしてもできない。ここまで続けてくると、いよいよやめるのが困難になってきます。

 

 そんなわけで、とてもじゃないけど「ええ加減」「テキトー」には生きていけません。健康を考えれば、ストレスまみれで心身には大変良くない生き方です。しかしながら、ボクにとっては中止・中断・挫折というほうが強烈なストレスを一生残すことになるんですよね。

 

 だからこそ意地を張るのであって、リスケ=予定延長や締め切り延長なんて恥ずかしくて不名誉極まりないことなのです。けれども、近年は「仕方ないじゃないですかぁ」が口癖の新人類が急増しているらしいので、これから来たるべきロボット時代にとってまことに慶賀な予兆というべきでしょう。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年2月26日 (火)

東京生まれ

 

「子供の頃は青山で遊んでいましたけどね」

 

 ある店でマスターが話の接ぎ穂なのか、口からポロリとそんな言葉が出てきました。ボクがひいきにしているエレキバンドのリーダーは、幼稚園から高校まで暁星だったそうです。かと思えば、名前を出せば誰でも知っている大企業の社長は幼稚舎から大学まで慶應ですもんね。

 

 そんな来歴を聞くと、東京に暮らして30年以上とはいうものの、名古屋で生まれ育ったボクは、つい怯むというか、引け目あるいは負い目みたいものを感じてしまいます。そもそも私立の学校なんか視野にも入らなかった貧乏家庭の出身ですが、そのこと自体は単純に資産=カネの問題なので、どうということもありません。エスカレーター式の付属校にしても、ずっと同じ仲間と一緒に上がっていくというのは辛いだろうなと同情するくらいです。幼なじみなんて、ボクにとっては横並び意識と同調圧力の遠因としか思えないんですよね。

 

 けれども、ああ、しかしながら、感性というのはまるで違うんです。ずっと首都・東京の中心部で育ってきたことで培われるセンスは、地方都市とは相当に違うんじゃないかな。食べ物ひとつとっても、ファッションにしたって、所作やふるまいにも「東京らしさ」はあるはずです。そりゃね、名古屋だって名物やモードはありますよ。ただし、やっぱり首都じゃないんだよな。ということで、結局は珍しいサブカルチャーになってしまう。

 

 普通に考えても、青山あたりの裏で遊び、小中の頃は新宿や上野とか谷中に遠征し、高校になったら原宿あたりのライブハウスの常連に。大学時代は大人ぶって銀座のバーや喫茶店なんていう感じで成長した人間の感性が、ボクと同じはずがないじゃないですか。

 

 インターネットがいくら発達しようが、特定の文化や習俗を幼い頃から体感することで得られた感性は、やっぱりレベルが違うとしか思えないのです。そんなことを今さら言ってどうすんだよと叱られそうですが、見えないところで、東京ネイティブと新参者との感性的軋轢があるような気がします。それこそが東京のダイナミズムと言えば言えるのですが、たまに弱気になると、ここに居ていいのかなぁなんていう違和感を覚えることがあるんですよね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

2019年2月25日 (月)

生き良くするヒント

 

 ほんの6〜7年前までは「就職氷河期」と言われていたのに、今では大学新卒者にとって圧倒的な「売り手市場」となり、コンビニなどを始めとする現場も深刻な人手不足と伝えられています。

 

 少子化による労働人口の減少、というのはあくまで公式の見解であって、そんなもん突然に勃発するはずがないと思うんですよね。2025年前から出生率がガクンと下がってきたのであれば納得できますが、実際にはそうではありません。厚生労働省「人口動態統計」によれば、出生数が顕著に減少したのは70年代から80年代初頭なんですよね。その結果として、89年には「合計特殊出生率」が1.57となって各方面にショックを与えましたが、全体として見れば90年代以降は緩やかに減少してきたのです。

 

 就職氷河期の最末期を東日本大震災直後の2012年とすれば、この年に22歳で大学を卒業したなら、1990年生まれとなります。前述したように7080年代は出生数の激減期なので、この時期に生まれた少子化世代が大卒年齢になる90年代後半〜2000年代に「就職氷河期」にぶち当たったのです。

 

 とすれば「就職氷河期」の本当の理由は明らかで、バブル崩壊による不景気が長引いたことから、企業の求人意欲が冷え込んだということに尽きるでしょう。さらに90年代には大学数が急増。進学率も急上昇して新卒者も増加したため、相対的に就職の門戸はますます狭くなったわけです。特に日本は横並び意識が強く、そこに情報革命ですから、隣の某銀行が求人数を減らしたらしいからウチでも、という調子で絞り込みが伝播していったのではないでしょうか。

 

 もとより、不景気になれば求人が減るのは道理なのですが、「就職氷河期」のあおりで心ならずも契約や派遣社員、アルバイトやパートなどの非正規雇用にならざるを得なかった大卒者が気にかかるのです。彼らが今の状況を見たら、もっと遅く生んでくれれば良かったのにと恨みたくなるんじゃないかな。

 

 だからといって、会社も雇用を増やせば固定費が増大するので、もっと採用しろとは言えません。バブル崩壊という急ブレーキを踏んだ奴には大いなる責任があり、その後の「失われた20年」も政府の無作為と糾弾はできます。けれども、それで現在の状況が変わるわけではないですよね。これをボクは「大状況」と呼んできましたが、子供が親を選べないのと同じく、時期を選んで生まれることもできません。

 

 それでは諦めるほかないのかといえば、ボクは悔しいからそう考えたくはない。大状況に正面から抵抗するのは困難でも、そうなった背景や原因は追求することができます。何も分からないから不安に陥るのであって、敵の正体が分かれば精神的には落ち着くではありませんか。

 

 次に、個人レベルで選択できることだけは、周囲や流行に左右されず、自分の意思を大切にして判断・決定する。自分が決めたことなら失敗しても諦めがつきますが、他人についていって崖から墜ちたら情けないではありませんか。

 

 ボクたちの大多数は、川の流れに浮かんだ小さな木の葉のような存在です。自分の好きなところに自由に行けるわけではありません。でもね、精神まで流されてはいけない。そのために何をすべきかと考えて、前述の2つを思いつきました。大状況の理由を常に探ると同時に、小状況では自分の意思を最優先する。

 

 どちらも、小さな木の葉にとって簡単なことではありませんが、少なくとも自分の力だけでできることですよね。それを大切にすることが、これからを生き良くする方法ではないでしょうか。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年2月22日 (金)

誰がスギを植えたのか

 

 世界で日本くらいマスクが好きな国はないんじゃないかな。ヨーロッパあたりでは冬でもまったく見かけないので、たまにマスクを着けた日本人旅行者が通り過ぎていくと、ギョッと怪訝そうな表情で振り返られたりするんですよね。

 

 鼻水が盛大に拡散してインフルエンザなんかをうつされるよりマシじゃんかという意見もあるので、「ヨーロッパでは」をタテにして批判するわけではありません。公衆衛生的には大変に優れた対策ともいえますからね。ただ、ボクは息苦しく感じるので嫌いです。それに、顔を隠すという匿名性もすごく不愉快なので、いっそ透明なマスクを作ったらどうかと提案したいくらいです。

 

 それはともかく、春先にマスク人口が急増するのは、スギの花粉アレルギーを持つ人が多いからとされています。ボクは残念ながら花粉症ではないので、どんなことになるのか想像できないのですが、いずれにしてもアレルギーに起因する病気であることは間違いありません。では、この花粉症は大昔からあったかというと、そうではないらしい。

 

 知る人も少なくないはずですが、焼け野原になった戦後日本は住宅建設ラッシュとなりました。そこで大都会に近い森林から樹木を伐採して搬入。家がどんどん作られていったのですが、森林をそのままにしておくと、自然環境が荒れるだけでなく、防風や防水など重要な機能も損なわれてしまいます。台風が来たら土砂被害だって発生するでしょう。そのため農林省は成長の早いスギを植林することにしました。それから3040年が経過して、大きくなったスギから花粉が大発生するようになったのです。しかも、建材は海外から安く輸入される時代となったので、スギは伐採されることなく放置。おかげで毎年、大量のスギ花粉が飛び散ることになったとされています。

 

 これはボクがざっと調べた結果に過ぎませんが、国の植林政策が花粉症をもたらしたことは間違いないようです。薬やマスクの対症療法も結構ですけど、季節の風物詩でなくレッキとした病気なのですから、根本的な原因を究明して、的確な解決策を施すべきじゃないかなぁ。もし当時の農林省に責任があるなら、罪は時効としても、政策決定のプロセスと担当部署や監督者の名前を明らかにすべきです。少なくとも「国民病」を生み出してしまったという罪悪感くらい持ってもらわなければ、花粉症患者に申し訳が立たないではありませんか。

 

 ところが、日本は行政の罪や不作為がほとんど黙認されてきました。かつてのHIV血液汚染問題、現在にしてもモリカケ問題や統計偽装の責任者が特定されることなく、珍しく名前が判明したところで、ちゃっかりと逃げ切っているではありませんか。

 

 果たして花粉症の皆さんが「誰がスギを植えたんだよ」と一斉に立ち上がる日は来るのでしょうか。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

 

2019年2月21日 (木)

ファンタジー

 

 時には「妄想」と和訳されることもあるようですが、人間にとってファンタジーほど大切なものはないと、最近になって思うようになりました。さもなければ、およそすべてのプロダクトや建築が、無味乾燥でつまらない機能一辺倒のモノになってしまうからです。

 

 たとえばクルマが本当に移動するためのゲタや靴代わりであるなら、大量生産しやすい箱型のボディにすればいい。空気抵抗が問題になるのは高速走行時なので、街乗りではほとんど問題にならないんじゃないかな。にもかかわらず、様々な性能やスタイルのクルマが発売されているだけでなく、フェラーリやポルシェなど、日常生活には過剰なほどのスーパーカーが人気を集めているのは、ボクたちが機能だけを選択しているわけではないという証拠ではありませんか。カタチだけでも、たとえばワゴンは幸せな一家団らん、セダンはビジネスの成功、2ドアクーペは女性とのデートとかね。オーバーグレードなスペックにしても、それ自体がファンタジーを紡ぎ出す要素であり、人間の想像力は海を越えるだけでなく、簡単に宇宙の彼方までぶっ飛んでいくのであります。

 

 ということは逆に、そうしたファンタジーを提供するのが優れたデザインということになってくるわけです。大型バイクに水着姿のグラマーを乗せるというのは安易極まりない愚の骨頂で、プロダクトや建築は、それ自体がエロスを昇華したものでなければならない。官能というのかな、大脳皮質で感じられるものでなきゃアカンのですよ。

 

 ということは文字で容易に説明できても、じゃあどんなカタチかと問われれば、正解なんかありません。それが分かったらボク自身がデザイナーになっています。おっとぉ、このあたりでお分かりかと思いますが、これからのビジネスはデザインコンシャスでないと成功できないということが言いたいのです。日本は敗戦後、機能主義の道をひた走って現在の地位を築き上げました。本家本元のアメリカもヨーロッパもびっくりの完成度に至りましたが、惜しむらくは機能を追求するあまりに、前述したファンタジーを置いてきぼりにしてきたような気がするのです。

 

 これを解決するひとつのヒントは、今週号の『週刊朝日』連載コラムで医師の帯津良一氏が書いていたように「粋」じゃないかな。認知症の防止がコラムのテーマだったのですが、似たようなものです。少なくとも「色気」を失ったら脳の働きの多くは機能不全に陥ると思うのです。

 しかしながら、そうした水っぽさがまるきり感じられないデザインのプロダクトもしばしば見かけるんですよね。バウハウスだって機能一辺倒ではないんだけどなぁ。何も今さらドイツ人やイタリア人になる必要はなく、控え目だけれど心にしっかりと残る、日本らしい「粋」と「色気」を漂わせることが、プロダクトにせよ、人間としても、モテる秘訣なんじゃないかな。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2019年2月20日 (水)

寝てばかり

 

 

 

 犬の福助が病院から戻ってきました。あれほど痙攣していたので、ヘタすりゃ半身不随かなと覚悟していたのですが、ヨタヨタしながらも、自分でトイレに行き、水も飲むので、いくらか気が楽になりました。

 

 

 

 いくらか、というのは、エコーやら血液検査で複数の問題や異常値が発見されたからです。今年で17歳、人間でいえば80歳以上は間違いない年齢なので、問題や異常なんかあって当然、なければ不思議なくらいっすよ。ただし、耳のほうは相当に遠くなったらしい。大声で名前を呼んでもまるで反応しないのです。振動なら軽くてもすぐに感知して起き上がるので、聴力がかなり衰えていると判断せざるを得ません。

 

 

 

 それだけでなく、メシの食いつきが前にも増して悪くなりました。手に乗せて差し出しても、匂いを嗅いでから、すぐに顔をそむける。エサの目先を変えると1回目はノロノロと口の中にいれても、2回目は興味を失ってしまうようで、皿に大半を残したまま。そのかわりに、やたらに水を飲み、やたらに寝るようになりました。厚手の座布団に身体を横たえて、ほとんど寝たきりといっても過言ではありません。ボクの場合は、年を経てから長く寝られなくなり、早起きになりましたが(かわりに昼寝します)、犬は違うのかな。

 

 

 

 たまに眼をあけると、点滴の後に巻いた左前脚の包帯が気になるのか、噛んだりなめたり。いつまで生きてくれるか分かりませんが、こうなったら、できるだけ苦痛なく「往生」してほしいものです。しかしながら、生命が終わろうとする時は、身体のすべてが敢然と反逆するはずなので、実は獣医と安楽死についても簡単に話をしました。それも覚悟しておいたほうがいいですからね。

 

 

 

 「生きとし生きるもの」かぁ。言葉にしないまでも、福助は果たして歌を詠んだことがあるのでしょうか。

 

 

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

 

 

 

2019年2月19日 (火)

原稿料(後)

 

 昨日は、“売文業界”の料金体系を紹介しました。とはいっても早い話が要するに、量×単価ですから、他の業界と比べて際立った違いは何もありません。

 

 ただし、記事の分量よりも、本数のほうがライターにとっては気になるんですよね。たとえば記事1本が600字であれ1200字でも、基本的な労力に極端な違いはありません。記事の長短にかかわらず、「最初の3行」といわれる書き出しに工夫し、全体の構成を考え、結末の落としどころをヒネるという思考作業は共通しているからです。量×単価で計算するなら、むしろ1本あたりの分量が多いほどライターには有利になるんじゃないかな。ボクにとっては、たとえば600字程度の記事が5本というより、2本で各1500字というほうが時間的に早く仕上げられると思います。ただし、1本あたり1600字以上ともなってくると、読者を飽きさせず、終わりまで引っ張っていく仕掛けが必要になるので、一筋縄ではいきません。よく使われるのが謎を残して次に続ける伏線なのですが、書いている本人が途中で忘れて置いてきぼりにしたりするんですよね(ここ笑うところです)

 

 またまた横道にそれてしまいましたが、ボクの専門分野である時計の場合は、もっと面白い現象が発生します。定価数万円のファッション・クォーツ時計を紹介した後に、数千万円から1億円レベルの超高級複雑時計に取り組むなんてこともあるからです。廉価なクォーツでも優れた機能とデザインの時計があるので、記事を書く手法や手間は共通しているとはいっても、価格的な差は1万倍近くにも達します。頭がクラクラするほどの価格差があるにもかかわらず、原稿の分量が同じなら、どちらも同じ原稿料。もしも対象となるブツの価格に合わせて原稿料が計算されるなら、とんでもない金額になってしまうのですが、それにしてもまったく変わらずというのは面白いと思いませんか。これはカメラマンも同じで、被写体の定価や売価で撮影料が変わるなんて、少なくともボクは聞いたことがありません。

 

 これほど極端な価格差のある商品がテーマとなるのは時計か宝飾くらいしか思いつきません。それだけに、高級品になればなるほど書き方や重点の置き方が難しくなってくるわけです。

 

 いえね、決して文句を言うわけではありません。現代で最も高額の耐久消費財は航空機であり、たとえばホンダの7人乗りプライベートジェットは定価が約5億円。最大で19人が搭乗でき、長距離飛行も可能なガルフストリームなら70億円を超えます。その原稿料もボクの時計の記事と大差はないはずですから。けれども、そうしたプライベートジェットを購入できる大金持ち=顧客は極端に少ないので、必然的に原稿を依頼される頻度も極端に少なくなってきます。

 

 その意味では、現在の時計業界は価格に広がりがある分だけ、様々な顧客層が対象となるので、それなりに少なからぬ仕事が発生するという構造になっているわけです。ここまで考えると、世の中はうまくできているなぁと感心せざるを得ません。すべては需要と供給のバランスと市場競争がなせるワザであり、およそすべての物事にはちゃんとした背景と理由が存在するんですよね。

 

 それを無視した横車や圧力や支配が必ず報いを受けることは、これまでの歴史が証明しています。モリカケ問題に統計偽装と、無理がバレ始めてきた安倍内閣は大丈夫なのかなぁ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年2月18日 (月)

原稿料(前)

 

 たまに「百円ライターです」と冗談まがいに自己紹介することもありますが、ボクは文字原稿の作成を基本的なナリワイとしています。もっと自虐的な「売文業者」という言い方もあるようですが、いずれにしても文章を製造して出版社などに納品することで、その対価を得てきました。

 小説やエッセイなどの作家と異なるのは、取材や調査がベースになっていることから分かるようにノンフィクションがほとんどであり、個人的な見解や意見は極力控え目にするということかな。それが前面に出てきて「作家性」が強くなってくると、ライターや記者あるいはジャーナリストではなく、評論家など別の呼称が付与されるようになります。

 

 とはいっても、取材や調査で得た事実の取捨選択や文章の構成は、ライターに明確な「意図」や「目的」がなければできません。それが希薄な原稿は、「この文章はいったい何が言いたいのかな」と読者を当惑させてしまいます。だから「私は」「僕は」という主語が省略されていても、筆者の取材観や世界観のみならず、結論だって十分に主観が込められているんですけどね。さもなきゃ面白くないじゃないですか。

 

 そうした原稿の制作料が今回のテーマです。昔は四百字詰めの原稿用紙に手書きしていたので、これを基本的な単位として料金が設定されていました。「ペラ」と呼ばれる二百字詰め原稿用紙を単位にする会社もあったのですが、ワープロからパソコンの普及に伴って、シンプルに文字数、または雑誌の誌面などのページ数で計算されることが多くなってきました。アメリカも同じで「1文字あたり」いくらとして支払われているようです。近年になって増えてきたウェブサイトでは、「1本あたり」いくらというケースが一般的なようです。

 

 これは月刊誌や週刊誌、それに前述のウェブサイトといった定期的な刊行物の事例でありまして、単行本や新書などの単発的な刊行物の場合は、「印税」と呼ばれる著作権使用料となります。定価の5〜10数%に発行部数を乗じた金額となるので、たとえば定価1000円の本を1万部印刷して著者の取り分が10%であれば、100万円ということになるわけですね。

 

 このように原稿料の量的な基本単位は共通していますが、その単位あたりの支払い金額すなわち単価のほうは、文部科学省による公定料金があるはずもなく、会社や媒体、扱いによっても違います。雑誌やウェブサイトには編集部が企画した純粋な記事だけでなく、タイアップと呼ばれるスポンサーが関与する記事も掲載されます。そうした「扱い」によって単価に差が設けられているのは当然といっていいでしょう。

 

 世間に名前が知られた作家と駆け出しの新人など、属人的な要素でも原稿料は異なると思います。と思う、と曖昧なのは、原稿料計算にかかわる詳細な単価を明文化して外部にも公開している出版社は希有だからです。ただし、市場価格とも表現できるスタンダードは存在するので、極端な違いはありません、取材や執筆にかかわる手間や経費は実のところケースバイケースなので、むしろ公開価格として一律にされるよりもライターにとっては望ましいんじゃないかな。交渉の余地も残りますからね。

 

 そんなこともあって、まとまった仕事なら契約書も取り交わしますが、日常的にはかなりアバウトといっていいかもしれません。記事1本でいちいち契約書というのは、出版社もライターにとっても面倒くさいだけですからね。そのかわりに原稿料の締めと支払期日はきっちり定められているのが普通です。

 

 あらららら、概要を書いているだけで結構長くなってしまいました。ウェブの記事はスマートフォンで読む人が多く、編集部から「もっと短くしてください」と言われることが増えてきたので、分量を意識するようになってきたのです。スクロールすりゃいいじゃんかとは思うのですが、短文のツイッターに慣れた人に、このブログのような長文は、見るだけでゲップが出るほどの腹一杯感を与えるんでしょうね。

 

 そんなわけで、明日に後編として続けます。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

 

2019年2月15日 (金)

好事魔多し

 

 あれほど元気に見えた女子のトップスイマーが、“血液のガン”ともいわれる白血病と診断されたようです。昔とは違って、完全治癒も十分に期待できる病気ではあるのですが、日本のみならず世界にも衝撃を与えました。

 

 関係者にとっては「青天の霹靂」(あの大臣もこう言えば批判されなかったのに)、あるいは「好事魔多し」と言うのでしょうか。ボクは後者を長らく「こうずま」と読み、そのような悪魔が想定されていると思い込んでいました。どうもね、諺から勝手に妄想してしまうクセがあるようです。調べてみて、恥ずかしながら「こうじま」だと初めて知りました。良いことにはとかく邪魔が入りがちという意味です。だから意味的には、好事、魔多しと区切って発音するのが正しいわけですね。あーそうか「好事魔」なんていないわけかと。真っ黒な影のような姿で、赤い唇が耳まで裂けているようなイメージだったんだけどな。

 

 それはともかく、人生には良いことがあれば悪いこともあるので、イケイケドンドンの時ほど足元をすくわれるようなことが起きるとも理解できます。でもねぇ、あの若さでオリンピックだって嘱望されていた世界的な選手に、白血病はちょっと酷だなぁ。病気に備えるといっても限度があるじゃないですか。もうボクは神様を信じるのはやめて、魔の存在だけ信じようかなと思っております。

 

 なぜなら、昨日午後4時10分頃に、犬の福助が突然に倒れて激しく痙攣。両足を泳ぐようにバタつかせ始めたからです。口からヨダレを流しながら、眼は宙を見ています。その一方で、老犬とも思えないほどの勢いで脚を動かす。けれども落ち着いてよく見ると、右脚は曲がったままで動いていません。

 脳梗塞や溢血などの血管障害が考えられるので、直ちにタクシーでかかりつけの動物病院に搬送しました。ボクのほうは昨年あたりから好事どころか悪事ばかりの近況なので、踏んだり蹴ったりとか傷口に塩、泣きっ面に蜂あるいは弱り目に祟り目、それに盗人に追い銭、あ、これは違うか、ともかくそんな感じなんだよな。

 

 はぁ。前々から分かっていたことですけど、生き物を飼うには、こういう末期をきちんと覚悟しておかなきゃいかんのですよね。詳細が分かり次第、ご報告させていただきます。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2019年2月14日 (木)

同調圧力

 

 昨日は代官山で時計ショップの内覧会があったので、その後にブラブラ歩いて恵比寿まで戻ってきました。ちょっとした買い物をしようとアトレという駅ビルの3階にエスカレータで上がったのですが、いつもと違ってやたらに混んでいるんですよね。しかも若い女性ばっかり。そのこと自体はボクにとって大変に嬉しいことですが、いったい何事だろうと当惑してしまいました。

 

 中には列を作っている店もあったので、こんなことはクリスマスイヴ以来だよなと思うに至ってようやく気づきました。その翌日、つまり本日は2月14日。バレンタインデーではありませんか。チョコまたはそれに類するモノをプレゼントとして購入するために、数多くの女性がアトレ3階のショッピングエリアに参集していたのであります。

 

 しかしながら、これだけの女性のうち何人が本当に好意を持つ男のためにチョコを選んでいるかといえば、数%いや皆無かもしれません。本命のためならもうちょっと高級で希少性の高い店に行くか、自分で加工したりするんじゃないかな。六本木のミッドタウンにいい店があるんだけどね。それに、前日に慌てて購入するなんてこともないはずです。んじゃないかな。

 

 年間を通してチェックしてみたのですが、男にそんな習慣はありません。上司の誘いで飲みニュケーションにイヤイヤ付き合わされることはあっても、プレゼントを習慣とする記念日なんかないですもんね。お中元やお歳暮にはバレンタインデーほどの支配力はないと思います。フェミニズム的に言えば、日本の文化風土や意識環境が義理チョコなる異形な習慣を生み出してしまったのです。

 

 かといって、それをいきなり中止したら、悲嘆にくれる上司が続出するんじゃないかな。「パパ、今年はチョコないの?」と子供に言われたりしてね。組織というのは、かくのごとく面倒くさいのであります。そんなヘンな習慣はやめようよと口で言うのは簡単ですが、「せーの」で一斉にやらないと誤解されたり犠牲者も出かねません。

 

 現実論としては、1月の給与に「バレンタインチョコ手当て」を追加するのもありかなぁ。それによってむしろ悪習を加速することもあり得るので、全社的な禁止通達を出すとかね。ただ、ここまで習慣として定着したということは、何らかのメリットがあるはずです。気むずかしいオッサンも、「お、ありがと」となって業務評価を甘くする効果があるかもしれない。

 

 人間関係の潤滑油といえばいえなくもないけど、そうしたプレゼント選びが楽しくなければ、やめたほうがいいんじゃないでしょうか。時間と精神的労力のムダです。それでもしなきゃいけないのが、日本特有の「同調圧力」なんだよな。やっぱね、権力を持ったオッサンがそろそろ「義理チョコはもうやめよう」と言うべきです。個人消費をこんなことで維持しするなんて実に悲しい。ボクは、女性が好きな男のプレゼントを選ぶ時に垣間見せる、昂揚した幸せそうな顔を見たいのであります。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

2019年2月13日 (水)

グラッパ

 

 父親から「男が食い物のことをあれこれ言うな!」と叱られて育ったものですから、ボクは基本的にグルメではありません。ただし、仕事となればもちろん別問題でありまして、3年くらい前から郷土料理関係の記事も書いてきました。なまじっかグルメならウマいのマズいのと論評したくなるでしょうが、舌が根っからの貧乏人なもので、たいていのものは美味しくいただいてきました。日常的には昨日の焼き餅のように、ホントに質素なんですよね。

 

 ただ、たまにふと思い出すのが「グラッパ」という酒です。初めて飲んだのはフランスのコルマールという駅から徒歩2分程度のホテル。とはいっても、後にも先にもそこでしか飲んだことがありません。バーゼルで開催される時計展示会の取材時に常宿にしていた時期があり、立派なレストランが併設されていたので、頻繁に利用していました。料理はアルザス・ロレーヌ風というのか、ザワークラウトという千切りにしたキャベツの酢漬けに各種ソーセージの盛り合わせという感じです。

 

 ボクは酸っぱい系が死ぬほど嫌いなので、もっぱらソーセージをやっつけていましたが、お楽しみは食後なんですよね。ある時に、ウェイターが「酒飲みならぜひグラッパっすよ」と促すので、トライしてみたのです。聞いてみるとグラッパはワインの蒸留酒でありまして、だったらブランデーとどこが違うかと問われても、そんなことボクには分かりません。仕事なら念入りに調べますけどね。ともかくアルコール分は3035%くらい。ちょいとキツくて、けれどもほんのりした甘さとぶどうの清純な香りが漂う無色透明な酒です。

 

 でね、このグラッパを最も美味しくいただく方法が、アイスクリームがけなんですよね。背の高いグラスに押し込んだバニラアイスクリームにグラッパを上からかけて、しかる後にスプーンでしゃくって口にいれます。これがね、実に気持ち良いんだよな。アイスクリームのキリリとした冷たさと甘味に、アルコール特有のキツさが相まって、いくらだって飲みかつ食べられます。実際におかわりしたこともあるくらいです。

 

 いやしいと思われるかもしれませんが、あのグラッパがけアイスをもう1度食べたいなぁ。でもまぁ、みんなでワイワイ言いながらスプーンを突っ込んだことが旨さを増幅していたのかもしれません。過ぎ去りし日々かぁ。そうした回顧のフックになるのは、やっぱり酒と食い物なんだよな。それと匂いも大いなる刺激になりますよね。だからといって何ということもありませんが、必ずしも時がすべてを洗い流していくわけではなく、痕跡は残るんだなぁ思うわけであります。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2019年2月12日 (火)

銀座の焼き餅

 

 昨年あたりから、1月〜2月初旬までの限定的な期間ですが、焼き餅がマイブームになっております。餅を食すなんて、ボクにとっては久々のことなんですよね。

 

 「焼き餅」とはいっても、調理は電子レンジのグリル機能で10分だけ。以前に醤油をつけて2度焼きした時に、大きく膨らんで形を崩すだけでなく、食感もデレデレになってしまったので、それからは10分間だけ1本勝負ということにしています。

 

 餅も普通の大きさではなく、小さな袋に分けられた状態の切り餅をさらに2つにカット。そのほうが焼き上がりも早いように思います。レンジがチンと終了を告げたら、それを小皿に移して醤油をかけた後に海苔で巻きます。海苔はケチケチせず、おにぎり用の1枚を使ってグルグルっといきます。醤油と海苔の相性は抜群なんですよね。海浜の野趣がほんのり漂う中で、海苔がパリパリと鳴りながらも、餅の歯応えはまったり。ちょっとクセになる味わいなんですな。

 

 というのも、ですね。今は見かけませんが、銀座で焼き餅の屋台が流行ったことがあるのです。ボクがまだまだ若い頃に、そんなに頻繁ではありませんが、銀座で飲んだ時には必ずといっていいほど利用していました。冬の寒気が酒で火照った頬に心地良く感じる季節です。醤油の焼ける匂いが、小腹の空いた酔っ払いには実に魅力的なんですよね。

 

 ただし、確か値段は1個300円。何㎝四方か知りませんが、2個続けて食べられるくらいのスモールサイズです。いま思えばかなりのボッタクリですけど、当時はそんなふうに思えませんでした。あれを食べたい! という強い欲求に値段はあまり関係ないようです。

 

 そんな当時を回顧しつつ、海苔で巻いた餅をほくほくと食すのが、ボクの近況なのであります。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年2月 8日 (金)

社会的資産

 

 子供の虐待が話題になっています。それ以上に大きな批判を浴びているのが、児童相談所や警察などの不作為です。子供からの訴えや伝聞などで明らかな兆候があるにもかかわらず、それを無視して親もとに返したおかげで、殺されてしまいましたからね。

 

 こうした子供の虐待は日本だけのことではなく、おそらく世界中で起きているはずです。しかしながら、ボクの知る限りですけど、アメリカはかなり厳しく対処しているように思います。近隣からの通知があれば、どんな言い訳があろうが直ちに警察などが子供を保護。ショッピングモールなどで子供を1人にしておいたら、すぐに遺棄あるいは放棄と判断されかねません。それが仮に誤解や手違いであったとしても、第三者などが客観的に証明しない限り、子供を取り戻すことは困難。里親や養子縁組でも、職場や知人などへのヒアリングを含めた身元調査が行われます。

 

 もちろん、そうした制度を巧妙にすり抜ける奴がいるのも世界共通ですが、アメリカと日本の大きな違いは、いや今こそ日本が学ぶべきことは、子供に対する考え方ではないでしょうか。

 

 ボクたちは「子供は親の持ち物」みたいな感覚が強いため、行政や警察権力も介入を遠慮してしまう。子供を保護することが、私権に対する干渉になりかねないからです。近隣の人たちが子供の泣き叫ぶ声を聞いても、「よその子のことだからねぇ」と放置する。それもこれも、子供は親に従属する存在だと見なしているからです。

 

 では、アメリカはどうかといえば、子供を「社会的資産」と認識しているんじゃないかな。だからこそ、他人の子供でも悲鳴などを聞いたら大騒ぎとなって近隣が通報するわけです。医療機関も、子供の怪我を診察する際には、必ず虐待の有無を確認します。

 

 そうなった理由は、アメリカの歴史とキリスト教に濃厚に関係しているはずです。要するに子供が生まれて成長しなければ、入植地の開拓を続けることができず、コミュニティの存続すら困難になってしまう。そしてキリスト教も、よく知りませんが、人間は「等しく神の子」ですから、子供も同じく親だけのものではないと規定しているのではないでしょうか。

 

 日本が子供を親の従属物としているのは、そのほうが行政にとって都合がいいからです。だってさ、子供の養育費や手間も面倒も、教育の失敗も成功も、すべてをお得意の「自己責任」に帰すことができるじゃないですか。少子化というのは、それに対する親候補たちの反逆または不服従による結果ではないかとボクは考えています。そうした観点から論じた意見や批評は、寡聞ながら知りません。

 

 どのように分析しても今さら遅いといえますが、だったら子供が少ないからこそ大切にすべきなのに、決してそうはなっていません。保育園の待機児童問題はどうなったのでしょうか。ボクは外国人でも宇宙人でもありませんが、つくづくヘンな国だよなと、たまに呆れてしまうのであります。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年2月 7日 (木)

十片の悔いあり

 

 稀勢の里が引退しました。って、今ごろ何だよと怪訝に思われるかもしれません。ワタクシ、かの貴乃花が現役で活躍していた当時から相撲に興味なんかカケラもなく、ましてやモンゴル出身の横綱がどーのこーのなんてどうでもいいのですが、稀勢の里が引退した時に語った言葉がずーーーーっと引っかかっていたのです。

 

「私の土俵人生において、一片の悔いもございません」

 

 えーーーーーっ! ホンッッッとにそうかなぁ。調べてみたら、連続で8場所を休場という横綱のワースト記録を作っているだけでなく、昨年末には横綱審議委員会から「激励」なんていうワケの分からない勧告も受けているではありませんか。稀勢の里に対して何の想いもありませんが、それで「一片の悔いもない」なんてことをどうして言えるのかなぁと、ずっと不思議に感じていたのであります。

 

 もちろん漫画『北斗の拳』のラオウが死の直前に吐き出した言葉ってことくらいは知っていますが、凡人のボクにはそれこそ死んでも言えません。イヤな思い出や、今でも泣きたいほどの後悔をすべて脱色して、自分の都合のいいようにねじ曲げた大嘘をつけるなら、「うーん、悔いはないかな」くらいは言えるだろうけど、それって思い出に対して失礼ってものですよね。

 

 務めて剽軽な感じで書きつけてきたのも、おそらく本気で思い出を点検すれば、一片どころか百片くらいの悔いが続々と出てくるからです。そんなことを自前の「鈍感力」で何とかあっちのほうに置いておいたのに、この相撲取りのおかげで、再び過去と直面しなきゃいけない。どうせ死ぬ時には思い出が走馬燈のようにくるくる回るらしいので、それまでは放っておいて欲しいなぁ。

 

 でもまぁ、ヤツが「一片の悔いもない」と豪語するなら、ボクはどのくらいかを吟味してみました。それでね、およそ1か月ほどが経過してしまったわけです。自分だけのことなら誰にも迷惑をかけていないので脚色は可能として、他人様が深くかかわったことだけをピックアップ。原因と結果を整理して、それぞれの重複を避ければ、十片くらいにまとまるのかなぁ。とにかく、それだけの重い後悔を今日まで持ち越してきております。ともかく恥ずかしくて、お詫びすべきことばっかり。少なくとも粉飾や嘘や合理化は絶対にせず、決して忘れることなく事実をきっちりと覚えていることをもって、関係者の皆様のご寛恕をいただければ幸いです。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2019年2月 6日 (水)

「炎上」で喜ぶ人

 

 テレビとインターネットは似ていないようで似ています。なんて書くと、即座に「どっちやねん!」と関西方面から突っ込まれそうですが、経営的なスタイルはまったく一緒なんですよね。基本的なおカネの入口はスポンサーからの広告料、または視聴者への課金しかないのですから。NHKは国民から強制的に徴収する視聴料だけで運営。民放は広告のみで、WOWOWなんかは両方とバリエーションがあるほか、おそらくは広告代理店と組んで視聴率などを詳細に分析したデータをマーケティング資料として販売しているんじゃないかな。もしやっていないとしたら、是非ボクにご用命ください。やらなきゃみすみす損をしていることになりますぜ。

 

 インターネットも基本的に同じですが、視聴者からの直接的な入金は圧倒的に少なく、広告料金が大きなウェイトを占めています。このため、視聴率=PV(ページビュー)はテレビよりも重要となります。それによって広告の値段も変われば、前述のマーケティングデータなどの価値も高くなるからです。

 

 でね、ここまでは誰でも指摘することなので新味はまったくありません。ボクが問題にしたいのは、番組の制作料なのです。テレビの場合は、スポンサーからの収入の一部をそれに回して、ドラマなりバラエティをこしらえます。時には数千万円を投じた劇場用映画なみの番組もあるようです。

 

 ところが、インターネットのSNSではそうした種類の投資は希有ですよね。このブログが典型的ですが、最初のフレーム=枠組み作りには知恵とカネが必要でも、日々のコストはメンテナンス経費くらいじゃないですか。なぜかといえば、その中身、つまりコンテンツはボクたち視聴者自身が制作しているからです。サイト運営者から見れば、制作経費ゼロでコンテンツがどんどん更新されていくわけですね。こんなにもローコスト&ハイリターンのビジネスは、人類の歴史上かつてなかったんじゃないかな。そのかわりに、気にしなきゃいけないのはPVなので、ユーザーがどんなテーマで何を書こうが結構。とにかく頻繁に、何度も更新してもらうことがサイト側の願いといっていい。

 

 ボクなんか毎日書き続けて10年にもなるので、相当に貢献しているはずですが、原稿料は1円たりとも貰っていません。そうした人たちの膨大な無料の寄稿によってPVが増加し、それによってバナーなどの広告がつくという仕組みなわけです。もうこのあたりでお分かりかと思いますが、タダで何かを見たい読みたいという視聴者にとっては、ボクのような正統派でクソ真面目な論評よりも、奇天烈でヘンな、あるいは超極端な意見や奇妙な写真のほうが面白い。さらに、サイト運営者にとって最も喜ばしいのは、意見が2つに分かれて議論が沸騰するようなテーマです。それによって新たな人たちのPVが集まるので、論争が長引けば長引くほどハッピーこのうえない。その内容や主義主張なんかどうだっていいんですよね。

 

 この構造はTwitterLINEなどもまったく同じ。つまり「炎上」ほどサイト運営者にとって嬉しい出来事はないんじゃないかな。わざと火をつけて知名度を高める「炎上商法」もあるようですが、それによって誰が傷つこうが関係ないわけです。みんなが騒げば騒ぐほど、安全地帯にいる一般視聴者も野次馬となって参加するようになりますが、それによって誰が喜んでいるのかを1秒でも考えたことがあるのかなぁ。

 「炎上」で喜ぶ人たちは、ボクたちには見えないところにいる。それを何とか視野に入れようとすることが、本来的な知性の働きではないでしょうか。2.26事件の青年将校や分派した学生運動の闘士たちも、血気盛んなあまりに、それができなかったんですけどね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

 

2019年2月 5日 (火)

「褒めて伸ばす」の大嘘

 

 昨日の続きになってしまいますが、小売店や外食産業などの顧客対応がここまで衰弱した遠因は、「褒めて伸ばす」「褒めて育てる」という近年の教育方針ではないでしょうか。

 

 おそらく日本でも最小規模と思われるライブハウスが、東京・銀座のコリドー街にあります。ミュージシャンが文字通り「目と鼻の先」で演奏してくれるので、まるでプライベートで依頼したような気にさせてくれる、こちらも字義通りに「有難い」店ですが、驚くことに土日も含めて毎日ナマ演奏を行っている本格派なんですよね。そんな環境ですから、マスターはもちろん、ミュージシャンとも気軽に話ができます。この時になぜだか学生時代のアルバイトが話題となり、飲食系の仕事体験をそれぞれが披露することになりました。

 

「ホールを回ったら手ぶらで帰ってくるなって強く言われました」

 空いた皿や灰皿などを見逃すことなく回収してこいということです。

「同僚と話すのはいいけど絶対にホールから目を離すなと叱られたことがある」

「注文を間違えたら厨房からテメェコノヤローと怒声を浴びましたからね」

 

 などといったエピソードが続出。ボク自身も新宿の大箱キャバレーで2か月ほどバイトして徹底的に鍛えられたことがありますが、最後は「それに比べて今はねぇ……」という溜息まがいになってしまいました。昔が良いは言いませんが、少なくとも親身になって、あるいは欲求不満の捌け口だったにしても、厳しい叱責が頻繁にあったことは事実です。ボクが取材した「日本の名工」は、「ミスをするとスパナが飛んできたからね」と懐かしそうに語っていました。

 

 誰でも間違いはするし、大切なことを見逃すことはままあります。それをきちんと叱るのは、実のところ大変な精神的労力が必要。むしろ叱られるほうが楽ということは、自分が管理職になってみればすぐに分かります。「褒めて育てる」は、ちょっと聞きには素敵な言葉でも、そうした上司やマネジャーの義務、すなわち管理&指導の手間を省けて、「なぁなぁ」でやり過ごせるマジックワードなんですよね。その結果として、後々に大きな問題や取り返しのつかないミスをしでかして損をするのは本人、ということをすっかりスルーした手法としかボクには思えません。

 

 こんなことはヤケドにたとえれば簡単に理解できます。沸騰したヤカンに触れるとヤケドするからこそ、2度とそんなことをしないわけでね。それで火ぶくれになりそうな子供の手に母親が軟膏を塗りながら叱責するのは、まぎれもなく「愛」があるからです。このように念入りに心に刻まれた経験は、一生涯忘れることができません。そうした教訓を「褒めて育てる」が果たしてフォローできているでしょうか。

 

 だーからね、日本全体が誤ったマジックワードの普及によって衰弱してきたのではないかと。オッサンの僻みとか、繰り言というならそれで結構ですが、似たようなことを指摘しているのはボクだけではありません。

 

 IT小僧の言うことに何でも唯々諾々と従うのは、敵前逃亡に等しい先輩たちの責任放棄ではないかとすら思うんですけどね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2019年2月 4日 (月)

カスハラ

 

 結局のところ、社会主義や共産主義は、カール・マルクスの目算にもかかわらず、独裁者の言い訳に使われてきたとしか言えません。直近では物価上昇率が100万%と卒倒しそうなハイパーインフレに直面しているベネズエラのマドゥロ政権。歴史を遡っても「世界初の社会主義」と謳われたソ連からして、ひと皮剥けばスターリンの恐怖政治ですもんね。第2次世界大戦後の東側では、チャウシェスクなんていうとんでもない大統領も出現。結局は公開銃殺に処されているほか、カンボジアで200万人以上を虐殺したとされるボル・ポトも共産主義を標榜していました。

 

 彼らのおかげで、共産主義も社会主義もすっかり人気を喪失。資本主義が高度に発達し、物資の十分な生産体制が整った後に「必然的に」登場するとマルクスが予測した新しい社会体制は、夢のまた夢のような状態です。

 

 おっと、今回はそんな大げさなテーマではなく、「カスタマーハラスメント」略称カスハラを取り上げようとしていたのでした。消費者による暴言や恫喝、土下座の要求や時には暴力など、悪質なクレーマーが社会問題化しています。もとより、小売店や飲食店などの担当者も消費者も同じ人間であり、「お客様は神様です」なんてことはあり得ません。だから、前述のように「悪質」とされる態度は論外です。しかしながら、原稿書きと同時に長年にわたって消費者も続けてきたボクは、営業系や店員さんなど、顧客に対応する人たちの知識や技能のレベルダウンも甚だしいと思うんですよね。

 

 それに対する反論もあるでしょうから、つい最近に経験したことだけを簡単に紹介しておきます。ボクはスウェードタイプの靴を20年以上にわたって履き続けてきましたが、大切な時のために温存してきた一足を先日の海外出張で汚してしまい、新しく購入しようと某百貨店に電話で在庫を確認。幸いに「ある」ということなので、早速売場に行くと、その靴は新品にもかかわらず紐を通す上部の穴付近にゴミのような汚れが付着していました。それを指摘すると、店員さんは「軽い汚れなので」と言いながらブラシで磨き始めましたが、うまく処理できず、さらに消しゴムのようなものをこすりつけます。ボクは見かねて「ほかに同じサイズの靴はないのですか」と聞くと、たまたま一足だけあるという。それを箱から出してもらって確認すると、今度も新品にもかかわらず靴の横に長い折りジワのような跡がくっきりと残っているではありませんか。

 

 ボクは「検品という作業をメーカーも御社もしないのですか」と務めて穏やかに訊ねたのですか、店員さんは「すいません」というだけ。そして再び、消しゴムなどを使って最初の靴を修復しようとします。ボクはしばらく様子を見守っていましたが、さすがにアホらしくなって「そんなことをした靴を買いたいと思う人がいると思いますか」と訊いても、「申し訳ありません」というだけで、再びゴシゴシ作業に熱中です。ほかに方法を考える知能がないのかなぁ、と誰でも疑いますよね。

 

 それで「特に急いではいないので、メーカーさんからちゃんとした新品を取り寄せてください」とボクから逆提案。すると「週末は連絡が取れないので、月曜日にご連絡するということでよろしいでしょうか」と、やっとまともな返答がありました。

 

 あのですね、悪質クレーマーと誹られたくはないので実名は出しませんが、誰でも知っている都内の有名百貨店で、対応したのは中年初頭と思われる決して若くはない女性ですぜ。にもかかわらず、このように消費者の心境を無視したやり方ですから、若い頃ならボクだってキレていたかもしれません。

 

 あくまでも個人的な感想という表現に留めますが、接客業全般にわたって、こういう経験は山のようにあります。それに対して言葉で抗議することを悪質クレーマーだのカスハラだのというなら、もうショッピングも外食もやめようかな。あ、だからインターネット通販が隆盛なのでしょうか。実は海外でも似たようなことが結構あるんですけどね。プロフェッショナルはどこに行っちまったのかなぁ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2019年2月 1日 (金)

女の料理、男の料理

 

 日本では2017年に公開され、第89回アカデミー賞の6部門で栄誉に輝いた『ラ・ラ・ランド』という映画があります。まだ2年ほど前なので、「という」というのもヘンかな。

 

 この映画の中で、ライアン・ゴズリングがエマ・ストーンと同棲しながらも、バンドの巡業に同行して留守にするシーンがあります。彼女は寂しくて電話をかけるのですが、彼はステージ中らしいので、歩きながら留守電に長いメッセージを残して帰宅。すると、思いがけずゴズリングがキッチンで食事の準備をしており、「サプライズ!」と言いながら調理用手袋をつけた両手を広げて彼女を抱きしめるわけです。ここで「おや?」と不思議に思いませんか。

 

 男が料理を作って彼女を待っているんですぜ。この映画に限らず、アメリカのテレビドラマでも、男が「腕によりをかけて」彼女のために料理するシーンが案外少なくありません。けれども、日本では肉ジャガで好きな男をトリコにするとか、料理は女性だけの課題というか業務であって、男は今でも「僕食べる人」になっているんじゃないかな。

 ちなみに、某食品会社による「私作る人、僕食べる人」というテレビCMが女性差別だと猛批判を受けて放送中止になったのは1975年。何と44年も前のことですが、その批判を受けた状況はほとんど変わっていません。日曜昼に放送されるTBS系『噂の!東京マガジン』では、若い娘さんに料理を作らせて、その無知や不器用を嘆きながら嘲笑する『やって!TRY』というコーナーがありますけど、ここでも男は出来上がった料理を食べるだけですからね。

 

 「私作る人……」の1975年当時なら、どうして若い男にも「TRY!」させないのかとクレームが入っても不思議ではないはずです。ネットの一部では指摘されているようですが、このことだけでも、日本社会は封建的な保守に逆戻りしていると判断するのは間違いですかねぇ。

 

 テレビの話題でもうひとつ。CS放送のFOXで『ザ・ブレイブ:エリート特殊部隊』というテレビドラマがあります。選抜された精鋭の米軍兵士で編成された特殊部隊が世界各地で活躍するのですが、基地で屈強な男がチームのために煮込みというかシチューのような凝った料理を作るシーンがありました。このチームには女性の狙撃手も配属されていますが、彼女は母親が食事を作るところなんて見たことも聞いたこともないので、「料理はできない」と臆すことなく言うんですよね。

 

 こういうことをボクなりに前向きに解釈すると、料理というのは誰かを喜び楽しませる作業ですから、それを女性だけの専業にしておくなんて、むしろ男にとって逆差別になるのではないかということなのです。こんな話を学校で、あるいは家庭で聞いたことがあるという人は手を挙げてください。おそらく、ほとんどいないと思います。

 

 だからといってアメリカが完全に男女平等社会とは言いませんが、ボクたちは悪いことばかりを真似して、良いことをちっとも学んでいない。もうすぐバレンタインデーですけど、海外ではこれまた女性からだけでなく、男からも女性にプレゼントを渡していい日なのです。ボクは若い頃に外国人女性に「明日はバレンタインデーだよね」と何気に言ったら、「何をくれるの?」と逆に訊かれて軽いカルチュアショックを受けことがあります。ましてやチョコを渡すのは日本だけの風習なので念のため。

 

 そんなわけで、男にも料理教育を徹底すべきだと提案したいのであります。小・中学校に家庭科はありますが、ボクの経験では「おざなり」で実用性に乏しいんですよね。算数や理科など主要科目の一部を高校に回し、洗濯や裁縫にアイロンワーク、電気の配線から水まわりの修理なども含めて、家庭科を強化・充実したほうが自立の役に立ちますってば。

 それがもしかすると、セクハラ=女性に対する人権侵害を抜本的に駆逐するための有効な方法ではないかとも思うんですよね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

 

« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »