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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

文化・芸術

2017年12月19日 (火)

ほんたうにおれが見えるのか

 

 宮沢賢治の詩が大好きになって、集中的に読んだことがあります。中でも宇宙や森羅万象を形容した煌びやかな言葉の群れが織りなす華麗な世界は、後のどんな詩人も追いついていないと思います。何しろ詩人のほとんどは文系なので、灰色鋼やエーテルだのカーバイドと言われても、何のことやら分かりませんからね。宮沢賢治はそうした科学や化学用語を敢えてちりばめることで、漆黒の夜空にオーロラのような虹色の輝きを与えようとしていたと、ボクは理解しています。

 

 彼の履歴を読むと、農学校の教員を経て、花巻で羅須地人協会を設立。地域の人たちに「農民芸術」を教えたり、無料で肥料の相談に応じたりしていたようです。朴訥な笑顔を見せた写真も残されているので、仏教の信者でもあったことから、郷土を愛する利他的で慈悲深く優しい人柄のように感じられます。

 

 そんな宮沢賢治のイメージに、冷水を浴びせかけるような詩があります。

 

おれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

 

 有名な『春と修羅』の中の一節です。詩集には制作日として「22..8」と注記されていたらしいので、宮沢賢治が25歳の頃の作品と考えられます。ボクはこの一節を読み、あまりにも意外だったので衝撃を受けると同時に、その心境が痛いほど分かるような気がしたのです。農夫を突き放したような厳しい表現は、愛情の裏返しに違いありません。理想主義者にありがちな他者への無際限な信頼が裏切られた時に、失望や絶望感が嫌悪に転じるのは決して珍しいことではないからです。

 

 こうした錯綜した感情が怒りや憎悪に発展して膨張を続けると、悪名高いカンボジアのポル・ポトのように、大虐殺に発展することもあります。ポル・ポトが嫌悪したのは農民でなく知識階級でしたが、その気持ちも分からなくはないんですよね。そりゃもう人殺しなんて、どんな理由があってもいけないことですが、インテリぶった理屈や言い訳ばっかりの饒舌な言論に閉口することってありませんか。そんな時に、もしも傍らに機関銃があれば、無言で引き金をひいちゃおうかなと、あくまでも頭の中で想像したりしますよね。

 

 それと同じで、宮沢賢治も間違いなく理想主義者であったと思うのです。そうした人に土着の農民は必ずしも好意的ではなかったはずです。「変わり者」呼ばわりする人もいるだろうし、せっかく農業を教えても、それに感謝するどころか、自分が発案したかのようにノウハウや知識を盗む人もいたに違いありません。農業というのは、人間や社会ではなく、自然という不可抗力の巨大な存在が相手なので、生き延びていくためには利己主義や狡猾さも必要なんですけどね。

 

 それが分かっていても、若い頃の宮沢賢治は、自分の中からわき起こる憎悪や嫌悪に近い感情を扱いかねていたのではないか。はい、そうです。ボクもたまにそんな気持ちになるので、それを投影して解釈しております。

 理想主義者にとって、こうしたアンビバレンツは不可避であり、芥川龍之介は『或阿呆の一生』の中で以下のように書いています。

 

誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

 

 いずれにしても、再び引用しますが、

 

おれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

 

 と心の中で呟きながら、繁華街を1人で彷徨することがたまにあります。これって「修羅」の心象なのかな。

 

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2017年12月11日 (月)

『ベルリン、わが愛』

 

 先週の宝塚歌劇に関するブログでは、ネタバレの怖れもあるのでストーリーについてはほとんど触れませんでした。他の作品を見ていないので比較しようがないというのも理由です。

 

 そんなわけで、あくまでも『ベルリン、わが愛」だけの感想を言わせていただければ、第2次世界大戦前夜に実在した人物や物事が扱われているので、ボクにとって大変に興味深い内容になっていました。何しろフリッツ・ラングが監督した伝説のサイレント映画『メトロポリス』で経営が大きく傾いたウーファーUFAという映画会社が舞台ですからね。

 

 この『メトロポリス』は1926年に製作、27年に公開された空前絶後の大傑作でありまして、「SF映画の原点にして頂点」と高く評価されています。第2次世界大戦の混乱でオリジナルフィルムが散逸。完全版を見るのは不可能といわれていたようですが、ボクは84年にジョルジオ・モルダーがプロデュースした「再編集版」を見たことがあります。とてもモノクロのサイレントとは思えないほど完成度が高く、階級対立がもたらすディストピア的な未来観も、この作品が先駆けとなりました。『メトロポリス』といえば、アンドロイドのマリアが象徴的なビジュアルですが、このメタリックな姿にインスパイアされて映画『スターウォーズ』のC−3POが生まれたといわれています。

 

 ボクが見た「再編集版」ですら上演時間は約90分。2002年には新たに発見されたフィルムを加えて123分に。2008年にもやはり新発見のフィルムを加えて150分に延長されているので、サイレントなのに長さだけで2時間半という途方もない超大作だったわけです。詳細はウィキペディアに譲りますが、製作費用の総額は500万マルクから1300万マルクという説もあるほどです。ドイツは第1次世界大戦敗北後に巨額の賠償金を課せられたおかげで猛烈なハイパーインフレを経験しており、ちょっと調べただけでは日本円で換算できなかったのですが、エキストラの男性が2万5000人、女性も1万2000人という数字だけでも驚きを禁じ得ません。

 

 にもかかわらず、当時は評価が低く、途中から席を立つ人が後を絶たなかったというシーンから、宝塚の『ベルリン、わが愛』は始まります。この頃は映画の黎明期なのに『メトロポリス』はマニア好みのサイエンス・フィクション。しかも決して楽しく明るい作品ではないので当然といえば当然ですが、あまりの不人気で興行的には大失敗。会社は倒産寸前の経営危機に陥ります。これも史実ですが、舞台のドラマではそれまで助監督に過ぎなかった若手のテオを監督に起用して、次世代のトーキーによるミュージカル映画で人気回復を図ろうとするわけです。

 

 そこでテオがヒロイン役に抜擢したのが、何とレニ・リーフェンシュタールなんですよね。ベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』やナチの党大会を撮影した『意志の勝利』などの監督で知られており、このため戦後はヒトラーの協力者として批判された女性です。彼女は俳優だったかなと調べ直してみたら、最初はダンサーで後に女優となり、山岳映画の主人公として成功したこともあるようです。このあたりもちゃんと調べた上でシナリオを作っているわけですね。

 

 そんな彼らに、ナチスドイツの宣伝大臣、ヨーゼフ・ゲッベルスが陰に陽に迫ってきます。「プロパガンダの天才」といわれた人ですから、映画が庶民に与える影響力を熟知しており、ミュージカル映画を大ヒットさせたテオと、その映画でヒロインのレニよりも高い人気を得た女優のジルを利用しようとします。

 

 というわけで、筋立てもまるで絵空事ではなく、歴史的な背景をきちんと踏まえているのです。たとえばゲッベルスがジルに手を出す場面があるのですが、大戦末期にヒトラーの後を追って6人の子供と奥さんもろとも自殺した人なので、謹厳実直な家庭人だったはずと思いきや、リダ・ヴァーロバというチェコの女優と大スキャンダルを起こしています。ゲッベルスは彼女を本気で愛しており、結婚するために離婚を決意。ところがヒトラーはそれを制止して、模範的な結婚生活を続けさせたそうです。

 

 こんなことを知らなくても十分に楽しめるミュージカルですが、あれこれ調べてみるとサブストーリーがいろいろ見え隠れしてきます。ボクにとっては2度美味しい作品だったのですが、やはりネタバレは興を殺ぐので、このあたりで。。。

 

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2017年12月 8日 (金)

宝塚歌劇団

 

 宝塚歌劇団の星組公演『ベルリン、わが愛』と、タカラヅカレビュー90周年『Bouquet de TAKARAZUKA』を鑑賞してきました。

 以前から宝塚ファンと公言していながらも、チケット入手があまりにも困難なので舞台を見たことがなかったのですが、知人のはからいでようやく念願がかなったのです。

 

 その印象ですが、すべてがよく練り込まれた完成度の高いステージだと感心しました。ボクはミュージカルが好きで、国内はもとよりウェストエンドやブロードウェイでも有名なプログラムを観てきましたが、あれほど舞台の端から端を使い切る演出は稀だと思います。東京宝塚劇場は奥ゆきが浅いかわりに横幅がかなり広いと思うのですが、これを縦横無尽といっていいほど活用しており、廻り舞台やせりなどもストーリーの中で効果的でダイナミックなアクセントになっていました。

 

 出演者が多いことも宝塚の特長であり、だからこそ広い舞台を使いこなせると思うのですが、セリフのない端役の1人1人がきちんと細かな演技をしているんですよね。それをカメラで切り取れば、どんな一瞬にしても、上等な絵画のように、誰もがそれぞれ違った動作とイキイキした表情を浮かべていることが分かるはずです。

 

 しかも、皆さんの衣裳が素晴らしいんですよね。前のほうの席を取っていただいたので細部まで確認できましたが、ありがちなペラペラの布きれではなく、ブティックに並んでいる高価なドレスなどと遜色がありません。主役やヒロインはもちろん、どんな役者さんもそれを身体にぴたりと合わせていたので、本格的に縫製されているのではないでしょうか。前述したように出演者が多く、場面が変わるたびに衣裳もどんどん替わるので、それだけでも圧倒されてしまいます。こうしたファッションとしての充実感も、女性を惹きつける理由のひとつだと思います。

 

 歌や芝居も、豪華な衣裳に負けずよく訓練されており、滑舌が聞きにくいということはまったくありません。かなり厳しい練習を重ねてきたんじゃないかな。女性が男役を演じていることから、気恥ずかしく感じるフリやセリフ回しがないわけではありませんが、これも宝塚流ということなんでしょうね。

 

 場面のつなぎも大変にスムーズで腕時計に目をやるヒマがなく、ストーリーも分かりやすい。おかげで1時間半ほどの上演時間があっという間に過ぎてしまいました。本場のミュージカルに比べてダンスに立体感がないとか、ドラマを印象付ける基本テーマとしての楽曲がないなど、指摘できることがないわけではありませんが、それらをひっくるめた宝塚としての豊潤な世界観を感じることができました。さもなきゃ100年以上も支持されてこなかったはずです。

 

 この歌劇が終わった後で、30分ほどの幕間を挟んでレビューが始まったのですが、これがまた、ものすごいのであります。絢爛豪華で煌びやかというほかにボクのボキャブラリーがないのが残念ですが、ともかく超のつく大圧巻。数十人にも及ぶ女性の脚が高々と上がるラインダンスに至っては、出かけた言葉が喉の奥に引っ込んで瞠目するほどのド迫力なのです。

 

 演じるのは女性だけで、観客のおよそ95%も女性。そのせいか直接的なエロスが完全に脱色されており、女性が安心して自分の世界に没入できるということも大きな魅力ではないでしょうか。男役の胸が出ていないことが最初は気になりましたが、サラシみたいなもので抑え込んでいるようです。何もそこまでしなくていいだろうとボクは思いますが、そのあたりに宝塚的な強いこだわりがあるんじゃないかな。

 

 いずれにしても、これは世界に自慢できる日本独自の文化芸術だと思います。グローバル社会になればなるほど、こうした「ガラパゴス」の貴重な価値が際立ってきます。世界中がデューティーフリーショップみたいになったらつまらないですからね。それを20世紀初頭に小林一三翁が想定していたかどうかは分かりませんが、実にまったく大したもんだよなと素直にボクは感動いたしました。

 

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2017年8月21日 (月)

Farewell, My Lovely

 

 カッコいい英語、というジャンルがあるなら、ボクがダントツで1位に推したいのが、"Farewell, My lovely"です。

 Goodbye でなくてFarewellGirlfriendLoverでなくてMy Lovely。これほど深い意味と余韻を感じさせる英文はちょっとほかにないんじゃないかな。これだけで物語を3つや4つは書けるような気がします。

 

 知る人ぞ知るレイモンド・チャンドラー(1888〜1959年)の小説のタイトルでありまして、1956年に清水俊二氏は『さらば愛しき人よ』と和訳しています。これも実にまったく素晴らしい日本語ではありませんか。2009年に村上春樹氏が再び翻訳版を発表していますが、この時の邦題は『さよなら、愛しい人』。うーん、ちょっとばかり軽いかな。読んでないので内容は評価できませんが、「男の痩せ我慢」がコンセプトのハードボイルド小説なのですから、やはり知的な印象を与える文語的な固い語感が欲しい。そう考えると、"Farewell, My lovely"も、『さらば愛しき人よ』、も非の打ち所がまったくないので、変えようとすればするほどヘンなことになっていきます。

 

 現実の別離もそれと似ていて、ジタバタとあがけばあがくほどお互いが醜くなっていくので、サラリと潔く別れるほうが強い印象を残すんじゃないかなぁ。ちなみに、ということで以前にボクが作った言葉を紹介しておきましょう。

 「恋の始まりは誰もが賑やかになるが、その終わりはいつも静かだ」

 この心境に至るまでに、どれだけの血と汗と涙を流したことか、って冗談ですけど。

 

 さて、チャンドラーですが、ボクが感動したのは独特の文体です。初めて読んだ時には、これでも探偵小説、推理小説かよと驚愕しました。それほど圧倒的な文芸的魅力を感じたのです。その分だけストーリーは正直いって面白いとは感じませんでした。だから話の筋を追った映画化もあまり成功しているように思えないのはボクだけかなぁ。1975年に原題のままで映画化された時には、主人公の私立探偵、フィリップ・マーロウをロバート・ミッチャムが演じましたが、そりゃちょっと違うだろと。陰りや深みに欠けるんだよな。過去のある女を演じたシャーロット・ランブリングはありですけどね。

 

 大昔の映画なのでさっさと終わりにしますが、余韻のある英語として、チャンドラーの小説からもう1本だけ紹介しておきます。

 "The Long Goodbye"。 1953年に発表されたフィリップ・マーロウものの第6作です。邦題は『長いお別れ』(清水俊二)。うーむ、こちらもたっぷりと含みを感じさせる秀逸な英文&和訳というほかありません。

 

 最近はやたらに長いタイトルの小説やら映画が流行しているみたいだけど、もうちょっと言葉を大切にしようよ。

 

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2017年5月 9日 (火)

ロリータ

 

 渋谷の某百貨店の入口付近に、ロリータ・ファッションに身を包んだ2人の女の子がいました。テレビのヒマネタとして見たことがあり、原宿あたりでも遠くから視界に入れたことはありますが、こんなに近距離で実物を目の当たりにしたのは初めてです。

 

 ホワイトをベースにしてピンクのパステルカラーを組み合わせた、やたらにヒラヒラのフリルが多い昔の人形みたいな、というか少女漫画から抜け出てきたような服装ですから、実に目立つんですよね。こんな格好で電車に乗ったり、街を闊歩するという彼女たちの勇気には、冗談でなく本気で感心させられました。断じて男女差別ではなく、そこいらの若い男よりはるかに度胸があるじゃないですか。

 

 「ロリータ」といえば、1955年に発刊されたウラジミール・ナボコフの小説が語源です。少女性愛者を描いた長編だったことから、ロリコン=ロリータ・コンプレックスという言葉が生まれました。ただし、同じロリータという名称でも、前述のファッションはそうした変態的な性愛とは何の関係もありません。それどころか、1990年代の日本で流行が始まったとされています。つまり、正真正銘のニッポン・オリジナルであり、海外にも熱狂的なファンがいるそうですから、もはや一過性のトレンドなんぞではなく、確固たるジャンルに成長したと考えるべきでしょう。

 

 さらに、ゴスロリ=ゴシック・ロリータと呼ばれる異形とも思えるダークなジャンルも派生しているので、前述の若者に続いて、オッサンたちも彼女たちの奔放なクリエイティビティを見習ったほうがいいんじゃないかな。

 

 戦後の日本は欧米に追いつけ追い越せを合言葉に、何事も物真似で発展してきたとされています。特に経営手法なんか現代でもアメリカの後追いばっかりですけど、ファッションだけは違うみたいですね。

 日本経済新聞の人気連載『私の履歴書』に高田賢三が寄稿していましたが、彼は世界のファッションをリードしてきたパリで活躍。後にLVMHが買収するほどのブランドを育てました。絵画にしても戦前から藤田嗣治などが活躍しており、そうした伝説も踏まえれば、アニメなどを含めたサブカルチャーを今さら「クール・ジャパン」なんて、あまりにも認識が遅すぎではないでしょうか。

 

 日本のサブカルチャーはもともと異質なものに強い好奇心を持ち、それを自分たちの文化風土に融合させるという遺伝的なセンスが創造してきたものだと思います。もちろん横並びに異常にこだわる保守的な人もいますが、アートや芸能界では過激な越境者はちっとも珍しい存在ではなかったはずです。ところが日本国内では、評価が確立した伝統文化のほうを重視する傾向が極めて強いんですよね。むしろ海外の先進国、特にフランスやアメリカのほうが率先して日本のサブカルチャーの価値を認めてきたといえるでしょう。

 

 そのくせ、古くなった建物はどんどん壊して、とにかく新しくリメイクしまくるんだよな。外国人が日本を褒める時には「伝統と革新の融合」が常套句ですけど、むしろ伝統の破壊とむやみな再開発ではないかとボクは疑っています。

 実際に東京ほど変貌の激しい都市は先進国では希有ですよね。それをエネルギッシュだと褒め称える向きも確かにありますが、日本の総人口はとっくに減少に転じており、これから増加する見込みもまったくないので、そんなことがいつまで続けられるやら、なんですよね。

 

 であるなら、もっと「ヘンなもの」や「異形」「異端」を大切にして、価値を見出していくべきではないでしょうか。そのほうがコスト的にも安上がりで利益率も高い。グローバリゼーションを前提にしても、いつまでも富士山や浅草、着物や寿司では早晩飽きられてしまうでしょう。
 そうしたサブカルチャーのひとつがロリータ・ファッションなわけです。生き残ったサブはいずれメインになるのですから、異形や異端のポップカルチャーをどんどん刺激し、面白いものを見つけて世界中に売り出していくプロデューサーの育成が急務という結論になるんですけどね。

 

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2017年4月 3日 (月)

非「合目的」的

 

 我ながらワケが分からないタイトルかなと自戒しますが、そんなあり方もありじゃないかということで、敢えて生煮え状態で提示することにしました。

 

 たとえばプロダクトデザインですけど、19世紀末までは自然界を真似て造形した「アール・ヌーボー」というデザインが主流となっていました。花や葉っぱや枝なんかの複雑な形状を鉄の門やら椅子やアクセサリーなんかに写し取るようにデザインしたわけですね。それはそれで大変に美しいのですが、複雑な分だけ手間と熟練した技術が必要になってきます。

 

 ところが、19世紀を経て20世紀に移り変わると、何事も大衆化が一気に進み始めた関係から、工業化による大量生産が求められるようになりました。職人技や面倒くさい工程が不可欠なアール・ヌーボーはそれに向いていないのはもちろん、価格だって大衆的なレベルにはコストダウンできません。

 そこで、複雑な装飾要素を大胆に省略した量産化しやすいデザインが必要になってきたわけです。ただし、それだけでは実用に向いていないので、その製品が担うべき機能を忠実に反映したデザインでなければならない。見やすいとか使いやすい形ということです。

 それが1920年代から爆発的に流行した「アール・デコ」の正体でありまして、だからこそ丸や四角や直線を組み合わせた幾何学的なラインがベースになっているわけです。細かく曲線が分岐したようなややこしい格好は金型が作りにくいので、量産に向いていませんからね。

 

 それゆえに、アール・デコは自然の直接的な模倣ではない、人間による初めてのオリジナリティの高いクリエイティブ・デザインと評価することができます。

 ただし、どこまでも奔放なデザインが許されるのはアート=芸術の領域であって、工業製品では前述した機能性が最優先されます。さもなきゃ工業化して量産する意味を失ってしまいます。このあたりをバウハウスでは「機能が美を規定する」とか何とか言ったんじゃないかな。いずれにしても機能美とか合理主義と呼ばれるデザイントレンドが、こんな感じで20世紀になってから始まったと解釈することができるでしょう。

 

 でね、そうしたトレンドが、やがてボクたちの思考や生活の中にも入り込むようになったんだよな。

 

 たとえば学校はできるだけ無駄を排除して、求められる機能を忠実に果たす人間を量産するのが優秀と判断されるようになりました。そのための大きな指針が戦前は教育勅語だったんじゃないかな。戦後になっても教育方針がコロリと逆向きになっただけで、試験で高得点を取れる賢い子供たちを量産できるのが良い学校とされることに変わりはありません。東大・京大、あるいは国立大学に何人合格したかなんてことが今でも高校の評価基準になっているじゃないですか。

 

 あれっ? ということは人間も工業製品のように機能美や合理主義で判断されるのかなぁというのが、今回のテーマなのです。いささか分かりにくいかもしれませんが、デザインは自然界の模倣から自由になった=解放されたはずなのに、その旗印となった機能主義が今度は人間まで工業製品のように扱うようになったのではないか。

 

 自然界だって実は合理的で機能的なのですが、人間までそうなることはないんじゃないかな。そもそも自由というのは、自然界ではあり得ない概念のはずです。このあたりは話が難しくなるのでカットするとして、だからね、この地球上で人間くらいは非合理的で不可解な存在であってもいいのではないかと、ボクは思うようになってきたのです。

 もちろん他人に被害を及ばさない範囲内に限られますが、少しくらいは自堕落や怠惰も含めた非「合目的」的な生活をしてもいいんじゃないかと。

 

 これがね、ボクが考える21世紀的な人間復興、すなわち新ルネッサンスなんですが、意味、分かりますかねぇ。たとえば放蕩息子とか道楽者というか、そうした人たちが内的に抱える無駄の極致ともいえる蕩尽の欲求が、実は経済的には合理的かもしれないじゃないですか。こういう解釈はまだまだ機能主義的だよなぁ。うーむ、まだ甚だしく生煮えなので、これはいつか詳しく続けることにします。あまり期待しないで待っていてください。こうしたゆるーい感じがね、非「合目的」的なのかな。

 

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2017年2月28日 (火)

偏見からの自由

 

 だからといって何かの役に立つわけではありませんが、2つの物事が突然に結びついて、「ああそういうことか」と深く納得することがあります。

 

 先週の日曜日も経験したのですが、それを説明するためには、まずは大前提からご紹介しなければなりません。

 

 ボクは、実際の舞台を鑑賞したことはありませんが、宝塚歌劇のファンであります。このように公言すると、「男のくせに」とはいかないまでも、ちょっと怪訝な顔をする人がいます。そりゃそうです、東京の宝塚劇場で当日券を待っている人たちはすべて女性ですから、男なのにファンというのは変人、あるいはそっちのケ、または女装癖でもあるのかと誤解されている可能性がなくもありません。

 ボクはそのいずれもでもないと断言しておきますが、このように判断される根拠は、宝塚が女性による女性のための舞台であって、男は絶対的少数派という特殊性です。だったらさぁ、歌舞伎はどうなんだろう。こちらは逆に出演者は男ばっかりで、女性を演じることも普通にありますよね。それがゲイではなく「芸」として評価され(うまいね!)、国が指定した人間国宝=重要無形文化財だっているくらいの格調高い伝統芸術なのに、宝塚が好きな男は変わっていると見なされるのは、論理としてまったくフェアではありません。

 

 そして、歌舞伎が海外公演を行うほど世界に通用するというなら、歴史や伝統こそ負けるものの、宝塚だって同じような特殊性を備えているので、グローバル化すればするほど、こうしたローカルの魅力が際立って浮上してくるとボクは考えています。世界中どこでも同じようなデューティフリーショップしかなかったら、実際そうなっているのが残念ですが、海外旅行の楽しみは激減しますよね。

 

 それ以前に、勉学によって獲得すべき知性の本質は、偏見からの自由ではないでしょうか。にもかかわらず、バカな先生ほど子供をカタにハメようとします。ボクが出会った希少な賢い先生たちは、他人と同じでないことを才能の萌芽と認識していました。だってね、これはこうなんだからこうしろと決めつけたら、世の中それで終わりであって、何の新発見もなくなるじゃないですか。だからさぁ、心の中にも、国境にも壁を作ってはいかんのですよ、大統領!

 

 さらに、ですよ。劇団四季なんかのミュージカルが決していけないとは思いませんが、いかに日本人がうまく演じたところで「輸入品」であることに変わりありません。本物はあくまでもブロードウェイやウェストエンドにあるわけです。けれども、宝塚の舞台は仮にアイデアやストーリーを真似たにしても、どこまでいってもニッポンだけのオリジナル。だからこそ応援したいのであります。

 

 でね、このことに気づいていたのはボクだけではなかった、というのが今回のメインテーマです。

 

 先週の日曜日は、例によって新宿歌舞伎町をぶらぶらと歩いておりました。華麗な虚飾が支配する夜も素敵ですが、昼間の歌舞伎町は厚化粧が剥げた「素」の繁華街が見られるので実に面白いのです。ボクが特に興味を感じたのは、女を騙す、じゃなかった楽しませるホスト諸君の顔を並べた看板でした。誰も彼も同じメイクにそっくりの髪型なんですよね。つまり、似たような顔ばっかりじゃないかと、少なくともボクには見えるのです。

 

 それまでも、何とまぁオリジナリティに欠けた連中だろうと思ってきましたが、今回の散歩における乱雑で無定見な思考を通して、ハッと真実が閃いたのであります。

 

 彼らは、彼ら自身も特に意識することなく、宝塚の男役の真似をしているのではないか。男の荒々しい動物性が感じられない中性的な男性像がそこにあって、それを女性が望むからこそ、ホスト諸君は宝塚っぽく選択淘汰されてきたと考えられるのです。男性主体のビジネス社会なら間違いなく嘲笑されるスタイルや格好だからこそ、女性は夜の世界で安心して夢を見られるといえるかもしれません。そんな名前あるかいというキラキラネームも、宝塚が発祥ですよね。

 女性が描いた漫画やアニメもまったく同じで、「こんな男いるはずないだろ」という細身の長身・長髪でデカ眼の美顔がボーイズラヴしたりするんだよなぁ。

 

 大人でこうした嗜好を持つ女性は、生物的&心理学的には未成熟かもしれませんが、そこはそれ偏見のないボクですから、敢えて解釈すれば、男性優位の社会に対する生理的な嫌悪感が隠されていると理解することもできるでしょう。

 

 いずれにしても、歌舞伎町のホスト業界は宝塚歌劇の影響を強く受けていた。どうです、これって新発見になりませんかねぇ。何の役にも立ちませんけど。。。。

 

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2016年5月25日 (水)

ルイ・ヴィトン展

 

 朝の4時頃に、何だか寒いなぁと目が覚めました。次に思ったのは「やっちまったかな!」ということです。

 

 昨日夜は、皆さんもきっとそうでしょうが、暑くてね。ついエアコンを切らずに寝入ってしまいました。ボクはパジャマというのが大嫌いで、ベッドで着るものといえばシャネルのNO5、って気色悪い大嘘ですけど、パンツとシャツくらいなのです(それ以外にあるのでしょうか)。暑い時にはフトンをはだけてそのままとなるので、そこにエアコンの冷気が直撃したわけですね。

 

 起き抜けからしばらく微熱を感じており、ヘタすりゃ夏風邪かもと危惧しましたが、6時3分頃の段階では悪寒もないようなので、何とか切り抜けられそうです。以上、現場からのレポートでした。マイクをスタジオにお返しします。

 

 微熱のせいか文体が混乱しておりますが、エアコンを切らずに寝入ったのは暑さだけではなく、昨日昼に赤坂で開催されている「旅するルイ・ヴィトン展」に行ったからです。テレビでチラリと様子を見たせいか、正直に言えばちょっとナメていました。そもそもテレビカメラのフレームに収まるような規模や量ではなかったのです。

 

 「1854年から現在までのルイ・ヴィトンの壮大な軌跡を巡る旅」というのはウェブサイトの紹介文ですけど、そのコピーを決して裏切ることなく、19世紀頃の大きな衣装ケースを始めとして膨大なコレクションが集められています。当時の上流階級の生活ぶりもよく分かるように展示されているほか、立ち止まって見入っていると係の人が必ず親切な説明を加えてくれました。これはボクのような素人にはすごくありがたい配慮です。

 興味深い文献や資料もいろいろ展示されており、大変に刺激&勉強になりました。内容もさることながら、昔の人は字がホントに上手なんですよね。

 

 それらを丹念に見ていったおかげで、オッサン=ボクは感動すると同時に、いささか疲れてしまったことが、エアコン切り忘れの本当の理由なのです。

 

 いずれにしても、これだけの規模の展示会が、信じられないことに入場無料なんですから、ぜひご来場をオススメします。6月19日()まで開催予定。

 

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2015年10月22日 (木)

芸術か猥褻か

 

 今頃になって春画が芸術か猥褻なのかと話題になっているようですが、すごいですよね、この「猥褻」って文字。最初はカタカナで表記するつもりでしたが、せっかくのワープロなので漢字変換してみたら、「猥」はともかく、「褻」のほうは思いもつかなかったほどややこしい漢字じゃありませんか。

 手書きによる漢字対決なんてことがあったら、「薔薇」の次に出題したいくらいの難度です。ポルノかなんかで警察に捕まって尋問されたら、「刑事さんはワイセツだから取り締まるって言うけど、法律以前に、そもそも漢字で書けますか?」と聞いてみたいなぁ。心象は絶対に悪化しますけどね。

 それにしても、「褻」というのはどんな意味があるのでしょうか。「猥」のほうは「卑猥」なんて言葉があるので、すぐに「いやらしい」「みだら」とか「いかがわしい」ということは分かりますが、「褻」なんて見当もつかないでしょ。

 そこで、さっそくネットの辞書で調べてみると、いや便利ですね、訓読みでは「け」と読むらしいのです。ハレとケの、ケのほうであります。「ハレの場」という言葉があるように、ハレが非日常であるのに対して、ケは普段とか日常的なことを意味しているらしい。それが派生したのかどうか、2として「けがす」「けがれる」と解釈されています(コトバンク)

 そのつながりについては柳田先生に詳しく訊ねたいところですけど、要するに猥褻とは「いやらしい」&「けがらわしい」という重ね言葉だとようやく理解できました。では、春画は果たしてそれに該当するでしょうか。

 この設問に対して、文化擁護派は「いやらしくもけがらわしくもないじゃないか」と反論するでしょう。社会秩序を重んじる人は「あんな場面を描いているんだからどうしたって猥褻だ」と主張します。で、要するにどっちだよ、という法廷論争が『チャタレイ夫人……』や『四畳半……』の頃から延々と続いてきたわけですね。

 さて、あなたはどっちだと思いますか。なんて質問を先日の東京MX『5時に夢中!』でやっていましたが、皆さん視点がどうも固定的なんですよね。

 まず、考慮すべきなのは時間軸です。春画が書かれたのは江戸時代なのですから、今とは習俗や価値観がかなり違います。そんな頃に作られた絵画を現代の視点で判断してしまっていいのでしょうか。
 近年にしても、30年ほど前は股間の毛は完全にアウトでしたが、今では堂々と出ています。ということは仮に「猥褻」と判定したところで、10年もしたら「芸術」に変わるかもしれない。そんな不安定なものを、無理してどちらと決めつける必要があるのでしょうか。

 次に、空間的・国際的な違い。国内では男女の絡みをモロに見せたらアウトでも、欧米は条件こそありますが、基本的に遺法ではありません。実際にネットでは猥褻な動画が溢れかえっているのに、国内法ではダメ。その延長に春画があるとしたら、これを「猥褻」とするのは欧米の標準に反するわけです。集団的自衛権を容認した安保関連法案は通したけど、こっちはアカンというのは論理が一貫していない気がします。

 最後に、視座の問題。この転換が不自由な人が少なくないんだよなぁ。
 大人や社会人としての視座ではなくて、自分が十代だった頃を思い出してみてください。少なくとも男は「やりたい盛り」の年齢ですから、エロい意味を持つ漢字を見るだけでムラムラしませんでしたか。そんな連中に春画を見せたら、いったいどうなるでしょうか。ところが、ボクあたりのオッサンになるとピクリともしません()。いや、中にはギンギンというジーサンもいるかな。

 というわけで、つまるところ「猥褻」かどうかなんて、法律や裁判所などで客観的に判断・判定できるような事柄ではなく、見る人間によってまったく違うということです。だから酒やタバコと同じで、青少年には刺激が強すぎるので見せないようにしましょうね、と制限を設けることは社会的に必要でしょうが、猥褻か否かを論じることにどんな意味があるというのでしょうか。

 このように、視座をちょっと変えればすっかり本質が明らかになることでも、それができないために遠回りしたり、時間や知恵の無駄使いをしていることって、案外少なくないんですよね。

 

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2014年5月 9日 (金)

進歩と調和

 

 ある企画で岡本太郎(1911-1996)を調べていくうちに、つくづく凄い人だと再認識しました。ギョロ目の風貌と大きな身ぶりで「芸術は爆発だぁ」が決まり文句で有名な人ですが、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」とテレビCMにも出演されていたせいか、今もって芸術家として正当に評価されていないように思います。

 

 ボク自身も、これまでは要するに「出たがり」の目立ちたがり屋だろうと考えていました。隣駅の渋谷駅構内には彼の大作壁画『明日の神話』が掲示されているので、身近に作品もあったわけですが、それがどうにも好きになれない絵だったのです。小田急線沿線には大学が多く、取材で行く時には井の頭線経由で下北沢乗り換えが多い関係で、渋谷駅を足早に歩きながら横目で何度も見たことがありますが、派手な原色を使っているにもかかわらず何とまぁ陰鬱で不快な絵だろうと感じてきました。

 

 けれども、仕事で仕方なく彼について知るうちに、日本人としては希有な破格の芸術家であると思うようになったのです。あの壁画にしても、1954 年にアメリカの水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸の悲劇がテーマなのですから、陰鬱な雰囲気は当然です。我ながらもっと早く勉強しとけよって恥ずかしく思いますが、予備知識ゼロの人間に意図した通りの印象を与える絵なんて誰でも描けるものではありません。

 

 そして、1970 年大阪万国博覧会の『太陽の塔』こそが「芸術は爆発だぁ」の頂点に位置する傑作であり、彼のすべてを象徴していると思います。ここで今さら紹介しなくても、その独創性はあちこちで解説されていますが、この万博のテーマを改めて思い返してみてください。

 

 いわく「人類の進歩と調和」。あははははは、進歩はともかくとして、「調和」ですぜ、皆さん。あの『太陽の塔』が「調和」しているかどうかなんて、見りゃ一発で分かります。きっと岡本太郎は「調和」なんてしゃらくせぇと思ったに違いありません。そもそも「進歩」と「調和」は相対立する概念ではないのか。それを無理矢理にテーマとして並立させた日本という国の偽善を直感して、ある種の怒りを込めて屋根を突き破ってしまったとするのはボクの考え過ぎでしょうか。

 

 仕事をする人は誰だって多かれ少なかれ我慢や妥協という「調和」を要求されます。けれども、それだけじゃあ「進歩」なんてできないんだぜと、半世紀近くを経た今でも「太陽の塔」はボクたちに語りかけているような気がするのです。

 

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