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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

文化・芸術

2018年7月 3日 (火)

和服

 

 若い頃はあまり意識しなかったのですが、いくらか年齢を経ると、和服ほど色っぽい装いは世界にないと思うようになります。

 

 欧米のパーティドレスでは、肩はもちろん背中までモロ出しです。映画祭なんかでは裸に薄手の布きれをまとっただけという女優さんも珍しくありません。それに比べて、和服で露出しているのは、腕の一部と胸もとに首筋、それに足袋の上部から覗く足もとくらい。身体のほとんどが隠されているにもかかわらず、だからこそ後れ毛などの艶っぽさが際立つんですよね。世阿弥は「秘すれば花」と言いましたが、ボクの持論である「引き算」と同じで、見えないからこそ逆にイマジネーションが刺激される。つまり、大脳皮質のエロスを刺激する、ものすごくインテリジェントな装いなのであります。

 

 年齢や体形を問わないことも、女性には見逃せないメリットではないでしょうか。欧米の服が体形に合わせて立体的に縫製されているのに対して、和服は平面裁断なので、着付けによって「ジャストフィット」させることになります。つまり、少しばかり太っても痩せても、背が低くなっても高くなっても(あり得ないか)、着付けだけで調整できる。だからこそ母親の和服をそのまま娘に譲渡できるわけです。洋服ではよほど似通った体形でない限りは、補修や調整が必要になってきますからね。

 

 このため、和服で問われるのはカタチやスタイルではなく、「色・柄」であります。逆にいえば、和服は「色・柄」を着るファッションではないでしょうか。ちなみに、和服はいかなるドレスコードでもオールマイティですから、大変に便利な装いでもあります。

 

 子供の頃に母親の着付けを手伝わされた時には、「何て面倒くさい衣服なんだろう」と思っていましたが、今ではまるで逆です。あの格好でどこに行ったのか知りませんが、母親にとって数少ない楽しく浮き立つ瞬間だったに違いないと思います。グローバル社会だからこそ、男は日本史と論語と茶道、女性は和服の着付けと正しい所作を必須教養にすべきではないでしょうか。

 

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2018年5月24日 (木)

BURN the FLOOR joy of dancing

 

 2年ぶりになりますが、またまた「バーン・ザ・フロア」を東急オーブで観てしまいました。やっぱね、ダンスはいいなぁ。ソロやデュエットもいいけど、何といっても圧巻なのは群舞です。まさにステージの床を燃やすほどの迫力に満ちており、観ているこちらの心まで躍り出すような感動があります。

 

 ダンサーたちがそれぞれに、けれども同じ方向を目指す潮の流れのように一斉に踊り始めると、広いステージがいきなり小さく見えるだけでなく、一瞬一瞬の決めポーズがまるで一枚の絵画のように美しい構図になっているのです。

 

 男のダンサーはスピードと力強さ。女性のダンサーはしなやかさと花のような可憐さ。それがメロディとリズムに合わせてみごとに重なり合い、時にはエロティックに融合していく。いわば音楽における和音のハーモニーが、ダンスという目に見える形でダイナミックに表現されているのです。上手なコーラスが脳内に快感をもたらすように、トレーニングされた完成度の高い群舞も心の中の感動ホルモンみたいなものを分泌させるのだとボクは考えています。

 

 この「バーン・ザ・フロア」の概要は、2016年4月11日のブログBURN the FLOOR NEW HORIZONで詳しく紹介したので、そちらを参考にしてください。今年はカンパニー創設20周年、来日10回目を記念した公演であり、joy of dancingとサブタイトルされていました。

 

 そんな知識がなくても、ひと目見るだけで、彼らのダンスに圧倒されると思いますよ。比較してはいけないと思うけど、それまで見ていたダンスと称するものが、型紙の上をなぞった体操のように感じるかもしれません。

 

 20分の休憩を含めて前半後半で合計2時間5分。それがあっという間に過ぎていき、注意が途切れたり弛緩することはまったくありませんでした。ボクの大好きなレナード・コーエンの『ハレルヤ』が曲目に含まれていたほか、アンコールもこのカンパニーの代表作のひとつで、何度となくYouTubeで観てきたティナ・ターナー版の『プラウド・メアリー』。満足感はもちろんとして、もっともっと見たいなぁという余韻を強く残す希有な舞台なので、機会があればぜひ鑑賞をオススメいたします。

 

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2018年3月 8日 (木)

ダイセンジガケダラナヨサ

 

 「ダイセンジガケダラナヨサ」っていうオマジナイを知っていますか? 何かの拍子に怪我をして痛くて痛くてしょうがない時に「あっちいけー」という、なんて嘘ですぴょん。これは逆さまに読むのが正解でありまして、つまり「サヨナラダケガジンセイダ」であり、「さよならだけが人生だ」ということです。

 

 まだ20代始めだった頃のボクのマジックワードでありまして、最愛の女性と心ならずも別れた時から、いつも心の中で呟いていました。「ダイセンジガケダラナヨサ」と何度唱えても彼女が戻ってきたり、新しい人生が拓けるわけではありません。ただ、夕陽を見ながら安酒を飲んだくれて、ひとり孤独にひたる時には実に良く似合うオマジナイなんですよね。

 

 この言葉を発明したのは、歌人、劇作家であり、1960〜70年代に演劇分野を中心に幅広く活躍した寺山修司(1935〜83年)です。『書を捨てよ、町に出よう』(1967年)なんか有名ですよね。彼が劇団「天井桟敷」で見出したエキゾチックな雰囲気を持つ少女、カルメン・マキが歌手としてデビューした時に「だいせんじがけだらなよさ」という歌詞を贈ったといわれています。これに伊藤康英が作曲して、1968年に発表されたファーストアルバム『カルメン・マキ真夜中詩集 ろうそくが消えるまで』に収録されました。このアルバムでは『さよならだけが人生だ』という歌もセットになっているので、さすがに「だいせんじ……」だけでは意味が分からん、となったかもしれません。

 

 話はそれで終わりではなく、この「さよならだけが人生だ」には原典があって、唐代の詩人である于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勧酒」がオリジナルとされています。その風情ある詩を井伏鱒二が「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」と意訳。それを寺山修司が逆さまにしてしまったという経緯になります。

 

 何もわざわざひっくり返さなくてもいいだろうと思うのですが、それこそが寺山修司の遊び心なんでしょうね。ストレートに言ってしまうのは何だか気恥ずかしいじゃないかという知的な含羞も感じさせます。

 

 そんな映画『スター・ウォーズ』並みのロングロングアゴーな話を最近になって思い出したのは(ルー大柴かよ)、実は似たようなことがあったからでありまして、というのは70%ほど冗談ですが(意味不明)、とにかく「だいせんじーがけだらなよさ」というフレーズがね、メロディとともに記憶の底からポッコリと浮かんできたのです。

 

 確かにね、1人で生まれて1人で死んでいかなければならない人間は、いかに永遠の愛を誓った伴侶にしても、いつかは「さよならだけが人生だ」となる時がやってきます。人間だけでなくペットも同じでね。人は時間という檻の虜囚という解釈もありますが、ボクはそれぞれの終わりに向けて一方的に流れる時間を歩む旅人だと考えております。つまり人間の出会いなんて、所詮はすれ違うだけのことであって、やがて必ず別れなければならない。

 

 そんなことは誰だって分かっているけど、どうしたってそれに抗うことなんてできません。でも、せめて言葉を逆さまにすることくらいはできるから、「ダイセンジガケダラナヨサ」。こういう心情が理解できない人とはあまり付き合いたくないなぁ。

 

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2018年3月 7日 (水)

宝塚『ポーの一族』

 

 女性専用車に間違って乗り込んだ男みたいなものですが、またまた宝塚に行ってきました。しかも演目は人気沸騰の『ポーの一族』。日本経済新聞の夕刊にも大変に好意的な劇評が掲載されていたので驚きました。

 

 ボクは女性漫画の細い描線と過度に誇張された眼、それにややこしい髪型があまり好きではないので、申し訳ないのですが萩尾望都の原作は読んでいません。男の作家の漫画は、人物や背景のエッジを太く描くほか、スクリーントーンも多用するので黒っぽくなるのですが、それに比べてどうも白っぽくてメリハリが乏しい気がするのです。それが流儀といえば、きっとそうなんでしょうけどね。

 

 それでも事前にチラリとオリジナルの漫画を見せてもらいましたが、あたかもそこから皆さんが抜け出てきたような舞台でした。中でも明日海りおが演ずる主役のエドガーは、ブルーのカラーコンタクトも効果を発揮して、思わず息を呑むほどの美少年なんですよね。ボクはそちらのほうの趣味はありませんが(どっちだよ?)、女性の皆さんが熱狂する気持ちは分かるような気がします。宝塚はまだ2回目のビギナーですが、クセになるのも不思議ではないと実感いたしました。

 

 ネットでもいろいろ紹介されているので、ストーリーは省略します。よく練られた展開になっており、原作を知らないボクでも十分に理解できました。夢のような華やかさだけでなく、永遠に生き続けなければならないバンパネラ(吸血鬼)の孤独と哀しみが確かに伝わってきて、奥ゆきのある舞台になっていたと思います。バンパネラであろうが人は人を求めずにはいられない。ボーイズラブの妖しい雰囲気も漂わせながら、エドガーはアランと出会い、やがて2人で時を旅していくことになる。ギムナジウムで2人が客席を振り返るエンディングは象徴的で、続編すら予感させるものでした。

 

 今回はレビューなんか不要だと思わせるほど感動的な仕上がりでしたが、それでもあれはお約束なんでしょうね。目も眩むようなコスチュームで埋め尽くされた舞台は、やはり圧巻の一語というほかありません。

 

 それからコリドー街の蕎麦&居酒屋で食事をしましたが、大変に充実した午後を過ごさせていただきました。女性にとっては、それこそ女性専用車のように男なんて入場禁止にしたいかもしれませんが、また行きたいなぁと思っております。

 

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2017年12月19日 (火)

ほんたうにおれが見えるのか

 

 宮沢賢治の詩が大好きになって、集中的に読んだことがあります。中でも宇宙や森羅万象を形容した煌びやかな言葉の群れが織りなす華麗な世界は、後のどんな詩人も追いついていないと思います。何しろ詩人のほとんどは文系なので、灰色鋼やエーテルだのカーバイドと言われても、何のことやら分かりませんからね。宮沢賢治はそうした科学や化学用語を敢えてちりばめることで、漆黒の夜空にオーロラのような虹色の輝きを与えようとしていたと、ボクは理解しています。

 

 彼の履歴を読むと、農学校の教員を経て、花巻で羅須地人協会を設立。地域の人たちに「農民芸術」を教えたり、無料で肥料の相談に応じたりしていたようです。朴訥な笑顔を見せた写真も残されているので、仏教の信者でもあったことから、郷土を愛する利他的で慈悲深く優しい人柄のように感じられます。

 

 そんな宮沢賢治のイメージに、冷水を浴びせかけるような詩があります。

 

おれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

 

 有名な『春と修羅』の中の一節です。詩集には制作日として「22..8」と注記されていたらしいので、宮沢賢治が25歳の頃の作品と考えられます。ボクはこの一節を読み、あまりにも意外だったので衝撃を受けると同時に、その心境が痛いほど分かるような気がしたのです。農夫を突き放したような厳しい表現は、愛情の裏返しに違いありません。理想主義者にありがちな他者への無際限な信頼が裏切られた時に、失望や絶望感が嫌悪に転じるのは決して珍しいことではないからです。

 

 こうした錯綜した感情が怒りや憎悪に発展して膨張を続けると、悪名高いカンボジアのポル・ポトのように、大虐殺に発展することもあります。ポル・ポトが嫌悪したのは農民でなく知識階級でしたが、その気持ちも分からなくはないんですよね。そりゃもう人殺しなんて、どんな理由があってもいけないことですが、インテリぶった理屈や言い訳ばっかりの饒舌な言論に閉口することってありませんか。そんな時に、もしも傍らに機関銃があれば、無言で引き金をひいちゃおうかなと、あくまでも頭の中で想像したりしますよね。

 

 それと同じで、宮沢賢治も間違いなく理想主義者であったと思うのです。そうした人に土着の農民は必ずしも好意的ではなかったはずです。「変わり者」呼ばわりする人もいるだろうし、せっかく農業を教えても、それに感謝するどころか、自分が発案したかのようにノウハウや知識を盗む人もいたに違いありません。農業というのは、人間や社会ではなく、自然という不可抗力の巨大な存在が相手なので、生き延びていくためには利己主義や狡猾さも必要なんですけどね。

 

 それが分かっていても、若い頃の宮沢賢治は、自分の中からわき起こる憎悪や嫌悪に近い感情を扱いかねていたのではないか。はい、そうです。ボクもたまにそんな気持ちになるので、それを投影して解釈しております。

 理想主義者にとって、こうしたアンビバレンツは不可避であり、芥川龍之介は『或阿呆の一生』の中で以下のように書いています。

 

誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

 

 いずれにしても、再び引用しますが、

 

おれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

 

 と心の中で呟きながら、繁華街を1人で彷徨することがたまにあります。これって「修羅」の心象なのかな。

 

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2017年12月11日 (月)

『ベルリン、わが愛』

 

 先週の宝塚歌劇に関するブログでは、ネタバレの怖れもあるのでストーリーについてはほとんど触れませんでした。他の作品を見ていないので比較しようがないというのも理由です。

 

 そんなわけで、あくまでも『ベルリン、わが愛」だけの感想を言わせていただければ、第2次世界大戦前夜に実在した人物や物事が扱われているので、ボクにとって大変に興味深い内容になっていました。何しろフリッツ・ラングが監督した伝説のサイレント映画『メトロポリス』で経営が大きく傾いたウーファーUFAという映画会社が舞台ですからね。

 

 この『メトロポリス』は1926年に製作、27年に公開された空前絶後の大傑作でありまして、「SF映画の原点にして頂点」と高く評価されています。第2次世界大戦の混乱でオリジナルフィルムが散逸。完全版を見るのは不可能といわれていたようですが、ボクは84年にジョルジオ・モルダーがプロデュースした「再編集版」を見たことがあります。とてもモノクロのサイレントとは思えないほど完成度が高く、階級対立がもたらすディストピア的な未来観も、この作品が先駆けとなりました。『メトロポリス』といえば、アンドロイドのマリアが象徴的なビジュアルですが、このメタリックな姿にインスパイアされて映画『スターウォーズ』のC−3POが生まれたといわれています。

 

 ボクが見た「再編集版」ですら上演時間は約90分。2002年には新たに発見されたフィルムを加えて123分に。2008年にもやはり新発見のフィルムを加えて150分に延長されているので、サイレントなのに長さだけで2時間半という途方もない超大作だったわけです。詳細はウィキペディアに譲りますが、製作費用の総額は500万マルクから1300万マルクという説もあるほどです。ドイツは第1次世界大戦敗北後に巨額の賠償金を課せられたおかげで猛烈なハイパーインフレを経験しており、ちょっと調べただけでは日本円で換算できなかったのですが、エキストラの男性が2万5000人、女性も1万2000人という数字だけでも驚きを禁じ得ません。

 

 にもかかわらず、当時は評価が低く、途中から席を立つ人が後を絶たなかったというシーンから、宝塚の『ベルリン、わが愛』は始まります。この頃は映画の黎明期なのに『メトロポリス』はマニア好みのサイエンス・フィクション。しかも決して楽しく明るい作品ではないので当然といえば当然ですが、あまりの不人気で興行的には大失敗。会社は倒産寸前の経営危機に陥ります。これも史実ですが、舞台のドラマではそれまで助監督に過ぎなかった若手のテオを監督に起用して、次世代のトーキーによるミュージカル映画で人気回復を図ろうとするわけです。

 

 そこでテオがヒロイン役に抜擢したのが、何とレニ・リーフェンシュタールなんですよね。ベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』やナチの党大会を撮影した『意志の勝利』などの監督で知られており、このため戦後はヒトラーの協力者として批判された女性です。彼女は俳優だったかなと調べ直してみたら、最初はダンサーで後に女優となり、山岳映画の主人公として成功したこともあるようです。このあたりもちゃんと調べた上でシナリオを作っているわけですね。

 

 そんな彼らに、ナチスドイツの宣伝大臣、ヨーゼフ・ゲッベルスが陰に陽に迫ってきます。「プロパガンダの天才」といわれた人ですから、映画が庶民に与える影響力を熟知しており、ミュージカル映画を大ヒットさせたテオと、その映画でヒロインのレニよりも高い人気を得た女優のジルを利用しようとします。

 

 というわけで、筋立てもまるで絵空事ではなく、歴史的な背景をきちんと踏まえているのです。たとえばゲッベルスがジルに手を出す場面があるのですが、大戦末期にヒトラーの後を追って6人の子供と奥さんもろとも自殺した人なので、謹厳実直な家庭人だったはずと思いきや、リダ・ヴァーロバというチェコの女優と大スキャンダルを起こしています。ゲッベルスは彼女を本気で愛しており、結婚するために離婚を決意。ところがヒトラーはそれを制止して、模範的な結婚生活を続けさせたそうです。

 

 こんなことを知らなくても十分に楽しめるミュージカルですが、あれこれ調べてみるとサブストーリーがいろいろ見え隠れしてきます。ボクにとっては2度美味しい作品だったのですが、やはりネタバレは興を殺ぐので、このあたりで。。。

 

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2017年12月 8日 (金)

宝塚歌劇団

 

 宝塚歌劇団の星組公演『ベルリン、わが愛』と、タカラヅカレビュー90周年『Bouquet de TAKARAZUKA』を鑑賞してきました。

 以前から宝塚ファンと公言していながらも、チケット入手があまりにも困難なので舞台を見たことがなかったのですが、知人のはからいでようやく念願がかなったのです。

 

 その印象ですが、すべてがよく練り込まれた完成度の高いステージだと感心しました。ボクはミュージカルが好きで、国内はもとよりウェストエンドやブロードウェイでも有名なプログラムを観てきましたが、あれほど舞台の端から端を使い切る演出は稀だと思います。東京宝塚劇場は奥ゆきが浅いかわりに横幅がかなり広いと思うのですが、これを縦横無尽といっていいほど活用しており、廻り舞台やせりなどもストーリーの中で効果的でダイナミックなアクセントになっていました。

 

 出演者が多いことも宝塚の特長であり、だからこそ広い舞台を使いこなせると思うのですが、セリフのない端役の1人1人がきちんと細かな演技をしているんですよね。それをカメラで切り取れば、どんな一瞬にしても、上等な絵画のように、誰もがそれぞれ違った動作とイキイキした表情を浮かべていることが分かるはずです。

 

 しかも、皆さんの衣裳が素晴らしいんですよね。前のほうの席を取っていただいたので細部まで確認できましたが、ありがちなペラペラの布きれではなく、ブティックに並んでいる高価なドレスなどと遜色がありません。主役やヒロインはもちろん、どんな役者さんもそれを身体にぴたりと合わせていたので、本格的に縫製されているのではないでしょうか。前述したように出演者が多く、場面が変わるたびに衣裳もどんどん替わるので、それだけでも圧倒されてしまいます。こうしたファッションとしての充実感も、女性を惹きつける理由のひとつだと思います。

 

 歌や芝居も、豪華な衣裳に負けずよく訓練されており、滑舌が聞きにくいということはまったくありません。かなり厳しい練習を重ねてきたんじゃないかな。女性が男役を演じていることから、気恥ずかしく感じるフリやセリフ回しがないわけではありませんが、これも宝塚流ということなんでしょうね。

 

 場面のつなぎも大変にスムーズで腕時計に目をやるヒマがなく、ストーリーも分かりやすい。おかげで1時間半ほどの上演時間があっという間に過ぎてしまいました。本場のミュージカルに比べてダンスに立体感がないとか、ドラマを印象付ける基本テーマとしての楽曲がないなど、指摘できることがないわけではありませんが、それらをひっくるめた宝塚としての豊潤な世界観を感じることができました。さもなきゃ100年以上も支持されてこなかったはずです。

 

 この歌劇が終わった後で、30分ほどの幕間を挟んでレビューが始まったのですが、これがまた、ものすごいのであります。絢爛豪華で煌びやかというほかにボクのボキャブラリーがないのが残念ですが、ともかく超のつく大圧巻。数十人にも及ぶ女性の脚が高々と上がるラインダンスに至っては、出かけた言葉が喉の奥に引っ込んで瞠目するほどのド迫力なのです。

 

 演じるのは女性だけで、観客のおよそ95%も女性。そのせいか直接的なエロスが完全に脱色されており、女性が安心して自分の世界に没入できるということも大きな魅力ではないでしょうか。男役の胸が出ていないことが最初は気になりましたが、サラシみたいなもので抑え込んでいるようです。何もそこまでしなくていいだろうとボクは思いますが、そのあたりに宝塚的な強いこだわりがあるんじゃないかな。

 

 いずれにしても、これは世界に自慢できる日本独自の文化芸術だと思います。グローバル社会になればなるほど、こうした「ガラパゴス」の貴重な価値が際立ってきます。世界中がデューティーフリーショップみたいになったらつまらないですからね。それを20世紀初頭に小林一三翁が想定していたかどうかは分かりませんが、実にまったく大したもんだよなと素直にボクは感動いたしました。

 

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2017年8月21日 (月)

Farewell, My Lovely

 

 カッコいい英語、というジャンルがあるなら、ボクがダントツで1位に推したいのが、"Farewell, My lovely"です。

 Goodbye でなくてFarewellGirlfriendLoverでなくてMy Lovely。これほど深い意味と余韻を感じさせる英文はちょっとほかにないんじゃないかな。これだけで物語を3つや4つは書けるような気がします。

 

 知る人ぞ知るレイモンド・チャンドラー(1888〜1959年)の小説のタイトルでありまして、1956年に清水俊二氏は『さらば愛しき人よ』と和訳しています。これも実にまったく素晴らしい日本語ではありませんか。2009年に村上春樹氏が再び翻訳版を発表していますが、この時の邦題は『さよなら、愛しい人』。うーん、ちょっとばかり軽いかな。読んでないので内容は評価できませんが、「男の痩せ我慢」がコンセプトのハードボイルド小説なのですから、やはり知的な印象を与える文語的な固い語感が欲しい。そう考えると、"Farewell, My lovely"も、『さらば愛しき人よ』、も非の打ち所がまったくないので、変えようとすればするほどヘンなことになっていきます。

 

 現実の別離もそれと似ていて、ジタバタとあがけばあがくほどお互いが醜くなっていくので、サラリと潔く別れるほうが強い印象を残すんじゃないかなぁ。ちなみに、ということで以前にボクが作った言葉を紹介しておきましょう。

 「恋の始まりは誰もが賑やかになるが、その終わりはいつも静かだ」

 この心境に至るまでに、どれだけの血と汗と涙を流したことか、って冗談ですけど。

 

 さて、チャンドラーですが、ボクが感動したのは独特の文体です。初めて読んだ時には、これでも探偵小説、推理小説かよと驚愕しました。それほど圧倒的な文芸的魅力を感じたのです。その分だけストーリーは正直いって面白いとは感じませんでした。だから話の筋を追った映画化もあまり成功しているように思えないのはボクだけかなぁ。1975年に原題のままで映画化された時には、主人公の私立探偵、フィリップ・マーロウをロバート・ミッチャムが演じましたが、そりゃちょっと違うだろと。陰りや深みに欠けるんだよな。過去のある女を演じたシャーロット・ランブリングはありですけどね。

 

 大昔の映画なのでさっさと終わりにしますが、余韻のある英語として、チャンドラーの小説からもう1本だけ紹介しておきます。

 "The Long Goodbye"。 1953年に発表されたフィリップ・マーロウものの第6作です。邦題は『長いお別れ』(清水俊二)。うーむ、こちらもたっぷりと含みを感じさせる秀逸な英文&和訳というほかありません。

 

 最近はやたらに長いタイトルの小説やら映画が流行しているみたいだけど、もうちょっと言葉を大切にしようよ。

 

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2017年5月 9日 (火)

ロリータ

 

 渋谷の某百貨店の入口付近に、ロリータ・ファッションに身を包んだ2人の女の子がいました。テレビのヒマネタとして見たことがあり、原宿あたりでも遠くから視界に入れたことはありますが、こんなに近距離で実物を目の当たりにしたのは初めてです。

 

 ホワイトをベースにしてピンクのパステルカラーを組み合わせた、やたらにヒラヒラのフリルが多い昔の人形みたいな、というか少女漫画から抜け出てきたような服装ですから、実に目立つんですよね。こんな格好で電車に乗ったり、街を闊歩するという彼女たちの勇気には、冗談でなく本気で感心させられました。断じて男女差別ではなく、そこいらの若い男よりはるかに度胸があるじゃないですか。

 

 「ロリータ」といえば、1955年に発刊されたウラジミール・ナボコフの小説が語源です。少女性愛者を描いた長編だったことから、ロリコン=ロリータ・コンプレックスという言葉が生まれました。ただし、同じロリータという名称でも、前述のファッションはそうした変態的な性愛とは何の関係もありません。それどころか、1990年代の日本で流行が始まったとされています。つまり、正真正銘のニッポン・オリジナルであり、海外にも熱狂的なファンがいるそうですから、もはや一過性のトレンドなんぞではなく、確固たるジャンルに成長したと考えるべきでしょう。

 

 さらに、ゴスロリ=ゴシック・ロリータと呼ばれる異形とも思えるダークなジャンルも派生しているので、前述の若者に続いて、オッサンたちも彼女たちの奔放なクリエイティビティを見習ったほうがいいんじゃないかな。

 

 戦後の日本は欧米に追いつけ追い越せを合言葉に、何事も物真似で発展してきたとされています。特に経営手法なんか現代でもアメリカの後追いばっかりですけど、ファッションだけは違うみたいですね。

 日本経済新聞の人気連載『私の履歴書』に高田賢三が寄稿していましたが、彼は世界のファッションをリードしてきたパリで活躍。後にLVMHが買収するほどのブランドを育てました。絵画にしても戦前から藤田嗣治などが活躍しており、そうした伝説も踏まえれば、アニメなどを含めたサブカルチャーを今さら「クール・ジャパン」なんて、あまりにも認識が遅すぎではないでしょうか。

 

 日本のサブカルチャーはもともと異質なものに強い好奇心を持ち、それを自分たちの文化風土に融合させるという遺伝的なセンスが創造してきたものだと思います。もちろん横並びに異常にこだわる保守的な人もいますが、アートや芸能界では過激な越境者はちっとも珍しい存在ではなかったはずです。ところが日本国内では、評価が確立した伝統文化のほうを重視する傾向が極めて強いんですよね。むしろ海外の先進国、特にフランスやアメリカのほうが率先して日本のサブカルチャーの価値を認めてきたといえるでしょう。

 

 そのくせ、古くなった建物はどんどん壊して、とにかく新しくリメイクしまくるんだよな。外国人が日本を褒める時には「伝統と革新の融合」が常套句ですけど、むしろ伝統の破壊とむやみな再開発ではないかとボクは疑っています。

 実際に東京ほど変貌の激しい都市は先進国では希有ですよね。それをエネルギッシュだと褒め称える向きも確かにありますが、日本の総人口はとっくに減少に転じており、これから増加する見込みもまったくないので、そんなことがいつまで続けられるやら、なんですよね。

 

 であるなら、もっと「ヘンなもの」や「異形」「異端」を大切にして、価値を見出していくべきではないでしょうか。そのほうがコスト的にも安上がりで利益率も高い。グローバリゼーションを前提にしても、いつまでも富士山や浅草、着物や寿司では早晩飽きられてしまうでしょう。
 そうしたサブカルチャーのひとつがロリータ・ファッションなわけです。生き残ったサブはいずれメインになるのですから、異形や異端のポップカルチャーをどんどん刺激し、面白いものを見つけて世界中に売り出していくプロデューサーの育成が急務という結論になるんですけどね。

 

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2017年4月 3日 (月)

非「合目的」的

 

 我ながらワケが分からないタイトルかなと自戒しますが、そんなあり方もありじゃないかということで、敢えて生煮え状態で提示することにしました。

 

 たとえばプロダクトデザインですけど、19世紀末までは自然界を真似て造形した「アール・ヌーボー」というデザインが主流となっていました。花や葉っぱや枝なんかの複雑な形状を鉄の門やら椅子やアクセサリーなんかに写し取るようにデザインしたわけですね。それはそれで大変に美しいのですが、複雑な分だけ手間と熟練した技術が必要になってきます。

 

 ところが、19世紀を経て20世紀に移り変わると、何事も大衆化が一気に進み始めた関係から、工業化による大量生産が求められるようになりました。職人技や面倒くさい工程が不可欠なアール・ヌーボーはそれに向いていないのはもちろん、価格だって大衆的なレベルにはコストダウンできません。

 そこで、複雑な装飾要素を大胆に省略した量産化しやすいデザインが必要になってきたわけです。ただし、それだけでは実用に向いていないので、その製品が担うべき機能を忠実に反映したデザインでなければならない。見やすいとか使いやすい形ということです。

 それが1920年代から爆発的に流行した「アール・デコ」の正体でありまして、だからこそ丸や四角や直線を組み合わせた幾何学的なラインがベースになっているわけです。細かく曲線が分岐したようなややこしい格好は金型が作りにくいので、量産に向いていませんからね。

 

 それゆえに、アール・デコは自然の直接的な模倣ではない、人間による初めてのオリジナリティの高いクリエイティブ・デザインと評価することができます。

 ただし、どこまでも奔放なデザインが許されるのはアート=芸術の領域であって、工業製品では前述した機能性が最優先されます。さもなきゃ工業化して量産する意味を失ってしまいます。このあたりをバウハウスでは「機能が美を規定する」とか何とか言ったんじゃないかな。いずれにしても機能美とか合理主義と呼ばれるデザイントレンドが、こんな感じで20世紀になってから始まったと解釈することができるでしょう。

 

 でね、そうしたトレンドが、やがてボクたちの思考や生活の中にも入り込むようになったんだよな。

 

 たとえば学校はできるだけ無駄を排除して、求められる機能を忠実に果たす人間を量産するのが優秀と判断されるようになりました。そのための大きな指針が戦前は教育勅語だったんじゃないかな。戦後になっても教育方針がコロリと逆向きになっただけで、試験で高得点を取れる賢い子供たちを量産できるのが良い学校とされることに変わりはありません。東大・京大、あるいは国立大学に何人合格したかなんてことが今でも高校の評価基準になっているじゃないですか。

 

 あれっ? ということは人間も工業製品のように機能美や合理主義で判断されるのかなぁというのが、今回のテーマなのです。いささか分かりにくいかもしれませんが、デザインは自然界の模倣から自由になった=解放されたはずなのに、その旗印となった機能主義が今度は人間まで工業製品のように扱うようになったのではないか。

 

 自然界だって実は合理的で機能的なのですが、人間までそうなることはないんじゃないかな。そもそも自由というのは、自然界ではあり得ない概念のはずです。このあたりは話が難しくなるのでカットするとして、だからね、この地球上で人間くらいは非合理的で不可解な存在であってもいいのではないかと、ボクは思うようになってきたのです。

 もちろん他人に被害を及ばさない範囲内に限られますが、少しくらいは自堕落や怠惰も含めた非「合目的」的な生活をしてもいいんじゃないかと。

 

 これがね、ボクが考える21世紀的な人間復興、すなわち新ルネッサンスなんですが、意味、分かりますかねぇ。たとえば放蕩息子とか道楽者というか、そうした人たちが内的に抱える無駄の極致ともいえる蕩尽の欲求が、実は経済的には合理的かもしれないじゃないですか。こういう解釈はまだまだ機能主義的だよなぁ。うーむ、まだ甚だしく生煮えなので、これはいつか詳しく続けることにします。あまり期待しないで待っていてください。こうしたゆるーい感じがね、非「合目的」的なのかな。

 

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