笠木恵司の主な著書

  • キャリア・チャレンジ2009-2010
  • 資格試験合格後の本
  • 学費免除・奨学金で行く大学・大学院進学・休学・留学ガイド
  • 価値ある資格厳選200
  • インターネットでMBA・修士号を取る
  • 腕時計雑学ノート
  • 「国際標準」ビジネス資格完全ガイドブック
  • 日本で学べるアメリカ大学遠隔学習プログラム
  • テレビ局完全就職マニュアル
  • 資格の達人
  • MBA入学ガイドブック
  • 学んで! 遊んで! 役に立つ! インターネットキャンパス
  • 日本で学べるアメリカ大学通信教育ガイド

お気に召したら、ポチっと↓

  • 笠木恵司のブログ

福助くん その6

  • D_p1000397_s
    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

  • 5djustice3f5d5575e032a1
    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

日記・コラム・つぶやき

2018年12月 7日 (金)

所作が喧しい人

 

 ジーサンたちは、どうしてあんなに大きな声でクシャミや咳払いをするのか、という疑問をどこかの雑誌の投書で読んだことがあります。確かにそうだよなぁと共感できたので、この疑問だけは覚えていますが、回答はコロリと忘れてしまいました。

 

 考えられるのは、年齢を経ると、嚥下など喉の筋力も衰弱してくるので、痰を排出するにも大きなアクションが必要になるということです。若い頃はゴホンという小さな咳の一発で十分な効果をあげていたのに、そうはいかなくなってきます。それで咳の声量をアップすることで、勢いをつけている、ということじゃないかな。

 

 こうした医学的な理由に加えて、「もう他人のことなんか気にしていられるか」という高齢者特有の傲慢な心理もあるのではないでしょうか。若い頃はいろいろなことにさんざん気を使ってきたけれども、退職して年金暮らしともなれば、もはや他人のために神経を磨り減らす意味も価値もない。そうなると、咳やクシャミどころではなく、所作全体のノイズも上昇していきます。歯磨き後のうがいなんて、プリミティブな音楽かと思うくらい賑やかで、しかも長い。歩く時もドカドカと大きな音をたてる。椅子に座る時も、重力にまかせてドスン。ボクは直接的に知りませんが、隣の部屋にいても、ベッドに寝る、起きる、などの気配が明瞭に分かったりするはずです。時には大きな声で独り言をいうとかね。

 

 ボクも年をとってきたせいか、前述の他人迷惑な心理だけでなく、おそらくは自己確認の意味もあるのではないかと考えるようになってきました。社会の第一線から身をひいて現実感が希薄になってくると、ノイズなどを通して自分の行為を客観的に認識したくなります。もっといえば、生きていることの自覚といってもいい。

 

 このあたりのことを、老年学ではどう解釈しているのでしょうか。男女ともに平均寿命が80歳を超えているのですから、年金などの経済問題だけでなく、心理ももっと深く研究すべきだと思うんだけどなぁ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

人気ブログランキングへ

 

 

 

 

2018年12月 4日 (火)

原理主義の暴走

 

 どうもねぇ、ヘンテコな雰囲気が強くなってきたなぁと感じることがままあります。中でも「ガンバレ!」と連呼されるのが、ボクにとっては実に暑苦しくてウザいのであります。

 

 東京オリンビックを控えているので、アスリートの皆様はそれぞれに頑張っていただきたいとは思うものの、ボク個人としてはノンビリムードな生き方がしたいなぁと。もちろん頑張りたい人は頑張ればいいんですよ。ボクだって仕事で頑張らなかったことは一度としてありません。でもさ、プライベートなんかズルズルのユルユルでもいいんじゃないかと思ってきました。にもかかわらず、テレビなんかで頻繁に流されているのは、誰もが頑張らなきゃいけないという偏執的な強迫観念ではないかと感じるのはボクだけかなぁ。そういえば大震災後の「絆」というのも違和感がありました。

 

 つまり、ですね。絆を感じたい人は感じればいいのであって、頑張りたい人もいくらでも頑張ればいい。しかしながら、それを他者にまで強制または義務あるいは常識として押しつけないでいただきたいということなのです。

 

 自慢じゃないけど、ボクは高校の水泳部の合宿では1日に12キロ以上を泳ぎ込んでいました。もちろん苦しいけど、それが楽しくて面白かったからです。けれども、大学時代のアルバイトで小学校の水泳指導を手伝っていた時に、水を恐怖してプールに足もつけられない男子児童がいました。参観していたお母さんは見るに見かねて、無理矢理に手や足を引っ張ってプールにいれようとする。それに逆らって、子供は必死で金網にしがみついて大きな悲鳴を上げるなんてことがしばらく続きました。プールに放り込めば一発で解消するという乱暴な意見もありますが、その時にボクは、みんなが泳げるようにならなきゃいけない理由がどこにあるのだろうと考えてしまったのです。実際問題として、泳げなければ生きていけないなんてことはあり得ないですよね。ましてや隔離されたプールで身につけた水泳なんて、荒波の海では通用しません。要するに、お母さんにとっては、みんなができることは自分の子供もできなければいけない、できれば人よりも上手に、という願いが強迫観念となり、愛すべき子供を苦しめていたということになります。

 

 ボクは「水に慣れるまでもうちょっと待ってあげましょう」と助言したのですが、それに類したことは水泳に限らずいくらだってあるはずです。そんなことがね、学校を越えて社会にまで浸潤してきたような気がするのです。ごく簡単にいえば、「ねばならない」という原理原則が、どんどん人間関係をギスギスしたものにしているんじゃないかな。

 

 少し違うかもしれないけど、観劇中に膝に置いたジャケットの袖が無意識に隣にはみ出していたことがあります。それを隣席の人は鬼のような形相で、汚いボロ布のように激しく振り払いました。そこまで邪険にすることはないだろうと強い怒りを感じましたが、悪いのはボクのほうなので心を鎮めて「すいません」と小声でいうと、「ふん!」てな感じです。その次はお決まりの肘掛け争奪戦。2人の間に1つしかない肘掛けの国境線は定かではないので、ボクもここは譲れないと身構えたのですが、すぐにバカバカしくなってやめました。

 

 こんなトラブルは、最初から「袖がこちらにはみ出てますけど」くらいの声をかければ済んだことなのです。それをまるで自分の権利が侵害されたかのように感じるから、意地の張り合いみたいなことに発展していく。こういう態度をボクは敢えて「原理主義」と呼びますが、そうした余裕のない頑な姿勢がどんどん暴走しているような気がするわけです。

 

 こんなことを続けていけば、隣近所から世間まで喧嘩や闘争ばっかりになってしまう。もっと寛容になって、お互いを赦しあおうよ。こういうことをいえば、それに乗じてズルを決め込み、ワガママや横車を押す連中が出てくるから厄介なんですけどね。そんな強い者勝ちの雰囲気を作ったのも安倍政権といえば、言いすぎかなぁ。モリカケ問題はいったいどうなったんだよ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2018年11月15日 (木)

潮が引いたら

 

 本日はボージョレー・ヌーボーの解禁日です。と聞いて、おおおおっと目を見開く人は、バブル経済の体験者と考えて間違いないと思います。

 

 今年に収穫された葡萄を使ったワインの新酒が、11月の第3木曜日に全世界一斉に解禁されるってことなのですが、一時期はお祭りみたいなバカ騒ぎでしたもんね。空輸される新酒を成田空港で待ちかねて、時差の関係でどこよりも真っ先に飲むというパーティが開かれたこともあります。

 

 ところが、あははははは、流行の衰退はものすごく早くて、というか定着し損なったというべきか、ピーク時の2004年に比べて輸入量は半減しているそうです。そんなわけで、テレビでも話題にすることがめっきり少なくなりました。そのかわりに今時はハロウィンですから、紆余曲折、じゃなかった栄枯盛衰は激しいですな。

 

 ワタクシの場合はもっぱら白ワインなので、いくら身体に良いポリフェノール入りとはいっても、赤ワインはあまり好きではありません。ボージョレー・ヌーボーは赤のみと法律で決まっているらしいんですよね。ボージョレーはフランスの地域名なので、白ワインのボージョレーは存在しても(希少らしいですけど)、ヌーボーと名乗れるのは赤だけなのです、エッヘン。

 

 ちなみに、ボージョレー・ヌーボーとは、そもそもがその年の葡萄のデキを確認する試飲用のワインなので、ボクはあんまり美味しいと感じたことはなかったなぁ。ナマ若い感じが先立って、ちっともフルーティではないのです。だったら、よく冷やしたシャルドネのほうがウマいと思いますけどね。

 

 かくのごとく、日本ほど潮の満ち引きが早い国は世界でも稀なんじゃないかなぁ。ボージョレーの生産者にとっては、あれだけヌーボーを欲しがった国が、10数年たったらバッタリと来なくなったという感じかもしれません。

 

 そうした流行に追いついていくエネルギーが老化で減少したのか、それとも興味がなくなったのかは自己判断できませんが、やっぱね、クラシックはいいっすよ。ジャズのスタンダードもいいなぁ。ディキシーもスウィングもいいけど、とにかく浮き世の厳しい錬磨を生き延びてきたタイムレスな生命を持つモノに、強く惹かれるようにもなってきた今日この頃なのです。熱狂という潮が引いた後でも残ったモノ、と言い換えられるかもしれません。

 

 なお、明日から海外取材と超遅めの夏期休暇で、しばらくブログをお休みとさせていただきます。12月の最初の週、3日から再開する予定ですが、何か面白い話題やテーマがあればアップするので、たまにはチェックしてみてください。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

 

2018年11月14日 (水)

ヒトデ食った?

 

 ある人からの伝聞ですが、職場で若い男子が「今朝はヒトデ食った」と話したそうです。

 

「えっ、ヒトデって食べられるの?」と女性たちの喧しい話題になり、「いや食べられないですよ、そんなもの」とか、「苦みを我慢すれば何とか」というワケの分からない活発な意見が交錯したそうです。

 

 で、結局、昼過ぎになって、ジャンケンで負けた子が真偽を確認に行くことになったそうです。料理の方法も知りたかったのかな。しばらくして彼女が戻ってくると、たちまち人だかりができました。

 

「でさ、どうだったのよ」とお局さんタイプの女性。

「はい。単なる聞き間違いでした」

「いったい何をどう聞いたらヒトデになるのよ」

「つまりですね、彼は今朝ヒートテック着た、だから暑いと言ったらしいんですよね。それで今朝ヒートテック着た、今朝ヒトテック着た、ヒトデ食ったと音便変化したらしいんですよね。私、文学部の日本文学専攻だったんで」

「あたしは教育学部だけど、知ってるわよそんなこと。そっかぁ、んで暑いってのはどこへ行ったのさ」

「さぁ。確かにそのフレーズがあれば、訊き直したかも知れませんよね」

「ヒトデ、のところでびっくりして聴き取れなかったんだろうな」

「どーもそうみたいです」

 

 こうして文章で書くとあんまりインパクトはないなぁ。会話にすると笑えるので、試してみてください。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

 

2018年11月13日 (火)

正義は我に?

 

 2015年1月16日に「不寛容な時代」と題したブログを書きました。それなりに歴史を踏まえており、自分ながらまとまった内容になっていると思います。2017年にも「寛容vs不寛容」として意見を書きつけましたが、そうしたボクの危惧なんかまったく無視して、不寛容はますます増大してきたように思います。なんてったって、その世界的な筆頭はアメリカのトランプ大統領ですもんね。CNNを「フェイクニュース」と言い切り、自分に批判的な記者を出入り禁止にするなんて、不寛容の極みといえるじゃないですか。「シンゾー」も似たところありますが。

 

 こうした不寛容な人たちの論拠はまったく簡単で、「正義は我にあり」という信念、時には妄想です。信念はあっていいけれども、それを客観的に判断する自己批判の精神を欠いていれば、あっという間に妄想にエスカレートしていきます。それだけでなく、他者に対する攻撃にも発展するから始末が悪いんだよな。これまで正義の名のもとに行われなかった戦争なんかありません。真珠湾攻撃だって、アメリカから見れば卑怯な不意打ち・闇討ちの奇襲でも、日本は自衛のための攻撃であり、アジアを植民地から開放するという大義もあったとされています。実際に戦後になって独立を果たした国は少なくないですからね。

 

 つまり、正義なんて、いくらでも言い訳を付け足すことができる変幻自在なスローガンに過ぎないのです。にもかかわらず、日常的な礼儀やマナーやルールまで神経質に厳守を求める人がいるから閉口します。そりゃね、決め事は守るべきですよ。けれども、絶対というわけでもないでしょう。誰だって何かの事情で逸脱してしまうことだってあるじゃないですか。それをいちいち目くじら立てて注意するのは、正義の遂行というより私怨に近いことが少なくありません。早い話が鬱憤晴らしじゃないですか。そんなくだらないストレス解消の言い訳にされた正義のほうが大迷惑ってものです。

 

 そうした正義をふりかざすヤカラが、現実にもネット社会にも急速に増殖しているように感じるのはボクだけなのかな。ヒトラーのナチズムも、日本を染め上げた軍国主義も、正義と不寛容がセットになっていました。貧困や不幸による怨嗟は、他者への攻撃が何よりの癒やしになるので、そうした昔の事例はもとより、アメリカの低所得者層が大金持ちのトランプを支持するのは決して不思議なことではありません。

 

 というわけで、格差が広がれば広がるほど、社会はどんどん不寛容になっていきます。他人とすれ違うたびに角を突き合わせて、互いの正義を言い募る。それでハッピーになれればいいけど、心はどんどん荒れ果てていきます。ボクは信者ではありませんが、やはりキリストのように「赦す」ことから始めなければ、誰も幸せにはなれないですよね。お願いだから、もっとやさしく、寛容になろうよ。他人の悪いところを探すより、いいところを探した方が、自分のためになると思うんだけどなぁ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2018年11月12日 (月)

イナゴの日

 

 以前にご紹介したテイクアウトの紅茶ショップに、どんどん人が集まっております。週末の夕方には数十人規模の行列ができているだけでなく、ドリンクを手にしたら、それと一緒に必ず自撮りですもんね。味もさることながら、「インスタ映え」する要素も強いのでしょうか。カップルもたまに見かけますが、ともかく若い女の子が圧倒的に多い。女性はネットワーク型の生き物なので(理由は前のブログを参照してください)、SNSで急速に情報が拡散しているんじゃないかな。彼女に連れてこられたと思われる男の子は、自分が行動の主体ではないせいか、ポツンと所在なさげなのが印象的でした。

 

 どういうわけか駅前のマクドナルドの周辺に人が集まって、不思議な雰囲気を醸していることもあります。友達連れもいるはずなのに、人だかりというほど密度を高めているわけではなく、異様に静かなんですよね。どうしてだろうとしばらく観察して、ようやく分かりました。皆さんスマホに見入っており、つまりはポケモンをやっているらしい。いかなる新種か珍種かは知りませんが、それが出没することを、こちらも人伝てならぬSNS伝てによって拡散したんじゃないかな。知り合いでもない人が蝟集しているので、「やぁどーもどーも」というオッサン的な挨拶もなく、それなりの距離を置きながら、ただただスマホをいじっているのです。

 

 こうした風潮を不愉快とか気に入らないということではありません。公的な歴史には残されていませんが、似たようなことは大昔からあったはずです。ただ、流行が過熱すればするほど冷えるのも早いのが人の常ですから、あの紅茶ショップも、いずれは潮が引くように客がいなくなることは十分に考えられます。それが年内か、それとも来年以降かは知りませんけどね。

 

 実際に、まだオープンはしていますが、一時期は大きな話題になったトンカツ屋さんも「今は昔」という風情になっています。ネットの普及で、マーケティングは牧歌的なプロペラ機の時代からジェット機になったという分析もあるようですが、何のことはない、要するに話題になったもん勝ちなんですよね。それが炎上だろうが何だろうが、SNSで頻繁に取り上げられるようになれば、集客そのものは大成功間違いなしってことです。

 

 けれども、ブームが去った後はどうするのでしょうか。それも見越した価格設定をするとなれば、近年の流行は短命化してきたので、資金回収を急ぐなら高価にならざるを得ません。かといって、SNSの主役である若い子たちが手を出しにくい価格になれば、話題にのぼる可能性も乏しくなります。このあたりの採算判断が実は最も難しいところじゃないかな。

 

 いずれにしても、数年間をビデオの早回しで見たとすれば、局所的に人が集まり始めて、みるみるうちに増加したと思えば、しばらくすると別の場所に向けて一斉にいなくなる。これって、イナゴの大群に似ていますよね。

 

 アフリカなどの大陸に突如として大発生し、草という草を食い尽くして地面を丸裸にしたら、次の場所を目指して大移動する。このため数年は食糧生産ができなくなり、飢饉になることもあったそうです。

 

 調べてみて初めて知ったのですが、普通のイナゴはそんな大災害をもたらすことはないそうです。トノサマバッタなどが「相変異」して大量発生することが、蝗害(こうがい)と呼ばれる現象を引き起こすとされています。「相変異」はボクもまだちゃんと理解していませんが、「個体群密度」の関係で一斉に変化するらしい。何かの理由でバッタが大発生して幼虫が過密な環境で育つと、尋常ではない形態変化を起こすと考えればいいのかな。たとえば翅が長くなる一方で足が短くなり、頭とアゴが大きくなるだけでなく、それまでは食べなかった植物までエサにするようになる。そして、普通の種は互いに離れようとするのに対して、近づき合ってやたらに群れることが顕著な特長なんですよね。

 

 人間だって狭い地球上に75億人もいて、1年で7000万人ずつ増えていますから、バッタと同じように「相変異」しつつあると考えてもヘンではないでしょう。翅はなく、2本足で姿カタチは太古からまったく同じとしても、手にはスマホがあり、クルマなどの高速移動手段を私有しています。それによって、美味しい場所に先を争って大移動し、消費し尽くしたら一斉に次の場所を目指す。ホラね、誰かの行動をみんなが真似して追っかけるというのは、まさにイナゴと大差ないじゃないですか。人類全体が「相変異」によって完璧にイナゴ化する日は、そんなに遠くないような気がする。これって、宇宙人の眼から見たら生物学的なホラーといってもいいんじゃないかな。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと

笠木恵司のブログ

 

 

 

2018年11月 9日 (金)

不便で面倒が楽しい

 

 かつてバイクに乗っていた頃は、天気予報を始終チェックしていました。出先で雨が降り出したら即座にずぶ濡れですからね。そんな時には天井のついたクルマをしみじみ羨ましく思いましたが、いざ購入して乗り込んでみると、箱の中に座っているのと同じで、ちっとも面白く感じない。景色はすべてガラス越しで、空気感も希薄で匂いもない。テレビゲームのカーレースとどこが違うのでしょうか。ある地域や空間を走り抜けているという、リアルな臨場感にまったく欠けているんですよね。

 

 北海道に行った時には、朝から晩まで雨の中を走り通し、靴の中までしみこんでいたことがあります。しかも、翌日は雪だったりして。それでも、そのほうが圧倒的に愉快ですから、後になれば良い思い出になります。2輪しかないので、ちょっと気を抜くと簡単にコケるし、車体を傾けながらカーブを抜けるのも案外難しい。要するに、不便で面倒で、しかも危険なのですが、それが楽しいのです。

 

 服装もボクは似たようなことを感じます。そりゃもうスーツなんかよりカジュアルのほうが圧倒的に楽で便利に決まっています。ジーンズにトレーナーなら秒速で着替えが終了しますが、スーツはそうはいかない。ネクタイをきちんと締めて、カフリンクスで袖口を留め、革靴を履く。おっと、チーフも選ばなきゃ。着慣れないボクなんか、ネクタイにうまくディンプルが作れないというだけで30分くらいかかったりします。着れば着たで、スーツは姿勢が大切ですから、息を抜いて背中を丸めることもできません。堅苦しくて不便で面倒な格好なのですが、だからこそ気分がシャキッとして気持ち良く感じるわけです。

 

 現在ではドレスダウンというのか、上着まわりがスーツっぽいのに下はデニムで、ついでに足元はスニーカーなんていうスタイルをしばしば見かけるようになりました。ジーンズにネクタイなんて、10年前はアメリカ人しかやらなかった格好ですが、ついに日本にも本格上陸したようです。

 

 確かに便利で楽で合理的なスタイルではあっても、ボクはそうした折衷があまり好きではありません。どうせスーツを着るなら、それらしく隙間なくビシッと決める。さもなきゃ個性的なカジュアルにしたほうがいい。みんながやり始めたからそろそろ真似していいよね、というのも好きではないんだよな。先人が舗装した道より、険しいデコボコ道のほうが走り甲斐があると思うんだけど。

 

 ともかく、楽で便利より、不便で面倒なほうが何かと面白くて人生が楽しくなるってことを、もうちょっと知るべきじゃないかな。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

 

2018年11月 8日 (木)

生き残り競争?

 

 深夜に年齢別の死亡率を見ながら、エクセルかなんかで年金の総支給額を計算している厚労省の役人、または下請けのシンクタンクの担当者の姿をイメージするんだよなぁ。

 

 年金を貰わず働き続けて70歳まで受給を遅らせると、65歳の場合に比べて、月々の年金が10万円ほど増えるという試算を厚労省が発表しました。これを「繰り下げ受給」と呼ぶらしいのですが、その魂胆は見え見えですよね。高齢化によって、ただでさえ医療費が毎年1兆円ずつ増加しているのに、年金も規定通りに支給していたら、いよいよ国家財政が危なくなる。そこで、年金の支給をできるだけ遅らせようじゃないかと合議したんじゃないかな。

 

 本日は締め切りが1つあるので死亡率を調べる余裕はありませんが、普通に考えれば65歳より70歳のほうが人口は少ないはずです。それを見定めなければ、こんな発表をするはずがない。

 

 国家的な視点では当然のことでしょうが、受給する側にとっては悩みどころです。よぉし70歳まで我慢して10万円アップだぞ、と意気込んでいた人が、直前の69歳までにお亡くなりなんてことが結構あり得るからこそ、おトクな「繰り下げ」をススメるわけでね。つまりは、言っちゃ悪いけど、隣で死んだ人が貰えるはずのカネの一部を上乗せして支給するということです。そんな「生き残り競争」を国家が公言していいのかなぁ。

 

 ボクは、そもそも国家に余計なカネを渡すこと自体が大嫌いです。とりわけ年金なんていうのは、こちらの意志を問わず、むりやりに持っていかれるのに対して、支給する段階になると「仕方ねぇなぁ」と言わんばかりの上から目線と感じませんか。銀行に預けたカネと同じで、ボクたちは正々堂々と貰う「権利」があるはずです。なのに、それを繰り上げだの繰り下げだのと、受給時期を操作しようとする「上から目線」が実に不愉快なんですよね。銀行員が「預けたカネの引き出しは70歳まで待ってください」と言ったら大暴動ですぜ。「そのほうが利息も増えるんですから」と説明されても、「いつ引き出そうが預けた奴の勝手じゃねぇか」とボクなんかは思うんだよな。

 

 それもこれも、ボクの血縁は、親子代々にわたって国家や行政を信用しない傾向が強いのです。特に親父はいつも「国にカネを渡したら何に使うか分からん」と憤慨しておりました。敗戦直後に警察官などの役人が平気で賄賂を受け取っていたことを知っているからです。そんなわけで、ボクは若い頃から「小さな政府」を望んできました。けれども、自由と民主主義を標榜する政権が連綿と続いてきたにもかかわらず、政府ならびに国家予算は「借金」も含めると年々拡大の一途ですもんね。

 

 本来は充実した福祉制度を担うのは社会主義的な政党であり、税収も支出も必然的に規模がデカくなるので「大きな政府」となります。逆に国民から必要以上のカネは取らないから老後のことも自分で面倒みてね、というのが自由民主主義を重視する「小さな政府」なはずです。にもかかわらず日本は、それぞれの「悪いところ取り」といっていい。何かと理由を付けてカネを取ろうとするデカい政府のくせに、国民に対する社会保障が圧倒的に貧弱で、それが問題にされるたびに自己責任を言い出す。

 

 国をあんまり信用すると痛い目をみるぜ、と若い人にはいつも言ってきたのですが、強いものになびく風潮がますます強くなってきたように感じるのは、ボクだけかな。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓


人気ブログランキング

 

 

 

2018年11月 7日 (水)

距離感

 

 ボクは凝り性の側面があって、気に入った食べ物は「飽きるまで食べる」、好きな居酒屋などにも「通いつめる」という習性があります。そのほうが自分の中にスタンダードというか価値基準ができるので、それなりに効果的なのですが、あまりにも常連になると、困った副作用が発生するんですよね。

 

 それなりに顔なじみになって話し込むようになると、どうも気持ちが緩んでくるらしく、内輪話をするようになるのです。最初のうちは、へぇそんな世界があるんだと好奇心を刺激されます。ところが、そのうちに自分も同業者のような気分になってしまう。これがね、ボクはとっても嫌いなのであります。

 

 どんな仕事にも「いいこと」と「イヤなこと」があります。そのうち「いいこと」は無用な自慢話と受け取られかねないせいか、常連に話すことは稀です。逆に「イヤなこと」を客に愚痴ることが目立つようになってきます。そんなことをボクに言われても困るんだけどなぁ。

 

 もともとライターとして、被取材者や業界との距離には注意を払ってきました。悪馴染みになってくるとどうしても記事に影響するので、遠からず、かといって近からず、がボクの基本的な姿勢です。ただし、プライベートで遊ぶところはつい踏み込んでしまい、前述のような状態になったこともあるわけです。

 馴染みであることを過大に自己評価して、いわゆる「常連面」で君臨する人もいます。しかしながら、ボクは別にその業界に入りたいのではなく、あくまでも客として楽しみたいからカネを払っているのであって、特別な待遇なんて望んでいないので、愚痴めいた内輪話なんて、はっきり言えば迷惑なんですよね。

 

 ちょいと以前も、そうした距離感をつめてしまいそうになったので、敢えて別の行きつけを作りました。常連や顔なじみになると、何かと便利なことは事実でも、適切な距離感を保ったほうがいい。お互いのためにも、そのほうがいいじゃないですか。と書いていて気がついたのですが、こんなことは会社でも夫婦でも同じですよね。無意識なセクハラも距離感を間違えた結果と言えるだろうし、あまりにも馴れ合った夫婦は喧嘩も深刻化するんじゃないかな。

 

 ただ、この距離感の判断や維持はものすごく難しいのです。近過ぎると馴れ馴れしいと思われ、遠すぎると冷たい奴となって孤独に耐えなきゃいけない。これはかなり今日的な課題だと思うけどなぁ。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

 

2018年11月 6日 (火)

換骨奪胎

 

 捉え方で意見は180度違ってくると思いますが、日本人は歴史的に物真似が上手ですよね。しかも、みごとに換骨奪胎することで、特有の文化として定着させてきました。

 

 はい、例のハロウィーン騒動であります。そもそもの背景や意図や目的なんかそっちのけで、仮装だけがどんどん増殖。しかも、どうして渋谷かという理由もまるきり不明のままに11月の風物詩になろうとしています。ほんの5~6年前には「ハロウィーンって何?」という人(ボクです)も少なくなかったのに、渋谷のバカ騒ぎはマスコミ報道によって全国に波及。わざわざこの日のために上京してくる若者も珍しくないようです。

 

 それをやみくもに批判するようになったらジジーになった証拠だけど、いかに日本流に加工しようが、もともとが「模倣」であることに哀しさや寂しさを感じないのかなぁ。「ラップ」もアメリカの下層階級が路上の音楽として生み出したものですが、あたかも昔からあったかのように日本語で歌われるようになりました。ボクはそれを聴くたびに、日本語がケガされるように感じて気分が悪くなり、耳を覆いたくなるんですけどね。

 

 そんなことを言ったら、バレンタインデーもクリスマスも結婚式も、ボクたちが着ている洋服でさえ欧米のパクリではあります。今では英語まで公用語になりつつあるので、「模倣」の何が悪いと反発されるかもしれない。

 

 オリジナルをゼロから創造するのは大変に困難であり、それが広く認められるにはもっと大変な忍耐と労力が必要になるので、ビジネスとしては二番煎じのほうが楽でトクに決まっています。市場競争は賑やかなほうが消費者の利益になりますが、ボクが憎むのは、それを恥ずかしいとはいささかも感じていないってことです。先頃は中国の「無印良品」が日本の本家を訴えて主張が認められるという驚天動地の判決が出たようですが、底知れない図々しさは大陸流で大違いといえども、真似て恥じないメンタリティはあまり変わらんとボクは思うんだけどなぁ。

 

 そうした「模倣」に慣れてしまうと、独創的な発想はむしろハイリスクとして排除されるようになります。だから、オブジーボも実用化まで右往左往。海外の企業に譲渡される寸前に日本の製薬会社が渋々引き受けたらしい。

 仮装して大騒ぎすることに文句はありません。若者は勉強と同時に騒ぐのが仕事でもあります。大昔は全共闘なんていうのがあって、新宿の地下道や横須賀などでいろいろやっていました。けれども、どんなに変質しようが、もともとは欧米の習慣のパクリから始まったことを少しは恥じてほしいなぁ。含羞こそが優れた知性の証であると、オッサンは思うのであります。

 

ランキングに参加しています。お気に召したら、ポチッと↓

笠木恵司のブログ

 

 

より以前の記事一覧

*禁・無断転載

  • このブログ内に掲載されているすべての文章、画像の無断転載、転用を禁止します。他のウェブサイトなどへの転載を希望する場合は、必ず著者へご一報ください。
2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

Amazonウィジェット

無料ブログはココログ