笠木恵司の主な著書

  • キャリア・チャレンジ2009-2010
  • 資格試験合格後の本
  • 学費免除・奨学金で行く大学・大学院進学・休学・留学ガイド
  • 価値ある資格厳選200
  • インターネットでMBA・修士号を取る
  • 腕時計雑学ノート
  • 「国際標準」ビジネス資格完全ガイドブック
  • 日本で学べるアメリカ大学遠隔学習プログラム
  • テレビ局完全就職マニュアル
  • 資格の達人
  • MBA入学ガイドブック
  • 学んで! 遊んで! 役に立つ! インターネットキャンパス
  • 日本で学べるアメリカ大学通信教育ガイド

お気に召したら、ポチっと↓

  • 笠木恵司のブログ

福助くん その6

  • D_p1000397_s
    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

  • 5djustice3f5d5575e032a1
    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »

2019年9月

2019年9月30日 (月)

タイミング悪いよ

 

 本日は緊急の締め切りを1本抱えているので、短く終わりますが、やっぱり安倍政権は庶民の生活に疎いということを痛感します。というのも消費税増税のタイミングが悪すぎなんだよな。

 増税前には駆け込み消費が発生するとはいっても、山のように日用品を買ったところで、10万円で2000円の違いしかありません。ところが、思い切って100万円の高級時計を購入するとしたら、消費税は増税前なら8万円ですが、増税後なら10万円となり、その差額は2万円。200万円の時計なら4万円ですよ。ボクはあまり行ったことがないので料金はよく分かりませんが、家族で高級レストランを数回は利用できる金額じゃないかな。

 高級時計だけでなく、貴金属や宝飾関係も長く愛用できる耐久消費財ですから、増税前に購入するのが賢い消費者なんてことをテレビでFPが解説してきました。表面的には確かにそうですけど、先立つモノを考えてみてください。そうした高級品が大きく動く需要期はボーナス直後といわれています。つまり7月と12月です。ところが今回の増税は10月から。こんなタイミングで消費税を上げるなんて、安倍政権は経済が、少なくとも庶民レベルの家計感覚が全然分かっていないとしか思えません。

 理屈の上では増税前がトクになることは分かり切っていても、高級品は不要不急なので資金的な後押しが不可欠。それがボーナスなのですが、支給されるのは2か月後ですからね。

 増税は以前から分かっていたことなので、7月のボーナスによる駆け込みもあったはずですが、この時は増税が3か月後で、もしかすると延期なんていう憶測も流れていました。一般人の感覚としては切迫感がちょっと薄い。しかも夏休みは帰省や海外旅行などでお金を使うことが多くなるので、不要不急の高級品を前倒しで買っておこうという気分にはなりにくいですよね。

 だからね、消費税を上げるなら、ボーナス支給の翌月、つまり1月がベストだったのです。それなら大規模な駆け込み消費が発生したでしょう。ところが10月1日からですもんね。これでは増税後の消費不振をリカバーできるような駆け込みは期待できないじゃないですか。

 ボクたち普通人は、理屈ではなく感覚で生きています。増税前に慌てて日用品を山のように買っても、前述したように10万円でわずか2000円の違いですぜ。本当にトクするのは時計などの高額耐久消費財なのに、フトコロが本格的に緩む12月は増税から2か月後。まさかこれを「後の祭り」とは言わないよね。

 以前から確信していましたが、現下の政権は経済があまり分かっておらず、庶民感覚から縁遠いところで政策を決めているとしか思えません。もしも消費税増税が1月にズレていたら、年末の商戦はすごいことになっていたと思うぞ。大失敗と誹る人はボクくらいしかいないのかねぇ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年9月27日 (金)

年俸制

 

 社会に出た直後は出版社に在籍していましたが、5年目に思い切ってエイヤっと退職。半年ほどの失業期間を経て、ある週刊誌の創刊に伴う編集スタッフに応募。幸いに採用されたのですが、給与はそれまでの月給制から年俸制となりました。

 その週刊誌は大手新聞社の発行でしたが、編集も含めた制作スタッフは専属の広告代理店が派遣することになっていたらしく、ボクはその1人だったんですよね。いま思えば、いつ廃刊になっても親会社に雇用リスクなどが及ばないように、テンポラリーな体制になっていたのです。誰が考えたか知りませんが、これは実に慧眼というか用意周到、あるいは深謀遠慮であり、イザという時にはトカゲの尻尾にするつもりだったのかな。

 実際に5年ほどしてからイザという時がやってきました。その週刊誌は隔週刊に変更されてしばらく後に休刊となり、もちろん編集部は解散です。本社からやってきた管理職の方々は元の職場に復帰したかといえば、そうはいきません。休刊の責任を取らされる格好で他部門に異動、あるいは子会社や関係会社などに転籍となり、早い話が散り散りでバラバラ。企業組織の非情さを30代初めに間近に見ることになったのです。

 どうもボクの文章は寄り道が多いのですが、本題は年俸のほうです。ボクはまだ20代後半で世間知らずのアホだったので、最初に年俸制と聞かされた時には、瞬間的に1年分の給料をまとめて貰えるのかなぁと考えてしまいました。アタマの中で新車の姿が浮かんでは消えて、そんなものをキャッシュで買ったら後の生活はどうすんだよ、とかね。

 はい。もろちん決められた年俸を12回に分けて毎月支給される制度です。見た目は月給と同じでも、ボーナスという楽しみはありません。けれども、自由で解放されたような気がしたんですよね。いちいち何時間の残業がどーのこーので、今年のボーナスは何か月分でナンボなどと気にする月給制より、はるかにボクの気質にあっていました。金額そのものはケタがいくつも違いますが、基本的にプロ野球選手と同じです。年に一度の契約更改が終われば、後は何も気にせず仕事に打ち込むだけ。どれだけ会社で残業しようが、とっとと帰ろうが、こちらの勝手ですもんね。

 発行サイクルの早い週刊誌であり、ボクはデスクだったので、さすがに自由気ままにも限度はありますが、それまでのサラリーマン生活で感じた束縛感はまったくありません。ボクはホントに偏屈な天の邪鬼なのか、とにかく縛られることが大嫌いでしたから、個人事業主として会社と契約して年俸を決めるというのは、とても素敵な関係に感じられたのです。

 にもかかわらず、それからかなりの歳月を経ても、年俸制があまり普及していないのはなぜなのでしょうか。「ナレッジワーカー」や「自己責任」あるいは「働き改革」と言うなら、年俸制にするのが最も早道だと思うんだけどなぁ。月給制にしても、年間の経営計画の中に人件費の総額は織り込まれているはずですから、実質的に年俸と大きな違いはないはずなんですけどね。それでも年俸といえば反対する人が少なくないようです。タイムカードがあれば、労働基準法に基づく従業者の勤務時間を守れるかといえば、そんなはずありません。隠れ残業などの過重労働で自殺する人が絶えないじゃないですか。

 だぁからさ、一昨日に紹介したナレッジマネジメントを本気でやろうとするなら、社員をプロ野球選手のような待遇にするほかないと思うのです。個人事業主としての年俸契約。変化の早いIT時代の経営は、それによる雇用の機動性が不可欠だと思うんだけどな。さらに、最も大切なのは従業者の自発性・自主性・主体性を促すということではないでしょうか。

 こんなことはおそらく誰だって気づいていることなのに、ちっとも変わらないんだよなぁ。ホントに不思議な国だとつくづく呆れてしまいます。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

 

 

2019年9月26日 (木)

解釈よりアイデア

 

 テレビの討論番組が代表的なのですが、コメンテーターの発言は解釈ばっかりで、新しい提案がほとんどないんですよね。某大学法科大学院の某教授なんて、あたりまえで普通極まりないことを、よくもまぁあれほどしたり顔で言えるもんだと呆れてしまいます。そこらのオバハンでも言いそうなことを難しい言葉でくるんでいるだけで、新味すらありません。だから反論する余地もなく、毒にも薬にもならない。危ないことは絶対に言わない、いや言えない人だからこそ、各テレビ局が御用達にしているのでしょうか。

 まぁ学問の世界はそれでいいんでしょうね。もとより相手にしているのは過去の事象だけで、それを解釈・分析することで理論化していくのが文系学者の仕事ですから。しかも前例のない画期的な解釈なんてほとんど相手にされません。根拠の乏しい、それだけに独創的な発想は、思いつきであって学問的ではないと即座に片付けられてしまうんだよな。

 けれども、ビジネスの世界はライバルとの競合が絶えず、現在から未来を勝ち抜かなければならないので、過去の解釈だけでは通用しません。ビジネスモデルなどを真似れば訴えられることもしばしばあります。MBAで勉強する成功事例を純化した経営理論にしても、現実は流動的で変化に富んでいるので、日進月歩といっていいハイスピードで陳腐化していきます。そんなビジネスの世界で必要不可欠なものこそ、学者や保守的な経営者がアタマから否定しがちな「思いつき」なんですよね。

 あまり浸透していないようですが、本格的なブレーンストーミングで批判や反論を禁止しているのも、そのためです。独創的なアイデアは、すべてが思いつきといっても過言ではないのに、それを検討する前に前例を持ち出して否定するのは、生まれたばかりの赤ん坊の首を大人が締めるようなものです。

 歴史を遡ってみれば、前例や慣例などを無視した、突飛でヘンテコで意表を衝くような思いつきがビジネスや会社や、ひいては社会を発展させてきたことが分かります。飛行機にしても、人間は鳥のように空を飛べないと信じられていた時代に、「羽根があればいいんじゃないの?」と思いついた変わり者たちによる、前例を無視した試行錯誤が作り上げたものと言っていい。その結果を学者様が後追いでもっともらしく理論化しただけのことでね。

 だぁからさ、もう解釈論議はやめようよ。ボクはほとほと飽きました。要するにどうしたらいいのか、何をしたらいいのか。思いつきで十分だからオリジナルのアイデアを出せよ。日本は評論家があまりにも多すぎる。そうなったのも、日本の教育のせいだというのは、果たして言い過ぎかなぁ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

2019年9月25日 (水)

人格教育(後)

 

 学校が学力を養成するだけの場所なら、学習塾で朝から晩まで勉強したほうがよほど効率的ではないでしょうか。写真が登場して絵画が写実から解放されたように、学校も学習塾の普及・浸透によって、学力以外の教育目的をきちんと規定すべきだったのに、どうにも文部科学省のスタンスは曖昧なんですよね。家計格差もあるので、「テスト勉強は学習塾でやってね」と言い切れないのは分かるけど、少子化でとっくに大学全入時代ですぜ。もはや学校が学習塾と勉強で競合する必要はないと思いませんか。

 テレビを持つ国民からカネを徴収するNHKが、CMを収入源とする民放と競う必要なんてないのに、大河ドラマや紅白歌合戦の視聴率をひどく気にするのと似ていますよね。それより時間と経費がかかる精密な社会派ドキュメンタリーを作れよ。

 話を戻すと、学力養成が学習塾の「専権事項」なら、一般の学校で何を教えるのかとなります。そんなもん実に簡単で、社会に出た時に必要な最低限の教養と法律知識、それに礼儀やモラル、マナーや生活スキルではありませんか。その上で学業成績の良い生徒は大学を目指せばいい。

 大学進学率はどんどんアップしてきたのに、侵入禁止の柵を乗り越えて岸壁で釣りをしたり、河川敷では違法で危険なゴルフの打ちっ放し。バーベキューをやったらゴミを散乱放置なんていう非常識が目に余るほど増加してきたのは、ひとえに義務教育のせいだとボクは思っています。実質的に全入といえる高校も含めて、コミュニティの一員としての義務や責任がまるで教えられていないからです。家庭でもテストで高得点を取ったら小遣いを追加するとか褒めまくるなんて、バッカじゃなかろうかと。テストで少しばかりいい点を取るよりも、社会生活で不可欠なことを学ぶほうが大切だと思わないのかなぁ。自分だけが幸せになれる社会は、他者を不幸にするんですぜ。

 随分長くなりましたが、この文脈で、ボクは学校で人格教育をやるべきだと考えているわけです。たとえばリーダーシップですが、大人になってから知識や理論を学べば身に付くというものではないでしょう。危機的な状況になると、我先に逃げ出す政治家や社長や経営幹部は多いんですよね。そんな口先だけの人たちを部下が信頼するはずがありません。強制的に彼らを支配しようとしても、心の中は自由ですから、カゲで悪口大会となり、大切な時に組織がうまく機能しないなんてザラにあるじゃないですか。そのかわりに、上司が違法に懐を肥やしていたら部下も必ず真似をします。収賄や横領などの汚職がひとつでも発覚したら、必ずといっていいほど周囲に同じことをやっている奴がいますから。

 そんな環境で、幹部社員がナレッジマネジメントの音頭を取っても部下は動きませんよ。尊敬できるリーダーによって理想や目標と崇高な志をみんなが共有しなければ、モチベーションを喚起できるはずがない。そうした内面を高めるような教育が、この国は徹底的に欠けているように思います。だからこそ、道徳や倫理に反したことが平気でできる。自分の子供だって扱いに窮したら殺してしまう国だもんね。

 お上に唯々諾々と従う温和しい国民が多いだけに、指示すればみんなが言うことを聞くと思われているようですが、そうでない奴らも結構います。そんな連中が弱者を踏みつけるようなことをするから困るんだよな。「勝てば官軍」というのは明治初期だけの話ではないのです。

 面倒くさいので結論を急げば、ナレッジをマネジメントしようとするなら、その土壌となる民度を高めなきゃ無理でしょうってことなのです。特に責任と義務。そして問題発見や創意工夫を楽しく面白く感じるメンタリティが共有されていなければ、リーダーがいくら笛を吹いても、誰も踊りませんよ。

 リーダーシップも民度も、学力とはまったく関係ありませんから、やはり子供の頃から肌身に馴染ませていくほかない。そのためには教員自身が無私・公正・平等で、正義を希求する利他的かつ誠実な人格者でなければならないのですが、教員にそんな適性を求める学校なんて稀有でしょう。先生という仕事が聖職から教育労働者に堕したことも大きな理由なのかな。

 文部科学省では高大接続改革に執心しているようですが、とにかくボクは人格教育こそが1丁目1番地(って誰かが言ってましたよね)であると主張したい。英語の勉強なんかよりよっぽど大切で、ボクたち自身の役にも立つと思いますけどね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

2019年9月24日 (火)

人格教育(前)

 

 日本経済新聞の名物連載『私の履歴書』に野中郁次郎氏が登場しています。知識創造経営=ナレッジマネジメントで世界的に有名な研究者ですが、ボクにとって衝撃的だったのは『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(ダイヤモンド社)でした。日本が太平洋戦争を始めた理由に明確な定説はないようですが、なぜあれほどの負け戦を続けたのか不思議でならなかったからです。巷間いわれるアメリカとの物量差なんて敗戦後の大嘘で、開戦時の帝国海軍はアメリカを凌ぐほどの軍事力を保有していたんですよ。その謎を組織論と戦略論で明瞭に解釈・分析した同書を読んで、もやもやしていた胸がすっきり晴れ晴れするほどの爽快な感動を受けました。

 読んでいない人のために、ボクの得た結論だけを紹介すれば、日本の戦争は「プロジェクト」になっていなかったんですよね。このプロジェクトという言葉は、現代でもきちんと理解している人が少なくないようですが、達成目標と達成期間を明確に規定した計画のことです。ところが、日本軍がプロジェクトとして計画的に実行したのは真珠湾攻撃とキスカ島撤退作戦くらいで、どちらも期待に応える成果を挙げていますが、それ以外のほとんどは目標も期間もグズグズといっていい。だからこそ食糧や弾薬を運ぶ兵站が貧弱極まりないにもかかわらず、戦線が無際限に広がっていったのです。プロジェクトの中止、すなわち撤退や降伏時期を見誤ったおかげで、むざむざと広島、長崎に原爆を落とされることになりました。

 その一方で、野中氏に国際的な名声と栄誉をもたらした『知識創造企業』(東洋経済新報社)は、ボクが不勉強なせいか今ひとつピンと来ませんでした。その理念自体は分かるんですよ。これまでのマネジメントは専ら従業者の労務を外形的に管理するものでした。けれども、これからは従業者の創造的な思考を活性化しなければならない。なぜなら現代の仕事の多くは頭脳労働が占めているからです。これまでのマネジメントが身体的労働を管理するものとすれば、アタマの中の労働を管理するという意味で、野中氏はナレッジマネジメントを提唱したとボクは解釈しています。

 ごく簡単にいえば、もはやタイムカードで従業者のパフォーマンスを判断できない時代なのです。では、これまでのタイムカードに代わる管理指標をどう作るのか。そこのところがね、ボクはどうにも腑に落ちないのです。

 日本の労働時間は先進諸国に比べて異様に長く、このため生産性が低いという意見があります。しかしながら、その中身をチェックすれば、残業代目当てで居残るケースも少なくないんですよね。時給の高い深夜残業を繰り返して新築住宅を購入した猛者も実際にいるそうです。上司などに遠慮して早く帰れないという、ワケの分からない雰囲気的な事情もあるでしょう。安倍政権が標榜して挫折した「ホワイトカラー・エグゼンプション」も、それが背景になっており、近頃の「働き方改革」も同根です。月給でなく年俸にすれば容易に片付くことなのに、それがなかなかできないんだよな。近年はパワハラ的な過重労働で自殺に追い込まれた人も目立ちますが、そんなメンタリティを持つ社会で、果たしてナレッジマネジメントなんて可能だと思いますか?

 ボクは、社会学や経営学的な視点から知識創造的な労働を管理するのは不可能だと見ています。野中氏は「経営学はアート・アンド・サイエンスである」と唱えてきたそうです。アートは実践であり、サイエンスとは社会学や経営学、経済学などを指すと思います。ボクは彼とは違って、それらすべてが人間の労働をパフォーマンスとして外側から把握するものだと思うんですよね。そこに欠けているのは、意思や志といった人間の内的・精神的な「動機」ではないでしょうか。つまり、モチベーションの喚起こそがナレッジマネジメントの基本になると思うのですが、ボクは野中氏の著書からその方法論と評価に関するベンチマークを読み解くことができませんでした。それに代わって考えたのが、人文学によるリーダーシップなんですよね。経営学の関係者は嘲笑するかもしれませんが、AI時代だからこそ人間性=人格が重要になってくるんじゃないかなぁ。

 長くなったので、明日も続けます。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

 

2019年9月20日 (金)

入試改革(後)

 

「日本では多様化を趣旨とするAO入試や推薦入試が大学側の入学早期囲い込みの手段となり、かつこれら学生の学業不振が散見されたことが、今回の入試改革につながった。このため全般に入試の画一化が図られているが、これは時代に逆行している」

 今週の9月16日付け日本経済新聞朝刊に掲載された、国立情報学研究所・船守美穂准教授の寄稿の抜粋です。この寄稿によれば、アメリカはこれまでSATやACTといった全米標準テストの点数を大学入試判定の材料として利用してきました。ところが、近年になってこの点数の提出を任意とする動きが出ており、すでに千以上の4年制大学が標準テストを任意化する「テスト・オプショナル」を採用しているそうです。制度はいささか違いますが、日本でいえば、国立大学の受験に際してセンター試験を必須でなく任意とする感覚でしょうか。

 この「テスト・オプショナル」では、任意で大学に提出された標準テストの点数は参考にされるものの、2段階選抜や合否判定には使わないそうです。船守准教授は、その背景を次のように説明しています。
1)複数回数受験できる生徒に対し、受験費用が重荷となる層の生徒が不利
2)マイノリティーや親が大卒でないなど、大学に縁遠い家庭の生徒は受験テクニックに触れる機会が少ない
3)標準テストの点数でなくても高校の成績でおおむね判断できる

 ボクが昨日のブログで指摘したように、現在の大学受験は必ずしも公正平等ではないという認識が強くなり、志願者や合格者を多様化できるよう任意化が進められていると考えられるでしょう。日本でも2020年度から標準テストであるセンター試験が大学入学共通テストに変わりますが、英語4技能試験や記述式問題の追加など、要するに出題方法や内容が「改革」されただけのことで、入学者の多様化なんてまるで考慮されていません。前述した①から③までの背景はアメリカのみならず日本だって同じですから、どこの何を見据えた入試改革なのだろうと疑問を感じますよね。

 ドイツでも、大学入学の条件としてきた高校卒業証明を不問とする入学枠が拡大しているそうです。大学進学者が小学校高学年で選抜されてしまうため、こちらも早期から社会で働いてきた人に大学で学べる門戸を開いたということです。

 船守准教授による寄稿の結語は「今日の日本は少子高齢化の中で人手不足が言われ、大学は定員割れの危機にさらされている。大学に縁遠かった層を取り込み、適切な教育をして、社会に送り出すことが必要だろう」となっています。

 昨日のブログはいささかエキセントリックな論理展開としても、この意見にはまったく賛成です。日本の入試改革は相変わらず「志願者を落とすため」の制度ですが、欧米では様々な層の人たちを「受け入れるため」の入試制度に移行しつつあるといっていい。消費税を始めとして、悪いことは率先して真似するのに、良いことはちっとも真似しない。行政もボクたち庶民のメンタリティと大して変わりないわけですな。

 官僚が東大などの高学歴者で固められていることを考え合わせれば、やはり既得権を代々継承させていくつもりかなぁと、気分は暗澹としてきます。これは生物の進化にも逆行しているんですけどね。

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2019年9月19日 (木)

入試改革(前)

 

 絵画や版画、彫刻などの美術分野だけでなく、小説でも芥川賞が授与された異能多才の芸術家、池田満寿夫(1934~1997年)は、東京藝術大学を3回受験して不合格。断念したといわれます。こういうことを紹介すると「藝大なら5~6浪はあたりまえ」「16浪で合格した人だっている」と、分かったふうなしたり顔で言う人が必ず出てくるからイヤになるんだよな。

 東京藝術大学の関係者は、このエピソードを知って恥ずかしいとは感じなかったのでしょうか。「芸術」という高尚な名称を擁する大学のクセに、後に世界的に評価される芸術家を3度も入口で落としたんですぜ。もしもボクが学長なら「いったいどんな試験をやったんだ?」と入試担当者を問い詰めるでしょう。仮に池田満寿夫が多摩美や武蔵美を併願して入学していたら、歴史に残る超有名な芸術家をみすみす奪われたことになり、彼を不合格にした汚名とあわせて、その広報的&人材的な損失は甚大と言わざるを得ません。
 にもかかわらず、彼の才能を見抜けなかった不明を詫びるようなコメントを、少なくともボクは聞いたことがありません。むしろ逆に「アイツを落としたんだからウチの入試はすごいぞ」と、カゲで自慢している可能性のほうが高いんじゃないかな。ではお訊きしますが、いったい何人の卒業生が池田満寿夫ほどの業績を残しているのでしょうか。

 東京藝術大学は国立ですから、私立と違って文部科学省の直接的な管理下にあります。にしても芸術大学ですからね。国語や世界史など一般教科の点数が創作に及ぼす影響なんて微々たるものであり、ましてや噂されるようにデッサンが流儀に合わないから不合格にしたというなら、それこそ関係者を叱責すべき大失敗だと思うんだけどなぁ。

 もっと分かりやすくいえば、凡庸な学力優等生を100人合格させるかわりに、何千万人に1人の非凡な天才を3度もふるい落とした試験であることを、もっと深刻に受け止めるべきではないでしょうか。

 ところが、このように大学入試を考える人は極めて少ないんですよね。日本だけでなく韓国にしても、入試や各種の試験は難しければ難しいほど価値があり、その合格者も最優秀と信じられています。けれども、一般的な入学試験で問われるのは国立大学で5科目、私立なら3科目以下ですよ。そんな特定分野の学力を、ほぼ同時期一斉に実施されるマークシートのペーパーテストで評価する。単純な選択問題では誰でも高得点となって受験者を差別化できないので、必然的にヒネリや引っかけの多いクイズのような設問になってしまう。つまり、学力の審査というより受験者の順位付け、もっと明け透けに言えば、落とすための出題が入試の本質といっても過言ではないはずです。

 そんな入試に多数の受験者が押しかけるため、人気の高いブランド大学や医学部では1点2点の違いが合否を分けることになります。かくて見かけ上は難関化して選抜機能が働くとしても、合格者が不合格者より全人的に有能とは限らないではありませんか。ちょっとばかり点数を多く取ったからといって、そのこと自体が社会に出てからどれほど有意な違いになるかは体験的に分かりますよね。

 しかも、試験が難関化すればするほど、知識でなく出題に対応した解答テクニックが必要になってくるので、合格率の高い学習塾や予備校は満員御礼となります。つまり、今さら説明不要ですが、私立の幼・小・中・高校も含めて、親の経済力が子供の学力に大きく影響することになるわけです。実際に、東大生の親の6割以上は年収950万円以上というデータがあります。大学入試を近視眼でなく長期的かつ社会的に俯瞰すれば、およそ公正平等とはいえないんじゃないかな。

 衆知のように、2021年1月にはセンター試験に代わって大学入学共通テストが実施されます。文部科学省では、これを高校と大学における新しい教育を推進するための「入試改革」の始まりと位置づけていますが、これが果たして「改革」なのかなぁ。入試改革は欧米でも活発に進められているのですが、落とすためではなく、池田満寿夫のような才能を取りこぼさないことが主眼なんですよね。これこそが多様性の重視ってことではありませんか。

 またまたちょっと長くなったので、この続きは明日ということで。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2019年9月18日 (水)

歴史は繰り返す?

 

 ネクタイとスーツのラペル幅は、広くなったり細くなったりを繰り返してきました。ちなみにラペルとは、スーツなどで折り返されている部分の下襟のことで、上襟のほうをカラーと呼びます。ネクタイの幅(大剣)は、このラペル幅に合わせるのがバランス的に最も美しいとされるので、ごく簡単にまとめてしまえば、上着の襟幅に伴ってネクタイの幅も変遷してきたわけです。

 ボクが知る限りでは、第2次世界大戦の直前・直後はネクタイがすごく細かったと思います。1959年製作の映画『北北西に進路を取れ』に主演したケーリー・グラントは、細いネクタイを肩の上でなびかせながら複葉機から逃げ回っていました。日本でも、同時期に製作された人気喜劇映画『社長漫遊記』(社長シリーズとして1956年~70年まで)などを見ると、森繁久弥をはじめとする出演者は細めのネクタイを締めています。

 ところが、その後はどんどん幅が広くなっていき、70~80年代にテレビで大活躍した大橋巨泉は、幅広というより太いと形容したくなるサイズの派手なネクタイがトレードマークでした。バブル期には肩が余るラージサイズのブランドスーツが流行。それに合わせて幅広のネクタイが常識となったのです。

 それが2000年頃になると、今度は一転して「ナローネクタイ」と呼ばれる超細身が出現。それまでと比べたらまるでヒモのようなネクタイは、やがてビジネスファッションにも影響を与えるようになり、つい最近まで比較的に細目のネクタイが主流だったと思います。もちろんラペルが細くなるだけでなく、上襟と下襟のつなぎ目であるゴージラインも肩のほうに上昇。全体的にアクティブでシャープなイメージを与えるスタイルに変わってきました。これはスーツそのものがジャストフィットのスリムになってきたことが大きな理由だと思います。

 こうした移り変わりを振り返れば、次は再び広くなるんじゃないかと誰だって予測しますよね。実際に、数年前から某スーツブランドでは上襟も下襟も「ヒラヒラ」と形容したいくらい幅広の新コレクションを投入しています。これを購入したら、それに合わせて幅広のネクタイも新しく揃えなきゃいけないので、この段階でボクのスーツ・ショッピングは停止することにしました。もとより毎日スーツを着用しなきゃいけない仕事ではないので、いちいち流行を追っかけていたら、ボクの極小クローゼットでは間に合いません。

 しかしながら、襟やネクタイの幅は単純に細く・広くを繰り返しているわけではありません。現代の技術革新は布地などの素材や縫製も例外ではなく、それを背景としたファッションデザインも不断に進化・発展してきたと考えるべきでしょう。というわけで、歴史は必ずしも過去と同じように繰り返されるわけではなく、ざっくりひとまとめに俯瞰していたら大切な変化を見逃しますよ、と言いたいのであります。

 それにしても、人間という生き物は実に興味深いですよね。商学的な観点では、流行という目先を変えて消費を刺激すると説明されているはずですが、それだけではないような気がします。そもそも人間は「飽き性」なのではないでしょうか。だからこそ海や山を越えて地球全体に広がっていった。これを生存をめぐる闘争の結果と理解するのでなく、つまらない日常より死を賭した冒険を求めたと考えたいですよね。そうしたDNAを継承する人たちが先頭になって、ファッションを変えてきたのではないでしょうか。あ、月や火星を目指すのもそれと同じかな。常識を打ち破る勇気が必要なことも共通しています。

 だとすれば、やはり歴史は決して繰り返すことはなく、むしろ常に新しい地平線を目指してきたと解釈すべきだと思うのですが、いかがでしょうか。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2019年9月17日 (火)

見られる

 

 すれ違う人たちが、みんなボクを見ている。どうしてなんだろうと不思議に思ってきました。

   アカの他人に興味や嫌悪感を持たれるほど奇妙な風体をしているとは自分では思えません。もしかしてズボンの「社会の窓」が開いているのではないかと、慌てて股間をチェックしたこともあります。以前に閉め忘れたことがあるので、トイレから出る時は入念な確認を習慣にしており、そのあたりの失敗はないはずなんだけどなぁ。

 ファッションに関しては、あまり一般的ではないという自覚があるので、そっちのほうかなとも思いますが、誰もが凝視するほど奇天烈ではないはずです。ちょっとだけ目立つ程度ですから、原宿あたりの若者に比べたらおとなしいほうじゃないかな。

 となると、顔がかなりハンサム? いやいやいやいや、そんなはずは絶対にありません。このブログで度々紹介したように、実の父親から「お前は豚目だからな」と念を押されるくらいですから。鼻の隆起も人並みに低いしね。では体形=スタイルがものすごくカッコ良いかといえば、小学校の頃からずっと水泳部だったので、その可能性は必ずしも否定できなかったと思いますが(あくまでも過去形)、やはり現代の若い人の方が圧倒的に足が長くてスラリとしています。
 店舗のウィンドゥに自分の姿を映しても、とりたてて優れているところはどこにも発見できないのです。

 だったら、どうしてみんなボクの顔を見るのかなぁ。しかも、そのうち9割ほどが女性ですぜ。もしもボクの顔や体形やファッションに興味を持たれるような何かがあれば、もうちょっとモテてもおかしくないはずですが、そのような嬉しい経験なんてついぞありません。

 というわけで、様々な思考を巡らせながら街中を歩いてきたのですが、ある時に、まさに雷に撃たれたように、納得できる理由を見つけたんですよね。知りたいですか? どうしても、どぉしても理由を知りたいですか?

 では、教えてさしあげましょう。つまりですね、何のことはない、ボク自身が彼女たちを見ていたのです。誰でも他人の視線を感じたら、相手を見るではありませんか。つまり、見るという行為の反作用によって、ボクはみんなから見られていたのであります。

 美しいとか可愛いとか個性的とか、艶っぽい和服や薄手の夏服が似合うなど、ボクにとって好ましいと感じる女性から見られる率が高いことに気づいて、その仮説が深海からのあぶくのように急浮上したのであります。それを検証するために、意識して脇に視線を外すようにすると、あらま、見られる率もどんどん低下していくではありませんか。かくて仮説は真実として立証されたのであります。

 そりゃそうだよな。ボクみたいなオッサンを向こうから興味を持って見るはずがない。スマホでLINEに熱中している時以外は、女性は視線をレーダーのように周囲に飛ばしているのが普通です。ボクが照射した視線が、その哨戒活動にビビビっと捕捉されただけのことなんですよね。だから、チラ見で確認して「何だオッサンか」と言わんばかりに瞬時に視線が別のところに飛んで行ってしまう。そのプロセスに何の不思議もないので、こちらも「そりゃそうだよな」と。逆に見つめられたらドギマギするじゃないですか。

 ハイゼンベルグというドイツの理論物理学者がいます(1901〜1976)。1927年に「不確定性原理」を発見。“猫”で有名なシュレーディンガーと一緒に量子力学の基礎を確立したとされています。この「不確定性原理」があまりにも文学的な表現なので、面白がって関係書を読んだことがあるのですが、わずか5分で撤退。今もって何のことやらさっぱり分かりません。ただし、彼が併せて提唱した「観測者効果」というのは何とか理解することができました。量子力学が成立するミクロな世界では、観測者が見ることで対象となる系が「揺動」してしまうという理論です。ごく簡単に言ってしまえば、誰かが見れば、見られるほうも、その影響を受けて変化することを意味しています。

 理論物理学においては、この説明はある種の誤解らしく、それを避けるために近年はあまり使われなくなったようですが、こと人間に関しては「観測者効果」は確実に存在します。女性も男性も、見られることで美しくカッコ良くなるといえば、納得できますよね。その入口段階の理論が、ボクが発見した「見れば見られる」ってことなのです。

 と、何でもかんでも高尚な屁理屈にするところが文系の誇張癖または嘘つきにほかならない所以ですが、こうした人間の行動特性は、もっといろいろ理論化できそうな気がするんですよね。

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓
笠木恵司のブログ

 

 

 

 

 

 

2019年9月13日 (金)

遊べ!

 

 夏の終わりの恒例となっている某局の24時間チャリティ番組が大嫌いで、ここ10年間を合計しても数秒程度しか視聴していません。だったら意見なんて言えるはずないのですが、悔しいことに番宣というのがあるんですよね。CMの合間に内容の一部を不意打ち的に予告編として放映するので、否が応でも目や耳に入ってきます。それでね、やっぱり嫌いなんだと毎年のように再認識させられるのであります。

 いえね、この番組がもしも仮に視聴率狙いの偽善であってもいいのです。ボクは善も偽善も間に薄紙1枚を挟んだ程度の似たようなものと考えておりまして、むしろ実効に乏しい形而上的な善よりも、大枚の寄付金をドッカンと動かせる偽善のほうがよっぽど皆さんの役に立つではありませんか。

 だから、この番組の主旨そのものに反対するつもりは毛頭ありません。どんどんやっていただいて結構。そもそも日本では寄付の概念が海外より希薄なので、この番組を機に、ボランティアも含めて、他者のために何かをする満足感や充実感を知って欲しいとすら思っています。自分だけの喜びなんて、まるで大したことじゃないんですよね。

 にもかかわらず、どうしてボクはこの番組が大嫌いなんだろうと長く考えてきました。今では生理的なレベルに達しており、番宣だけで肌からブツブツが、って嘘ですけど、それくらい嫌いなのです。

 その理由がね、いくらか年寄りになったせいか、やっと分かってきたのであります。何のことはない、「頑張り」の直接的・間接的な強要に拒否感を覚えるんですよね。あまり文章が長いと飽きられるので結論を急げば、あのチャリティ番組は、みんなの「頑張り」を称賛することが基本的な制作理念なのです。それを過度に演出するあざとさが目立つせいか、ボクは時に「イタさ」として感知してしまう。
 
誤解して欲しくないのですが、頑張りを否定するわけではありませんよ。それで生きがいを得られるなら、どんどん遠慮なくやったほうがいい。でもさ、他者から「強要」されるいわれはありません。しかしながら、あの番組はストーリー的にも、雰囲気的にも、過度に「頑張り」を要求するのです。人気タレントによる意味不明の100キロマラソンが象徴的ではありませんか。

 頑張るのが個人の勝手なら、ダラダラのんきに生きるのも同じく個人の権利ですよね。なのに「頑張り」のほうだけを画一的に臆面もなく賛美してやまないところが大嫌いなんだと、やっと最近になって分かったのです。

 高齢者にしても、近年はアンチエイジングという生物学的には無理目の「頑張り」が求められるようになってきました。「ワタシ何歳に見える?」とか「筋肉増強に年齢は関係ない」といったワードも、ボクにはイタく思えてなりません。

 じゃ、年寄りはどうしたらいいんだ、ワタシはボクはどうすりゃいいの? って思いますよね。これはもう実に簡単です。頑張るのでなく、遊べばいい。遊び自体が社会道徳的に悪と見られてきたせいか、どうもボクたちは遊びが少な過ぎると思いませんか。遊びというのは能動的に自主的に人生を楽しむと言い換えてもいい。求められてやる、強いられてする、期待に応えるための頑張りとは、そこのところが根本的に違うのです。頑張りには心理的物理的な報奨が伴いますが、遊びにそんな利得はありません。だから純粋に、気楽に、何も期待せずに、遊ぶ。

 もっと簡単に言えば、ジーサンになっても必死で頑張らなきゃいけないなんて、ボクはイヤだなぁ。資産や年金の多寡ではなく、年を経た分だけ心に余裕があって然るべきです。そこから生まれるのが遊びとすれば、「年寄りの冷や水」よりはるかにカッコいいのではないでしょうか。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

2019年9月12日 (木)

クラプトン

 

 渋谷のメガドンキの真向かいに、7階建ての楽器店があります。

 中学1年でウクレレを弾き始め、中3からガットギターにアップデート。社会人になって念願のエレキギターを購入したくらいなので、この店の存在は昔から知っていますが、ギターがズラリと並んだ1階にチラリと顔を出す程度で、それより上に行ったことがありません。

 自分の音楽的才能に見切りをつけてリスナー専門になることを決意。ギターを押し入れの隅に片付け、カラオケにすら行かなくなって、いよいよ興味を失った店ですが、昨日はたまたま外国人をメガドンキに案内。その帰途に「どうしても中に入りたいよぉ」とグズるので(もちろん誇大な形容です)、仕方なく同行しました。彼は見上げるほどの巨漢ですが(前同)、ピアノを音楽スクールで本格的に学んでおり、ロンドンの自宅には電子ピアノもあるらしい。ついでに近頃はギターにも興味があるというんですよね。

 念のためにエレベータ脇に貼られた各階の表示を見てみると、7階すべてがギターで、それ以外の楽器がほとんど見当たりません。つまり、徹頭徹尾のギター専門店。そんなにもギターの種類があるのかといえば、いやいやこれがね、ウクレレも含めて、いろいろとあるんですな。特にヴィンテージとおぼしきエレキギターを並べたフロアが、特段に充実しているように感じました。何しろ高いモノで300万円近い値札ですぜ。新車が買えます。ボクはガットギターでクラシックばかり弾いていたので、エレキがガンガンのロック系にはまるで疎いのですが、それなりの故事来歴があるようですね。

 その外国人と一緒に「Oh!」とか「へえー」と溜息を漏らしながら各階を見て歩いているうちに、1枚の写真が目に止まりました。何と、誰あろう、かのエリック・クラプトンではありませんか。彼が店内でギターを品定めしているところを撮影したものだったのです。

 個人的には、前時代にあたるレス・ポールのほうが好きですけど、ともかく世界3大(日本人はこういう形容が好きですよね)ロックギタリストの1人と評価されるアーティストです。ちょっとでも洋楽(古いかな)を聞いた人なら名前くらいは絶対に知っている、簡単に言えばギターの神様ですよね。そんな超有名人が、お忍び(かどうか知りませんけど)で来訪する店であったのです。もしかしたらアルフィーの高見沢氏も常連だったりしてね。

 さすがは東京、渋谷だなぁと感心しましたが、ボク自身は管楽器に興味が移っており、指先が痛くなる弦楽器はもうやりたくないなぁ。もしできればクラリネット、あるいはサキソフォンを吹いてみたい。黒いケースからクラリネットをひょいと取り出して、ベニー・グッドマンか北村英治みたいに颯爽と演奏できたら格好いいですよね。

 以前にもこのブログで書きましたが、およそ文系というなら、せめて楽器のひとつくらいはこなせないと理系に申し訳が立たないと思うんですよね。大学生の半分が文系なのに対して、理工系はわずか2割程度ですよ。その彼らが生活を便利にする工業製品を開発し、生産に携わっているのですから、文系はせめて音楽や芸術分野で社会を楽しませなくてどおするの(ここ張本氏の言い方をイメージ)。プログラミングなんかやるより、ヴァイオリンとかピアノをやろうよ。

 仕事が人工知能と機械に置き換わったので、働き者のアリさんたちはすっかり失業。逆にキリギリスは冬も引く手あまたの人気だそうです。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

 

 

 

2019年9月11日 (水)

「べき論」を捨てよう

 

 一昨日に書いたメタル回線による固定電話の補遺ですが、電話機によっては停電時に使えなくなるものがあります。また、電話線自体が断線すれば、当然のことながら通話不能になります。電話線は電線と同じ電柱を共用していることが多いので、断線による停電時には電話もダメになることが少なくないようです。とすれば、やっぱワイヤレスの携帯やスマホかなとなりますが、災害時にはアクセスが殺到するので、やはり限度があります。

 何だよ、ちっとも便利ではないじゃないか。はい、その通りです。これまでに台風がどれだけ到来したと思いますか? そのたびに電柱が倒れて停電が発生。電話も使えなくなり、家屋が倒壊したり浸水したりする。それを嬉しそうに(とボクは感じますが)テレビは何度も何度も繰り返して報道する。さすがに昔のように大規模な被害はなくなったと思いますが、それでも生活インフラは相変わらず脆弱です。この21世紀に、成田空港で1万人以上が足止めなんてことがあっていいのかなぁ。それを強力な台風だけのせいにするのは、あまりにも無策だと思うんですけどね。

 ちょっと長すぎる余談でした。今回は「べき論」について書きたかったのであります。「こうあるべき」「こうすべき」という「べき」です。数学でも「冪」という言葉がありますが、ちょっとネットを調べるだけでアタマがクラクラしてきました。あくまでも文系の意味での「べき論」ですが、これこそが人間から自主性=自由を奪う元凶なんですよね。

 そもそも「べき論」は、思考や行動の指針であり、ノウハウでもあると同時に、社会規範の一種ともいえます。普通に考えても、こんな時はこうあるべき、あんな場合はこうするべきと規定したら、自分自身でいちいち意思決定する必要がなくなるので、ものすごく楽に生きていくことができます。
 あまりにも便利なので、それに慣れると、仕事などの手法やルール、礼儀やマナーなどはもちろん、個人的な生活スタイルまで「べき論」で固めるようになります。ファッションと同じで、たとえば靴は黒、ズボンも黒と決めてしまえば、選択に悩むことはほとんどありません。ボトムが黒なら上着はどんな色柄でも合うので、コーディネートを考え込まなくても済むわけです。

 それを続けていくと、「真面目人間」「堅物」あるいは「あの人はああいう人」などと呼ばれるようになります。それだけならまだしも、親や管理職など社会的な立場が強くなるに従って、他者にも同じ「べき論」を要求するようになるんだよな。これが様々な悲劇を生み出していくのであります。『ロメオとジュリエット』も、それを現代に翻案した『ウェストサイドストーリー』なんか典型的ではありませんか。

 そもそも「ぺき論」は社会や時代、世代や属性によって変わるはずですから、すべて一律に適用できるはずがない。そんなものがあったら改善・改革や進歩なんて不可能です。こんなことは誰でも客観的には理解できる道理ですが、無意識に「べき論」を強要していることに気づかないことがしばしばあるのです。

 ボクも例外ではないので敢えて言いますが、「べき論」の本質は思考放棄なのです。人間から思考力を奪ったら、機械や奴隷と同じですよね。だからさ、そろそろAIが幅を効かせる時代だからこそ、人間は「何でもあり」に転向したほうがいい。オッサンにとって若者は常に無軌道な「何でもあり」に見えるだろうけど、そんなことはありません。彼らにも彼らなりの「べき論」があるのです。

 この「ベき論」に囚われて自分を厳しく縛るようになると、世の中はどんどん窮屈になり、つまらなくなってしまいます。それに比べて「何でもあり」の明るさは地中海の陽光のように格別です。肩の荷をすっかり降ろしたような解放感が得られるんじゃないかな。

 これこそが、以前に紹介したスタンダードの名曲“Down by the river side”の真髄なんですよね。「川のほとりに行って重い荷物を捨てよう」。その荷物はかつて武器と弾薬でしたが、現代は「べき論」といっていい。

 息苦しいほど生きにくく感じて、時には死にたいと思うようになった時は、間違いなく「べき論」が自分の首を絞めているのです。「こうあるべき」と決めたのはほかならない自分自身なのですから、そんな規範は簡単に捨てられるじゃないですか。そして「何でもあり」の信者になりましょう。「何でもあり」なんだから、それまでの「べき論」に基づく公式や定理は利用できません。いちいち何でもかんでも自分で考えて判断しなきゃいけない。頼れるのは自分だけですから、不安や孤独に苛まれることもあるでしょう

 しかしながら、それこそが「自由」であり、そこからしか本当の幸福は始まらないと、ボクは思うんですけどね。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキング

 

 

 

 

 

 

 

2019年9月10日 (火)

ワイヤレスの首輪

 

 恥ずかしながら、スマホを利用するようになって10か月ほど経ちます。それまではガラケーだったので、世界観が変わるほどの衝撃を受けました。最初は電話もできる超小型パソコンと考えていたのですが、これは実にまったく牧歌的な感想であり、人類史上で最も畏怖すべき機械ではないかと今は思っております。いずれジョージ・オーウェルの小説『1984』に出てくる「ビッグ・ブラザー」のような支配者に成長していくのではないでしょうか。それを「まさか!」と一笑する人のほうが認識不足であると断言します。

 ボクがそんなことに気づいた始まりは、グーグルのスプレッドシートでした。体重管理に便利なので、ほとんど毎日記録していたのですが、ある時に「オフラインで使用可」なる項目を見つけました。つまり、このアプリは基本的にクラウドで運用されていたのです。内蔵メモリを使わないで済むというメリットはありますが、このクラウドをボクはあまり信用していません。だってさ、それによって蓄積された情報を管理者は自由に見ることができるじゃないですか。 

 現実に数年前だったか、ハリウッド俳優などがクラウドで保存していたプライベート写真が大量に流出。高視聴率のミュージカルTVドラマに出演していた女優のセックス写真もネットに晒されたことがあるのです。アメリカは訴訟社会なので、巨額の損害賠償が科されることを怖れたのか、それ以上の露出はなく沈静化しましたが、こうした漏洩があった事実を利用者は意識しておくべきでしょう。

 パソコンの場合はクラウドを利用しなきゃいいだけのことで、マルウェアを仕込まれたり、ハッキングされない限りはデータが外に出て行く心配はありません。パソコンはそもそもスタンドアローンで始まり、やがてネットと繋がっていったのに対して、スマホは最初からネットを前提として誕生しました。電話機だから当然とはいうものの、その出自が根本的に違います。
 このため、クラウドの利用はもちろん、セキュリティの頻繁なチェックや、アプリのアップデートなど自動で実行されることが少なくありません。パソコンでもネット経由で更新などの告知はありますが、最終的な意思決定はユーザーに任されており、イヤならアップデートしない選択も可能です。ところがスマホは自動的に実行されてしまうんですよね。もちろん「Wi-Fi接続時のみ」などと条件制限も可能ですが、ノートパソコンに慣れているボクにとっては、自分のスマホをいつも誰かが「勝手に」いじくっているように感じてしまうのです。

 それだけでなく「グーグルプレイ開発者サービス」は、「ユーザーの最新のプライバシー設定へのアクセス」などの情報通信を行うと説明されています。勝手にそんなことするんじゃねぇよとアンインストールしようとしたのですが、念のためにドコモに確認すると「様々なアプリの動作に影響するのでやめたほうがいい」というので諦めました。

 まだまだスマホの機能には疎いのですが、圧倒的な利便性と引き換えに、個人のプライバシーや意思決定の多くを管理者に譲り渡す機械であることは確かだと思います。敢えて分かりやすく大げさにボクの妄想を言えば、スマホはワイヤレスな首輪であり、それによって個人情報がどんどん抜き取られているのではないでしょうか。まだ「ビッグ・ブラザー」は姿を表していませんが、このままスマホが発達していけば、いずれ反逆者の首輪を締めつけることもあり得るとボクは睨んでいます。

 これがICT素人の単なる妄想や悪夢で終われば何よりなんですけどね。インスタで皆さんがワイワイ騒いでいるうちに、ビッグ・ブラザーは知らないところでますます巨大化しているような気がしてならないのです。

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓
笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2019年9月 9日 (月)

IP電話にしない理由

 

 マンション経由の光ケーブルと有線放送に接続しているせいか、ちょっと風雨が強いと通信が途絶。ケーブルテレビが視聴不可能になるだけでなく、インターネットにも接続できなくなってしまいます。

 今回の台風も例外ではなく、テレビなんかどうだっていいですけど、ネットまでアウトというのはすごく困るんだよな。事務所内はプリンタも含めて完全にWi-Fi化しているのですが、それを接続しているマンション側の中継機がダメになったら、無線だろうが有線にしても、どうしようもありません。復旧するまでかなり待たされることになります。

 初秋の台風シーズンには、4~5年に1回はこうした通信障害が発生しますが、固定電話をネット経由のIPにしている人も通話不可能になるので大変ですよね。マンションの1階に理髪店があるのですが、以前の障害時に「予約の電話が取れないので早く直してください」と管理室にクレームを入れていたのを聞いたことがあります。

ちなみにIP電話は停電時でも中継機が動かないのでアウトになりますが、メタル回線なら問題なく通話できます。電力が回線を通じて電話機本体にも供給されているため、局地的な停電の影響をまったく受けないのです。

 このメタル回線の維持にコストがかかるせいか、NTTではIPの普及促進に力を入れているようです。おかげで代理店による押し売りまがいのしつこいセールス電話が絶えないのですが、ボクは前述した理由から旧来のメタル回線に頑なにこだわってきました。通信料がいくら安くても、台風が来るたびにネットごと通信途絶ではどうしようもない。近頃はほとんどがEメールとなり、固定電話への連絡は極端に減少しましたが、それでも災害時のバックアップとして残しておくべきじゃないかな。

 セールス電話の話を聞いてみると、こうしたIPのメリットとデメリットをきちんと認識していないんですよね。彼らから「大丈夫ですよ」と何百回言われようが、現実に本日深夜からネットとケーブルテレビが途絶しており、IP電話も同じ状況のはずです。このリスクを説明しないのは重大な告知義務違反にならないのでしょうか。おそらく契約書などに小さな字で書かれているんでしょうけどね。

 ともかく、強い台風が来ようが、滅多にない停電時にも、ボクの事務所の固定電話は元気に生きています。どんなことでも、プランBまたはバックアップを用意しておくのが大人の常識というものではないでしょうか。

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

 

2019年9月 6日 (金)

リッチでないのに(後)

 

   もう一度繰り返しますが、天才と謳われたCMディレクターの杉山登志は、以下のような遺書を残して自死しました。

リッチでないのに
リッチな世界などわかりません。
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません

 日本のGNP(国民総生産)が西ドイツを抜いて世界第2位になったのは1968年。70年代に2度のオイルショックを経て、80年代は「バブル」と呼ばれる狂乱の金あまり時代に突入しました。杉山登志が亡くなったのは1973年ですから、ハッピーはともかく、日本社会は間違いなくリッチになりつつあったはずです。だからこそテレビや新聞・雑誌などの広告量が急増。同業他社との差別化のために、商品名を連呼する単純な広告ではなく、アーティスティックな創造性が求められるようになったわけです。

 そんな時代に彼のCMは高く評価されたので、収入もそれなりに上昇していったんじゃないかな。なのに、どうして「リッチでないのに」なのか、「ハッピーでないのに」と彼は書きつけたのでしょうか。あくまでも仮説に過ぎませんが、広告という表現が対象とする消費文化の虚妄に気づいたのではないかとボクは思います。モノやサービスだけで人がリッチでハッピーになれるとは限らない。けれども、リッチでハッピーな世界を描かなければモノやサービスは売れない。ほとんど幻想ともいえるような創造性が常に要求される仕事に、疲れ果ててしまったというのが妥当な解釈だろうと思います。

 いわば良心と仕事とのアンビバレンツというかジレンマが、彼の心を引き裂いたといえば分かりやすいかな。そして、この感覚は現代のボクたちも例外ではありません。カネやモノさえ豊かであればハッピーなのかという問いかけが絶えることはなく、このため必要最小限の「ミニマル」がトレンドになったり、「断捨離」や「サスティナブル」なんていう言葉も流行していますからね。

 しかし、そうした合理化や倹約でハッピーになれるかというと、それも違うんじゃないかな。カネ持ちになっても、ミニマルで断捨離でも、さらには田舎暮らしでもハッピーになれないのなら、いったいどうすりゃいいんだと思いますよね。

 その答えは実に簡単で、「自由」になればいいのです。イプセンが描いたノラが『人形の家』を出たように、あらゆる虚構や規制や支配から自由になることが、本当にハッピーになる第一歩ではないでしょうか。移り変わる流行やトレンドは、真夏の路上の逃げ水と同じで、決して追いつくことはできないため、常に欲求不満を感じさせます。他人と同じことをやっていれば安心ではありますが、自分の意思がないところに本当の満足があるはずがない。もしも誰かが間違った方向に行けば、みんな一緒に崖から落ちて死ぬことだってあり得ますよね。そのひとつが戦争ではないでしょうか。

 自分で選んだことであれば、失敗しても諦めがつきますが、人真似で失敗したら後悔と恥ずかしさは格別です。だから、人間は主体性を持って生きることでしかハッピーになれないんじゃないかな。他人のハッピーをそのままコピペすることはできないのです。

 自律的で主体的に何かを選び取ることができれば、それがどんなことであれ幸福感をもたらします。そのために、ボクたちは自由でなければならない。

 ただ、そうした自由や主体性にも「錯覚」があり、それを惹起させる「洗脳」もいたるところにあります。そんな中で自由と主体性を持ち続けるためには、批判的な思考力が不可欠です。ところが、敗戦後も旧軍の組織と支配体系を継承してきた日本では、批判力よりも従属と調和・適応、時には忠誠を教育してきました。それではハッピーになれるはずがない。

 何だか面倒くさいところに来てしまいましたが、要するに批判的思考が個人を自由に、主体的にする。それ以外にハッピーになる方法があるのでしょうか。いま気づいたのですが、生きにくい世の中を生き良くする方法でもあるんですよね。

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓
笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年9月 5日 (木)

リッチでないのに(中)

 

 昨日は「創作のいきづまり」なんていう厳しい言い方をしましたが、彼の遺書をあくまでも額面通りに読めば、「嘘をついてもばれるものです」という境地に達するのは不思議ではありません。

 ただ、1960年代から70年代の始めまで、彗星のように華やかに輝いて消えてしまったCMディレクターは、やがて活発化する消費文化の爛熟と、それが行き着く先のモノ離れみたいな現象を予感していたのではないかと思うのです。

 そもそも広告というのは、モノやサービスを売るために存在するわけですから、それによって人をリッチにしたり、ハッピーにするものではありません。そうした夢や幻を描いて購買意欲を刺激するのは事実ですが、たとえばポルシェに乗れば漏れなく若い美女がついてくるなんてことはあり得ないじゃないですか。けれども、広告制作者としては、嘘にはならないギリギリの夢や幸福を追求しなればならない。どんなに高価な化粧品を購入しても、ものすごい美人に変貌することは無理なのに、人気の女優さんやモデルを起用して、ある種の錯覚を感じさせるわけです。

 しかしながら、消費者も決してバカではありませんから、そんな虚構はお互いに織り込み済みなんですよね。ただし、クリエイターがそうした責任感みたいなものを背負い込むと、必然的に「ハッピーでないのに、ハッピーな世界は描けません」となってしまう。だからクリエイターのほとんどは、広告を見て消費者がモノなりサービスを購入したら、その後は「自己責任」と割り切るのが普通だと思います。虚偽や詐欺的な表現はもちろんアウトですが、高等な倫理や道徳を広告に求められたら、ありきたりのものに堕してしまい、まるで面白くなくなってしまう。自由と規律というか、創造性と社会的な責任感というか、そのギリギリの綱引きの中で広告や記事は制作されているといってもいいんじゃないかな。

 しかしながら、杉山登志は敢えて人間としての倫理感に深く踏み込み、やがて絶望を感じたのではないでしょうか。確かクレジットカードの広告コピーにあったと記憶しますが、「だからといって幸せにはなれません」と似ていますよね。ボク自身も、能力は彼に比べて圧倒的に劣りますが、たまに似たような絶望感に陥ったりします。ボクの場合は、何をどう書いても社会なんてちっとも変わらないじゃないか、ってことですけどね。

 でもさ、リッチになるのは無理でも、ハッピーになる方法はあるんだよな。

 残念ながら、本日は軽い熱中症になってしまい、体温が38度もあります。この項は再び明日に回すとして、少しだけ静養させてください。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

2019年9月 4日 (水)

リッチでないのに(前)

 

 今から40年以上前の1973年12月12日。あるCMディレクターが自宅マンションで首を吊って自死しました。杉山登志。数々の広告賞に輝く天才クリエイターが、37歳の若さで自ら死を選んだことは社会に大きな衝撃を与えましたが、ボクの心に深く刻みつけられたのは彼の遺書です。

リッチでないのに
リッチな世界などわかりません。
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません。
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは……とても
嘘をついてもばれるものです。

 若くて元気な人であれば、常に最先端の感性が要求されるクリエイティブに疲れ果てて重度の鬱に陥ったんじゃないかと考えるでしょう。それは間違った認識ではなく、この遺書を上っ面だけ読めば、彼の創作活動が精神的に行き詰まっていたことは明らかです。まだ社会に出る年齢ではありませんでしたが、将来はモノカキとして食べていけたらいいなと願っていたボクも同じように受け止めて、以下のように書きつけました。

リッチでないからこそ、リッチな世界を描こう。
ハッピーでないからこそ、ハッピーな世界を見せよう。

 杉山登志もきっとそれを目指していたはずです。こうした意志や目的がなければ、CMの制作なんかできるはずがない。けれども37歳というのは、創作活動でもプライベートでも微妙な年齢ですから、アイデアや意欲が減退したように感じられることもあるのではないか。だったら、優秀なスタッフを起用して制作を指揮するプロデューサーになればいいじゃないですか。あれだけの実績と名声を持つ人なら、無理なく許される転進であり、企業社会ではむしろ昇進=キャリアアップとなります。
 けれども、突然とも思える死を選んでしまった。彼をそうさせた深い理由や背景を、あの遺書から読み取るべきではないかと思うようになったのは、ボクがライターの道を本格的に歩み始めた頃です。

 高度成長期を経て活況を呈していた消費文化の虚妄を、うっすらと感じていたのかな。たとえばモータリゼーションにしても、本来はどこかに行くためにクルマを買うはずなのに、次第にクルマの購入自体が自己目的化していく。しかし、そんなことはまるで問題視されることなく、やがてモノが使う人のライフスタイルを語り始め、時には心を支配するようになってきました。これはバブル崩壊を経ても絶えることなく、現在も続いています。

 誤解されそうなので念を押しておくと、モノから様々な情報や感情を読み取るのは決して悪いことではありません。むしろ、モノに取り囲まれた社会では、賢く適切な選択が人生をより豊かに便利に健全にするといえます。しかしながら、モノを手に入れるだけでハッピーになれるはずがない。ましてや「夢」なんていったいどこにあるんだろうと、杉山登志は問いかけたのでないか。そのようにボクが感じ始めたのが、80年代なのです。

 ちょっと長くなるので、この項は明日も続けます。

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓
笠木恵司のブログ

 

 

 

2019年9月 3日 (火)

情報の押し売り

 

 まだヤフー・ジャパンが始まってもいなかった頃から執筆を開始し、1996年に大学のウェブサイト紹介本を出版したといっても、すぐに信じる人は少ないかも知れません。当時は回線の速度がものすごく遅く、現代をジェット機とすれば、赤ん坊のヨチヨチ歩きでしたからね。またまた大げさなと笑われそうですが、モニター一杯の大きくて重い画像をすべて見るのに30分もかかったことがあります。

 それに比べれば、現代の情報環境は快適そのもので、ほとんどストレスがありません。しかも、携帯電話でネットにアクセスできるんですから、わずか四半世紀で変われば変わるものです。と、ここまではいいことばかりですけど、便利になれば不愉快なことも増えるのが世の習いというもので、ジャンクメールがどんどん増加してきました。

 ボクの年齢がどこかでバレているのか、「バイアグラ、ディスカウント!」とか「今夜会えない?」という売春斡旋もどきを始めとして、「アマゾンのIDが使用停止になりました」といったフィッシング詐欺系まで、毎日30本以上を受け取ります。昨年まではすべて英語だったのですが、近頃は翻訳ソフトを利用したと思われる怪しい日本語も増えてきました。日本人ならちゃんと文章チェックをやれよ。

 たまに笑える和訳もあるのでご愛嬌としても、不愉快なのはSNSサイトによる交流の押し売りのようなメールです。ボクのような覗き見だけの会員を引きずり出して活性化しようとする、機械の仕業としか思えないメールがあるのです。ボクはこうした押し売りもどきのマーケティングが、大を百個くらいつけたいほど嫌いでありまして、その意図とは逆に「二度と使うものか」という意志がますます強固になってくるのです。

 無料のメディアなんだから、LINEのようにニュースやら商品宣伝を毎日受け取るのも仕方ないとはいえますが、B to C=ビジネスtoコンシューマーならイザ知らず、SNSの会員同士の交流を勝手に刺激しようとするのは、明らかに反則じゃないかな。ボクがとりわけ不快に感じているのがTwitterです。

 以前に、興味のあるアーティストがツイッターを利用していたので、公演予定を見ようとアクセスしたことがあるのですが、その本人のツイートがボクのところにやってきました。どうやってボクのメルアドを知ったのかなと訝しんでチェックしたら、そのアーティストが発信元ではなく、タイトルに「Your Highlights」とあるようにツイッター社が勝手にリツイートしたものではありませんか。ヘッダーを見たら、確かにTwitterとあって、宛先は自分、つまりボクです。

 あのさぁ、何でもかんでも拡散すればいいってものではないでしょう。リツイートというのも、良くは知りませんが、「受け取ったユーザーの意志」で他者に伝えていくのが原則ではないのかなぁ。これでは、人のツイートをツイッター社が勝手に別の人にリツイートしていることになると思うのですが。

 リツイートという拡散機能があるので、そもそも著作権は無視されているとしても、運営サイトが勝手に音頭取りするのは、いくら何でも禁じ手ではありませんか。それを許したら、意図的な世論誘導も可能になってきます。たとえば「韓国なんか大嫌いだ」というツイートをどんどん機械的にリツイートしていったらエラいことになりまっせ。あ、そういうことをもしかしたらアメリカの大統領選でやったのかな?

 これはもちろん憶測に過ぎませんが、最初は宣伝の押し売りから始まったSNSマーケティングが、かくのごとく世論誘導も不可能ではないことが分かってきたのは確かですよね。さらにはリクルートの「内定辞退率の無許可販売」という問題も勃発したので、そろそろ情報サイトの運営に関する厳しい法律を制定しておかないと、手遅れになりかねないと危惧します。

 ちなみに、ボクはメールとLINE以外にSNSはほとんど使っていません。コンビニなどでポイントカードを使ったことがなく、スマホも位置情報機能はずっとオフ。それで守った個人情報にどれだけの価値があるかといえば、そんなもん大したモノであるはずがない。けれども民主主義というのは、そうした個人の尊厳=情報を守るために先人が死を賭して勝ち取ったものだと信じております。

 そんなにも貴重なものを、おめおめと機械に譲り渡してなるものか。一般大衆をなめるんじゃないぜと、たった1人で気炎を上げているのであります。

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2019年9月 2日 (月)

他人の不幸は蜜の味

 

 地上波はほとんどニュース番組しか見ないのですが、日本は他国の内情を異常に気にする国ですよね。ヘタすると当該国自身より詳しいかもしれません。国内のニュースはほかにないのかよ。政治とか経済とか、大切なことはほかにいろいろあるはずですよね。特に政権与党が独断できる閣議決定にもっと厳しく目配りする必要があるんじゃないかな。

 たとえば現在は韓国の高官候補に関する醜聞がもっぱらの対象になっており、「他人の不幸は蜜の味」とまでは言わないにしても、その懐を窺うようなことをしていると感じるんだよな。「タマネギ男」なんて日本にもいるはずです。大昔にこれを「疑惑のデパート」と表現した野党議員がいましたけどね。今だって口利き疑惑から逃げて辞任した代議士を放置しておいていいのかなぁ。叩けばホコリがもっと出てくるような気がします。

 あまりにも不愉快なので簡単に終わりますが、日本在住のコメンテーター同士が隣国を巡って激しい口論をするなんて、ホントにバカみたいな話です。そんなことよりも、国益を損なうことなく紛争や摩擦を解決するために、国策として何をしたらいいのかってことを話し合うほうが建設的ですよね。にもかかわらず、あたかも某首相のお先棒を担ぐかのように、国民の憎悪を煽ろうとする。太平洋戦争がどこから始まったのかを知っているのでしょうか。これでは官僚たちの忖度を声高に批判する資格なんてありませんよ。

 日本が大嫌いとは言いませんが、こうした下品で姑息極まりない側面を見てしまうと、ますます好きではなくなってきます。「だったら出て行け」と怒りまくる人たちの狭量さも何だかなぁ。こういう人たちはトランプ大統領の移民排斥にも賛成なのでしょうか。

 ともかく、他人の顔色や懐を窺う以前に、国家も、ボクたち自身も、主体的にやるべきことは一杯あるはずです。それをテレビで討論すべきなのに、隣国の不幸やトラブルに飛びつき、微に入り細を穿つような報道を繰り返す。それこそポピュリズムの極みというべきでしょう。

 そういえば、台風や豪雨などで「もの凄い風と雨です!!」とアナウンサーが絶叫するテレビの災害中継が妙に嬉しそうに見えて仕方ないんだけど、ボクだけの誤解または曲解でしょうか。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

 

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »