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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2019年11月

2019年11月29日 (金)

明日のことまで思い悩むな

 

 そうはいってもねえ、思考することを覚えた人間にそりゃ無茶な注文だよな、と言わざるを得ません。

 クリスチャンではないのでよく分かりませんが、来日したローマ法王は、核兵器廃絶だけでなく、日本の若者が「過剰な要求や数々の不安によって打ちのめされている」として、マタイによる福音書から「明日のことまで思い悩むな」という言葉を引用したそうです。

 ボクはもう若者ではありませんが、それを聞いて、あまりの無責任さにムカムカした人は少なくないだろうと思いました。そうかぁそうだよなと、明日のことまで思い悩まなくなった人に、あなたは仕事を頼みたいですか。たとえばビルや橋などを建設している人たちが、明日のことまで思い悩まなかったら、ものすごく危ないことになります。「この接続部分は5年もすれば錆びて折れるぞ」「そうですね。では十分な防錆処理を指示しておきます」なんていう、明日を思い悩んだ仕事ができなければ、プロフェッショナルとはいえませんよね。

 このように、人間の生活や仕事や社会は、ある程度の未来まで現実として織り込まれているので、それを思い悩むなといっても無理なのです。そもそも、イエス・キリストが生きたのは紀元前4年頃から紀元後30年とされているので、深刻に悩まなきゃいけないような明日なんて、農業以外になかったんじゃないかな。その日を暮らすのが精一杯という生活が羨ましいとは言いませんが、明日を思い煩う必要もなかったはずです。にもかかわらず、空が落ちてくるような無用な不安に苛まれる人もいたからこそ、イエスはそんなことを言ったんじゃないかな。

 第一に、そこらのオッサンに酒を飲ませたら、この程度のことは言いますぜ。それをマタイによる福音書なんてカッコつけちゃってさ。信者の皆さんには予めお詫びしておきますが、ちゃんちゃらおかしい。2000年前の戯れ言ではなく、知りたいのは、どうやったら明日のことを思い悩まなくなるのかという方法論なのであります。

 このブログは問いかけだけで終わるのでなく、常に結論にまで至ることを課してきたので、それなりの処方箋を提示したいのですが、これほど難しいテーマはちょっとありません。ボク自身も明日の悩みに苦しめられてきましたからね。悩むなといっても「悩まないという選択肢はないやろ」と、あの不気味に脂ぎったオッサンのデカイ顔が迫ってきます。さて、どうしたらいいのか。

 たえとば、何かに熱中して、明日のことを考える余裕を奪うってことかな。ヒマであればあるほどあれこれと悩むようになるので、無理矢理に仕事を作ればいい。自分の部屋を徹底的に掃除するとかね。そういえば、事務所にある不要なモノを捨てまくる時は、そんな心境だったような気がします。だから、皆様には下記の言葉を進呈します。

 明日のことを思い悩むなら、きょう熱中できる仕事を見つけよ。

 イエスのお言葉より効き目があると思うんだけど、いかがでしょうか。

 

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2019年11月28日 (木)

MBAが会社を殺す

 

 ボクは1990年代から社会人の大学・大学院入学やリカレント教育を取材してきました。実践的な経営管理を教えるMBAも何度となく取材。1997年にはダイヤモンド社から訳書『MBA入学ガイドブック』、2002年には日経BP社から『インターネットでMBA・修士号を取る』を上梓しました。

 だから、本来的には経営者や経営幹部、管理職にとってMBA教育は必要という立場なのですが、近年はむしろMBAホルダーが会社を殺すのではないかと考えるようになってきたのです。

 そんな気分を直接的に刺激したのは、例によって日本経済新聞の連載コラム『私の履歴書』です。現在は化粧品のファンケル会長である池森賢二氏が執筆。創業時の苦労などを率直に披瀝しており、なかなか読み応えがあります。けれども、同社が上場し、池森氏が引退したあたりから、会社に暗雲が漂ってきます。外部から招きいれた経営者のマネジメントが、ことごとくうまくいかない。2010年からはリ・ブランディングに着手するものの、「悪循環から抜け出せなかった」として、彼は2013年にCEOに復帰しています。

 著者ですから、手前味噌の評価や判断もあるでしょうが、ボクはMBAを代表とする高学歴のプロ経営者が陥りがちな頭でっかちの発想が、ファンケルを殺しかけたのではないかと思います。MBAホルダーではないにしても、トップクラスの国立大学で経営学を修めた家具店の娘さんは、大衆路線に走ってライバルを増やすだけで、新味を何ひとつ打ち出すことができず、会社を身売り寸前の窮地に追い込んでしまいました。

 いろいろ書きたいことはありますが、長くなるので簡単に言ってしまえば、日本は「ぶら下がり族」が多すぎなんだよな。大卒者が少ない頃は高学歴にぶら下がり、次はブランド学校歴ぶら下がりとなって、さらには大企業にぶら下がる。長期不況で、それだけでは差別化できないとなると、アメリカの有名大学ぶら下がりがトレンドとなり、2000年代からはMBAぶら下がりといえば言いすぎかなぁ。

 学歴信仰はともかくとして、経営だけは学校優等生ではダメなんですよね。企業は常に競争や競合を勝ち抜く必要があるため、教科書や参考書に精通しているだけでは負けてしまうからです。戦争で類型的な戦術を取ったら、たちまち見破られて負けるに決まっています。企業経営もそれと同じですから、学校で学べることには限度があるのです。過去の知識や事象に精通しているだけでは評論家かモノカキにしかなれない。現場の経営は常にクリエイティビティが求められるといって過言ではないはずです。さもなきゃ起業どころか、ライバル企業に勝てるはずがない。

 ところが、MBAで学ぶのは過去のことばかり。あたりまえです。先のことなんて誰も分かりませんから。そもそも元祖とされるハーバード大学のMBAは、会計の専門学校としてスタート。それが発展して現在の2年制専門職大学院になったのです。会計学をベースとして、マネジメントやマーケティング、人材資源管理などが追加されてきたという経緯を正しく理解しておかないと、期待や誤解が妄想のように膨張してしまう。今でもハーバードやペンシルバニア大学のMBAを人生大逆転の魔法のように信奉して目指す人がいるだろうけど、経営の本質がクリエイティビティであることをきちんと理解すれば、そのコアの部分は学校ではとても学べないことに気づくはずなんだけどね。

 もしも仮に、MBAに経営の特効薬があるとしても、それを競争環境でみんなが服用すれば、たちまち効き目が減退するに決まっています。けれども、ボクたちは小学校の頃から教員に従い、教科書を素直に覚え、試験に回答するテクニックを身につけてきました。この段階でオリジナリティはまったく不要であり、そんなものを不用意に発揮したら高得点は取れないはずです。

 しかしながら、社会に出てから人真似ばかりでオリジナリティや創造性を発揮できなければ、ぶら下がりといわれても当然ですよね。そんなMBAホルダーが社長や経営幹部になれば、会社を殺すに違いないという意味なので、くれぐれも誤解しないでくださいね。

 

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2019年11月27日 (水)

ゴミ屋敷?

 

 犬の福助の口腔にメラノーマ(悪性黒色腫)が見つかり、ちょっと前には姿も形もなかったことから、悪化速度が早いらしく、そろそろ覚悟が必要になってきたようです。来月には満18歳の高齢ですから、ガンくらい出てきても不思議ではありません。ヘルニアを除いて、むしろ大きな病気をしなかったほうじゃないかな。子犬の頃はヤンチャもいいところで、そこが気に入っていたのですが、とうとうそんな年齢になったのかと自らも振り返りつつ、時の流れの無情さをしみじみと実感しております。

 それやこれやと、年末にもなったことから、突如として事務所の大整理を決意。まずは雑誌や書籍を処分することから始めました。仕事柄ではありますが、夥しい量なんですよね。以前にまとめてブックオフに送ったことがありますが、ちょっと目を離しているうちに、再びどんどん増殖したようです。これまでに製作した雑誌も少なからず保存していたのですが、これも資料になり得る一部を除いて廃棄することにしました。売れそうな書籍は例によってブックオフへ。6箱ほどありましたが、まとめて2000円ちょっとですってさ。買い取り値が0円も珍しくなかったので、紙の本も確実に限界を迎えているようです。

 それだけでなく、これまで見て見ぬフリをしてきた産業廃棄物も思い切って手をつけることにしました。まずは、フロッピーディスクです。1990年代から仕事で使ってきたので、大きな紙バッグで8個ほどにもなります。MO(光磁気ディスク)もかなり含まれており、懐かしいなぁと思いつつも、現代ではこれを読み取る機械は博物館級の骨董品なので、まったくの完全なるゴミであります。

 ちなみに、これらは幸いなことに「燃えるゴミ」扱いらしく、普通に回収してくれるそうです。かといって記憶メディアですから、生ゴミのように無造作に捨てるわけにはいきません。せっせとラベルを剥がし、個人情報にかかわりそうな内容のものはフロッピーの中にカッターを入れて破るなどの措置を施したあげくに、ゴミ袋にまとめました。この作業が予想以上に大変なんですよね。ひとつの紙バッグを処分するだけで、相当にへこたれます。MOを除いたすべてがテキストデータですから、あふれるほど詰め込んだ紙バッグひとつでも、今なら5ギガのUSB1個で十分じゃないかな。活発な技術革新も結構ですが、このように時代遅れの産業廃棄物を大量に発生させることになるわけです。

 そして、次の大きな課題もボクを待っているんだよな。それが銀色の円盤で虹色の光を放つCD-ROMなのです。これがまたフロッピーディスクの数を上回るほど大量に残っています。破くわけにはいかないし、カッターを使えば手のほうが切れそうだし、シュレッダーならすぐに刃がダメになるでしょう。始末に負えないので、使えるものなら残しておきたいですけど、今ではクラウドや、前述のUSBが常識。近年のノートパソコンはCDの読み取り機構すら付いていません。

 こうなったら処分するしか選択肢はないやろ、でんがなまんがな、ですがな。つまるところ、ボクの事務所は利用可能性ゼロのフロッピーディスクとCDによって、久しくゴミ屋敷さながらだったわけです。似たような事務所は案外多いんじゃないかな。貯め込むのは無造作にやれても、廃棄は心理的な負担や手間がかかるので、なかなか踏み切れません。

 にもかかわらず「桜を見る会」の招待者名簿は速攻でシュレッダーにかけたというのですから、官僚並びに国家公務員の皆様はすごいですね。とてもじゃないけど尋常な神経ではありません。というより、民間の会社なら普通はド叱られるはずですけど。

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2019年11月26日 (火)

間違い

 

 初校段階で見つけたのがラッキーといえばそうですけど、ある原稿で2つも勘違い、誤認を犯してしまい、ショックを受けております。この年齢になっても、なお間違えるかなぁ。それとも認知能力が衰えてきたのでしょうか。いずれにしても、深く深く落ち込んでおります。

 そういえば、ビートたけしも女性関係で迷走しているかのように報道されています。高倉健も、晩年は親戚筋に大変に評判の悪い女性と親密だったみたいですね。自著の出版を記念した対談でも顔をさらさないのはちょっと怪しく感じますが、ボクが男のせいか、彼らの心情は分かるんだよな。

 枯れ葉が舞い落ちる褐色の晩秋は、どうしたって寂しいのでありますよ。それまでに喜怒哀楽はいろいろあるといっても、実のところ我慢の連続でもありまして、よほどの権力者でもない限り、好き勝手をやって生き続けることはできません。講談社を襲ったことのあるビートたけしだって、やはり自由だったとはいえないはずです。人目も山のように周囲にありますからね。

 そんな人が、いよいよ残りの人生を見据えなきゃいけなくなったら、心的なリミッター=抑制を外したくなるのはよく分かります。性格や容貌がどうあれ、そういう局面に巧妙に入り込んでくる女性もいるはずです。「後妻業」とは言わないまでも、女性の恋愛は生存戦略ですからね。かくて、彼らは「最後」と思われる「純愛」にのめり込んでいく。

 そのこと自体は批判されることではないでしょう。功成り名を遂げ、資産もあるからこそ女性が寄ってくる。浮気だろうが何だろうが、長く仕事をして社会にそれなりに貢献してきたのですから、晩年くらい好きなことをやらせてやれよ。むしろ、遺産が減るという功利的な理由をひた隠しにして大反対する親族のほうが卑しいではありませんか。

 しかしながら、人間は決して単純な生き物ではないので、正真正銘の純愛や献身なんてあるはずがない。けれども、計算高い我利我利亡者にしても、愛情がまったくないわけではないでしょう。逆に長年連れ添った恋女房でも、「こいつが死んだら若い男を見つけて」という劣情を心の底で燃やしているかもしれません。

 もしかすると、そうしたモロモロが吹き出してくるのが本当の晩年ってやつかもしれないな。静けさの中でそこはかとない孤独を感じる秋というより、極彩色の花々が一気に狂い咲き、求めても決して得られない何かに向けて乱舞する異様な季節なのでしょうか。とすれば、これまではしなかった間違いをやってもおかしくありません。それでこそ生きている証なんてね。ああ、何というつまらない言い訳なんだろうか。

 

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2019年11月25日 (月)

難関フィルター(後)

 

 かつて司法試験は日本で最も難関とされていました。何しろ合格率は僅か3%前後。100人が受験して3人しか合格できません。例年2万5000人〜3万人が受験していましたが、記念受験や試し受験の多い司法書士試験とは違って、本気で受験準備してきた人たちがほとんどなので、実質的にも相当厳しい合格率だったはずです。

 今は法科大学院の修了が司法試験の受験資格となり、合格者数も増加したので、昔とは比較にならないほど楽になりました。ただし、法科大学院を経由しないサブルートの予備試験は最終合格率が3%台なので、この試験に難関の伝統が受け継がれているともいえそうです。 

 このように旧制度の司法試験は超がいくつも付く難関だったので、数点の差で何年も不合格が続く人が少なくありませんでした。このため東京大学卒業者でも5年10年の司法浪人は普通であり、聞くも涙、語るのも涙の苦労話はザラにあります。ただし、ある時にボクは、普通の人が5年も10年も司法浪人を続けられるだろうかという疑問を持ったのです。

 大学時代からの三畳一間に住み続け、警備員のアルバイトをしながら5年後に悲願成就という昔ながらのケースもありますが、結婚して子供までいる人が10年の苦節を経て合格という実例もあります。どうやって生活していたんだろうと、不思議に思いませんか。

 こういう場合は親が弁護士事務所を経営していて、子供に継承させるために受験専業を支援していることが考えられます。あるいは親が医者とか企業のオーナーとか、とにかく保護者がカネ持ちでなければ、2〜3年程度が精一杯でしょう。ということは、難関試験であることがライバルを淘汰するバリアーになっているといえるではありませんか。そして、難関であればあるほど有資格者のステイタスや特権も堅持されます。
 これは就活時の「学歴フィルター」と同じで、「難関フィルター」といえるのではないでしょうか。 

 それでも司法試験の出題はすべて法律の範囲内であり、法学部の卒業者でも試験自体はビギナーですから、スタートラインは基本的に同じです。家計的なハンデはあっても、必死で頑張り続ければ必ずしも不可能とはいえせん。ところが、大学受験は違うんですよね。ごく簡単に言い切れば、幼稚園、小学校、中学校、高校までの勉学の集大成といっていい。大昔の試験なら浪人を重ねれば学力差をリカバーできましたが、昨今の入試はそんなレベルではありません。東京大学を始めとする上位の国立大学や私立大学、そして医学部などの場合は、何度受験してもアウトということがあり得ます。家計が豊かなら合格しやすいとは言いませんが、貧乏な家庭よりはるかに有利であることは誰も否定できないですよね。東大生の親の6割以上が年収950万円以上という事実が、何よりの証拠じゃないですか。 

 さらに、私立大学では幼稚園から無試験のエスカレータという恵まれた人たちが存在します。こんな人たちが大手企業に就職。「あの会社のアイツとは幼稚園から一緒なんだよね」という話を聞かされて、マルクスとエンゲルスが喝破した階級社会は現代も続いていることをつくづく痛感したのであります。 

 断っておきますが、そう話した人に特権意識を感じたわけではなく、むしろ気さくで分け隔てのない人柄でした。ボクの乏しい経験では、カネ持ちの家庭に育った人ほど素直で、嫌味がまったくない、好ましい性格だったように思います。日本の象徴的最高位につかれたばかりの御方も同様で、円満で心優しいご性格に見受けられます。 

 それに比べて、ボクのような貧乏育ちは、やはりどこか下品で、賎しさを隠すことができません。ただね、いかに幼児の頃に優秀だったとしても、経済的な余裕がなければ私立のエスカレータ幼稚園に通うことはできず、どんなに努力しようが日本を象徴する皇族には絶対になれないのです。自由民主社会といいながら、このように本人の能力以外に基づくバリアーやフィルターがあっていいのですかと、皆さんに問いかけたいんだよな。

  もしかすると、そもそものアタマの出来がカネ持ちや先祖代々の高貴な御方とは違うと考える人もいるでしょう。そんな人には、いつも赤ちゃん取り違え事件の結末を説明することにしています。カネ持ちの家に生まれたけど、間違えて貧乏な家に引き取られた赤ん坊は苦学して夜間高校を卒業。仕事に満足できず、会社を転々と変わりました。一方、カネ持ちに引き取られた貧乏な家の子供は、日本でもトップの私立大学を卒業。大手商社の社員を経て、傘下の企業の社長に就任しました。

  ホラね。この話のどこに、天賦のアタマの差が出てきますか。親の経済力が子供の学力と将来に影響するということ以外に何か言えることがあれば、教えてほしいと思います。 

 しかしながら、ボクは人間すべてが同じ能力を持つなんて無茶なことは言いません。それぞれ違っているべきであり、さもなければ何十億人も地球上に存在する価値はないじゃないですか。だから、親の経済力による学力&学歴格差も仕方ないとすらいっていい。血筋だって、おそらくそれなりの違いはあるはずなので認めるにやぶさかではありません。 

 ただし、社会にいったん出たら、学歴や家柄など、すべてのフィルターを通さない完全な実力主義、能力主義であるべきです。その結果として昇進や役職や収入に格差が生まれても、受け入れるしかないですよね。誰もがオリンピックで金メダルを取れるはずないですから。 

 けれども、誰しも自分なりの色眼鏡を掛けているので、果たして完全に公平平等な人間判断や人事なんてできるんだろうかと、これまた疑問を差し挟む人がいるでしょう。答はイエスです。第2次世界大戦中の米軍海兵隊では、将官クラスでも降格され、抜擢人事も常識でした。有能であれば、ウェストポイントを出ていなくても、指揮官に起用。大きな作戦の重職を任せたといわれます。その一方で、日本は陸軍大学や海軍大学を卒業した席次がすべてであり、ミッドウェーで虎の子の航空母艦を3隻も撃沈されたにもかかわらず、南方に栄転なんてことがまかり通っていたのです。 

 つまり、長きに渡る安定が保守的なバリアーを生みだし、それがフィルターとなって人材が選別されていく。それによって滅びへの道が踏み固められるといっても過言ではないような気がします。こう考えれば、バブル崩壊以来、日本が30年にもわたって低迷してきた理由が分かったような気がしませんか。

 

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2019年11月22日 (金)

難関フィルター(前)

 

 本日は締め切りがあるので簡単に終わりますね。

 文部科学大臣が「身の丈に合った」なんてアホなことを言い出して、大学入学共通テストで導入される予定だった英語の民間試験が先送りになりました。それだけでなく、数学と国語の記述式も議論が噴出。こちらもどうなるか分かりません。さらには、某予備校関係者が審議会などに入り込んでおり、利益誘導したのではないかという報道も活発化しています。

 そうした動きはあっていいのですが、これまでのセンター試験にかわって、新しい大学入学共通テストが実施されるのは2021年1月なんですよね。つまり、あと1年ちょっとしかない。先に並べた問題があるとすれば、どうしてもっと前から俎上にのせなかったのかと不思議に思いませんか。あの大臣の失言をきっかけに大騒ぎになり、あれもダメ、これも見直しという具合です。ボクは今年4月に大学入学共通テストに関する記事を書いたので、何を今さらというのが正直な感想なのです。パブリックコメントなどを通して、それなりに合意を得てきたはずですから、様々な疑問は感じても、決定事項として記事化しました。それを、まさに卓袱台返しですからね。

 確かにね、英語における民間試験の利用は地域でも所得においても不公平が発生します。大都市部にいて、親がそれなりの収入があれば、何度も受験して試験に慣れてから、2回と予定されている本番にチャレンジできます。けれども、試験会場が遠方にある地方在住者は受験するだけで交通費などの経費と時間がかかります。家計が豊かでなければ、何度も受験費用をねだるわけにはいかない。

 だから、「身の丈」発言で蒸し返すのはいけないとはボクは言いません。そりゃ不公平ですよ。だったら、大学受験は不公平ではないのかと、どうしてそこまで議論が持ち上がっていかないのか不思議でならないのです。このブログで何度も紹介したように、東京大学の学生の親の6割以上は年収950万円以上ですぜ(日本学生支援機構「学生生活調査」2016年度)。ボクの家もそうでしたが、そもそも親が貧困で喧嘩ばかりしている環境で子供が勉強に専念できるはずがない。加えて、学習塾や私立の小中高校など、家計格差は教育格差に直結していきます。また、地方は大都市部に比べて受験情報に乏しいので、ここにも明らかな不公平が存在します。

 こんなことは昨日や今日に始まったことではなく、戦前、いや江戸時代からずっと続いてきたことです。なのに、英語の民間試験だけ不公平だと大きな問題にする。だったらさ、大学受験そのものを根本的に見直す気はないのかよと、ボクは言いたいわけです。

 そもそもとして、試験は学力による選別だけでなく、特権階級または上級国民を存続させる仕掛けにもなっていることに気づくべきです。封建時代は血族によって階級が継承されましたが、自由民主社会の現代は大学受験などの各種試験が階級を間接的に選別する、いわば「難関フィルター」になっているのです。来週のブログで、そのことを具体的にご紹介するつもりです。

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2019年11月21日 (木)

不動産

 

 経済学をまともに勉強したことがないので、皆さんに笑われるかもしれませんが、子供の頃から持っていて、今も解決できない大きな疑問があります。

 どうして不動産、つまり土地に値段がついているのでしょうか。

 農業に土地は不可欠であり、工場だって商店だって土地がなければ仕事ができないので、最重要な「生産手段」として価値があるのは当然としても、そもそも誰が土地を作ったんだよって思いませんか。埋め立てられた土地であれば、莫大な労力と経費がかかっているので、値段がついて当然ですが、そうではない自然由来の土地は、もともとはタダだったはずです。

 誰かが棒かなんかで地面に線を引いて、「ここから内側はオレのものだ」なんてことを言ったのが始まりであるのは確かじゃないですか。それから気が遠くなるほどの長い時間をかけて、すべての土地に値段がつくようになったのですが、そもそもは仕入れ値がゼロですぜ。そこにビルや家を建てれば値段がつくのは当然としても、人類が誕生する以前から存在していた地球上の地面にどうして値段があるのか不思議で仕方がないのです。最初のオーナーは、いったい誰からいくらで買ったというのでしょうか。

 唯一考えられるのは、その土地の所有権を守るためには、他者との闘争が必要だったということです。前述したように地面に線を引いても、「いや、そこはオレんところだぜ」と、誰かが線を書き換えることは十分にあり得ます。そいつを線の外に追い出すには、話し合うか腕力を使うしかない。原始的な状態では、どう考えても暴力が抑止力となり、それがいつしか組織的な武力に発展。荘園制のもとでプロフェッショナルな暴力団、すなわち武士が登場して線引きされた土地を死守した、ということになるのではないでしょうか。

 つまり、土地に値段がつく以前は、奪い、奪われるものだったんですよね。逆にいえば、値段がついているからこそ、殺し合わなくても済むようになったのかもしれない。その証拠に、最大の土地オーナーである国家は軍隊という暴力装置を今も備えています。隣国の奴らが奪いに来るかも知れませんからね。ここに至って不動産に価格があることが初めて納得できるわけです。不動産価格の始まりは武力であり、現在に至っても軍事力がそれを担保しているのでありますよ。

 人類の浅ましくも愚かな長い闘争の歴史が、不動産価格の根源である、と解釈した経済学者はこれまでいるのかな。いないとしたら、ボクの説は著作権があるので、真似しないでくださいね。それより何より、もともとはタダだったはずの土地に値段があることに誰も疑問を持たなかったのでしょうか。

 いずれにしても、国家が突然に「土地はぜーんぶ国のものだからね」というだけで、建物以外はすべてタダになります。国と喧嘩して勝てる個人なんていませんから。

 それこそが共産主義や社会主義の根幹とすれば、もう一度、見直してもいいんじゃないかとボクは思います。国民の自由を奪う思想や主義や独裁的な官僚機構ではなく、土地の私有だけ制限を加わればいいのです。畳1枚が1億円なんていう土地を代々相続できるなんて、やっぱ不公平じゃないですか。

 土地の私有は、昨今流行のサスティナブル(持続可能性)を決定的に阻む最大要因だとボクは思うんですけどね。

 

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2019年11月20日 (水)

美女は受難する

 

 たまにハッとするほどの美女とすれ違うことがあります。渋谷よりも銀座での遭遇率が極めて高いのですが、そこそこの身長で、まだ若いという場合は、きっとこれから苦労するだろうなと、余計なことを思ってしまうんですよね。

 世の中は残念なことにまだまだ男性社会なので、綺麗な顔立ちで生まれた女子は、ブサイクな女子より生涯収入が圧倒的に高いといわれます。仕事なんかしないでも、自家用飛行機を持つような大金持ちに見そめられたら、人生大逆転ですもんね。中学の頃から美女として隣町まで知られる存在であれば、芸能事務所がスカウトに来るので、モデルや女優など、いくらだって仕事が来るわけですな。ああ、羨ましい。

 なんてね、これまではそんなことを思っていたのですが、どうも実態は違うんじゃないかと。あちこちから声がかかるのは結構ですが、ヤバそうな方面のワル男も近づいてくるんだよな。普通の男は無理目に感じて遠巻きにするのに、こういう男は平気で見えない壁を乗り越えてくるので、自然に親密になってしまう。少しばかりの権力を持つ教員なんかも、邪悪な下心を発揮することがあるんじゃないかな。

 というわけで、夜の明かりに群がる蛾のように男が寄ってくるけど、実のところは性欲だけでロクな奴はいません。だから、彼らの扱いを間違えると、恨まれてハラスメントを受けたり、ヘタすりゃレイプされることもあるはずです。そこまで行かなくも、ワル男はイケメンが多いので、深夜のクラブなどでちやほやされていい仲になったら、覚醒剤や大麻やコカインやMDMAが出てきてクスリ漬けにされるって危険もあり得ます。逮捕された某女優もそんな経緯だろうと思いますよ。

 つまり、美女であればあるほど苦労するのではないでしょうか。普通の会社にしても、就活段階から目をつけられてホテルに誘われたり、入社すればしたで、同年代の若者を横目に上司や妻帯者が寄ってたかってくる。彼らの多くは立場や役職を利用して迫ってくるから面倒なんですよね。

 それに比べて、大変に申し訳ない言い方ですけど、ブスの女性は能力しか求められていないので、生きる上ではむしろ楽ではないでしょうか。愛嬌さえあれば、美女よりも付き合いやすいので、真面目で誠実な男との良縁に恵まれると思いますよ。

 俗に「美女は3日で飽きるが、ブスは3日で慣れる」と言われますが、これはボクの経験として間違いのない事実です。実際に、アメリカ映画で活躍する世界的な女優の多くは必ずしも美しくないですよね。アンジェリーナ・ジョリーなんて、唇がどーんとデカくて厚いじゃないですか。大昔はイングリッド・バーグマンなど「世紀の美女」がスクリーンに大映しされていましたが、現代は美貌よりも強い個性が求められているのです。目鼻立ちが整った美女ばかりが出てくる映画なんてつまらないですもんね。

 そんなわけで、もしも美女に生まれたら、よほど自分を強く持っていないと、簡単に奈落の底につき落とされてしまいます。男だけでなく、同性からも嫉妬やねたみによるイジメを受けることもあるでしょう。これが男性社会の現実というほかないので、結論はありませんが、美女に生まれついたら、いっそ悪女になり切るのも有効な方法かなと。息を呑むほど美しい悪女であれば、そこらのワル男にナメられることはないでしょう。教員や上司や妻帯者も、社会的立場を脅かされる可能性があるので、簡単には迫ってきません。イヤな奴に口説かれそうになったら、スマホを取り出して録音機能をオンにすりゃいいだけ。そういう女だとみんなが分かれば、ぐっと生きやすくなるじゃないですか、奴らが狙うのは、つけこみやすい気立ての良い美女なのです。ホント、卑怯だよな。

 逆にボクのような変人は、美貌の悪女というだけで、ものすごく惹かれます。そんな女性ならいくらでも騙されて結構。すべてをなげうってもいいとすら思いますが、滅多に見かけることはありません。菜々緒も近頃は路線を変えちゃったもんな。ああ、つまらん。

 

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2019年11月19日 (火)

人工知能

 日本で初という人工知能に特化した大学院を取材してきました。ボクは80年代から90年代にかけて人工知能を知る機会があり、要するにツリー状の選択を繰り返すだけのエキスパートシステムが精一杯と知って、大いに失望したことがあります。

 これは素人判断では決してなく、最先端の研究所に留学した経験もある工学系の教授も同じような感想を漏らしていました。このため彼は、鉄腕アトムの実現は遠い未来に任せて、知能部分を人間が担当するウェアラブルのロボット開発に専念することにしたそうです。人間が乗り込んで操作するガンダムとかエヴァンゲリオンと同じですな。

 ところが、近年はハードウェアの進歩が目覚ましく、そこらのスマホでも6ギガを超える情報処理能力を持っています。ボクの若い頃は3.5インチフロッピー1枚でパソコンが駆動。RAMの容量はせいぜい1メガでした。その千倍がギガですから、当時のフロッピーで6000枚以上の情報が、スマホの内部メモリーとしてグルグルと駆け巡っているわけで、まさにメガ点です(ここ笑うところなんだけど)。ビッグデータを扱うコンピュータなら、さらに千倍のテラとなり、そのはるか上をいく量子コンピュータも実現しつつあるようです。

 こうなるとボクのような文系は手も足も出ないのに、堂々と取材に行くから記者という生き物は無謀なんだよな。いずれにしても、こうした大量高速の情報処理が可能になった高機能コンピュータに、人間の脳をモデルにしたディープラーニング(深層学習)を導入し、ビッグデータとリンクさせることで、人工知能が急速に発達したらしい。それもここ7~8年という短期間のことなので、人工知能に特化した研究科が日本初になるというわけです。

 こうした人工知能が人間の仕事を奪うだけでなく、2045年には人間の知能を超えるシンギュラリティが到来するともいわれていますが、ボクは真っ先に経営幹部と政治家を人工知能に交換するべきだと考えております。経営者が人工知能に置き換われば、過重労働や詐欺まがいの資金繰りをしなくなり、より従業者に優しい経営を期待できるではありませんか。少なくとも労働基準法は厳守するはずです。時代遅れのゾンビ企業がジタバタして傷を広げることもない。収賄や贈賄はもちろん、背任や横領もしないので、安心して経営を任すことができます。億単位の給料を支払う必要もありません。これは官僚も同じですから、霞ヶ関のトップを軒並み人工知能にしたほうが国民は幸福になるんじゃないかな。

 官僚の上位で権力を振るう国会議員を人工知能にするなら、衆参両院定数の713台も必要ないので、経費を大幅に削減できます。せいぜい5~6台を各地に配置してネットでつなげれば十分ではないかな。国会議事堂も議員会館も、専用車や関係者なども不要となるので、その分を医療や介護など社会保障に回せるではありませんか。腹黒い大人の事情や利権の誘導、桜を見る会なんてワケのわからないことや、台風被害のさなかに自宅に帰るなんて身勝手なこともしないでしょう。

 思い切って国家元首を人工知能に取り換えてネットワークすれば、待望の世界平和がたちまち実現するはずです。使えない核兵器を製造して外交の駆け引きに利用することもなく、国家間の利害衝突も最適解で調整されるので、あるゆる軍事力を廃絶できます。

 こう考えていくと、いいことばっかりじゃないですか。平和を阻害してきたのは紛れもなく政治家という人間であり、人間を不幸にしているのも人間にほかならない。だったら、鶴瓶じゃありませんが、人工知能に取り換えないという選択肢はないですよね。

 少なくとも人工知能の発達は、人間とは何か、指導者は何をすべきかを逆に明らかにしていくと思うんですよね。だから経営者や政治家は人工知能による未来像を悪夢のようなディストピアとして喧伝する。けれども、ボクら凡人は人工知能をことさらに怖れる必要はなく、むしろ歓迎すべきじゃないかな。それくらい世界は行き詰まっており、リーダーたちの多くが甚だしく劣化しているようにボクは感じるのであります。

 

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2019年11月18日 (月)

渋谷スクランブルスクエア

 

 もうそろそろ並んで待たされることもないだろうと、行ってきましたよ、渋谷スクランブルスクエアに。渋谷エリアでは最も高い地上47階建て。そのコンセプトは「混ざり合い、生み出され、世界へ」だってさ。そんなご大層なことをのたまうんだから、さぞかしなんだろうと大いなる期待を持って出かけたわけです。

 でもって、いきなりで恐縮ですが、結論から言えば、近頃のほとんどの物事と違うことなく、完璧な能書き負けじゃんかと。言っていることと、実際にあることがかけ離れ過ぎています。

 第一に、建物自体が羊羹を立てたように扁平なんですよね。実際にはそうでもないんだろうけど、エスカレーターのスペースによって、フロアがヨコに広くタテに狭くなっているので、そこを歩く感覚として、建物が薄っぺらく感じるわけです。そんな限られた面積にショップやレストランを配置したため、必然的にワンフロアあたりの店舗数が少なくなり、商業施設では必要不可欠な賑やかさに欠けた印象を受けました。整然とし過ぎなんだよな。これでどうして「混ざり合う」なのか、ボクは不思議でなりません。フロアの見通しが良すぎるせいか、むしろスカスカというのがボクの印象です。駅ビルという制限はあるだろうけど、テナントがいつ撤退しても、ジャンルを問わず補充できる汎用性が、つまらない建物にしている根本的な原因ではないでしょうか。

 次に、ショップやレストランのテナントも、定番的で新鮮味や驚きがまるでありません。「もんじゃ」の大型店は庶民的な雰囲気で、人気が出そうですけどね。そうなると、他の高級店はイメージがつり合わなくなるんじゃないかと心配してしまいます。いずれにしても、経営も運営も鉄道会社で大企業ですから、とんでもないアバンギャルドはそもそも無理ってことでしょう。かつてのパルコやシードを期待するこちらのほうがワガママというものですが、それにしても冒頭のコンセプトは盛り盛りのアゲアゲが過ぎるんじゃないかな。単に駅ビルの背丈が高くなっただけというのがボクの偽らざる印象です。いまの渋谷は、入れ物の形がどんどん変わるだけで、中身はほとんど変わっていない。長年にわたって乗り換えで大迷惑をかけ続けたあげくにこれかよと、あまりにも創造性のないことに失望しました。

 つまるところ「これが日本だ、私の国だ」(五つの赤い風船『遠い世界に』)ってことなんだろうな、はぁ。。。。

 

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2019年11月15日 (金)

ネット不信

 

 5年ほど前に、ネットで見つけたオーダースーツ専門店を利用したことがあります。こうした店はいろいろあって、中には2~3万円という廉価も見かけるのですが、そんな値段でオーダーってありかなと思いますよね。それで3つの店舗に実際に足を運び、それなりに話を聞いた結果、ある店に決めました。

 とはいっても、まったくゼロの状態から型紙を起こすフルオーダー=ビスポークではなく、予め用意された型紙の細部を体形に合わせて調整するパターンオーダー。そのほうがデザイン的にも納得できるからです。体形にピタリとあっても、気に入らないスタイルでは仕方ないですからね。また、人間の体形は常に変化するので、高額なフルオーダーにしても、ジャストフィットであればあるほど、太ったり痩せたりして合わなくなることも考えられます。そうしたコスパを考慮すれば、パターンオーダーがスーツ初心者には最もふさわしいのではないかと。

 さて、仕上がりですが、結論を急ぎますね。ズボンはベルトなしでも微動だにしないほどのピチピチで、クリースも左右に引っ張られてはっきりしません。ズボンというよりタイツに近い。立っている時はまだしも、椅子に深く座ればケツが破れそうなほどです。ジャケットはまぁまぁかなと、着用して鏡で子細に見てみると、右側の肩に窪みがあるではありませんか。真正面から見て、肩がスムースなラインを描いていなければスーツとして失格です。そのラインが、肩から襟を経たシャツまわりまでなだらかに隙間なくのぼっていくのが理想なのですが、その窪みのせいか違和感がありありなのです。

 それでクレームを入れると、「布を1枚当てるだけで解決しますから」と言う。ボクはそんな簡単なことではないだろうと思いましたが、先方がそう言うのですから従いましたよ。1週間後に試着してみると、いよいよ窪みが深くなっている。今度は「工場にきつく言っておきますから」と担当者。またまた1週間後に試着すると、もはや肩のラインはガタガタで、むしろ最初のほうがマシではないかという状態。ここに至ってボクは激怒ですよ。

 ちなみに、ボクの体形はほぼ完璧といっていいほどの平均でありまして、吊しのジャケットなら袖を詰めるだけでピッタンコカンカン。決して大げさではなく、一昨年の冬にバーゲンで購入したジャケットは「オーダーですよね」と言われたほどです。ズボンだって腰回りと裾を合わせればまったく問題なし。だったらオーダーなんてしなくても良かったのですが、よせばいいのにゼニアのイタリアンスーツが欲しかったんですよね。

 そんなにも平均的な体形の人間にフィットしないパターンオーダーがあっていいのかなぁ。補修のやり方もおざなり極まりなく、2回も我慢したのだから爆発してもいいだろうと返金を要求しました。すると驚くほどあっさり承諾されたので、こうしたトラブルはボクだけではないんじゃないかな。全額をキャッシュで持参してきたのも、銀行振り込みにして証拠を残すのを避けたのかなとうがった見方をしたくなります。

 いずれにしても、こうしたクレームやトラブルは、ネットで検索してもほとんどヒットしません。一般論としての注意はあるんだけど、店ではなく、オーダーする側に対してのアドバイスばかり。実名を出せば営業妨害で訴訟沙汰になりかねないにしても、ボクと似たような事例は結構あるんじゃないかな。

 この不快な経験があるので、食べログの件も含めて、ネットは絶対に信用しないと固く決意しました。それでも、オーダースーツへの期待感を無惨に裏切られた経験は、トラウマに近い心の傷になっております。

 

 

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2019年11月14日 (木)

面倒くさっ

 

 『アナと雪の女王』は、Le It Go、「ありのままで」と唄うけど、これがね、実にまったく難しいんだよな。そもそも「ありのまま」の自分ってホントにあるのでしょうか。

 自分というのは、「他人が思う自分」と「自分がそうありたい自分」の2種類しかないんじゃないかな。「ありのまま」の自分なんて、その2つの間にこしらえた身勝手でワガママ極まりない虚像であって、そんなものはどこにも存在しないと思うぞ。

   そして、「他人が思う自分」と「自分がそうありたい自分」が完全に合致している人も、どこにもいません。多かれ少なかれギャップが必ずあって、それが人間を傷つけ苦しめ、時には心に病をもたらし、自死に追いやったりする根本的な原因なのであります。

 このギャップを解消する方法は実に簡単でありまして、どちらかを捨てればいい。

 ひとつは「他人が思う自分」なんか完璧に無視する。「自分がそうありたい自分」だけを追い求めるなら、精神はまことに健やかになり、心身ともに向上を目指すことが可能です。逆に自分の理想像という無理めの目標はあっさり捨てて、「他人が思う自分」だけを徹底的に気にしまくる。見てくれだけでいいんですから、方法論としては単純明快。たとえば勇気が本当にあろうがなかろうが、折々に勇気あるフリを続ければ、他人は勇気ある人と認識してくれます。優しいと思われたいなら、ひたすら優しいことをやり続ければいい。ね、ちっとも難しいことではないでしょ。

 ここでハッと分かるはずですが、「他人が思う自分」も、実は「自分がそうありたい自分」の延長線上にあるのです。「自分がそうありたい自分」をベンチマークとして持っていなければ、「他人が思う自分」を感知できるはずがない。ということは、どちらも早い話が、人間の宿痾ともいえる自意識が次々と繰り出してくる、ややこしい錯覚に過ぎないってことです。

 そんなわけで、ボクは20代の初めに「自分」そのものを捨てることにしました。「自分」なんてものはどこにもない。何かをする、またはどこかに移動する、といった物理的な行動の中にしか自分なんてものはないんだという実存主義を心に固く誓ったのです。「我思う、ゆえに我あり」なんてデカルトはくそ食らえ。本当は「我あり、ゆえに我思う」じゃねえかよと。この背景と経緯は随分以前にこのブログで詳しく書きました。

 ところが、ああ何ということでしょうか、またぞろ、くだらない自意識が知らないうちに復活していたんですよね。はぁ、ホント、人間というのは面倒くさい生き物であるよな。アメリカのドラマの定番的な結論のように、それこそ人間的だと愛でる気にはまったくなりません。ひたすら、とことん、面倒くさいとしか思えない。誰か助けてくれないかな。

 

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2019年11月13日 (水)

囲い込み

 

 あまりにも不愉快なので簡単に終わりますが、小学校中学校あたりで、人気の女子や男子の誕生会によばれたりよばれなかったりという悶着というか葛藤がありますよね。誕生会ではないにしても、クリスマスなどで、ほかの子たちは招待されたのに自分だけは声がかからなかった経験って誰でもあるんじゃないかな。

 これは社交性が必須能力となっているアメリカではもっと顕著らしくて、カネ持ち女子のパーティに誘われなかったということで、その嫉妬や怨みから殺人事件に発展。なんていうテレビドラマもありました。

 自慢ではありませんが、ボクは一人っ子で育ったせいか、そのあたりの感覚が奥手もいいところで、むしろよばれたりすると何を話していいのか身の置きどころがないんですよね。だから、むしろ誘われない方が気楽だったので、たった1人のクリスマスは結構あるんだよな。もともとが1人なので、それで寂しく感じたこともありませんが、アイスクリームのクリスマスケーキだけは憧れでした。大人になってから食べてみて、大してウマくなかったので心底がっかりしましたけどね。

 さて、こういうパーティというかおよばれ事というのは、早い話がお友達の「囲い込み」ですよね。嫌いな言葉だけど、グループとしての親密感や結束とかロイヤリティを高める意味があるわけです。だから、よばない奴がいなきゃいけない。誰でも行けるようなオープンなパーティでは有り難みはありせんからね。クローズドな限定であればあれほど、ステイタス感や、エクスクルーシブ感がいや増すわけですな。人間というのは差別的な排他主義をどうしても克服できない生き物らしい。

 それが子供、あるいはティーンエージャーなら、まだ成長途上ということで笑い話になっても、立派な大人で、しかも政治絡みになるとそうはいきません。カネや権力が関わってきますからね。

 ボクにとって首相が税金を使って開催してきた「桜を見る会」は、そのようなものにほかならないわけです。この結論を書くのに随分遠回りしちゃったかな。

 

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2019年11月12日 (火)

人が死ぬ時

 

 今日は晴れて良い日だ。こんな日に消えられるなんて素敵ではないか。

 2009年10月17日。長野県・軽井沢のホテルで遺体が発見されました。遺書が残されており、その冒頭に記されていた文言です。加藤和彦。歌手、作曲家、ギタリスト、音楽プロデューサーなどとして縦横に活躍してきたはずの天才が、クビを吊って自死したなんて、とてもじゃないけど無惨すぎて信じられませんでした。

 ボクが彼の名前を初めて知ったのは、ザ・フォーク・クルセダーズです。「オラは死んじまっただぁ」で始まる奇想天外な歌『帰ってきたヨッパライ』がなぜだか200万枚以上のミリオンセラー。テレビで何度も使用されて社会現象になりましたが、ボクは好きになれず、コミックバンドかと思っていました。けれども、その直後の『イムジン河』で瞠目しました。こんなにも哀切で情緒豊かな楽曲を歌える人たちなんだと、子供心にも見直したわけですね。

 ところが、衆知のように大人の事情によるゴタゴタがあってレコードはあっけなく販売中止。そのかわりに彼がたった3時間程度で『悲しくてやりきれない』を作曲したエピソードは知る人ぞ知ると思います。

 ザ・フォーク・クルセダーズはプロデビューして1年で解散しましたが、加藤和彦は1971年に作詞の北山修とコンビで『あの素晴しい愛をもう一度』を発表。この歌は、それから半世紀近くを経ても、フォークソングが歌われる時には必ずといっていいほど最後に演奏されるスタンダードになっています。並外れた作曲の才能は、同じく北山修が作詞した『白い色は恋人の色』(ベッツイ&クリス、1969年)でも感じられますが、ボクは独学で弾き始めたギターでも大きな影響を受けています。スリーフィンガーは、サイモンとガーファンクルが始めた演奏テクニックだと記憶しますが、日本でいち早く取り入れたのが彼だったんですよね。

 ザ・フォーク・クルセダーズの解散後はサディスティック・ミカ・バンドを結成。イギリスのミュージックシーンにもインパクトを与えたといわれます。残念ながらロック系は好きなジャンルではなかったので、このあたりからまったくのご無沙汰。もちろん突然の訃報に驚きましたが、天才には凡人にとって計り知れないほどの苦悩があるとしか思えませんでした。むしろヘンな詮索や憶測をするほうが失礼ではないでしょうか。

 にもかかわらず、彼を再び思い出したのは、亡くなって今年で10年になるからです。ある会食の際に、当時のお仲間で作詞家の松山猛さんがコンサートを開催するというので、ちょっとお話を聞いた時に教えられました。ところがマスメディアではそんな話題のカケラもありません。世間が忘れっぽくて恩知らずなのは大昔からですが、稀代の天才すら例外ではないと痛感して2度目のショックを受けました。生きている人間は本当に残酷だよな。

 それでも団塊世代のジーサンたちは相変わらず『あの素晴しい愛をもう一度』を歌って胸を熱くし、『イムジン河』で目頭を潤ませる。そのうちいったい何人が加藤和彦の優しく柔和な笑顔を思い出すでしょうか。彼が亡くなったのは62歳でした。平均年齢に比べたらずっと若い。でもさ、長生きしたところでいったい何ができるだろうと、おそらく間違いなく、彼は今のボクのように感じたんじゃないかな。

 死にたいというより、むしろ生きていたくない。

 これも遺書の一文です。彼とボクを比べるのはあまりにも不遜で分不相応ですが、たまに同じことを思うんですよね。

 

 

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2019年11月11日 (月)

蝶ネクタイ

 

 温暖化、というより熱暑化によるクールビズの普及によって、ネクタイの売上げが激減しているそうです。もともと消耗品ではないのでリピートニーズは乏しく、そこそこ揃えてしまえば毎年買うようなものでもありませんからね。想定できる主要ターゲットは新人社員ですけど、こちらも少子化で人口そのものが縮小しております。ネクタイ業界としては、じり貧をどうすりゃいいんだと悲鳴を上げているんじゃないかな。

 革靴業界も、そうした低迷がそろそろ深まりそうな気配を見せています。先週のブログでご紹介したように、男女ともにスニーカーやバスケットシューズが爆発的に普及しており、新しい革靴やパンブスを誰が買うんだろうという状況になりつつあるようです。革靴業界は一足で数十万円というハイエンドなブランドもあるので、そうした高級品はお金持ちに愛用されることで存続するでしょうが、数万円程度の普及品がヤバイんですよね。若い人たちがスーツにスニーカーというスタイルに慣れたら、たちまち危機的状況に陥ることは間違いありません。

 実はボクも革靴族ではないんですよね。ジャケパンの時には合成スウェードの黒靴で、本格的な革靴を履くのはスーツの時だけと決めています。おかげで一足しかない革靴は、もう10年以上にもなるでしょうか。使用頻度が低いのでカカトの減りはほとんどなく、月に1回くらいは靴墨で手入れしてきたので、今でも艶光りしております。こんな使い方をしていたら、革靴も耐久消費財となって、リピートニーズはどんどん遠ざかっていきますよね。

 では、ネクタイも靴もオールドビジネスになってしまうのでしょうか。モノカキの仕事で機械式腕時計も専門分野にしてきたので、ボクにはそうは思えません。クォーツの登場でいったんは時代遅れになったゼンマイ駆動の腕時計が、1990年代には高級品として華麗に復活したからです。

 技術進化というのは一方通行であって、決して逆戻りしないのが常識なのですが、なぜだか腕時計はクォーツとメカニカルが共存しています。その理由は様々に語られますが、人間の肌に近いものは必ずしも工業製品と同じようにはならないといえるかもしれません。とすれば、ネクタイも革靴も十分に逆転を狙えるってことになりますよね。

 しかしながら、どんなことも単純に「時代は繰り返す」とはなりません。革靴の場合はすでに、靴紐のないモンクストラップのシューズが人気を高めています。ボタンで甲の部分を留めるスタイルで、修道僧が考案したことからモンクとネーミングされました。礼装は靴紐のあるレースアップ以外は認められていないのですが、このモンクシューズだけは例外とされているので、フォーマルにも使える汎用性も人気の理由じゃないかな。ボクも靴紐を締める時に息が詰まってぜはぜはとなるので、このタイプの靴が欲しいのですが、昨今は先が尖ったピノキオの木靴みたいなものばかり。たまに気に入ったものを見つけると、ものすごく高価だったりして、なかなか買えません。

 ネクタイの場合はどうでしょうか。しばらく考えてみてください。

 ボクがいま注目しているのは、蝶ネクタイです。これをちゃんと締められる人は滅多にいないと思いますが、ほとんどがフックで留めるタイプなので心配いりません。大きな蝶々からハーフサイズ、棒のようなスタイルもあり、色も黒だけでなく、派手な柄物もあります。蝶ネクタイは日本では寄席の芸人やちんどん屋の格好と思われていますが、これひとつで礼装と認められるスーパーアイテムなのです。ドレスコードがフォーマルっぽいけどよく分からないという場合も、ダークなジャケットに蝶ネクタイなら完璧に通用するんですよね。

 というわけで、モンクシューズと同じ理屈で、これからは蝶ネクタイがイケるんじゃないかと。少なくとも、そうした市場開拓の努力やマーケティングがオールドビジネスには必要だと言いたいのであります。これは少子化が深刻な影響を与えている教育業界も同様です。にもかかわらず、入試がどうだこうだと選別機能ばかりが取り沙汰されている。そんなことより教える中身を見直せよ、と。横並びに慣れ過ぎて創造性が相当に欠如しているとボクは思うんだけどな。もはや文科省に従っていれば生き延びられるという時代ではないはずです。

 

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2019年11月 8日 (金)

12分間の乗り継ぎ

 

 経営幹部の感性が鈍ってきたのか、それとも炎上を怖れた安全第一主義なのか、絵空ごとのコピーを、いかにも空虚な映像とともに流すTVCMが目立ちます。一家団らんや仲良くや幸せだとか共存に世界平和とか、反対する奴がいるはずがない。それゆえに凡庸で心に刺さらないCMなんてカネの無駄じゃねぇかと、ボクが社長なら言うけどね。

 それはさておき、昨日は福井に行ってきました。帰りも往路と同じルートで、福井発の特急で米原に向かい、そこで新幹線ひかりに乗り換えて品川です。でね、そのどちらも1時間に1本という、過疎地のバスみたいなダイヤなんだよな。鉄道だって商売ですから、乗客が見込めなければ仕方ないとはいうものの、その乗り継ぎ時間が僅か12分くらいしかないのです。このため、往路の朝はダークスーツの皆さんが先を争うように改札口にダッシュ。朝の猛々しい品川駅そっくりの雰囲気です。ボクは杖をついているので、そんな真似はしたくてもできず、追い抜いて行く皆さんを横目で見ていました。

 米原駅は小さいので、それでも予定通りであれば十分に間に合います。問題は、何かのトラブルで遅延した時です。ボクは神様に憎まれているせいか、そういうアクシデントの遭遇頻度が極めて高い。福井から特急に乗車して、米原の前駅である長浜まで数分というところで、悔しいことにイヤな予感が的中です。列車がガックンガックンと急に速度を落とすと同時に、「緊急停止信号が入りました」と嬉しそうに(とボクは感じました)アナウンス。米原駅まであと14分程度なのに、完全に停車ですよ。続いて「湖西線からの緊急停止信号を受けました」ってさ。琵琶湖を挟んで反対側の路線の信号を受けてどうして止まらなきゃいけないのか分かりませんが、文句を言っても始まりません。責任者以外は意思決定が許されていない組織ですからね。

 こりゃもう米原駅から1時間後のひかりだなと覚悟を決めていたら、「停止信号が消えたので、運行再開を話し合っています」みたいなことを言う。早く結論を出せよとジリジリしていたら、発車のアナウンスがあって再びゴットンガックンと動き始めました。時計を見ると、間に合うかどうかギリギリ。ボクはこういう事態が死ぬほど嫌いなんですよね。みんなは焦りまくって移動するだろうけど、ボクはハンディがあるので、こんな競争はフェアじゃないのであります。

 もうすぐ米原駅というところで、車内アナウンスによれば大阪方面の乗り継ぎは完全にアウト。けれども、東京方面は間に合うという。いっそ覚悟を決めて次の電車にしようかとも考えましたが、できる限りのことはしようと、杖つきながらの急ぎ足。かろうじて間に合いましたが、身障者にそんなことをさせんなよ。

 ボクが怒っているのは、断じて緊急停止ではありません。そりゃもう危ないよりは安全のほうがいいに決まっています。問題は1時間に1本の電車同士を、12分程度の短い間隔で乗り継ぎさせるってことなのです。

 世の中にはどんなことでもギリギリという人がいます。出社が9時なら、いつもジャスト5分前に来る人がいるじゃないですか。まるで10分前に来たら損でもするかのように、ギリギリで会社に飛び込んでくる。そのほうがテクニックと並々ならぬ努力が必要だろうとボクは思うんだけど、とにかく電車を降りてから小走りになり、エスカレーターでも禁じられている駆け下り駆け上りですよ。ぜはぜは。

 毎日そんなことを続けるんだから、むしろ感心してしまいます。おそらくそうした習慣を持つ人が12分間というギリの乗り継ぎを組んだんだろうね。せめて、30分くらいの余裕があってもいいんじゃないかな。ボクも気が短いほうですけど、飛行機の国際線では、まる1日空港で待機なんてことが何度もありました。乗り継ぎに焦りながらセキュリティチェックやパスポートコントールの長い列に並ぶより、そのほうがよっぽどマシだとボクは思うんだけどなぁ。

 とにかく、トラブルによる遅延も見込んだ乗り継ぎを設定して欲しいものです。その結果として到着予定が1時間くらい延びたところで、そもそもそんなダイヤしかなければ、誰も迷惑しないと思います。ビジネスの出張にしても、もうちょっとのんびり旅を楽しもうよ。新幹線のなかった昔は、東京から大阪に行ったら泊まりだったんですから。ボクは経験ないけど、当時は「じゃミナミの百合子ママんところに顔を出すか」なんてことを言っていたんじゃないかな。そのほうが経済効果も高いはずなんですけどね。

 

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2019年11月 6日 (水)

バスケットシューズ

 

 『MURDER IN THE FIRST/第1級殺人』というアメリカのテレビドラマがあります。この手の番組は1回完結でスッキリ終わるのが普通ですけど、2回3回4回と引っ張るんですよね。だからあまり意識して見ていませんでした。面倒くさいし、テレビのために生きているわけではありませんから。
 白人の女性刑事と黒人の男性刑事がコンビになって殺人事件を追いかけるドラマですが、女性のほうがボクの観点ではどうにも美人とはいえないのも、ヒイキになれない理由かな。しかも子持ちのシングルマザーという設定。最近のアメリカドラマはシングルマザーがやたらに登場するので、おそらく実社会もそうなんでしょうね。

 それはともかく、彼女はいつもデニムのジーンズにバスケットシューズを履いています。こちらもアメリカのトレンドらしく、もはやハイヒールやパンプスなんて娼婦と女性弁護士くらいじゃないかな。犯人を追いかけるにはバッシュのほうが確かに機能的であり、オフィスでもスーツにスニーカーというスタイルは珍しくないようです。日本でも女性のスニーカー姿はここ数年で爆発的といえるほど普及。ボクのまわりでハイヒールを見かけることはほとんどありません。

 そして、黒人刑事のほうですが、彼はいつもジャケットにネクタイを締めています。シャツは白でなく柄物で、もちろんボタンダウン。ダウンタウンじゃないですよ(笑)。それはいいとして、ボトムはダークブルーのデニム。さらに靴も、白のバスケットシューズですからね。タキシードにデニムのジーンズを履かせた著名なファッションデザイナーもいるくらいですから、東京でもネクタイ姿にジーンズはちらほらと見かけるようになりましたが、さすがに長い靴紐を編み上げたバッシュはまだじゃないかな。

 誰がどんな格好をしようが勝手なので、お好きにどうぞとしか言えませんが、ボク自身に限れば、やはりジーンズ姿でネクタイを結ぶことには抵抗があります。アスコットタイやポケットチーフはOKでも、ネクタイはやっぱダメなんですよね。中にはダメージドジーンズを合わせる人もいるので、ドレスダウンなのかカジュアルアップなのか、ワケが分かりませんが、そこにバッシュともなれば、もはやネクタイの意味は根本的に変わってくると思うんですよね。

 その一方で、ボトムがどうあれ、ボタンを開けたクールビズなシャツ姿が失業者のようで落ち着かないのも確か。ネクタイは何の機能も果たさない純粋な飾りですが、見た目をスタイリッシュに引き締める効果は確かにあります。ただし、これにスラックスを合わせると、シワになりやすく後々が面倒。それよりジーンズのほうが便利で楽じゃんかとなり、だったら革靴よりもバッシュのほうが走ったりするのに便利だぜ、と発展してきたんじゃないかな。

 日本は常にアメリカを追いかけてきたので、いずれオフィス街でもバッシュが普及する可能性は強く、もう履いている人も少なからずいるでしょうね。というわけで、ファッションはもともと何でもありではありますが、ボクはまだダメだな。ネクタイをするというのは自分なりのプロトコルなので、スラックスと革靴はセットなのです。窮屈だけどね、これを譲らないということも、ファッションにおける非言語のコミュニケートだと信じているのです。

 なお、明日は早朝から出張なので、ブログはお休みさせていただきます。翌8日から再開予定です。

 

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2019年11月 5日 (火)

幕の内弁当

 

 ニンジン以外は食べ物の好き嫌いはないので、出されたものは何でも食べてきましたが、自分で買う時に意識的に避けてきたのが幕の内弁当です。いろいろとバラエティ豊かなのは結構としても、メインとして何を食べさせたいのかよく分からない取り合わせではありませんか。

 それに比べて、海苔弁当の何ときっぱりしたことか。ご飯の上に、白身のフライと醤油を塗った海苔。どちらかが嫌いなら食べてもらわなくても結構ですから、という潔い意思が感じられます。何だか週刊朝日に連載されている東海林さだお氏のエッセイのようになってきましたが、幕の内弁当はどっちつかずの中途半端の極致に見えるんですよね。

 たとえば、食べた人にしばらくしてから「今日の幕の内弁当で何がウマかったですか」と訊いてみてください。他人にそんなアホなことを訊いたことがないので推定ですけど、即座に特定の食材を指定できる人はかなりレアではないでしょうか。それほどに没個性、主義主張ゼロの食べ物なんですよね。だから、誰も嫌いとはいわない。けれども、積極的に好きとも言わない。ボクが忌み嫌う2番手主義の典型というか、実に卑怯千万な立ち位置にある弁当なのであります。

 決して冗談やレトリックでこんなことを書いているわけではなく、社会に出てからずっとそのように感じてきました、生理的ともいえる根深い嫌悪感があって、これまでに食べたのは10回にも満たないはずです。ましてや高い駅弁で、こんなもん食えるか、小さ過ぎて見えないじゃないか、って後者は別の話ですけど、幕の内なんか一度たりとも購入したことはございません。

 しかしながら、年を経てシニアになってみると、見方が微妙に変わってくるから不思議なんですよね。好きになったわけでは決してありませんが、幕の内弁当が象徴しているのは「角のない円満な人格」であり「まんべんなくバランスの取れた知性」なんじゃないかと。飛び抜けた才能はなく、むしろ凡庸ですけど、欠けた部分はひとつもない。これは国立大学や医学部の入試に合格する秘訣と同じであり、組織社会で出世していく人もそんなタイプではないでしょうか。

 それだけに、幕の内弁当には今もって共感なんか持てないのですが、曲者揃いの弁当界でも「まとめ役」あるいは「ドン」として相当の力量を発揮してきたと考えられます。

 今回はほとんど東海林氏の発想と文体のパクリになってしまいましたが、実のところボクは、幕の内弁当に隠れた嫉妬心をくすぶらせてきたような気もするのです。

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2019年11月 1日 (金)

男の料理

 

 6部門のアカデミー賞が授与されたミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』で、久しぶりに地方公演から戻ったライアン・ゴズリングが、恋人のエマ・ストーンのために料理を作る場面があります。アメリカの映画やテレビドラマでは、そうしたシーンが結構あるんですよね。「男子は厨房に入らず」とはいわないまでも、日本的なメンタリティでは意外に感じられるので、たまたま来日した外国人に訊いてみました。

「エサを付けずに釣りをする奴はいないからね」

 うーむ、ミもフタもないご意見ですが、確かにそれも大きな理由でしょうね。しかしながら、親密な恋人になり、同棲や結婚しても、男がたまに料理をして奥様や子供に食べさせる場面が少なくないんですよね。釣った魚にエサをあげる必要性は、理屈の上ではもはやありませんから、彼の解釈はちょっと違うんじゃないかな。

 今もって正確な理由は分かりませんが、そもそも料理が女性の専業と考えること自体がおかしいとはいえます。どちらも「食べる人」であるなら、どちらも「作る人」であっていいじゃないですか。ところが、日本では父親が息子に秘伝のバーベキューソースを教えるなんてことはほとんどありません。最近では母親も娘に料理らしい料理は教えていないみたいですけどね。

 テストで良い成績を取るのも大切なことだけど、「美味しい生活」は一生にかかわってきます。もうちょっと、人生を豊かにする方法を親子で共有すべきじゃないかなぁ。男の料理は、そのあたりを象徴しているような気がします。とにかくね、今の日本は画一的すぎる。「今日は美味しいものを作ってやるからさ」と、男がエプロンを着けるようになって初めて、男女差別が解消されるんじゃないかな。もっとも、食器の洗い方が気に食わないと、細かい文句を付ける奥様もいるらしいので、自分のテリトリーに踏み込まれることを好まない傾向もあるようですけどね。

 いずれにしても、学校でまともな料理を教えてくれないのですから、社会人になってから一度は料理教室に通うべきだと思います。それとダンススクール。イザという時のために、社交ダンスの1つや2つは覚えておきたい。若いうちにそれをやっといたら良かったと、ボクは心底から後悔しているのであります。

 

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