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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2019年12月

2019年12月27日 (金)

行動経済学

 

 近所の和装古着屋さんがとうとう閉店しました。売り場が狭小かつ変形で、何度も入居・撤退を繰り返してきた縁起の良くない場所なのですが、この古着屋さんはうまく行かないだろうと最初から思っていました。

 ブランドものの中古や古着はいいんですよ。実際に、渋谷あたりの店は買い入れや販売を問わず人が集まっています。和装の古着屋さんも、帯やら和服を驚くほどの安値で並べていたのですが、こちらは悪い言い方ですが閑古鳥状態。同じ古着や中古品なのに、どうしてこんなに違うのだろう、と不思議に思いませんか、

 考えてみれば実に簡単なことで、和服は普通の人にとって特別な装いなんですよね。着付けが必要という面倒もさることながら、特別な時の特別な装いを古着で間に合わせることには抵抗があります。特別な時だからこそ、パリッとした新しい装いを身に付けたいと思うじゃないですか。成人式しか着ないような振り袖でも、娘のためならエイヤっと大金を費やす親は珍しくありません。借りるという方法もあるのですが、それだって古着という範疇ではないですよね。加えて詐欺まがいの大変な被害を与えた会社があるので、レンタルは下火になっているんじゃないかな。

 それに対して、ブランドものは一般に普及しており、まだ収入が乏しいはずの若いお嬢さんでも、見慣れたロゴのバッグを常識的にぶら下げています。こんな状況であれば、見た目は大して変わりないんだから、高価な新品より中古のほうが安くてコスパに優れているという判断も納得できます。

 つまり、人間は必ずしも経済的な合理性だけで購買行動するわけではないということを、この事例は如実に示しているのです。こうした人間心理を加味した経済学を「行動経済学」と呼びます。決して思いつきレベルの話ではなく、これを理論化したプリンストン大学のダニエル・カールマン教授はノーベル経済学賞を授与されています。ごく簡単に説明すれば、『行動経済学』(光文社新書、友野典男・著)のサブタイトルに掲げられている「経済は『感情』で動いている」ということです。あるいは同書の「はじめに」の中で語られる「勘定より感情」も的を射たシャレではないでしょうか。

 ただ、こんなことは商売人の皆さんは体験的に熟知しております。安ければ売れるわけではないからこそ商売は難しい。その反面で、勘所を押さえれば必ず成功する。この勘所が、紛れもなく消費者の心理・感情ということなんですよね。それを見込み違いしたビジネスは絶対に失敗します。また、それをちゃんと理解していない分析は、いかに詳細であっても的外れなんですよね。
 そんな教訓を、ボクは和装の古着屋さんの閉店で感じたのであります。

 なお、明日から正月休みをいただくので、このブログもお休みさせていただきます。再開は1月6日(月曜日)の予定。それでは皆さま、良いお年をお迎えください。

 

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2019年12月26日 (木)

進化の停止

 

 人類が誕生したのは500~600万年前といわれます。食物連鎖の頂点に位置することから、完成された生き物と考えがちですが、おっとどっこいで、まだまだ未成熟なんですよね。

 その証拠に、器官の再生能力がほとんどありません。トカゲでさえ切られた尻尾が再び伸びてくるのに、人間は指1本を失ってもそれで終わりですもんね。歯だけは一度だけ生え換わりますが、二度目はありません。いくら複雑で高等な生命体といっても、生存能力はトカゲのほうが上と思いませんか。 男女の遺伝子を組み合わせて生殖するシステムは妙案だと感心しますが、転写ミスも結構あるんですよね。それだけが理由ではないにしても、遺伝的難病はいろいろあります。免疫もみごとな仕組みですけど、自分自身を攻撃することもしばしばあるんだよな。こんな不完全な生き物が「霊長類」なんて、ちゃんちゃらおかしいじゃないですか。

 つまり、人類はまだまだ進化の途上にあるとボクは思うのです。ところが、たまたま二足歩行できるようになり、両手が使えて、大きな頭脳も載せられるようになった。その結果として、道具を発明してしまったのであります。今では羽根もないのに空を飛び回るだけでなく、医療技術によって病気も治癒できるようになりました。こうなると、人間の肉体はもはや進化する必要がないんですよね。そのかわりに、様々な疾患や病気と戦い続けなければならない。ある病原菌をやっつけたと思ったら、新種が必ず登場して人類を再び脅かす。イタチごっこというべきか、キリがないのであります。

 それでも人口は今の段階で77億人。2025年には80億人を突破するらしい。1900年は16億人程度ですから、こりゃもう大爆発というほかありません。その意味では、自分自身のかわりに道具を進化させた生存戦略は大成功といえそうだけど、個々の人間の苦しみはいよいよ深くなってきたようにも思います。貧富の格差を世界中にばらまいただけじゃないのかな。おかげで紛争は絶えることがありません。ボクが神様なら「何なんだこいつらは」と呆れるだろうなぁ。

 そんな視点で社会を見直すと、まさに「バベルの塔」でありまして、とてもじゃないけど人類を礼賛する気にはなりません。統合的な倫理の浸透だけが、滅亡を免れる唯一の方法だと思うのですが、長くなるので次の機会にでも詳述するつもりです。

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2019年12月25日 (水)

冷凍生活

 

 これまで冷凍食品はどうも好きになれませんでした。味だけでなく、食品を皿に出して、いちいちラップを巻いてからレンジでチンというのが面倒くさかったんですよね。

 普通の食材なら調理も楽しみになりますが、冷凍ものはレディメイドですから、手がかかってはいけないのです。ところが、最近はラップなしでいきなりレンジに放り込める食品が少なくありません。ボクが冬の定番として愛食しているのは、某社の肉饅ですが、袋のままレンジに入れて500Wで1分30秒。これでホカホカの肉饅ができあがります。注意して扱わないとヤケドしそうなくらい熱いのですが、それがまた美味しいんだよな。そこらのコンビニで買う肉饅と遜色ありません。

 その流れで、タコ焼きもトライしてみました。こちらもラップなしで、皿の上に凍ったタコ焼きをゴロンと並べるだけ。中身はタコの切り身だけのうどん粉のカタマリですが、ダシが利いていてなかなか旨いのです。

 この経験から、スーパーでは冷凍ものも視野に入れるようになり、今では突発的な空腹に対応できるピラフやチャーハンを冷凍庫に常備しています。

 まだまだ冷凍食品には疎いので、これからいろいろトライしていくつもりですが、昔に比べて飛躍的に進歩しており、食感や味も改良が重ねられていることは確かなようです。こうした冷凍食品を体験的な視点から紹介するウェブサイトはあるのでしょうか。

 もしもまだないのであれば、「冷凍生活」と題してボクが作ってみようかな。もちろん本人が冷凍になるのでなく、冷凍食品だけで過ごす生活をレポートするのも面白いではありませんか。同じ食品ばかりでは飽きるので、そのあたりも詳しく突っ込みを入れてみたい。いわば冷凍食品版の『暮らしの手帖』または『通販生活』を意識して、ステマ抜きの正直サイトを貫けば、ビジネスとしても成立するような気がするのですが、いかがでしょうか。

 

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2019年12月24日 (火)

反権力

 

 アフガニスタンで銃殺された中村哲医師は、クリスチャンであると同時に、反権力、反骨の人だったように思います。日本政府は勲章だの表彰状だのと言っていますが、亡くなってからでは遅すぎるんじゃないかな。国会に招いたことがあるくらいですから、彼の偉業は分かっているはずなのに、どうしてこれまで支援しなかったのでしょうか。

 そこからは国際政治という「大人の事情」があり、面倒くさいので説明しませんが、要するにアフガニスタンではロシアとアメリカという大国の利害が衝突するだけでなく、旧政権のタリバンが山賊化しているほか、ISISも入り込んでおり、住民そっちのけで殺し合いをやってきたわけです。世界の権力闘争の縮図みたいな地域であり、政治や行政を信じることなんてできないからこそ、中村さんは自らパワーシャベルを駆使するようになったんですよね。

 では、日本の政治や行政が信じられるかといえば、モリカケや「桜を見る会」ですよ。「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」と喝破したのは19世紀に生きたイギリス人の歴史家・政治家、ジョン・アクトンであり、ボクの若い頃はその言葉にもとづく反権力が常識的なメンタリティでした。反骨がカッコ良かったわけですよ。

 ところが、いつの間にか権力におもねり、嬉々として子分になる恥知らずな連中が増殖してきました。権力を笠に着た番犬や忠犬も実に多くて、殿へのご注進も飛び交っています。資料をシュレッダーにかけたと平気でウソをつく木っ端役人もいるしね。そうやって他人を踏みつけにして、自分だけは安楽で贅沢に生活する。反権力も反骨も、どこかに消えちゃったんだよな。

 半島の某国では、血筋というだけで支配者になった若僧の演説に、いい年をしたオッサンたちが目に見えるように腕を高く上げて大げさな拍手をしていました。逆らえば殺されるので無理もないとはいえますが、日本ではそんな危険なんかないのに、隷属して媚びへつらうのはどうしてだろう。こうした権力のピラミッドなんて単なる共同幻想ですから、誰かが「王様は裸だ!」と言えば簡単にガラガラと崩れてしまうはずなのに、なかなかそうはならない。

 カルトと同じで、人間は洗脳なんかされるはずがなく、自ら奴隷になり、主体的な思考を奪われることで安心を得ようとするのであります。先人たちが血を流して獲得した自由は、この人たちの前では意味をなさない。中村医師が汗を流して水を引いた緑の地も、いつしか恩人の偉業は忘れ去られ、小賢しい利権の奪い合いが始まるに違いありません。

 そんな人類を、AIが地球上の悪性病原体として駆逐しようとするのは、SF的な妄想ではないと思います。ヒューマニズムのほうがよほど病的な妄想ではないかな。とにかくね、反権力・反骨は圧倒的な時代遅れになってしまったように感じるわけです、はい。

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2019年12月23日 (月)

透明性

 

 以前から、取材時は100円ショップで購入した透明のビニールケースを持参するようにしていました。軽くて負担にならないだけでなく、外側から中身が透けて見えるので、現場に到着してから「あ、名刺ケースを忘れた!」なんてこともありません。普通の人は名刺ケースなんて上着の内ポケットでしょうが、ボクはポケットにモノを入れるのが大嫌いなのです。ゴツゴツした感触がイヤなので、ベンすら挿していません。

 かといって、手ぶらになれるリュックはもっと大嫌いなんですよね。スーツ姿なのに、あんな不細工な亀みたいな格好がよくもまぁできるなぁと。皆様の高度なファッションセンスには感心しますが、自分で背負うつもりは金輪際ありません。そうなると、透明のビニールケースまたはビニールバッグが最も便利じゃないかと思うわけです。

 バッグといえば超高級のブランドものもありますが、もはやそんな時代ではないんじゃないかな。もちろんボクも黒い手提げバッグを持っていますが、使うのは遠方または海外出張の時くらい。重いというだけでなく、中身を確認しにくいので、たまに手を突っ込んでゴソゴソやらなきゃいけないのがイヤなんですな。その意味では、口が大きくて中をすぐに覗けるバケット(バケツ)タイプは案外便利なんですよね。ボクは持っていませんが。

 ついでに言えば、ようやくボクのデスクを念願のガラスにしました。とはいっても、それまで打ち合わせ用だった大きな強化ガラスを天板にしただけで、コストはまったくのゼロ。透明ですから、雰囲気がかなり変わりました。横浜のイケアで購入した時は1万円程度だったので、おそらく渋谷のニトリにもあるだろうと出かけたのですが、どこにもありませんでした。オフィス家具はもちろん、リビングやダイニングの調度も、昔ながらの茶色またはベージュの木製ばっかり。ボクだけの感想かもしれませんが、センスがちょっと古いんじゃないかな。家具に重厚感を求めるなら、パパのほうの大塚に行けばいいじゃないですか。かつては一生ものと見なされていた家具を、より手頃な価格にすることで模様替えを頻繁に楽しめるようにしたのがイケアであり、それを追随してきたのがニトリじゃないのかなぁ。だから娘さんも真似しようとしたわけでね。

 なのに、相変わらずの木目調ばっかり。その割に必ずしも安くない。ちなみに、スマホでイケアをチェックしたら、ちゃんとガラスの在庫がありました。これに木製の台を2つ組み合わせるだけで、机の一丁上がりですぜ。レンタカーを借りて横浜店に行っても、ニトリに比べてお釣りが出ます。

 長々と個人的なエピソードを紹介したのは、もはや重厚長大は終わったということを言いたかったからです。産業については随分前から指摘されてきましたが、ライフスタイルも同じじゃないかな。所有するより借りたほうが便利で楽じゃんと思われている時代に、相変わらずの木目調の家具って、ズレていませんかねぇ。

 それと、透明性です。ボクはカバンやデスクだけでなく、タンスやロッカーなども透明でいいんじゃないかと思っています。そのほうが中身が分かりやすいじゃないですか。他人に見せたくないようなモノって、何かありますかねぇ。そういうものがあるなら、小さな箱や袋に入れておけばいいだけのことです。

 えーと、とにかく、もしかしてマイブームというだけかもしれないけど、時代はトランスペアレントなんだよな。企業の情報公開も行政も政治も、透明性がトレンドになってきましたよね。にもかかわらず、権力者への忖度から資料を隠蔽する木っ端役人が絶えないから困ったものですが、透明性は民主主義における最重要なキーワードであります。その必要性を体感するという意味でも、透明ブームを広げようではありませんか。

 

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2019年12月20日 (金)

射幸心

 

 買わないという選択肢はないやろぉ。

 今さら説明するまでもなく、年末ジャンボのコマーシャルですが、こんなにも大っぴらに何度もうるさいほど宣伝しちゃっていいんだろうか。刑法185〜187条で、賭博及び富くじに関する罰則が定められているんですけど。

 その中で、富くじを発売した者は2年以下の懲役または150万円以下の罰金、取り次ぎをした者は1年以下の懲役または100万円以下の罰金に処せられるとあります。それだけでなく、富くじを授受した者も20万円以下の罰金または科料。いやぁ、インターネットってホントに便利ですけど、これを正しく宝くじにあてはめたら、総務省やみずほ銀行から逮捕者が続出するはずです。それを購入した国民も有罪となるので、多額の罰金で国庫はウハウハ、とは冗談ですけど、大変なことになるじゃないですか。

 このように賭博や富くじを禁止するのは、「射幸心」を煽るからだと子供の頃にオヤジから教えられたことがあります。一発当てるだけで生活がガラリと変わるぞぉ、という勢いで多数の人がバクチや富くじに没頭すると、真面目に働く人が激減し、経済活動が大きなダメージを受けます。ボク自身は、働かないことに罪なんかあるはずないやろ、と信じる者ですが、それを誘発するような賭博や富くじはダメってことでしょうか。

 「射幸心」にしても、それがいけないことであるはずがない。ビジネスで一発当てようとする起業家が新しい仕事を生み出し、技術革新によって社会生活が豊かになってきたはずです。ノーベル賞だって似たようなインセンティブですよね。そんな「射幸心」を持った連中がシリコンバレーに集まることで、インターネットやスマホが猛スピードで普及したのであります。

 だったら、どうして賭博や富くじを禁止するのか。要するに主体の問題であって、ボクたちがやったらダメだけど、国は許されているわけです。競輪競馬競艇にオートレース。そして宝クジやビッグなんたらをテレビでド派手に宣伝しているのに、国民がやろうとすれば即逮捕。おいおい、だったらパチンコはどうなんだよ。IRなんてワケの分からない英語で煙幕を張っていますが、もうすぐカジノだって日本で実現するじゃないですか。

 あまりにも恣意的過ぎて、法理論以前の問題ですから、このへんでやめますが、ダブルスタンダードもいい加減にしろよな。法律で禁止するなら、国民や国を問わず等しくアウトにするべきです。少なくとも、そうした意識にもとづく負い目みたいなものが、厚顔無恥で押しつけがましく迫るテレビCMにはまるきり感じられません。知性ってのは含羞を伴うのが普通なんですどね。

 原発事故の完全復旧や地方振興などにカネがかかるので、申し訳ないけど宝クジやらせてくれませんかと下手に出るなら許してやるけど、「買わないという選択肢はないやろ」だとぉぉおおおおおお。ふざけんな! と、オッサンは鶴瓶の顔を見るたびに怒りが沸騰しているのであります。

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2019年12月19日 (木)

分からない

 

 現代は何でもかんでも分からないと気が済まないのでしょうか。評論家やコメンテーターがうじゃうじゃいるので、分からされてしまう、と言い換えるべきなのかな。

 たとえば、元農水省事務次官が無職の息子を殺した事件にしても、ホントのことなんて誰にも分かるはずがない。当人だって理解できない部分があるはずです。それなのに、息子が実家に戻ってたった1週間しかたっていないとか、リビングで泣いていた息子を突き放したとか、憶測にもとづいた批判や分かったふうな意見がバンバン飛び交う。家庭問題や心理学などの専門家ならまだしも、ネットやツイッターでわぁわぁ言っている大多数は素人であり、野次馬に近い人たちではありませんか。

 そりゃね、誰でも自分の意見を表明する権利があることは憲法第21条で保障されています。それでも昔は井戸端以外で発言するには高い障壁がありました。新聞や雑誌の投書にしても、反社会的・反道徳的な意見が排除されるだけでなく、会社の理念や方針などに沿った行儀の良いものが取捨選択されるので、一般庶民に「言論の自由」があったとは言いがたいですけどね。

 その意味では、今ほど言論の自由をローコストで謳歌できる時代はかつてなかったといえるのですが、そのかわりに歯止めもなくなってしまいました。熟慮や客観性もへったくれもなくて、たんなる思いつきがダダ漏れなんだよな。

 おかげで、何でも、どんなことでも分かった気になろうとするわけです。分からないのはバカみたいに見えるのでしょうか。こういうメンタリティが大勢になると、ボクはいつも逆行しようとします。つまりね、分からないことをもうちょっと大切にしろよ、ってことです。世間や社会は学校とは違いますから、すべてに正しい答があるわけではない。正解が複数あったり、1つもないことだってある。記述式だって、おっとこれは廃止されたんだっけか。いずれにしても、どこを探しても正解が見つからない、なんてことは普通にあるんだよな。

 そんな時にも、無理矢理に分かった気になったら、それこそ正解を見つけることが永遠にできなくなってしまう。疑問を忘れたら答もどこかに行ってしまうんだよな。疑問を覚えている限りは、いつか正解が分かる時がくる、かもしれないのです。

 だからこそ、安易に分かったつもりになるんじゃねーよ、と叱りたくなります。つらつら振り返ると、学校の先生だって、分からないことを大切にしている人は、教え方がちょっと違いました。テストや入試に出ることなんて、世の中のほんの一部に過ぎないですからね。

 いつか真実に出会うために、分からないことをそっと胸の奥にしまっておくことを覚えようよ。

 

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2019年12月18日 (水)

パーティション

 

 目下、個人的に大絶賛進行中のオフィス改造計画の一環として、とうとうパーティションを解体。業者さんに引き取ってもらいました。パーティションというのは、机の前や横に置く衝立みたいなものです。内部を隠す遮蔽となり、人目を気にする煩わしさが減少するので、ボクたちのような書き仕事には大変に便利な間仕切りなんですよね。 

 このパーティションを初めて見たのは、あるアメリカ映画でした。1人ひとりの机というか空間がきっちり確保されており、その個室感覚のカッコ良さに憧れたのであります。何しろ当時のオフィスは、机をただ並べただけの真っ平が普通でしたからね。一生懸命に仕事中をアピールできるだけでなく、手にアゴを乗せて半分眠っているところも見られてしまいます。プライバシーなんかカケラもなかったですから、誰だってバーティションが欲しくなるじゃないですか。 

 運の助けもあって32歳で独立したのはいいのですが、当初は仕事も資金も乏しくて、そんなものを購入する余裕はありませんでした。しばらくして恵比寿に移転しても、まだまだ夢の実現は不可能。そのかわりに、もう1つの憧れだったスチールのファイルボックスを購入しました。正しく整理すると大変な威力を発揮するのですが、引き出しの一種として何でも放り込むスタッフがいたので参りました。仕事というのは整理整頓が1丁目1番地であることから教えないと、このオフィス家具の価値は分からないんですよね。 

 それからスタッフも増えてオフィスが手狭になり、もっと広い場所に引っ越すことになって、ようやく念願を叶えることにしました。それなりに高価でしたが、布を張った厚手のパーティションで机をグルリと取り巻くと、何だか事務所も一流になったようで誇らしいだけでなく、すごく落ち着いて執筆できるんですよね。机の上の資料に顔をちょっと近づけるだけで、外から完全に見えなくなるのもメリットだったんじゃないかな。若い人はボクの積年の憧れだったことを知らないので、パーティションにベタベタとメモなどをピンで留めまくっていましたが、掲示板じゃないんですから。 

 それから20年以上を経て、今度はパーティションを撤去することにしたわけです。一度は憧れたものを、どうして撤去するのか。理由はいろいろありますが、直接的なきっかけは、取材を通して某IT企業のオープンなオフィスを見たからです。遮蔽物がほとんどない見晴らしのいいオフィスに、いろいろな色やカタチのデスクが並んでおり、もちろんフリーアドレス。ノートパソコンを持って好きな場所で仕事ができます。つまり、もはや個人の机やイスにこだわる時代じゃないんですよね。

  パーティションで1人ひとりの空間を仕切ったり、役職者には個室を与える、なんていうのはオールドスタイルのアメリカ企業であって、インターネットを始めとする情報革命がすべてを洗い流してしまったといっていい。上場企業の社長のプレゼンだってジーンズにセーターという時代ですぜ。クラウドが象徴するように、個室に引きこもって1人で没頭する仕事スタイルから、みんなで協働・協業する時代になったといいかえてもいいでしょう。

 そんな働き方を円滑に進めるためには、声をかけやすい開放的で明るい空間のほうがいいじゃないですか。何のことはない、大昔の営業部と変わりありません。ボクが所属していた編集部は本や雑誌や資料をやたらに積み上げてパーティションがわりにしていたのですが、営業部は前述したようにまっさらでしたからね。見た目にはひと回りして元に戻ったような感覚ですが、昔はインターネットもノートパソコンもスマホもありませんでした。それを前提として、働き方も含めたオフィスのありようが再び見直されているわけです。

 だったら、というわけでもありませんが、パーティションを取り去ってみると、いやぁ、ホントに明るい雰囲気になり、空気の流れというか抜け感もまるで違います。ボクはいったい何に憧れ、何を求めて仕事をしてきたのかなぁ。一抹の寂しさとともに、ボクの内部も間仕切りなしの空洞になってしまったようで、風がヒューヒューと吹き流れていきます。この感じ分かるかなぁ、わっからねぇだろなぁ、って、これも古過ぎて通じませんよね。

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2019年12月17日 (火)

モノを持つことの恍惚と不安

 

 晩年の永井荷風は、全財産をボストンバッグ1つに詰め込んで、浅草の踊り子たちの楽屋に入りびたっていたといわれます。これがボクの理想かな。女の子の談笑と脂粉の香りが漂う狭い部屋で寝起きするのも素敵ですが、モノを持たないのがいいんですよね。荷風の場合は、家の権利証も持ち歩いていたそうですが、ボクは「所有」という状態が不安を招くのであります。

 随分前にクルマを持ち、大型バイクに乗っていたこともありますが、気にしないようにしていても気になって仕方がない。クルマなら赤色灯を消したかどうかやバッテリーの充電状態など。バイクでは誰かにシートを切り裂かれていないか、とかね。ほとんど妄想に近いのですが、実際に自転車を盗まれたこともあるので、必ずしも杞憂ではないから困るんだよな。都内を抜けるための渋滞にへこたれて、エイヤっとバイクを売っ払った時には、肩の荷が一気に下りたようでスッキリしました。

 駐車場に置いたクルマやバイクでこうなのですから、家やマンションなどの不動産は圧倒的な懊悩のタネになります。こちらは賃貸でも所有と似たような状態になるので、負担感は相当にあります。ボクの知人は新築の一戸建てを購入してから、天ぷらを厳禁にしたそうです。壁が油で汚れますからね。生活の質と家のどっちが大事なんだと思うでしょうが、庶民にとっての所有なんて、この程度のものなのです。

 それでも、モノを持つことは人間の憧れでもあります。いわば恍惚ですな。それに対して、モノを持つゆえの不安も伴います。ベルレーヌは「智慧」という詩で「選ばれてあることの恍惚と不安の2つ我にあり」とうたいました。太宰治も小説で引用していますが、ぼくにとっては、まさに「モノを持つことの恍惚と不安の2つ我にあり」ということになります。

 現実には恍惚なんて一瞬のことであり、不安は永続するので、やはりモノなんて持たないほうが気楽でよろしい。けれども、できるだけ快適な暮らしがしたい。その折衷点を常に模索することになるわけです。

 だったらさぁ、恋愛や結婚はどうなんだろうね。いま時、女性を所有するなんて表現したら袋叩きですけど、結婚はもちろん、恋愛ですら、お互いを束縛し合うではありませんか。入籍していなくても、他の女性とベッドを共にすれば「浮気」呼ばわりされますからね。結婚ともなれば、神の前で死後さえも含めた永遠の愛を誓うんですぜ。いやはや。それほどではないにしても、「伴侶を持つ」と所有形で語られることが少なくありません。

 おそらく結婚ほどの恍惚はないかわりに、不安というか窮屈感も相当なものです。こんな風に感じるのですから、どうもボクは結婚に向いていないらしい。今さら気がついても遅すぎですけど、教育や社会的な訓練を経ても生来の性分は変わることがなく、ダメなものはダメらしいんだよな。はぁ。。。。

 

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2019年12月16日 (月)

ゴミ

 

 このところ毎日のようにゴミを捨てております。

 仕事がもたらしたゴミなので、本来的には産業廃棄物というべきでしょうが、捨てるのに慣れると、あれもこれもと湧き出てくるんですよね。振り返ってみれば、この事務所に移転したのが2000年ですから、来年でちょうど20年にもなります。目の前の仕事をこなしているうちに、それこそあっという間に過ぎてしまった歳月ですが、ゴミのほうは着実に蓄積されてきたんですよね。

 いまとなってはゴミといえども、そうなる前は何らかの役に立っていたわけで、ズルズルと持ち越してきたのも分からなくはありません。この感覚は役人だって同じはずですから、「桜を見る会」の招待客リストを即座にシュレッダーにかけるはずがないと思いますけどね。

 それはともかく、こんな零細事務所でも、これほどまでに捨てられるゴミがあった。それでいいのかというのが、本稿のテーマなのであります。つまり、資源を消費し、それで収入を得る反面で、大量の廃棄物が発生。それによって環境をどんどん汚染することが仕事だったとも言い換えられます。流行の「サスティナブル」という言葉を使わないまでも、なるべくゴミを出さない社会にすべきだよなと実感いたしました。これ以上、海や山にヘンなモノを堆積させてはいけない。そのためには産業のあり方も含めて、徹底的に社会と生活を見直すことが必要です。

 ところが、人間という奴は、何かを作らないではいられないんですよね。自然の中で過ごしていれば、生物や植物に由来するゴミしか出ないのに、いつの間にかビルが建ち並び、クルマが走って飛行機が地球を行き交い、アスファルトを敷き詰めた都市で生活するようになってしまった。そうした文化・文明の絶えざる進歩がゴミを発生させる元凶といっていいんじゃないかな。もっと簡単に言ってしまえば、新しいモノを作れば、古いモノを捨てなければならない。サスティナブルというのは、ボクの乏しい理解では、そうした新陳代謝を低下させることになります。そんな生活に人間は果たして満足できるのでしょうか。それ以前に、この新陳代謝が新しい産業を発達させ、新しい仕事を作ってきました。サスティナブルを徹底的に追求すれば、収入を得る手段も少なくなってしまうんじゃないかな。

 このように考えていくと、結局は資本主義そのものがアンチ・サスティナブルであり、これを根本的に廃棄しない限りはダメなんだとなりませんか。だからといって共産主義や社会主義にしたところでゴミは出ます。ゴミを出さないで、人間が安心して快適に暮らせる社会なんてあり得るのだろうか。

 そして、もしかすると、ボクがこれまでやってきた仕事もゴミのように何の役にも立たない無駄なことだったのかもしれない。そんなことを考えながら、いつものようにゴミ袋を両手にぶら下げて階下の集積所に向かっているのであります。

 

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2019年12月13日 (金)

個の自立

 

 この季節がね、実は大嫌いです。

 特に忘年会が苦手でありまして、ボクのような零細事務所のフリーランスがフラリと飲み屋に行くと、満員御礼になっていることが少なくないからです。中には「本日、貸し切り」なんて札がかかっており、入口で早々とアウト。ワールドカップもそうでしたが、こういう狂騒状態そのものが、好きではないのです。

 他人の忘年会がイヤなら、自分が行くのも気が進まない。昔から身のおきどころがないように感じて、ひたすら酒を飲み続けていました。気がついたら記憶がないなんてことが多かったなぁ。ああいう飲み会で、みんなはいったい何を話題にしているのでしょうか。来年の景気や経済政策を本気で討論したら、間違いなく面倒くさい奴に分類されてしまうので、どうでもいいような世間話をしているはずですが、ボクはそういう会話も苦手なのであります。

 そんなわけで、退社時間を過ぎたばかりの繁華街にはなるべく出歩かないようにしています。人だかりがわらわら集まった団体様ばかりで、歩くにも邪魔くさいんだよな。本音では忘年会に行きたくないという若者が8割というデータがありますが、そりゃそうですよ。時間外で、しかも会社の外で、さらには飲み屋で、いつまでも「部長」「課長」「主任」なんていう役職のヒエラルキーを強制されて楽しいはずがない。「今夜は無礼講」なんて口ばかりですからね。

 ちなみに、ヨーロッパでこういう光景は一度も見たことがありません。イギリスのシティのパブでは、退社直後に連れ立ったと思われるスーツ(金融関係者をこう呼びます)が外まであふれていることもありますが、長くは続きませんからね。ネクタイを締めた団体様が深夜までウロウロと街を徘徊しているのは、世界的にも珍しいんじゃないかな。景気がいいんだか悪いんだか、よく分かりません。

 うーん、やっぱ日本は体育会気質なのでしょうか。いずれにしても、もっと個が自立しないと、グローバル社会にはついていけないぜと、ボクは危惧するのであります。

 

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2019年12月12日 (木)

印象

 

 今さらこんなことに気づいても遅いのですが、人間は他人の話なんか聞いているようで実は聞いていません。学校の作文指導では論理の飛躍をくどいほど注意されるので、会話もそうかといえば、まるで違うんだよな。どんなに正しいことをきちんと筋道立てて言っても、通じないことがしばしばあります。その逆に、信じられないような突飛な意見に賛意が集まったりする。自然の摂理に反して、石が浮かんで木の葉が沈むことがしばしば起きるのであります。

 だったら人間はどうして会話なんかするのでしょうか。ボクは犬の吠え声と同じだと解釈しております。若い人は「ありがとうございます」を「あざーす」と略すじゃないですか。お年寄りだって「こんにちは」を「ちわ」と言ったことがあるはず。それでも通じるのですから、朝昼晩の挨拶なんて「ワンワン」とか「バウー」だけでもいいんじゃないかとすら思います。言葉がなかった太古の昔は似たようなものだったんじゃないかな。

 つまり、人間の会話は、言葉の交流では決してなく、感情の交流なのです。ある人は怒りの感情を言葉に載せて伝達し、それを受けた人は共感を言葉に載せて返す。表面的には言葉が往復しているように見えても、実際には感情のやりとりなんですよね。それによって何が残るかといえば、それぞれに対する「印象」なのであります。

 この「印象」が人間にとって最大の曲者でありまして、前述した自然に反する摂理が生まれる原因もそこにあります。嫌いな奴の言うことはどんなに正しくても聞かない。好きな奴が言うなら、悪いことも必要悪として理解され、没義道も仕方ないと納得されたりする。事例を挙げたらキリがないのでやめますが、どうしてこんなバカがと思うような人が国会議員をやっていたりする理由もそこにあります。差別用語が絶えない失言のデパートであっても、選挙区の支持母体では好々爺として評判が良かったりする。さもなきゃ利権の横流しや利益供与としか考えられないじゃないですか。「桜を見る会」の安倍さんはどっちなのかな。

 ということは、ボクたちは欧米流のディベートなんか練習する必要はまったくないということになります。そんなことより鏡を見て、笑顔を工夫したほうが効果的です。いったん「いい人だ」と思われたらこっちのものですから、多少の無理は利きます。「イヤな奴だな」と思われたら、何を言っても疑われ、怪しまれる。

 はぁ、そんなわけでね、人間は印象がすべてといっても絶対的に過言ではありません。口の利き方ではなく、どんな印象を与えたかに敏感になりましょう。理屈っぽい、大声で圧倒する、多弁で饒舌。そして正論中の正論。これらはすべて悪印象につながるので要注意です。と、書いておきながら、こんなことでいいのかよと思うのですが、これが紛れもない悲しき現実なんですよね。

 

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2019年12月11日 (水)

モラールダウン

 

「おーい、いつまで待たせるんだよ。次の検査が待っているのに、約束の時間から30分も過ぎているじゃないか」

 さる大病院の某検査科の待合室で大きな声が轟きました。それに呼応するかのように、
「私も次の検査が……」
「私は遠方なので、今朝は6時起きで来たんですけど……」

 ボクも定期検診でお呼びがかかるのを待っていた1人であり、あと5分もしたら同じことを言おうと思っていました。お年寄りはしばしばキレやすく暴走すると言われますが、正論であることも少なくないんですよね。

「こんなことなら予約の意味がないじゃないか」

 実にまったくその通りであります。それに対して看護師は「先生が遅れていまして」と、ホントかどうか分からないような言い訳をしました。先生とは医師ではなくて、臨床検査技師のことです。

「この検査科だけだぜ、こんなに遅れるのは。いつ来てもそうだよ。先生も人間だから体調が悪いこともあって当然だけど、だったら事前に別の先生を手当しておくとか、後の検査を優先するとか、ちょっとは工夫したらどうだい」

 どうやら常連さんらしいのですが、これまた正論中の正論であります。反論はまったく不可能ですよね。

「私たちもそのように言ってはいるのですが……」

 と看護師。ここまではまぁまぁ納得できなくもない会話だったのですが、その後の言葉にボクは仰天しました。

「それを先生に直接言って貰えませんか?」

「何を?」

「予約時間に遅れないようにって」

 悪い冗談かと思って看護師を遠目で見ると、真顔だったので、さらに驚きました。そんなことを外来の患者に押しつけるんじゃないよ。甘えるのもいい加減にしろ。看護師としての責任放棄じゃないか。自分たちで院長などの管理職に直訴しろよと、喉まで出かけたものをぐっと呑み込ことにしました。我慢というよりも、こういうメンタリティの人には何を言っても通じないからです。

 というのも、経緯は略しますが、2年ほど前に大手クリーニング店で店員から「私たちからは言えないので、お客さんから会社に文句を言ってくださいよ」とお願いされたことがあるからです。そんなアホなことを、よくもまあ客に言えるもんだと思っていたら、病院でもこれかよと。

 それだけでなく、利用していた別のクリーニング店でもワイシャツのタタミが急に粗雑になり、胸に引きつれがあったので突き返して4日ほどたちます。店員さんの話では工場を変えたことに原因があるらしいのですが、そんな内部事情は客とは関係ないじゃないですか。素人が見て明らかにダメなものを平気で納品してくる神経に、大きな問題があると思うんですけどね。検品ということをしないのですから。

 モラルとは別に、モラールという言葉があります。士気とか意欲という意味ですが、モラルがダウンすれば、モラールも必然的にダウンします。螺旋階段を下に向かっているのと同じですな。日本製パソコンもトラブルばっかり。こんなことで東京オリンビックは大丈夫なのかなぁ。

 

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2019年12月10日 (火)

イヤな顔

 

 地下鉄に乗っていて、ガラ空きだったせいか。つい扉のガラス窓に映った自分の顔を見てしまいました。このブログで何度も書いたように、実の父親に「ブタ眼」と誹られたおかげで、ほとんど自分の顔なんぞ見ないで過ごしてきたのですが、ごくたまにそんなこともあるのです。

 相変わらずのブサイク面はともかくとして、何というイヤな顔になったんだろうと、呆れつつも絶望してしまいました。これでは女性にモテるはずがない。何がイヤかというと、眼が笑っていないんだよな。誰もボクの近くにいなかったので、そんなはずないよなと唇を持ち上げて無理に笑い顔を作ってみたのですが、眼だけはむしろ怒っているように、限りなく不機嫌に冷酷に見えるのです。一重の瞼の端が垂れ下がっている分だけ、他人は怖く感じるんじゃないかな。

 つい最近、酸素チューブを鼻に突っ込んで目を見開いた吉本興業・小籔のポスターが問題になりましたが、ぶっちゃけ、あんな感じです。患者の団体でなくとも、あれは不快極まりないので、断固として撤回すべきだと思います。ということは、ボクも同じように思われているのかなぁ。ああ悲しい。

 つらつら思うに、やはり苦労が身に、じゃなかった顔についてしまったようです。『クリスマス・キャロル』のスクルージのごとく、眼に明らかな険があるのです。守銭奴になれるほどの資産もないので、こりゃもうどうしようもない。

 せめてこれから、クリスマスと正月に向けて、笑顔の練習でもしてみようかな。それにしても、ボクのこれまでの人生って何だったんだろう。高校の頃は「涼しい目」なんて言われたこともあるんだけどね。そんなオッサンの繰り言も情けなさの極みですな。

 

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2019年12月 9日 (月)

理念と決意

 

 哲学をはじめとする形而上的なテーマは、思春期の若者を除いて一般受けしないのですが、技術革新などで社会が急激に変わる時期こそ、生き方の羅針盤として必要になると思うんですけどね。

 などと大上段に振りかぶってみましたが、何のことはない、大晦日に向けて史上空前の大整理を敢行しており、いわゆる「断捨離」には哲学と決意が不可欠だと痛感している最中なのです。

 この事務所に移転した2000年に、おそらく1トン近いんじゃないかと思われる資料や書籍などを処分しました。取材や調査を重ねて記事を書く仕事なので、10年もすれば相当な量が本棚などに蓄積されていくことになります。しかしながら、これらのほとんどは食べ物と同じで、消化されて吸収されれば、必要性は著しく乏しくなります。人間の場合は自動的に排泄されても、資料はそうはいかない。人間の意思が発動されない限りは、静かに塵や埃にまみれていくことになります。

 それらを効率的に処分するためには、何を捨てて何を残すかを決めなければならない。そのための指針またはコンセプトがなければ、膨大な資料を前にして茫然と立ちすくんでしまいます。

 考えてもみてくださいよ。10年ほどで1トンは大げさとしても、体感的に山のように大量の資料などを処分しました。ところが今回はおよそ20年分ですから、単純計算で2倍にもなります。さらにインターネットという革命的な技術が新しい要素として加わっています。つまり、昔のように紙の資料を大切に温存する必要はもはやないといっていい。たとえば各種の辞書や百科事典を残しておいても、ネットで簡単に調べることができるので、用を為さなくなっています。だったらブックオフにでも送ろうかとなりますよね。

 けれども、すべての知識がインターネットの向こうに存在するわけでもありません。どんなに検索しても分からなかったことが、一冊のパンフレットで氷解することもあります。それに、網羅性と体系的な知識は、まだまだ紙の本や資料のほうが優れているんじゃないかな。近年はネットのコンテンツも関連の知識や情報をリンクするようになりましたが、やはり雑誌のほうが圧倒的に面白くて楽しい。そこには工夫されたプロフェッショナルな「編集」が加えられているからです。ネットのコンテンツは機械的な関連性に頼っているせいか、そのレベルにはまるで達していないとボクは思います。雑誌のようにパラパラと眺められるようにはなっても、手触り感がないので、量的な把握もできません。何よりも雑誌には、言語を超えた時代性や空気感が込められているんですよね。そこからとんでもない連想や発想が生まれることもあります。ポップなアイデアというか、ピンとくる時があるんだよな。

 というわけで、やはり紙のメディアはまだまだ必要ではないか、などと考えながら整理を始めると、昔に比べて逡巡することが多いのです。捨てたいけど捨てきれない。けれども、そんなものを残しておいたら、右から左に移したに過ぎないじゃないですか。整理とは処分、すなわち捨てることにほかなりません。「だったらどんどん捨てろよ」とボクの中の誰かが背中を押すのに、もう1人のボクは「これはいつか必要になるんじゃないかな」と手を止めさせる。

 こういう時に、奴らを黙らせる理念や指針が必要になるのであります。しかしながら、それがあっても、やはり処分にはためらいが残ります。1つ1つに必ず思い出があり、紙といえども、手を触れた瞬間にそれが甦ってくるからです。だからといって後生大事に貯め込んでいたら、小さな事務所はすぐに満杯になってしまう。その中に埋没するのを避けるためには、過去を振り捨てて、前向きに生きる覚悟や決意が必要なのです。

 というわけで、理念と決意。これは人生にも不可欠なことではないでしょうか。

 

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2019年12月 6日 (金)

無理するな

 

 ボクも経験が大ありなので、つくづく実感するのですが、トラブルやアクシデントは「無理」が引き金となって発生します。交通事故なんか典型的で、遅れている焦りから早めに交差点を右折しようとクルマを進めた時に限って、猛スピードで突っ込んできた直進車に衝突したりするわけです。

 通勤時のエスカレータでも、遅刻しそうだからと慌ただしく駆け上り駆け下りる人が少なくありません。そんな「無理」を通そうとして、左側に立っている人の大きなカバンに足がからまり、回りの人も引きずり込みながら下まで真っ逆さまという流血の大惨事だって、そろそろ起きるんじゃないかな。

 そのほかにも、計算間違いや勘違いなど各種のミスは「無理」から生まれることがほとんどいっていい。「無理」は不自然な事態ですから、気分も何だかトゲトゲでギスギスとなってきますよね。普通ならニコニコとやり過ごせることも、強い不快感や怒りに発展したりする。こんな時にローマ法王はきっと、福音書などから「無理するな」なんて言葉を引っ張り出して説教するでしょうね。

 けれども、「無理するな」といくら言われても、無理する時は無理してしまうのが人間です。「余裕を持って仕事しよう」というのも、方法論が伴っていなければ絵空事に過ぎません。

 では、無理しないためには、どうすればいいか。わはははは、どんなに考えたって、それこそ「無理」です。無理する時はいろいろな事情があるので、無理をしないためには、そんな事情を撃破する確固たる理由を持たねばなりません。

 でね、つらつら考えるに、ボクたちが無理しなきゃいけない理由なんて実はないんですよね。そんなにまでして守らなきゃいけない約束や仕事が本当にあるのでしょうか。出社時間にしても、規則だから遵守すべきだろうけど、事故やトラブルを起こしてまで定時を目指す必要はないでしょう。たまたま遅れたら仕方ないじゃないですか。それが寝坊であっても、やはりどうしようない。もっと早く起きるのを習慣にしろよ、とボクは思うけど、それでも無理することはないのであります。

 そもそも、何かをいつまでにしなきゃいけないというのは、人間や社会の決め事であって、共同幻想の類いといえば叱られるかなぁ。もちろん約束や契約やルールや礼儀や信義は守るべきだけど、果たして命がけで無理するほどの価値があるのでしょうか。

 だからね、危険な無理をしないためには、なぜどうして何のために自分は無理しようとしているのかと、ふと我に帰ればいいのです。無理しなきゃいけない、というのはもしかすると思い込みや錯覚ではないかと疑うことができれば、もはや無理なんかできませんよね。

 そうした考え方が、人間自身にとっての「サスティナブル」であり、これから必要な生きだと思うのですが、例によって先取りし過ぎかなぁ。

 

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2019年12月 5日 (木)

良き人は還らず

 

 哀しみや憎しみというより、絶望に似た諦念を感じます。技術も文化も進歩してきたのに、それによって人間の愚かさはますます増幅されてしまった。ボクたちはそんな非道を遠くから傍観するほかないのでしょうか。

 医師の中村哲さんがアフガニスタンで銃撃されて亡くなりました。

 ボクが彼を取材したのは2007年。ダイヤモンド社が創刊した『ジッポウ』という「こころのクオリティ・オブ・ライフマガジン」で、以下のように紹介しました。

 劣悪な環境に加えて絶えることのない戦乱。このため中村医師は、治療ではなく、まず命を救うために水源確保に携わるようになった。

 当時は「井戸を掘る医師」として知られており、1年の4分の3はアフガニスタンに在住。用水路の建設と医療支援などを行っていました。たまたま帰国時にインタビューさせていただいたのですが、ボクがこれまでに取材したどんな人よりも瞳が澄んでおり、1時間ほど話を伺っただけで、胸が熱くなるほど感動しました。簡単には物事を信用しないボクは、それまでも、その後も慈善活動などに1円も寄付したことはありませんが、彼の活動母体であるペシャワール会に少額ですが送金したほどです。

 おそらく、テレビは思いついたように昔の動画を引っ張り出してきて、あれこれと報道するでしょう。新聞や雑誌で特集が組まれるかも知れない。忘れるよりはいいとしても、それまではどうだったんだよ。取材時に聞かされた現地の問題はもちろん、日本が抱える様々な問題もむしろ深まっているばかりか、世界の混沌と紛争は12年たっても解決されていない。そのために、だからこそ、中村医師は殺されました。どれほど貴重な人材を失ったかを、これから世界は心底から知ることになるでしょう。

 何をどう追悼しようが、もう彼は還ってきません。良き人は還らず、悪人は跳梁して跋扈する。せめてもの救いは、彼の次の言葉です。

「人は死ぬまで働くようにできている。みんなに喜んでもらえる仕事にめぐりあった僕は、本当に幸せだと思うよ」

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2019年12月 4日 (水)

元気自慢

 

 本人はあまり自覚していないのですが、ボクもそろそろシニアと呼ばれる年齢らしい。だからこそ言えると思って指摘するのですが、高齢者があまりにも元気を自慢にするのはナニじゃないかな。

 たとえば「筋肉はいつでも鍛えられる」と腹筋のシックスパックを見せつけるジーサンに、面と向かって何かモノを言える人はいませんよ。エベレスト登頂の最高齢記録を狙うのも立派とされています。80歳を過ぎて全国ツアーに出かけるのも大変に結構。だってさ、長寿で健康は絶対的な善ですもんね。それにイチャモンや不平をくっつけるのは、親不孝で不敬で非常識で無礼で悪者で唯我独尊となります。最後はちょっと違うか。

 人類の長い歴史の中で、老人と子供と女性は弱者なので大切にするという共通認識が培われてきたからでしょうね。だからボクも、ナニとかモノとか、それこそ歯に何かがはさまったような言い方をしてきましたが、率直に言ってしまえば、元気な老人は若者にとって邪魔な存在なのです。こんなことを若い人は滅多に言いませんが、こいつらがいなかったらもっと給料は多くなり、昇進のチャンスも広がるのに、なんてね。

 だから、老人を敬うなんてタテマエもいいところで、若者と老人の対立は宿命とすら言っていい。それが表面化したり、論議のタネにならないのは、誰でもいつかは老人になると知っているからです。そして、老人もまた自分が若い頃の焦燥感を覚えており、目の前の若者たちの中に同じものを見つける。

 いわば双方の想像力が、世代間の軋轢を見えないものにしてきたのです。なのに、シニアがあまりにも元気を自慢にすると、そうした微妙な心的均衡が崩れてしまうんですよね。「痛々しい」のは同情の余地があっても、それが「憎々しい」となったら、見えない軋轢が明らかな闘争に発展しかねません。老人はとっとと引退しろ、いやオレらはまだまだやれるぞ、なんていう激論ほど不毛で非生産的で悲しいことはありません。世代間にあるべきなのは円満な継承であって、憎悪ではないですよね。

 若者は若者らしいほうが好かれるように、老人も老人らしいほうが好かれるはずです。筋骨隆々のジーサンとか、スタイリッシュなジーサンは、表面的にはもてはやされても、若者の心中は決して好意的ではないと思いますよ。ましてや、そんなシニアが自分の近隣にいれば、不愉快どころか敵として見なされるだろうなぁ。

 だからといって、若者に迎合する必要は金輪際ないと思います。年齢なんかにとらわれず、やりたいことをやり、言いたいことを言えばいい。しかしながら、やはり謙虚で節度を持つべきですよね。それこそが長い経験にもとづく識見であり配慮ではありませんか。だぁからね、あんまり元気であることを自慢するなよ、と。病気自慢も鬱陶しいですけどね。

 

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2019年12月 3日 (火)

バッタとタピオカ

 

 最近の流行は驚くほど早いですね。近所のタピオカ紅茶店に長い行列ができるようになったのは昨年くらいからと記憶するのですが、早々と退潮の兆しが出ています。まだボクは飲んだことがないんですけど。

 タピオカの利益率は大変に高いので、反社会的勢力の新たな資金源になっているという報道の影響もあるせいか、平日はお客さんがチラホラ程度。インスタにアップするための写真撮り風景もすっかり今は昔という感じです。

 それにしてもなぁ。飽きるのが早すぎやしませんか。これでは店も安心して経営なんかできませんよね。ブームになりかけたら、それっとばかりに群がり、しばらくすると、たちまちスクランブルスクエアや新パルコに移動する。まるでバッタの大群ですな。バッタが去った後は閑散となり、店は経営危機を迎えることになります。

 ボクの若い頃から似たような流行はありましたが、インターネットのおかげでどんどん加速。トレンドの寿命は相当に短期化しているように感じます。こうなると客商売に大きなコストをかけることができなくなり、短期間に投資を回収するために、すべてが安直になっていきますよね。店員を十分に教育する余裕がなくなり、飲食業では未熟な職人でも一人前として調理を任せる。ボクの近所の天ぷら屋さんも、油の切れていないものを平気で出してきましたから。このため、一時期はメディアに騒がれて大混雑でしたが、今ではガラガラ。たまに店を見かけると、「まだやっているんだ」と驚くくらいです。

 そんなメンタリティにミシュランなんて、飛んで火に入る夏の虫というほかありません。1つでも星が貰えれば、わぁっと客が行列を作るのは結構ですが、そんな状態では常連客は寄りつかないでしょう。いつまでも人気が続くなら結構ですが、前述したようにバッタの大群は季節が変わればさっさと移動していきますからね。

 はぁ。日本人はいつの間にこんなに無思慮になったのでしょうか。ボクなんか、行列を見ただけで避けて通るようにしていますけどね。みんなと一緒に、いやみんなより一歩でも早く、なんていう真似事にどれだけの価値があるのかなぁ。それよりも美味しい店や面白い店を、星やトレンド頼りでなく、自分で見つけるようにしようよ。

 こんなことになったのは、何かと同調圧力を強める一方で、いじめを見て見ぬフリしてきた教育にあるんじゃないかな。飛躍しているわけでは決してなく、レッキとした根拠もあるのですが、長くなるのでこのへんで。ともかく、ボクの体感としては、先進国の中では異常なほど、個としての自立が不完全な気がするのです。

 

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2019年12月 2日 (月)

経済格差の不可視化

 

  本日の日本経済新聞朝刊には、奇しくも経済格差が階級として固定化していることを再認識させる意見が2つ掲載されていました。

「萩生田発言は、BSテレピのニュース番組で飛び出しました。もし、キャスターが直ちに反応し、『その発言は、経済状況による教育格差を容認するものではないか。文科相としていかがなものか』と咎めていれば、萩生田氏は自らの発言の重大さに気づき、すぐに発言を撤回していたかもしれません」(「池上彰の大岡山通信・若者たちへ」日本経済新聞2019年12月2日朝刊)

 萩生田文科相が「身の丈に合わせて」と不用意に発言したことで、新しく導入される大学入学共通テストの英語民間試験を見直すという大騒ぎに発展。それだけでなく、記述式問題の採点方法における特定企業との結びつきなど、様々な懸念が一気に吹き出してきました。萩生田発言は本人の意図に反して社会的な意味があったといえそうですが、ボクが注目したのは「もし、キャスターが」のくだりです。そのキャスターは、明らかに英語の民間試験を負担になるとは捉えていなかったのです。

  東京に住んでいて、それなりの収入のある家庭なら「英語は読み書きだけではダメな時代だからなぁ」と納得するのは不思議ではありません。ところが、地方の貧困家庭にとっては大変です。最低2回の受験料を負担しなければならず、近隣に英語の試験会場がなければ交通費が、遠隔地であれば宿泊費も必要になります。新制度ではIDカードによる2回の受験成績が大学に送られることになっていますが、民間試験ですから、お金さえあれば何度でも受験が可能。試験に慣れれば、普通は成績も向上します。つまりは家庭の経済格差が試験成績に直結するわけです。

 そんなことをキャスターはイメージすることができなかった。これが現代の大きな問題であることに、あなたは気づけますか。彼は貧困家庭の実態なんて意識の埒外だったのです。キャスターという花形職業に就いているのですから、現在の収入はともかく、それなりの豊かな家庭に生まれて、それなりの有名大学を卒業したはずです。そして、彼のまわりは似たような家庭環境と履歴を持つ人ばかり。そんな人たちの中で日々を過ごしていれば、地方の貧困家庭のことまで気が回らないのは当然かもしれません。

  その結果として、テレビの視聴者にも貧困家庭の苦しさが伝えられることは稀有になっていきます。いわばテレビのほとんどは、中産階級前後の人たちを念頭に作られているといっていい。たまに貧困にスポットが当たっても、真夜中に放送されるドキュメンタリーが精一杯ですもんね。

 それによって、経済格差は次第にインビジブル、見えにくくなってきたのです。不可視化と言い換えられるかもしれません。

 それを間接的に指摘したのが、同じく本日の日本経済新聞の寄稿です。教育ジャーナリストの朝比奈なを氏によれば、高校の入試偏差値で下位にあたる「教育困難校」には5タイプあると分析するだけでなく、「教育困難校の生徒の多くは、建設業や製造業、サービス業等に若くして就き、うまく適応できれば日本社会の基盤を支える役割を長期間果たしてくれる」と指摘しています。ところが「必要な指導が受けられない高校生が少なくないのが現実だ」として、次のように結語しているのです。

 「教育困難校の教育環境の改善は喫緊の課題であり、その最大の障壁は社会の無関心である」

 経済格差の固定化が階級を生み、その底辺は「無関心」によって不可視化されながら定着していく。これはもう21世紀のカーストとすら言えるかもしれません。そこまで追求して初めて報道の価値があると思うんだけど、テレビでは無理だろうな。何しろ視聴者の多くは、自分自身が格差の底に落ちることなんて想像もしていないですからね。

 

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