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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2019年10月

2019年10月31日 (木)

スマホは本当に必要か

 

 またまたバカなことを言うと思われるだろうけど、スマホって本当に必要でしょうか、そもそもケータイって、そんなにも日常生活で役に立っているのかなぁ。

 物心がついた時から移動体通信(古いね)が身近にあった若い人たちにとっては、冷蔵庫やエアコンなどと同じで、それがない生活なんて考えられないだろうけど、電化製品が急速に普及したのは60年代ですからね。

 ボクの世代ではケータイ自体が特別なハイテクでした。外出したら公衆電話が普通。その当時を思い返してみると、そんなにも不便ではなかったと思うんですよね。小銭が必要なので、むしろ電話での会話は必要な要件だけに凝縮していたような気がします。ダラダラと電話で長話するのは、つきあい始めたばかりの恋人たちくらいでしょう。

 やがてケータイが普及し、テキストも打ち込めるスマホ時代が到来しました。そりゃね、単純に昔と比べれば便利に決まっています。特に台風などで被災した時には必需品といえます。でもさ、そんなことは年に数回あるかないかですよね。日常生活に限れば、ないならないで済むんじゃないかな。ジーサンの懐古話というのではなく、ケータイがあるから移動先からの会話が増え、スマホがあるから文章も頻繁に行き交うようになったのではないかな。つまり、なければないで生活できたのに、それがないと無理と思い込んでいるだけのことなんですよね。

 第一に、あんなものを持ち歩くのは物理的な負担と感じませんか。ボクは重くて邪魔だと思います。たまに事務所に置き忘れて買い物に行くこともあるけど、戻ってきた時に気づいたりしてね。

 ボクたちはスマホを便利に使いこなしているように見えますが、逆にスマホの奴隷になっているのではないか。そうした視点から物事を改めて見直してみることも必要だと思うのです。

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2019年10月30日 (水)

人間関係

 

 うーん、本当に人間関係って難しいですよね。別にケンカするつもりはないんですけど、感情の行き違いっていうのかなぁ。そんなことが結構ありますもんね。

 ある時から「ごめんなさい」だけで生きていく覚悟を決めたんただけど、なかなかそうはいきません。そのたびにドヨーンと暗い雲がボクのまわりに立ちこめて、「はぁ」というためいきを止めることができない。どうせオイラが悪いのさ、と居直っても、暗雲はちっとも薄くならず、むしろどんどん悲しい気持ちになってしまいます。

 そこに朝の寒さもあって、熱を出してしまったようです。弱いね。昔はこうじゃなかったんだけどな。というわけで、本日は終了。明日はちゃんとしたことを書きます。

 

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2019年10月29日 (火)

「カッコ良い」とは何か(後)

 

 本日は大きな締め切りを抱えており、理屈をこねる余裕はありません。よって、常々考えてきた結論からご紹介します。

 要するにね、「カッコ良い」というのはファッションや装身具なんぞではなく、おそらく「生き方」のことなんだろうと思うのです。

 今から100年前にドイツで創設されたバウハウスはモダンデザインのルーツとされますが、「形は機能に従う」をひとつの理念としていました。この言葉を借りれば、「スタイルは生き方に従う」てなことになるのかな。説明するまでもなく、どんな良い服装を着込んでいようが、平気で他人を裏切ったり踏みつけにしても恥じない、我が身大切な利己主義者がカッコ良く見えるはずがない。常に他人の後ろに隠れて、社会の風圧を避け、いつでも逃げられるような立場を選ぶ卑怯者も同様ですよね。彼らがいかにカネ持ちで、超高価な装飾を身に付けていても、そうした精神の貧しさや卑しさは隠しきれず、必ず漂ってくるものです。

 そんなわけで、ファッションなんてセンスではなく、ましてやカネでもなく、つまりは自分のスタイルであり、それは生き方を意味するということなのです。カッコ悪い生き方は、みっともないスタイルであり、それにもとづくファッションは空虚にしか見えない。カッコ良い生き方なら、確かな行動原理=スタイルとなり、何を着ていようがファッションもカッコ良くなります。「ボロは着てても心は錦」なんていう歌詞の歌謡曲がありますが、まさにアレなわけであります。

 ただ、現実的には「ボロ」を着ていたら、どうしたってホームレスまがいと誤解されます。人間はそれほどアタマがいいわけでも理解力に優れているわけでもないので、自分の生き方をスタイルとして表現していくことが、世間に対するコミュニケーションとなるのです。よって、自分のスタイルに合わせたファッションを選べと、こういうことになってくるんですよね。

 にもかかわらず、世のオッサンたちの多くはファッションに意識的ではありません。むしろ、ファッションにこだわる奴をバカにする傾向があります。お互いを無言のうちに分かり合える村社会ならそれでもいいでしょうが、未知の人たちが大量に棲息している都会や国際社会ではそうはいきません。貧弱なファッションは貧弱なコミュニケーション能力と同義であることにそろそろ気づくべきだと思うんですよね。

 ですから、ボクは時計なんて時間が分かれば十分という人や、服は寒暖を避けるものであればいい、と豪語する人を信用できません。だったら食事はエサかよ、家は屋根だけありゃいいのかと論争をふっかけたくなります。実際には、こういう人ほど「クルマなんてゲタがわり」と言うクセに高級外車に乗っていたりする。言っていることとやっていることが甚だしく乖離しているのも、ボクにはカッコ良いとは思えない。

 畢竟、自分自身に対する厳しさや客観性とともに気高い理想と志を持ち、他者に対する慈愛や配慮に満ちていることが、ボクの目指すカッコ良さなのです。けれども、いやはや何とほど遠いことか。だからせめても、着るモノや纏うモノくらいはちゃんとしていようと。それがね、ボクがファッションに意識的になった動機なのであります。

 もしもボクが仮に派手でオシャレに見えたのなら、牛後ではなく鶏口に立って、一身に風圧を受ける覚悟を表明していると考えてください。そんなふうには見えないか。ま、世間というのは往々にしてそんなもんですけどね。

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2019年10月28日 (月)

「カッコ良い」とは何か(前)

 

 若い男はどんな服を着ても似合うものです。Tシャツ1枚に破れたジーンズだって、脂肪の少ない筋肉質の肉体が包まれていれば、カッコ良く感じられるはずです。ボクはそっちのほうのケはまったくありませんが、着るものにこだわる必要なんかないのです。女性も同じで、化粧なんか最低限で十分ですよ。

 ところが、年齢を経てあちこちが老化し始めると、そうはいきません。Tシャツ1枚に破れたジーンズでは、たるんだ脂肪腹とハリを失ってぶよぶよの皮膚や、頭髪だけでなくあちこちに生えてきた白いものを隠しきれなくなってきます。姿勢も次第に悪くなってくるんだよな。こうなったら衣服、すなわちファッションをまるで気にしなければ、存在自体が他人迷惑な公害のようになりかねません。

 にもかかわらず、ファッション系の雑誌は男女ともに若い人向けが圧倒的に多いですよね。その理由は簡単で、若い人ほど異性を惹きつけるものを求めるからです。人間はクジャクと違うので、華やかな虹色の羽根に代わるものを纏わなければ、同世代との恋人獲得競争で目立つことができない。オッサンやオバサンだって本質に変わりはありませんが、配偶者がいる確率が高くなるので、求愛の切迫感は希薄になってきます。妻帯者なのに、やたら派手な格好をすれば、浮気でもするつもりかと疑われますからね。

 かくてオッサン並びにオバサンは恋愛の「上がり」なんだから、地味でも楽な服装でいいじゃんと言う人が多くなってきます。でもね、それは大きな間違いなのであります。
 第一に、前述したような経年変化による容色の衰えを隠すことができないじゃないですか。それだけでなく、ここが大きなポイントなのですが、老化と引き換えに蓄積されたはずの知性や経験、それに財力だって表現できませんよね。だから、オッサンやオバサンほどオシャレしなきゃいかんだろうというのが、ボクの考え方なのです。

  その意味では「ちょいワル」系のファッション雑誌と同根ですけど、やたらに高級そうな服や小道具を身に付ければいいってものではありません。それでは派手に着飾った蓑虫と同じです。では、どういうオシャレをしたらいいのか。

 あっさりと言い切ってしまえば、「カッコ良い」ってことでしょうね。けれども、流行に乗っかったトレンディならいいのか、はたまたレトロまがいのクラシックならOKなのか。そんな外側の姿形は、それこそ年齢や職業、地位などによって違ってくるので、ひとくちに言えるはずがない。トム・フォードの服を着れば007ダニエル・クレイグになれるわけがなく、ブリオーニにしてもアンソニー・ホプキンスになろうとするのは相当に無理目ですもんね。

 だったら、そもそも「カッコ良い」とはどういうことなのか。それをシニアなりにきちんと定義しておかないとアカンだろうと最近になって思うようになったのです。でもって、その結論を明日ご紹介しようかな、と。

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2019年10月25日 (金)

一歩先と半歩先

 

 相変わらず日本経済新聞『私の履歴書』を愛読しております。自慢話に辟易とさせられることもしばしばある名物コラムですが、IIJ会長による今回の連載は、黎明期のインターネットをめぐる日本社会の無理解や頑迷な保守性をきちんと描いており、共感することが少なくありません。

 当時は、インターネット社会の将来像がはっきり見えている人と、「何じゃそりゃ」という不勉強の人の間に、目も眩むほどの深い溝があったはずです。けれども、ビジネス社会でカネや権力を握っている人たちの9割9分は後者。彼らを説得して資金を調達しなければ、会社の発展はもちろん、日本の産業や社会もアメリカからはるかに遅れてしまう。そんな焦燥感がリアルに伝わってくる真っ正直な連載です。ひどい言い方を許していただけるなら、隻眼の国では両眼が見える人は障がい者扱いなんだよな。

 そんな社会で理解や興味を得るためには、一歩先ではなく、半歩先を行かなきゃいけない。メディア業界に入ったばかりの頃に、先輩からイヤというほどしつこく繰り返された言葉です。

「一歩先が分かる奴なんてそれこそ一握り程度。そんな僅かな人たちのために記事を書いても、大多数は理解できないどころか、反感すら持たれかねない。つまり雑誌が売れない。けれども、記事には興味や面白さを喚起する新味が不可欠。だからな、常に半歩先を見ろ。これは現実のビジネスでも鉄則だぞ」

 アタマの中では分かる理屈でも、それに逆らって、ついつい半歩先を越えた向こうを見るのがボクの習い性となりました。だってね、半歩先ではすぐにライバルが追随して競合状態に突入します。現実のビジネスでも、いずれ大資本が参入して先行者の優越性なんてたちまちなし崩しにされるでしょう。半歩先のオリジナリティはすぐにレッドオーシャンに突入するけど、一歩先ならしばらくはブルーオーシャンが続くともいえるわけです。

 ただし、一歩先の物事は、先輩が言ったように市場の支持を得るのが大変に困難です。現在ではビッグデータや人工知能が半歩先に来ていますが、10年ほど前なら「何のこっちゃ」だったはずです。

 では、アメリカはどうして科学や技術やビジネスモデルで世界の一歩先を行くことができたのでしょうか。それがね、ボクは多様性に対する理解だと思うのです。保守性自体は日本と大きな違いはなく、なくなったとはいえ差別も根強く残っています。しかしながら、様々な人種が共存する移民社会かつ競争社会ですから、一歩先を行く奴を偏屈とか変わり者と白眼視している場合ではありません。むしろ半歩先程度では、すぐにアジアに追いつかれるという焦燥感も強いんじゃないかな。

 グローバル化によって、いずれ日本も同じようなメンタリティを持つことになるはすですが、それまでに死屍が累々。彼らに合掌する人もきっと一握りでしょうから、みんなに成り代わって、ここに謹んで追悼の意を表します。かの宮沢賢治だって、作品が評価されたのは死後だもんね。

 

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2019年10月24日 (木)

同質社会

 

 こういう「国民的イベント」があると、CSやBS放送に加入していてホントに良かったと思います。

 ヘンに勘ぐられないように大前提から説明しておくと、ボクは天皇制に対して、特定の政治思想にもとづく批判的な意見は持っていません。残念ながら近しいお知り合いでもないので、好き嫌いを言う資格もありませんが、おそらく国民の多くが遠い親戚のように感じる存在なんだろうなと考えております。

 この民主主義社会で、職業選択の自由が憲法で高らかにうたわれているにもかかわらず、血族だけに基づく地位や職業があっていいのかとは思いますが(どんなに努力しても血族以外の人はなることができません)、フランス革命やロシア革命のように過激なやり方で排除するのも酷い話ではあります。グローバル化の現在では、王室を持たない国にとって、むしろ羨ましく感じられる伝統といっていいかもしれません。

 ただし、代表取材だか何だか知りませんが、同じ時間にテレビの全局が一斉に同じ映像を流すかなぁ。こういうところがね、ボクはものすごーく大嫌いなのであります。繰り返すようですが、十二単を着た古式ゆかしい儀式を批判するわけではありません。あんな面倒くさいことを、悲惨な敗戦を挟みながらも、今日まで延々と続けてきた日本はなかなかのものだなぁと感心すらします。

 しかしながら、全局が同時に全国に向けて放送するほどのことでしょうか。法律的には「象徴」と位置づけられているので、その地位を次世代に継承する儀式は基本的にパーソナルなイベントじゃないのかなぁ。それをあれほど大々的に放送するなんて、テレビ局の公共性に問題はないのでしょうか。

 それはともかくとして、こうした「国民的イベント」があるたびに、ボクは日本の同質性が剥き出しになるように感じます。初めは露わになると記したのですが、そんな穏やかなレベルじゃないもんな。そこのところがね、ボクは生理的に不愉快なのです。こういう人もいればああいう人もいる。あんな考えもあればこんな考えもある。こんなことを知りたいという人がいれば、あんなことを知りたいという人がいる。そうした多様性の尊重が現代社会の課題だと誰もが、政府ですら指摘しているにもかかわらず、このありさまだもんね。

 というわけで、テレビの地上波は諦めて、ずっとCSを見ていました。それに飽きるとBSのWOWOWとかね。こんなふうに感じるのは、ボクだけかなぁ。

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2019年10月23日 (水)

追従笑い

 

 どうもね、ボクは交流能力に欠けたところがあるらしく、みんなが揃って和気藹々という雰囲気になると、理由もなく逆らいたくなります。若い頃は論議をふっかけることが好きだったので、その名残なのかな。でも、皆さん、安心してください。フリーランスで仕事を長く続けると、さすがに角が取れてきたらしく、みんなと一緒にヘラヘラと笑顔になることにも抵抗はなくなりました。

 けれども、今でも苦手なのが「追従笑い」というヤツです。こんな言葉がホントにあったかなと調べてみると、ちゃんとgoo国語辞書にありました。「相手の機嫌を取るために笑うこと。そのような笑い方」と解説されております。ものすごいおエライさんと食事などを同席した時に、その人がちょいとした冗談を言った瞬間に、周囲が爆発的に笑うというような状態です。たとえば、ちっとも面白くない、むしろくだらないダジャレなのに、ここぞという感じで、みんなが競うように大きな笑い声をあげる。これがね、ボクにはどうしてもできない。むしろ顔をそむけたくなるのです。

 さらに、どうでもいいような無駄話や世間話というのも苦手なんだよな。話のテーマがふわふわと空中を流れて、それがどんどん飛び散らかっていく会話のことです。ライターという仕事柄なのか、ボクは話というのは必ず落としどころかなきゃいけないと思っているのですが、どこにも着地することなく、ダラダラとあちこちに行き交いながら延々と続く。そりゃそうです。決着をつけようとすれば、会話というより議論になってしまいますからね。そうした摩擦を避けながらも、他人との交流を続けるためには、結論には決して至らない「どうでも良さ」が必要なのです。

  そうした「どうでも良さ」をお互いに共有した会話が、主賓を中心として軽度の台風のように渦巻く。これがボクにとっては不毛な時間に感じてしまうのです。このため、自分がポツンと孤立した印象を自覚することもしばしばあります。協調心のない偏屈な野郎だと思われたこともあるでしょうね。

 でも、場を壊すつもりなんてまったくないんですよ。みんなが仲良くしているのを妬む気持ちもありません。むしろ、雰囲気を邪魔したり阻害しないことを強く意識した結果として、ニタニタしながら言葉を抑えているのであります。ボクがそんな顔をしていたら、生き方がヘタな奴だなぁと哀れに思ってください。だからこそ、営業系を早期から断念して、引きこもりも可能な仕事を選択したのであります。

 

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2019年10月21日 (月)

飲酒と外食

 

 つい最近になって気づいたのですが、酒をあまり飲まなくなってから、外食がめっきりと減りました。これって相関関係にあるのでしょうか。

 酒を鯨飲していた頃は、朝メシはほとんど抜きで、昼はたいてい外食。夜も居酒屋またはワインバーだったので、1日に2回は外食を利用していたことになります。ところが今では、松屋の豚丼ですらテイクアウトですからね。店に行って食事が出てくるのを待つこと自体が面倒くさいと感じるのであります。

 かといって自炊が増えたわけでもありません。大酒飲みだった頃は妙なところにこだわるグルメで、タラコのスパゲティに凝ったこともあります。茹でたスパゲティにほぐした生タラコを絡めるだけでなく、それを炒めるというワザも発明しました。あえるだけの調理に比べて、タラコの生臭さとベタベタ感がなくなり、カラリと乾いた味わいを楽しめるんですよね。梅干しも自作を3年くらい続けました。あれは簡単にいえば「梅の塩漬け」ですから、みんなが思うほど難しいものではありません。紫蘇も自分で塩を擦り込み、鮮やかな赤を発色させてから梅と一緒に漬け込んでいました。

 酒をあまり飲まなくなると、そういうことも次第に縁遠くなったので、要するにグルメではなくなったようです。塩や醤油もあまり使わなくなったかな。これはおそらく煙草の影響だと思います。喫煙していた頃は、田中角栄もかくやというくらいしょっぱさを増量しないと味が分からなかったですからね。

 してみると、煙草と酒はやはり怖しい存在というほかありません。それでもたまに煙草が欲しいなと思う時があるので、よくは知りませんが、どちらも覚醒剤並みの依存性があるんじゃないかな。けれども、そうしたニコ中やアル中に近い状態から離脱してみると、ボクだけに限ったことかもしれませんが、どういうわけか美食に興味がなくなったのです。もちろん旨い拙いは感じても、美味を積極的に追求する気構えというか意欲が乏しい。これでは人生、ちっとも面白くないじゃないですか。

 あ、それでナマの音楽が聴けるライブハウスを行きつけにしているのかな。というわけで、酒と煙草をやめたのに貯金はちっとも増えないんだよな。うーん、残念!

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2019年10月18日 (金)

距離感

 

 一人っ子で育ったせいか、子供の頃から悩みのタネだったのが人との「距離感」です。初対面にもかかわらず、平気で他人の肩に腕を置くなんてことができる人がたまにいますが、ボクには絶対にできない仕種です。ある研究によれば、半径50㎝が「排他域」と呼ばれる一般的な限定空間であり、その中に踏み込まれると人は不快と感じるそうです。

 ボクの場合はもっと広くて、半径70㎝くらいかな。前や左右だけでなく、背後でも近いのはイヤなんですよね。お前はゴルゴ13かと言われそうですけど、このためラッシュアワーが若い頃から大嫌い。それが早くから独立した理由のひとつでもあります。

 こうした物理的な距離感だけでなく、心理的な距離感もありますよね。最近は減ったと思いますが、昔は人の名前を呼び捨てにする人が多く、それが親愛の情とも受けられていました。利害が無関係な学生時代の友人や先生はまさにその意味なのですが、社会に出てから姓名の呼び捨てはないだろうとボクは思うんですよね。特に女性は会社で「おーい順子」などと呼ばれたら、「私はあなたの恋人でも奥さんでもありません」と抗議したくなるはずです。

 そんなことに気づかされたのは、初めて入った会社の先輩でした。みんながボクを呼び捨て、あるいは「クン」付けにする中で、その人だけはボクを「さん」付けで呼んでくれたのです。ひと回りも上の年齢なのに、どうしてですかと訊くと「同じ仕事をしているんだから当然じゃないか」とあっさり。それだけでボクは彼のファンになりました。

 ただ、こうした距離感は関係を冷たくしたり、反発を感じさせることもあるので厄介なんですよね。昔から「つかず離れず」とは言うけど、それってどの程度の距離感なのか、今でもボクは分かりません。取材の場合は初対面の人がほとんどであり、敬意を積極的に示して「あなたの味方ですよ」という印象を与える明確な目標があるので、あまり問題を感じたことはありませんが、それでも馴れ馴れしく感じられたら逆効果になってしまいます。不動産や株などの電話セールスでたまにそうしたタイプの人がいますが、誰か注意しないんですかねぇ。特殊詐欺なんかは、むしろ馴れ馴れしい態度が好ましく感じられるポイントになるのかな。

 というわけで、この距離感に日夜悩まされているといっても過言ではないのに、ピラミッド状に権力が積み上げられた組織社会では、上に昇れば昇るほど、そんな葛藤から解放されるようです。部下をセリフ抜きのアゴで使ったりする人がいますからね。会社内だけならまだしも、そういう態度は、役職や地位とは無関係なはずの社会生活にも滲み出てくるんですよね。

 ある事情で、柄にもなく銀座のバーを行きつけにしていたことがありますが、ある常連さんがそんな態度だったのです。何しろ注文する時に「おいっ」ですもんね。オッサンらしいオーバーサイズのグレースーツにネクタイですから、地味すぎて反社会方面の人には見えません。グラスやツマミが運ばれてきたら、黙ってテーブルの所定位置らしいところを指さす。さらに、扉が開いて新しいお客さんが来ると、ママにギョロ目を向けて、「客だぞ」と言うかのようにアゴで示すわけです。もしかして口がないのかなと見てみると、ちゃんと鼻も唇もあるんですけどね。

 もしかしたらオーナー、あるいは出資者かも知れませんが、であればそんな常連面を見せたら客が減ることくらいは分かるはずなので、きっと違うだろうなぁ。言葉抜きのエラそうなジェスチャーだけで指示が理解される関係を、ママとの親愛の証またはディープなコミュニケーションと考えていたのでしょうか。とすると、リアルな意味でママに甘える子供と変わりゃしません。そんなネオテニーな人(ネットで調べてください)が仕事で大成するはずはないので、親から受け継いだ途方もない資産があるのかもしれない。なんてことをあれこれ想像させる人でありました。今もお元気でしょうか。

 えーと、この話に結論がないわけではなく、AI時代が深まれば深まるほど、って秋のことかよと笑われそうな動詞を使っちゃいましたが、人間同士の距離感のみならず、機械と人間との距離感も問われることになると思うのです。機械が作る音声が人間に近ければ近いほどいいとは限らないですよね。すぐにAIだと認知されるような伝達方法の中で、どうやって親近感や安心感、そして信頼関係を構築すべきか。近々にAI心理学という分野が必ず生まれるとボクは予言します。こうした新分野は早い者勝ちですぜと、学者並びに評論家の皆様に言いたいわけですね。

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2019年10月17日 (木)

SHISHAMO

 

 月曜日の午後に何気なくテレビをザッピングしていたら、3人の若者が演奏している画面が眼にとまり、というより耳がキャッチました。独特の旋律にもかかわらず、妙に心地良いサウンドなんですよね。いったい誰だよと番組タイトルをチェックすると、「NHK全国学校音楽コンクール中学校の部」とあるじゃないですか。

 おいおい、中学生でこのレベルはハンパじゃないぜと驚愕。身を乗り出すようにして見直すと、ボーカル&エレキギターに、エレキベース、それにドラムスの3人ユニットで、全員が女性。ドラムスだけは性別がすぐに判断できず、しばらく観察して女性と確認したんですけどね。歌詞やメロディに説明しがたい不思議な魅力があるだけでなく、演奏も相当にイケています。特にギターのリフが上手で、ドラムスも実にカッコいいインパクトがあります。

 ものすごい逸材を発見したぞ、と頭から湯気が出るほど興奮して調べてみたら、彼女たちはコンクールの出場者ではなくゲストであり、課題曲『君の隣にいたいから』を歌っているSHISHAMOというプロのロックバンドではありませんか。しかも、すでに十代を中心に圧倒的な人気があるそうです。いやはや何だよと、いささかがっかりすると同時に、そりゃそうだよなぁと、深く納得しました。あはははは、アホバカと無知は敵なしですよね。

 いずれにしても、『君の隣にいたいから』は、子供が大人に成長する直前の中性的な雰囲気が漂っており、友情以上で恋心未満という甘美な酸味を伴う世界観が若い子たちに支持される理由ではないでしょうか。たいていの歌はエロスが直接的あるいは間接的に見え隠れするのですが、この歌はちょっと違うんだよな。どこで息継ぎしたらいいのか切れ目が曖昧で、よくある風景描写もほとんどありませんが、その分だけ、胸をドキドキさせる心象にキラキラと輝く言葉を与えています。

縦結びになったスニーカーの紐
直すこともせず
今日もただ歩いている
だらしない私の隣に
背筋の伸びたいつもの君

 いやぁ、素晴らしいイントロです。「君」が男の子なのか女の子なのか、最後まで分かりませんが、それでも2人の関係と片想いのように憧れる心情がきっちりと表現されています。これを作詞・作曲して歌っている宮崎朝子さんは並大抵の才能ではありません。誰かに紹介されたわけでも、雑誌で見たわけでもなく、自分自身で彼女たちを発見したボクもエライだろと言いたいところですけど、そんなの自慢にも何もなりませんよね。ともかく、久々の逸材に出会った僥倖を感じます。

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2019年10月16日 (水)

受容

 

 日本経済新聞の名物コラム『私の履歴書』にIIJの鈴木幸一氏が執筆しています。IIJとはインターネット・イニシアティブ・ジャパンの頭文字で、要するにインターネットプロバイダーのハシリですが、同社が1994年3月に郵政省から事業許可を得た頃は、何のことやらよく分からんという人が大多数だったんじゃないかな。

 ボクは1996年に日経BP社から『学んで! 遊んで! 役に立つ! インターネットキャンパス 欧米100大学ホームページ徹底活用法』という単行本を出したので、もちろんIIJの名前は知っていました。プロバイダーに接続しなければウェブサイトが開かないですから。これはNTTを上回る通信インフラに成長するというオボロゲな予感はあったのですが、『私の履歴書』によると想像以上にイバラの道だったようです。可能性や将来性は理解されても、いざ出資を募ると尻込みされてカネが集まらない。会社の運転資金もギリギリでカツカツの低空飛行を続けた後に、晴れて郵政省から「ゴーサイン」が出たのですが、それでも「インターネットは面白いが、なかなかカネにならない技術ですね」と嘲笑されたそうです。「いや、近いうちに御社のシステムもネット上で動く日々が来ます」と言い返すと「そんなの夢物語ですよ。もしそれが現実になったら、銀座を素っ裸で逆立ちして歩きます」と豪語されたというから、呆れるほどの頑迷さなんですよね。そのくせ、今になってもボクは裸で銀座を逆立ちして歩く人を見たことがありません。

 先進的な技術に対する無理解は、ボク自身も体験しました。前述の自著には「インターネットで学位や単位を取る」という章を設けたのですが、「そんなのウソだろ」「あり得ないよ」とまるで信用されなかったのです。ボクは学者でも研究者でもない単なるライターですから、そもそも権威がない。権威がなければ、どんなに新しいことを言っても発見しても、世間は眉唾として捉えてしまうようです。だったらミエミエの詐欺にどうして引っかかるんだよ!

  正直言えば、ボク自身も「ホントかな」と何度も調べ直したくらいですが、現在ではネット経由の通信教育や授業の配信なんて常識になっております。小さな声で謙虚に心の中で「ざまぁみろ」でございます。

 それだけなら個人的な恨み言になってしまいますが、本日の連載では「ネット草創期の90年代以前は、閲覧ソフトや米ヤフーの検索エンジンなど、ネットをめぐる戦略的な技術が次々に登場し、その中からデファクトスタンダード(事実上の標準)が生まれた時期だ。ここで開いた差は簡単には取り戻せなかった。(中略)我が社にとっても日本全体にとっても大きな損失だったと思う」と結ばれています。

 何しろ25年近くも前のことなので、この頃に財務や投資関係を牛耳っていた要職者のほとんどは引退または泉下の人になっており、その責任を問うことができません。かくて、この分野は今もアメリカの後塵を拝しています。こうした頑迷な保守性は少しでも変わったんでしょうかねぇ。

 

 内田樹氏は、そうしたメンタリティを、世界のどこかに中心を求めてやまない辺境の民の特性と位置づけています(『日本辺境論』新潮社)。でもね、それってあまりにもキレイ過ぎる解釈じゃないかなぁ。あくまでも憶測ですが、IIJの鈴木氏にとっては「臆病者の集団」に見えたのではないでしょうか、ボクもちょっと前に書いたように「2番手主義者」ばかりの国に見えます。とにかくね、変化を病的に怖れるんだよな。そのかわりに、これは新しいとお上からお墨付きをいただいた物事には競って飛びつく。だから本当に革新的なことには興味を示しつつも、後ずさりして距離を置くわけです。

 ボクが若い頃に、チーズたっぷりの本格的ピザが日本に上陸しました。それまで日本人が食べたことのない料理です。名古屋の繁華街に専門店ができて話題になっていたので、ボクも試してみようと出かけました。すると店舗の外はまさに黒山の人だかり。これではかなり待たされるだろうと店内を覗いてみれば、何と客はまばらでガラガラではありませんか。黒山の人だかりは、ウィンドーに顔をくっつけるようにしてピザを食べている様子を見ていただけなのです。興味があるなら率先して食えばいいのに、それはやらないんだよな。誰かが食べた感想を丹念にチェックし、やがて本格的に普及し始める頃になって、いかにも自分が先駆けて食べたような顔をする。

 こうした卑怯な態度はピザだけじゃないですよね。最初は怒りにも似た感情を持ちましたが、近年は刀折れ矢が尽きたというのか、「死の受容プロセス」の第5段階に達しております。これはエリザベス・キューブラー=ロスという精神科医の分析によるもので、人間はガンなどによる死の告知を受けると、「否認」「怒り」「取り引き(神仏などにすがる)」「抑うつ」を経て「受容」に至るそうです。

 どうしようもできないことであれば受け入れるほかないので、ボクはそんなプロセス=葛藤の分析に意味があるとは思えません。最終段階となる「受容」が、果たして両腕を広げて迎え入れるようなものなのか、あるいは勝手にしやがれとふて腐れた諦念なのかが大問題なんじゃないかなぁ。ちなみに、日本の臆病な保守性に対するボクの感想は後者です。ああ、またしても愚痴を言ってしまいました。こんな後ろ向きは自分でも愉快ではないので、今後は愚痴めいた結論を厳禁といたします。ちょっとずつにしても、外圧やIIJなどの先駆者、それに孫さんたちのタイムマシンビジネスのおかげにしても、日本は遅ればせながら変わってきました。それを是としなければ、絶望という小道に入り込んでしまいますからね。

 この絶望を回避することが「受容」の大きなポイントだと思うのですが、それってキューブラー女史の理論に含まれているのでしょうか。

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2019年10月15日 (火)

ワイシャツ

 

 これまではカジュアルスタイルが多かったので気づかなかったのですが、白のワイシャツって実に便利ですよね。ワイシャツとはホワイトシャツの略なので、「白の」を付け加えると「馬から落ちて落馬」ですけど、色物や柄物より圧倒的に使い勝手に優れていることが今頃になって分かったのであります。

 そもそもボクの性格は大変にねじくれておりまして、極めつけの凡人のクセに、みんながやっていることには常に背を向けてきました。シャツも、みんなが白を着ているという理由で白を着るのでなく、だからと逆らって色物や柄物を選ぶ。にもかかわらず、ボクはギリギリのVANジャケット世代なので、ボタンダウンばっかりというのがちょっと情けないですけどね。
  いずれにしても、本来的な意味のワイシャツなんて、中高年になっても冠婚葬祭用として1枚しか持っていませんでした。年齢的に結婚式は縁遠く、葬式が2日連チャンで続く確率も相当に低いので、クリーニングに出す余裕はあるはず。とすれば2枚も必要ないじゃんかと。

 ところが近年はバーティやレセプションにご招待されることもあり、ドレスコードがフォーマル系の場合は白いシャツが必須となります。しかも、ボタンダウンは出自がスポーツカジュアルなのでNG。このため白系のシャツが少しばかり増えてきました。

 そんな経緯で白を着慣れるようになると、その便利さが体感できるようになったのです。何しろ白は相手を選びません。ダーク系のスーツやジャケットの場合は、よほどの柄物でない限り、どんな色のシャツでも基本的にフィットしますが、ネクタイはそうはいかない。シャツの反対色を合わせてしまうと眼がチカチカしたりして他人様に迷惑をかけることになります。柄物の重ね、即ちパターン・オン・パターンも相当なファッションセンスが必要。ところが白いシャツなら、何でもドーンと来いなのです。無彩色、つまりモノトーンですから、どんな色や柄のジャケットやネクタイでも、およそ不似合いということがありません。

 しかも、白いシャツは清潔感が抜群なんですよね。ブルーやオレンジなどの色物や柄物と見比べれば一目瞭然。白のほうが誠実で信頼できる印象を与えるじゃないですか。特に夏場はブルー系のジャケットと合わせると抜群の威力を発揮します。白が素晴らしく映えるんですよね。

 ああ、だからビジネスではスタンダードなのか、って、いかにも遅すぎだよなぁ。ファッション雑誌や誰かに教えられたわけではなく、自分で発見したということだけは救いですけどね。

 ただし、白いシャツの利便性に慣れきってしまうと、どんな時でもこれさえ着ておけば問題ないという思考停止に陥る危険が伴います。たとえばデートの時に、ビジネスシーンと同じ白いシャツでいいのでしょうか。さすがに赤とは言いませんが、ちょっとだけ派手目な色や柄のシャツを合わせるのが、彼女に対する敬意であり好意の表明だとボクは考えます。もしも仮にコーディネートを間違えたとしても、彼女との出会いを大切にしているというメッセージにはなるでしょう。いつもの白シャツでは特別感がなさ過ぎで、彼女を失望させると思うんだよな。これはデートに限らず、パーティなどでも同じではないでしょうか。

 だからね、白シャツを着慣れている会社員は、どんな年齢であろうが、独身・既婚も問わず、ロッカーの中に鮮やかな色・柄物のシャツを常備しておくべきです。それを着る機会があるかないかはまったく関係なく、そうしたオシャレの身構えを失った男に魅力を感じる女性はいないんじゃないかな。

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2019年10月11日 (金)

LGBT

 

 アメリカは歴史的に若く、トランプ大統領がどんなに排斥しようが、移民で始まった国です。そのせいか、何事も極端な方向に突っ走る傾向が目立つんですよね。古くは禁酒法かな。イスラム圏以外で、酒を飲むなという法律を制定した国なんて、ボクはアメリカ以外に知りません。やめろといっても飲んでしまうのが人のサガってものですから、むしろ反社会勢力を肥え太らせる結果になってしまいました。アル・カポネも、そのおかげで大ボスにのし上がりました。何しろ違法ですから税金を納める必要はなく、代わりに警察官などに賄賂が飛び交ったというのですから、ロクなことはありません。

 続いて、第2次世界大戦直後のマッカーシー旋風。赤狩りといわれたように、共産主義に対する病的な恐怖が生み出した妄想が背景となっています。密告を大歓迎したことから、人間関係はボロボロ。共産主義者ではないけど、むやみな赤狩りに反対したハリウッド・テンと呼ばれる良識人が投獄されたりしました。

 悪いことばかりではなく、1960年代に活発化した公民権運動は、ちょいと遅すぎではありますが、それまでの苛烈な黒人差別に対する反動です。ちなみに、ビリー・ホリディが白人によって木に吊された黒人の死体を『奇妙な果実』と歌ったのは1939年でした。

 こうした流れの中で、近年になって顕著なのがLGBTです。これはレスビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの略で、性的少数者に対する偏見の解消を意味します。ブロードウェイのミュージカルでは、ドラァグクイーンと呼ばれるニューハーフがド派手なシューズづくりで倒産寸前の靴工場を復活させる『キンキーブーツ』を2012年に初演。トニー賞が授与されてロングランとなるだけでなく、今では日本版も上演されています。

 テレビでも、以前に少し紹介したアメリカのテレビドラマ『9-1-1:LA救命最前線』なんてLGBTが満載なんですよね。たとえば長年連れ添った黒人夫婦の旦那が突如としてゲイであることを告白。だったら2人の子供はどうやって作ったのか不思議ですけど、後に彼は恋人を家族に紹介したりするんだよな。もちろん同性で黒人です。一方の奥さんは警察官でありまして、失意の中で泥棒を捕まえたりしているうちに、消防隊の隊長と恋仲になります。この隊長が白人なんですよね。

 ちょっと前なら、黒人と白人の異性が愛し合う映画やドラマは、その設定だけで大騒ぎになったと思うのですが、「ダイバーシティ=多様性重視」となった今ではむしろ積極的に取り上げるのがトレンドになっているようです。この消防隊では黒人女性も隊員として活躍しますが、彼女はレスビアンでありまして、かつて白人女性と同棲。この白人女性がタチの悪いアバズレで、刑期を終えた出所後も彼女につきまとったりするわけです。それを振り切って「妻」にしたのが黒人女性で、養子までいます。

 付け加えれば、前述した消防隊長はかつてアルコール中毒。それが直接的な原因ではないにしても、火災を見逃して妻子を含めた多数の人たちを焼死させた悲惨な過去があります。そんな隊長が警察官の黒人女性と結婚して、いきなり2人の黒人の子持ちですもんね。彼が心底から優しい男というのは分かるけど、実際問題としてやっていけるかなぁとボクなんかは心配してしまいます。

 ここまで紹介するだけで、黒人白人といちいち書き分けるのが面倒くさくなってきました。そういえば若い消防隊員が惚れ込んだ911=緊急通報のオペレーターの女性は結構な年上ですから、この番組は要するに「何でもあり」。ボクはそうした設定があまりにもあざとく感じられて、今では見ていません。シナリオが世間受けを狙い過ぎており、ドラマとして素直に感動できないんですよね。

 日本でもボーイズラブが流行したかと思えば、近頃は映画『おっさんずラブ』が話題になっているので、「怖い物見たさ」という好奇心が背景にあるとしても、偏見をなくすこと自体は大変に結構なことです。ただね、政治的主張や思想だけで優れた芸術は生まれないんですよね。

 かつてプロレタリア文学というジャンルがありました。寡聞ながら、時代の錬磨を経て生き残った作品がどれだけあるでしょうか。ボクが記憶しているのは小林多喜二と濱口国雄の詩『便所掃除』ですが、後者はプロレタリア文学として位置づけられてはいないようです。国鉄詩人連盟第5回国鉄詩人賞を受賞していますけどね。
 プンプンと匂ってくるほどのリアリティと笑いと、そして涙を誘う大傑作だとボクは信ずるので、是非一読をオススメします。

 やっばね、ライター稼業を続けてきて分かるのは、理屈だけで練り上げた文章なんて通じないのです。いきどころのない、けれども熱くて冷たい感性のカタマリに悪戦苦闘して言葉を与え、それをノミで削るように造形していくことが表現という仕事の本来なんですよね。

 にもかかわらず、現代は言葉がちょっと軽すぎるのではないか。というのが実は本稿の趣旨です。間違いなくネットの影響だと思いますが、人の耳目を惹くための派手な形容詞がギラギラの満艦飾。たまにウルセーなぁと叫びたくなるほどです。
 現代人は昔に比べて鈍感になったのでしょうか。『ロウソクの科学』もたちまち売り切れなんて、アホかと思うんですけどね。

 

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2019年10月10日 (木)

ノーベル賞

 

 今年のノーベル化学賞に、リチウムイオン電池を開発した西野彰氏が選出されました。何だかんだ言っても日本人は凄いなぁと素直に感心すると同時に、自分の卑小さを痛感してしまいます。

 ボクは化学者でも物理学者でも経済学者でも文学者でもなく、平和活動家でも政治家でもないので、ノーベル賞なんてそもそも縁遠いところにいるはずなのに、不遜ながらも、つい我が身と引き比べてしまうんだよなぁ。

 若い頃はそんなふうに感じたことは一度もなかったんですよ。羨ましいとか悔しいといった個人的情緒を持てるレベルの話じゃないですからね。未来という甘味な輝きを放つ時間が多く残されていたからかな。いずれ何かいいことがきっとあるんじゃないか、という若者らしい楽観が大きな理由だったようにも思います。

 今でも政府がくれる勲章なんか欲しいと思ったことはありませんが、ノーベル賞は人類に貢献する発明や活動が対象です。かねてからのボクの持論「人間は何かを為すために生まれてきた」ということを客観的に証明する世界的な賞にほかならないので、そこからはるかに隔絶していることを自覚するのは、ちょいと辛いのであります。残された時間はどんどん少なくなっていくのに、「お前はいったい何を為したかのか」と責められているような気がするんですよね。

 ボクが浅学非才の凡人であることは随分前から分かっていたんですよ。もとより持って生まれた天分や能力が違うんですから、ボクごときの人生のどこをどういじったところで、ノーベル賞に至る道筋なんて見つかりません。だったら、そのかわりに何を為すべきか。ここのところで、アイデンティティ・クライシスに陥ってしまうのです。

 やっぱね、人生の目標を「気楽に暮らす」に変えておけば良かったかなぁ。中高年になって「人間は何かを為すために生まれてきた」なんてさ、あまりにも高邁過ぎるし、何よりも遅過ぎるじゃないですか。

 それで思い出したのが、過日にインタビューさせていただいた超有名なミュージシャンの言葉です。「納得できない気持ちを無理矢理に片付けてしまうのでなく、そのまま持ち続けていいんじゃないかと思う」。ボクより年長で、音楽業界では世界的に知られた人でも、そんなふうに感じているんだと、ちょっと驚きました。

 それがやがて自分を変えていく秘かな原動力になるとしたら、羨望や失意、劣等感や屈辱感もまた素直に受け入れたほうがいい。とすれば「ネガティブな感情は人生のスパイス」(ボクのオリジナルなので無断使用を禁じます)じゃないか。早い話がコショウや七味や唐辛子にラー油みたいなものといっていい。むやみに前向きで落ち込むことを許さないポジティブシンキング信奉者に、謹んでこの言葉を捧げたいと思います。

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2019年10月 9日 (水)

2番手主義

 カルロス・ゴーンが最高執行責任者として日産自動車に入社したのは1999年3月でした。2000年には取締役となり、最高経営責任者にのぼりつめたのは2001年。この頃の彼に対する評価は、情け容赦のない「コストカッター」という批判的な見方がなくもなかったのですが、むしろ「ゴーン流」という言い方で歓迎する意見のほうが大勢のように感じられました。

 当時の日産自動車は2兆円の有利子負債を抱えて破綻寸前でしたから、業績が回復できるなら悪魔とだって契約したかもしれません。それが今では誇張や比喩でなくなりそうですけど、それ以前に、これほどの経営危機をもたらした原因や責任を追及する議論があったのでしょうか。ボクには、女性スキャンダルで失脚した労働組合委員長の権勢にすべてを押しつけて終わったように見えてなりません。彼は「労働貴族」とも呼ばれたように、自家用ヨットを保有し、銀座で毎夜のごとく豪遊していたとマスコミは喧伝。経営にも支配力を及ぼしたといわれています。でもさ、それってホントかなぁ。

 そもそも労働組合の委員長を途方もない権力者にしてしまった周囲の責任はどうよと、ボクなんかは思うわけです。詳しく調べたわけではないので、あくまでも憶測に過ぎませんが、この「労働貴族」がすべての役職から身を退いたのは1986年。その後も負債を解消することはできず、結局は2兆円にまで膨らんだのですから、どう考えても経営陣が無能だったとしか思えません。

 ついにはフランスのルノーと資本提携を結び、意気揚々と乗り込んできたのがゴーンだったのです。彼は大規模なリストラ、要するにクビ切りを実施。工場の閉鎖だけでなく、多くの下請けを切り捨て、余剰資産もバンバン売り飛ばしました。おかげでバランスシートの数字は劇的にV字回復したとされていますが、そんなことはゴーンでなくてもできたことではありませんか。2万人以上に及ぶ従業員の解雇は大変な決断だと思います。けれども、日本は社会主義でも共産主義でもなく、資本主義である限りは株主が最有力なステークホルダーじゃないですか。会社を潰して株式を紙切れにしないために、泣く泣く社員に辞めてもらうなんてことは、規模の大小を問わず、どこにだってあることです。問題なのは、生え抜きの経営幹部がその重大な責務を誰も引き受けなかったということじゃないかな。

 だからこそ「労働貴族」のせいにして、固定費=人件費の削減を先延ばしにしてきたようにボクは思えます。それも限界となった時に、黒船に乗ってゴーンがやってきた。「従業員を解雇しなさい」「あの工場は不採算だから閉鎖」「こんな事業を日産がやる費用はない」という苛烈な指示に、「はいはいごもっとも」と嬉々として経営幹部が従ったように、繰り返すようですが、何の根拠もなく、ボクには想像できてしまうのです。

 早い話が、悪魔を追い出して白馬の騎士と手を組んだかと思ったら、こいつも裏で私腹を肥やす悪魔だったと告発されたわけです。でもさ、それなら日本人の経営幹部はいったい何をしていたのでしょうか。側近といわれる連中が罪に問われることはないのかな。それ以前に、リストラという大ナタを振るうのを怖がって逃げ回っていたのは誰だったのか。

 2番手主義という言葉があります。あれ? ボクの造語だったかな。たとえばマラソンなどでトップを走れば、風圧を一身に受けるだけでなく、路面など環境変化の影響をいち早く受けることになります。ところが、2番手ならそうしたリスクを回避できるので、最後に1番手を追い抜けばいい。どことは言いませんが、スターバックスと似たようなコーヒーチェーン店と同じです。何もかもゼロから始めたスターバックスと同じことをやればいいんだから、開発投資は比較になりません。だけどね、それってパクリと呼びませんか。

 ちょっと話が飛んじゃいましたが、日本の組織社会では、このような2番手主義者が目立つんですよね。現代では「リスクを取らない」と言い換えられたりしますが、とにかく一歩退いて様子を窺うのが賢い生き方とされているようです。大政翼賛会の頃には「勝ち馬に乗る」という言葉も生まれましたけどね。生き延びるためには効果的な方法だろうけど、そんなことでは新しいモノは何も生まれず、イノベーションにもほど遠いですよね。そうした姿勢が逆に「労働貴族」をどんどん増長させ、ゴーンを果てしなく君臨させたのです。頃合いを見計らって後ろからグサリ、ってひどい比喩だけど、ボクがゴーンなら間違いなくそう感じたでしょう。

 ナチスは強権や暴力で政権を掌握したわけではありません。民主的な選挙を経て台頭しました。彼がオープンカーに乗ってパレードする映像を見たことがありますが、驚くほど多くの国民が歓呼して迎えています。

 民主社会では独裁なんて簡単には実現できないはずです。にもかかわらず、ドンやボスと呼ばれる連中があちこちにいて、電力会社や政治家に賄賂を贈ったりする。こうした独裁者は2番手主義者にとって大変に好都合なんですよね。新しいアイデアや政策の実現といった困難なことを押しつけられるだけでなく、数多の批判や失敗の責任はひとえに彼のせいにする一方で、成功の果実はみんなで分け合う。

 そりゃね、誰だって自分が可愛いですから、リスクを負うのは避けたい。けれども、みんながそうした姿勢では、何も変えることはできず、ひたすらジリ貧になっていくだけです。人口増加という追い風によって、パクリが得意な日本がイケイケだったのは大昔の話で、現代は独創性がカネを生み出します。特にウェブ社会では2番手以下は存在しないのと同じ。それがGAFAですよね。

 なのに、いつまでも2番手主義でいいんですかね。もしもホントに自由を希求するのであれば、1番手にならなきゃいけない。少なくとも、トップを走るランナーが直面する様々なリスクを本気で引き受けようとしない限りは、キミは奴隷のままだと思うぞ。

 

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2019年10月 8日 (火)

生きているのはお前たちだけじゃない!

 

 すいません。あまり不愉快なことは書かないようにしてきましたが、今回だけはその禁を破ります。

 昨日は例によって浅草でジャズのライヴを楽しんだ後に、田原町から銀座線に乗車。日比谷線に乗り換えるために、銀座で下車してエスカレーターに向かった時のことです。

 エスカレーターの前に階段があり、ボクが乗ってきた銀座線の扉を目指して数人がドヤドヤとけたたましく降りてきました。そのうちの1人が、ボクにぶつかってきたのであります。このブログで何度も紹介しているように、ボクは杖をついております。そのアタックによって、もうちょっとで杖を手放しそうになっただけでなく、転倒しかけたわけですね。その先には、銀座線の車両があるので、ごく簡単にいえば、もうちょっとで死ぬところだったのです。

 お前なんか死ねばいいと思う人もきっといるでしょうが、地下鉄の電車事故なんてまっぴらゴメンです。にもかかわらず、加害者はとっとと電車の中ですもんね、それで猛烈に腹がたち、「こちらは杖をついているんだぞバカヤロー!」と大声で言ってしまいました。加害者はすでに電車の中にいたのですが、ボクを見ているだけ。そこで「謝ったらどうだ」と畳みかけたのですが、何の反応もありません。

 死にかけたといっても、からくも元気な右脚で支えたおかげで具体的な被害はないので、それ以上は何も言わずに済ませましたが、謝る気持ちはないのでしょうかねぇ。知人に言ったら「相手が逆ギレしなくて良かったですね」だってさ。確かにね、「何だとコノヤロー!」と向かってこられたら、ボクに勝ち目はほとんどありません。

 怒るのもTPOを踏まえて、相手をよく見ておく、というのがつまらない教訓ですけど、その前にさ、周囲に注意しろよ。生きているのはお前たちだけじゃないんだぞ。

 

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2019年10月 7日 (月)

重力との戦い

 

 この年齢でニキビはあり得ないはずですが、唇の右下側に虫に噛まれたような痒みを知覚。ポリポリと軽く掻いているうちに、何だか膨らんできたような気がします。そこで滅多にないことですが、洗面所で鏡を凝視すると、確かに腫れがあります。

 というより、唇の下の膨らみを見て衝撃を受けました。右端は小さなコブのような隆起があるのですが、よくよく見比べてみれば、左端も似たようなものだったからです。

 あまり触りまくると腫れがひどくなるので、敢えてそのまま放置。腫れがひどくなったら取材に行けなくなるという恐怖を感じながらも熟睡し、翌朝チェックしてみると、嬉しいことに膨らみはすっかりひいたようです。しかしですね、唇の下の土手にあたる部分が、左右ともにこんなに盛り上がっていたかなぁと、強い違和感を覚えました。

 もともと鏡で顔を丹念に見ることなんてほとんどないので、変化に気づかなかったらしいのですが、加齢によってハリを失い、たるみ始めた顔の肉を重力が下方に引っ張っているらしい。しかしながら、アゴから喉はオーバーハングの崖になっているため、その手前、つまり唇の直下を最後の砦として、ズリ落ちようとする肉を食い止めているとボクは分析しました。その微妙な膨らみの結果として、唇の両端の下部に、若い頃には断じてなかった小さなシワが出現していたのです。ギョエエエエエエッーー、このまま進行したら薪能の翁の面みたいになっちまうじゃないか!!!!!!!

 以前から重力が肉体に及ぼす影響は気づいていました。中高年と呼ばれる年齢になって、特に大食していないのに、腹部がどうにもだらしなくなってきたと感じ始めたからです。腹が出たわけではないので、簡単に凹ませることができるのに、プルンという感じですぐに元に戻ってしまう。巷間言われる内臓脂肪もあるでしょうが、ある知人からその理由を明解に指摘されました。

「腹筋が弱っているんだよ。だから内臓を抑えることができない。しかも人間は直立しているので、腹のたるみを支えきれず、下方へと引っ張られるわけさ」

 という理屈によって、タレントの山崎邦正みたいな体形が出来上がってしまうのです。かなり強度の希望的観測として、ボクはまだそこまでは行っていないと信じますが、筋力の衰弱によって腹部が地球の重力に対抗できなくなってきたことは間違いありません。腹に貼り付けて電気信号で腹筋を収縮させる例の機械を買おうかなと一瞬は思ったのですが、元水泳部キャプテン(小、中、高校)としては、そんな機械に頼るのは潔くない。かといって今さら腹筋運動なんかするかぁ?

 いずれにしても、見かけの老化の背後に重力が大きく影響していることだけは認識できました。腹だけではなく、顔も例外ではないんですよね。だからといって顔の筋肉を鍛える方法はありません、と書きかけて、口で噛んだブレードをビュンビュン上下振動させる美容器具のことを思い出しました。あれなら何とかなるのかなぁ。それにしても、ちょっと他人には見せたくない姿ですよね。

 いやあ、重力って凄いね。年齢と同じく、人間が戦って勝てる相手とはとても思えません。さりとて無理した若づくりはボク的にはイタく感じられるので、様々な変化を進化のごとく甘んじて受け入れることにしようかな。それもまたエイジングの味わいといえば言えなくもないじゃないですか。シワの1本1本に、2度と経験できない喜怒哀楽の記憶が刻まれているんだぜ、と。

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2019年10月 4日 (金)

高潔

 

 倫理や道徳というのは、いくら教えても身につく人とつかない人がいるんでしょうかねぇ。少なくとも学力や知性、あるいは役職や地位とは、まったく何の関係もないらしい。だぁからさ、日本は人格教育を本気でやらなきゃいかんよと、このブログで口を酸っぱくして、いや、キーボードを叩く指が痛くなるほど主張してきたのです。

 もちろん感電、じゃなかった関電のことであります。

 賄賂と呼ぶにはおこがましいですが、過度な謝礼のようなことは、ボクごとき非才な貧乏ライターでも稀にあります。初めて経験したのは記者職になって2年目くらいかな。取材が終わって退出しようとすると「ちょっと待ってね」と呼び止められ、「これ車代」と封筒が机の上に置かれたのです。まだ紅顔の新人だったので意味が分からず、訝しく感じて封筒の中をチラリと見たら何と万札じゃありませんか。ここで「どうも」と素直にフトコロに入れて帰るか、それとも「これはちょっと」と辞退するか。

 どちらが正しい態度かなんて、学校では教えてくれませんよね。コンプライアンスがうるさくなったのは近年のことなので、ボクの若い頃は会社でも話題になったことがありません。まるでいつものことのように自然に封筒が置かれたので、おそらく貰う奴は貰っていたはずです。それこそ関電の稚拙な釈明のように、受け取りを拒否して相手の気分を害したくないという配慮があったかもしれない。
 いずれにしても、その封筒をどうするかは、現場にいる自分自身が判断するほかありません。こんな実例を紹介するくらいですから、もちろんボクは受け取りませんでした。社会経験の乏しい新人だったので、もしかすると掟破りだったかなと不安になりましたよ。それでもね、取材後に過分な車代を貰うというのは気分が悪い。理屈を超えて、バカにされているように感じられて不快だったのです。ということは、不快にならない人もいるわけですな。

 実際に、後年に似たようなことがあった直後に「遠慮せず貰っておけば良かったのに」と言われたこともあります。関電では万札どころか億のカネを貰っても、記者会見では「法的に問題ない」と居直っておりました。法的に問題があろうがなかろうが、イワレのない大金を外部の人から貰うのは尻が浮き上がるほどの違和感を覚えるはずですが、そうは感じない人が原発を作っていたわけです。副社長か役員か知りませんが、大組織のエライ人で、おそらく立派な学歴をお持ちの方でも、それなりの倫理や道徳を持っているとは限らないという明白な証拠じゃないですか。ついでに言えば、恥の意識もね。「恥知らず」と誹られるのは、ものすごく恥ずかしいことだと認識されていないらしい。

 もっとも、清く正しく高潔であれば人生が明るく楽しくなるかといえば真逆でありまして、むしろ苦しい時があります。清濁併せ呑むというのも、太い大人の要件かもしれない。それでもイヤなことや嫌いなことはどうしてもできません。正義感うんぬんを越えて、生理的にダメ。だから貧乏なんだと言われれば「はいそうです」と秒速で肯定しますが、組織や軍隊のリーダーほどそうしたプリンシプルが必要なんじゃないかなぁ。さもなければ部下の信頼を得られません。昨今はSNSが普及しており、リーダーの資質や悪業なんてすぐにバレる時代だからこそ、尊敬される人格を鍛えておかなきゃいかんでしょう。ボクは人に頼られることも嫌いなので、そもそも論外ですけどね。

 またまた指が痛くなってきたけど、そろそろ本気で幼児期から人格教育をやろうよ。江戸時代じゃあるまいし、「お主もワルじゃのう」みたいなことを大名屋敷の奥でやっている場合じゃないでしょう。しかも今回は、ヘタすりゃ大規模な被害が発生する原発をめぐる収賄なんですぜ。

 かといって、どうしたら高潔な人格を形成できるかボクには分かりません。入試制度をいくら変えたところでダメなことだけは分かりますけどね。新渡戸稲造が1900年にアメリカで刊行した『武士道』は、やはり彼の頭の中で創作されたファンタジーに過ぎなかった。そこから始める必要があるのかもしれません。

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2019年10月 3日 (木)

衣替え(後)

 

 昨日は、ある展覧会のプレビューがあり、その後で催されたパーティのドレスコードが「カクテル」でした。「カクテル・アタイヤ(Attire装い)」という言い方のほうがポピュラーのようですが、ごく簡単に言えば、インフォーマルとスマートエレガンスの間に位置する格好を意味します。

 とはいっても、いよいよワケが分かりませんよね。そのせいか、日本語のネットでは「基本はタキシード」と指摘するウェブサイトもありますが、英語のサイトをいろいろ調べてみると、タキシードやブラックスーツはむしろ畏まりすぎてNG。ネイビーやグレーなどのダークスーツ着用ならノーネクタイでもOKですよ、という解釈が主流でした。

 ドレスコードというのは、このあたりの判断とセンスと少々の勇気が参加者に求められるわけですね。ボク自身はインフォーマルがややくだけたスタイルと理解しており、具体的にはジャストフィットのスーツに派手目のワイシャツとネクタイを合わせて、真面目な中に遊び心とウィットを演出、みたいなことを考えていました。性格的に硬派ですから、胸をはだけた歌舞伎町のホストみたいな格好は、したくてもできません。

 アクセントとなる胸のチーフは、ネクタイと同じ色柄に合わせるケースが多いようですが、ボクは逆にシャツの色柄のほうに合わせるようにしてきました。

 なんてことを書くと、ワードローブにはスーツやらジャケットがズラリと並び、引き出しには色とりどりのワイシャツが売るほど並んでいるに違いないと想像されるかも知れません。ボク自身もそうありたいとは思いますよ。しかしながら、先立つモノもオシャレする機会も、クローゼットのスペースも限られている身では、そんなにもヒマとカネを費やすことはできません。というわけで、皆さんを幻滅させるのも忍びないので、ここでは敢えて実数を秘しますが、スーツもジャケットも、普通の会社員に比べて格段に少ないはずです。

 だからこそ、スーツに関してはすべて礼装に近い特別な衣装として購入してきました。しかしながら、その絶対数が決定的に少ないので、季節の変わり目は悩まされてしまうのです。

 当夜の10月1日は、午後6時で気温26度。明らかに季節外れの残暑ですが、ボク的にはシャドウストライプの艶あり冬物チャコールグレーでキメたいという欲がありました。最近は着ていないしね。電車にしろタクシーにしても、会場だってエアコンがないはずはないので、理論上は冬物でも耐えられるじゃないですか。いやいや、それでも汗が噴き出てくるんじゃないの、などとさんざん逡巡したわけですな。

 けれども、外に出て数分歩いてみて、あっさりとその野望を捨てました。半袖のポロシャツでも暑いじゃないかぁぁぁぁ。かくて代打は、ダークネイビーのサマースーツ。裏地が背抜きになっており、その分だけ締め付け感に類似したフィット感に欠けるので、あまり好きではなかったのですが、暑いんだから仕方ありません。

 ちなみに、服の裏地は型崩れを防ぎ、生地を傷めない役割があるので、欧米では日本のようにカットすることはほとんどありません。つまり、背抜きや半裏は夏用の日本独自の発明であることから、これを推奨しないテーラーもあります。そりゃボクだって総裏の本格派にしたかったのですが、いくら格好よくても汗びっしょりでは見苦しいじゃないですか。

 それで、くどいようですが背抜きのネイビースーツを選択したのです。結果的にこれが大正解でありまして、心地良い体感でシャンパンをおかわりすることになったのであります。もしも総裏の冬物を着ていたらと想像してゾッとしたことも、汗がひいた理由かな。前述したように、背抜きを本格的ではないと嫌う人もいますが、ボクは日本の知恵もなかなかなものじゃないかと見直しました。これから地球温暖化が続けば、欧米でも普及するかもしれません。

 何事も、常識や定見や慣習を無意識に受け入れるのでなく、自分の体感を信じて主体的に判断すべきなんですよね。意識して為されたことはすべて善、なのであります。

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2019年10月 2日 (水)

衣替え(中)

 

 何よりも自由・独立を希求し、隷属や支配を嫌う、生来の天の邪鬼で偏屈男のクセに、パーティなどのドレスコードにこだわる理由は、そのほうが人生にメリハリが生まれるからです。

 ファッションは専門分野ではありませんが、つらつらと歴史を振り返ってみると、全体としてドレスダウンしてきたんですよね。スーツでも大昔はロングコート並みに裾が長くて、これではリラックスして酒を飲む時にちょっと不便だよねと、尻のギリギリまで短くしたのがラウンジスーツと呼ばれるスタイルです。それが後年になってボクたちお馴染みの服装になったといわれています。つまり、堅苦しくて時には不合理な服装ルールから人類はどんどん自由になってきたのです。そもそもきちんとした服装は、貴族や官僚、軍の指揮官といった上流階級を象徴&誇示するものでした。だからこそ細々とした規則があったわけです。それが革命を経て血族身分制の封建時代が終わり、市民が自由を獲得すれば、服装も民主化されて簡略になっていくのは不思議なことではありません。

 それでも冠婚葬祭や、大臣就任の際にペンギンみたいな格好をして記念写真を撮るなどのシキタリは根強く残っています。これを堅苦しいと片付けてしまったら、どんなことでもいつもの毎日と同じになってしまい、気楽ではあってもつまらないですよね。

 燕尾服にホワイトタイなんていうスーパーフォーマルを着る機会なんて一生ないだろうけど、それだけにドレスコードには忠実でありたいんですよね。ただし、略礼装=インフォーマルのトップに位置するタキシードは持っておりません。本当は欲しいんだけど、ウィングカラーのシャツに蝶ネクタイ、カマーバンドやオペラパンプスと呼ばれるエナメル靴などの備品を揃えなきゃいけないんだよな。
 にもかかわらず、その着用を直接的に意味する「ブラックタイ」がドレスコードとして指定されるのは日本では稀ですから、現状ではボクのような貧乏人にとってコストとパフォーマンスの天秤がまるきり吊り合わないのです。宝クジにでも当たったら別ですけどね。タキシード姿で電車に乗る勇気は持ち合わせていないので、ハイヤーなどの送迎が必要というのもネックではあります。

 そうした残念な想いがあるだけに、タキシードより格下のドレスコードにはできるだけ従いたいのであります。そんな指定は敢然と無視、あるいは招待状の文言を見過ごす人もいるほか、敢えて個性的なスタイルで臨む人も珍しくありません。それで罰されたり投獄されるはずもないので、基本的に自由といえば自由。半ズボンにTシャツといった目に余る格好でない限りは許されるんですけどね。

 ボクはフリーランスと呼ばれる自由業に属しており、日頃は着古しのカジュアルでグダグダと机に向かっております。ネクタイを着用する機会も限られていますが、だからこそ、イザという時にはきちんとした格好で胸を張りたい。ドレスコードが設定されたハレの場では、服装だけでなく、精神も毅然と装うことが必要となります。それによって快い緊張感を伴う非日常が出現すると思うのです。

 女性にとっても、初めてのデートで男が半ズボンにTシャツ、裸足にサンダル履きでやってきたら幻滅しませんかねぇ。「アタシって、そんなに安めの女?」とか思うんじゃないかな。ビジネスにしても、大きな商談なのにヨレヨレのシワシワでペナペナのスーツでは、本気度や経営実績を疑われることは間違いないでしょう。ドレスコードは、そうしたコンテクストを暗号的に明文化したものですから、決して単純な儀礼ではないとボクは思います。中には「どこかに赤を着用」と色だけを指定されることもありますが、それもまた個々人の教養とセンスが露出するので、面白いではありませんか。

 わぁ、またまた長くなってしまいました。この続きも明日ということで。

 

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2019年10月 1日 (火)

衣替え(前)

 

 10月1日は「衣替え」とされており、薄手の春夏ファッションから厚手の秋冬ものに着替える日です。後述するように温暖化で10月中旬までズレ込んでいるのが現実のようですが、個人的であるはずの服装まで同じ日に全国一斉で切り替わっていたのですから、日本というのはほとほと横並びが好きなんですよね。

 この日からは夏服ですよぉ、この日からは冬服に着替えてくださいね、といちいち指示されるのは、季節の変わり目に悩まなくて済むので便利といえば便利でも、一種の思考停止じゃないかな。ボクも若い頃はそういうシキタリなんだと疑問を持たずに従っていたのですが、20代の半ばに仕事でアメリカに行って目が覚めました。雪が降る厳冬のシカゴでチャーターした観光バスの運転手が、何と半袖のTシャツを着ていたのです。車内はヒーターで暖められているので、何も外を出歩く時と同じ服装である必要はありません。それではむしろ暑いので、車内で待機する時間が長い運転手の服装としてTシャツは極めて合理的です。実際に彼はバスを降りる時には厚手のジャンパーを着込んでいました。そんな姿を見て、ボクは自分が慣習や常識に心底から縛られていることに気づいたのです。

 みんな同じ体格や体質ではないので、暑さ寒さの感覚はそれぞれ違うはずです。にもかかわらず、10月1日に「せーのっ」で全国一斉に着替えるほうがヘンだと思いませんか。軍隊じゃないんですから。日本列島は東西南北に長く弓なりになっているので、桜の開花時期が違うように、気温の変化も地域によって違います。それでも6月1日と10月1日には学校の制服やビジネスマンのスーツなどが切り替わる。大陸の習さんも半島の金さんもびっくりするんじゃないかな。

 そんなわけで、ボクは自分の体感を頼りとして勝手に判断してきましたが、近年はクソ暑い夏日が秋口まで延々と続くようになったので、衣替えの時期もかなりグズグズになってきました。学校の制服も一律ではなく、2週間くらいの幅があるらしい。ビジネススーツの場合は10月半ばを衣替えのメドとする意見がネットの多数派になっていました。

 ちなみに、環境省が提唱するクールビズは、本年は5月1日から9月30日までとなっていますが、10月も「各自の判断による軽装などの取り組みを引き続き呼び掛けてまいります」(環境省HP)だってさ。独自に期間を延長する企業も珍しくないようです。
 でもさ、ノーネクタイまでお役所が主導するというのは、ちょっとおかしくないかなぁ。環境省が言い出さなければ、今でも大多数の人たちは夏真日にネクタイを締めていたのでしょうか。それでは主体性があまりにも欠如しており、悪い言い方を敢えてすれば、ゾンビや奴隷と同じってことになりませんか。

 ビジネス社会には暗黙の礼儀やルールがあり、スーツなどの服装も非言語のコミュニケーションツールですから、ある程度の常識や共通化は必要です。けれども、汗まみれになるほど暑い日が続くのにネクタイとスーツにこだわるのは不合理ですよね。欧米ではワイシャツは下着と見なされているので、スーツの上着を脱ぐのは失礼と言われますが、そんなもん涼しいヨーロッパで生まれた常識であって、アジアの夏はそうはいきません。だからボクも、汗ばむ時にはためらうことなく上着を脱いで抱えることにしました。さもなきゃ上着の脇がこすれて傷むんですよね。

 というわけで、服装や着こなしはすべて自分感覚優先でやってきたつもりですが、それを通用させにくい状況があります。ドレスコードが定められたパーティやレセプションで勝手な格好をすると、雰囲気を壊すことになって参加者に迷惑をかけてしまうのです。他人に感心される独創的なファッション感覚を持っていない限りは、ドレスコードというお約束に従うべきですよね。ところが今はまだ暑いじゃないですか。そこで、いろいろ悩まされることになるんだよな。念のために補足すれば、ボクはドレスコードは決して嫌いではありません。決められた枠内で、あれこれと服装の組み合わせを工夫するのはむしろ好きといっていい。でもさ、10月1日とはいえ、最低気温は23度くらい。背抜きのスーツにするか、それども総裏の冬物か。今日はどっちだ、という感じなんですよね。

 またまた長くなったので、明日に続きます

 

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