軍医部長・森鴎外の失策
森鴎外といえば、夏目漱石とともに日本文学史上で双璧を成す大文豪です。それだけでなく、本業だった軍医としても、人事権を擁する最高位とされる陸軍省医務局長にまで上りつめました。
ただし、ドイツ留学中に執筆した論文2本ともに臨床実験なしの切り貼りだった(ウィキペディア)など、近年になって毀誉褒貶が表出しています。その中でも、拭いきれない汚点として歴史に刻まれているのが脚気問題です。兵士の患者が急増していた脚気の原因について、軍医の森鴎外は細菌による伝染病説に固執。当時はビタミンこそ発見されていませんでしたが、それを含む麦飯が脚気を予防することが経験的かつ実証されていたにもかかわらず、これを黙殺したのです。
1904年4月8日に、第1師団の鶴田軍医部長と第3師団の横井軍医部長が軍の食事を麦飯にするよう進言。けれども「麦飯供与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」と『日露戦役従軍日誌』(横井禎次郎・著)に記されているそうです。日露戦争はからくも勝利しましたが、その陰で陸軍では約25万人にもおよぶ脚気患者が発生。うち約2万7000人が死亡に至りました。脚気がビタミンの欠乏による疾患であることが公的に認定されたのは、それから20年ほども経た1924年。森鴎外の死後2年目ですから、何かいわくを感じませんか。
森医務局長が創設した臨時脚気病気調査会が原因の特定に貢献したという説がある一方で、脚気ビタミン説の否定に邁進しただけじゃないかという批判もあります。ボク自身は、後の薬害エイズなどの歴史を踏まえれば、森鴎外の失策にほかならないと考えています。ここでは略しますが、日本の行政は太平洋戦争の敗北を経てもほとんど変わることがなく、官僚は失敗しないという「無謬性の原則」が貫かれてきたからです。
それはともかく、どうしてこんな昔話を今頃持ち出したかといえば、新型コロナでも、森医務局長と同じように、クラスターにこだわり過ぎたのではないかと疑っているからです。すでに面的な広がりを持つ市中感染に移行していたにもかかわらず、夜の街などのクラスター潰しに躍起になったのは、いったい誰の指示だったのでしょうか。ボクごとき素人でも海外の報道などで第2波や第3波の到来が予想できましたから、クラスターの徹底的な追求を一段落させて、PCR検査の拡充や入院体制の整備に軸足を移すべきだと思いますよね。 保健所にしても、爆発的に増加する相談者の対応や陽性者の隔離場所の振り分け、さらに濃厚接触者の調査などに追われたら、バンクしてしまうのも当然です。
結果的に医療や救急が逼迫し、本来は死ななくて済むはずの中高年や若者が自宅療養中に悪化して死ぬという悲惨な事態が起きています。いくら総理大臣が「申し訳ない」と頭を下げたところで、亡くなった人が生き返るはずがない。このような不備な対策、というより、そもそもPCR検査の普及に消極的だったのはどこの誰だったかくらいは、そろそろ特定すべきだと思うんだけどなぁ。政治家が判断できるわけないので、やはり厚生労働省の医系技官が関与しているとしか思えません。薬害エイズの時も、奥の院に隠れていた責任者が露見したのは被害が完全に終息してからだもんね。
誰だってミスや間違いを犯します。それが分かったら修正すればいいだけですから、個人の責任を問い詰めるわけではありません。しかしながら、失策や誤謬を迅速に改めることができない組織には根本的な欠陥があります。最上位に座した1人の人間を崇め奉るあまりに、誤った決定でも覆すことができないんじゃないかな。誰かが止めれば、あるいは諫めてさっさと修正できれば、多数の命が救われたにもかかわらず、自分のクビを大事にして隷属と沈黙を続ける。流行語にもなった忖度が積み重なったピラミッド型組織によって、国家運営にかかわる重要な意思決定が、ボクたちには不可視な雲の上で行われてきました。こんなやり方を民主主義と呼んでいいはずがない。
鴎外は「森林太郎の名前以外は墓に刻むな」と遺言したらしいですが、軍医としての致命的な判断ミスも火中に葬るつもりだったのでしょうか。死者を今さら糾弾しようというのではなく、陸軍省医務局長・森林太郎の失策を許した日本型組織が現代も継承されていることを、今こそ思い出してほしいのであります。
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