大相撲の八百長が話題になっていますが、これって日本の社会風土の悪しき側面を象徴していると感じます。というのも、建設業界などの「談合」なんか八百長そのものじゃないですか。政治献金による便宜供与も、官僚の天下りだって似たようなものです。
どうやらボクたちは「公正な競争」が死ぬほど嫌いらしいのです。
こうした行為は、法律やルールの上では八百長でも、相互扶助つまり「助け合い精神」と考えられなくもありません。旧知の力士が十両から陥落すれば給料がもらえなくなるというなら、何とか助けてやりたいと誰だって思うでしょ。どんなコトでも裏と表があるので、「八百長」は「間違った相互扶助」であると認識しておかないと、根絶するのは無理なんじゃないかなあ。
ただし、ボクたちはすべての競争を嫌う「草食民族」ではないようです。もしそうなら入学試験も、狭き門の国家試験や資格試験が存在するはずがありません。問題なのは、ある段階を超えたところで、突如として「競争忌避」が発生することです。
弁護士なんかは典型的で、旧試験は合格率3%の超難関。だからこそ合格者の利権が保護されていました。入口までは厳しい競争環境でも、いったん合格したら天国。このため、新制度によって有資格者が急増して利権が守られなくなると、途端に「合格者増員は抑制」という声が上がるようになり、行政はそれを追認しました。公認会計士も同様です。
そして、企業における「年功序列」もまた、ある年齢を超えれば、仕事の質は別にして所定の給与と待遇を保障する制度ではありませんか。そのかわりに、安定した大企業への入社や公務員試験は難関であり、新卒は熾烈な競争を強いられています。
ここで見られるのは、「上がり」という発想だと思います。ある段階までは必死に競争するべきだけど、「上がり」になったら、その身分や待遇は保障される。そのほうが楽チンだし、死ぬまで競争するような社会って辛いじゃないですか、確かにそうだよね、そうしよう、という多数の無言の意志共有が、そうした制度を作ってきたような気がします。
ここで例にするのは大変に恐縮なのですが、大学教授も実はそうした側面があるようです。松野弘著『大学教授の資格』(NTT出版)では、以下のように指摘しています。
「例えば、助手から講師や助教を経て准教授、そして教授と序列を上がれば上がるほど、むしろ人数は増えてゆくのである。このことは少なくとも数字上では競争が発生する余地はなく、日本特有の年功序列型の昇進が保証されていることを意味する」
若年人口の減少で、これがいつまでも続かないと分かってはきましたが、日本という制度のフタを開けてみれば、このような「上がり」が企業であれ大学であれ、公務員であれきちんと保証されていたわけです。だったら、何で大相撲だけがいつまでも天国と地獄を行ったり来たりする不安定な生活でなきゃいけないのか。せめてギリギリのところだけは融通をきかせようとなっても、決してヨコシマだとは言い切れなくなってきます。
では、なぜこうした制度が生まれて、長く維持されてきたのか。かつては競争の当事者であったはずの若い人たちは、なぜ反乱や抗議をしないで、自らそれに組み込まれていったのでしょうか。
ボクはおそらく日本が「閉じた社会」だったからだろうと考えます。閉鎖社会では、その中で競争関係が完結するため、次第に変質して、今度は馴れ合いによる利権の維持へと向かうわけですね。
これは、大陸の動物の個体差が極端に大きいのに対して、孤島の動物はほとんど同じようなサイズであることと似ています。大陸では極端に大きいか小さくないと食べられてしまう。けれども島には外部から強力な捕食者がやってくる脅威がないため、似たような個体のサイズでも生存を維持できるからと解釈する研究者がいます。実際に日本には身長2メートルを超える人ってほとんどいませんが、大陸ではそれほど珍しくはないですよね。
その真偽は別にして、「閉じた社会」に独自の共存ルールが生まれてくることに不思議はないでしょう。日本は戦後長く「閉じた社会」だったのかもしれません。それが日本独自の「上がり」制度を作ってきた。
ところが、この国はもはや閉じていることはできません。人口減少でジリ貧の国が閉じていたら、再び発展途上国に逆戻りしてしまいます。
であるなら、日本という国内だけでなく、世界に向かって胸を張れるようなルール、法律、そして制度や文化風土を新しく作っていかないと、もうダメなんだと。そうした意味では「日本独自」や「伝統」という言葉の独善的な側面も意識するべきでしょうね。
そういうことを今回の八百長事件は教えているのだとボクは思います。
ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓
