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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

文化・芸術

2017年5月 9日 (火)

ロリータ

 

 渋谷の某百貨店の入口付近に、ロリータ・ファッションに身を包んだ2人の女の子がいました。テレビのヒマネタとして見たことがあり、原宿あたりでも遠くから視界に入れたことはありますが、こんなに近距離で実物を目の当たりにしたのは初めてです。

 

 ホワイトをベースにしてピンクのパステルカラーを組み合わせた、やたらにヒラヒラのフリルが多い昔の人形みたいな、というか少女漫画から抜け出てきたような服装ですから、実に目立つんですよね。こんな格好で電車に乗ったり、街を闊歩するという彼女たちの勇気には、冗談でなく本気で感心させられました。断じて男女差別ではなく、そこいらの若い男よりはるかに度胸があるじゃないですか。

 

 「ロリータ」といえば、1955年に発刊されたウラジミール・ナボコフの小説が語源です。少女性愛者を描いた長編だったことから、ロリコン=ロリータ・コンプレックスという言葉が生まれました。ただし、同じロリータという名称でも、前述のファッションはそうした変態的な性愛とは何の関係もありません。それどころか、1990年代の日本で流行が始まったとされています。つまり、正真正銘のニッポン・オリジナルであり、海外にも熱狂的なファンがいるそうですから、もはや一過性のトレンドなんぞではなく、確固たるジャンルに成長したと考えるべきでしょう。

 

 さらに、ゴスロリ=ゴシック・ロリータと呼ばれる異形とも思えるダークなジャンルも派生しているので、前述の若者に続いて、オッサンたちも彼女たちの奔放なクリエイティビティを見習ったほうがいいんじゃないかな。

 

 戦後の日本は欧米に追いつけ追い越せを合言葉に、何事も物真似で発展してきたとされています。特に経営手法なんか現代でもアメリカの後追いばっかりですけど、ファッションだけは違うみたいですね。

 日本経済新聞の人気連載『私の履歴書』に高田賢三が寄稿していましたが、彼は世界のファッションをリードしてきたパリで活躍。後にLVMHが買収するほどのブランドを育てました。絵画にしても戦前から藤田嗣治などが活躍しており、そうした伝説も踏まえれば、アニメなどを含めたサブカルチャーを今さら「クール・ジャパン」なんて、あまりにも認識が遅すぎではないでしょうか。

 

 日本のサブカルチャーはもともと異質なものに強い好奇心を持ち、それを自分たちの文化風土に融合させるという遺伝的なセンスが創造してきたものだと思います。もちろん横並びに異常にこだわる保守的な人もいますが、アートや芸能界では過激な越境者はちっとも珍しい存在ではなかったはずです。ところが日本国内では、評価が確立した伝統文化のほうを重視する傾向が極めて強いんですよね。むしろ海外の先進国、特にフランスやアメリカのほうが率先して日本のサブカルチャーの価値を認めてきたといえるでしょう。

 

 そのくせ、古くなった建物はどんどん壊して、とにかく新しくリメイクしまくるんだよな。外国人が日本を褒める時には「伝統と革新の融合」が常套句ですけど、むしろ伝統の破壊とむやみな再開発ではないかとボクは疑っています。

 実際に東京ほど変貌の激しい都市は先進国では希有ですよね。それをエネルギッシュだと褒め称える向きも確かにありますが、日本の総人口はとっくに減少に転じており、これから増加する見込みもまったくないので、そんなことがいつまで続けられるやら、なんですよね。

 

 であるなら、もっと「ヘンなもの」や「異形」「異端」を大切にして、価値を見出していくべきではないでしょうか。そのほうがコスト的にも安上がりで利益率も高い。グローバリゼーションを前提にしても、いつまでも富士山や浅草、着物や寿司では早晩飽きられてしまうでしょう。
 そうしたサブカルチャーのひとつがロリータ・ファッションなわけです。生き残ったサブはいずれメインになるのですから、異形や異端のポップカルチャーをどんどん刺激し、面白いものを見つけて世界中に売り出していくプロデューサーの育成が急務という結論になるんですけどね。

 

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2017年4月 3日 (月)

非「合目的」的

 

 我ながらワケが分からないタイトルかなと自戒しますが、そんなあり方もありじゃないかということで、敢えて生煮え状態で提示することにしました。

 

 たとえばプロダクトデザインですけど、19世紀末までは自然界を真似て造形した「アール・ヌーボー」というデザインが主流となっていました。花や葉っぱや枝なんかの複雑な形状を鉄の門やら椅子やアクセサリーなんかに写し取るようにデザインしたわけですね。それはそれで大変に美しいのですが、複雑な分だけ手間と熟練した技術が必要になってきます。

 

 ところが、19世紀を経て20世紀に移り変わると、何事も大衆化が一気に進み始めた関係から、工業化による大量生産が求められるようになりました。職人技や面倒くさい工程が不可欠なアール・ヌーボーはそれに向いていないのはもちろん、価格だって大衆的なレベルにはコストダウンできません。

 そこで、複雑な装飾要素を大胆に省略した量産化しやすいデザインが必要になってきたわけです。ただし、それだけでは実用に向いていないので、その製品が担うべき機能を忠実に反映したデザインでなければならない。見やすいとか使いやすい形ということです。

 それが1920年代から爆発的に流行した「アール・デコ」の正体でありまして、だからこそ丸や四角や直線を組み合わせた幾何学的なラインがベースになっているわけです。細かく曲線が分岐したようなややこしい格好は金型が作りにくいので、量産に向いていませんからね。

 

 それゆえに、アール・デコは自然の直接的な模倣ではない、人間による初めてのオリジナリティの高いクリエイティブ・デザインと評価することができます。

 ただし、どこまでも奔放なデザインが許されるのはアート=芸術の領域であって、工業製品では前述した機能性が最優先されます。さもなきゃ工業化して量産する意味を失ってしまいます。このあたりをバウハウスでは「機能が美を規定する」とか何とか言ったんじゃないかな。いずれにしても機能美とか合理主義と呼ばれるデザイントレンドが、こんな感じで20世紀になってから始まったと解釈することができるでしょう。

 

 でね、そうしたトレンドが、やがてボクたちの思考や生活の中にも入り込むようになったんだよな。

 

 たとえば学校はできるだけ無駄を排除して、求められる機能を忠実に果たす人間を量産するのが優秀と判断されるようになりました。そのための大きな指針が戦前は教育勅語だったんじゃないかな。戦後になっても教育方針がコロリと逆向きになっただけで、試験で高得点を取れる賢い子供たちを量産できるのが良い学校とされることに変わりはありません。東大・京大、あるいは国立大学に何人合格したかなんてことが今でも高校の評価基準になっているじゃないですか。

 

 あれっ? ということは人間も工業製品のように機能美や合理主義で判断されるのかなぁというのが、今回のテーマなのです。いささか分かりにくいかもしれませんが、デザインは自然界の模倣から自由になった=解放されたはずなのに、その旗印となった機能主義が今度は人間まで工業製品のように扱うようになったのではないか。

 

 自然界だって実は合理的で機能的なのですが、人間までそうなることはないんじゃないかな。そもそも自由というのは、自然界ではあり得ない概念のはずです。このあたりは話が難しくなるのでカットするとして、だからね、この地球上で人間くらいは非合理的で不可解な存在であってもいいのではないかと、ボクは思うようになってきたのです。

 もちろん他人に被害を及ばさない範囲内に限られますが、少しくらいは自堕落や怠惰も含めた非「合目的」的な生活をしてもいいんじゃないかと。

 

 これがね、ボクが考える21世紀的な人間復興、すなわち新ルネッサンスなんですが、意味、分かりますかねぇ。たとえば放蕩息子とか道楽者というか、そうした人たちが内的に抱える無駄の極致ともいえる蕩尽の欲求が、実は経済的には合理的かもしれないじゃないですか。こういう解釈はまだまだ機能主義的だよなぁ。うーむ、まだ甚だしく生煮えなので、これはいつか詳しく続けることにします。あまり期待しないで待っていてください。こうしたゆるーい感じがね、非「合目的」的なのかな。

 

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2017年2月28日 (火)

偏見からの自由

 

 だからといって何かの役に立つわけではありませんが、2つの物事が突然に結びついて、「ああそういうことか」と深く納得することがあります。

 

 先週の日曜日も経験したのですが、それを説明するためには、まずは大前提からご紹介しなければなりません。

 

 ボクは、実際の舞台を鑑賞したことはありませんが、宝塚歌劇のファンであります。このように公言すると、「男のくせに」とはいかないまでも、ちょっと怪訝な顔をする人がいます。そりゃそうです、東京の宝塚劇場で当日券を待っている人たちはすべて女性ですから、男なのにファンというのは変人、あるいはそっちのケ、または女装癖でもあるのかと誤解されている可能性がなくもありません。

 ボクはそのいずれもでもないと断言しておきますが、このように判断される根拠は、宝塚が女性による女性のための舞台であって、男は絶対的少数派という特殊性です。だったらさぁ、歌舞伎はどうなんだろう。こちらは逆に出演者は男ばっかりで、女性を演じることも普通にありますよね。それがゲイではなく「芸」として評価され(うまいね!)、国が指定した人間国宝=重要無形文化財だっているくらいの格調高い伝統芸術なのに、宝塚が好きな男は変わっていると見なされるのは、論理としてまったくフェアではありません。

 

 そして、歌舞伎が海外公演を行うほど世界に通用するというなら、歴史や伝統こそ負けるものの、宝塚だって同じような特殊性を備えているので、グローバル化すればするほど、こうしたローカルの魅力が際立って浮上してくるとボクは考えています。世界中どこでも同じようなデューティフリーショップしかなかったら、実際そうなっているのが残念ですが、海外旅行の楽しみは激減しますよね。

 

 それ以前に、勉学によって獲得すべき知性の本質は、偏見からの自由ではないでしょうか。にもかかわらず、バカな先生ほど子供をカタにハメようとします。ボクが出会った希少な賢い先生たちは、他人と同じでないことを才能の萌芽と認識していました。だってね、これはこうなんだからこうしろと決めつけたら、世の中それで終わりであって、何の新発見もなくなるじゃないですか。だからさぁ、心の中にも、国境にも壁を作ってはいかんのですよ、大統領!

 

 さらに、ですよ。劇団四季なんかのミュージカルが決していけないとは思いませんが、いかに日本人がうまく演じたところで「輸入品」であることに変わりありません。本物はあくまでもブロードウェイやウェストエンドにあるわけです。けれども、宝塚の舞台は仮にアイデアやストーリーを真似たにしても、どこまでいってもニッポンだけのオリジナル。だからこそ応援したいのであります。

 

 でね、このことに気づいていたのはボクだけではなかった、というのが今回のメインテーマです。

 

 先週の日曜日は、例によって新宿歌舞伎町をぶらぶらと歩いておりました。華麗な虚飾が支配する夜も素敵ですが、昼間の歌舞伎町は厚化粧が剥げた「素」の繁華街が見られるので実に面白いのです。ボクが特に興味を感じたのは、女を騙す、じゃなかった楽しませるホスト諸君の顔を並べた看板でした。誰も彼も同じメイクにそっくりの髪型なんですよね。つまり、似たような顔ばっかりじゃないかと、少なくともボクには見えるのです。

 

 それまでも、何とまぁオリジナリティに欠けた連中だろうと思ってきましたが、今回の散歩における乱雑で無定見な思考を通して、ハッと真実が閃いたのであります。

 

 彼らは、彼ら自身も特に意識することなく、宝塚の男役の真似をしているのではないか。男の荒々しい動物性が感じられない中性的な男性像がそこにあって、それを女性が望むからこそ、ホスト諸君は宝塚っぽく選択淘汰されてきたと考えられるのです。男性主体のビジネス社会なら間違いなく嘲笑されるスタイルや格好だからこそ、女性は夜の世界で安心して夢を見られるといえるかもしれません。そんな名前あるかいというキラキラネームも、宝塚が発祥ですよね。

 女性が描いた漫画やアニメもまったく同じで、「こんな男いるはずないだろ」という細身の長身・長髪でデカ眼の美顔がボーイズラヴしたりするんだよなぁ。

 

 大人でこうした嗜好を持つ女性は、生物的&心理学的には未成熟かもしれませんが、そこはそれ偏見のないボクですから、敢えて解釈すれば、男性優位の社会に対する生理的な嫌悪感が隠されていると理解することもできるでしょう。

 

 いずれにしても、歌舞伎町のホスト業界は宝塚歌劇の影響を強く受けていた。どうです、これって新発見になりませんかねぇ。何の役にも立ちませんけど。。。。

 

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2016年5月25日 (水)

ルイ・ヴィトン展

 

 朝の4時頃に、何だか寒いなぁと目が覚めました。次に思ったのは「やっちまったかな!」ということです。

 

 昨日夜は、皆さんもきっとそうでしょうが、暑くてね。ついエアコンを切らずに寝入ってしまいました。ボクはパジャマというのが大嫌いで、ベッドで着るものといえばシャネルのNO5、って気色悪い大嘘ですけど、パンツとシャツくらいなのです(それ以外にあるのでしょうか)。暑い時にはフトンをはだけてそのままとなるので、そこにエアコンの冷気が直撃したわけですね。

 

 起き抜けからしばらく微熱を感じており、ヘタすりゃ夏風邪かもと危惧しましたが、6時3分頃の段階では悪寒もないようなので、何とか切り抜けられそうです。以上、現場からのレポートでした。マイクをスタジオにお返しします。

 

 微熱のせいか文体が混乱しておりますが、エアコンを切らずに寝入ったのは暑さだけではなく、昨日昼に赤坂で開催されている「旅するルイ・ヴィトン展」に行ったからです。テレビでチラリと様子を見たせいか、正直に言えばちょっとナメていました。そもそもテレビカメラのフレームに収まるような規模や量ではなかったのです。

 

 「1854年から現在までのルイ・ヴィトンの壮大な軌跡を巡る旅」というのはウェブサイトの紹介文ですけど、そのコピーを決して裏切ることなく、19世紀頃の大きな衣装ケースを始めとして膨大なコレクションが集められています。当時の上流階級の生活ぶりもよく分かるように展示されているほか、立ち止まって見入っていると係の人が必ず親切な説明を加えてくれました。これはボクのような素人にはすごくありがたい配慮です。

 興味深い文献や資料もいろいろ展示されており、大変に刺激&勉強になりました。内容もさることながら、昔の人は字がホントに上手なんですよね。

 

 それらを丹念に見ていったおかげで、オッサン=ボクは感動すると同時に、いささか疲れてしまったことが、エアコン切り忘れの本当の理由なのです。

 

 いずれにしても、これだけの規模の展示会が、信じられないことに入場無料なんですから、ぜひご来場をオススメします。6月19日()まで開催予定。

 

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2015年10月22日 (木)

芸術か猥褻か

 

 今頃になって春画が芸術か猥褻なのかと話題になっているようですが、すごいですよね、この「猥褻」って文字。最初はカタカナで表記するつもりでしたが、せっかくのワープロなので漢字変換してみたら、「猥」はともかく、「褻」のほうは思いもつかなかったほどややこしい漢字じゃありませんか。

 手書きによる漢字対決なんてことがあったら、「薔薇」の次に出題したいくらいの難度です。ポルノかなんかで警察に捕まって尋問されたら、「刑事さんはワイセツだから取り締まるって言うけど、法律以前に、そもそも漢字で書けますか?」と聞いてみたいなぁ。心象は絶対に悪化しますけどね。

 それにしても、「褻」というのはどんな意味があるのでしょうか。「猥」のほうは「卑猥」なんて言葉があるので、すぐに「いやらしい」「みだら」とか「いかがわしい」ということは分かりますが、「褻」なんて見当もつかないでしょ。

 そこで、さっそくネットの辞書で調べてみると、いや便利ですね、訓読みでは「け」と読むらしいのです。ハレとケの、ケのほうであります。「ハレの場」という言葉があるように、ハレが非日常であるのに対して、ケは普段とか日常的なことを意味しているらしい。それが派生したのかどうか、2として「けがす」「けがれる」と解釈されています(コトバンク)

 そのつながりについては柳田先生に詳しく訊ねたいところですけど、要するに猥褻とは「いやらしい」&「けがらわしい」という重ね言葉だとようやく理解できました。では、春画は果たしてそれに該当するでしょうか。

 この設問に対して、文化擁護派は「いやらしくもけがらわしくもないじゃないか」と反論するでしょう。社会秩序を重んじる人は「あんな場面を描いているんだからどうしたって猥褻だ」と主張します。で、要するにどっちだよ、という法廷論争が『チャタレイ夫人……』や『四畳半……』の頃から延々と続いてきたわけですね。

 さて、あなたはどっちだと思いますか。なんて質問を先日の東京MX『5時に夢中!』でやっていましたが、皆さん視点がどうも固定的なんですよね。

 まず、考慮すべきなのは時間軸です。春画が書かれたのは江戸時代なのですから、今とは習俗や価値観がかなり違います。そんな頃に作られた絵画を現代の視点で判断してしまっていいのでしょうか。
 近年にしても、30年ほど前は股間の毛は完全にアウトでしたが、今では堂々と出ています。ということは仮に「猥褻」と判定したところで、10年もしたら「芸術」に変わるかもしれない。そんな不安定なものを、無理してどちらと決めつける必要があるのでしょうか。

 次に、空間的・国際的な違い。国内では男女の絡みをモロに見せたらアウトでも、欧米は条件こそありますが、基本的に遺法ではありません。実際にネットでは猥褻な動画が溢れかえっているのに、国内法ではダメ。その延長に春画があるとしたら、これを「猥褻」とするのは欧米の標準に反するわけです。集団的自衛権を容認した安保関連法案は通したけど、こっちはアカンというのは論理が一貫していない気がします。

 最後に、視座の問題。この転換が不自由な人が少なくないんだよなぁ。
 大人や社会人としての視座ではなくて、自分が十代だった頃を思い出してみてください。少なくとも男は「やりたい盛り」の年齢ですから、エロい意味を持つ漢字を見るだけでムラムラしませんでしたか。そんな連中に春画を見せたら、いったいどうなるでしょうか。ところが、ボクあたりのオッサンになるとピクリともしません()。いや、中にはギンギンというジーサンもいるかな。

 というわけで、つまるところ「猥褻」かどうかなんて、法律や裁判所などで客観的に判断・判定できるような事柄ではなく、見る人間によってまったく違うということです。だから酒やタバコと同じで、青少年には刺激が強すぎるので見せないようにしましょうね、と制限を設けることは社会的に必要でしょうが、猥褻か否かを論じることにどんな意味があるというのでしょうか。

 このように、視座をちょっと変えればすっかり本質が明らかになることでも、それができないために遠回りしたり、時間や知恵の無駄使いをしていることって、案外少なくないんですよね。

 

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2014年5月 9日 (金)

進歩と調和

 

 ある企画で岡本太郎(1911-1996)を調べていくうちに、つくづく凄い人だと再認識しました。ギョロ目の風貌と大きな身ぶりで「芸術は爆発だぁ」が決まり文句で有名な人ですが、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」とテレビCMにも出演されていたせいか、今もって芸術家として正当に評価されていないように思います。

 

 ボク自身も、これまでは要するに「出たがり」の目立ちたがり屋だろうと考えていました。隣駅の渋谷駅構内には彼の大作壁画『明日の神話』が掲示されているので、身近に作品もあったわけですが、それがどうにも好きになれない絵だったのです。小田急線沿線には大学が多く、取材で行く時には井の頭線経由で下北沢乗り換えが多い関係で、渋谷駅を足早に歩きながら横目で何度も見たことがありますが、派手な原色を使っているにもかかわらず何とまぁ陰鬱で不快な絵だろうと感じてきました。

 

 けれども、仕事で仕方なく彼について知るうちに、日本人としては希有な破格の芸術家であると思うようになったのです。あの壁画にしても、1954 年にアメリカの水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸の悲劇がテーマなのですから、陰鬱な雰囲気は当然です。我ながらもっと早く勉強しとけよって恥ずかしく思いますが、予備知識ゼロの人間に意図した通りの印象を与える絵なんて誰でも描けるものではありません。

 

 そして、1970 年大阪万国博覧会の『太陽の塔』こそが「芸術は爆発だぁ」の頂点に位置する傑作であり、彼のすべてを象徴していると思います。ここで今さら紹介しなくても、その独創性はあちこちで解説されていますが、この万博のテーマを改めて思い返してみてください。

 

 いわく「人類の進歩と調和」。あははははは、進歩はともかくとして、「調和」ですぜ、皆さん。あの『太陽の塔』が「調和」しているかどうかなんて、見りゃ一発で分かります。きっと岡本太郎は「調和」なんてしゃらくせぇと思ったに違いありません。そもそも「進歩」と「調和」は相対立する概念ではないのか。それを無理矢理にテーマとして並立させた日本という国の偽善を直感して、ある種の怒りを込めて屋根を突き破ってしまったとするのはボクの考え過ぎでしょうか。

 

 仕事をする人は誰だって多かれ少なかれ我慢や妥協という「調和」を要求されます。けれども、それだけじゃあ「進歩」なんてできないんだぜと、半世紀近くを経た今でも「太陽の塔」はボクたちに語りかけているような気がするのです。

 

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2011年9月16日 (金)

恵比寿の盆踊り

 

 旬をとっくに過ぎた話題で大変に恐縮ですが、「盆踊り」について一言。

 

 東京・恵比寿でも毎年、駅前でヤグラを組んで盆踊りをやっていますが、どうにも魅力を感じないのです。なぜだろうと、ずっと考えていてやっと分かりました。踊る人が高齢化しているからです。それに古臭い民謡ですから、親戚縁者以外は興味を感じないに決まっています。

 

 もともと、盆踊りはダンスなどと同じく、要するに恋人探しの場であったろうとボクは勝手に推測しています。ピチピチの若い娘が艶やかな浴衣姿で踊っていれば、若い人はもちろんお年寄りだって、明かりに群がる虫のように集まってきますってば。それで「あの娘はどこの村の誰の子だぁ?」なんて会話が始まり、当日あるいは後日にアタックしてみるなんてことが行われていたのに違いありません。

 

 いわば、リアルな場での「出会い系イベント」が、盆踊りの本質的な機能だったのではないでしょうか。

 

 ところが、それをきちんと認識しないで、「昔からの風習」で盆踊りをやっているところが少なくないのです。ボクはここに断言しますが、世代交代して若い娘が参加しない盆踊りに意味はほとんどなくて、いずれ衰退あるのみと思うのです。

 

 とはいうものの、この盆踊りには、高齢者の社交の場という意味もあって、それはそれで楽しみにしている人もいるかもしれません。それに対して、若い娘はクラブやディスコ以外の踊り方なんて知りませんから、よほどススメられても参加しないでしょう。かくて娘たちは盆踊りからハジキ出されようなカタチで、どんどん参加者が減少してきたのだと思います。

 

 ただ、郊外の新興住宅地ならいざ知らず、渋谷の隣駅の恵比寿でこれでは実にもったいないではありませんか。高円寺の阿波踊りなんて、若者が団体様で集まってきますからね。それと同じように、「恵比寿の盆踊り」も一気に「リアル出会い系」として活性化したほうが世のため人のためになるのではないかと愚考します。

 

 そのためには参加者を限定した日を設けましょう。たとえば、20歳未満に限定するとかね。会場の雰囲気もガラリと変えて、極彩色のレーザー光なんかで演出する。もちろん曲も今の、というところでボクの勉強不足がバレちゃいますが、ディスコミュージックやユーロビートとかいろいろあるじゃないですか。踊りだって、パラパラという現代版の盆踊りみたいなものがありますからね。

 

 でもって、女性の参加者には魅力的なグッズをギブアウェイする、と。男なんかハナから無視していいのです。若い娘が集まるというだけで、草食系だろうが肉食系だろうがワラワラ寄ってきますってば。

 

 早い話が、どんな女性でも、その夜だけはAKB48のメンバー気分になれるという盆踊り大会でございます。これが定着すれば、渋谷のセンター街で遊ぶ女子が、その夜だけはこぞって恵比寿にやってくるでしょう。

 

 そういうことをやらないで、地域の発展を徒手空拳でただ望むだけというのは怠惰ではないかと思います。商店街の皆様、興味があればぜひ。このアイデアは無料でお譲りいたします。

 

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2011年5月31日 (火)

文化の本質

 大学生の頃に長編小説に取り組んでいた先輩がいて、彼はある時に「チ●チ●とキ●●マが邪魔で仕方がない」と嘆いたことがあります。「これさえなければもっと打ち込めるのに」と。定期的にたまってしまう性欲が創作活動の障害になるという意味です。かの中国には宦官にされてから立派な歴史書を作り上げた偉人もいますからね。

 自分自身を振り返っても、性欲というのはロクな行動につながりません。いま思い出しても額からイヤな汗が滲み出るようなことは多々ありました。この先輩のように長編の力作の邪魔になるだけでなく、普通の男だって、それさえなければ間違いや無駄な行動、カネの浪費をどれだけ避けられるでしょうか。ボクだってエリートコースに乗っかって、今頃は大枚の貯金ができていたに違いありません、いや多分、おそらく、きっと、そじゃないかな。

 にもかかわらず、若い人の雑誌は今もって「こうすればモテる」なんていうアホな特集がしばしば組まれています。ああ、時代は変わっても、みんな同じように性欲に悩まされているんだと、ようやくちょいと高所から深く同情できるようになりました。

 ただし、実は「枯れる」はずの中高年だって、肉体は衰えているのに、性欲を司る大脳辺縁系がやたら元気な人がいます。このギャップがあまりに大きくなると、妄想がエスカレートして痴漢行為などに「つんのめる」とボクは考えています。それまでのスピードで歩いていると脳は思っていても、肉体は老化しており、自分を取り巻く社会環境も変わっているので、ある時にカクンと前のめりにつまづいてしまうのです。中高年の痴漢や性犯罪はおそらくそれが主な原因なので、逮捕して刑務所に入れるより、精神的なセラピーのほうが効果があるのではないでしょうか。

 珍しくこんなバカ話をするのは、ボク自身がそれなりに枯れてきたせいか、デザインやアートのすべては性的な表象だということを確信できるようになったからです。

 それを見て股間がどうにかなるという即物的なものではありませんよ。タナトスもエロスも感じさせないデザインやアートは、まったく魅力的ではないということです。死んだら死のことも考えられないので、タナトスもエロスも方向は正反対ですが、生きた人間だけが持てる情動に変わりありませんからね。

 逆に優れたデザインは、どこかに性的表象を隠し持っています。何気ない曲線の角のところかもしれないし、むしろ部分というより全体から醸成されてくる雰囲気でしょうね。合理的な幾何学も素敵ではありますが、どこかにちょっとした違和感がなければインパクトは感じられません。

 理性や理屈を超えたエロスを間接的に想像させることが、優れたデザインやアートの隠し味だろうとボクは思うのです。ダ・ビンチの「モナリザ」だって、ちょっと変なところがあるじゃないですか。

 ファッションなんかも典型的で、肌を見せる面積を広くすればセクシーでエロチックなんてほど単純ではありません。和服でもワクワク、ドキドキする時がありますからね。

 とにかく、こういうワクワクとドキドキを蒸留して純化して高度化していくと、優れたデザインとなり、より多くの人々を長きに渡って魅了するという仕組みになっていると思うのです。

 聞くところによれば、パンダは年間でたった数日間だけ発情するそうです。それにひきかえ人間は年がら年中でしょ。生きている限り、毎日といっていいほど性欲に呪縛されているわけです。人間は、この「業」から死ぬまで逃れることはできません。

 そう考えていくと、小説を書くこと、読むことだって背後にはエロスの葛藤なんてものがあります。それがなければ、実は文化だってあり得ないでしょう。かくて、すべての文化や芸術の本質はエロスあるいはタナトスなんだと、今さらながらに気づいたのであります。ちょっと遅いですけど。

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2011年2月 9日 (水)

競争忌避

 大相撲の八百長が話題になっていますが、これって日本の社会風土の悪しき側面を象徴していると感じます。というのも、建設業界などの「談合」なんか八百長そのものじゃないですか。政治献金による便宜供与も、官僚の天下りだって似たようなものです。

 どうやらボクたちは「公正な競争」が死ぬほど嫌いらしいのです。

 こうした行為は、法律やルールの上では八百長でも、相互扶助つまり「助け合い精神」と考えられなくもありません。旧知の力士が十両から陥落すれば給料がもらえなくなるというなら、何とか助けてやりたいと誰だって思うでしょ。どんなコトでも裏と表があるので、「八百長」は「間違った相互扶助」であると認識しておかないと、根絶するのは無理なんじゃないかなあ。

 ただし、ボクたちはすべての競争を嫌う「草食民族」ではないようです。もしそうなら入学試験も、狭き門の国家試験や資格試験が存在するはずがありません。問題なのは、ある段階を超えたところで、突如として「競争忌避」が発生することです。

 弁護士なんかは典型的で、旧試験は合格率3%の超難関。だからこそ合格者の利権が保護されていました。入口までは厳しい競争環境でも、いったん合格したら天国。このため、新制度によって有資格者が急増して利権が守られなくなると、途端に「合格者増員は抑制」という声が上がるようになり、行政はそれを追認しました。公認会計士も同様です。

 そして、企業における「年功序列」もまた、ある年齢を超えれば、仕事の質は別にして所定の給与と待遇を保障する制度ではありませんか。そのかわりに、安定した大企業への入社や公務員試験は難関であり、新卒は熾烈な競争を強いられています。

 ここで見られるのは、「上がり」という発想だと思います。ある段階までは必死に競争するべきだけど、「上がり」になったら、その身分や待遇は保障される。そのほうが楽チンだし、死ぬまで競争するような社会って辛いじゃないですか、確かにそうだよね、そうしよう、という多数の無言の意志共有が、そうした制度を作ってきたような気がします。

 ここで例にするのは大変に恐縮なのですが、大学教授も実はそうした側面があるようです。松野弘著『大学教授の資格』(NTT出版)では、以下のように指摘しています。

「例えば、助手から講師や助教を経て准教授、そして教授と序列を上がれば上がるほど、むしろ人数は増えてゆくのである。このことは少なくとも数字上では競争が発生する余地はなく、日本特有の年功序列型の昇進が保証されていることを意味する」

 若年人口の減少で、これがいつまでも続かないと分かってはきましたが、日本という制度のフタを開けてみれば、このような「上がり」が企業であれ大学であれ、公務員であれきちんと保証されていたわけです。だったら、何で大相撲だけがいつまでも天国と地獄を行ったり来たりする不安定な生活でなきゃいけないのか。せめてギリギリのところだけは融通をきかせようとなっても、決してヨコシマだとは言い切れなくなってきます。

 では、なぜこうした制度が生まれて、長く維持されてきたのか。かつては競争の当事者であったはずの若い人たちは、なぜ反乱や抗議をしないで、自らそれに組み込まれていったのでしょうか。

 ボクはおそらく日本が「閉じた社会」だったからだろうと考えます。閉鎖社会では、その中で競争関係が完結するため、次第に変質して、今度は馴れ合いによる利権の維持へと向かうわけですね。

 これは、大陸の動物の個体差が極端に大きいのに対して、孤島の動物はほとんど同じようなサイズであることと似ています。大陸では極端に大きいか小さくないと食べられてしまう。けれども島には外部から強力な捕食者がやってくる脅威がないため、似たような個体のサイズでも生存を維持できるからと解釈する研究者がいます。実際に日本には身長2メートルを超える人ってほとんどいませんが、大陸ではそれほど珍しくはないですよね。

 その真偽は別にして、「閉じた社会」に独自の共存ルールが生まれてくることに不思議はないでしょう。日本は戦後長く「閉じた社会」だったのかもしれません。それが日本独自の「上がり」制度を作ってきた。

 ところが、この国はもはや閉じていることはできません。人口減少でジリ貧の国が閉じていたら、再び発展途上国に逆戻りしてしまいます。

 であるなら、日本という国内だけでなく、世界に向かって胸を張れるようなルール、法律、そして制度や文化風土を新しく作っていかないと、もうダメなんだと。そうした意味では「日本独自」や「伝統」という言葉の独善的な側面も意識するべきでしょうね。

 そういうことを今回の八百長事件は教えているのだとボクは思います。

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2011年1月29日 (土)

ジュネーブサロン2011雑感(4)

 腕時計は、ご存じのように機械式とクォーツに大別できます。セイコーの「スプリングドライブ」というハイブリッドもありますが、一般的には機械式からクォーツに進化してきたと認識されているように思います。

 そうした考え方はずっと以前の常識であり、今ではムーブメントを機械工学で作るのか、それとも電子工学をベースにするのか、で分けたほうが正解ではないでしょうか。つまり、機械式ムーブメントという500年以上の歴史を持つ系統樹が、1970年代になって2つに枝分かれしたのであり、クォーツが電波時計を生んだように、機械式時計もまったく別種の進化を続けています。

 そして、この機械式のおそらく最先端ではないかとボクが考えるのが「リシャール・ミル」というブランドです。デビューが2001年、つまり21世紀になってからというのも象徴的ではありませんか。しかも、最初からトゥールビヨンをラインナップしていましたが、古典的な技法ではなく、「時計界のF1」をコンセプトとして、最先端の素材や新しいテクノロジーをふんだんに導入していました。

 もっと驚かされるのは価格で、今年のジュネーブサロンでは600万円台が最も安くて、3000~4000万円以上の時計もちっとも珍しくないのです。中には宝飾をセットしたモデルもありますけど、そうでなくても家一軒分を上回るようなお値段のモデルがあります。

 メチャ高ですけど、それだけのテクノロジーと希少性による高い価値があって、みんながそれを認めるからバックオーダーをかかえるほどの人気を維持してきたわけです。

 では、どんな最先端技術なのか。

 このプログは宣伝ではなく、メカを説明しても長くなるので、ケース厚が僅か8・7ミリという超薄型手巻きトゥールビヨンのニュースリリースから用語だけを列記します。「チタン製地金」「可変慣性フリースプリング・テンプ」「高速回転バレル」「ギア・ブロックによる安全装置」「ファンクション・セレクター」「トゥールビヨン・ケージの軸受け石にセラミックを使用」「ブリッジにグレード5のチタン製スプラインネジを使用」などなど。

 その詳細は時計専門誌などを読んでいただきたいのですが、2001年にデビューした当時から、「ハイテク機械式」と呼ぶにふさわしい時計だったのです。

 老舗の時計ブランドは懐中時計の頃からの技術を継承して改革・改善しており、新しい調速脱進機構にも果敢に挑戦しています。フィリップ・デュフォー氏は逆に、敢えて昔の技法の継承にこだわった時計づくりを続けています。

 ところが、リシャール・ミルは、それこそ大学の機械工学の研究室で新しい時計を作ったようなものと考えられます。どちらがどうの、ではなくて、そんな方法もあり、こんなやり方だってあるということです。

 新作の「RM038トゥールビヨン、バッバ・ワトソン」では、ムーブメントをチタンのバー(ロッド)が支えており、ショックアブソーバーの役割を果たすワイヤーも付けられているので、おそらく建築工学も導入されていると思います。

Rm038_front

 さらに驚愕させられるのは、超複雑機構であるトゥールビヨンの時計を、有名なFIドライバーやテニス選手がレースや試合で腕につけてきたということです。この新作も、製品名にあるように、アメリカのプロゴルファーがラウンド中につけると言われました。「この人のドライバーは飛ぶんですよねえ」と日本のプレス担当者は語っていましたが、これは機械式時計をちょっとでも知っている人には仰天することなのです。

 機械式時計はテンプの往復運動で定時性を確保しており、このテンプの軸はコンマ数ミリという細さです。その軸をインカブロックという耐衝撃部品が支えてはいますが、強いショックを与えれば軸がズレて動かなくなります。だから、「ゴルフなどの時には外したほうがいい」というのが常識ですけど、それがアナタ、金庫なんかにしっかりとしまっておきたい超高価な超複雑時計のケージがぐるぐる回るトゥールビヨンでやってしまうというのですから、恐れいりました。

 以前に、リシャール・ミル氏(オーナー・ブランドなので)は、オーバーホールで戻ってきた時計が傷だらけだと、むしろ満足そうにしていたと聞いたことがあります。いくら高級複雑時計だろうが、時計は使ってナンボじゃないか、国宝みたいに扱ってどうする、という心意気なのでしょう。

 ブレゲが発明した時計技術から隔絶したブランドに見えますが、それでも機械式時計としてのルールやコンテクストは継承しているはずです。こういうところが、スイスの時計産業の厚さというか深みなんだろうなと関心するわけですね。

 ボクたちにはとても手が出ない価格の時計ですけど、内部を見れば見るほどメカ好きは惚れるに違いありません。

 こういう時計もあるんだということで、ご紹介しました。

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