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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

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2020年8月

2020年8月31日 (月)

不毛な質疑

 

「政権を私物化していませんでしたか」
「いいえ。説明不足はあったかもしれませんが、断じて私物化はしていません」 

 金曜日の安倍総理辞任会見での質問と回答要旨です。ネットの報道によれば、これは長丁場となった記者会見の最後から2番目の質問とされています。ボクは早々にバカバカしく感じてテレビを見ていなかったので、あくまでも「伝聞」ということになるんですけどね。 

 それまでも、その後もそうですが、政策より政局のことばっかり。安全地帯に陣取った有識者ならびに評論家やコメンテイターの皆様による憶測やら推測、政界の噂話などのオンパレードですもんね。そんなことより、安倍内閣のこれまでの政策をきちんと総括しろよ。コレはかろうじて評価できるけどアレは完全な失敗だったから、次の総理はコレとコレをしなくちゃいけない、とかね。アベノミクスって要するに何だったんだよ。

 もうすっかり忘れてしまいましたが、国会議員としての選挙公約や、総理就任時の抱負や施政方針演説なども振り返って、その達成率にもとづいて点数をきっちりつけるべきではないでしょうか。 口先だけは元気でも、予算を執行するまで時間がかかりすぎるのも、安倍内閣の際立った特徴じゃないかな。

 難病による辞任の無念さといった個人的な心情は、ボクたちごときが論評できることでも、すべきことでもありません。国家の指導者という重責と圧倒的な権力を掌中にした人間の恍惚と不安(ヴェルレーヌ)、栄光と驕り、そして隔絶した孤独感は、とてもじゃないけど凡人のボクたちに想像できるはずがない。 

 けれども、彼の政策を判断することは、国民であるなら十分に可能です。たとえば2014年と19年の2回に及ぶ消費税増税は適切だったのか。その使途は果たして当初の規定通りなのかどうか。経済の低迷を長期化した元凶になっていなかったか、とかね。こんなことを言い出すとキリがないのでやめますが、現在のメディアにおける報道や評論は、より良い社会を創っていくためのエビデンスにしようという視点に欠けまくっているように感じるのです。 

 冒頭の質疑も同じで、「政権を私物化していなかったか」と問われて「ええ少しはしたかも」と肯定するような大馬鹿野郎は世界のどこにもいません。誰だって「とんでもない」と否定するに決まっています。こんな曖昧な問いかけではなく、もっと具体的な答弁を引き出せる直接的な質問をするべきでしょう。それであれば、総理が明言を避けた、あるいは逃げたという印象を視聴者に強く感じさせることができます。 

 いずれにしても、新型コロナ禍では感染者数などの数字もコントロールされている可能性があるので、ボクたちに見えるすべては茶番と言い切ってもいいかもしない。けれども、それでは1㎜も前に進めないので、もうちょっと根拠や証拠に基づいた対話や議論をする習慣を身につけようよ。社会科学なんて、日本にちっとも根付いていないじゃないか。

 

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2020年8月28日 (金)

親密感染

 

 あるファストフード店でテイクアウトをオーダー。その仕上がりを待っている間に、店内を見ることもなく見ていると(どっちやねん!)、4人がけのテーブルに4人ギッシリで陣取ったオバサンたちが目に入りました。近頃は新型コロナの接触感染を防止するために、4人がけでも2人しか座れないようにした店もありますが、そのオバサンたちは隣同士で肩や腕が触れるほどの圧倒的な「密」ぶり。他のテーブルはガラガラだったので、余計に目についてしまったのです。

 それだけならともかく、皆さんノーマスクなので驚愕しました。とっとと食べて帰ることが基本のファストフード店ですから、テーブルの上にはアクリル板もビニールカーテンもありません。要するに、新型コロナのカゲもカタチもなかった頃と同じ環境で同じように、食後の“井戸端会議”を楽しんでおられたのです。

 この店の近所には大型スーパーがあり、出入り口で立ちどまって話し込むオバサンたちもよく見かけるのですが、みなさんマスクだけはちゃんとしております。ここは通行人がいない店内なので、警戒心が緩んだのかな。あるいは長く付き合ってきた近隣の人たちなので、「まさか」という気分もあると思います。

 ボクは自粛警察でも過度なお節介でもクレーマーでもなく、ましてやネットでの誹謗中傷なんか面倒くさくてやれるかというタイプです。さらにオバサン恐怖症なので、注意しようなんていう気はまったくサラサラ100万%ありませんが、その中にもしも陽性者がいたら、感染確率は相当に高いのではないでしょうか。テレビで何度も報道されているように、感染の主体は夜の街から職場や家庭内にかわってきたそうです。つまり、不特定多数から感染したウイルスが、気心を許した特定少数に浸潤してきたと言い換えられるんじゃないかな。オバサンたちに申し訳ないので敢えて付け加えれば、オジサンたちだって居酒屋で似たような密環境&ノーマスクで賑やかに飲んでいますからね。

 だからといって、陽性と判定された人が保健所関係者にそんな事情を正直に申告するかなぁ。そんなこんなで家庭内にもウイルスが入り込み、いつまでも感染者数の高止まりがおさまらないのではないでしょうか。いわば親密感染です。だとすれば、酒を提供する飲食店の営業時間短縮よりも、客の飲み方をしつこいほど注意したほうがよほど有効ということになります。

 ボクには確固たるエビデンスがないので推定や憶測レベルのことですが、それで大丈夫かよと不安に感じる光景をしばしば見かけるんですよね。

 

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2020年8月27日 (木)

アリのママ


 「ナスがママならキュウリはパパだ」という歌があるそうです。アニメ映画『アナと雪の女王』では「アリのママでぇ」とシャウトするのが主題歌ですけど、こちらはパパへの言及がありません。

 この「ナスがママ」と「アリのママ」がボクは大嫌いでありまして、若い頃からいろいろと努力を続けてきたつもりですが、「そうなっているんだから仕方ないじゃないか」とか「キミひとりが頑張っても社会は変わらんよ」などと言われ続けてきたんですよね。

 ただ、『アナ雪』で歌う「アリのママ」は、「ナスがママ」とはかなり違います。自分に確固たる意志があるのに、それを抑圧しなきゃいけない状況からの脱出を意味しているのに対して、「ナスがママ」は従属や他者依存の肯定ですよね。「アリのママ」は能動的な自立の歌ですけど、「ナスがママ」は受動的な他律ってことです。そりゃね、無駄な抵抗はしないほうが楽に過ごせますけど、それでは進歩できるはずがない。

 日本がバブル崩壊したのは、はるか30年ほど前の1990年代初頭です。それからずーーーーーーーーーっと経済が低迷してきたのも、この「ママ」たちが跳梁跋扈してきたからではないでしょうか。

 おかげで社会資本はどんどん劣化・毀損しているのにもかかわらず、修復や改善が、それこそママなりません。たとえば首都高速の橋脚を見上げるたびに、これで大丈夫かよと不安になってきます。

 そろそろ強い「パパ」が登場しなきゃいかんだろうと思っていたら、これもアメリカのほうが先んじており、トランプが大統領になってしまいました。毀誉褒貶が極端な人ですが、何もしてくれない既存の政界人に比べたらよほどマシじゃんかというのが、支持者のメンタリティじゃないかなぁ。

 とすれば、日本で期待したいのは、やはり「半沢直樹」でしょう。テレビドラマは漫画そのもので、あまりにもバカバカしくて見ていませんが、世界がいま求めているのは、保守的な「ママ」ではなくて「パパ」、つまり父性にほかならないとボクは思います。それが強権や独裁と誤解されるとエラいことになりますが、長く続いた「ママ」の時代をそろそろ終わりにしましょうよ。少なくとも変化を呼び込む「パパ」が期待されていることは間違いないはずです。それがITやAIなんて、人間として情けなくて涙が出そうになります。


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2020年8月26日 (水)

カタチ


 新型コロナのように、と形容すると非難囂々かもしれませんが、ものすごい勢いで伝播する流行語があるんですよね。最近なら「エモい」かな。

 その意味はネットで調べて欲しいのですが、こうした新しい言葉がマスメディアで騒がれた時にはとっくに終息、あるいは沈静化しているのが普通です。にもかかわらず、それに飛びつきたがるのが中高年の中間管理職でありまして、「これエモいよね麗子ちゃん」などとセクハラまがいの声をかけたりする。そういえば大昔に「チョベリバ」なんてのもありました。女子高生の流行から1〜2周遅れでオッサンたちが使い始めた時には、会話を耳にするだけでも顔が赤らむほど恥ずかしく感じたことを覚えています。

 こうした造語の寿命は驚くほど短く、ほとんどが死語になっていきます。中には反社勢力方面の隠語だった「ヤバイ」が表の世界でたちまち普及。今では子供でも使うようになった言葉もありますけどね。

 こうした造語ではなく、昔から存在した言葉なのに、最近になって違う使い方をされているのが「カタチ」であります。「ええ、そんなカタチで営業させてもらっています」「右から左にこなしていくカタチですね」とかなんとか、四角や丸といった内容ではない事にあてはめて言う人が激増しているように感じます。「カタチ」という言葉を削除しても文脈にはまったく影響はなく、そんな余計な3文字を入れるよりも「そのように営業させてもらっています」「右から左にこなしています」と言ったほうが早い。にもかかわらず、敢えて「カタチ」を挟むのは、はっきりと言い切りたくないからなのかな。あるいは会話に締まりを与えるという感覚もあるかもしれません。実際に、テレビのインタビュー取材で登場する一般の人たちの使用頻度がとりわけ高いんですよね。

 ボクたちライター業界でも「もの」という言葉で締めることがしばしばあります。「この製品は山の雪崩からヒントを得たもの」と体言止めにする時に使うのですが、ボクはこの言葉が大っ嫌いで、自分から使ったことは一度もありません。若い頃にデスクに直された時には憤然と抗議したくらいです。意味を持たない記号のような言葉を、まるで文鎮のような押さえとして使うことに我慢ならなかったのです。

 ただねぇ、こういう無意味な言葉ほど伝染しやすく、しかも長生きするから厄介なんだよな。おそらく最初の頃の「もの」も「カタチ」と同じ流行語だったんじゃないかな。ということは「カタチ」もかなり永続的に残るということになるわけです。

 もともと言葉はそういうものであって、人々に膾炙することで生き延びていく存在ではあるのですが、テレビで誰かが「カタチ」と口走ると、オレもアタシもという勢いで追随していくのを見るのがイヤなんだよな。言葉に限らず、そういう傾向がますます強くなってきたと感じるのはボクだけなのでしょうか(この結語もかつて流行した時期があります)。


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2020年8月25日 (火)

饒舌は逆効果


 新宿での取材を終えて西新井駅前に降りると、かなりの人だかりができていました。何だろうと背後から窺うと、某政党代表で前参議院議員だった某氏の街頭演説だったんですよね。政治的な信念や政策をよく知らないので、敢えて名前は出しません。ただ、この人は演説が決して上手ではないと感じたのです。

 誰よりも多弁で、実にまったく素晴らしく饒舌。まるで沈黙を怖れるかのように、次から次へと淀みなく言葉が連発されます。元俳優らしく演説の抑揚のつけ方も政界では群を抜いており、素人にも分かりやすく比喩やデータ使うので、本来的にはもっと支持を集めてもおかしくありません。

 けれども、ボクのようなオッサンには何かにつけて過剰すぎて、逆に不信感がどんどん強くなってしまうんだよな。どんな質問にも機関銃のように反論、あるいは説明するに違いないと思うと、どうにも共感しにくいわけです。むしろ朴訥で、演説は実にヘタクソだけど、誠意と真心を感じさせたほうが選挙には効果的ではないでしょうか。

 女性を口説く時と同じで、あまりもベラベラと自分のことばかり話す男が好かれるとは思えません。彼の政策には賛成するところが少なくないので、もう少しゆっくりと、聴衆の反応を見ながら、みんなで一緒に「沈思黙考」する部分を増やしたほうがいいよ。

 ボクだって若い頃は彼と似たようなものでしたが、多弁&饒舌は日本人のメンタリティに沿わないんじゃないかな。言葉の量よりも、その重さを見直したほうがいいんじゃないかと、自己反省を込めて感じたのであります。

 

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2020年8月24日 (月)

大人になれば分かる?


 ボクがもしもシングルファザーで、小学校に上がったばかりの息子から「父ちゃん、薄サラって何?」と訊かれたら、返答に困るだろうなぁ。詳しく説明するのもどうかとためらうようなテレビCMが、慌ててチャンネルを替えても続いたりする。この父ちゃんは一応ライターという仕事柄で、深くはないにしても幅広い物知りだと思われている、いや息子だけにはそう思われたいので、いよいよ窮するわけです。

 昔の大人はそんな時に便利な魔法の呪文を持っていました。「大人になったら分かる」。今は分からなくてもいいんだよ。でも、それなりに勉強して社会経験を積めば、必ず分かる時が来る。世界にはそんなことが山のようにあるけど、成長するに従って、その謎がどんどん解明されて取り崩されていく。それまではいっときにすべてを知ることができないのだと。

「どうして大人は毎日混雑した電車に乗らなきゃいけないの?」「会社に行くからさ」「どうして会社に行くの?」「仕事をしてお金を貰うためだよ」「どうしてお金を貰わきゃいけないの?」「お金がなければ生活できないからな」「なぜ生きていくのにお金が必要なの?」「それが経済ってものなんだよ」「だったら人間はお金の奴隷なの?」「知るかそんなこと」「やはりベイシック・インカムを導入すべきじゃないかな」なんてね。まさか子供が最後のセリフを言わないにしても、世の中には不思議なことが少なくありません。

 そして、大人になったところで、分かるようになるのは子供の頃に感じた疑問のほんの一部であって、多くは分からないままに残されています。それを大人としての世界観にもとづいて無理矢理&自己流に解釈しているだけのことで、誰も本当のことなんて分かっていないんですよね。

 だったら、子供に「オレも実は分からないんだ」と言えばいいのに、恥ずかしいせいか、なかなか正直に言いたがらない。そうした連続で積み残されてきた疑問が多すぎるように思います。化学や物理などの理系方面でなくて、とりわけ人文・社会関係の問題ね。だからこそ新型コロナでも、理不尽や不都合、あるいは矛盾した政策が実施されるんじゃないかな。医療の現場が逼迫しているのであれば、誰だってどんどん税金を注ぎ込むべきだと思いますよね。看護師や保健師が足りないから、たとえば期間限定の手取り月給50万円で緊急募集すればいい。ベッドを増床した病院にも直ちに資金援助する。PCR検査も必要だろうけど、医療体制さえしっかり確保されているなら、経済活動との両立は可能なはずなんだけどな。にもかかわらず、どっちつかずの政策ばかり。父ちゃんどうして? と大人のボクだって訊きたいですよ。

 ボクもいつの間にか大人の辺境あたりに近づく年齢になりましたが、かくのごとく、分からないことが減るどころか、ますます増えてきました。昔の大人だってボクと同程度だったはずなのに、よくもまぁ「大人になったら分かる」なんて言えたものですよね。あ、子供だけでなく、自分自身に対しても「はずなのに」という諦めに似た溜息が隠れていたのかな。


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2020年8月21日 (金)

コロナ格差

 

 新型コロナによる長期休校があったので、夏休みを短縮する小・中・高校は全体の95%にものぼるそうです。みんなが遅れているのなら、みんなで勉強して取り戻せばいいのですが、そうはいかないのが来年の大学入試です。 

 ボクが見聞きした範囲をいささか誇張して表現すれば、私立高校の生徒は朝から晩までオンライン授業で受験勉強。ところが公立高校の生徒はゲーム三昧で2〜3か月を無為に過ごした、となるでしょうか。もちろん意識が高い生徒は、先生の指導を受けなくても自主的な勉強をするほか、学習塾でもオンラインで行っていたはずですが、全体として私立と公立の格差はますます広がったのではないかと危惧しています。来年に大学入試を控えた生徒にとって、2〜3か月の遅れは、相当なダメージになりますからね。 

 このため、最初の頃は9月入学だの何だのと様々な論議があったようですが、今ではすっかり沈静化。大きな変更点は、センター試験に代わって新しく導入される大学入学共通テストで、特別追試も含めて3つの日程を設定したことくらいじゃないかな。2回目の試験を通常よりも2週間ほど遅らせたところで、3か月間の差が埋まるはずがないので、これはまさに弥縫策と言うべきでしょう。文部科学省では、大学の個別試験でも「配慮」を求めていますが、こちらも掛け声だけですから、どれだけ現実に反映されるか大いに疑問です。 

 いずれにしても、大学入試における公平・平等性が大きく揺らぐことになるんじゃないかな。東大生の親の半数以上が年収950万円以上というデータがあるように、家計による教育格差は今に始まったことではありませんが、新型コロナはそれをさらに促進する可能性があるわけです。 

 受験や教育だけでなく、労働環境もすでに大きな違いが生まれています。テレワークが浸透したとはいっても、ある調査によれば実施率は3割にも達していません。おそらく資本的な体力がある大企業ばかりで、中小企業ではそもそもテレワークができない業種も少なくないはずです。 

 そして最も憂慮すべきなのは、景気の悪化が非正規労働者を直撃するってことです。大きな会社の社員は通勤負担から解放され、「新しい働き方」を享受できるようになっても、その陰でヘタすりゃホームレスという人たちが急増しているかもしれない。テレビでもそろそろ報道されるようになってきましたが、またぞろ年間自殺者3万人時代に戻って欲しくはないなぁ。しかしながら、政治も社会も、そうした弱者には冷淡なんだよな、この国は。

 そういえば昨日は人身事故で中央線が運転見合わせとなりました。飛び込みではないことを祈りますが、ものすごくイヤな予感を消すことができないのであります。大嫌いなので、ここ10年まともに視聴したことはありませんが、夏の終わり恒例の「24時間テレビ」は、これらの問題をどう扱うつもりなんだろうか。

 

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2020年8月20日 (木)

経営と音楽(後)


 2回も続けるようなテーマではなかったように思いますが、「前」とした以上は「後」をくっつけておきなきゃダメですよね。

 読む意欲をいきなり殺ぐような言い方で恐縮ですが、新型コロナをめぐる動きがまたぞろ戦前戦中のような雰囲気になってきたからです。東京都が発表してきた重症者は、国=厚生労働省の定義を無視して、勝手にICUの患者を除いていたらしい。そんな数字をもとに重症者は極めて少ないとしていたのですから、ほとんど大本営発表です。どうやら10人程度の誤差にしても、「新型コロナ以外の疾患による患者もいる」と言い訳のようなコメントも報道されているので、とてもじゃないけど懲りているとは思えません。統一的な指標に従わなければ、全国との比較ができないじゃないかと指摘する人は都庁にいないんですかねぇ。

 しかも、日本感染症学会が昨日になってようやく「第2波の真っただ中」と発表しました。そんなもん、感染者数のグラフを見れば一目瞭然。7月半ばには、ほとんどの国民が感じていたことです。むしろ、これまで第2波と認めなかった理由を教えてほしいものです。にもかかわらず「経営と音楽」なんて、あまりにも美しすぎるテーマ設定だったと、つくづく後悔しております。

 昨日の続きとして付け加えておくと、企業経営は多数の楽器と専門的な演奏者が集まったオーケストラと似ているともいえます。また、どんなにも長い交響曲でも主調となる和音やメロディがあるように、企業理念や社風、いや強固な利権によって成立しているともいえるでしょう。とすれば、新しいメロディやコード進行を生み出すことが革新となります。しかしながら、耳馴染んできた主調和音にこだわる人たちが足を引っ張るのが普通ですよね。だったらオーケストラでなく、有志によるトリオやカルテットで始めようじゃないか、なんてね。結局はマンガのように誇張されまくったTBSの人気ドラマみたいな話になってしまうわけです。

 断っておきますが、いつもはこんなグダグダな展開の文章は書きません。疑うなら、これまでのブログをちょっとでも読んでみてください。ただねぇ、いくら言葉を連ねたところで、社会は変わるどころか、みんなの意識は1㎜も動いていないように思えるのです。ボクの理想は「いつでもどこでもPCR」じゃなかった、「いつでもどこでもやり直せる社会」なのであります。10代の終わり頃に入学した大学の威光やブランドパワーがいつまでも持続する社会っておかしいと思いませんか。東大に入学した人は死ぬまでずっと賢い秀才なのでしょうか。

 人間は神様ではないので、同じ人間を正確に評価・判断することなんて絶対にできません。だからこそ高学歴化すればするほど「出身学校社会」になっていくのですが、必要とされる能力はもはや知識やありきたりの理論ではないのです。そんなもんインターネットを探せばいくらでも見つかりますから、問題解決よりも問題を発見する力、そしてルーチンを打破していく独創性が最重要じゃないですか。その意味では個人の能力がどんどん問われるようになっていくはずです。ジャズでいえばアドリブ、インプロヴィゼーションが求められている。そうした創造的な能力は、試験や出身学校だけで分かるはずがない。やはり実際に演奏してもらわなきゃ評価できないじゃないですか。

 そのためには、企業も役所も年齢制限なんか取っ払い、抜擢や降格も含めて、何度でも出入り自由でやり直しができる流動性が必要ですよね。そうなった時に初めて「本来的な学歴社会」が成立すると書いて、はや20年ですもんね。徒労感が強くて無口になってしまいましたが、心中は今でもムカムカしているのであります。

 

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2020年8月19日 (水)

経営と音楽(前)


 音楽の理論にいくら詳しくても、素晴らしい曲を書けるとは限りません。いわゆる「絶対音感」の持ち主すべてが、歌が上手だったり、楽器を感動的に演奏できるわけでもないですよね。

 ボクは小4の頃に急性腎炎で夏休みも含めて2か月ほど自宅療養したおかげで、楽譜の理屈を学ぶ機会を喪失。こともあろうに音楽教師から「あなたは音痴ね」という無情な言葉を投げかけられたこともあって、音楽の成績は最低でした。色気づいた中学の頃にたまたまギターを入手。独学で譜面と格闘したおかげで、ようやくドとレの間には半音というものがあることなどを理解していきました。今でも1小節の間にどれだけオタマジャクシが並べられるのかよく分かりませんけどね。

 それでも、どんどん消えてしまう音の流れを正確に書き留められる楽譜の理論は、人類にとって画期的な発明だと感心させられました。テープレコーダーなんて存在していなかったバロックの名曲を繰り返し演奏できるのも、譜面が残されているからです。

 そんなわけで、譜面を読めれば演奏はできても、書けなければ作曲はできないと、アホなボクは長く信じてきたんですよね。世の中には「採譜」という仕事があって、音を譜面として書き留められる人に頼めばいいということを知ったのは10代の終わり頃じゃなかったかな。プロのミュージシャンでも、メロデイの録音を採譜してもらってオリジナル曲に仕上げている人は結構いるみたいですよね。

 ということは、ですよ。音楽理論をろくすっぽ知らなくても、美しい楽曲を紡ぐことができるってことです。それがもしかすると世界的な大ヒットになるかもしれない。その一方で、音楽理論の試験で最優秀の成績を収めたからといって、感動的な楽曲を創造できるわけではないってことです。

 ビジネスや企業経営もそれと似ていますよね。実践的な経営大学院であるMBAでいくら経営史や経営学を勉強しても、必ずしも実業で成功できるとは限りません。ケーススタディにしても、あくまで過去の事例であって、それが果たして現在でも通用するでしょうか。むしろ将棋や戦争と同じで、敵だって「定石」を研究しているはずですから、理論通りに仕掛けたら、そのウラをかかれて負けてしまう。

 つまり、現実のビジネスは創造性やオリジナリティが最重要なのであって、会計・経理やマネジメントなどは、音楽における「採譜」と同じく、分かっている奴にやらせればいいってことなのです。ボクは前者がCEO(最高経営責任者)、後者をCOO(最高執行責任者)と呼ぶのだと認識しています。

 そう考えれば、大学をさっさと中退したスティーブ・ジョブズが、パソコンだけでなく情報通信を劇的に変革したことも明瞭に理解できますよね。学校優等生ほど過去の理屈や理論に引っ張られるので、独創的な発想に至ることができないのです。

 歴史ある大企業の経営は別だと考える人もいるでしょうが、今日や明日が昨日と同じとは限りません。とりわけ今は過去になかった大規模で悲惨なパンデミックの渦中にあります。こんな常識外れで掟破りともいえる事態に、定石で立ち向かっても勝てるはずがない。ところが、現在の為政者やリーダー、そして官僚たちは、過去の定石を学んで好成績を得た人たちにほかならないのです。

 重苦しい時代には、その雰囲気を変える新しい楽曲が必要です。政治や経営も、同じように希望を抱けるポリシーや政策が求められています。どちらも、ポイントは創造性なのに、それが著しく欠けている。クリエイティビティに欠けた人が采配を振るう社会は、迅速に変わることができません。だからいつまでも同じ間違いを繰り返すのではないでしょうか。


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2020年8月18日 (火)

ウイルス

 

 新聞などの小さな字が読みやすくなるメガネがあります。機能よりも、若い女性のお尻をその上に置いても壊れないというテレビCMが話題になりました。カネに飽かせて、といえば語弊ありありですけど、人気女優&男優を起用したため、そのメガネ=ルーペの名称を聞いたことがないという人は稀有じゃないかな。

 これを後追いする二番煎じの通販メーカーも登場しており、ただでさえ格安な設定に加えて「今なら2本で……」と品位と信用を自ら落とすような大バーゲン。これは本家が放っておかないだろうと予想していたら、案の定、たちまち見かけなくなりました。どこのご出身か知りませんが、敢えて方言まるだしで商品説明するオジサンが社長の会社です。今では箱型の扇風機を発売しており、「とても涼しい」というところを「とてもすーしい」と明瞭に発音するので、最初は大笑いさせていただきました。

 ところで、お盆が過ぎました。お盆、お盆ね。お盆といえば、お盆といえば龍角散! なんていうダジャレを思いついたのですが、あまり笑って貰えなかったなぁ。ゴホンといえば、という原点を知らないと、何のこっちゃとなるのでしょうか。

 さて、いよいよ本題です。冒頭のメガネに倣って、「新型コロナウイルスが見えるメガネ」というのを考案しました。名称も「コロナルーペ」。イメージは決して悪くないですよね。このレンズは特殊コーティングによって紫に着色されており、それを通して見ると、新型コロナウイルスが赤黒く光って見えるのです。

 電車に乗った時には、「あ、その吊革は触らないでね。丸い輪っかの内側にウイルスがべったりです」とか、「机の上にうようよいます。アルコールでよく消毒しといてね」といった指示ができます。これ1本あれば、予防はもちろん、たちまち職場で引っ張りだこの人気者になれるんじゃないかな。

 もちろん冗談ですよ。テレビで紹介されていましたが、ウイルスの大きさは、人間を地球とすると、その上で暮らす猫くらいだそうです。光の屈折を利用した旧来の顕微鏡では視認できないため、電子顕微鏡が発明されるまで、その存在は仮説にとどまっていたのです。野口英世はアフリカで黄熱病の細菌を追い求めましたが、逆にその病を得て亡くなりました。病原体は細菌ではなく、その50〜100分の1程度のウイルスですから、いくら顕微鏡を必死で覗いても発見できなかったんですよね。

 そんな微小なウイルスが、いくら何でもメガネで見られるはずがない。でもねぇ、神経過敏になると見えてくるから人間の心理は不思議です。外出から戻った時には、イガイガの棘をまとった新型コロナが掌や指にベタベタと張り付いています。だから手を洗ってね、とテレビで喧伝しているではありませんか。

 しかしながら、もしもウイルスが視認できるなら、それより大きな細菌が目に入らないはずがありません。しかも至るところに多種多様な無数の細菌が棲息しています。これは想像するだに恐ろしい光景です。けむくじゃら、かどうかは知りませんが、ムカデみたいに醜悪で奇態な細菌がうようよと漂っているんですぜ。

 というわけで、あまり神経質になるのはいかがなものか、というのが本稿の結論なのであります。でもねぇ、たとえば歌舞伎町の路地裏あたりに「アタシは新型コロナが見える」と主張する占い師のオバサンがいて、隠れた人気を呼んでいる気もするんだよな。

 

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2020年8月17日 (月)

誰が戦争を始めるのか

 

 今年はめっきり少なくなったように感じますが、終戦記念日前後になると戦争関係の特番が放送されます。でね、エンディングのほとんどは「2度とこんな悲惨な戦争をしちゃいけない」と結ばれるのが普通です。けれども、そんな大層なことをオレに言われてもなぁと感じたことはありませんか。

 鳩にエサをやっている近隣のオジサンが「こうなったら戦争だぁ」といくら叫んだところで、軍隊が動くわけがない。むしろ、国際関係がどうあろうと、世論調査をやったら非戦または不戦を選ぶ国民のほうが圧倒的に多いに決まっています。戦争で真っ先に殺されるのは一般民衆だからです。

 どこの国も自分たちだけの正義があり、戦争のすべては侵略でなく自衛のためと位置づけられているので、開戦の原因を問えば議論百出となるはずですが、意思決定の責任者を特定するのは難しくありません。

 かつての大日本帝国は軍人が内閣=政治に参画。1941年には陸軍大将の東条英機が総理大臣となり、勝つ見込みのないアメリカとの戦争に突入していきました。この教訓から、敗戦後は「シビリアン・コントロール」として、文民である政治家が武装と軍隊を統括しています。だったら、「戦争はいけません」というのは政治家に言うべきことですよね。将来の政治家も含まれている子供たちに「戦争はいけないことです」と教えることは重要でも、テレビで一律に呼びかけるのは、相手が違うのはもちろんとして、むしろ戦争責任を希薄化するように思えるのです。

 年に1回、たとえば終戦記念日直前の8月14日にすべての国会議員と県知事などを召集して、「不戦の誓い」「非戦の誓い」をさせるという発想がどうしてないのでしょうか。彼ら政治家を間接的に支配しているのは財界ですから、大企業の経営者も必ず呼ぶとかね。さもなきゃ「2度と戦争はしません」なんて言葉は念仏に近いんじゃないかな。

 大昔のテレビ番組『朝ナマ』では、他国から侵略されそうになったらどうするかをテーマに大激論。「それでも武器は取らない」と主張した作家の妄想的平和論がボロクソに糾弾されたこともありますが、そもそも一般人がそんなことを語り合っても、意思決定の主体である政治家に届くかといえば相当に疑問です。

 そんな不毛な討論をテレビでやるヒマがあったら、国政を担う連中に同じ質問をぶつけて、その回答によっては選挙で落とすというのが民主主義ですよね。にもかかわらず、日本人はナイーブですから、戦争責任が曖昧にされるだけでなく、ヘタすりゃ国民全体のせいなんてことにされている。確かに、日露戦争の講和条件を不満として日比谷公園に数万人が集まって暴動が起きたこともありますが、政府の弱腰に怒って「もっと賠償金を取れ」というのが彼らの基本的要求であって、戦争をもう1回やれとは言っていないはずです。

 それに比べて、アメリカは責任者が明確です。宣戦布告は大統領の権限であり、実際の軍事戦略は陸・海・空軍の責任者が集まった統合参謀本部が立案・指揮しています。このため、かつて東京大空襲によって非戦闘員の市民を11万人も殺戮したのは、当時の米国空軍大将だったカーティス・ルメイであり、「もしも戦争に負けていたら戦争犯罪人として裁かれていただろう」という彼の述懐も記録されています。

 そんな人殺しに勲章を授与するのですから、日本という国はホントにバカじゃないでしょうか。こちらは曖昧な全体責任ではなく、小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名で佐藤栄作首相に推薦したことが公表されています。

 かといって、もはや太平洋戦争責任者の名前と関与度合いなどをすべて特定するのは無理ですよね。国会議員全員が参加した大政翼賛会が1940年に結社されており、このあたりから戦争にナダレをうって進んできたからです。今さら「誰が」といっても、あまり意味がないかもしれません。

 であれば、そうならないようにするのが「不戦の誓い」であるべきです。政治家の全員に戦争に関する公約をアンケート調査して、新聞やネットで詳細を大々的に発表するというのも、後々で責任を取らせるための有効な方法じゃないかな。

 いずれにしても、ボクたち自身が「無辜の民」という美しい無責任に逃げ込まないことが、不戦・非戦を維持する唯一の方法ではないかと思うのであります。

 

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2020年8月14日 (金)

鉄道自殺


 夕方に浅草のライブハウスに行こうと思ったら、東武スカイツリーラインが運転見合わせで停止。アナウンスがまるでないので駅員に訊ねてみると、「そちらのホームへは当分来ません」と例によって他人事のような返答です。なぜだか理由を言いたがらないのはどんな路線も同じなので、詰問するのは諦めて、さっさと改札を出てタクシーで浅草に向かいました。

 タクシーの車内でそんな話をすると、運転手さんが「飛び込んだらしいよ」と一言。「こんなご時世ですからねぇ」と溜息混じりで続けました。言うまでもなく新型コロナは経済活動に深刻な影響を及ぼしており、自粛が明けてやれやれと安堵した途端に第2波の襲来ですから、絶望する人がいても不思議ではありません。ところが、直後にネットを調べると、SNSではいくつか言及があったものの、鉄道会社からの公式なアナウンスがまったくないんですよね。そうなると、ウラが取れないので新聞などのメディアは報道しません。噂だけで記事にしたら訴えられますから。

 テレビは新型コロナの感染者数で毎日のように一喜一憂していますが、その陰で鉄道自殺が東京のみならず全国で急増しているのではないかというイヤな予感がします。「夜の街」や「会食」が槍玉に挙げられたおかげで、居酒屋などの飲食産業は壊滅的な打撃を受けているほか、仕事を失った非正規雇用者も相当数にのぼるはずです。なんて説明をわざわざしなくても、こんな状況で毎日を気楽に安穏と過ごしている人がいるはずがない。鉄道かどうかは別にして、自殺者がかつてのような年間3万人時代に逆戻りする可能性は高いんじゃないかな。

 日本は世界でも未曾有の「自殺大国」でありまして、1998年から14年連続で年間3万人以上が自殺していました。交通事故の死者が3〜4000人程度ですから、その10倍もの人たちが自ら命を絶っていたのです。昨年は初めて2万人を下回った1万9959人(速報値)となったのに、またぞろという予感を否定できないじゃないですか。

 こうした自殺の要因は深掘りすればするほど個人的になっていきますが、外的要因は経済問題が圧倒的に多いはずです。ところが厚生労働省を始めとするお役所はそれを認めたくないんですよね。ボクは「経済・生活問題」がほとんどだろうと思うのですが、警察庁の統計では「家庭問題」「健康問題」「男女問題」「勤務問題」などという複数の理由に散らしているんだよな。不景気で仕事や収入が不安定になるから、家庭も男女関係もうまくいかなくなるんですよね。「勤務問題」なんて典型的で、どう考えても雇い止めとか解雇でしょう。もちろんパワハラによる自殺もあるはずですが、経済問題に起因する「勤務先の問題」がほとんどじゃないかな。

 いずれにしても、自殺は個人の問題として捉えるのでなく、社会問題として正しく分析すべきだと思うんですよね。いくら「いのちの電話」や「相談センター」などが生きる気力を喚起したところで、カネがない生活が苦しいという客観的な状況は変えられないからです。そうなると景気や雇用などの社会政策が問われます。しかしながら、14年間の長きに渡って3万人もの人たちが毎年自分を殺し続けてきた国ですぜ。為政者は自分の責任だなんて夢にも思っていないんじゃないかな。

 新型コロナでも同じことで、都知事は「夜の街」から「会食」そして「家庭内感染」だのと原因を転嫁するばかりで、実効的な対策はほとんど打ち出さない。帰省もGo Toナントカにしても、結局は都民・国民の自己責任だもんね。

 はあ、こんなことは何度も書きたくないけど、よくまぁ暴動が起きないもんだと呆れるばかりです。かつて大学を占拠した団塊世代で元気な皆さんが再び蜂起しないでどうすんのよ。それとも最初から牙を抜かれたオオカミに過ぎなかったのかな。


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2020年8月13日 (木)

匂いの不思議


 そろそろ再び、アロマのブームが来るんじゃないかな。新型コロナ禍でのひきこもり、じゃなかった巣ごもりで家の中が見直されるようになり、ホームセンターが大盛況だそうです。室内で過ごす時間が多くなれば、生活環境に注意が向かうのは当然ですから、整理整頓や便利グッズなどが売れるのは不思議ではありません。

 でね、それが一段落すると、次に気になるのが匂いではないかと。まずはトイレなどの悪臭退治から始まり、風呂場とか生ゴミが滞留しやすいキッチンも匂いの発生源として認識されるようになります。しかしながら、匂いに対する感受性は個人差が大きいらしい。それだけでなく、匂いは「慣れる」という傾向も強いので、「何かヘンな匂いしない?」と奥様が指摘しても、旦那は自分が脱ぎ散らかした靴下が放つすえた匂いをまるで知覚しない、なんてことも普通にありますよね。それどころか、漬物や干物のように、臭さを香ばしいと好ましく感じることもあるので、匂いってのは不思議なのであります。

 いずれにしても悪臭(と認識される匂い)は不快ですから、その対策として消臭剤方面はテレビで盛大に宣伝されているものの、香りを能動的に添加するほうのアロマ関係はブームになったりならなかったりを繰り返してきたような気がします。ひょっとするとボクが知らないだけで、すっかり定着したのかも知れませんが、スティックのディフューザー付きアロマオイルを探そうとしても、なかなか見当たらないんですよね。

 それに、匂いを選ぶというのは大変に難しい。女性に香水をプレゼントするのが一種のタブーになっているのは、個別の嗜好が強く働く分野だからです。生活上の必要性が乏しいだけに、選択要素は感覚的な好き嫌いだけですもんね。プレゼントとして貰う方のストライクゾーンは、美だけでなく財力も示す宝飾品のほうがよほど広いんじゃないかな。

 ボク自身も、生意気にもオーデコロンなんかを買う時に、いろいろ嗅ぎ分けてはみるのですが、次々に忘れてしまうのでうまく比較できません。柑橘系だのフローラルだのと名称はあっても、それがどんな香りだったっけと何度も試せば試すほど、ワケが分からなくってきます。

 いくら嗅ぎ比べても印象に残らないくせに、人間の記憶は香りや匂いと抜きがたく結びついているんですよね。たとえば特定のカレーの匂いを嗅ぐと、子供の頃の夏休みを鮮やかに思い出す、なんていう人も少なくないんじゃないかな。ボクはチラシ寿司の匂いが保育園の七夕飾りに直結するのですが、チラシ寿司なら何でもいいというわけではありません。ご飯にあえる酢と砂糖の微妙な配合の違いによって、記憶のスイッチが機能したりしなかったりするらしいのです。

 匂いや香りのメカニズムが科学的&客観的に分析され尽くしているとしても、そうした人間のメンタルに与える影響はまだまだ解明されていないはずです。けれども、昔から香水が愛され、様々に工夫されてきたことから分かるように、男女関係から日常生活まで、匂いはかなり大切な要素であることは確かですよね。というわけで、これから再び「香り」がブームになるのではないかと。

 衣食足りて礼節を知るというなら、悪い意味で「匂い」が、良い意味なら「香り」がある種の関係性というか、コミュニケーションにもなってくるはずです。少なくとも悪臭や安っぽい香りが良い印象を与えるはずがないので、自分のまわりに漂う匂いには敏感になったほうがいい。

 と、思っていたら、近頃は匂いが分かるほどの濃厚接触は避けるべきでしたよね。それに、いつでもどこでもマスクだもんな。いやいや、だからこそマスクを取った時に嗅ぐ香りが心に深く刻まれるのではないでしょうか。いざという時にプーンとかモワーンと異臭が漂ってきたら、まさに百年の恋も冷めちゃいますからね。


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2020年8月12日 (水)

我が家

 

 夏休みになると、子連れの家族をあちこちで見かけるようになります。正直に告白しますが、ボクはそうした団体様がものすごく苦手です。

 特に親子仲良くというか、たとえば両親の腕にぶら下がっている子供がいたりすると、通常の3倍以上のソーシャル・ディスタンスを取りたくなるのです。苦手と前述しましたが、これは社会的オブラートに包んだ表現でありまして、より率直にいえば、子連れの家族が好きではない、というより嫌いなのであります。

 子供がいなければ人類に未来はなく、けれども子育てがとても大変だってことくらいは、子供がいないボクにも分かりますよ。だからボクから文句や不平や不満を言ったことはありません。いや違う、たった1度だけあるかな。アメリカでユナイテッド航空のエコノミーに乗った時のことです。ボクはいつもトイレに行きやすい通路側をリクエストするのですが、この時は幸いに隣の2席が空いておりました。こりゃ居心地がいいと思ったのも束の間、離陸すると後席から上半身を乗り出してボクの隣席に何か荷物を置こうとするではありませんか。何すんだよと振り返った後で、その荷物を見てみると、なななな何とバスケットに入った赤ん坊なのです。思わず2度見しましたよ。すいません、ボクが家族連れを嫌うのは子供がいるからで、しかも幼児は飛び切り大大大大の苦手です。泣いても世話なんかできるはずないので、直ちに客室乗務員を呼んで違う席に移動させてもらいました。

 こんな無茶なことを日本人は滅多にやらないはずですが、無意識に傍若無人な振る舞いをする家族連れは案外少なくありません。夫婦プラスアルファで3人以上の家族になると、どうやら独自の生活様式や固有の文化みたいなものが醸成されるのではないでしょうか。家の中ならナンボでもそのオリジナリティを追究していただいて結構ですが、そうした価値観を外の社会でも通そうする家族がたまにいます。それがね、ボクにはとっても不快に感じられるのです。いわば世界観ならぬ「我が家」観とでもいうのかな。そうした雰囲気や圧力に触れそうになると、ボクは直ちに逃げるようにしてきました。

 だってさ、相手は天下無敵の子連れですから、かつての某タレントのように非難したり怒ったところで炎上するのが関の山ですよね。実際問題としても、子供にルールやマナーを教えるのはホントに大変だろうとお察しします。

 それでも、ボクのように「我が家」の匂いをつい嗅いでしまう人もいるじゃないですか。体臭と同じく、本人たちはその匂いを自覚できないんですよね。だから「我が家」の香りが濃厚な人たちと接近遭遇しそうになると、とにかく後ずさりして離れたくなるのです。

 だから何なんだと言われそうですが、それだけのことです。せっかくの「我が家」や「一家団らん」を批判するつもりも一切ありません。ただ、こんなふうに感じる孤独な奴もいるんだよなと微かに認識していただくだけで、とても助かるってことなのです。

 

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2020年8月11日 (火)

大きいことは……

 

 ヒゲがトレードマークだった作曲家の山本直純氏が気球に乗ってタクトを振り、「大きいことはいいことだ」と歌ったのは1968年。これがチョコレートのテレビコマーシャルということはすっかり忘れられましたが、その文言だけは、およそ半世紀を経ても、まるで悪魔の呪文のように長く生き残ることになりました。

 「寄らば大樹の陰」という言葉もありますが、必死で勉強して有名大学を出たら大手企業に入社できて一生安泰、なんてことをつい最近まで、いや今でも信じている人は少なくないんじゃないかな。何しろ資本主義社会は資本=カネの多寡がパワーに直結しますからね。ウソだと思うなら、メガバンクや大手生保・損保会社の名前の変遷をチェックしてみてください。M&Aを繰り返して巨大化してきたため、やたら長い名前になっていた時期があるんだよな。熾烈化する国際金融戦争に小資本では勝てないということで、おそらく旧・大蔵省や旧・通産省が「大きいことはとってもいいことなんですよ」と指導したんじゃないかな。

 けれども、現代では図体が大きければ大きいほど経営が困難になってきました。猛スピードで進行する技術革新に即応しなければならないのに、それができない。組織として小回りがきかないという以前に、「寄らば大樹」を信じて入社した人たちは、受動的な「ぶら下がり族」になり果てたりするからです。経営幹部が保守的なために、世界的な新技術を「ハイリスク」「時期尚早」として握りつぶした事例も結構あるんですよね。そうした自己保身に陥りやすいメンタリティをうまく排除したのが、かつてのリクルートだとボクは思いますが、長くなるので、またいつか。

 いずれにしても、大企業のメリットは多数の社員をピラミッドのように垂直統治した組織力でしたが、それだけに目まぐるしく変わる社会やテクノロジーに即応できなくなっています。その一方で、シリコンバレーのハイテク企業は少人数から始まり、あっという間に巨大化することを繰り返してきました。そうした激しい、時には過酷な新陳代謝によってアメリカは世界一の経済力を維持してきたのに、日本はどんどん下位に沈むばかり。太平洋戦争時の帝国海軍がテーゼとしていた「大艦巨砲主義」は、戦後もまるきり変わっていなかったのです。真珠湾攻撃は航空兵力が勝利をもたらしたはずなのにね。

 では資本力はどうか。日本企業はかつてなかったほどの内部留保を抱えているといわれます。おかげで新型コロナの猛威も何とかやり過ごしているようですが、内部留保というのは、要するに使わないカネですよね。金庫にしまい込んだカネが1年たったら2倍に増えていたなんてことはあり得ないのですから、使わなきゃ意味がない。ある程度の内部留保を否定するわけではありませんが、言ってみれば後ろ向きの貯金じゃないですか。

 つまり、もはや「大きいこと」はちっともいいことではないのです。なのに、新卒の就活では知名度の高い出来上がった大企業ばかりを追い求めるんだよな。 

 だからね、この悪魔の呪文を現代的に正しく言い換えるとするなら、「大きくするのはいいことだ」なんですよね。小さな会社を大きくすることが、若い人たちに与えられた連綿と続く使命じゃないですか。折しも新型コロナによって、過去の常識はどんどん覆されています。寄りかかれる大樹なんかどこにもない。だったら、自分自身でビジネスや会社を大きくしてやると思ってほしいな。日清・日露戦争の指揮官や財界人たちは、それに似た強固な志をもって大国との不退転な戦いに臨んだはずです。

 その成功体験だけを追いかけて大失敗したのが太平洋戦争なんだけど、過去を正しく学ばない習慣は新型コロナ禍でも繰り返されているようですね。

 

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2020年8月 7日 (金)

「永遠」という罰

 

   まだ贅肉だらけのデブデブではなく、スリムなイケメンで色気ムンムンだったミッキー・ローク主演の『エンゼル・ハート』という映画があります(1987年公開)。その前年に公開された映画『ナインハーフ』で世界的なスターに躍り出ていたので、どれどれと映画館に足を運んだのですが、キリスト教に無縁な日本人にはいささか難解なミステリーでした。

 細かい部分を忘れてしまったのですが、香水瓶ほどに小さなガラス瓶の中に人間が閉じ込められており、内部を両手の拳で叩きながら、外からは決して聞こえない叫び声を上げているシーンは今でも鮮明に思い出すことができます。

 ミッキー・ロークは私立探偵役で、彼の事務所に「ある男を捜して欲しい」という依頼が舞い込むのがプロローグです。「ある男」は第2次世界大戦直前に突如として大ヒットを連発。全米で大人気となった歌手ですが、精神を病んで入院。その病院からも失踪してしまったので、見つけ出して欲しいというのです。ボクにはエルビス・プレスリーを彷彿とさせる設定でしたが、彼の足取りを追いかけていくうちに、陰惨な殺人事件に何度も遭遇。このあたりのエピソードはすっかり忘れましたが、結局は探偵自身が「ある男」だったことに気づきます。ネタバレですけど、ウィキペディアでもストーリーが紹介されているから構わないですよね。

 彼はビッグスターになるために悪魔と契約。約束の期日には魂を引き渡すことになっていたのですが、それを恐怖した彼は別人に化けるだけでなく、厳しい追究から逃れるために自らの記憶まで封印してしまったのです。ここがポイントでありまして、そもそもの依頼主は悪魔ですから、探偵が「ある男」なんてとっくに知っていたのですが、本人に自覚がなければ契約を履行できないらしい。そのために、自分を探させるというややこしいことをやらせたわけです。やがて彼は血まみれの鏡に映っている自分自身が探している相手にほかならず、悪魔の探索から逃げるために、複数の殺人事件も引き起こしたことを知ります。

 刑事に身柄を確保されて、骨組みが露わな昔のエレベータで階下に降りるラストシーンがなかなか印象的だったのですが、ボクが最も気になったのは彼の罪と罰です。悪魔を騙そうとしたのですから極刑ですけど、人間のように死刑に処されるのではありません。どんなシチュエーションだったか忘れましたが、悪魔はポケットの中から前述した小さなガラス瓶を取り出して、「この男も罪を犯した。もはや永遠にこの中から出られない」なんてことを言うんですよね

 えっ、こんな金魚鉢より小さな、人間1人でギリギリという狭い空間に、一生どころか永遠かよ、と。この時に、ボクは「永遠」という途方もない時間(?)に初めて戦慄したのであります。寿命に縛られた人間は「時の虜囚」とも言われますが、そこから解放されるかのように思える「永遠」のほうがよほど怖い。何しろ終わりがないんですぜ。

 これほど暗い内容なのに、どうして邦題が『エンゼル・ハート』なのか意味不明であり(原題は『墜ちた天使』)、もちろん国内ではヒットしなかったようですが、ボクにとっては記憶に残る映画でした。ミッキー・ロークはこの映画の後でなぜかイケメン路線を捨ててグダグダな生き方を選び、やがて盛りを過ぎた惨めなプロレスラーを演じたりしています。それもまた悪魔との契約解消を狙った所業なのかもしれない。このように様々な暗喩を感じさせる不思議な魅力を湛えた映画なので、興味があればレンタルでどうぞ。

 

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2020年8月 6日 (木)

自分の仕事をしろよ


 小池都知事が口うるさい保健所のオバサンみたいになってきたと思ったら、今度は大阪の吉村府知事が薬屋のセールスマンのようなことを言い出しました。

 3密を避けて、手洗いを頻繁に行い、たとえ家族でも日用品は別々にしましょう、ということに異論はありません。帰省も今年は控えたほうがいいというのも同感です。ピカドン、じゃなかったポビドンヨード (悪い冗談ですいません)入りのうがい薬が口中のウイルスを減少させる効果があるってことも、それなりに有用な情報ではあります。新型コロナは発症前にも強い感染力を発揮するほか、若い人の多くは無症状とされています。だからこそ他人にうつさないようにマスクで飛沫を抑えているわけでね。その意味では、くそ暑い時期だけに、このうがい薬を使えば、マスクを適宜外せるという効果はあるんじゃないかな。少なくとも無駄な知見ではないはずです。

 ただし、それらの告知や広報は、自治体の首長がやるべき仕事ではないんじゃないかな。具体的な衛生指導は、行政組織の中にしかるべき部署があるじゃないですか。うがい薬の効能だって、何も府知事がテレビで記者会見するようなことではありませんよ。画期的な特効薬なら別だけど。おかげでイソジンの棚は空っぽだもんね。

 だからといって文句を付けられる筋合いではありませんが、知事として、ほかにやることはないのかなぁ。以前の報道では、医療関係者のボーナスが軒並み大幅に減少。中にはゼロという病院もあったとようです。病院経営も、ウイルスで頑張ったところほど危機的状態になったとも聞いています。だったら、国から予算をふんだくってくるとか、地域住民から寄金を募るとか、そういうことをテレビで言うべきじゃないかな。

 ぼくが何度も「当事者能力」と言い続けてきたのは、そうした広域に及ぶ福祉的な発想や行動力なのであって、手を洗えうがいしろよ歯を磨いたか、なんてことはドリフの長さんなんかにまかせておけばいい。かといって、そこらの校長先生のように何の役にも立たない独創性皆無の故事成語を引用されても苦笑するほかありませんけどね。

 どうやら責任者や地位ある人たちは、途方に暮れると実に些末なことを言い出すのが習性のようです。ここでもね、日本のリーダー教育がどれどけ貧弱か分かるじゃないですか。何とか塾の出身者だって、あの原発事故以来、すっかりメッキが剥げちゃった。せっかく権力を手に入れたのなら、それに見合った自分の仕事をして欲しいなぁ、さもなきゃ次はきっちりと落選させるというのが、本来の民主主義社会だろうとボクは思います。

 だったら安倍さんはどうよと、話はどんどん堂々めぐりになるから、この手の話題は始末に終えないんだよな。


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2020年8月 5日 (水)

どこまでバカなのか

 

 ホントはバカなんじゃなくて、ものすごく賢いと言うべきかなのかなぁ。新型コロナをめぐるモロモロなんてもう書きたくはないけど、当方はハイリスクグループに属するので、毎日をほとんど命がけで過ごしております。そんなオッサンから見れば、バカなんじゃないのと嘆息したいことばかりなんだよな。 

 まず、テレビ局など報道関係はなぜだか「第2波」と言いたがらない。最近になってようやく認め始めていますが、それでも「今回の第2波が」とか主語に使うことはほとんどありません。けれども、そんなもんグラフを見れば明らかで、7月初め頃から感染者が急増。このあたりから第2波と言わないでどうすんだよという事態に陥っているのに、まるで政府が箝口令でも敷いているかのように、誰も口にしなかったじゃないですか。

 今になってそりゃそうだよな、と妙に納得するのは、最初の経験から何ひとつ学んでいなかったからです。PCR検査も病床の不足もまるで解決されていない。安倍首相は前回のピーク時に「PCR検査を1日2万件体制に拡充します」と確かに言っていたぜ。この時のセリフをテレビ局は忘れたかのように無視しているのも不思議でなりません。テレビは郵政省、じゃなかった総務省の許認可事業だからかな。 

 前回は不足しまくりだったマスクにしても、首相は似たような大言壮語をぶちかましていました。第1波の感染がようやく沈静化した頃に、子供用かと思うほど小さな布製を配るんだから、悪い冗談としか言いようがない。しかも、そちらの第1波は汚物混じりだったもんね。 

 いかなる理由があろうが、命にかかわる病床不足を相変わらず繰り返すというのは、やっぱバカとしかいいようがないじゃないですか。でもって、最近は夜の街から家庭内感染が増加したという。感染者が入院できずに家庭内で療養していたら、1人暮らしでない限り、家族に広がるのはあたりまえですよ。それもこれも、第2波が予測されていたにもかかわらず、まともな受け入れ体制を準備できなかった政府と関係官庁、自治体首長と地域行政の不手際以外のなにものでもありません。だからこそ第2波であることを認めたくないわけですな。

 PCR検査をどんどんやれやれ論者にも訊きたいんだけど、それで多数の感染者を見つけたら、どこに隔離・収容するつもりなんだろうか。軽症者用のホテルなどを大幅に増加しなければ、自宅待機になって家庭内感染を増やすだけですよね。それなら検査をやってもやらなくても結果は同じということになってしまいます。つまり、検査と感染者受け入れ体制をセットで論じなきゃいかんだろうと思うわけです。 

 Go To トラベルによる地域への感染拡大なんてもはや論外です。「少しくらい国民が死んでも経済のほうが大切」という本音をスッパリ言い切ってくれたほうが分かりやすいではありませんか。いちいちカンバン、じゃなかったフリップを振り回して「厳重警戒」だの「感染拡大」と言うだけで、何もかも国民や都民、市民に押しつけるんじゃねぇよ。 

 かの東日本大震災から、日本のリーダーは危機に対する当事者能力がまるで欠けています。誰だよ、こんな奴らを選んだのは。さすがに温厚で篤実なワタクシも切れました。もう自分のことしか考えないようにしよう。ポビドンヨードだっけか、たとえばイソジンでうがいしなさいというのも何だかなぁ。だったら3か月分くらい買い占めてやるぞ、と思ったら、すでに売り切れだってさ。はぁ、こんなこともまたもや繰り返しかよ。 

 大声でバカヤローと何度言ったところでなんにも解決しませんが、せめて原稿料がタダのブログで1度くらい鬱憤、いや公憤を晴らしてみたかったのです。ますます不愉快になってきたけどね。よくまぁ皆さん、暴動のひとつも起こさずじっと我慢できるものだと、飼い慣らされた羊のような温和しさにも呆れ果てます。国会に集結したところで、閉会中ってことでみんな逃げているけどさ。

  

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2020年8月 4日 (火)

世界観(後)


 クルマのようなプロダクトやパッケージデザインを見れば、それぞれの世界観の違いは明瞭に理解できます。ところが、これらはあくまでも表出されたものであって、世界観は人間の内部にしか存在しません。

   というより、そもそも世界はひとつしかないんだから、世界観にそんなにも違いがあってたまるかと考える人のほうが多いんじゃないかな。

 確かに、日の出も夕焼けも星空も、見えているものは同じという前提でボクたちは生活しています。ところが、他人と長く同居してみると、必ずしもそうではないことが分かってきますよね。日の出を太陽と地球の位置関係でとらえる人もいるだろうし、何だか元気になると感性的に捉える人もいます。もしもそうでないとすると、その同居人があなたの世界観に忠実に従っていることを意味します。
 結婚して、お互いの違いが次第に分かるようになり、それが我慢できないほどの不満に膨れあがってしまうと、「世界観が違う」として別れることにもなります。離婚理由で最多といわれる「性格の不一致」は、その言い換えに過ぎないとボクは思っています。

 このように世界観は人によって異なるはずですが、違い過ぎては生きていけないから面倒なんですよね。たいていの人は働いてカネを得ないと生活できません。この働くというのは、モノを生産、あるいはサービスなどを他者に提供してカネと交換することを意味しますが、その認識が違えばメシを食うこともできなくなります。親の遺産で働く必要のない人もいますが、いずれにしても社会生活のほとんどは過去から蓄積されてきた共通の世界観で運営されています。
 とりわけ時間が典型的なのですが、午後12時の解釈はいろいろあっても、オレは昼飯は食べないという人がいても、12時という時間は絶対的な存在です。さもなきゃ社会の秩序が根底から壊れてしまう。「キミとボクは世界観がまるで違う」という人たちも、離婚調停の始まりが12時であれば、時計が故障していない限りは同じ時間に集合することになるわけです。

 ということで、共同体である社会を円滑に営むためには、世界観が標準化されていなければなりません。それを定着させるのが、教育の主要な役割だろうとボクは思います。昨日も書いたように、本来は個性的であるべき美術まで「教えよう」とするから困るんだけどね。しかしながら、この教育も人間=権力者によって作られた世界観の1つに過ぎないことは、学習指導要領を読めばすぐに分かります。ちょっと前までは他者と共存するための協調心を重視していたはずなのに、近頃は主体性・積極性ですもんね。

 このように世界観を語り始めると、社会と個人が錯綜してどんどん厄介なことになっていきます。ただ、生活のために標準化された世界観、すなわち常識と、個人特有の世界観の共存は不可能なことではありません。たとえばクルマは物理の法則から逃れることはできませんが、その範囲内であればスタイルやデザインに制約はないのです。牧歌的な田舎暮らしをイメージしてもいいし、カモシカのように高速道路を疾走するイメージでクルマを作ることもできます。あるいは山肌を駆け上がる猛牛のような力強さとかね。ただし、それが沢山売れるかどうかは別問題ですから、ビジネスであれば消費者の最大公約数的な世界観も認識しておく必要があるわけです。

 でね、ボクはもう、こうした理屈に辟易としている自分を感じるのであります。つまり、約束事だらけの世界観から生まれたプロダクトにはほとんど魅力を感じないのです。世の中は昔に比べて圧倒的に高度化・複雑化しており、人工知能だって発展しているのですから、もっとヘンテコでぶっ飛んだ世界観があっていい。そのほうが人間的で面白いじゃないかと。

 さらに言えば、社会的かつ標準的な世界観に縛られて生きていく必要なんて、もはやないんじゃないかな。自分が世界の中心にいると信じて、そこから世界はこうあるべきだと叫んでもいいじゃないですか。それこそが本来の自由であり、生きている醍醐味のような気がする。そうしたカネ儲けとは無関係な超個人的発想が、これから必要になると思うんだけどな。少なくとも人工知能に勝つためには、そこに人間が至らなきゃアカンだろうと。

 草間彌生が水玉にこだわったのは、世界がそのように見えていたからです。これなら売れると商業目的で発想したのであれば、たちまち行き詰まっていたでしょうね。彼女が若い頃に美術教師から無理矢理に矯正されたとしたら、ものすごく生きづらく感じたに違いありません。やっぱね、芸術は個人の世界観の爆発なわけですよ。

 けれども、実際には大多数の人たちが、標準化された世界観に自分を折衷させながら生きています。もしも仮にそのように感じたことはないというなら、心まで支配された哀れな奴隷としかボクには思えません。それはそれで批判するようなことではありませんけどね。

 それらを踏まえた上で、再び自分なりの世界観を獲得しなきゃいけない。要するに、世界の面白さを自分なりに再解釈するってことかな。そんな時にも、世間や隣の人を横目で見て従うなんて、ボクはゴメンだな。


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2020年8月 3日 (月)

世界観(前)


 まだまだうまく説明できないのですが、これからは個人の「世界観」が大切になってくるんじゃないだろうか。

 幼児の絵が典型的なのですが、自由に勝手気ままに描かせると、それこそいろいろありますよね。対象や構図もバラバラなら、線の太さもそれぞれ違う。色の使い方も、ボクは寒色ばかり選んでいたような気がします。なぜなら、そうした色は男らしくて、ピンクや赤などの暖色は女の色だと思っていたからです。おかげで両親は小学校の先生から「この子は要注意」みたいなことを言われたらしいんだけどね。

 そうした子どもたちの絵は、上手下手は別にして、彼らにとって世界がそのように見えている、ってことなのです。つまり、これが世界観ということになります。

 個性と基本的に同義であるだけでなく、親との関係性や生育環境からの影響も色濃く反映されています。だからこそ、この世界観は子どもによって千差万別であるはずですよね。

 ところが、個性的であるはずの世界観が、教育のおかげで、年齢が上がれば上がるほど、どんどん標準化されていくことになるのです。たとえば絵の構図にしても、先生によって「みんなが同じ方向を向いているのはおかしいだろ」などと修正されます。確かに絵のバランスとしては正しいかもしれないけど、ボクが今の日本を描くとするなら、むしろみんなを同じ向きにするだろうな。新型コロナに関する方針や説明にしても、政治家はすべて似たようなことしか言わない。それよりも感染の第1波がもたらした数々の悲劇や問題や課題をまるで学習していません。

 少なくともボクにとっては、みんなが同じように、たとえば右を向いていると感じるのですから、絵画の構図に関する理論はどうあれ、それこそがボクの世界観、いや日本観なわけですよ。文章の語尾だって、「です、ます」と「だ、である」を混在させてはいけないと指導されてきましたが、果たしてそうかな。ボクの世界観に従えば、会話は混在しています。「だ、である」は一種の押しつけであり、「です、ます」は共感あるいは納得を求める機能があります。だったら、「言文一致」の文章中に2種類が混在していて何がいけないのでしょうか。

 そのように考えながら、機能とデザインの2つが要求されるクルマを見直してみると、世界観が明瞭に分かるんですよね。これは国民性にもかかわってくると思いますが、おしなべて日本とドイツのクルマは理屈が優先しているように感じられます。奇しくも両国はかつて工業後進国であったせいか、技術や理論に対するコンプレックスの反動から無際限な礼賛が入り混じっているんじゃないかな。つまり、極めて合理的ではあるんだけど、テクノロジーという標準化された世界観に率直に従っているために、個性があまり感じられません。それに比べて、イギリスやイタリア、フランスやスウェーデンのクルマは、確固たる世界観が感じられじゃないですか。昔のシトロエンなんか、見る人を好き嫌いで二分するくらいの強いクセがありました。

 わぁあ、ちょっと面倒なところに行き着いてしまったので、1日考えてから、明日も続けることにします。


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