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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2019年7月

2019年7月31日 (水)

杓子定規

 

 2か月ぶりに、歯の定期検診に行ってきました。ほとんど毎週のように3年越しで通った歯科医院でありまして、日曜に虫歯が激痛にかわり、深夜も寝られず耐え抜いて朝一で診てもらったこともあります。

 そんなボクにとって、2か月も行かなくていいというのは、牢獄から解放されたような感覚なんですよね。おかげさまで健康保険証を忘れてしまいました。すると、後で返却するけど、いったんは割引なしの料金(ていうのかなぁ)を支払ってほしいという。ボクは3割負担の国民健康保険なので、定価(っていうのかなぁ)であれば、ほぼ3倍になります。

 ちなみに「いくらくらいになるんですか」と聞いたら、1万3000円くらいかなというお達し。ボクはほとんど現金を持たないので、銀行に引き下ろしに行く必要があります。それが惜しいというわけではなく、その手間自体が無駄と思いませんか。

「ボクが3年越しでこの病院を利用してきたことは明らかですよね」

「はい」

「国民健康保険証というのは毎月発行されるわけではありませんよね」

「はい」

「1回発行されたら2年間使えるようになっているじゃないですか」

「はい」

「だったらカルテで内容を確認できますよね。にもかかわらず、月がかわったら必ず持参して提示しなきゃいけないんですか」

「はい、すいません」

「いえ、あなたが謝る必要はなくてね。何せ久しぶりだから忘れることもあるじゃないですか。でも、約束時間ギリギリなので、取りに戻る時間的余裕はない。だったら健康保険証は後でいいですよ、その時に精算しましょう、ということはできないんですか」

「すいません。だから銀行で。。。。。」

 というあたりで、ボクはジジーのせいか頭のどこかでプッツンとキレる音がしました。何でわざわざ銀行に行って、そんな大金(この場合の感覚的なコスト)を下ろして歯医者に持っていき、後で保険証を持参して7割を返却してもらうなんて面倒なことをしなきゃいけないんだろう。

「あのですね、ボクは初めてこの歯科医院に来たわけではありません。健康保険証は2年単位で交付されているので、表記内容が毎月変わるわけでもない。なのに、それを忘れたからといって、こんなにも面倒なことをやらなきゃいけないというのは、どんな理由にもとづいているんですか」

「そのように指導されているので」

 受付の女性を泣かせて喜ぶ鬼畜な趣味は持ち合わせていないので、無意識に高くなり始めた声のトーンを抑えることにしました。

「とにかく今は時間的な余裕もないし、銀行でカネを引き出すのも面倒でイヤ。だから今回のアポは取り消しということにして、別のアポを入れてください」
「はい、分かりました。では………」
 とパソコンをチェックしているあたりで、やりとりを聞いていたのか、若い院長氏が登場。「保険証は後でいいですよ」となりました。だったら最初からそう言ってくれればいいのに。暴走ジジーと思われたかもしれません。

 検診が終わると急いで事務所に戻り、健康保険証を持って歯科医院に戻って精算しましたが、結局は3000円程度。健康保険証を毎月提示することに、いったいどれだけの意味があるのかと考えてしまいました。前述したように、仮に健康保険料を支払わなくても、役所から警告はあるはずですが、警察力を使わない限り2年間は取り上げることができないはずです。もしもネットで保険証の無効情報が通知されていたなら、それこそ紙の保険証を毎月提示する意味はなくなるじゃないですか。

 そして、ボクがもっと深く考えたのは、無保険者の医療です。救急車には乗れても、保険証がないからといって治療を拒否されるのでしょうか。非情大国のアメリカですら、ERに搬送されてきた患者を無保険だからといって追い返すことははしません。だから低所得者にはERが最後の砦なのです。

 歯科医は命にかかわるわけではないので、無理してでも保険証を持って来いと言えなくもないけど、やはりボクにはどうしてそんなことをするのか意味が分かりません。とにかく「杓子定規」ってヤツがね、ボクには気にいらない。法律も規則も礼儀も、すべては現場のためにあるはずですから、もっと柔軟に運用してもいいんじゃないかな。それこそが、みんなを生き良くする方法のひとつではないかと思うわけです。

 人間が機械になってどうすんだよ。

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2019年7月30日 (火)

原宿の靴屋で

 


 しばらく立ち寄らないうちに、原宿がかなり変貌しました。特に明治通りから表参道側に1本入った、キャットストリートと呼ばれるファッション街が洒落ております。若者に人気のブランドがこぞって集まっているんじゃないかな。


 その中の靴屋で、念願の真っ黒なスニーカーを購入しました。どういうわけかオールブラックのスニーカーは希少でありまして、あってもカカトのところが白かったり、サイドに白い線があったりする。購入したスニーカーもスタイルにいささか不満はあるのですが、とにかくすべてが黒かったので、取りあえず合格としたわけです。それにしても、価格は1万円ほど。スニーカーといっても、しょせんは運動靴ですぜ。もちろん今では4〜5万円するスニーカーも珍しくないことくらいは知っていますが、ボクの価値観とはまったく相いれません。


 それはともかくとして、その靴屋の地下にメンズの売場があるのですが、エスカレータもエレベータもない。店員さんが「すいません」と謝ったので、間違いありません。運動靴は元気な若者のためにあるんだから、と考える人が建物を設計したのかな。しかしながら、ボクはシニアで、さらに杖をついております。にもかかわらず、スニーカーを購入したのですから、そんな感覚で売り場や運動靴をデザインするのはもはや間違いじゃないかなぁ。


 たとえば病院ですけど、看護師さんや医師のために、すぐに着脱できる軽快でカッコいいスニーカーはできないものでしょうか。患者さんにしても、グダグダのスリッパまがいなんて、それを履くだけで心底から情けなくなります。工場なんかもそうですよ。大昔から連綿と続く菜っ葉服に、安っぽい白の運動靴を合わせていて満足なのでしょうか。小学校の体育じゃないんだからさ。


 世界的なアスリートに履かせる靴に競って血道を上げるのも結構ですが、重度の身障者が議員として国会に参加する時代ですよ。たとえば介護者や被介護者のための素敵なスニーカーを作ろうという発想はないのかなぁ。はい、そんなことはまったく考えておりませんという明白な証拠が、バリアフルな地下の売場ってことになるわけです。ちなみに、バリアフルとはバリアフリーの真逆を指すボクの造語です。


 世の中は健康で元気な若者だけではありません。リタイヤしたジーサンたちも含めて、ブランドの靴屋さんは大きなマーケットをみすみす見逃しているとボクは思うんだけど、いかがでしょうか。


 靴のセールスマンが裸足の国に行って「こりゃ駄目だ」と尻尾を巻いて帰るのと同じでね。優秀な人は「靴を売り放題のビッグマーケットじゃんか」とワクワクするはずです。そうしたブルーオーシャンは、探せばいくらでもあると思うぞ。


 


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2019年7月29日 (月)

人事部を独立させる理由

 

 独創的なアイデアで一世を風靡した会社があるとします。ホントにあるんだけど、あまり具体的にすると差し障りもあるので曖昧にしておきます。

 でね、この会社の社長が2代目になると、業績が低迷するようになりました。やがて3代目で別の会社に買収され、かろうじて生き延びたのは結構としても、その輝かしい名称も今や風前の灯火。こんな事例はいくらだってありますよね。
 問題は、どうしてそんなことになるのか、ってことです。

 ここからはボクの経験に基づいた仮説または憶測ですが、初代の成功にみんながぶら下がり過ぎて、創造的な人材を採用できなかったことが大きな原因ではないでしょうか。過度に儲かる会社は、相対的に仕事がヒマになるせいか、派閥争いに走るようになります。権力を狙うなら味方は多いほど有利なので、子飼いの社員を増やそうとします。そんな人が採用を担当すると、おそらく、いや絶対に、自分より賢そうな人間は選びません。わざわざ自分の足元をすくうような奴を入れてどうすんのって、無意識に保身に走るんだよな。

 小さな会社ほど、その傾向が強くなります。人事部なんて洒落た部署を持つ余裕はないので、採用関係は総務部あたりの兼務となりますよね。総務部だってそれなりに忙しいので、いざ採用となると「現場の人に面接してもらったほうが適切ですよね」なんてことを言い出すじゃないですか。

 こうなると、採用を担当した人は、自分の隣に座る奴を選ぶことになるので、飛び抜けた才能がありそうな奴は難癖を付けてほとんど落としてしまうわけです。古手の大会社だって、すぐ隣の某国みたいに優秀な社員をどんどん左遷して、茶坊主みたいな連中で周りを固めるなんてことをやりますからね。小さな会社ならなおさらでありまして、大変に失礼な言い方ですが、自分よりバカな社員を採用し、そいつがまた自分よりバカを採用するという拡大再生産を2回もやれば、社内は無能なぶら下がりばかりになって、業績が傾くのも不思議ではありません。

 だからこそ、大手の企業は現場から余計な干渉を受けないよう人事部を独立または社長の直轄部門にしているわけです。とはいっても現実にはコネはありますよね。それでも全員ではないので、ひいき目に見て新入社員の1割、いや5%くらいは先輩を超えるような奴がいるんじゃないかな。それでようやく現状維持または発展が可能になるわけです。

 だから中小企業ほど、人材採用を現場に委ねてはいけません。人事部を独立できなければ、採用専門の会社にアウトソーシングしたほうがいいと思うのです。さもなきゃ会社は変わりませんぜ。

 

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2019年7月26日 (金)

食べられる花

 

 ないよりはあったほうがいいけど、なくても特段に不便でも不快でもない。そんなモノって、結構ありますよね。ボクにとって、その典型的なモノが、花なのです。感性が歪んでいるのか、オフィスに花があればパッと華やかになった気はしますが、さりとて必ずなきゃいけないってこともないですよね。今の世の中、そんなモノは案外多いんですけど。

 女性は花を贈られると嬉しいというけど、本当なのかなぁ。貰った方は、よく知りませんけど、芯の端を切るなり焼くなりして整えなきゃいけないし、それを花瓶や、バケツってことはないか、とにかく器に生けなきゃいけない。そんな面倒をかけたところで、2~3日も経てばクビのところがダランとなって、花びらも落ちていきます。これはかなり無惨な姿というほかありません。

 そうした無駄なモノが買える財力に惚れるということはあるだろうけど、花そのものは、やはりあってもなくても、というより、舞台のエンディングなんかに山のように花束が集まったら、その処理に困り果てるというのが本当ではないでしょうか。

 そこで、ボクは「食べられる花」を発案したわけですね。ささっと塩を振って食べられたら、こんなに便利なことはないじゃないですか。そう言うと必ず「菊は食えるぜ」と指摘する奴がいます。そんなことはボクだって知ってるけど、天ぷらなどで調理しなきゃいかんでしょ。しかも全然うまくないと思うぞ。

 ボクが欲しいのは、そのままで「ささっと塩を振って食べられる」という花です。バラでもユリでもカスミソウにしても、花屋にある花で食べられるモノなんてないじゃないですか。美しい発色で、萎れそうになったら食べられる、むしろその時のほうが熟していて美味という花は栽培できないものでしょうか。素晴らしいアイデアだと思うんだけどなぁ。

 てなことをあれこれ考えていたのですが、花というのは、そもそも受粉のためにミツバチなどを呼び寄せる仕掛けですよね。お、綺麗な花があるぞ、きっと蜜もたっぷりあるに違いないヒッヒッヒ、でもってブーンと飛んでいく対象なんだよな。だから、それ自体を食べてもうまいわけがない。

 そこでハッと気づいたのであります。食べられる花を作るのが困難なら、逆に食べられる野菜を花にすりゃいいじゃんかと。こうした常識を無視した華麗な逆転発想が、ボクの抜きんでた天才性を象徴しておるのでありますよ、エッヘン。

 たとえばセロリなんかを花瓶にさしても、あのライトグリーンはなかなか映えるじゃないですか。レッドやイエローのカラーピーマンも、並べ方次第でアートになると思うぞ。クレソンをまとめたらカスミソウみたいな雰囲気になるほか、レタスを2〜3枚シュルっと巻いて低めの花瓶に入れるだけで洒落た雰囲気になりませんかねぇ。

 つまり、今からでもすぐにできる「野菜を飾ろう」ということなのです。その流儀として、アバンギャルド万家と名乗ろうかなぁ。おカネを貢いでくれたら裏万家、許します。本気になったら、すぐに自社ビルを2~3棟くらい建てられるようになる、素晴らしいアイデアと思うんだけどなぁ。

 

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2019年7月25日 (木)

良い文章は論理的?

 

 つまらんなぁ。近頃のCMやデザインは、あまりにもオシャレ過ぎて、ちっとも面白くないと感じませんか。ビッグデータを解析して、入念なマーケティング戦略を練り上げ、その上で計算され尽くしたビジュアルと、狙いをきっちり絞り込んだコピーを並べる。ビジネスですから当然のこととは言えるのですが、ボクにはどうにもつまらなく感じのです。あまりにも上手過ぎて、むしろあざとく見えませんか。

 ボクも売文業者ですから、カッコ良さはそれなりに意識しています。たとえば語尾を重ねない。である、である、である、だ、だ、だ、では文章に動きがなくなります。同語の重複もうるさくてスムーズに読み通せません。一応の禁忌とそれなりのテクニックはあるんだけど、それを遵守すれば良い文章になるかというと、学校ではハナマルをもらえても、現実は違うんですよね

 たとえば村上龍の文章なんて、点で区切った長文が延々と続いて、丸がなかなか出て来ません。ハードボイルドの文章ともなれば、彼は拳銃を取り出した。間髪を入れずに俺は腕を蹴り上げた。痛みに耐えかねて歪んだ奴の頬に、渾身のストレートを放った。なんて、「た」ばっかりです。語尾の繰り返しもいいところだけど、ブッキラボーなハードボイルドの雰囲気が感じられるではありませんか。タフだけど優しいんだからさ。

 その一方で、ライターが売文業者の規則や流儀に従えば従うほど、文章から個性が失われていきます。ま、普通のライターに個性なんて求められていないので、それはそれでいいとしても、これからはAIに負けるんじゃないかな。アメリカでは5W1Hで構成されたニュースリリースはとっくに機械化されているらしいので、ちょっと高級な禁則処理をかませば、プロのライターも顔負けの文章を作れるようになるでしょう。

 このブログで何度も指摘しましたが、こうした状況は写真が登場した頃の絵画業界とまったく同じなのです。本人そっくりに描写できる器用で上手な肖像画家から失業していきました。やがて生き残ったのは、むしろ不器用にも見える、独自の世界観を表現できる画家たちだったのです。写実だけなら、人間の表現力が写真に勝てるはずないじゃないですか。

 それと同じことが、そろそろ勃発するんじゃないかな。AIでも作成できるような文章やデザインやイラストなどは、AIにやらせたほうが格安で済みます。では、人間はどうしたらいいか。絵画と同じで、独自の世界観を表現した語彙や論理や文脈が必要ということです。

 こうなってくると、学校優等生はいよいよ不要となってきます。「お前の文章なんかより機械のほうが早くて上手だぞ」と言われるのは、そんなに遠いことではないはずです。

 だーからさ、どんなに教育改革をしようが、「横並び」が最も危険なことなんだよと、ボクは警告したいのです。時には武骨でゴツゴツ感たっぷりの文章。あるいはウナギのようにツルツルだけど、独特のぬめり感があるとか、文章だけでも人それぞれに際立ったものがなきゃいけない。けれども、そうした個性を一生懸命に奪って標準化してきたのは教育にほかならないのです。

 しかしながら、共通の試験で学力や能力を評価しようとする今の教育体系では、どんなに改革しようとも、上見て隣見てせーのって感じの横並びにならざるを得ません。試験で好成績を取らないと、上位の学歴を得られないからです。教員自身もそのように成長してきたので、そもそも個性的な才能を見出す感性を身につけていない。もちろん例外もあるはずですが、良識の塊ではあっても創造性に著しく欠けているってことです。

 文章の基本的な構造は「起承転結」ではなく、「序破急」であることくらいは知っていますよね。ボクなんかは職場で「最初の3行が勝負だぞ」とイヤというほど躾けられてきました。結局は、基本的なルールさえ覚えたら、それを創造的に破壊し続けることが機械に負けない唯一の秘訣なのです。けれども、それを正しく理解して、ヘンに見える奇妙な文章を面白がる人は極端に少ない。

 先のことなんてボクにはどうでもいいけど、たまにはデコボコでガタガタ、時には論理が宇宙空間をワープするような文章が書きたい。これまでの枠を破って、空まで火柱が立つほど爆発したいんだよな。にもかかわらず、どこの文章指導でも「良い文章は論理的」ですって? あははははは、ちゃんちゃらおかしいや、そんなもん。

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2019年7月24日 (水)

不幸になるまでは幸福

 

 心配症と同時に悲観論者で、そのくせ新しいものが好きで、ものすごく飽きっぽくて粘りがない。こういう性格では、いつも何かを不安に感じていることになります。若い頃は勢いと酒で何とか誤魔化すこともできたのですが、さすがに年を取ると、そんな力技ができなくなってきます。酒もワイン1~2杯がそれこそ精一杯ですから、酔っ払って寝倒すのも不可能。

 それだけに、たまに陥るウツ状態がね、苦しいんだよなぁ。心は居ても立ってもいられないのに、身体だけはじっと横にしておきたい。いやはや矛盾の塊ですから、何とかしないとたまったものではありません。

 そこで。いろいろと深く考えたのであります。苦節3日くらいかな。とうとう発見したのでありますよ、1つの定理を。聞きたいですか? どうしても知りたいですか? ってこのパターンが最近は多いな。

 文章でタメを作っても意味がないので、ここでジャーン、人生を気持ち良く生き抜く最上至高の定理をお教えしましょう。

 それはね「不幸になるまでは幸福」ってことです。何だよ、タイトルまんまじゃないかと思う人もいるでしょう。はい、その通りです。おそらく幸福と不幸の間には途方もないグラデーションがあるじゃないかという反論もあるはずです。幸福ではないけど、かといってとりわけ不幸でもないというのが大半の人たちの心境でしょう。

 しかしながら、人生を不幸と幸福に大別すれば、不幸でなければ幸福ということになるではありませんか。そもそも幸福の対義語は不幸しかないですから、不幸でなければ即ち幸福ってことになりませんか。言語学上はそうなっておるのであります。

 ということは、明日どんな不幸が勃発するとしても、その時までは幸福なんだと。そう信じることができれば、健やかに生きていくことができるんじゃないかな。ごく簡単に言えば「先のことを心配してクヨクヨすんなよ」ってことですけど、このように論理的に説明されると、何だか納得できませんか。

 無理矢理にでもそう考える習慣を付ければ、これからの人生はハッピーになるぞと勢い込んでいたら、スタッフがとんでもないことを言い出したのです。

「不幸になるまでは幸福というなら、幸福になるまでは不幸ってことになりませんか?」

 あ、………。そうだよね。確かにそうとも言えます。かくてボクの独創的な定理はガラガラと崩れてしまいました。要はどっちを取るかということなので、前向きのほうを信じる価値はあると思うんですけどね。

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2019年7月23日 (火)

命の重み

 

 重度の障害を持つ2人をみごと当選させた、れいわ新選組の山本太郎代表は「生産性で人間をはからせない世の中の第一歩を皆さんがつくったんです」と挨拶しました。それに対して早々と「左派ポピュリズム」というワケの分からない批判をする人もいるようです。けれども、政治はそもそもポピュリズムであって、それがいけないというなら民主主義と選挙自体をやめるべきでしょう。今の政権だって、カネ持ち&カネ持ち志望者によるポピュリズムの結果といえるではありませんか。上向きの忖度の嵐と言い換えてもいいけど、これは叱られるかな。

 いずれにしても、誰も成し得かった政権史上初となる画期的な当選ということがどうして分からないのかなぁ。国会が完全にバリアフリーになる先駆けというだけでなく、病気や障害を持つ人でも国会議員に当選したという事実は、ハンディキャップを持つ人たちに大きな勇気を与えたと思います。それより何より、障害を持つ人が社会の荷物では決してないことを証明したではありませんか。

 ボクのブログのサブタイトル「生きにくい世の中を、何とか生き良くする方法」は、立命館大学の生存学研究所を取材した時に思いついたものです。同研究所は「病い、老い、障害とともに生きること。異なりを持つ身体」を「生きる知恵や技法が創出される現場」として、「これからの生き方を構想し、あるべき世界を実現する手立てを示す」ことを生存学と規定しています(ウェブサイト)。これをボクなりにまったく簡単に言い換えたのが前述の言葉ですから、山本代表の並外れた発想に驚くと同時に、その行動力にも感服しました。

 近頃は命の重みがどんどん軽くなってきたんですよね。知的障害者福祉施設で19人も殺した犯人は、「重度の障害者は安楽死させるべきだ」と話していたそうです。こんな苛烈なことを明言しないまでも、病人や障害者を社会からの脱落者と見なす人は少なくありません。ボクも杖を持っていますが、朝のラッシュ時に品川駅に行くと、その杖を平気で蹴飛ばしていく人も珍しくないのです。けれども、どんなに優秀で健康なビジネスマンだって、いつ病気になり、障害を持つ身になるか分からないんですぜ。

 弱者が生きやすい世の中にするというのは、社会福祉や社会正義というだけでなく、自分のためでもあるのです。そんな想像力を持てない知性だからこそ、人を生産性で判断してしまう。かくて命の価値はどんどんインフレすることになるわけです。

 今から40年ほど前の1977年9月に、日本赤軍はダッカで日本航空機をハイジャック。収監されていた日本赤軍メンバーの釈放と身代金の支払いを要求しました。それに対して、当時の福田赳夫首相は「1人の命は地球より重い」として超法規的措置を指示したのです。世界からハイジャックを誘発するという猛批判を受けましたが、だったら乗員乗客から犠牲者を出してもいいのかとなります。

 どちらが正解かは、マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」にお任せするとして、この逡巡する、躊躇する、困惑する、悩むということそのものが命の重さにほかならないとボクは思います。そうした感覚が、どうにも近頃は麻痺しつつあるのではないでしょうか。天秤の片一方の皿に命をのせて、もう一方にカネをのせる、わけではないにしても、そもそも天秤に命をのせること自体に疑問を感じなきゃいけない。命につり合うようなモノが世界のどこにあるというのでしょうか。だからこそ命を賭して他者を助ける勇気にボクたちは心を動かし、涙するのでありますよ。

 そんなにも貴重な命を経済性で判断・評価しようとするのは、健康な強者のエゴであり傲慢なんですよね。ならば、あんたが人質になったら率先して死ねるかと。そういうことを、山本代表は言いたいんだろうな。

 これが果たして左派ポピュリズムなんだろうか。いずれ似たような批判が出てくると思うので、あらかじめクギをさしておきたいと思います。

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2019年7月22日 (月)

高圧支配への逆襲

 

 つくづく&ほとほと、この国にはマネジメントという概念が育っていないのだと感じさせられました。

 お笑い芸人に、あんな記者会見をやらせたらダメですよね。彼らがテレビに復帰しても、この問題を思い出して、しばらくは笑えないじゃないですか。

 それだけに、会社と差し違える強い覚悟を感じさせることになり、闇営業で反社会勢力にかかわったという悪印象が会社側に転移。世論の流れが一気に変わったんじゃないかな。それを受けて、社長も本日午後に記者会見するらしいですけど、もはやどんな言い訳をしようが、悪印象を覆すのは困難でしょう。広報的なテクニックとしても最悪というほかありません。

 でね、この展開を見て思い出してしまうのが、昨年の日大アメフト反則タックル事件です。当初はフェアプレイ精神にもとる卑怯な行為と指弾されていましたが、まだ20歳の選手がたった1人でみごとな記者会見を行うことで、世論が劇的に変わりました。それに続いてレスリングやボクシング、体操などで選手の反逆が繰り返され、スポーツ界のパワハラ体質があぶり出されることになったわけです。

 こうした動きが端的に意味するのは、高圧的で強権的な支配です。これまでは「試合に出さないぞ」「クビにするぞ」といった恫喝に羊のように従ってきたのですが、突如として狼のように牙を剥くようになった。古代ローマですら奴隷たちの死を賭した反逆があったのですから、民主主義ならあたりまえともいえる結果なのに、会社や監督たちは旧弊を守るあまりに、逆襲を予測できなかったのです。

 その理由はまったく簡単で、日本の旧軍隊の物真似を連綿と継承してきたからです。上から下に垂直的かつ一方的に命令を下して、異論反論を許さないなんていう態度をマネジメントとは呼びません。Human Resource Management=人材資源管理をもう少し勉強しろよ。徒弟制度には暗黙知の移植という大きな意義がありますが、軍隊的な支配は限りない不快感と反抗心しかもたらさないのです。

 それにしても、戦争が終わってから74年も経つというのに、日本の会社組織や経営幹部並びに管理職の意識は旧軍とほとんど変わっていません。小さな権力が積み上がったピラミッドの中で、上意下達の命令がシャンパンタワーのように垂れ落ちてくるなんて、時代錯誤も甚だしいですよね。挙げ句の果ては「会社の意向」などと、主語不在の命令が組織の外部にも漏れ出してくる。モリカケ問題も沖縄の米軍基地埋め立て問題も同根といっていいんじゃないかな。

 いつになったら、この国に本当の民主主義が育つのかと思っていたら、参議院選挙では相変わらず自民・公明で過半数を占めました。安倍自民党は既存の議席を失ったみたいですけどね。もういいや、勝手にしろよ。

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2019年7月19日 (金)

婦女子が嫌うもの

 

 あくまでも一般論ですが、婦女子は生理的に嫌いなものがあるようです。ゴキブリやクモやムカデなどを除いて人間に限るなら、第一に不潔ってことになるでしょう。むさ苦しいとか汚らしいのは、よほどのことがなければアウト。この「よほどのこと」というのは、好意または愛情あるいは尊敬ということかな。ただし、こうした内面を理解した感情を持つためには、ある程度の期間をそれなりの近さで交流することが必要です。その入口段階で拒否されたら、内面の精神性もへったくれもないので、敗者復活は無理でしょうね。

 次に、脚の毛です。何てったって毛嫌いという言葉があるもんね。あれ? 念のために調べてみたら、毛嫌いの毛って、すね毛ではなく「毛並み」のことだそうです。相手の毛並み、すなわち家柄や血筋によって好き嫌いすることが転じて、「これという理由もなく嫌うこと」と解釈されています。「良い毛並み」なら見境なく好きになるというなら、やっぱ打算的としか言いようがありません。

 毛深い男が好きという女性もいるので、必ずしも毛が嫌いとはいえないのですが、ごく平均的には、夏の半ズボンからワラワラとはみ出したスネ毛が大嫌いという婦女子は圧倒的に多いんじゃないかな。

 それで終わりではなくて、もう1つ。どうやら婦女子は、男の乳首も嫌いだそうです。服の上から乳首の形が分かると「ゲゲゲッ」と鳥肌が立つほどの嫌悪を感じるらしい。この季節ですから、シャツなしで薄手の白のポロシャツ1枚になると、汗とか雨で乳首が透ける状態も想定されます。これがね、まさに蛇蝎のように嫌われるらしい。

 男にどうして乳首があって何の役に立つのか皆目分かりませんが、婦女子が嫌いといえば、とにかく嫌いなものは嫌いとなります。そうなると、欧米のように下着なしで薄手のワイシャツを着るのもかなりヤバイということになるじゃないですか。上着を脱がない限りはセーフですけどね。あ、そうかぁ。だからジャケットはちょうど乳首のあたりをギリで隠すようにデザインされているわけです。昔の服飾デザイナーの鋭いセンスに感心させられました。

 このようにオッサンと婦女子の美意識は相当に違います。だからといって「これどうかな?」と訊いても、彼女たちは「いいんじゃないですかぁ」と平気でウソをつくので要注意です。自分が好きな男子以外はすべて圏外ですから、感想もテキトー極まりないと心得たほうがいい。

 結婚を完全に諦め、婦女子に好かれてもカネが減るだけでロクなことがないと考えていない限りは、くれぐれもご注意ください。ボクなんか相当な数の女性に嫌われてきたんじゃないかという自覚があるんですけどね。

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2019年7月18日 (木)

52歳で他界した人

 

 織田信長は扇子を手にして「人生50年」と舞いながら本能寺で炎に包まれたなんていわれますが、50歳くらいで亡くなった有名人は案外多いんですよね。それに気づいたのは、美空ひばりも石原裕次郎も同じ52歳で他界しているからです。

 ネットには「訃報新聞」なる禍々しいサイトがあるので、52歳で逝去された人をチェックしてみたら、案外いらっしゃるんですよね。古いところでは後醍醐天皇。思わずホントかよと眉に唾をつけましたが、エレキテルと鰻丼のマーケティングで知られる平賀源内も52歳。さらにウィリアム・シェイクスビアとマイケル・ジャクソンもそうらしい。
 かと思えば、ボクが愛読してきた景山民夫も、この年齢でお亡くなりでした。

 だから何なんだと言われそうですが、これらの皆さんは50代になる前に何らかの仕事を成し遂げているんですよね。ボクは、人間というのは何事かを為すために生まれてきたと信じているので、人生に長いも短いも関係ないと思っています。
 野球で有名な沢村栄治は史上初のノーヒットノーランなど数々の記録を残しましたが、27歳で戦死ですぜ。それでも21世紀の今でもボクのように彼を知る人は少なくないはずですから、まさに長生きすることにどれほどの意味や価値があるんだろうと。

 けれども、そんなことはまったく考慮することなく、医療は人間を生かし続けることに汲々としています。かくて、犬まで平均寿命がどんどん伸びてきたのは慶賀すべきでも、何を為すべきかが置いてきぼりになりました。そんなボク自身も、52歳から遠ざかってしまったにもかかわらず、ロクなことをやっていません。そりゃね、生まれながらの天分はあるはずだけど、それにしても惑いや躊躇ばかりで、この世に残したといえるものはとんと見当たりません。ただ、ただ、ひたすらに、ひたすらに生き延びてきただけ。前述の有名人諸氏に及ばないことは分かり切っていても、恥ずかしい限りです。

 にもかかわらず、ボクになお生を続けよと神が考えているのであれば、いったい何をすべきかヒントくらいくれよ。惰眠という言葉がありますが、惰生という言葉はあるのかな。そういえば惰性というのはあるな。ボクの今は、どうやらそれに近いようです。何だかなぁ、風が吹きすさぶ丘の上に1人座り込んで、果てしない虚空を見ているような気がします。

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2019年7月17日 (水)

渋谷の景色

 

 渋谷の景色が急速に変わってきました。以前から駅を中心とする大型再開発工事に突入。地下鉄などの乗り換え時に「どこ行きゃいいんだ!」とキレそうなくらいの迷路状態だったのですが、そんな混乱を尻目に周辺の建設工事はとっとと進行していたらしく、高層ビルがニョキニョキと建ち始めてきました。

 このブログでは、都心の新築病院を批判したことがあります。とても病院とは思えないクール過ぎる外観と、いつでもオフィスビルに転用できそうな院内。病気を抱えて思い悩む患者のことを考えた設計とは思えないんですよね。屋根に尖塔を持つ教会建築があるのですから、病院建築があってもいいじゃないかと指摘しました。

 渋谷の再開発も、それと似ているんですよね、往来する人たちでなく、どこかのビルの高層階から見おろした視点で設計なり施設配置をやったんじゃないかな。

 渋谷の中心って、いったいどこだと思いますか? 「世界の中心」はとっくに発見されたみたいですが、街の中心を見つけるのは意外に困難です。ところが渋谷はまったく簡単。駅を出てすぐのところに、超大型のスクランブル交差点があるじゃないですか。世界的にも知られた存在であり、ハロウィンや年越しなどの時にはうんざりするほどの若者や外国人が集まります。ここからどこに向かうにしても、渋谷の中心といって過言ではないでしょう。

 この渋谷名物の交差点が、暗く陰るようになってきたのです。文芸的な比喩なんぞではなく、スクランブル交差点に立ってみると、明るさが以前とは違うことに気づくはずです。梅雨時だからではなくて、ふと見上げれば、ヒカリエなどの超高層ビルが南東方面の視野を遮るようにそびえ立っています。簡単にいえば、スクランブル交差点がいくつもの高層ビルの日陰になってしまった。おかげで景色の「抜け感」が著しく乏しくなり、ボクは息苦しさすら感じます。

 施主や設計者は、スクランブル交差点をあまり利用していないんじゃないかな。さもなければ、あんなガラス張りの定番的で退屈な高層建築を周囲に林立させることなんてできないはずです。渋谷は「谷」の文字があるように、宮益坂や道玄坂の下方に位置します。これまでは遠くまで見渡せたので気づきにくかったのですが、谷底という感覚が強調されつつあるといえば、分かっていただけるでしょうか。

 いまの日本は、首相の方針でもあるのか、勝ち組が最優先で負け組は自己責任。そんな方針というか雰囲気が、こうした自分勝手、じゃなかった東急勝手な再開発にも象徴されているような気がします。

 もともと渋谷は好きな街ではなかったのですが、いよいよ行かなくなるだろうな。雑然とした淫猥さを今でも引きずっている新宿のほうがよほどマシです。天気のいい昼間の歌舞伎町は、意外にも陽光を受けてすごく明るいですよ。ゴールデン街も同様です。高層ビルを西口にまとめたのは誰か知りませんが、慧眼だったと思うぞ。

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2019年7月16日 (火)

衣食足りても礼節知らず

 

 税込みで4000円近い値段の朝ゴハンがあります。ボクの行きつけの松屋なら朝定食が400円なので、およそ10日分にもなります。もちろん普通の飲食店ではなく、都心に立地する高級ホテルのレストランなんですけどね。

 ビジネスに常識や定理などなく、いかに高額であれ客が来れば取引は成立するので、それがいけないなんて思いません。さぞかし美味しいんだろうなぁ。けれどもね、ああ何ということでしょうか、そのレストランから出て来た1人は、すごく短いパンツに半袖のシャツ1枚。とっさにサイゴン陥落時のボートピープルかと思いましたが(古っ!)、流暢な日本語を話していたので、明らかに外国人ではありません。

 ついさっきまでホテルの部屋で寝ていて、「あ、腹減ったメシ食おう」と起き抜けでそのままやってきた感じなのです。4000円の朝食をいただけるような立派なご身分で、高級ホテルに宿泊できるカネ持ちなのに、これではいけませんや。

 ボクは若い頃に、ホテルの廊下は街路と同じだぞと先輩からきつく教えられたのですが、彼はそうした礼儀を知らないのでしょうか。ボクは4000円の朝食を惜しみますが、ホテルの自室を出る時に最低限の身支度をすることは惜しみません。よほどセクシーな女性でない限り、寝間着姿なんぞでは宿泊者のみなさんの気分を害することになるからです。

 昔の日本では、こういう礼儀を知らないお金持ちを「成金」と呼んで正しく区別してきました。新興のビジネスが儲かる度に、こういう人たちが増殖したようですが、先進国と呼ばれるようになって久しい21世紀の日本でもこれかよと。隣の国の悪口なんて、とても言えませんぜ。イマドキの学校では、勉強はおしえても礼儀は教えてくれないみたいですね。

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2019年7月12日 (金)

時代遅れ

 

 仕事というものは、学校と違って教科書通りにはいきません。過去のことを体系的にまとめたものが教科書ですが、現実は常に未来に向けた現在進行形だからです。

「ここからここまでは試験に出るので勉強してね」なんて親切なことも、ビジネス社会ではあり得ません。自由競争のもとでは、みんなが学んだ教科書を裏切ることがライバル企業に勝つ秘訣であり、社会を進歩させていきます。たとえばコンビニエンスストアは昔の教科書には出てこない新業態ですが、それが急成長して商品流通そのものを革新していきました。教科書はそれを追認して歴史的かつ経営的に解釈するだけですから、次のビジネスモデルが示唆されることすらないのです。

 ところが学校では、この教科書にもとづいて勉強し、テストを受けて点数で評価されます。つまり、過去のことを知っている、あるいは過去の理論や理屈に詳しいというだけでのことなんですよね。要するに、学校時代の成績が良いからといってビジネスも優秀とは限らないわけです。大きな利権を持つ伝統的な大企業なら比較的に教科書に近いとはいえますが、そこに待遇がいいからという理由で学校優等生が集まってしまうと、いよいよ教科書的なことしかやれなくなってしまう。かくて時代の変化から取り残されたオールドビジネスとなり、恐竜のように滅びていくわけです。

 こうしたライフサイクルが、高度情報化によって圧倒的に短縮されています。企業の寿命がどんどん短かくなるだけでなく、利権のあり方も工場や鉱山、大型店舗といった重厚長大の装置型から、情報へと大きくシフトしてきました。文部科学省では「ソサエティ5.0」なんていう小洒落た言葉を提唱していますが、ビジネス社会から見た本質は、儲けを生み出す利権のあり方が、農作物から工業生産物に移り変わり、今では情報になったということなんですよね。主戦場が変わってきたと言い換えた方がいいかな。

 必要な武器だって変わってきますよね。狩猟社会なら刃物や弓矢でしたが、農業社会ならスキと鍬。工業社会は各種の工作機械と設備、そして情報社会はご存じパソコンであり、それを経た5番目の社会はネットワークと人工知能、いや、それを動かすプログラムということになるでしょうか。

 でね、上記の社会で常に重要なツールになってきたのは、やはり人間なわけですよ。それを戦力化するのは教育ですが、前述したようにコアとなっているのは教科書化された知識なので、教えられたことが片っ端から古びていく可能性が高い。学部卒なら3年程度、修士でもせいぜい5年と聞いたことがあります。となれば、よくいわれることですが、社会に出た後でも自分自身で学ぶスキルを身につけなければならない。

 そして、優等生のあり方も根本的に見直すべきだとボクは考えています。現状のままなら、囲碁や将棋のように人工知能に負けるのは間違いありません。学校教育を云々できるほどの知見はボクにはないので、前述してきたようなことを1人ひとりが意識するところから始めるほかないでしょう。それだけでも、今の日本には時代遅れがあまりにも目立つことに気づけるはずなんだけどなぁ。

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2019年7月11日 (木)

横並び

 

 そりゃもうジャニー氏の業績は偉大で、勲章ものだろうと心底思いますが、この横並びの大量報道は何だよ、って思いませんか。

 しかも、事務所のタレントの映像を垂れ流し状態といっていい。だぁからね、ボクは地上波を見ないのであります。どのチャンネルを見ているのか、すっかり忘れてしまうほどみごとな横並び。商業放送ですから、視聴率を稼ぎ、それにもとづく広告費でいろいろとまかなっているのはガッテン承知の上でも、ちょっとなぁ。訃報といえども芸能ニュースですよね。しかも、内容が各局ほとんど同じで、上っ面をサラリと流しているだけ。最後に、お世話になったタレントの追悼コメントでまとめるというのは安易に過ぎるんじゃないかな。

 新聞社には亡くなりそうな人の予定稿があるといわれるのですが、入院されてからほど良く時間があり、失礼ながら容態もまったく予測できないものではありませんから、準備する期間はあったと思うんですけどね。にもかかわらず、ほとんど構成を投げているのではないかと思うほど工夫がありません。

 かと思えば、BPOが放送倫理違反と認定した海外の祭りのデッチ上げなど、日本のテレビは末期状態といっていい。これまでエンタティンメントとしての大ウソがなかったとはいいませんが、いかにもドキュメンタリーの顔をしたヤラセは大問題ですよ。これではネットにどんどん視聴者が流れても何の不思議もありません。衛星放送は受信費用がかかりますからね。

 それもこれも、業態が安定して人気業種になったからでしょう。昔のテレビ局は、いまのネットと同じく新興産業であり、混沌としたエネルギーに満ちていました。それがいつの間にか役所のような組織主義となり、横や上ばかりを見るようになってきたんじゃないかな。これは古今東西のいかなる産業にも共通している病理なので、もう少し深く考察したいのですが、本日は時間がないので、このへんで。ああ、それにしてもなぁ。。。

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2019年7月10日 (水)

なぜ長く生きるのか

 

 えーと、またまたすいません。人間についても言えますが、犬の福助のことであります。

 トイレに行くにもヨタヨタ状態なので、たまにね、ウンコが長い毛にくっついてくることがあります。それだけなら微笑ましいと言えなくもないのですが、それがポロリと床に転がっていたりすると、踏んでしまうこともあるじゃないですか。

 昨日早朝も、考え事をしていて黄色いウンコの上をスニーカーで歩いてしまい、横からはみ出るほどの状態であることを後で気づきました。こうなると、ボクの足跡には必ずウンコが残るという大惨事が発生しているわけです。仕方ないので別の靴に変えて、床にへばりついているウンコをティッシュで拭き取り、それだけでは足りないので濡れ雑巾でゴシゴシ。その後で脱臭剤をふりまくという作業を30分ほど続けたでしょうか。それで終了というわけではなく、靴の底という大仕事が残っていることに気づいて、福助に軽度の殺意を覚えました。

 それでハッと気づいたボクはホントに大馬鹿野郎なのですが、人間の介護はこんなもんじゃないですよね。認知症になって自分のウンコを投げつけることもあると聞いたことがあります。体重7キロの犬と50キロ以上ある人間とでは、やることが比較になりませんよね。そんなヘビーな介護が毎日となったら、いっそ殺してしまおうと思っても不思議ではなく、それを安易にいけないという人にも憎悪を感じんじゃないかな。だったらアンタがやってみろってね。年金もそうだけど、大家族から核家族化した段階で、こうした老後は社会全体で保障・扶助するということになったはずです。けれども、それがあまりにも貧弱なので、家庭内介護が強いられているのです。年金も不十分なので、ヘルパーを頼むにも限度があります。いったい誰のせいだよと、参議院議員選挙前にヘコヘコと軽く頭を下げ回っている政治家を問いつめるべきです。

 ところで、ボクのスニーカーはナイキのスケートボード用でありまして、ソールは低くてフラット、つまりペッタンコです。けれども、スケボー用なので、滑らないようにものすごく細かなトレッドパターンが刻まれています。そこにウンコがぎっしりと埋まっていたんですよね。これをどうやって洗うんだと途方にくれて、いっそ捨てちまうかとも思ったのですが、それも勿体ないので、やりましたよ掃除を。お湯を流しっ放しにして、爪楊枝でトレッドからほじくりだす。この作業を延々と30分くらいかな。もうホントに、なんてこったという疲労感ですけど、くどいようですが人間ならもっと大変でしょうからね。

 はぁ。犬も人間も、そんな状態になってまで長生きする必要があるのでしょうか。犬と違って、人間なら誰にも迷惑をかけたくないという気持ちもあるはずですからね。それでも長生きしなきゃいけないというなら、今のうちに理由をぜひ教えてほしいものです。

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2019年7月 9日 (火)

喫煙は国策

 

 とっくにやめたから言うけど、煙草は百害あって一利もなしです。すでに若い人たちは「カッコ悪い」として喫煙者が激減しており、何よりだと思います。ボクたちの頃は、まさか命を削るハイリスクな悪習なんて知りませんでしたからね。映画でもプカプカ、テレビでもプカプカ。だから親も家でプカプカとなったら、そりゃもう子供だってプカプカではありませんか。もともとはインディアン、じゃなかった北アメリカ大陸の先住民がプカプカだったみたいですけどね。

 そんな喫煙習慣は自己責任と言うのなら、見かけの上では確かにそうです。食費を削って酒代に回そうが、煙草にしようが、ボクたちの勝手というほかありません。しかしながら、ですよ。煙草を独占的に販売してきたのは、日本専売公社というレッキとした特殊法人なんですぜ。もとをたどれば、1949年までは旧・大蔵省の外局である専売局が煙草を製造・販売していました。さらに遡れば、1948年に占領軍のマッカーサーが煙草と塩と、なぜだか樟脳を政府事業として運営せよと指示を出したわけです。

 けれども、国が何かを専売するというのは民主主義下の自由競争に反するとして、62年に樟脳が専売ではなくなり、1985年にJT、日本たばこ産業が発足して現在に至ります。ところが、この会社は民営化したように見えても、株の3分の1を有する大株主は国(財務大臣)なのであります。しかも煙草を独占的に製造する権利を専売公社から引き継いでおり、要するに日本ではJTしか煙草を作ることはできないわけです。

 つまり、ボクたちをニコチン中毒にしてきたのは、高価な輸入煙草もあるけど、ほとんどは日本国ってことになるではありませんか。アメリカでは肺がんで亡くなった人の奥さんが民間の煙草会社を訴えて、何と2兆円の懲罰的賠償金が認められています。だったら、日本たばこ産業ならびに日本国の責任を問うべきでしょう。すでに告訴した人がいますが、残念ながら2012年に東京高裁で敗訴が確定しています。

 その理由も「自由な意志決定」つまり自己責任となっているのですが、これはちゃんちゃらおかしい。漢字を使うなら「噴飯もの」です。煙草の製造・販売は、民間ではなく、国が深く関与する独占事業だったことをどう説明するのかなぁ。そもそも裁判なんていうのは、時の権力に逆らった判決なんか出すはずがないのですが、急速に進展する情報化ならびに国際化の昨今はそうは言っていられないはずです。アメリカで民間の煙草会社が莫大な賠償金を迫られているのに、専売公社だった日本が自己責任で逃げられるはずがないじゃないですか。

 もっと明確に指摘すれば、喫煙は国策だった可能性が高いのです。日中戦争の頃に、満州で阿片を独占的に製造・販売。巨額の利益を軍事費に回していた「前科」があるので、喫煙も同じく日本国民をニコチン中毒にする政策だったに違いないとボクは考えています。壮大な陰謀論として一笑に付す人もいるだろうけど、敗戦で国の財布はすっからかんという時期に煙草を専売ですから、納得できる理屈ではありませんか。

 いずれにしても、喫煙の害と国の責任は最高裁まで争うべきです。その結果によって、この国が一般民衆をどう扱ってきたかがはっきりするじゃないですか。年金でとっくに答は出ていますけどね。

 弁護士の皆さんも、いつまでサラ金の過払金や肝炎訴訟をやるつもりなんですかね。こっちのほうが可能性はデカいと思うぞ。

 

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2019年7月 8日 (月)

超能力

 

 ワタクシ、自慢ではありませんが、超能力を持っております。

 瞳を見れば心が読めるとか、瞬時にどこかに移動できるとか、未来が分かる予知能力なんぞではありません。そんなパワーが本当にあったら、こんなブログで紹介するはずないじゃないですか。モノカキとしても、そんな常識的()な超能力なんて、わざわざ書き記すには及びません。手垢がつきまくりで、オリジナリティのカケラもないですからね。

 では、どんな超能力なのか。知りたいですか? ホントに? 心からホントーに知りたいですか? っていつまでやってんだよ。

 はい、ではボクの秘密をここにお教えすることにします。

 実は、スーパーで買い物した金額を、電卓なしで当てることができるのです。チョコ1個とキャベツ1個という暗算でもやれる数ではありません。買い物カゴを一杯にした状態で、レジを通る前に「5000円」と感じると、ビシッと「5200円」だったりするのであります。中身をじっと見て判断するのでなく、ひと目で瞬時に分かるというのがポイントです。しかも誤差は3〜400円以内。スーパーで1万円を使うなんてことは滅多にないので、数千円レベルの金額ですが、ほかの人の買い物カゴもビシッと当てて、驚かれたことがしばしばあります。それでね、どうやらこれは超能力ではないだろうかと自覚したのであります。

 さらに、飲み屋でもほぼビシッと代金をあてることができます。酒がナンボでもヤキトリが10本だから、なんて姑息な計算はしません。パッと感覚的に分かるんだよな。一度や二度のことではないので、知り合いに「どうして分かるの」と不思議がられました。

 そのほかにも店の売り場面積とか、時計のケース径なんかもほぼ命中させることができますが、これはまぁ経験的な積み重ねがありますからね。スーパーや飲み屋の代金がどうして分かるかは、自分ながら謎としか言いようがないのです。Xmenでなくて、¥ manと名乗ろうかな。

 ああ、でも、しかし、この超能力は何の役にも立たないんですな。レジのオバサンが気づかないうちに通り抜けるとか、列の後ろの人の財布から必要なお金を自分のポケットにテレポートするとか(コラコラ!)、なんてことができればいいのですが、レジでピピッとやる直前に支払い金額が分かっても仕方ありません。電卓いらずというだけでのことで、実にしょうもない。電卓がない時代にタイムスリップしたら珍しがられるかもしれないけど、物価がまるきり違いますからねぇ。

 そうした無意味極まりない超能力を持っている人は、ボクだけじゃないような気がします。そんな人が複数集まったら、何かの役に立つかもしれない。役立たず超能力ブラザーズとして浅草演芸ホールに出るとか、意味なし超能力アベンジャーズとして人類の敵と戦うとか。差がありすぎか。少なくともコメディドラマにはなるかな。もしも書けというなら書きますので、出版社の方は連絡ください。

 

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2019年7月 5日 (金)

安保反対!

 

 トランプ大統領が日米安全保障条約を不平等だとして、これを破棄する意向を漏らしたことが話題となりました。なぜだか続報はなく、安倍首相との出来レースだとか何とか、例によってワケの分からない憶測報道ならびに評論がまかり通っているようですが、もっとびっくりしろよ、とワタクシは言いたい。

 あんたらは、安保闘争という歴史的な大騒ぎを知らないのですかねぇ。念のために紹介しておくと、1960年と70年の2回にわたって行われた日米安全保障条約改定に対する大規模な反対運動のことです。1951年に安保条約は締結されていたのですが、軍事同盟をもっと強化する新安保条約が結ばれるとして、セクトはもちろん一般市民の多くが反対集会などに駆けつけました。機動隊との衝突で、デモに参加していた東京大学の女子学生が圧死したことも超有名じゃないですか。10年後の条約再改定時、1970年はそれほどでもなかったと記憶しますが、やはり破棄を求める運動が起きています。

 太平洋戦争がやっと終わって平和になったのに、アメリカの戦争に日本が巻き込まれるなんてゴメンだというのが、基本的な反対理由です。米軍基地も冗談じゃない、空母エンタープライズも危ないから日本に寄るんじゃねぇよと、氷雨が降りしきる横須賀でプラカードを持った人もまだご存命なはずです。

 いつの時代にしても、安保反対運動にかかわったり、デモに参加した人たちは、トランプの意見は大歓迎のはずですよね。さっさと条約を破棄して、ちゃんとした主権国家に生まれ変われるチャンスではありませんか。それによって、沖縄から米軍基地を一掃できるんですぜ。ヘリコプターの基地反対運動などに煩わされることもなく、国会で毎年のように特別予算を組む必要もなくなります。

 半世紀も前の悲願が、こともあろうにアメリカ様の意向で実現しようとしているのですから、もっと大々的な賛成運動が起きなきゃヘンです。なのに、この静けさは何だよ。デモで亡くなった樺さんに失礼じゃないか。

 もっとはっきりいえば、安保反対運動の主役は団塊世代の皆さんでした。まだまだ元気で達者な方ばかりですから、まさか忘れたはずがありません。だったら、あの時の反対運動はいったい何だったんだよと、ボクは問いたい。1960~70年代といえば、まさに東西冷戦。そんな状況下でアメリカとの軍事同盟離脱なんて、今よりよっぽどヤバい話ですよね。にもかかわらず、60年安保反対闘争では国会議事堂をデモ隊が取り巻いたんですから。いやはや忘れっぽいというか何というか。当時のデモを率いた日本共産党も何とか言えよ。

 何かねぇ、日本人は心の底から豊かさの奴隷になってしまったのかなぁ。いいじゃないですか、アメリカがそう言うなら安保なんかやめちまえよ。

 それで何が起きるか知りませんが、少なくとも半世紀前には存在した崇高な独立心を取り戻す絶好のチャンスだと思うぞ。国際政治なんてことをトランプは考えていないのですから、こっちもくそ食らえだ、そんなもん。というジーサンがテレビに出てきても、ちっともおかしくないんですけどねぇ。朝ナマの田原さんも、もっと騒げよ。

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2019年7月 4日 (木)

我が家

 

 子供がいないヒガミからというわけでは決してなく、どうしても馴染めないのが親子連れです。スキがあったらキスでもしそうなベタベタカップルも好きではありませんが、こちらはボクも経験がないわけではないので、当人たちの心境を想像できなくもありません。

 それが親子連れになると、どうしてこうも不快な気分になるのでしょうか。あまり詳しく分析すると差し障りや反発を招くので、ごく簡単に言ってしまえば、「我が家」という雰囲気、あるいは風情がね、ボクにとってはものすごく排他的に感じるわけです。その家の価値観や習慣が、親子の会話や態度などから、獣じみた匂いとともに漏れ出てくる感じなんだよな。あ、すいません、言い過ぎだったかな。

 いえね、それがいけないなんて思っておりません。子供がいる家族ならどこだってそうなるわけで、さもなきゃ赤の他人が同居しているのと変わりないじゃないですか。ただし、ボクのように独身生活が長い男にとっては、多勢に無勢というか、一気に自分の孤独を自覚させてくれちゃうのであります。子供2人連れの合計4人が楽しい旅行に電車で出かけるなんていうシチュエーションでは、周囲を完全に無視して自分たちの居間みたいにリラックスしまくりというケースもありますよね。子供が騒ぐのは当たり前としても、やはり「我が家」の雰囲気が濃厚に漂ってくると、ボクは急いで隣の車両に逃げたりします。

 誤解して欲しくはないんだけど、もっときちんと躾けろよとか、礼儀正しく、なんてことではないのです。そりゃね、できれば静かに過ごしていただきたいものですが、現実問題として、育ち盛りの子供には無理ってこともあるでしょう。

 であるなら、ボクは何がそんなにイヤなのでしょうかねぇ。いろいろ考えてみたのですが、やはり「我が家」感覚が嫌いとしか言いようがありません。その一方で、この「我が家」感覚が何よりも落ち着くので大好きという人もいるに決まっています。結局は生まれながらのエトランゼ、日本語の意訳では旅ガラスですけど、ボクはそういう種類の人間なのかなという、悲しい自覚を促してくれたりするのです。

 もうすぐやってくる夏休みには、そうした「我が家」の皆さんが巷に大量発生します。来年は東京オリンピックだしね。どこか遠くに行っちゃおうかなぁ。『堕落論』で知られる坂口安吾は、「親があっても子は育つ」という名言を残していますけどね。

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2019年7月 3日 (水)

東西南北

 

 初めて行くところなので、ちゃんと地図をコピーして準備。さらに30分ほど余裕を持って目的地に到着したとします。それが地下鉄の場合、地上に出てしばらく途方にくれるのはボクだけでしょうか。

 土地勘がゼロの場所なので、案内表示を見て慎重に出口を選んでも、どっちに行っていいか分からないことがあるからです。よほど目立つランドマーク的な建物などがあっても、間違えたりする。つまり、東西南北がきちんと把握できていないのです。普通の人は時間と太陽の位置で北なり南を判断すると思いますが、ボクは小学校でそれを教えてくれる学年の時に急性腎炎になり、夏休みを含めて2か月以上を自宅療養していたからです。教科書の絵では、確か太陽に向かって両腕を広げ、あっちがこれで、こっちがあれみたいな解説があったと思うのですが、先生に教えられなかったせいか、それが分かりません。ついでに言えば、音符の数え方も教えられる機会を喪失。1小節の概念が分かったのは、ギターを弾くようになってからです。

 それでも、都会で普通の生活をしている限りは、東西南北や音符が分からなくても問題はありません。ただし、取材記者になってあちこちに行くようになると、東西南北の重要性を痛感するわけです。いくら地図の上が北で、右が東で左は西と認識していても、エスカレータや階段を上がって初めてのところに顔を出すと、必ず「どっちだよ?」となります。間違った方向に一駅ほど歩き続けたことも珍しくありません。繁華街ではコンビニの店員さんなどに聞くことができても、昼間の住宅街となるとひっそりして人影がありませんから。

 でね、ジャーン、長らくお待たせしました。あるきっかけで、GPS衛星との通信機能付き腕時計を入手したのであります。普段使いにしているのはアラーム付きの機械式時計ですが、こちらはバッテリー駆動のハイテク。ボタン一発で、このうえなく正しい精度で時刻を修正。自分のいる位置の緯度と経度も出てきます。そして、GPSとは直接の関係はないけど、ボクが待望した東西南北が分かる電子コンパスを搭載しているんだよな。これによって、2次元の地図がようやく現実と一致したといっていいのであります。

 スマホのナビゲーターを使えばいいじゃんと笑う人もいるでしょうが、カーナビのように右に行け左に進めとか機械に指示されるのが、実は死ぬほど嫌いでね。自分の位置から行き先まで、ちゃんと把握しておきたいのです。「目的地の周辺に到着しました」と人工音声に明るく言われても、目的の建物などが見当たらないという経験ありませんか。

 そんなわけで、今やこの腕時計で東西南北を正しく自覚できるんですよね、ウフフ。ちなみにボクのマンションの住戸は南向き。地図上では下向きってことですね。JRの恵比寿駅も、新宿方向が北口で、目黒方面が南口。すなわち、地図では上下に線路が走っているということです。この快感、わっかるかなぁ、わかんねぇだろなぁ。ってちょっと古過ぎかな。

 それで人生がどうにかなるわけでもありませんが、やっぱり「分かる」ということは気持ちが良いのであります。

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2019年7月 2日 (火)

寅さんはホントに面白いか

 

 たまに衛星放送で映画『男はつらいよ』を見ますが、やっぱり面白いとは思えないんだよなぁ。こうした指摘はボクの若い頃にもあって、あの映画は東大卒のエスタブリッシュメントが夢想した架空の庶民の物語に過ぎないと、階級闘争史観で批判する人もいたように記憶します。

 フィクションですから、そもそも架空に決まっているわけでね。映画で描かれている生活や人間たちが、それほどまでに現実離れしているとは思えません。登場人物も皆さんそれなりに魅力的なのですが、とにかく何しろボクには笑えなかった。2~3本はちゃんと最後まで見通したように思いますが、ニコリとかニヤリはあっても、1度として声をあげてワッハッハとなったことがありません。正月の風物詩のひとつであり、偉大なるマンネリ感で安心して見られるとはいっても、あの映画は絶対に喜劇ではないですよね。

 衛星放送の再映でも、すぐに落ち着かない気分になってチャンネルを替えてしまいます。だってさ、面白く感じないだけでなく、いたたまれない時だってあるもんね。人気シリーズのはずなのに、どうしてだろうとずっと考えてきたのですが、先が読めるお決まりのストーリー展開もさることながら、やはり主人公の寅さんに原因があるんじゃないかと思うようになりました。渥美清の演技や語りはさすがに上手です。表情の作り方も、誰にも真似できない巧みさがある。けれども、最も肝腎な精神性というか、メンタルの部分が主人公の設定とは一致しないように感じるのです。

 寅さんに近づくマドンナたちも、わざとらしさがありありなんだよな。「まーた寅さんたらぁ」と肩を叩いて笑ったりするんだけど、そのあたりから無理しているように見えませんか。寅さんにしても、心底から惚れている風情が感じられない。なのに、結局は我慢できず関係性をぶち壊すような行動に出てしまう。妹のさくらをはじめとする家族や周囲がそれなりの現実感を持っているのに対して、寅さんとマドンナだけが宙に浮いた存在のように感じるのです。寅さんは女にふられるブサイクで甲斐性なしの風来坊のはずなのに、2枚目の雰囲気がどこかに必ず漂っています。最初の頃の作品は知りませんが、寅さんの内面と外面が次第に乖離してきたことが、ボクを居心地悪くさせている原因ではないでしょうか。渥美清もそれに苦しんでいたのか、たまに哲学者のような相貌を見せるんだよな。

 亡くなった人の悪口を言うつもりはなく、あくまでもボクの仮説に過ぎないので、事実とは大違いの映画論と嘲笑する人もいるでしょう。もしかすると「みんなが面白いといっているから面白いに違いない」という人たちがよってたかって寅さんを神格化。結果的に全48作品という途方もない「国民的映画」に祭り上げてしまったことに、何よりも不愉快を感じているのかもしれません。

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2019年7月 1日 (月)

8か月(後)

 

  おそらく死ぬまで消えることのない恋愛衝動の適切な管理が、隠れた高齢者問題ではないかと2回にわたって指摘してきました。恋愛衝動ではなく、より直接的な性衝動として発露するケースも珍しいことではないからです。痴漢沙汰などは言うまでもなく、本人の社会的地位が高くなってくると、職権を背景にしたセクハラに発展するから厄介なんですよね。

 宴会などで「あ、ちょっとキミ、横にきて話さないか」と手招きされて隣に座ると、自慢話が延々と続く中で、たまに肩を叩くなどの様子見が始まり、やがて大胆なことをやり始める(んじゃないかな)。本人は特段の悪気はなく、脳内ホルモンが過度に分泌した程度なのでしょうが、セクハラを受ける女性にとっては迷惑このうえありません。ご本人はシワとシミだらけの薄汚いジーサンという自覚は金輪際なく、「青春とは人生のある時期ではなく、心のあり方を言う」とサミュエル・ウルマンを気取っていたりする。こうした困った問題を何とかしないと、ジーサンはどんどん嫌われるばかりの存在になってしまいます。

 すべては子孫繁栄のための脳内ホルモンの仕業といえるのですが、他方でボクたちはジャングルに棲んでいる動物ではなく、社会的生活を営んでおります。そうした意識で自分を管理するのが本筋ですが、なかなかそうはいきませんよね。では、この余剰化した脳内ホルモンをどのように処理したらいいのか。

 遺伝子に組み込まれているだけに、制御不可能な衝動や飢餓感にも思えますが、もう少し追いつめれば実に簡単なことだと分かります。セロトニンなどの分子生化学で理解しようとするからややこしいことになるだけで、この問題は100年ほど前にとっくに解決されているんですよね。精神分析学の創始者であるジークムント・フロイトは、当時の心理学で用いられたリビドーという言葉を「性的衝動を発動させる力」と定義しております。ユングはもっと広義に、本能に近いものと解釈しているみたいですけど。

 でね、精神分析学では、このリビドーは「様々な欲求に変換可能なエネルギー」とされているのでありますよ。それによって性衝動が解消されることを「昇華」と呼ぶわけですな。人間は食欲と性欲だけの生き物ではなくて、ありがたいことに知識欲や表現欲など様々な欲があります。だからこそ文明が進歩してきたわけでね。恋愛の現役とはいえない年齢になってきたら、その衝動を別の方面でうまく昇華すればいいだけのことなのです。奇妙な研究や非現実的な発明に没頭することも結構じゃないですか。そんな才能も知識もないというなら、楽器を演奏する、歌を歌う、絵画やイラストや漫画を描く、写真を撮る、小説や詩を書いてもいいじゃないですか。どんなにもヘタクソでも、他人の心身に直接的な被害を及ぼすことはありません。

 ボクは、高校を卒業するまでに、楽器のひとつくらいはまともに弾きこなせるようにすべきだと考えております。油絵や日本画の初歩程度のこともきちんと教える。小説や詩も、受験用の解釈だけでなく、実際に創作させるべきじゃないかな。そうして身につけたことは、このように年をとってから役に立つわけです。

 面倒なことはやりたくないというなら、鑑賞者になればいい。音楽を定期的に聴きに行く、絵画展や写真展に足を運ぶ、あるいは小説や詩を読み込むとかね。何をやったらいいか見当もつかないというなら、大きな駅前のビルには必ずあるカルチュアセンターのプログラムを見てください。

 こんなことをしても、やはりくすぶり続ける気持ちはどこかに残るかもしれません。それがたまたま誰かと奇跡的に同期・同調することがないとは言い切れないですよね。その時には、残った命の炎を燃やし尽くしても悔いはないじゃないですか。そう言いながらも、70歳を越してから3度も離婚・結婚を繰り返したお爺さんもいるんですけどね。

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