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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2019年5月

2019年5月31日 (金)

公衆電話!!!

 NTTのエラい人やお役人様は、スマホを置き忘れたりしないのかなぁ。少なくとも、公衆電話というバックアップ・インフラくらい整備しておくべきではないでしょうか。

 はい、ワタクシ、大阪の某所から新大阪駅に向かったタクシーの中に、みごとにスマホを置き忘れてしまったのであります。タクシーが大変につかまりにくい場所でたまたま運良く空車を発見し、やれ嬉しやと事務所に連絡。新大阪駅に到着したらもう1度電話しようと考えていたせいで、ついカバンの中でなくシートの上に置いてしまったんですよね。諦めていた午後7時から東京で行われるパーティに間に合いそうだと切符売り場に急いだことも敗因で、運転手さんから「お忘れものはないですよね」と念押しされたにもかかわらず、「大丈夫っす」なんて調べもせずにダッシュしたのです。

 切符を購入した後で事務所に電話しようとカバンの中をまさぐったのですが、ないんだよな、どこにも。何度も探したのですが、やはり見つかりません。ということはタクシーの中に置き忘れたとしか思えません。幸いに領収書をもらっていたので、タクシー会社に連絡しようとしたのですが、そこから本格的な難行苦行のドラマが始まったのであります。

 どこに行こうが、公衆電話の気配がない。いくら歩き回っても、影も形もない。もちろんお土産屋さんなどの店員さんにも訊きました。けれども皆さん「さぁ」と首を傾げたり、申し訳なさそうに「分かりません」あるいはキッパリ「ないんじゃないかな」という過激な意見も。そんなはずねぇだろと思うのですが、ホントに、感心するほどおみごとに、どこにも公衆電話が見当たりません。7〜8人目になると思いますが、ようやく「下のコンビニのそばに設置されているみたい」と聞いて、さっそくエスカレータで降りました。ところが、いくら歩き回ってもやっぱり見当たらない。コンビニからしてありません。そこで、最寄りのショップで今度は「コンビニを探しているんですが」と訊くと、何ともう1フロア下にあるというではありませんか。

 何だよ、と再びエスカレータで降りたのですが、やはり見つからない。コーヒーショップの店員さんに訊いてみると、ボクの感覚的には辺境とも言えそうな場所にコンビニがひっそりと佇んでおり、その横に3台の公衆電話があったのです。ここに至るまでに新大阪駅を端から端まで、しかも3階分のフロアを急ぎ足で歩いたような気がします。

 ところが、小銭の持ち合わせがないんだよな。そこでコンビニの店内に入ってミネラルウォーターを購入。やっとタクシー会社に電話することができました。事務所にも電話して、ボクのスマホにかけてもらったら、運転手さんが応答したらしく、タクシーを降りた場所で待ち合わせることになったのです。

 ホッとひと安心ではありますが、その場所で待っていても、タクシーはなかなか来ません。念のために事務所に確認しようと思ったものの、公衆電話は3フロア下ですから、そのうちにタクシーが到着するかもしれない。どうしようかな、と何の気なしに振り向くと、嬉しいことに交番があるではありませんか。ナイスですねぇと心の中で呟きながら扉を開け、「スマホをタクシーの中に置き忘れたので電話を貸していただけませんか」と気軽に申し出ると、若い警官は妙に明るい表情で「それはできないんですよぉ」と言うではありませんか。すぐそこに白い固定電話があるというのに「ダメなんですか?」「ダメなんです!」と、ああ無情。規則でもあるのでしょうか、あまりにも無惨で冷酷な対応にキレそうになりました。しかし、ここでつっかかって公務執行妨害で留置なんてことになったら、ますますスマホから遠ざかってしまう。奴らは逮捕権を持っていることを忘れてはなりません。

 仕方なく元の場所に戻ると、警備員さんが立っているじゃないですか。そこで事情を話してスマホを貸してくださいと申し出ると、交番とは大違いで「それは大変ですね」と同情してもらえました。そのスマホで事務所に再び電話して、駅への到着予定も確認。とにかく待つだけとなったので、下のコンビニで細かくした残りの500円玉を電話代として警備員さんに手渡そうとしたら、「そんなのいいよ」と手を振ります。こういう謙虚なゆかしさがね、日本のいいところなのです。

 もちろんタクシーの運転手さんにも御礼しようとポケットを探ると、5000円札と1000円札が1枚しかない。せっかく新大阪駅まで戻ってくれるというのに、御礼がたったの1000円というのは社会通念として失格でしょう。かといって5000円はどうかなとは思っても、ATMは近所になく、その場を動かなきゃいけない。置き忘れたボクの自己責任であり、同じ過失を繰り返さないために、5000円を罰金というか厳しい教訓にすることにしました。

 いやぁホントに焦りまくり、汗まみれになった夕刻でした。あまりにも歩き過ぎたせいか、昨夜は久しぶりに足が激しいこむら返りになり、ろくに寝られなかったというオマケも付いてきました。

 ですから、もうちょっと公衆電話を整備してくれませんかねぇ。スマホがどれだけ普及しようが、ボクのように紛失することは誰にだって起き得るはずです。なのに、あの広大な新大阪駅で公衆電話が構内の外れに1箇所3台だけというのは、あまりにも少なすぎますって。しかも1台はプッシュボタンの8が接触不良でした。

 どんなこともバックアップを作っておくのが常識だろうと思うんですけどね。

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2019年5月29日 (水)

テキトーで行こう(後)

 似たようなことをすでに2月頃のブログで指摘しているのですが、これからのAI時代を生き抜くためには「適当」であることが必要ではないかと昨日に書きました。これまで人間にとって望ましいとされてきた社会規範をすべてAIやロボットが上回るとしたら、その逆を行くほかないからです。

 面白いことに、この「適当」というのは、大辞林による第一義では「ある状態・目的・要求などにぴったり合っていること。ふさわしいこと」と説明されています。何だよ、それなら機械のほうが上手じゃんかと思いますよね。ところが第二義では「いい加減なこと。また、そのさま」と真逆になっているのです。漢字の語義からいけば「当に」「適っている」わけですから第一義が正しいんだろうけど、いつの間にか「いい加減」の意味が加わったので、大辞林も「仕方ねぇなぁ」と追加したのではないでしょうか。

 ボクが言いたいのはもちろん第二義の「いい加減」なほうです。でね、これがまた「良い加減」とも読めるのであります。「湯加減」と同じで、量的には特定できないけれども、質的には望ましい状態というのでしょうか。早い話が、ひと頃流行った「ファジー」なんですよね。理系の人は言葉にも厳密性を求めるので、「適当」なんて曖昧な表現はしませんでしたが、まさにそういう意味ではありませんか。

 調べてみたら、このファジーは「多値論理」としてとっくにコンピュータにも導入されているらしいのですが、失望することはありません。ファジーや本来的な意味の「適当」から区別するために、敢えて「テキトー」とカタカナにしますが、これって「気まぐれ」の別名でもあるんですよね。つまり、予測ができない行動のことです。あははは、人間が本気になった「テキトー」を、機械が予測できるはずがない。これだけは人間の勝ちってことにならないですかねぇ。だったら、どんどん「テキトー」を貫いて機械を欺いてやろうではありませんか。それでこそ人間の価値が再認識されると、ボクは思うんだけどなぁ。

 たとえば、定時にちゃんと会社に出勤するかどうか分からんという奴はどこにでもいますよね。上司が「明日は大切な会議があるから頼むぞ」と念を入れておいても、平気で30分くらい遅れてくる。そりゃもう全員が苦虫噛みしめの怒り心頭ですが、本人は「すごく毛並みのいいラブラドールとすれ違いまして、つい撫でているうちに」とか何とか。

 しかしながら、その30分の遅刻って、そんなにも大変なことでしょうか。たとえば人類に重大な危機をもたらすようなことなら、そもそもそんな会議に遅刻の常習者を呼ぶはずがない。ボクたちの日常というのは、人間が関与している限りは相当なマージン、余白というか「遊び」が必ずあります。こんなことを会社で言ったら顰蹙ものですが、打ち合わせや会議に少しばかり遅れたところで、待たされた当事者は不愉快に決まっていますが、だからといって世の中なーんにも変わりませんてば。

 つまり、ボクたちが遵守してきた、そしてこれからAIと機械に奪われそうな社会規範や美風良俗とされる多くのことは、人間がこしらえた共同幻想といってもいい。幻想でないのは、数学と物理と化学しかないと言い切れるとボクは思っています。さもなきゃ飛行機が墜落し、ビルや橋が倒壊してしまいます。だったら、これまで人間を縛ってきたくびきや足かせなんて、喜んで機械にくれてやろうではありませんか。

 そのかわりに、人間はあらゆる意味で生きていることをエンジョイすべきです。急な残業でプロ野球やコンサートを断念するなんて旧世代の話で、「テキトー」世代は躊躇なく楽しみを優先すべきです。だってさ、優秀で真面目この上ない機械が仕事をサポートしているんだから、どうして人間が無理しなきゃいけないの、ってことです。

 はい、そのためにも「テキトー」で行こうよ、というのがボクの発明した画期的な論理なのであります。ブラジルでは「明日できることを今日するな」という諺があるそうですが、そうしたラテンの気楽で気ままな生き方こそが、これからの人間の未来像、だったらいいなと切に願う今日この頃なのであります。

 なお、明日5月30日は朝から関西出張なのでブログをお休みさせていただき、翌金曜日から再開する予定です。

 

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2019年5月28日 (火)

テキトーで行こう(前)

 

 遅刻を絶対にしない、言われたことはきちんとやる、仕事の締め切りを守る、職場の秩序を乱さない、頻繁に転職しない……。それ以外にもいろいろありそうですが、こんな社会的な美風良俗というか規範はもうすぐ時代遅れになるんじゃないかな。だってさ、人工知能と機械にはどうやっても勝てないからです。しかも奴らは、残業代を要求したり、昼飯&昼休みどころか、睡眠や休息も必要ありません。

 ということは、人間様のほうは、これまでとは180度異なる規範を持たないと、それこそ「機械のようだね」とバカにされるようになるでしょう。そんなことを言われないためには、どうしたらいいのか。これは決して難しいことではなく、人工知能が計算できない、機械ができないことをやればいいだけのことです。
 ところが、習い性となる、ではありませんが、子供の頃から学校で冒頭のような指導を受けてきた人たちは、ボクも含めて、真面目で実直な機械のような生き方を捨てるのは容易なことではありません。教師の皆様の親切で執拗な、時には強制的なご指導のおかげで、旧来の規範に背くことに罪悪感を持ってしまうからです。

 けれども、もう少し真剣に考えて欲しいのですが、ここに1台のロボットと1人の人間がいるとします。単純に生産性を比べたら、ロボットのほうがはるかに優秀ですから、人間が次第に仕事を失っていくのは火を見るより明らかではありませんか。そうならないためには、取り急ぎでも別の規範を持ち、自分を馴らしていくほかないのです。

 その規範のコアとなるのは、相手が機械なのですから「人間性」しかありません。それを究極まで突き詰めていけば、人間を再生産できるセックスということになってしまいます。こればかりは、どうやっても機械が真似できることではありません。かといって、子作りのためだけに生きるというのも、ブロイラーみたいで虚しいじゃないですか。

 セックスの次に考えられる人間性は、創造力ということになるんじゃないかな。想像性のほうはビッグデータの解析と予測で、すぐに機械にも可能になりそうですが、同じ読みの創造性=クリエーションのほうは人間の能力のラストリゾートといっていい。ところが、人間のすべてが創造性を発揮できるわけではありません。むしろ、ごく一部に過ぎないですよね。こんなことは歴史を振り返れば明らかです。アーティストはもちろん、科学者や化学者ですら、大昔は変人、暇人、あるいは落伍者とも見られていたんですから。逆に立派だと評価されたのが、機械のように正確に遅滞なく決められた仕事ができる人なんですよね。

 そうした長所を機械に奪われてしまえば、人類の大多数は生きるに値しない存在になりかねないことを、もうちょっと真剣に受け止めるべきなのです。では、具体的にどうしろと言うのか。それが「適当」という生き方ではないかと、ボクは思いついたのであります。長くなったので、この続きは明日ということで。。。。

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2019年5月27日 (月)

鶏皮

 ケンタッキーフライドチキンの皮の部分を無性に食べたくなる時があります。だから身のほうは相当におざなりでありまして、勿体ないと叱られるかもしれませんが、適当なところで捨ててしまうんですよね。それって、ボクだけかなぁ。

 以前は身がパサパサで、いかにもブロイラー的だったのですが、近年は食感がしっとりしてきたので、食べるようになったほうです。それでも、独特の複雑なスパイスで味付けされた表面の皮には勝てません。そもそもボクは鶏の胸肉が好きではないんだよな。母親が肉の嫌いな人だったので、脂肪の少ない鶏のささみをやたらに弁当に詰め込んでくれたのです。それはそれで健康に貢献したと思いますが、育ち盛りのボクはちっとも美味とは感じられませんでした。だから、ささみは弁当で一生分食べちまったと感じています。

 大人になったら自分の好き勝手がやれると信じて成長したので、あのピンク色の鶏肉を自分から買ったことは一度もありません。かわりに鶏皮ということになるわけです。そのくせヤキトリの鶏皮は何だか油っぽく感じられて、ほとんど食べたことがありません。けれども、近頃はコスト意識に目覚めてしまい、ケンタッキーのチキンで皮だけを食べるのは経済性に劣る行為だと気づいたのです。

 今頃かよと嘲笑されそうですが、食習慣を変えるには、それなりの勇気が必要なのであります。ところが、ピーコックで長い串に刺さったラージサイズの鶏皮を2本も購入。無理して一度に食べたおかげで吐きそうになり、新しい食トラウマ(ボクの命名なので無断使用を禁じます、って冗談です)を抱えてしまいました。

 健康診断の血液検査で中性脂肪の値が高いと指摘されたので、鶏皮などは控えたほうがいいんでしょうね。けれども、北京ダックのようにアヒルの皮しか食べない料理もあるので、貴族や上流階級の皆さんは「皮」にこだわってきたんじゃないかな。ボクはただの庶民ですけど、塩鮭の皮も大好きです。カリカリに焼き上がった皮に吹き出た塩が鮭の脂と相まって、何ともいえない旨みがあるんですよね。食べ物を粗末にするのは良くないと分かっていますが、皮が大好きという人は身のほうを犠牲にするケースが少なくないと思います。

 でね、この文章で何が言いたいかというと、食の好き嫌いには理由があるのかということなのです。進化のプロセスを考えてみると(大げさだね)、もしも好き嫌いが生存に悪影響を及ぼすなら、ボクの血脈なんかとっくに淘汰されているはずです。ということは逆に、好き嫌いは生き残りに何の影響も及ぼさない、単なる嗜好に過ぎないのかもしれません。なのに学校では、食の好き嫌いを矯正するのが栄養教育だと思われています。食べものが乏しい敗戦直後ならいざ知らず、今では飽食とも評されるようになりました。少なくとも、食を自分の意志で選択できる時代なのですから、健康に悪影響を与えない範囲内で、好き嫌いを解禁してもいいんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。アメリカの学校はカフェテリアというかビュッフェ方式らしいので、画一的なメニューはもうやめるべきじゃないかなぁ。

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2019年5月24日 (金)

おカネというもの

 

 自分がロクに持っていないヒガみから言うわけではありませんが、おカネは汚いものだという古来の伝統的な感覚を捨ててはアカンと思うんだよね。もっと正確にいえば、カネではなくて、それに異常にこだわる奴の心根が汚いんですけどね。

 にもかかわらず、小学校から金融教育を始めるべきだと提唱する御仁もいるようですが、ナニ言ってやんでぃベラボーめ(近頃このフレーズが多いなぁ)。おカネというのは、ちゃんと真っ正直に働いていれば、後からついてくるべきものなのです。

 そうした健全な道徳&倫理感、というより社会通念が、80年代末のバブルを境にしてガラガラと崩れちゃったんだよな。おカネをジャブジャブ使うだけの生活がそんなにも楽しいとは思えませんが、とにかく日本の人民は戦後の混乱と貧困をすっかり忘れて、浪費や蕩尽を覚えてしまったのです。さらに美形の女優や歌手やタレントが、同業者ではなく「実業家」という別名を持つ金持ちとどんどん結婚したせいか、所有するお金の量が人としての資質と同一視されるようになりました。現代ではちょびヒゲのIT長者ですから、女性が目指すものは古今東西ほとんど変わっていないんですけどね。アメリカでは、カネ持ちに成り上がり、糟糠の妻を捨てて再婚した年若い美女を「トロフィーワイフ」と呼ぶそうです。奥さんを「ご褒美」扱いですから、フェミニストはもっと怒るべきだと思うんだけどなぁ。

 かくのごとく、ボクが今さら説明しなくても、現実の世の中はおカネが万能な資本主義が意識下まで浸透しまくっています。現実問題として、カネがあっても幸福にはなれないのは事実だけど、カネがなかったら絶対に幸福にはなれません。どんな純愛もたちまち色褪せて、お互いをののしるようになるはずです。
 かつての「清く貧しく美しく」が大嘘だと分かっているからこそ、ボクは敢えてカネは汚いものだという倫理感を大切にしたいんだよな。

 にもかかわらず、子供の頃からカネのことを教えて、ドケチや銭ゲバを大量生産してどうすんだよ。それで喜ぶのは証券会社を始めとする投資と金融の関係者だけじゃないですか。ちょっとばかりの運用益に目を血走らせるような人間ばかりになったら、日本が世界に誇る治安も危なくなり、ラフカディオ・ハーンを感涙させた公序良俗も消し飛んでしまうでしょう。

 いつの頃か知りませんが、ホンネが重視され、タテマエが嫌われる奇妙な風潮が支配するようになりました。政治家の公約のウソや、政策に隠された差別がバレるようになったのは結構ですが、崇高な理想までタテマエ扱いされるようになったとボクは感じます。ホンネなんて、ただの現実ではありませんか。カネが欲しいのはみんなの偽らざるホンネだけど、そんな我欲に汲汲とする社会が生きやすいと思いますか。

 ボクは「武士は食わねど高楊枝」という言葉が好きだなぁ。主家を失って浪人となっても変わることのない武士の生活態度を庶民がバカにした言葉だと思いますが、いやいや、その矜持はアッパレと言うべきです。もとよりおカネの多寡は本人の能力や人格・識見だけで決められるものではありません。むしろ慈愛深くて他人に優しい人ほど、おカネに縁遠いといっていい。この「石が浮かんで木の葉が沈む」状態を元に戻しましょうよ。自分ながらアナログ、じゃなかったアナクロだと思うけど、これもまた「生きにくい世の中を生き良くする」ために必要な意識改革ではないかと、皆さんに自慢したいくらいなのであります。

 

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2019年5月23日 (木)

壮絶ってかぁ?

 そりゃね、ボクだってたまにはクソ大げさな表現をする時がありますが、とりわけ大嫌いなのが「壮絶」という言葉です。どういうわけかテレビのスタッフはこういう激しい言葉が大好きらしく、TBSの金曜日午後7時頃からは「!!」付きで、壮絶だけでなく、苛烈、凄惨、凄絶から悲惨に惨憺、それに悶絶って、これは違うか。とにかくボクにはとても手書きできない難しい漢字が、テレビの画面にどーんと大きく斜めにかぶさってくるんですな。

 テレビは見世物小屋的な要素が少なからずあるので、視聴率を高めてナンボというのは分かります。でもさぁ、恥知らずになってしまうのはどうでしょうか。テレビだって、というのも失礼な言い方ですが、ニッポンの文化のひとつなんですけどね。

 でね、そうした中でも、ボクが最も嫌悪するのが「壮絶な闘病」とか「壮絶な死」という組み合わせです。壮絶な生い立ちも、壮絶な恋愛も、壮絶な結婚や壮絶な中高年の浮気や壮絶な離婚も、生きている限りはコミカルな要素がなくもないのですが、「壮絶な闘病」というのは、刀が折れ矢尽きた悲劇的な結末を予感させるせいか、どうにも救いが感じられず、胸苦しくなってくるのです。

 言葉は常に新陳代謝しており、新しく生まれては淘汰されていきます。だから言葉そのものに責任はありません。希望を失うことなく、死をもたらす病と闘う姿勢は、時に崇高ですらあるとも思います。

 けれども、それを臆面もなく平気で「壮絶」と形容する連中から透けて見える興味本位で他人事的な感性、もっと簡単に言えば、人を踏みつけても気にすることのない冷淡なエゴイズムが、不愉快極まりないのであります。これって、ボクだけの考えすぎなのでしょうか。

 

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2019年5月22日 (水)

修業しろよ!

 

 某所に立ち食いの天ぷら屋があります。いまどき珍しいと面白がって利用していたのですが、お笑い芸人がグルメ雑誌で紹介したおかげで大混雑。ゼニアかロロピアーナか知りませんが、イタリア製生地の高級スーツを着込んで綺麗なお姉さんと一緒という人たちもやって来るようになったので、足が遠のいていました。

 こうした立ち食いはサクサクっと食べて飲んで、さっさと帰るのが基本。なのに行列になんか並べるか、ベラボーめ。ということで、しばらく行かないでいたのですが、天ぷらというのはウナギと同じで、無性に食べたくなる時があるんですよね。それでたまたま夕方の通りすがりに店内を覗いてみたら、意外にも客はパラパラ程度の入りではありませんか。

 いったいどうしたのかなと訝りつつも、久しぶりということで中に入りました。天ぷらを5本程度お願いして、グラスワインを飲みながら待っていると、やってきましたよ1本目が。それを口に入れた瞬間に、店が空いている理由を納得できました。料理人が替わったのか、てんぷらの衣がベチャベチャとはいわないまでも、じっとりと湿気っているんですよね。

 天ぷらというのは、加熱した油で食材の水分を飛ばす調理ですから、カラッとしてなきゃいません。だからといって揚げ過ぎのパサパサでは、食感が悪くなって味も素っ気もなくなります。仕込みもさることながら、油の温度と揚げ時間などが問われる微妙な調理法であり、食材によっても条件が大きく異なってきます。それを踏まえた料理テクニックをまったく持っていないから、油が残ってしまうのです。申し訳ないけど、おカネが取れるプロの料理からほど遠いシロモノだったので、すぐに精算してもらいました。

 かのホリエモンは「寿司屋の修業を何年もやるのはバカ」と語ったことがありますが、ボクは傲慢極まりない暴論だと思います。あるいは本当に旨い寿司を食べたことがないんじゃないかな。よほどの天才でない限りは、美味をこしらえる「暗黙知」を身につけるためには、相当な時間がかかるはずです。ましてや天ぷらは前述したような繊細な感覚が不可欠。けれども、天ぷらを自分で一度でも揚げた人は分かるはずですが、油にやられるというか、飽きてしまって十分に試食できなくなるのが普通です。そうなると、ですね。ボクの仕事も同じですけど、想像力、イマジネーションがなければダメなんだよな。食べれば分かるといっても、納得するまで食べられないからこそ、ベテランによる指導や訓練、そして経験が必要になってくるわけです。「これは美味しい」と感嘆させる絶妙な仕込みと揚げの案配を、普通の人が2年や3年で分かるのでしょうか。

 若い人ほど長い修業をバカにするのはよく分かります。ボクもそうでしたから。現代では人工知能と機械で十分に代替できるという意見もあるでしょう。回転寿司ばかり食べていればそうなるのも理解できますが、あれは寿司というより、刺身にぎりと言うべきです。職人による寿司は、米も含めて、もっと優しく奥ゆきのある味わいに仕込まれています。刺身などの食材と、ご飯と調味料の絶妙なハーモニーが寿司という料理の正体ですから、それを上手に指揮できるまでに時間がかかるのは当然といっていい。

 しかしながら、そのために必要な修業を無視する傾向は年々強くなり、回転しない高級寿司店も次第に敬遠されるようになってきました。「回転寿司で十分じゃんか」という思い込みに抗弁するのも困難ですからね。

 おかげで味覚も鈍化して、食事が生きるためのエサと化していく。人間は太古から何のために料理を究めてきたのかなぁ。かと思えば、ミシュランガイドの星を無批判に信じてやまないんだよな、この国は。口に入れるモノまで他人に支配されたくないので、ボクは一度も読んだことありませんけどね。

 

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2019年5月21日 (火)

道路の拡幅

 

 ボクの事務所があるマンション前の道路が、片側一車線から二車線となり、合計で四車線に拡幅されると知ったのは20年ほど前になるでしょうか。その頃すでに、点線で予定地域を記した鉄製の看板が道路脇に設置されていたので、計画自体はもっと以前からあったようです。

 石原慎太郎が都知事だった頃にようやく本格的な買収が始まり、契約が締結した場所から整地されていったのですが、今でも道路側に出っ張った格好になってしまった建物がチラホラとあります。個人の権利やエゴと直接に向き合わなきゃいけない道路拡幅の難しさを感じさせますが、おかげで舗道が広がっただけで、クルマが走る道路は何も変わっていません。そうなるとですね、この少子化・人口減の時代に、わざわざ巨額の税金を投資して道路を広くする意味があるのか、となってくるわけです。

 ボクは事務所の窓から前面の道路を20年近く眺めてきましたが、渋滞なんか見たことがありません。近所の五叉路ではさすがにクルマが並んで列をつくりますが、夕方の混雑時でも、信号が1回変わるだけで解消される程度。おかげさまで、信号のあるところまで行かなくても、ちょっと左右を確認するだけで悠々と横断できるくらいです。もちろん危険なのでボクはしていませんが(ウソつけ!)、向こう側からこちら側、こちら側から向こう側にそそくさと歩いていく人は珍しくありません。

 来年は東京オリンピックがあるといっても、一時期だけのイベントですよね。移民を本格的に受け入れない限りは、首都といえども人口減少は続きます。それでも道路を拡張する積極的な理由があるというなら、納税を欠かしたことのない都民に教えて貰えないかなぁ。

 役人はワケの分からない屁理屈をこねるに決まっていますが、要するに議会を通過した計画は絶対に後戻りしないってことでしょう。役所の組織構造は、一度決めたことを推進するだけで、ブレーキが付いていないのです。議会がアクセルとブレーキの役割を果たしているといっても、道路のように長期にわたる計画の当事者はもはや残っていないはずです。役所にしても定期異動があるため、事情が分かる人がいない。かくて計画の中止や撤回が議会に諮られることもなく、まるで巨大な機械のように自動的に、ということは無責任に無目的に進められていく。けれども、そこで使われるカネの一部はまさしくボクの税金なんですけど。

 こんなアホらしいことはもうやめませんか。少子化・人口減少によって、大昔に立案された計画の多くが時代遅れになっていることは間違いありません。そろそろ行政のあり方を根本から変えていかないと、道路などの大規模インフラはボクたちを置き去りにした金食い虫と化していくんじゃないかな。

 かといって、1人の都民としていったい何ができるんだよと、窓外を見ながら溜息をつくばかりであります。みんなをまとめて運動にしていくヒマも体力も精神力もありません。そもそも人づきあいが苦手なので、政治なんか冗談じゃねぇと感じるボクにとって唯一の期待はSNSなんだけど、若い人は目先のことしか気にしないもんなぁ。

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2019年5月20日 (月)

『銀座ブルース』

 

 やっぱりいいなぁ、西田佐知子。以前にもさんざん書いたように、艶っぽい鼻声がとても魅力的な歌手ですが、『銀座ブルース』を聴いて、改めて惚れ直しました。

たそがれゆく銀座 いとしい街よ
恋の灯つく銀座 夢買う街よ

 スローで情感たっぷりのシロホンで始まり、それを追いかけるテナーサックスが夜更けの銀座に漂う妖しさを予感させますが、こんな始まりの歌を「ブルース」と呼んでいいのかなぁ。昔の歌謡曲は「ブルース」をぶら下げたタイトルがやたらに多いので、当時は流行だったんでしょうね。
 オリジナルは、和田弘とマヒナスターズに松尾和子が参加してレコーディングした1966年のシングル盤のようです。「ムード歌謡」として多くの歌手がカバーしており、何と石原裕次郎も歌っていますが、その由来はウィキペディアもフォローしていないので、確かなことは分かりません。ボクは1969年発表のアルバム『西田佐知子 恋を歌う』の収録曲を愛聴しています。

 昔の歌は言葉使いが実に達者でありまして、「恋の灯つく銀座 夢買う街よ」という的確このうえないフレーズで瞬時に分かるように、銀座のホステスクラブまたはバーを舞台にしています。ただし、構成が普通とはちょっと違うんだよな。

あの娘の笑顔が 可愛い
ちょっと 飲んでいこうかな

 それだけなら、店の扉をいざ開けようとするお客目線の歌かと思いますが、

ほんとにあなたっていい方ね
でもただそれだけね

 と、主体は接客側に移ります。つまり、客とホステスとの心理的な掛け合いが歌の骨格をなしているのです。それにしても「いい人というだけ」なんて、ボクのように遠慮がちで控え目なマジメ人間にはグサリと刺さるセリフです。かといって突き放すわけでもないので、だったら別の側面も見せてやろうじゃないかと。そんな挑戦的な気分を刺激することで常連にしてしまう手練手管ですから、皆さん、くれぐれもご注意ください。

 こうした掛け合いで代表的なのは、松本隆が作詞して太田裕美が歌った『木綿のハンカチーフ』ですが、発表は1975年。それよりも9年ほど先行しています。松本隆はこの歌を参考にしたのでしょうか。翌1976年にちあきなおみが歌った『矢切の渡し』も同じパターンです。ちなみに『銀座ブルース』の作詞作曲は鈴木道明。ラジオやテレビの音楽番組の制作に携わる一方で、数々のヒット曲を送り出した才人です。

ネオン花咲く銀座 夢売る街よ
こころはずむ銀座 夢買う街よ

 まぁね、先立つモノ=おカネさえ潤沢であれば、確かに銀座は楽しい、というより愉しい街ではあります。

気のない素振りが 憎い
ちょっと酔ってやろうかな

耳打ち話が気になるわ
あなた意地悪ね

 ほらね、今度は下手に出て弱みを見せしたりして誘うんですな。このあたりの男女のやりとりがね、西田佐知子の独特の声質と相まって絶妙なのでありますよ。耳のそばでふわりと囁かれるような色気が、胸の動悸を早めたりします。かといって、決して官能的な妖艶さには至らない。このギリギリの寸止め感が西田佐知子らしさであり、貞淑で清楚な雰囲気も残しています。だぁからね、歌が好きというレベルを超えて、本人に惚れてしまうのであります。

あの娘の気持ちはどうだろう
ちょっと聞いてみようかな

目と目で交わしたお話が
ピンと来るのよ

 いろいろ含みを感じさせる歌詞だなぁ。「目と目で交わしたお話」って、相当な常連にならないと、そんな高等な交流は無理ですよね。

今宵ふけゆく銀座 たのしい街よ
ふたり消えゆく銀座 夜霧の街よ

 うーん、消えゆく2人は本気なのか、それともアフターでしょうか。寅さんじゃないけど「それを言っちゃおしまいよ」という複雑で微妙な曖昧さが、夜の淑女とのつきあい方ってものなんですよね。経験ないけど。。。。。

 こんなシャレの効いた、コミカルともいえる歌を、西田佐知子は実にみごとに、おそらく本人も楽しんで歌っているんじゃないかな。歌はメロディやリズムに忠実ならいいってもんじゃないですよね。表情が歌の中に見えてこなきゃいけない。そのためには、足し算ではなく、ボクの持論である「引き算」が余韻となって、聴き手の想像力を刺激するのであります。

 

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2019年5月17日 (金)

憧憬

 

 ライター稼業は好きで選んだ仕事ですが、モノづくりや建築の現場を見ると、どうしても引け目を感じてしまいます。中でも建設系は「地図に載る仕事」なんていうフレーズのテレビCMがありましたが、高層ビルや大規模な再開発は、まさにピラミッドのように地表のカタチを変えるじゃないですか。それに比べて、メディアの論説なんて空虚もいいところですよね。

 高邁な理屈や壮大な形容詞の伽藍を組み立てたとしても、そんなものは形而上の世界であって、足場を組んで鉄骨などの建築材料を組み上げていく形而下の現場に勝てるはずがない。曖昧で空疎な内容でも、それなりに見せてしまう言葉の手練手管なんて、こうした現場仕事では「なんじゃそりゃ」と大爆笑されるだけです。ビルの骨組みを律するのは、数学と物理学と化学だけであって、さもなきゃ倒壊は免れません。

 現場仕事に人間が携わっていれば、心理学などの人文系も必要になってくるでしょうが、それでも奇妙な屁理屈や尊大な自意識をこねていれば、落下などの事故につながります。そんな厳しい緊張感を、エアコンの効いたオフィスワークで得られますかねぇ。プロジェクターやホワイトボードの前で、蟹が吐き出す泡のように、何がなんだかよく分からないカタカナを大量に振りまくだけに思えることがあるのです。

 それに比べて、汗を流しながら工程をひとつずつ進めていき、その日のノルマをようやくクリアした後に飲むビールは、問答無用の旨さと爽快感があるんじゃないかな。ああ羨ましい。

 だったら転職すればいいじゃんかと思いますよね、でもね、時はすでに遅く、ボクの身体は事務系に完全適応しているので、ガテン系に今さら転職するのは無理なのです。仮に仕事を変えられたとしても、非力で小さな手ではスパナもまともに振り回すことはできず、心臓もすぐにバクバクだろうなぁ。みんなに追いつけないだけならまだしも、足を引っ張れば危険な事態を招きかねません。

 そんなわけで(最近はこのフレーズ多いな)、あちこちに建築現場がある渋谷の駅に行くと、我が身の不甲斐なさに気づいて慨嘆したくなるのであります。そりゃね、ボクの業務にもそれなりの社会性はあると思いますよ。でなけりゃ食えるはずがない。けれどもネットの発達で、普通の人が匿名で意見を表明できるようになったのは結構ですが、にわか評論家が大量発生するようになると、身を引きたくなるんだよな。賛成と反対、肯定と否定という分かりやすい二項対立だけでは創造的な結論に至るはずがない。けれども、井戸端会議はそれに終始しないと賑やかに盛り上がらないわけです。SNSの運営会社はPVが稼げるとほくそ笑んでいると思うんですけどね。

 どんな激しい論争でも結論に至ることは決してなく、「いろいろな意見がある」というのが円満な着地点ですよね。そんなことを堂々めぐりで繰り返す2次元世界に本格的に疲れてきたので、またプラモデルでもこしらえようかなぁ。

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2019年5月16日 (木)

自己評価

 

 ボクが行きつけにしている歯科医院の上階に、美容整形のクリニックがあります。そのビルにエレベータは1つしかないのでよく分かるのですが、歯科医院なんかよりはるかに繁盛しています。時間にもよりますが、1階で列ができるほど若い女性たちが並んでいたのに、歯医者の階で降りたのはボク1人だけ。皆さん、上階の美容整形に向かったのです。

 オフィスビルのエレベータホールに女性が集まっていたら、必ず楽しげなオシャベリや上司の噂話を耳にしますが、それがまったくないことから、互いに面識のない美容整形のお客さん、じゃなかった患者さんとしか考えられないじゃないですか。もはや美容整形に負い目を感じる時代ではないとはいっても、日本の女性らしい慎みがまだ生き残っていることにボクは感心しましたけどね。

 えーと、そんなことは本題ではなく、そうした患者さんたちは決してブサイクではなく、むしろ平均より美形の女性が少なくないということなのです。美容整形は容貌に問題があるからやるのだと思い込んでいたボクには衝撃的な発見でありまして、実際はまるで逆なんですよね。普通よりも綺麗な女性が、より綺麗になるために修正・補正を各所に施す。ボクが見る限りでは、そのままでも十分に整った顔立ちなのに、彼女たちは決して満足することなく、より上を目指すのです。学業でも仕事でも、そうした努力がいけないはずがない。だったら、美容整形外科は優秀な学習塾あるいは英語や資格のスクールみたいなものじゃないですか。

 この比喩にいささかの無理があるとしても、自己評価の高い人ほど、より自分を高めようと頑張るのは事実ですよね。逆に自己評価が低い人は、努力しても無駄だと諦めてしまい、より自分を貶めてしまう。

 ボク自身を振り返っても、中学の時に重量挙げで遊んだせいでヒザの軟骨を飛び出させてしまい、ロートレックのように足が短くなったと思い込んできました。しかも実の父親から「お前は豚目だ」と冷酷に宣告されたので、自分のスタイル並びに容貌に自信を持ったことがありません。そうなると美容・エステ及びファッション関係は「どうだっていいや」と投げやりになりますよね。これでワタクシ、軽く30年以上は損したんじゃないかと、今になって深く後悔しているのであります。

 何しろ美容はもとより、健康関連で努力したことなんて一切なかったのです。かくて飲み食いは好き勝手のやりたい放題。やがて腹はぷっくりと膨らみ、口の中は虫歯だらけ。薄毛にも白髪にもならなかったのは幸いですが、ダイエットなんて笑止千万という態度を貫いてきました。床屋にしても、髪が非常識なほど伸びたら仕方なく行くところだったのです。

 そのかわりに、モノカキの仕事は思い切り刻苦精励してきたつまりです。このブログで何度も書いたように、小学校の時に作文が校内放送で読まれ、新聞にも掲載されたことがあるからです。より上手に書くために、本もかなり読んできたと自負しております。

 ということは、不良少年・少女、そして売春やクスリなどの犯罪に手を染める人たちの多くは、自己評価が低く、自分に見切りをつけたことが転落の理由なのではないでしょうか。とりわけ子供の頃から問題児扱いされたら、頑張って勉強する気が失せるのは当然です。イジメもそうですが、自分なんかどうなってもいいやとなりますよね。

 だからといって、ボクは近頃の「褒めて育てる」には賛同しません。大人になったら甘えるのはもうやめようよ。けれども、子供は別でありまして、何でもいいから自信を持たなきゃいけない。それが自己評価の向上につながります。

 にもかかわらず、自己評価の低い親は、自分と同じ意識を子供に植え付けてしまうのです。子供が自分から離れていくのを怖れるからですが、その結果として貧困が連鎖するのではないでしょうか。金銭が根本的な理由でも、それだけが問題ではないように思います。

 ちなみに、ボク自身はあることがきっかけで、突き出た腹をダイエットで抑え込み、歯医者に3年も通って虫歯と歯周病を完治。床屋も1か月に1回が習慣となり、ファッションもそれなりに意識するようになったので、ボクのような業種では珍しいはずですが、クロゼットにスーツが何着もぶら下がっています。

 父親のように「オレは目千両と言われたぞ」と子供に恥ずかしげもなく自画自賛するイケメンに改造したわけでも、突然に足が長くなったわけでもありません。その本質的な実態はまるきり変わらないまでも、体形や容貌に関する自己評価があまりにも低すぎたことに気づいたのです。そのきっかけは、ある人からたまたま貰った1枚の大きなスタンドミラー=姿見です。それまで鏡なんかロクに見なかったボクは、ようやく思い込みという呪縛から解放されたのです。

 もしも自分に自信が持てず、死にたいほど自分がイヤなら、敢えて“姿見”で客観的に自分を見直したほうがいい。頭の中だけで増幅を繰り返してきた醜い自分像は、必ずしも現実ではないことが分かるはずです。人間の想像力は、良いほうだけでなく、悪いほうにも等しく働くんですよね。

 それに気づいたことで何が始まるかは保証の限りではありませんが、劣等感が少しは解消され、自分を放棄する気持がなくなれば、その分だけ人生が楽しくなるんじゃないかな。

 

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2019年5月15日 (水)

トレンドという共同幻想

 

 仕事柄でトレンドや流行に敏感なつもりですが、それを追いかけることに疲労を感じるようになったのはいつ頃からかなぁ。若い頃は誰よりも素早くトレンドの萌芽を見つけることに喜びを感じたのですが、ある時期から虚しいとすら形容できる消耗感を覚えるようになったのです。

 年齢的な衰えもあるでしょうが、デジタルメディアとITの急速な発達でそんな感覚が促進されたのだと思います。紙に情報を印刷するほかなかった時代に比べたら、流行などの伝播力は自転車とジェット機くらい違うといっても過言ではありません。かつては新聞と雑誌を丹念にチェックしていれば十分だったのに、今では毎日のようにネットに目を通さなきゃいけない。YouTubeは言うまでもなく、インスタグラムやツイッターなどのSNSも見逃せません。そんなことをしていたら、たちまち1日が過ぎていくんじゃないかな。

 情報流通が高速化すれば、当然のことながらトレンドの寿命も短くなり、あっという間に生まれては消えていくことになります。気がついたら終わっていたなんていう流行だって珍しくなく、そんなアブクのようなものを追いかけるには若さ=精神的体力が欠かせないので、オッサンには年齢がハンディキャップになってきます。同時代を生きる感覚が次第にズレていくことも否定できません。かといって無理矢理に若ぶるのもイタいじゃないですか。

 そんなことを感じ始めてしばらく後で分かったのは、トレンドや流行を「追いかける」から追いつかない時もあるということです。だったら逆に「待ち受ける」ようにすればいいじゃないですか。幸いに、人間の生理的な機能はここ数万年にわたって極端に変化していません。せいぜい体毛が薄くなったくらいでしょう。ということは脳がもたらす精神性も基本的に変わっていないということになります。若い人たちは自分たちの居場所を特権化するために、旧世代を敵視して差違を言い募りますが、こんなことはボクも含めて大昔から繰り返してきた排他性であり、テクノロジーの発達がそれを過度に後押ししているだけなんだってば。ファクスを使えない上司が陰で笑われたのと同じように、ITリテラシーに無知な旧世代を仲間うちでバカにするわけですな。

 たとえばEメールやラインの普及で、電話は他人の時間を勝手に奪う機械と見なされるようになりました。けれども、他人に何かをお願いする時には、テキストでなく肉声で伝達するのが人間としての礼儀じゃないかと考える人もいます。ボクの若い頃なんて、初めての原稿依頼は先方宅に出向いて対面することが常識でした。それ以前は手書きの封書から始まったんですぜ。

 こんな例を挙げたらキリがないので結論を先回りすれば、人間は便利と安楽が大好きな動物なのです。だからこそテクノロジーが進歩したわけでね。それに伴って礼儀やマナーやプロトコルもどんどん変わりつつありますが、これはあくまでもリテラシーであって、トレンドや流行とは別ものですよね。このように人間の基本的な生理にもとづいて解釈すれば、そんなに驚愕するような事態は発生していません。ということは、先回りして「待ち受ける」ことも可能という理屈になります。

 そりゃね、細かな違いを探し出せばいろいろとありますよ。想像を絶することもないわけではありません。それでも、似たような事件や事例を過去から発掘するのは決して不可能ではないと思います。

 長くなったので「というわけで」と、まとめれば、トレンドや流行の本質をつきつめれば、そうした精神性が生み出した「共同幻想」ということに尽きるのではないでしょうか。その主体は機械でなくてあくまでも人間ですから、今日になって突然に新しい流行が勃発するわけではありません。その根っ子や理由は、昨日という過去に基づいているはずです。そして世代や同時代性もカギになってきます。流行が騒がれるようになったら、とっくに終わりなんてことも昔から言われていましたよね。

 つまり、それなりの弁証法的な「歴史観」さえ持てば、予測も不可能ではないだろうと信じております。にもかかわらず外してばかりいるのは、ボクの浅学非才に過ぎないと思うんですけどね。

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2019年5月14日 (火)

卵を1つのカゴに盛るな・続

  昨日の論旨とは逆になるかもしれませんが、ボク自身はクレジットカードとSuicaを頻繁に使っています。その主たる理由は、キャッシュレスという以前に、財布を持つ習慣がないからです。寅さんじゃあるまいし、大きな財布を取り出して指をなめながら札を引き抜くのは、ボクの美学に思いきり反するんですよね。そもそも論として、細身のスーツに大きな財布を入れたら、その位置が分かるほど目立つので、エレガントとはいえないじゃないですか。尻のポケットにスマホを突っ込んで気にしないという人もいますが、ボクはいやだなぁ。

 ましてや小銭なんてもってのほかでありまして、この2つを駆逐するのが、ボクの長きにわたる悲願でもあったのです。大きな支払いはクレジットカードに任せればいいのですが、1000円以下となると、さすがに抵抗があります。乗り継ぎした海外の空港で同地の現金がなく、やむなくミネラルウォーターをクレジットカードで支払ったことがありますが、国内ではちょっとね。

 そうした少額決済にSuicaは最高に便利なのです。近頃はタクシーでも支払いが可能になりました。このSuicaの何が便利かというと、一切の手数料が不要ということと、駅やコンビニで簡単にチャージできるということです。つまり、その都度、必要な額だけを補充しておけばいい。それよりも使い込んでしまう危険もありません。ちなみに、ボクは3000円以上にしたことがありません。もし紛失したらもったいないですからね。足りなくなればチャージするだけでなので、万円単位でキープしておく必要はないと思います。

 そんなわけで、スーツやジャケットを着用して外出する時は、名刺入れにSuicaと銀行カードが1枚、それにクレジットカードを1枚だけ入れています。スマホは机の中に入れて、それに連動した超軽量薄型の携帯電話(50グラム程度)だけを持参します。いざという時のために、現金も3〜4000円程度。この程度ならどこにでも入ります。そのほかにはハンカチが2枚だけ。1枚は柄物で、1枚は純白。後者は女性が涙を拭う時に手渡すためですが、残念ながら一度も使ったことはありません。

 話がものすごく長くなりましたが、というわけで(どんなわけだよ)、スマホに各種の支払い機能を載せるのは賛成できかねるのです。そもそもボクは正装時の外出にスマホを持ち歩かないのですが、ごく単純に言えば、落としたり紛失すれば、それだけ被害が大きくなるということなのです。パスワードなんて、悪党が本気になれば簡単に見破られると考えたほうがいい。にもかかわらず、様々な決裁をスマホにまとめておいたら、銀行口座にもアクセスされて、全財産を抜かれることもあり得るじゃないですか。

 株屋さんの世界には「卵を1つのカゴに盛るな」という諺があります。そのカゴを落としたら全部割れてパァになってしまうことから、投資は集中せずに分散しなさいと戒めているのです。スマホに何もかもまとめてしまうのは、この1つのカゴと同じで、便利な反面でリスクも大きくなります。その意味でも、支払いの総額をいつでも管理できるSuicaは実に便利というほかありません。通信機能によって全員でワリカンにできるシステムなんて、ボクには危険極まりなく思えるのですが、これって旧世代のオッサンだけの感想なのかなぁ。ちなみに、このタイトルは2011年8月のブログでも使用しいるので、「続」としました。

 

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2019年5月13日 (月)

キャッシュレスがそんなにいいの?

 

 どんな思惑があるのか知りませんが、キャッシュレス決済への誘導がやたらに活発化してきました。

 こんな時のやり口は、面白いことに大昔からまるきり変わっていないんですよね。いわく「海外ではキャッシュレスが普及しているのに、日本では今も現金決済が主流」。文明開化の明治じゃあるまいし、何でもかんでも海外の真似すりゃいいってものではないでしょう。だったら元号はどうすんだよ。日本だけの呼び方なんだから、それも廃止して「海外のように」西暦で完全統一しなきゃおかしいという理屈になるではありませんか。

 仮に現金決済がガラパゴス並みの少数派としても、それがどうして遅れているということになるんですかね。ビットコインなどのハッカー被害を考えれば、むしろ現金のほうがよほど安全ではありませんか。強盗などの怖れがあるにしても、自宅に大枚の現金を置いておくほうが変人であり、脱税の疑いも濃厚ですよね。銀行閉店後に現金がまとまる飲食店などのために夜間金庫も普及しており、コンビニでも預けることが可能になっています。

 ボクの行きつけのヤキトリ屋にしても、以前はアメックスが使えたのに、手数料が高いせいで現金払いに逆戻り。年齢がバレそうだけど「いつもニコニコ現金払い」という居酒屋はまだまだ少なくないと思います。そもそも利益の乏しい庶民的な店がカード手数料を嫌うのは当然ですから、そこにキャッシュレス決済を強要、じゃなかった導入しろと催促するのは、弱い者いじめに近いんじゃないかな。

 この「弱い者いじめ」という言葉ではからずも気づいたのですが、例によって安倍さんの政策が背後にあるんですよね。消費税増税による景気悪化を軟着陸させるために、支払い分の5%を還元すると発表していますが、現金で戻すのでなく、ポイントですもんね。現金の引き算で問題があるとはボクには思えませんが、伸び盛りのIT産業に恩を売って支持を取りつけておく意味でも、現金よりポイントのほうが政権にはおトク感が高い。だからバイバイでなくてポイポイだかペイペイだか何だか知りませんが、スマホなどを活用しましょうってことじゃないかな。

 じゃそうすっか、という人たちがどんどん増えれば、前述した庶民的な飲み屋もキャッシュレス決裁を導入せざるを得なくなります。テレビCMのように、ヘリコプターから「では別の店に行きまーす」なんて言う人が多くなったら閉店ですもんね。その結果として、ボクたちが支払った代金の一部は、お店をスルリと通り抜けて、手数料としてカード会社やSNSの運営企業などに入金。これで『がっちりマンデー!!』てなことになるわけですが、果たしてそれでいいのでしょうか。飲食店のメニューに手数料が上乗せされることも十分に考えられますからね。値上げの口実にもなりかねません。

 そうはいっても、コンビニやスーパーのレジでモタモタと現金払いする人にイライラさせられることはあります。しかしながら、いちいち財布を覗いて必要なカネを取り出す習慣というか態度は、数字のやりとりだけのキャッシュレスよりはるかに健全ではないでしょうか。ヘタすりゃ自己破産の急増をもたらすキャッシュレスの隠された陥穽と、現金勘定の長所や欠点などを、日本社会の特性と対比させてきちんと論じるのが本筋であるはずなのに、いきなり「海外では……」なんて拙速もいいところです。特殊詐欺はどっちだよと、悪党たちが陰で嘯いているかもしれませんぜ。

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2019年5月10日 (金)

やっぱiPadだな

 

 ボクが愛用してきたMacBook Airは2012年製なので、かれこれ6~7年にわたって使い倒してきたことになります。日々の原稿やブログはもちろん、スイスの時計取材にも必ず携行。毎晩のように写真の整理からレポートも作成し、日本にメールしていたこともあります。機械に指示されるままにアップデートを繰り返してきたので、ソフトウェアはそれなりに最新だと思うのですが、さすがにハードはくたびれてきたらしい。特にデリートキーの接触が悪くなり、何回も叩かなきゃいけないので、ストレスを感じるようになってきました。

 それで昨日、ヨドバシカメラで最新モデルを視察したのですが、やっぱりこういう機械は何といっても新しいほうが魅力的です。ただし、値段がね。以前よりも小さく軽くなり、画面も高精細になった分だけ高価で、購入に踏み切れません。しかしながら、新品を見てしまうと心が惹かれます。そこで冷静になって検討してみると、最新版のメリットはライターのボクにとってそれほどでもなかったので、ほとんど衝動買い的に既存モデルの2017年製を購入しました。それはそれでCPUなども進化しているはずですから、合理的で納得できる選択だと思うのですが、何しろ見た目が2012年製とまったく同じ。新品を入手したという感動がまったくないんですよね。キータッチは確かに軽快になりましたが、要するにリプレースしたというだけ。何だかなぁ。

 でね、ついでに、というのも何ですが、近年は遠方取材が増えてきたスタッフのために、iPadも買っちゃったのであります。MacBook Airを最新版から既存モデルに変更した差額分が、「どうせなら」と購買意欲を後押ししたわけです。結局はかなりの金額を使ったので、今になって心が痛いですけどね。

 事務所に戻って、さっそくiPadを使ってみると、今さらながらで恐縮ですが、これは凄いなぁと感心せざるを得ません。要するに早い話が、画面を巨大化したスマホですけど、その分だけ使い勝手が実に良いのです。ボクのような老眼でも眼鏡を外す必要がなく、タッチ画面で感覚的に操作できます。別売りのキーボードや入力ペンを活用すれば、ノートパソコンは決定的に不要になるといっても過言でありません。ああ、ボクもこっちにすりゃ良かったと深く後悔したくらいです。

 電話もできれば完璧といっていいのですが、あんな大きなモノを耳にあてて会話するのもナニですから、ボクの持論である超小型携帯電話をセットにすべきでしょうね。そうすれば、まさに鬼に金棒。この組み合わせが、これからのトレンドになるんじゃないかな。

 

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2019年5月 9日 (木)

なんてったってアイドル?

 

 CS放送のコマーシャルの間に、チャンネルを地上波に変えることがあります。アメリカのテレビドラマはどれも面白いのですが、その間にさしはさまれるCMがね、押しつけがましくて喧しいのです。中でも素人さんによる使用の感想があまりにも大げさで、いたたまれなくなります。中高年のオバサンから「そりゃもうスルーっとね、スルーっと出るんですよ」と嬉しそうに便秘薬の話をされても、その光景を思わず想像してしまって、気分が悪くなるんですよね。会社からいくら貰ったか知りませんが、そこまで褒めるようなスグレモノならクチコミだけで十分。わざわざ広告する必要なんてないじゃないですか。

 そんなわけで、たまたま夜中に夢うつつで地上波を視聴していたら、「私、ハモれないんですよぉ。だからハモれる人は尊敬しちゃいます」と話す若い女性の元気な声が聞こえてきました。ハモる、とはハーモニーのことで、要するに和音での合唱ができないということです。主旋律を歌っているつもりで副旋律に引っ張られたりするので、カラオケでも苦手という人は少なくないでしょうね。
 
しかしながら、「春のうらーらーの、すーみーだーがわ」でお馴染みの滝廉太郎『花』なんて合唱曲の大傑作であり、和音が正しく決まれば、鼓膜を通して大脳皮質に浸みわたっていくような、何とも形容しがたい快感を感じます。

 ボクも合唱は得意とはいえないので、共感混じりに、そんなことを言ったのは誰だよとテレビを見直すと、アルファベット3文字と数字を組み合わせた名称を持つ若い女子の団体様の1人ではありませんか。CDを何万枚も出しているので、歌でメシを食っているプロといっても過言ではないはずです。にもかかわらず、ハーモニーができないと恥ずかしげもなく公言する。そんなのありかよ。

 だぁから彼女たちの歌は、どれもユニゾンだったんですよね。似たようなメイクで同じドレスを着た女子が何人も何人も出てきて、主旋律だけで和音がまったくない楽曲をダンスしながらみんなで歌う。申し訳ないけど、そんな勢揃いの歌声を耳に入れるだけで生理的に気分が悪くなるので(大げさではなくホントのことです)、瞬時にチャンネルを替えることにしています。

 それにしても、プロの歌手がハモれないと大っぴらに発言していいのかなぁ。リズムや音階を無視することで、逆に説得力と深い感動を伝えてくれる歌手がいないわけではありませんが、彼女たちの年齢でそんなテクニックや表現力は無理というものです。それとも歌はあくまで余技ってことなのかな。だとしたら彼女たちは、いったい何者なのでしょうか。

 はい、その通りです。アイドル、なんですよね。取り柄、じゃなくて才能がある人は英語まんまのタレントと呼ばれるので、小泉今日子の若い頃のヒット曲とは違う意味で、なんてったってアイドルと呼ぶほかありません。なんちゃってアイドルも最近は増加しているようですけど。このアイドルを敢えて定義するなら、必ずしも綺麗で可愛くなくたって、とにかく人気がある女子ってことです。となれば、ファンの共感や支持を集めて維持することが最重要な生存戦略になってきます。

 だからこそ、総選挙と称する人気投票や、握手会などのイベントを頻繁に開催して「手の届きそうな身近な芸能人」を演出しなければならない。何のことはない、馬の鼻面にぶら下げたニンジンといえば言い過ぎですけど、キャバクラ嬢やホストとどこが違うのでしょうか。熱狂的なファンが過度な身近感を抱けば、偏執的な怪しい行動に及ぶことなんて十分に予想できます。その結果としてNGTの事件が起きたのですから、総合プロデューサーの責任は重いんじゃないかな。

 色気づいた男の子が、同じメイクと似たような髪型といはいえ、普通よりちょっと可愛い娘が匂うほど近くにいたら、のぼせ上がるに決まっています。キャバクラ嬢のように注意深く距離を取れるなら別ですが、ウブな若い娘に男ダマシの手練手管を求めるのは筋違いってものです。

 というわけで、そうした商売でカネを儲けようとするなら、大人がきちんとアイドルを管理して守ってやるしかないじゃないですか。それができなかったからこそ、あんな事件が起きたということなります。

 ちょっと可愛いだけの娘を集めて学芸会まがいのビジネスにするのは、もうやめたほうがいいとボクは心底から思うんですけどね。さもなければ美しいハーモニーを聞かせてくれよ。そしたらボクも必ずファンになりますから。

 

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2019年5月 8日 (水)

横並びと多様性


 過ぎた話題で申し訳ありませんが、改元直後の5月1日、地上波のテレビ全局がこぞって令和バンザイの特番一色となりました。かつて昭和天皇が崩御された
時も、NHK教育テレビを除いた全局が朝から晩まで追悼番組を流していたので、近所のCDレンタル店が大盛況だった記憶があります。

 亡くなった人の追悼や改元への賛辞を反対しているわけではありません。ハロウィンや年越しと同じように、渋谷のスクランブル交差点に若者が雲霞のごとく集まるのも勝手だと思います。
 ただ、生物多様性やLGBTが尊重される時代にもかかわらず、この臆面のない横並びぶりはいったい何だろうな、と。女性の権利も含めて、マイノリティでも生きやすい社会にしようというのが近年の「ダイバーシティ」の基本思想ではありませんか。であるなら少数意見として、天皇制に関する論議が少しくらいあってもおかしくないのに、『朝ナマ』ですらスルリと避けて通ったみたいです。全部見ていないので分かりませんが、あの傲岸不遜な司会者が仕切る番組ですから、おそらく時代の大きな変化をテレビ的に読み取った結果じゃないかな

 念のために表明しておきますが、ボク自身は天皇制に反対する者ではありません。皇族を遠い親戚のように感じている国民も多いはずであり、日本特有の伝統や制度を敢えて壊さなきゃいけない積極的な理由はもはや見当たらないでしょう。その反面で、国民がどれほど努力しようが頑張ろうが、特定の血統でない限りは絶対になれない身分というのが、公平平等を旨とする民主主義社会に存在するという認識を忘れたこともありません。株式会社でも事実上の世襲はあり得ますが、役員会の同意とか、株や資産の継承が背景になっており、血族以外の人間は社長や会長に絶対になれないと法的に取り決めた会社はないはずです。もしあったら、憲法14条に違反していることになります。

 某大学教授はそうした天皇制に関する意見を新聞に寄稿したようですが、9条を中心とする護憲姿勢も含めて、そんな人たちを「ガラパゴス左翼」と呼ぶらしい。共産主義の国はもはや希有なので、いま時の左翼を日本固有のガラパゴスと呼ぶのは分からなくもないのですが、弱い者イジメのように思えて次第に悲しい気分になってきました。

 恐縮ながら、敬しつつも敢えて挑発させてもらいますが、あれだけ学生運動で騒いだはずの団塊世代の皆さんは、どうして沈黙しているのでしょうか。「蛍火はいつまでも消えない」なんていう言葉も聞いたことがあるんですけどねぇ。

 

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2019年5月 7日 (火)

『シカゴ・ファイア』

 

 こういう状態を「ハマった」というのかな。連休の半ばからずっと、夜中の2時頃から昼前までCS放送AXNのテレビドラマ『シカゴ・ファイア』を見続けてきました。新しいシーズンが始まる直前ということで、1〜4までを一挙放送していたからです。

 何しろ史上最長の連休なので、中盤から気分と知能のリハビリをしておかないと役立たずになるだけでなく、現実にやるべき仕事だって目の前にあるにもかかわらず、ぐいぐい引き込まれて時間を忘れさせるテレビドラマなんですよね。展開がスピーディなので、トイレに行く時も油断できないんだよな。いわば釘付けってやつです。

 以前から日本にもコアなファンがいることは知ってはいたのですが、タイトルと番組宣伝だけでシカゴの消防署が舞台の物語と分かりますから、それまでボクはずっと避けてきました。消防署といえば、火災や事故などで消防士や救急救命士が出動。命がけで大火災の中に飛び込んだり、多数の人を救助するという献身的な仕事です。そもそも感動的なストーリーを作りやすい設定であり、イケメンでマッチョな若者でも出演すれば、それだけで女性の視聴率も稼げるじゃないですか。実際にアメリカでは消防士の人気がすこぶる高く、大判のポスターカレンダーが毎年作られると聞いたことがあります。であるなら、シナリオやセット、それに役者などにカネと知恵と手間をわざわざ費やす必要があるでしょうか。多少の無理があってもご都合主義を通しやすい設定なので、見なくてもいいかなと侮ってしまったのです。

 この理屈は、『シカゴ・ファイア』のパクリ、というか追っかけで始まったように見えるFOXの『9-1-1:LA救命最前線』にはあてはまるんじゃないかな。番組としての差別化も大きな理由でしょうが、漫画的で荒唐無稽なストーリーに加えて、道具立てもかなり陳腐なんですよね。新番組であることから、ボクはこちらのほうから視聴してしまったおかげで、違いが余計に分かるのです。

 この『9-1-1 ……』に比べて、『シカゴ・ファイア』は緊張感とリアリティが半端ではありません。ちょっと視聴するだけでも、映画並みの製作費を投入していることが感じられるはずです。レンガ造りのビルの窓から煙や炎が吹き出てくる火事や爆発が毎回のように起きますからね。大きな消防車同士がライバルとして競ったあげくに激突・転倒する事故もありましたが、現場にはパンパーなどの残骸が飛び散っており、日本のテレビドラマとはケタ違いの圧倒的な臨場感があります。

 2人の小隊長が一応の主役級ではあっても、それぞれの登場人物がそれなりの個性とサイドストーリーを持つ奥ゆき豊かな群像劇になっていることも魅力なんですよね。ほどよいところで卑怯で底意地の悪い上司などが登場。消防署をかき回して混乱に陥れるなんていう作劇自体はそれほど複雑ではありませんが、登場人物に親近感を持ち始めた視聴者に与える心理的な影響は映画よりも大きいんじゃないかな。劇場用映画はせいぜい2時間程度ですから、テレビドラマのように息の長い物語を通した深い感情移入は困難なんですよね。

 ストーリーを紹介するのも野暮なので、興味を持ったらネットで調べていただきたいのですが、黒人と白人が結婚したり、救急救命士の1人が同性愛者など、LGBTにも配慮したキャスティングになっています。こうしたテレビドラマの後で日本の地上波を視聴すると、何もかもチープに感じてしまうんですよね。カメラワークも静的で動きがまるで感じられません。

 世界の25%を占める英語人口が視聴者として見込めるハリウッド製テレビドラマと、1億3000万人の日本では規模からして段違いなのは分かりますが、黒澤明はもっと条件が不利な戦争直後に伝説的な映画を次々と生み出しました。 

 カネがないからテレビもチープになると言うのは簡単ですけど、これを逆転して、海外にも輸出できる人気ドラマを作るからカネをもっと出せと要求できないものでしょうか。英語の字幕や吹き替えにそれほどカネがかかるとは思えないんですけど。

 

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