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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

日記・コラム・つぶやき

2017年9月20日 (水)

敬老の日

 

 政治的な産物という理由から国民の祝日にまったく興味がないので気づかなかったのですが、9月18日の月曜日は敬老の日だったそうです。ということは、この日以外の364日は「敬老」しなくてもいいってことでしょうか。

 

 何もそんなにヒネくれるこたぁねぇだろと思う人もいるでしょうが、電車にシルバーシートがあるおかげで、そのほかの場所に座っていたら譲らなくてもいいと考える人もいますからね。自分の前にヨレヨレに疲れ果てた雰囲気のお婆さんが腰を曲げて辛そうに立っているのに、頑なに(とボクには思えましたが)スマホでゲームをやり続けている若者を見たことがあります。彼はいつか必ず自分も同じようなお年寄りになるとは想像できないんでしょうね。

 

 とまぁGG(爺の略)の繰り言みたいなことから始めてしまいましたが、ヨーロッパに比べて、この国は老人と古いものに冷淡だと思わざるを得ません。イギリスやフランス、スイスなどの先進国だけかも知れませんが、老人に敬意を払っていると感じられた体験は少なくありません。それにアンティークの売買が盛んなことから分かるように、古いものをとても大切にしています。だから日本のように老朽化した建物をやたらに壊して建て替えるなんてことはしないわけです。Preservation Areaという「保存地区」があちこちにあり、そこではむやみな改築も禁じられているくらいです。日本でも重要文化財は何種類もありますが、建物単独ではなく、地区全体の保存指定は自然環境を除いて希有ですよね。

 

 もちろんカネや権力を持つお年寄りと、観光客が集まりそうな古い建築はとても大切にされます。けれども、維持・保存に手間とコストがかかるだけのお年寄りと建造物は、ほとんど「容赦なく」見捨てられてきたというのは言い過ぎでしょうか。

 

 つまり、この国ではガンなどの病気も身障者もそうですが、老いることは現役からの引退または退場と見なされてきたのです。心身ともに健康で若いことに最重要な価値があることは、申し訳ないけど芸があるとはとても思えないユニゾンの歌に同じ振り付けで踊る女子団体の人気がちっとも衰えないことが象徴しています。女子アナだって「30歳定年説」が今もってあるらしいので驚いてしまいますけどね。こんな説明以前に「GGなんて足手まといじゃないか」と、若者のみならず、政治もそのように考えているフシがあるんだよな。

 

 このブログで何度も書いてきましたが、誰だっていつか足腰が弱ったジーサンやバーサンになるのをコロリと忘れているか、想像力という知性に欠けているとしか思えません。このように指摘すると「海外だってビジネス社会は同じじゃないか」と反論する奴がいるんだよな。確かにその通りかもしれない。でもね、そんなのは、みんながやっているから自分も悪いことをやっていいという理屈と変わりないじゃないですか。こうしたほうがみんな生きやすくなるという理想があるなら、それを目指すべきです。そんな優しい国は世界のどこにもないというのであれば、だったら日本で実現してやろうじゃないかとどうして考えないのかなぁ。

 

 東京の谷中(台東区)は奇跡的に空襲を免れたせいか、古い建物が数多く残っていますが、近年になってそれが見直され、観光客が増えています。それと同じように、エイジング=経年変化=老化そのものが価値をもたらすんですよね。

 

 人間も建物も、何事もなく平穏無事に、風雨や雪などの影響を受けずに老いていくことはできません。ということはシワの1本1本、亀裂の1つひとつに貴重な歴史が刻まれており、それこそが新品の人間や建物には絶対にあり得ない個性であり魅力であることを、もっと多くの人が意識すべきです。

 さらにいえば、老人を大切にするということは、必然的に老人予備軍である若者も壮年も、つまりは人間すべてを大切にすることになるので、利害は決して相反しないのでありますよ。

 

 そうしたもろもろが無視された名前だけの「敬老の日」なんて、むしろないほうがいいとすらボクは思うんですけどね。

 

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2017年9月19日 (火)

触媒型人材

 

 昨今はあまりにもカタカナが多過ぎるので、できるだけ日本語を使おうと考えていたら、こんなにご大層なタイトルになってしまいました。

 

 いえね、近頃は日本経済新聞の連載コラム『私の履歴書』を愛読しております。その前は国務大臣を歴任した某政治家の手前味噌な自慢話に辟易して敬遠していたのですが、筆者が湯川れい子に変わってから現実感のある逸話が続いており、ついつい引き込まれて愛読してきました。その感想を発展させると、「触媒型人材」という大仰なことになってしまうわけですね。

 

 彼女の肩書きは、コラムでは(音楽評論家・作詞家)となっていますが、時代がズレているせいか、ボクにはあまり馴染みのある人ではありません。ただ、このブログで以前に『恋に落ちて』を紹介した時に、作詞が彼女だったことにちょっと驚いた記憶があります。評論家の方面で大御所的な存在だったことくらいは知っていますが、作詞のセンスも並外れていたからです。

 

もしも願いが叶うなら

吐息を白いバラに変えて、

逢えない日には

部屋中に飾りましょう

あなたを想いながら

 

 ネガティブなためいきを白いバラに変えて部屋を飾るなんて、非才凡才のボクにはとてもじゃないけど思いつけません。どんな生き方をしてきた人なのかなと興味が惹かれるではありませんか。

 

 本日で連載は18回目になりますが、まだジャズ評論家としてデビューしたばかりの若き日々が綴られております。それまでに彼女には2人の男が関わってきました。1人は子供の頃から実家の2階に下宿していた許婚者の「進さん」、そして2~3日にせよ駆け落ちまでした「直也」です。この呼び方だけで、彼女が彼らにどんな距離感を持っていたか分かりますよね。「進さん」とは後に離婚しますが、親の言いつけを守って結婚しています。一方の直也は医者の息子ですが、勉強そっちのけでジャズ喫茶などに入り浸るプレイボーイでした。

 

 湯川れい子は、この「直也」から感化されてジャズの魅力を知り、やがて見込みのなかった女優をやめて音楽評論家に転進。その黎明期に、来日した外国人ジャズ・ミュージシャンの単独インタビューに成功していますが、これは「進さん」が陰で英語力を発揮して協力したおかげといっていい。つまり、2人の男が彼女の成長に大きく寄与しているということになるわけですな。

 

 言うまでもなく本人の才能や努力もありますよ。ただね、きっかけを作ったのは、やはり彼らだろうと。そして、彼女が有名になると同時に世界が変わり、次第に疎遠になっていくんですよね。そのあたりのことが本日は正直に書かれていたので抜粋します。

 

「直也にしてみれば、恋人の湯野川和子がいつの間にか湯川れい子になり、世間に名前があふれてきた。瞬く間に遠い存在になったことだろう。直也もまた何も言ってこなくなった」

 

 自分と周囲の見方をきちんと客観的に認識できる人だなぁとボクは感心しました。そして、渋谷の宮益坂あたりでタクシーの車内から偶然に彼を見かけて「『相変わらずカッコいいなあ』。一瞬そう思ったけれど、視線を前に戻して真っすぐ延びる道路を見つめた」とあります。実にクール、ですよね。過去を振り切って自立していく女性象というのは、この頃から定着していったのでしょうか。ボクは男のせいか、ちょいと直也に同情してしまいますが、男女がところかわった類似の別離なんて山のようにありますからねぇ。

 

 それはそれとして、この2人の男たちは、彼女にとっては「触媒」のような役割を果たしたと考えられます。つまり、化学変化を促進する物質なわけです。そして、この触媒は化学変化の影響をまったく受けず、その前と同じ状態で存在することも特徴とされています。

 

 でね、牽強付会と言われそうだけど、このように意識せずに他人に影響を与える「触媒型」の人材がいるような気がするのです。その影響を受けた人自身も、気がつかないうちに他者の触媒になっていたりする。どちらも最も肝腎なことは、そもそも他者に対する関心や興味がなければ、触媒効果を受けようがないってことです。だからといって、無批判に影響されて模倣したり、亜流になるということでもありません。そのままでも変わり得る土壌があることが大前提であり、それを刺激して変化を促進するのが触媒ですから、やはり素材というか、才能や感性や知識などの蓄積があって初めて化学反応できるってことです。

 

 というわけで「触媒型人材」がいれば、職場も変わると短絡的に言い切れないのですが、少なくともそうした人材がいるかも知れないという視点は大切なんじゃないかな。どうもね、近頃の世の中は「結果を出す」という造語が典型的ですが(こんな言い方を昔はしなかった気がします)、効率やら生産性ばかりが取り沙汰されているように思うので、ちょっとした変化球を投げてみようかなと思った次第です。

 

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2017年9月15日 (金)

エスカレータ

 

 足を踏んだ人に、踏まれた人の痛みは絶対に分からない、なんて言われます。自分で自分の足を踏んで確かめるというややこしいことができれば、直ちに「ああそうだよな」と自覚できますが、少なくともボクはそんな器用な格好はできません。けれども、人間には他者を慮ることができる想像力というものがあるじゃないですか。

 

 それがまったく機能していないんじゃないかと、いつも不愉快に感じるのがエスカレータです。最近は注意を喚起するポスターも貼られていますが、あの自動昇降階段(近頃はカタカナ英語が多すぎなので)はドカドカと上り下りしてはいけないのです。手すりに手を置いてじっと立っているのが基本であって、その横を駆け抜けてはいけない、というより大変に危険なんですよね。

 

 たまたま身じろぎをした腕の肘にぶつかるなんてことがあれば、両方とも真っ逆さまですぜ。長いエスカレータなら複数の人を巻き込んだ重傷事故になりかねません。にもかかわらず、どういうわけだか昔から東京では右側を開けておき、大阪では逆に左側を開けて一列に並んでいるので、あたかもそれが追い越し車線のように考えられているようです。2人並んで立っていると、後ろから舌打ちが聞こえるくらいですもんね。

 

 あまりにも不愉快なので、じっくり観察していると、この追い越し車線をドカドカと昇降する人には共通項があります。まず健康で元気で心肺能力が高い、ってエスカレータを駈け上ったり降りたりするんだから当たり前ですが、とりわけバックパックを背負っている人が目立つんですよね。このバッグはラッシュアワーの混雑した電車では大変に迷惑なものとなります。それに気がつく社会性の高い人は、手に持ち替えたりしていますが、そうした配慮ができない人はどこにでもいますよね。でね、そうした人たちがエスカレータをドカドカ行くわけですな。

 

 ボクだってしたことがあるので、あまり厳しくは言いません。でもさぁ、もしそんなに急ぐなら、余裕をみて30分くらい早く出るようにしたらいのに。うまく言えないんだけど、もっとエレガントに生きるようにしませんか。何があっても慌てることのない泰然自若とした態度は、目先の利益を求めて小賢しく立ち回る連中よりモテると思うぞ、んじゃないかな、に決まっていますよね。とにかく、そういうことにしとこうよ。

 

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2017年9月14日 (木)

感性の言語化(後)

 

 昨日は威勢のいいことを書いてしまいましたが、そもそも言語というのは感性を表現するために生まれたといっていいんですよね。けれども、文化や文明が発展するうちに、論理や解説的な言辞が優先され、さらには理系の科学やテクノロジーのほうにも偏ってしまい、本来はボキャブラリーがどんどん蓄積されていかなきゃいけない感性的な分野が置いてきぼりになってしまったのではないでしょうか。

 

 ボクの仕事では、その代表的な分野が「味」であり、次に「景色」ということになるわけです。いずれも形容表現が未発達なせいか、手垢にまみれた慣用句が少なくないんですよね。たとえば「味」なら「ジューシィ」だとか、「脂っぽくなくてあっさり」とかね。ボクが最も抵抗を感じたのは、生シイタケを焼いたものを「ジューシィ」とした文章です。いくら水分が豊富としても、菌類が集まったキノコが果たして「ジューシィ」かなぁ。シイタケに歯をあてた瞬間に汁が吹き出るようなイメージですよね。これは逆に乾いていないことを強調する「しっとり」と表現したほうが適切ではないでしょうか。「脂っぽくなくてあっさり」に至っては、ちっとも美味しそうに思えません。パサパサで味気ないってことかなぁ。そんなのよりも「脂っぽくてギトギト」のほうが旨そうに感じるのはボクが男だからでしょうか。

 

 景色についても類型的な慣用句はかなり多くて、秋も深まってくると「燃えるような紅葉」が頻出します。しかし、そこまで深紅に染め上がった紅葉は現実には珍しくて、黄色や褐色やオレンジ色や赤が入り混じったほうが多くはないですかねぇ。そうした色彩混淆状態は「燃え上がった」とは言えませんが、ではどのように形容したらいいでしょうか。

 

 そんなわけで、ついありきたりな慣用句を使いたい時に「ちょっと待てよ」と心にブレーキをかけ、「さてどうしよう」と迷うことが本当に多いのです。文章というのは基本的には誰でも書けますが、ことほどさように適切な形容というのは誰でも思いつけるものではありません。その意味では最初に「燃えるような紅葉」を発明した人はすごいと尊敬してしまいます。けれども、慣用句となった段階で、そんなことは忘れてしまい、みんながあたかも自分の言葉のように使ってしまうんですよね。

 

 かといって特許を取得できる科学分野とは異なり、言葉の権利を占有されたら、人間の会話はどんどん不自由になってしまいます。そんなわけで、こうした微妙かつ繊細&複雑な狭間で、ライターはオリジナルな表現を探すことに腐心しているんですよ、ということをちゃんと伝えたくて、グダグダと2回も続けてしまったわけですね。

 

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2017年9月13日 (水)

感性の言語化(前)

 

 ここ2年くらい、新しい分野として「味」の表現に挑戦してきました。というのも、グルメ関連の記事はインターネットも含めて山のようにありますが、「うまーい」「おいしーい」「さっぱりしてる」「トロトロ」といった曖昧なものばかりで、他者に味を正確に伝達した文章はほとんどないといっていいからです。

 

 素材の特性や調理方法、栄養価、店内の雰囲気やインテリア、それに店主の人柄といった周辺情報にはおよそ事欠かないのに、肝腎の料理の味についてはまるきりスルーされた記事ばかりではないでしょうか。「旬の味」というなら、具体的にどんな味なのか。旬とそうでない時期とどのように味や食感は違うのか。そこまで掘り下げた記事にお目にかかることは滅多にない、というより、ボクは読んだことがありません。小説などの文芸方面は別ですけど、こちらは芸術的&私的な感情が強過ぎて一般的とはいえないと思います。

 

 だったらオレがやってやろうじゃないの、と果敢にチャレンジしてはみましたが、いやいや相当に難物なことを痛感しました。たとえば焼肉にしても、あなたはどのように旨さを友人・知人などに説明しますか? 「すっげぇ美味しい」とか「甘辛のタレが絶妙」「肉が柔らかい」程度で、実は肉の味については何も言っていないのと同じですよね。テレビのグルメ番組のリポーターも似たようなもので、芸のないタレントほど食べた後に数秒の沈黙を経て、「んまーい!」と大げさに顔をしかめる。それで視聴者に味が伝わるはずがない。

 

 実は味の基本要素は、甘味・酸味・塩味・苦味・旨味の「五味」とされています。だから「あまーい」「すっぱーい」「しょっぱーい」「にがーい」と言えば、味の概要は何とか伝えることができます。重ね技として前述した焼肉のタレのように「甘辛い」「苦甘い」という表現でも、その複雑さを感得してもらうことは可能です。

 ところが、ですよ。「旨味」だけは、いくら「うまーい」と連呼しても、食べていない側には見当もつきません。「どのようにうまいんだよ」「とにかく頬が落ちそうなくらいで」「頬が落ちそうというのは?」などと禅問答を繰り返すことになりますよね。

 

 つまり、味の表現というのは、この形容不可能とすら思える「旨味」を説明することが基本になってしかるべきなのに、それができていないのです。

 

 言語表現がほとんど沈黙してきた未踏の分野といっても過言ではないとボクは思いますが、科学的には「旨味」の成分はすっかり解明されています。ウィキペディアによれば、主としてアミノ酸であるグルタミン酸、アスパラギン酸、それにイノシン酸、グアニル酸、キサンチル酸など。歴史をたどれば、1908年にダシ昆布から初めて発見された旨味成分がグルタミン酸です。続いて18年には鰹節からイノシン酸、ちょいと飛んで57年にはシイタケからグアニル酸が発見されました。

 

 このように特定の成分が抽出でき、その分子構造が解明できれば、化学合成も可能になります。それで前述のグルタミン酸をベースとして1909年に商品化された新しい調味料が、「味の素」なのです。

 

 しかしながら、だからといって「旨味」が言語として表現されたわけではありません。たとえば乾しシイタケはグアニル酸をたっぷり含んでいるので旨い、といわれて誰が納得できますかねぇ。そんなシイタケから取ったダシの深いコクをどうすりゃ他人に分かってもらえるのか。

 

 そんなわけで、ボクは旬の食材を相手に孤軍奮闘を繰り返してきたのですが、またまた感性表現に強敵が加わりました。それは「景色」であります。たとえば絶景といっても、何がどう絶景なのか。これからの時期なら紅葉ですけど、取って付けたような「燃えるような紅葉」ばかりではないですよね。それを見て感動することをどのように表現するかも、やはり未踏の領域なんだよなと再認識したのであります。つい長くなったので、続きは明日ということで。

 

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2017年9月 8日 (金)

何様?

 

 9月1日のブログ「事前規制と事後摘発」で、2000年前後からの規制緩和の流れがいつの間にか立ち消えたようになり、むしろ揺り戻しの気配が濃厚ではないかと指摘しました。

 

 それを象徴する最近の事例が、東京23区内の私立大・短大の定員増加を認めないという文部科学省の政策です。いくら地方経済が不振とはいっても、これはちょっと違うんじゃないかな。地方の大学自身が魅力を高めていくのが本筋ですよね。そうした大学は実際に少なくないのですから、それを模範として個性的な教育改革を進めることで地域の学生を引き留めるだけでなく、逆に首都圏からも学生を呼び込めるような自助努力を促すべきでしょう。

 

 大昔にも似たような規制を実施したため、大学のキャンパスが相次いで東京郊外に移転した時期があります。けれども、21世紀になってから都心回帰の動きが顕著になってきたではありませんか。少なくとも、私立大学の定員を国があれこれ指図するなんていうことは、およそ自由民主主義あるいは市場経済とは思えません。国から莫大な運営費交付金が出ている国立大学法人ならともかく、それぞれ固有の建学の理念に基づいた「学問の独立」が保障されているはずではありませんか。だったら入学定員だって自由であるべきでしょう。

 

 厳密にいえば、私立大学といえども1968年から国の補助金が出ています。当初は「私立大学教育研究費補助金」として計上され、70年には専任教員の人件費も含めた「私立大学経常費補助」という大きな枠に改定されました。でね、この補助金の額が70年代に猛烈な勢いで増加していったわけです。その責任者や意図や背景は皆さんの想像にお任せしますが、私立大学はそれまで国のカネなんてアテにできなかったのですから、下世話な表現かもしれませんが、これが「ヒモ付き」の始まりとも言えるわけです。

 

 こうして国に逆らえない状況を作っておいてから、定員も含めてやたらに規制したり音頭を取ったり、ついでに天下りするというのは卑怯というか姑息というか、実に巧妙至極なやり口というほかありません。しかしながら、1980年代に行われた医師抑制政策が地方の医療崩壊を引き起こしたように、もはや中央政府の思惑通りにコトが進むような単純な社会構造ではないですよね。

 

 かといって、何もかも市場のメカニズムに任せて自由を貫けば、煽りを受けるのは弱者です。だからこそ、できるだけ事前規制を緩和すると同時に、事後の監視・摘発・救済を進めるというのが複雑化・高度化した社会に必要な政策ではないかと。それをしないで単に蛇口を締めたり開けたりなんていうのは、いったい何様の仕業かよとボクなんかは感じてしまうのであります。

 

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2017年9月 7日 (木)

裁縫男子(後)

 

 小学校の家庭科で裁縫を習ってから、面白がって母親のミシンを使った布袋づくりに凝ったこともありますが、独身生活になってから感謝しているのはボタン付けです。

 

 ボクが着ている安物のワイシャツの多くは、経費の関係からボタンが簡単に留められているせいか、すぐに糸が緩み、ほぐれてしまうことがしばしばあります。今よりも10キロくらい太っていた頃は、胸から腹のボタンで目立ったように思います。横方向に強い圧力がかかるからかな。ところが、取れてしまったボタンはもちろん、ヨレヨレになって取れそうになったボタンを付け直してくれる専門店なんかないわけですね。そんなことをいちいちリフォーム屋さんにお願いするのも面倒じゃないですか。

 

 だったら自分でやってみようとなり、子供の頃に教えられたに違いないボタンの縫い方をすぐに思い出したことに我ながら感心しました。とはいっても、針に糸を通してボタンの穴に十文字に縫い付けていくだけですけどね。これだけやっておけば十分となった段階で、さらにボクの場合はボタンの根っ子に糸をグルグルと回してしっかりと固定します。これは上着の大型ボタンのやり方であって、シャツの小さなボタンでは過剰な処理かもしれませんが、それをしないと気が済まないんですよね。このため、ボクが縫い付けたボタンが再び緩むことは決してありません。

 

 このグルグルの後で裏側に針を刺し抜き、今度はその針に糸をグルグル巻いてから抜き取るわけですね。この時に針に巻かれた糸を指でしっかりと押さえておかないと、結び目がだらしなくなって仕上がりが醜くなります。

 

 ダイエットが成功して腹が引っ込んでからはファッションに興味を持ったので、袖口のボタンを付け直すことが多くなりました。手首ギリギリの幅ではスーツの袖口からシャツが見えなくなってしまうので、親指の付け根にかかる程度で止まるような位置にボタンを縫い直したり、厚みのある時計が袖の中に収まるようにしたこともあります。体形にもよりますが、既製品のシャツはこうした細かい手直しが不可欠となるので、ボタンの縫い方を習っておいて本当に良かった。社会に出ると算数も役立つけど、裁縫も極めて有用な実学ですよね。

 

 さて、いよいよ本題です。ボクはつい最近になって知ったのですが、スーツやジャケットのアームホールの下部に、汗止めのための脇当てパッドなるものがあります。裏地と同じ素材による半円形の布ですが、上着の裏側にきっちり縫い付けられているわけではなく、下端が1.5㎝くらい浮いた状態で糸止めされています。上着を着た時に所定の位置に納まるような配慮だと思いますが、このため普通の糸では保たないので、三つ編みのように捩れた感じで縫い付けられています。

 

 でね、ボクが愛用してきた夏のジャケットで、右側の脇当てバッドの糸が切れていることを発見したのです。そんな糸の捩り方を勉強したことはなく、さりとて普通の糸ではすぐに切れることは間違いありません。これには困りました。参考までに他のジャケットを調べてみると、バーゲン品ではそれほど美しく捩られているわけではなく、要するに強い糸を2~3回捩りながら縫い付ければいいと分かりました。

 

 では、そんなに強い糸をどこで購入したらいいか。しかも裏地の色はボルドーなので(お恥ずかしい)、赤い糸が欲しいじゃないですか。女性と一線を越えそうな時に、脱いだジャケットの脇当てパッドを留めている糸の色まで気にすることはないはずですが、やはりボクとしてはイザという嬉しい時のために同色にしておきたい。

 

 それで思い出したのがユザワヤであります。女性なら知名度はほぼ100%といっていい裁縫&手芸関係の名門ですが、近年は都心部の店舗閉鎖が相次いでおり、新宿店も今はありません。けれども、ネットで調べてみると何と超都心に立地する銀座コアの中にあるじゃないですか。さっそく銀座まで足を伸ばし、店員さんに相談して首尾良く赤の強い糸と、ついでに糸通しも購入。この時に、1度は銀座から撤退したものの今年4月に再オープンしたと聞きました。この経営判断は賢明だと思うんだけどな。

 

 おかげさまで脇当てパッドの補修も無事に完了。裏側のことだからどうだっていいとも言えますが、やはりちゃんとしているほうが自信を持って着用できるではありませんか。ということで、ボクは裁縫男子というより、裁縫補修男子と呼ぶのが正解かもしれません。いずれにしても、男だって料理と洗濯とアイロンがけと裁縫の基礎くらいはできたほうがいい。ジーサンになってから離婚する可能性だってあるので、そんな時に困らない程度には覚えておくべきでしょう。それに比べて昔の男は、少なくとも家の中ではものすごく楽をしていたんだなぁと、ちょっと羨ましくなりますけどね。

 

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2017年9月 6日 (水)

裁縫男子(前)

 

 ちょっと前まで趣味を訊かれたら「アイロン!」と答えようと思っていました。この年齢になってファッションに興味を持った関係か、それとも粘着質の性格のせいなのか、日々の手入れに余念がないというだけでなく、スーツやジャケットを着たら、その日のうちにきっちりシワを取っておかないと気が済まないというオブセッション=強迫観念を持つようになってしまったのです。

 

 けれども、義務教育の家庭科で料理や裁縫の基礎は習ったものの、残念ながらアイロンは含まれていませんでした。だから最初の頃は、まさに鬼のように熱い鉄の塊を衣服に押しつける、みたいなことを繰り返していたのです。

 でね、そのうちにアイロンのコツは「北風と太陽」だということが分かってきました。ご承知のように、いくら北風がビュービュー吹きすさんでも旅人は外套をしっかり掴んで放しません。ところが太陽が暖かい日差しを向けると、旅人は自ら外套を脱いだので、太陽は「ホラ見ろ、オレのほうが強いだろ」と自慢するイソップ物語ですよね。内容的にはかなり違いますが、スーツなんかの根深いシワもそれとよく似ています。

 つまり、アイロンをいくら強引に押しつけても布を傷めるだけで完全にシワを取ることはできないのです。ある時にたまたま、ボクが使っているのはスチームアイロンだったことを思い出して、テフロンがコーティングされた鉄板ではなく、スチームのボタンを押してシュハッと吹き付けてみたのです。女性からは「今ごろかい!」と大笑いされそうですが、一人暮らしのオッサンの家事なんて、そんなトライアル&エラーの繰り返しなんですってば。

 

 するとですね、アララララ、これまでややこしくて仕方ねぇなぁと悩まされてきたズボンの股あたりで重なった細かなシワが、「ウァワォッ」と驚くほどスイスイと取れるではありませんか。これにはホント心底から感動しました。

 ついでに、以前から気になっていたけどうまく取れなかったズボンの横の細いシワにもチャレンジ。こちらはさすがにシュハッの回数は多くなりましたが、雲散霧消させることに成功いたしました。

 

 つまりですね、日常的なシワを取るだけなら、スチームアイロンのスチームだけで必要十分なのです。鉄板部分を押し当てなきゃいけないのは、男の場合はズボンのセンタークリースの復元程度といっても過言ではないでしょう。上着にはそんなラインはないので、スチームのシュハッシュハッだけしかあり得ません。仮にボクのような素人がアイロンの鉄板を無理に押し当てたら、逆に衣服にヘンなクセをつけることになるはずです。

 

 マジで「それ早く言ってよ!」みたいな大仏開眼(違うか)だったのであります。そんなわけでアイロンがけの時間も大幅に効率化&削減。帰宅したらスチームのシュハッシュハッだけで原状回復です。

 

 そんなわけで、もはやアイロンは日々の小さな習慣となり、趣味と呼びたいほどの深みも奥ゆきもスキルアップも不必要となりました。それで話は終わりではなく、このオッサンは次に裁縫を趣味にしかねない勢いなんですな。それについては明日ということで。。。。

 

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2017年9月 5日 (火)

理想を語れ

 

 自由ではあるけど飢えてひもじい状態と、不自由だけど取りあえずメシには困らないという状態、あなたはどちらを選びますか。

 

 こうした対立命題を提示すると、様々な視点から意見を出すことが可能になるので議論は活発になります。けれども、そんなことを延々と討論したところで仕方ないですよね。なぜなら、ボクたちが目指したいのは、そのどちらでもないからです。

 

 つまり、自由だけど飢えるというのはイヤだし、メシに困らないからといって不自由なのもイヤじゃないですか。だったらさぁ、自由で日々のメシにも困らない状態をどうやって作るべきかを論議すべきであって、どっちに転んでも不満が残るような対立命題にこだわるのは時間の無駄というほかありません。アタマの体操にはなりますけどね。

 

 随分前に「カレー味のウンコとウンコ味のカレー、どちらかを選べ」という究極だか悪魔の選択が流行しましたが、これもまったく同じことであって、どっちもイヤに決まっているじゃないですか。ボクはカレー味のカレー以外は絶対に食わねぇぞ。

 

 にもかかわらず、政治や行政というのは、敢えて国民にそうした対立命題を提示することで、本質から目をそらせることがしばしばあります。たとえば良質な医療を維持するためには保険料を上げなきゃいけない、いわく老後を豊かに過ごすためには支払う年金または税金を大幅に上げないと無理とかね。ホントにそれってトレードオフ=二律背反の関係なのかどうかロクに検証されてもいないのに、いきなり「さてあなたはどちらを選びますか」みたいなテーマで選挙に突入することだってあったじゃないですか。郵政民営化が本当に必要だったかどうかを今になって見直す人はもはやいませんけどね。

 

 こうしたやり口は政権政党の常套手段でもあるので、それに対する野党は逆に「自由でメシにも困らない状態」あるいは「カレー味のカレー」という理想を語らなきゃいけません。仮に政権政党から「財源がどこにあるんだ!」と詰問されたら、「取りあえず私たちの政務活動費から削ろうじゃないか」くらいのことを即座にオウム返しで言えなくてどうするのさ。そうした無駄の徹底排除と絶えざる監視、その上で予算を適正配分することが二律背反を解消する処方箋だとボクは思ってますけどね。

 

 というわけで、痩せても枯れても最大野党とされている民進党ですけど、まさか名前を変えりゃ禊ぎが済んだと思っていないだろうなぁ。新しい代表はテレビで二言目には「政権交替」と口走りますが、そんなものは手段あるいは短期的な目標に過ぎないじゃないか。もうカレー味のウンコなんて沢山だから、カレー味のカレー、あるいは無理目でも自由でメシにも困らない社会という理想を語れよ。

 この国の政治にはホント絶望させられます。隣の国からミサイルが飛んできたら、評論と解釈と分析ばっかりやたらに喧しくて、具体的な対策や意思決定は結局のところアメリカの出方を窺ってるだけ。何だかねぇ、ああ情けない。

 

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2017年9月 1日 (金)

事前規制と事後摘発

 

 来年度に学生募集する法科大学院がとうとうピーク時の約半数、39校に減少したそうです(日本経済新聞8月31日朝刊)。このブログでは書き飽きたテーマなので近頃は話題にしてきませんでしたが、もともとボクはこの制度に大反対であり、ついでに合格者数を予め絞ることも自由民主社会ではあり得ないことだと以前から指摘してきました。過去のブログならびにボクの著作など、その証拠を出せというならいくらだってあります。

 

 それと同じことを書きたくないので論点だけまとめれば、そもそものきっかけは司法試験合格者数を「2010年頃には年間3000人にする」とした2002年の閣議決定にあります。こんなことを政府が決定すること自体がおかしい。たとえば100点満点のうち80点以上なら合格という規則を70点以上に緩和するなら分かります。けれども、合格者数を増員ってどういうことでしょうか。入学定員が決まっている大学受験じゃないんですから。検察官や裁判官は公務員でも、弁護士は民間で活躍する専門職です。そんな仕事の従事者数を政府が規制するってヘンでしょ。たとえば競争が激化すると経営が厳しくなるという理由で、東京で新規開店するラーメン屋を年間500店に規制するのと同じではありませんか。

 

 ちなみに自由民主主義の国アメリカではこんな馬鹿げたことはできないので、弁護士の登録者は約122万人(2014年)に達します。対する日本は約3万8000人(2016年)。人口は2.5倍程度に過ぎないのに、弁護士の数は何と32倍以上です。いくらアメリカが訴訟社会とはいっても、この違いは大きすぎると思いませんか。

 

 いずれにしても、合格者増員というなら受験資格不要の旧司法試験の枠を広げるだけで済むのに、それでは合格者の質が下がると考えたのか、2004年から法科大学院制度がスタート。この大学院を修了しないと司法試験が受けられなくなりました(予備試験は後述)。そのかわりに「新司法試験の合格率は70~80%」という途方もない広報が行われたおかげで、初年度の法科大学院志願者は7万人以上という大フィーバーですよ。

 

 その後の経過は今さら解説するまでもなく、大学院で高額な学費がかかるのに司法試験の合格率は20%台。うまく合格できたとしても新人弁護士は就職難。こんなハイリスクな資格職の人気が下がるのはちっとも不思議ではなく、法科大学院の志願者・入学者ともに年々減少。おかげで法科大学院の撤退が続いてきました。そのかわりに、誰でも何回でも受験でき、合格すれば即司法試験に挑戦できる予備試験が大人気。この予備試験は、法科大学院が参入規制と非難されないように残した言い訳的な制度だったのですが、今ではこちらの合格者のほうが優秀と評価されるサブルートとなっています。ホラね、何のことない、名称は変わっても旧司法試験はちゃんと生き残っているではありませんか。

 

 皆さんはこのプロセスのどこに間違いがあると思いますか。ボクはやはりスタートラインがおかしいと思わざるを得ないのです。合格者数の「事前」制限は明らかに既得権益の保護ですから、岩盤規制と同じく自由民主主義における市場競争に反しています。

 次に弁護士の仕事について。政府が司法試験合格者の増員を決定したのは、規制緩和という大きな流れが前提でした。いわく「行政による事前規制」から「司法による事後の摘発&救済」への転換です。早い話が、お上による規制をなるべく緩くすることで市場競争を刺激し、ビジネスをより活性化しようというのが狙いでした。

 

 でね、こうした最初の理念が首尾一貫しなかったことに大きな問題があるわけです。その意味では「司法試験合格者数3000人」の撤回なんぞ実は大した問題ではありません。「行政による事前規制」からの転換がうまくいっていないどころではなく、むしろ揺り戻しともいえる状況にあることをどれだけの人が認識しているでしょうか。ぶっちゃけて言えば、行政による「事前」の規制と支配が根強く残っているからこそ、「事後」を管理する弁護士の仕事が増えない。だからこそ新人弁護士の就職難、よって法科大学院の不人気、それなら予備試験のほうがローリスク、と話は淀みなくつながっていくのです。

 

 それに隣接資格の問題もあります。司法書士と行政書士に類似した資格は欧米にはなく、すべて弁護士の仕事です。これらは司法と行政の制度が縦割りで整備されていく時間差で生まれてきた専門職と考えられますが、そろそろ廃止や統合などに踏み切らないと共倒れになりかねないとボクは睨んでいます。

 

 さらにもう1つ、日本全体の訴訟件数は減少傾向にあるとされているので、形式だけの顧問も含めて、旧来の弁護士業務にぶら下がるつもりなら、国家公務員の総合職を目指したほうがいい。弁護士という法律職に求められる仕事はいろいろあるはずなのに、消費者金融の過払い金請求など目先で手早くカネになる方向しか見ていないようにボクには思えます。たとえばグローバル化によって企業の国際紛争は増加するに決まっていますから、それを訴訟という多額なコストと手間をかけずに短期に解決するADRなど、開拓すべき新分野は少なくないと思いますよ。

 

 逆にいえば、そうした新しい仕事を創出する意欲があるのなら、弁護士人気が低迷している今がチャンスなのです。人の行く、裏に道あり、花の山。これは証券業界の諺ですけど、どんな仕事でも同じですよね。

 

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