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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

学問・資格

2017年9月 1日 (金)

事前規制と事後摘発

 

 来年度に学生募集する法科大学院がとうとうピーク時の約半数、39校に減少したそうです(日本経済新聞8月31日朝刊)。このブログでは書き飽きたテーマなので近頃は話題にしてきませんでしたが、もともとボクはこの制度に大反対であり、ついでに合格者数を予め絞ることも自由民主社会ではあり得ないことだと以前から指摘してきました。過去のブログならびにボクの著作など、その証拠を出せというならいくらだってあります。

 

 それと同じことを書きたくないので論点だけまとめれば、そもそものきっかけは司法試験合格者数を「2010年頃には年間3000人にする」とした2002年の閣議決定にあります。こんなことを政府が決定すること自体がおかしい。たとえば100点満点のうち80点以上なら合格という規則を70点以上に緩和するなら分かります。けれども、合格者数を増員ってどういうことでしょうか。入学定員が決まっている大学受験じゃないんですから。検察官や裁判官は公務員でも、弁護士は民間で活躍する専門職です。そんな仕事の従事者数を政府が規制するってヘンでしょ。たとえば競争が激化すると経営が厳しくなるという理由で、東京で新規開店するラーメン屋を年間500店に規制するのと同じではありませんか。

 

 ちなみに自由民主主義の国アメリカではこんな馬鹿げたことはできないので、弁護士の登録者は約122万人(2014年)に達します。対する日本は約3万8000人(2016年)。人口は2.5倍程度に過ぎないのに、弁護士の数は何と32倍以上です。いくらアメリカが訴訟社会とはいっても、この違いは大きすぎると思いませんか。

 

 いずれにしても、合格者増員というなら受験資格不要の旧司法試験の枠を広げるだけで済むのに、それでは合格者の質が下がると考えたのか、2004年から法科大学院制度がスタート。この大学院を修了しないと司法試験が受けられなくなりました(予備試験は後述)。そのかわりに「新司法試験の合格率は70~80%」という途方もない広報が行われたおかげで、初年度の法科大学院志願者は7万人以上という大フィーバーですよ。

 

 その後の経過は今さら解説するまでもなく、大学院で高額な学費がかかるのに司法試験の合格率は20%台。うまく合格できたとしても新人弁護士は就職難。こんなハイリスクな資格職の人気が下がるのはちっとも不思議ではなく、法科大学院の志願者・入学者ともに年々減少。おかげで法科大学院の撤退が続いてきました。そのかわりに、誰でも何回でも受験でき、合格すれば即司法試験に挑戦できる予備試験が大人気。この予備試験は、法科大学院が参入規制と非難されないように残した言い訳的な制度だったのですが、今ではこちらの合格者のほうが優秀と評価されるサブルートとなっています。ホラね、何のことない、名称は変わっても旧司法試験はちゃんと生き残っているではありませんか。

 

 皆さんはこのプロセスのどこに間違いがあると思いますか。ボクはやはりスタートラインがおかしいと思わざるを得ないのです。合格者数の「事前」制限は明らかに既得権益の保護ですから、岩盤規制と同じく自由民主主義における市場競争に反しています。

 次に弁護士の仕事について。政府が司法試験合格者の増員を決定したのは、規制緩和という大きな流れが前提でした。いわく「行政による事前規制」から「司法による事後の摘発&救済」への転換です。早い話が、お上による規制をなるべく緩くすることで市場競争を刺激し、ビジネスをより活性化しようというのが狙いでした。

 

 でね、こうした最初の理念が首尾一貫しなかったことに大きな問題があるわけです。その意味では「司法試験合格者数3000人」の撤回なんぞ実は大した問題ではありません。「行政による事前規制」からの転換がうまくいっていないどころではなく、むしろ揺り戻しともいえる状況にあることをどれだけの人が認識しているでしょうか。ぶっちゃけて言えば、行政による「事前」の規制と支配が根強く残っているからこそ、「事後」を管理する弁護士の仕事が増えない。だからこそ新人弁護士の就職難、よって法科大学院の不人気、それなら予備試験のほうがローリスク、と話は淀みなくつながっていくのです。

 

 それに隣接資格の問題もあります。司法書士と行政書士に類似した資格は欧米にはなく、すべて弁護士の仕事です。これらは司法と行政の制度が縦割りで整備されていく時間差で生まれてきた専門職と考えられますが、そろそろ廃止や統合などに踏み切らないと共倒れになりかねないとボクは睨んでいます。

 

 さらにもう1つ、日本全体の訴訟件数は減少傾向にあるとされているので、形式だけの顧問も含めて、旧来の弁護士業務にぶら下がるつもりなら、国家公務員の総合職を目指したほうがいい。弁護士という法律職に求められる仕事はいろいろあるはずなのに、消費者金融の過払い金請求など目先で手早くカネになる方向しか見ていないようにボクには思えます。たとえばグローバル化によって企業の国際紛争は増加するに決まっていますから、それを訴訟という多額なコストと手間をかけずに短期に解決するADRなど、開拓すべき新分野は少なくないと思いますよ。

 

 逆にいえば、そうした新しい仕事を創出する意欲があるのなら、弁護士人気が低迷している今がチャンスなのです。人の行く、裏に道あり、花の山。これは証券業界の諺ですけど、どんな仕事でも同じですよね。

 

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2015年9月30日 (水)

何のために勉強するか

 

 若い娘さんが相次いで殺されるという奇妙な事件が起きています。ロクに事実が判明していない段階からテレビのコメンテイターや評論家が意見を開陳するというのも、それに負けずに奇妙な風習だと思いますが、おそらく沈黙を続けているとすぐにクビにされるので、あたり障りのないことを饒舌に語ることがナリワイになっているのでしょうか。

 

 さて、本題に入りますが、テーマは小学生でも年に1回は親や教員に聞くんじゃないかと思われる「何のために勉強するか」です。「何のために勉強しなきゃいけないか」でもいいかな。お父さんやお母さんは、この難しい質問にどう答えているでしょうか。

 

 少なくともボクらが幼い頃は、算数を覚えておくと釣り銭の計算に困らないとか、歴史にしても、社会の成り立ちが分かれば、今の紛争や事情が分かるし、これからの変化だって予測できるとか、いろいろと「役に立つ」ということがキーワードになっていたように思います。

 そのおかげで、高校の頃は純情可憐な大馬鹿野郎だったボクは、「なら高等数学も微分積分も小説家になりたいオレに役立ちそうもない。数学が出題されない私立文系を受験するのであれば、いよいよこんな科目を勉強する必要なんかないじゃんか」と思っていました。

 

 そんなボクより今の受験生はもっと賢いはずですが、このような発想の根本はあんまり変わっていないんじゃないかなぁ。

 

 では、勉強というのはそうした「役に立つ」、つまり「要・不要」で区別できるものでしょうか。大学で教養と呼ばれる分野では「すぐに役立つ知識はすぐに古びる」という名言が継承されています。これはこれで相当な説得力を備えていますが、やっぱり「役に立つ」「要・不要」というクビキに縛られた発想というほかありません。

 

 つまりですね、勉強が「役に立つ」というのは、いったい誰にとってか、ということなのです。このあたりでボクたちが受けてきた戦後教育が、ひょっとすると大変に重要なことを置き忘れてきたのではないか、ということを言いたくなるんですよね。

 

 たいていの親が言うように、勉強が自分「だけ」に役立つものであるなら、すごくアタマが良くて微分積分なんかちょろいぜ、という人が前述したように、高偏差値の私立文系学部を受験するなら、それこそ数学なんか捨てて英語や世界史などの受験科目に集中したほうがいいとなります。

 

 ここでの大きな間違いは、勉強が「自分の役に立つ」ためだけにあると発想していることです。細かい説明抜きで端的にいえば、勉強は共同体、すなわちコミュニティを快適に維持するためにやるのではないでしょうか。

 もちろん「自分のため」を否定するものではありません。でも「みんなのため」にも勉強することが、結果的に自分を豊かにしていくことになるわけです。

前述したように子供の頃から数学が得意なら、建築の構造計算とか飛行機とかロケットの設計者なんかになって、その能力を役立ていればいい。それによってボクたちの生活は、少なくとも昨日よりは快適になるでしょう。スマホだって、それと同じことを続けてきた結果ではありませんか。

 

 そうした「みんなのため」の最高峰がノーベル賞であり、国や地域といった小さな共同体をはるかに超えた、「人類のために役立つ」研究や発明に対するご褒美なのです。

 

 もちろん勉強は「自分のため」でもあるので、数学が得意な人が必ずしも理系に行く必要はありません。でも、少なくともロクに数学ができないボクが行くより、もっと「みんなのため」になることは確実ですよね。

 

 こういうことをきちんと教えていないから、大学生になっても「何のために学ぶか」みたいことで挫折したり悩んだりするんじゃないかなぁ。

 「何のために生きるか」だって同じことで、ちっぽけで取るに足らない自分のためにだけお前は生きているわけじゃない。親やまわりの人たちや共同体や社会にとっても、人類としても必要な存在だからこそ生かされているわけで、だから自殺なんてバカなことを考えてはいかんと、止めなければいけないのです。

 

 ガキの頃は賢かったはずの官僚や政治家が利益のために暴走し、その職責を汚すことがいつまでも絶えないのは、すべてが「自分のため」にあると思い上がっているからではないでしょうか。

 

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2015年9月 1日 (火)

倫理を失ったサムライ

 

 いやはや、ここまで来たかと呆れかえってしまいます。成年後見人として認知症高齢者などの財産管理を行う弁護士や司法書士の逮捕が相次いでいるそうです(9月1日付日本経済新聞)

 

 成年後見人制度は2000年に始まりましたが、ボクは法律系専門職の新たな仕事分野になると大いに期待していました。これは認知症などで判断力が乏しくなった人の財産管理や契約などを本人に代わって行う制度であり、高齢化社会が急速に進行してきたことから、ニーズが高まるに違いないと予想していたのです。

 

 本来的には家族や親族が面倒を見るべきであり、実際に約半数がそうでしたが、12年には親族以外の第三者が選任されるケースが約52%となりました。財産があればあるほど相続問題や軋轢が出てくるので、信頼できる第三者に依頼することが多くなってきたのではないでしょうか。

 

 法定後見人と任意後見人の2種類があり、前者は判断能力が衰えた後に申し立てに基づいて家庭裁判所が選任するものであり、後者は本人が事前に後見人を指定しておくものです。認知症になる前にそこまで準備しておく人は少ないですから、法定後見人が約8割を占めているといわれます。

 前述したように、後見人に特別な知識などは必要なく、親族をはじめとして基本的に誰でもなれます。ただし、家裁が選任する法定後見人の場合は、たとえば管理財産の中心が不動産なら、それを専門とする司法書士が選任される場合があります。弁護士や行政書士、社会福祉士なども含めて、これらを専門職後見人と呼んでおり、確かに素人がなるよりはるかに適切な財産管理ができると思いますよね。

 

 ところが、そうした専門職後見人である弁護士や司法書士などによる着服・横領が後を絶たないわけですな。冒頭の新聞報道では「最高裁のまとめによれば、14年に不正を理由に弁護士、司法書士、行政書士の『専門職』が後見人を解任されるなどしたケースは22件。被害額は計5億6000万円に上り、集計を始めた10年以降で最悪だった」としています。

 

 ある弁護士は高齢者の口座から1400万円あまりを引き出して個人的用途に使って業務上横領で起訴されています。大きな数字が印刷された貯金通帳と実印を預けられれば、ボクだって久しぶりにキャバクラで豪遊してみようかという気にならないとは限りませんが、いくら何でも実行はしないでしょう。

 にもかかわらず、難関で知られる国家試験に加えて1年間の司法修習を修了しないとなれない弁護士ですら、他人の財布に手をつっこんでカネを引っ張り出していたわけです。

 

 このため、東京家裁では昨年末あたりから、専門職後見人が一定以上の財産を預かる場合には別の弁護士などの「監督人」を付けるようになったとも報道されています。後見人の後見人かよと呆れるばかりの途方もない茶番であり、どこが専門職だよと思いませんか。

 

 弁護士、司法書士、行政書士などは「士」が共通していることから「サムライ」資格とも呼ばれています。高度な専門知識だけでなく、厳しい倫理感も有しているはずなのに、このテイタラクですからね。

 難関の国家試験に合格するアタマの良さと、倫理や道徳観はまるきり相関しないことは昔から明らかでしたが、成年後見制度でもそれがはからずも証明されたことになります。

 

 だったらさぁ、司法試験も予め合格者数を決めておくなんてケチなことはしないで、何点以上なら全員合格という制度にしましょうよ。

 そもそも倫理や道徳、そして創造性を試験で判定することなんて無理ですよね。「あなたは人のカネを着服しますか」という質問に素直に「場合によっては」と答える人が司法試験に合格できるとは思えません。であるなら、実際の業務を通して、不祥事をビシバシ摘発して資格を剥奪するしか方法はないじゃないですか。

 

 ボクは大学入試も同じことだろうと考えています。いろいろ改革案が出ているみたいですけど、このユニバーサル時代にそれほど入念な選抜が必要なのかなぁ。そんなことより、入学後に成績不良ならどんどん遠慮なく留年または退学させるほうが効果的かつ現実的ではありませんか。

 逆に中学校までの義務教育は、ある程度の学力に達するまでは卒業させない。大変に失礼な比喩なので予めお詫びしておきますが、どんな製品でも必ず検品してから後工程に送るというのが常識ですよね。それが相当にラフでアバウトなベルトコンベア方式になっているからこそ、分数の計算ができない大学生がいるのではないでしょうか。

 

 やっていることを根本からサカサマにするだけで、この社会は相当にリノベーションされるのではないかという仮説をボクは持っているんですけどね。

 

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2015年5月22日 (金)

何がしたいんだっ!

 

 先日のブログでは法科大学院の志願者が減ったのでチャンスじゃないかと書きましたが、こうなってくると話が違います。

 

 昨日の新聞報道によれば、司法試験の合格者を「1500人以上」とする政府案を法曹養成制度改革顧問会議が了承したそうです。「以上」とあるように、合格者数の下限を決めたわけですが、1990年代の初め頃から司法試験を追いかけてきたボクにはまったく初耳というほかない奇妙な設定です。

 

 もともと司法試験の合格者数は長く500人程度で推移してきました。それを90年に法務省、最高裁判所、日本弁護士連合会の法曹三者が増員すると決定。93年には700人台となり、96年には受験回数が3年未満の人を優先する「合格枠制」を導入。やがて98年には合格者が800人を超え、99年からは1000人も突破。そして2002年に、政府は司法制度改革を背景として「司法試験合格者を2010年頃までに年間3000人程度に増員する」と閣議決定しています。

 

 その後はご存じのように新人弁護士が増え過ぎて就職難が問題となり、2013年にはこの閣議決定が事実上の撤回となり、今度は1500人「以上」に制限されることになったわけです。2007年から合格者は2000人台で推移してきたので、およそ20年以上をかけて着々と増員してきたものを、再び歴史の歯車を逆回しするかのように減らそうってことですよね。

 

 そりゃまあ、裁判官と検察官は犯罪や裁判沙汰が少なくなれば人員も余るというのは理屈です。少子高齢化で人口も減ってきましたからね。しかしながら、司法研修を経てそうした国家公務員になるのは1割ちょいですぜ。合格者数が少なかった頃は約2割とされていたので、国家公務員として受け入れる定数はほとんど変わらないわけです。

 

 でもね、残りの8割以上を占める弁護士は果たしてそうかなぁ。確かに従来型の仕事は極端に増加することは期待できないでしょうが、訴訟だけでなく予防的な法務案件は探せばいくらだってあるはずで、グローバル化が進展すれば帰化や外国人登録や移民問題や国際結婚などに関する新しいトラブルも増えてくるはずです。企業の海外進出にしても、英語の得意な弁護士とか、他国の法律に詳しい弁護士のニーズが高まってくるじゃないですか。

 それをしないのは、面倒で手間がかかる割に美味しい仕事ではないからです。要するに、せっかく難関試験に合格したのに、手を汚すようなアタマを目一杯使うような仕事なんてしたくない。濡れ手で泡のボッタクリが一番よろしい、と考えているからではありませんか。このような傾向は、あくまでもボクの個人的体験ですが、むしろ合格者が少なかった時代に弁護士になった人に目立つように感じます。

 

 たとえば不動産の敷金返還の問題はようやく最高裁で判例が出ましたが、それより10年以上も前にボクは弁護士に相談しており、「このくらいの金額なら我慢しといたほうがいいんじゃない?」という信じられないアドバイスを受けたくらいです。事務所の敷金ですから「このくらい」とはボクにはとても思えない大金だったんですけどね。

 

 こんなことなかれのアドバイスでも30分単位でカネを取れるのは、市場競争の緩い特権的な職業だったからで、だからこそボクは合格者の増員に一貫して賛成してきたのです。仮に弁護士が過剰になったとしても、質の低下どころではなく、前述したようなダメ弁護士が淘汰されることによって、消費者利益につながるということが分からないのかなぁ。

 

 別に無理して独立しなくても、企業内で活躍することだって可能です。「国際的交渉や知的財産問題など企業弁護士が活躍する場面はたくさんあるが、それに気づいていない企業が多い」と久保利英明先生は本日の日本経済新聞で語っています。だったら、みんなで企業に気づかせましょうよ。

 

 それより何より、いきなり合格者を削減することが果たして許されるのでしょうか。このブログで以前から何度も何度も…(中略)…何度も訴えてきましたが、国家が資格試験の合格者数を予め制限していいのでしょうか。たとえば得点が8割以上なら全員合格とするなら理解できますが、最初から合格者は1500人って決めることに何の法律的問題もないのでしょうか。

 ボクの知る限りでは、アメリカの弁護士試験に合格定員なんて聞いたことがありません。公認会計士だって同様です。自由の国アメリカでそんな規制をしたら、間違いなく暴動が起きるでしょうね。入学定員を作らざるを得ない大学の入試じゃないんですから。国家試験を通して法律職に最低限必要な識見やスキルがあると認められるなら、何人でも合格させるべきです。

 

 それだけで終わりなら前述したように「質の低下」だの何だのと指摘されるでしょうが、その後はオープンな市場競争で淘汰していくというのが自由民主主義社会の基本ですよね。それをしたら既得権者の利益も損ねるので、やる気なんてサラサラないから蛇口のほうを締めましょう、という論理であることがなぜ分からないのでしょうか。

 

 法律職を永続的な美味しい利権として維持したいから、気まぐれのように合格者数を増やしたり減らしたりするっていうなら、みごとに論理は一貫しています。であるならね、かつて掲げた輝かしい司法改革の旗を「どーもすいませんでしたっ!」とドブにでも捨てちまうのが筋というものではありませんか。

 

 もう一度だけ、ボクの論理の根幹にある憲法第22条の1項をここに紹介します。

 

 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

 

 予め司法試験の合格者数を決めておくというのは、この「職業選択の自由」に反しないのでしょうか。あ、だから「1500人以上」という下限設定なのかな。まったく役人どもの小狡さには参りますが、ボクの指摘に影響を与えるほどではないでしょう。合格者を減少することで弁護士の数が抑制されれば、結果的に「公共の福祉に反する」ことになるからです。

 どうだベラボーめ、鉄壁の論理じゃんかよ。どこからでもかかってこい、というのは冗談ですから勘弁ね。けれども、それくらいボクは憤慨と義憤を感じているのです。

 

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2015年5月12日 (火)

チャンスだぜっ!

 

 今春の法科大学院入学者が合計で2201人となり、過去最低だったそうです。全体の定員に占める割合=充足率も69%と低迷していますが、昨年の60%(こちらも過去最低)から改善されたと報告されています。そりゃそうですよ、募集停止した法科大学院が相次いでいるのですから。

 

 読売新聞では「54校のうち93%にあたる50校」が定員割れしたと報道しているので、法科大学院離れが来るところまで来てしまった感があります。

 でもねぇ、ボクはホント天の邪鬼でありまして、これこそ「千載一遇のチャンスじゃないか」と思ってしまうんですよね。普通の人なら「やっぱ法科大学院はアカンなぁ」とか「弁護士のステイタスも地に墜ちた」なんて考えるでしょうが、ボクは逆に敷居がどんどん下がってきたぜ、ウヒヒヒと感じてしまうのです。

 

 もちろん司法試験合格率の高い法科大学院は例外で、中央、東京、慶應義塾、京都、早稲田大学という上位5校に入学者は集中。全体の44%を占めるほどになっています。だからといって、そこに入学すれば絶対的に司法試験をクリアできるってことでもないでしょう。

 

 予備試験に受かるほどの学力はなく、上記のトップ5大学院の入学審査にパスする自信もないけど、弁護士になりたいという人にはこれほどのチャンスはないじゃないですか。定員充足率が低いからといって誰でも入学が許可されるわけではありませんが、競争相手が激減していることだけは紛れもない事実です。

 

 だってね、法科大学院が発足した2004年度の志願者数は7万2800人で入学者は5767人。何と13倍だったんですよ。東京在住なのに、競争率が低いのではないかと沖縄の法科大学院まで併願した人もいましたからね。その後も6~7倍が続いたので、それに比べりゃ今の1.87倍なんて、法科大学院を選ばなければ楽勝といっていい状況ではありませんか。

 

 ボクが若かったら、すぐに願書を取り寄せて準備するでしょうね。何しろ3年間だけ必死に勉強して(法学未修者コース)司法試験に合格したら、弁護士になれるわけです。それだって昔は合格率が3%前後でしたから、現行の22.6%(2014年度、受験者に対する実質)なんて天国みたいなものじゃないですか。これは少なからず大げさな表現にしても、こんなチャンスは日本の司法試験史上かつてなかったと断言します。

 

 けれども、みんなはそう考えないんですよね。多くの人が法科大学院を敬遠している=おそらくハイリスク、だったらやめたほうが無難だよね、となるのです。もしもアタマがメチャ良くて東大なんかもへっちゃらという人なら、みんなが行く方向に行ったほうがいいでしょう。しかし、そこそこの学力にもかかわらず、沢山の人たちが行く方向に行ってしまったら、ローリスクにしても、トップクラスになるのは絶望的ではありませんか。

 

 たとえば大企業には超有名大学出身者がぞろぞろいます。無名大学出身だけど頑張って奇跡的に入社できたとして、肩身の狭い思いをしませんか。経済変動期にはチャンスが平等に訪れるので、うまくすれば実力発揮ですごいところまで昇進できるかもしれません。でも、たとえばメガバンクでそうした腕を振るう機会が果たしてどれだけあるのでしょうか。ボクは銀行勤務の経験なんてないので分かりませんけど、やっぱ学歴が生涯にわたってつきまとうような気がするのです。

 

 だったら、出身大学がそれほど問われない弁護士業界で実力を発揮してやろう、それには今こそチャンスじゃないかと思いませんか。本日は締切なので、このあたりでやめますが、ボクのオヤジが好きだった言葉を最後に紹介しておきます。

 

 鶏口となるも牛後となるなかれ。

 

 間違っても「レミングの大行進」の群れに入ってはいけませんよ。

 

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2014年10月10日 (金)

人文社会学

 

 またまた3人の日本人がノーベル賞を受賞しました。この「賞を受賞」というフレーズは「賞」の字が重複しているので、いつも何とかならんかいと感じてきました。そこでボクは「賞を授与された」と変えてみたこともあるのですが、あまり馴染めない表現ですよね。

 

 このノーベル賞は、周知のようにダイナマイトの発明で莫大な富を築いたアルフレッド・ノーベルが、その金利を「人類のために最大たる貢献をした人々に配分されるものとする」と遺言したことで始まりました。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和、そして経済学という6部門で構成されていますが(以上、ウィキペディア)、日本は経済学を除くすべての分野で受賞者を出しています。

 

 数では圧倒的に自然科学・物理系が多いのですが、人文社会学系でも、平和賞は政治的で胡散臭いと批判する人も絶えないのですが、とにかく1974年に「非核三原則」で佐藤栄作が受賞しています。安倍政権にこのことをしっかりと思い出して欲しいくらいですが、文学賞でも1968年に川端康成、1994年に大江健三郎。現在でも、村上春樹が毎年のように候補に挙げられています。

 

 ところが、経済学賞を授与された日本人がこれまでいないのはなぜでしょうか。候補すらあんまり聞いたことがありません。頑張っている研究者はもちろんいるはずですが、受賞者は圧倒的にアメリカの学者が多いのです。

 

 ここのところが、日本の学問世界の大きな課題であると昨日も某氏に指摘されました。経済学だけでなく社会学も経営学も世界的な競争力を持ち得ていないというのです。かくて、いつもアメリカから経済理論や経営理論が導入されて、それを後追いしてきました。この分野は明らかに日本の輸入超過になっているわけです。

 

 自然科学の研究は、理論物理が代表的ですが、日本が戦争に負けて貧乏な時代でも頑張ってきました。けれども、それと同じように高額な実験器具なんて必要のない経済・社会学系でどうして世界をリードするような研究が乏しかったのでしょうか。このあたりに、日本の研究組織や大学を改革していくための重大なヒントが隠されているとボクは考えていますが、話がちょっとデカ過ぎますよね。

 

 いずれにしても、日本は過去に類例のない超高齢社会に突入しており、医療や介護や年金などの社会保障が限界にきています。今のような資本主義で果たして既存の制度が維持しきれるのか、はたまた移民政策で人口ピラミッドを建て直すのが本当に妥当なのか、といった問題を少しでも解決するような経済理論や社会理論はこれから世界が必要とするものになっていくでしょう。

 そういう意味では、日本は最先端の社会構造ともいえるわけですから、新しい分析手法や理論を世界に先駆けて創造していくチャンスなのではないかと愚考しちゃったりするわけです。

 

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2014年6月30日 (月)

科学的手法

 

 残念なことに、と注釈を付けるべきかも知れませんが、STAP細胞の論文が週内にも撤回されるようです(本日の日本経済新聞朝刊)。5か月ほど前には「世紀の大発見」としてテレビで大々的に報道されたにもかかわらず、あっという間に栄光の座から奈落の底に落ちた感じですよね。

 

 ある発生学の研究者に聞いてみると、分かる人は最初から「明らかにおかしい」と分かっていたようです。ボクのような文系のド素人でも研究ノートがいかにも少ないと思うほか、あんな稚拙な記録で「世紀の大発見」が可能なのかと驚きました。参考までにということで、この研究者から学生の実験ノートを見せていただきましたが、当然のことながら美しく整理されており、子供の落書きのような感想的な記述は一切ありません。

 

 であるなら、なぜ約5か月にもわたって小説『藪の中』のようなことが演じられたのでしょうか。

 

 大きな背景としては、再生医療への期待があると思います。たとえば脊椎損傷などで車椅子の生活になった人は、一刻も早く臨床への応用を望んでいるはずです。それが「IPSより簡単にできます」なんて説明されたら、誰だって期待するではありませんか。

 

 加えて、マスコミ的にはやはり若い女性研究者というインパクトが大きかったですよね。それに、まさか日本人がそんな虚偽的なことをするはずがないという思い込みもあるでしょう。2012年にはIPS細胞を使った心筋手術に成功したとウソをついた日本人がいたんですけどね。

 この時は1人の風采の上がらないオッサンで、学歴もいささか怪しかったので短時間で決着がつきました。ところが今度は高学歴のエリートばかりで、しかも舞台は日本の最高峰といわれる理化学研究所ですから、「おかしい」と表明できる人は限られています。

 

 こうした権威主義も大きな問題ではありますが、それでもインターネットなどで様々な疑義が表明され、結果的にSTAP細胞がないと証明されたわけではないにしても、今回の実験で作られたことは否定されたようです。いささか遅かったことは事実でも、おかげでボク自身は逆に科学的な手法への信頼を強めることになったのです。

 

 たとえば「再現性」です。同じ材料を使って、同じ条件、同じ手順であるなら、誰がやっても同じようにできなければ新発見を証明できないとかね。そのほかにも、実験の事前・事後などでいろいろと世界共通のProcedureがあるはずです。それは科学が失敗を繰り返してきた経験則に基づいており、早い話が「二度と間違えないぞ」とか「二度と騙されないぞ」と誓った人たちの累々たる工夫の蓄積ではないでしょうか。

 

 では、人文科学で同じような原則やProcedureがあるでしょうか。大昔にある大学でUFOをテーマにした卒論を見たことがあります。僅かに列記された参考資料が超常現象専門の出版社の書籍ばかりで、あまりのレベルの低さに泣きたくなりましたが、今でも宇宙人と交信できると言い張る人もいますからね。それを人文科学はきちんと否定できるかというと、できないじゃないですか。せいぜい認知的心理的な問題とか、脳内の現象で説明しようとするだけで、「あんたはウソをついている」と誰も論破し切ることはできないのです。「鰯の頭も信心から」で「信じる者は救われる」わけです。

 

 だからこそ、どう見ても膝の屈伸で飛び上がっているとしか見えない写真を「空中浮揚」と信じて、理系の優秀な人たちが吸い寄せられたカルト宗教もあったわけです。これを「人間だもの」で片付けてしまうと、またぞろ同じことが起きる可能性を残してしまいます。それがファシズムやナチズムに発展していくことも十分に考えられるでしょう。

 かといって、現段階ではそれを完全に否定するような理由も根拠も実は持っていません。自然科学はきちんと今回の虚偽を証明することができました。けれども、人文科学は同じような手順や原則を持ち得ているでしょうか。

 

 さもなければ、人文に「科学」という言葉をくっつけるのは時期尚早ではないかとすら思うのです。PDCAサイクルですら、文系ではまだ始まったばかりですからね。そろそろ文学を感想や印象論ではなく、本気で「科学」していく手順などを確立しておかないと、時代は簡単に逆戻りするのではないでしょうか。

 

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2014年5月26日 (月)

予備試験を制限?

 

 そろそろやるんじゃないのと思っていたら、案の定じゃないですか。5月24日付けの日本経済新聞朝刊によれば、司法試験の予備試験に年齢制限などの制約を設ける案が提示されたとあります。

 

 発信元は「司法試験のあり方などを議論している政府の有識者会議」ということで、本来は「例外措置」のはずの予備試験に受験者が集中していることから、「経済的に困っている人と社会人に限定」「年齢制限」「法科大学院生の受験を禁止」という3案が示されたそうです。

 

 誰だって「そんなの冗談かよ」って思いますよね。そもそも「例外措置」だったはずの予備試験の人気が、なぜ高まっているのかというところから議論しなきゃいけないはずです。高い授業料を払って2年ないし3年間通学しなきゃいけない法科大学院がどうなっているのか知らないのかなぁ。新人弁護士の就職難も続いているわけですから、そうしたリスクを回避できる予備試験の人気が高まるのは当然です。

 

 つまりは、法科大学院をコアとした司法試験制度が破綻しかかっているという現状をどうするかが大きな問題であって、予備試験を制限なんて小手先かつ迷惑もいいところではありませんか。

 

 アタマのいい人たちが集まっているはずの「政府の有識者会議」がまさか本気でこんなことをするはずはありませんから、きっと様子見のアドバルーンだろうとボクは信じていますが、もしも本気であるなら、マジでみんなバカじゃなかろうかと心底から危惧いたします(つい失礼な表現になってしまいました。深謝します)。

 
 だいたいですね、役人があーだこーだと細かく制限するような社会って、半世紀くらい遅れていませんか。誰でしたっけ「民間活力」なんてほざいたのは。腹が立って仕方がないので、このへんでやめます。忙しいしね。

 でも、国民をあんまり嘗めんじゃねぇよと付け加えておきます。

 

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2014年4月25日 (金)

文系はどうよ

 

 まだ先行きは分かりませんが、そろそろSTAP細胞の報道も沈静化してきたようです。そもそもSTAP細胞というテーマ自体が難解なせいか、週刊誌もネットも個人や組織の問題ばかりを取りあげてきました。それでも論文の内容が事実であるなら世界的な発見ですから、それだけの話題になっても仕方がないともいえます。最初の発表の時には「若返りの可能性もありますっ」なんてはしゃいでいたではありませんか。

 

 でね、ボクがずっと考えてきたのは、こうした理系の研究に対して文系の研究はどうなのかってことなのです。

 

 理系の大学院進学率は、かつて文部科学省が音頭取りをしたこともあって相当に高くなっています。最新の「平成25年度学校基本調査」によれば、大学卒業後の進学率は理学44.1%、工学37.2%、農学でも25.4%。理工系の国立大学となると「卒業者の半分くらいは大学院進学」と聞いたこともあります。修士課程修了後の進学率はさすがに低くなりますが、それでも最も高い理学で18.7%にもなります。

 その結果として博士号取得者はどんどん増加してきた一方で、少子化もあって大学や研究機関などの就職先は増えていないので、相対的に処遇が難しくなってきます。このことを随分前から「ポスドク(ポストドクター)問題」と称しており、ごく簡単にいえば過密気味で競争が厳しいとなるわけですね。

 

 しかも、理系の研究は言語や社会環境の違いなんてほとんど問題にならないので、世界中がライバルとなります。おまけに理系の研究は人類に貢献すると同時に巨額の利益を生むことが少なくありません。かくて誰よりも早く新しい発見をしたい、そうしなきゃ生き残れないというプレッシャーは相当なものではないでしょうか。そうした背景があればこそ、捏造や虚偽も十分にあり得るんじゃないかと解説する報道もあります。

 

 では、そうした厳しい競争環境にある理系に対して、文系の研究者はどうなのでしょうか。進学率だけ見れば、大卒直後は人文で7.5%、社会系で4.8%と相当に少ない。もともと文系の大学院に進学するなんて「変人」と見られていました。1990年代の半ば頃から社会人の進学者が増加したことから、研究者や教員の養成に加えて「高度専門職業人の養成」も目的となり、2003年度には法律や経営系などの専門職大学院も創設されましたが、某大学院の先生が「景気が悪くなると進学者が増えるが、もっと悪くなると全然来なくなる」と語ったように、最近まで低迷が続いていました。

 

 もっとも大学の学部生の約半数は人文・社会系なので、卒業直後の大学院進学率が低いといっても人数的にはそれほど極端に少ないわけではありません。教員養成も必要ですからね。昨年の卒業者でざっと計算してみると、理学・工学系で修士課程に進学したのは約4万人で、人文・社会では16000人程度となりました。

 

 まぁね、こんな数字は実はどうでもいいことであって、要するに問題は研究の内容ですよ。世界をライバルとしてしのぎを削りまくっている理系に対して、文系はどうなのかってことです。

 

 もちろん言語や社会、環境といった地域的な影響を強く受ける研究も少なくないはずですが、たとえば経済学なら資本主義である限りは理論や公式なんか世界共通ですよね。そうした文系における国際的な研究分野は、世界に比べてどの程度のレベルにあるのでしょうか。産業などに影響力の大きい理系に比べて、報道側の取材が乏しいということも背景にあると考えられるので、これを機会に週刊誌などで特集を組むべきではないかとも思うんですけどね。

 

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2014年4月10日 (木)

逆戻り

 

 本日の日本経済新聞によれば、自民党司法制度調査会は年間2000人程度で推移してきた司法試験の合格者を2016年までに1500人程度にする緊急提言をまとめたそうです。その目的は例によって「合格者を減らし、法曹の質の向上を図るのが狙い」としています。

 

 合格者が多いと質が低下して、少なければ質が高まるなんていう単純な発想でよく政治家が務まるものだと感心しますが、この国はどこまで逆戻りすりゃ気が済むのだろうと呆れてしまいます。

 

 他業界の話で恐縮ですが、スイスの時計ブランドはボクが知る限りで150以上にも及びます。個人の趣味でやっているようなハンドメイドも含めれば500にも達するという意見だってあります。そうした無名の発展途上ブランドが集まった展示会もジュネーブで年に1回開催されていますが、数が多いからといって粗悪な時計が多くなるはずがありません。むしろ実に様々なアイデアが直径4センチ程度の腕時計で活発に展開されており、人間の知恵というのは凄いなぁといつも感心させられます。それというのも、数多くのブランドがお互いに市場で切磋琢磨しているからであって、たとえばスイス政府が時計ブランドを厳しい許認可制で一定数に管理していたら、ここまで発展しただろうかと思うのです。

 

 それに対して、日本というのはホントに中央集権で、何でもかんでもお上が管理してきました。今でも補助金などによってすべてがコントロールされており、おかげで霞ヶ関のほうを向いて仕事をしている人が少なくありません。だから発想やすることがどこも似たような金太郎飴になってくるのです。敗戦直後の貧乏な混乱期なら資本の集中によって自動車やコンピュータなどの新興産業を発展させることも可能だったでしょうが、ここまで経済が発展すれば、もはや官僚や政治家がそんな神様的な立場になれるはずがありません。市場はもっと多様でダイナミックに変化し続けているのです。

 

 司法試験もお上が管理しており、何点を取ったら合格できるというのではなく、予め合格者数が決められています。このため本当は合格する実力がありながらも、ちょっとした差で足踏みを続けて10年近くを費やして合格した人も珍しくありませんでした。1990年までは合格者が何と500人程度でしたからね。法務省、日弁連、最高裁の法曹三者が合意してから次第に合格者が増えて、2001年には約2倍の990人に達しました。それが司法制度改革によって法科大学院経由で受験資格が付与されるようなり、合格者も「2010年には3000人程度に増員」と閣議決定されたわけです。

 

 ところが今度は新人弁護士の就職難が問題になってきたことから、この約束は法律業界にもかかわらず簡単に反故にされて、さらには減らそうとしているのです。新規の学生募集を停止する法科大学院も増加しており、制度はいささか変わっても、お上が蛇口を管理することで法曹界の特権を堅持しようとする姿勢は何にも変わっていないわけです。

 

 特権というのは衆知のように競争を嫌います。食べられるパイの大きさが決まっているなら、それを奪い合うより共存することが理にかなっていると思いますが、資本主義における市場というのはそんなに限定的なものではないですよね。むしろ近年のグローバル化を前提にすれば、工夫次第でパイが大きくなるだけでなく、別のパイだって追加することは可能じゃないですか。

 

 けれども、そのためには創意工夫が必要となります。そのエネルギーとなるのが市場での切磋琢磨であり競争のはずなのに、弁護士の数を減らすことで特権が温存されれば、新しい分野の開拓や進出する必要性や気力も乏しくなるではありませんか。

 

 もとの日弁連会長はサラ金問題のエキスパートでした。殿様的な弁護士が面倒がって手を出してこなかった分野で有名になった大先生のはずなのに、この人が「3000人増員の見直し」をいち早く提言しました。その理由を直接に訊きたいと考えているうちに退任されてしまいましたが、日本というのは不思議な国だなぁとつくづく思います。

 

 医師も弁護士も検察官も裁判官も、数の多寡なんて実は問題ではありません。試験には合格したけどダメな人たちを市場競争でビシバシ淘汰して、かつ敗者復活も可能となる流動的な参入制度が整備されていないことに問題があると感じるのはボクだけなのでしょうか。アメリカから学ぶべきだったのはそこのところだったのになぁと思うんですけどね。

 

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