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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

日記・コラム・つぶやき

2020年9月30日 (水)

満点主義の減速

 

 およそ試験と名が付くもののほとんどは、点数によって評価されます。小論文でも「よくできました」なんていう曖昧な評価はなく、細分化された各項目で点数が与えられますよね。 

 試験だけでなく、時には身体の痛みすら「10を満点とするといくつくらい?」などと医師から訊かれることもあります。痛みに点数なんか付けられないと素人は思うのですが、それによって診断が変わってくることもあるらしい。 

 いずれにしても、こうした点数評価に慣れてくると、優秀な人ほど最上位の満点を目指すようになります。ボクみたいな凡人は死んでも無理ですが、彼らは子供の頃から好成績が当たり前で、勉強には途方もない自信を持っていますから、どんなことでも満点を取ろうと、より一層の努力をするわけです。 

 学校を卒業して社会に出てからも、この満点を目指す人は案外いるんですよね。仮に満点を100点とすると、95点ではどうにも満足できないわけです。獲得した点数よりも、取り損なった5点のほうが不愉快で仕方がない。70〜80点なら「よくできました」というハナマル感覚で納得できても、90点台ともなれば100点は目前ですから、余計に欲求不満に陥ってしまう。

 このため、部下や関係者を叱咤激励するのですが、やはり満点は取れません。
 こうした満点主義者はおしなべて高学歴であり、学校の試験でも満点ばかりだったはずなので、周囲の人たちに責任があると考えがちです。それでマネジメントの手法やら、仕事の手順などを必死でチェックする。もちろん自分自身も徹夜を辞さず一生懸命に努力しますよね。ところが、残念ながら満点は取ることができません。 

 その理由はまったく簡単でありまして、社会には学校の試験のように点数で厳密に評価できる仕事なんてほとんどないのです。もしあったとしても便宜上の数字であって、学校での点数とは意味がかなり違います。仮に「おめでとう満点です」と言われたにしても、それで満足したら終わりですよね。常に次の課題や改善点を見つけることがプロフェッショナルの本質とすれば、満点はやはり陽炎のごとく先へ先へと遠ざかっていくものなのです。

 さらに、現代の仕事は自分1人で完結することはできません。運動会のリレーのように、あるいは組み体操のように、他者と密接にかかわっています。当然のことながら、自分が追い求める満点と、他者の持つ世界観とは必ずしも一致しません。そんなこんなで焦燥が募り、神経を病むことだってあり得るでしょうね。

 実はボクもそんな1人でした。けれども、どんなに頑張っても誤植やミスを完全に一掃することができなかったんですよね。文章構成や表現だって、もっと良くすることができるじゃないかと後悔ばかりが残りました。そんな徒労を繰り返すうちに、果たして仕事に満点なんてあるのかと強い疑問を持つようになったのです。やがて、そもそも満点は仮想の存在であって、追いかけるべきものではあっても、たどり着くことが許される終着点ではないと気づいたのです。ごく簡単にいえば、永遠の目標ってことですよね。

 そのように認識することで、他者にイライラしたり、怒りを感じることが激減しました。人間は完璧ではなく間違いを常に繰り返す。それに基づく改善こそが満点に至るための唯一のプロセスですから、100点満点で90点なら良しとしよう。いや80点なら上等じゃないか、と。 

 もちろん今でも満点主義がぶり返すことがあるので、こんな文章を書き付けているのですが、世の中は自分1人だけで回っているわけではありません。諦めることなく、粘り強く挑戦する目標として、満点を追究し続けるつもりです。でも、満点でなきゃダメという絶対主義は大幅に減速しました。決して失速ではないので、誤解のないように。

 

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2020年9月28日 (月)

イヤな予感

 

 昔から、良い予感はまったく当たらないのに、悪い予感だけはかなりの高確率で的中してきました。今回も、自殺者が増えるというイヤな予感が実現しつつあります。

 8月24日のブログで、以下にように書きました。

 そして最も憂慮すべきなのは、景気の悪化が非正規労働者を直撃するってことです。大きな会社の社員は通勤負担から解放され、「新しい働き方」を享受できるようになっても、その陰でヘタすりゃホームレスという人たちが急増しているかもしれない。テレビでもそろそろ報道されるようになってきましたが、またぞろ年間自殺者3万人時代に戻って欲しくはないなぁ。しかしながら、政治も社会も、そうした弱者には冷淡なんだよな、この国は。そういえば昨日は人身事故で中央線が運転見合わせとなりました。飛び込みではないことを祈りますが、ものすごくイヤな予感を消すことができないのであります。大嫌いなので、ここ10年まともに視聴したことはありませんが、夏の終わり恒例の「24時間テレビ」は、これらの問題をどう扱うつもりなんだろうか。

 まだまだ暑い盛りでしたが、重苦しい雲が空を覆っているかのように憂鬱な気分を感じたことを今も覚えています。実際に今年は、木村花さん(5月23日)、三浦春馬さん(7月18日)、9月に入っても14日に女優の芦名星さん、20日に藤木孝さんが自死。そして、昨日の日曜朝にはテレビの緊急速報などで竹内結子さんの訃報が流れました。これだけの芸能人が相次いで死を選ぶなんて今までにあったでしょうか。

 それぞれにそれなりの理由があったとしても、自死という行為に影響される人も出てくるんじゃないかな。衰弱した心を支えようとする「いのちの電話」などの努力には頭が下がりますが、崖っぷちまで追いつめられた人を救うことは困難ですよね。

 精神的な問題は別にしても、新型コロナがもたらした不況による解雇や雇い止めなど経済的な問題はどんどん深刻化しているともいわれます。GoToナントカや4連休で観光地が賑わいを取り戻したように報道されていますが、そのカゲで困窮に追い込まれている人たちが急増しているんじゃないかな。

 死というのは、時として甘味な終焉に見えることがあります。すべての不幸や不安や悲しみに決着を付けてくれるからです。最終的な解決策と言い換えてもいい。軽井沢のホテルで縊死した加藤和彦は「死にたいというより、むしろ生きていたくない」と書き残しましたけどね。その気分が大変によく分かるボクは、残念ながら自死に向かう人たちを引き留める言葉を持っていません。ただね、何だか悔しいんだよな。

 自ら死を選ぶのであれば、いくらかでも救いはあるかもしれない。けれども、誰かに何かに「選ばされた」のであれば、これほどの悲劇はないはずです。たとえばイジメとかセクハラ、パワハラに過重労働などです。それだけは避けて欲しいとは思うのですが、現実にはほとんどが「選ばされた」自死ではないでしょうか。

 だからね、やっぱり悔しい。限りなく悔しいんだよな。どんな理屈や解釈を聞かされようがボクは悔しく悔しくてたまらない。憐憫や悲しさなんかより先に、はちきれんばかりの悔しさでムカムカと腹が立って仕方がないのです。

 

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2020年9月24日 (木)

母性本能?

 

 こんなことを書くと叱られそうだけど、ボクはかねてから母性本能なるものは本当に実在するのかと訝しんできました。というのも、お母さんが子供をひどくぞんざいに扱うところを結構見かけるんですよね。 

 ついさっきも、エレベータの中で女児が「漏れちゃうよ」と身体を捻っていると、「もうすぐだから我慢しなさい!」と厳しく一喝。扉が開いた途端に、泣き出しそうにぐずる子供の腕を引きずるように連れ去っていきました。いえね、それがいけないなんて批判するつもりは全然ありません。子育てがある種の戦いに近いことは、ボクだって分かりますよ。未発達な子供をどのよう指導し、時にワガママを言いたがる子供をどう制御したらいいのか。誰もいない孤島で生活しているわけではないので、周囲に迷惑をかけてもいけない。そんな葛藤が毎日続くと思えば、目眩がしそうになるのは当然です。やがて自分を責めるあまりにウツに陥ったり、逆に虐待に発展することもあるでしょう。ボクなんかは生意気盛りで口が達者なガキには、どんなに可愛くても憎悪を感じます。 

 動物だって自分の子を殺したり、食べてしまうこともあるそうです。だから子育て=母性本能と決めつけていいのかなぁと疑問に思うわけですね。天賦の本能というより、ジェンダーと同じように社会が規定した性差、つまり役割の一種のような気がします。ひょっとしたら、社会がこしらえた都合の良いファンタジー、あるいは押しつけと表現すべきなのかもしれない。 

 「正直言うとさ、アタシ子供なんて大嫌い。子育てなんて絶対にしたくない」という女性がいても、ボクは少しも不思議に感じません。その一方で、マザー・テレサやナイチンゲールみたいな無私の愛情を備えた女性がいるのも確かですよね。でも、それは本能というより知性に基づく感性ではないでしょうか。 

 ボクは女性がおしなべて優しいなんて思ったことは一度もなく、身内=恋人や親戚など近しい人にだけ深い思いやりを発揮すると信じてきました。それ以外の人たちには冷淡といっても過言ではないでしょう。

 しばしば言われるように、やはり人間は本能が壊れた生き物と認識するべきじゃないかな。それでも、いやだからこそ、他者を愛し慈しむ。とりわけ赤ん坊は、人類がまだ生存を続けていいよという神託とも言われます。いずれにしても、たいていの人は赤ん坊を可愛いと感じますよね。その感情を子育てしながら持続していくためには、社会的な支援が不可欠ということになります。幼児保育から初等・中等・高等へと教育が体系的に整備されているのも、母性本能をアテにできないという歴史的な経験から生まれたんじゃないかな。

 実際に、ボクの親父は母親とかなりの年齢差があったせいか、ほぼシングルマザー状態というより、いわゆるカギっ子として一人で過ごす時間が少なくありませんでした。それでもちゃんと成長できたのは、母親の愛情はもちろん、保育園や学校のおかげといっていい。つまり、子育ては社会の責務でもあるということです。だったら潤沢な国家予算をそちらに振り向けて当然なのに、日本の政治はそうしなかった。だからこそ少子化に行き着いたというのは、あまりにも論理が飛躍していますかねぇ。 

 明日は早朝から関西方面に出張なので、例によってブログはお休みとなります。新型コロナ最盛期はオンライン取材ばかりでしたが、近頃は遠方出張も目立つようになってきました。経済活動が本格的に立ち上がりつつあるってことですね。ブログは来週月曜から再開予定です。

  

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2020年9月18日 (金)

危機意識の温度差

 

 昨日は久々に某所で飲酒したのですが、若い人たちがマスクなしで熱弁を振るっていたのを見て、驚愕しました。若いといっても30代前後と思しき男の2人連れでしたが、そこらの恋人たちよりはるかに濃密度の高い接触ぶりです。

 ボクはもしも彼らがそうした関係でも意に介しませんが、他人の唾が顔にベチャベチャと張りつくのが気持ち悪くないのでしょうか。その中に、新型コロナのウイルスが混入しているかもしれないのにね。

 収まったかのように見えても、東京都では100人以上の新規感染者が連日続いています。重症者は20人台とはいえ、感染者の数自体は4月頃の第一波よりはるかに多いんですよね。ボクはハイリスクグループに近い年齢なので、マスクはもちろん、常にソーシャル・ディスタンスなどに注意を払いますが、どうやら若い人たちにそうした危機意識は乏しいらしいのです。

 マスクをアゴのところまでズリ下げて、肩を組んで話しながら歩く姿をしばしば見かけますからね。ヒジが触れ合うような近距離で3〜4人が連れ立って話をしながら歩くことも珍しくありません。これでは20代に感染者が多いのも無理はないですよね。

 その一方で、ボクたちシニアは過度がつくほど敏感というだけでなく、感染者の少ない地方ほど偏見も激しい。東京ナンバーのクルマに「帰れ!」という紙が張りつけられることもあるんじゃないかな。それに比べれば、ある若者が言ったように「かかったら仕方ないじゃん」という能天気のほうがはるかに好感を持てますが、だからといって危険度に変わりはありません。第1波の時にはみんなが等しくウイルスを怖れたのに、第2波では敵の正体がある程度分かったせいか、慣れと侮りが生まれているんじゃないかな。とにかく、危機意識に温度差があり過ぎですよ。若い人は無症状が多いといっても、飛び交うウイルスの量に変わりはないはずなので、こんなことをしていたら感染拡大がおさまるはずがありません。やはり正しく怖れるという啓蒙の拡大が今こそ必要じゃないかな。

 

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2020年9月17日 (木)

一生分のポップコーン

 

 銀座・並木通りにある大型店、MUJI無印良品の壁には、ジャイアントコーンなどをぎっしり詰めた透明な筒状ケースが何本も並んでいます。意図は分かりませんが、なかなか壮観なんですよね。それで、ハッと閃いたのが「一生分パッケージ」です。

 つまりですね、たとえば死ぬまでに食べると想定されるポップコーンをまとめてしまうわけです。日本で初めてバター醤油味を開発したとされる「Mikeポップコーン」は最も小さな一袋が16グラム。好きな味ですけど、ボクはこれを1日に2袋も食べようとは思いません。そこで1日1袋を消費するとすれば、1年365日で5840グラム。多めに概算すれば約6キロかな。問題は一生分の量ですが、産まれた時からポップコーンを食べているわけではないので、成人する20歳から始めて、男性の平均寿命の81歳までとすれば、61年分が必要となります。すなわち、合計366キロが一生分になるわけですね。

 ポップコーンは重さよりもボリュームが問題になるので、再度ネットで調べてみると、20グラム入りの筒タイプのパッケージで口径89×高さ139㎜というデータがありました。計算は略しますが、体積はおよそ0.9リットルとなります(ネットに自動計算の表がありました。実に便利ですな)。20グラムのポップコーンの体積が0.9リットルということは、前述した一生分の366キロを収納するためには、1万6470リットルの容器が必要となります。

 大きな容器といえば、何といってもドラム缶ですよね。これは平均的なサイズで200リットルだそうです。この数字で先の一生分の量を割り算すると82.35。あっと驚くことに、ドラム缶82個くらいになってしまいます。そんなに食えるかよ。

 これではボリュームあり過ぎで商品化できないので、1年分で計算してみましょう。ドラム缶82個で61年分ですから、1年で1缶とちょっと。端数はキリ良く捨てて、ドラム缶1つを「1年分」として売り出すのはいかがでしょうか。
 ちなみに金額では1袋100円とすると、1年間で3万6500円、一生分なら約223万円となります。

 ガソリンスタンドでアルバイトした経験では、ドラム缶は鉄製なので、それだけでも結構な重さがあります。なので、アクリル製の透明な円筒をこしらえて、その中に収納する。これで商品化計画の完成です。防湿&防腐剤なんかも必要ですが、いざという時の保存食になるだけでなく、インテリアとしてもオシャレじゃないですか(なわけないか)。

 同じように、1年分のポテトチップもあり得るかな。けれども、冒頭で提案した一生分に比べると、矮小化した感は否めません。そこで、食べ物の中では最も質量のありそうなミックスナッツならどうだろうか。もはや計算意欲を喪失したので省略しますが、これならドラム缶2〜3個でいけるんじゃないかな。

 いくらポップコーンやポテトチップが好きでも、1年分をドーンと出されて食欲が刺激されるかといえば、逆でしょうね。ましてやミックスナッツ一生分なら、死ぬまで食べる意欲をなくすかも知れない。ま。そうしたことも含めて、一種の思考訓練をやってみたってことです。

 でもさ、「一生分パッケージ」って、モノによっては売れそうな気がするんだけどな。

 

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2020年9月16日 (水)

無事之名馬

 

 どうもボクは好感を持てないのですが、菅さんが首相になった夜に知人のイギリス人がラインを送ってくれました。

    Congratulations for your new prime minister, Is this good/bad news in your opinion?

 新首相の誕生おめでとう。あなたの意見ではこのニュースは良いこと/悪いこと? というような意味ですが、そんなことを簡単に英語で表現できるわけがない。そろそろ眠ろうと思っていたので、取り急ぎ「何にも変わらないよ」と返信。

 すると「それはいいこと悪いこと?」と繰り返されて、軽く驚きました。相手にではなく、ボク自身に、です。てっきり悪いニュアンスが伝わると思い込んでいたのに、この知人は外国人のせいかニュートラルなスタンスで「どっちだよ」と重ねて聞いてきたわけですね。それで、ボクがいつの間にか変革・革新=善、保守=悪という前提でモノを考えていたことに気づかされたのです。

 よくよく考えてみれば、変わらないということは決して悪いことではありません。とりわけ昨今の新型コロナ禍では、感染しないで普通に日々を過ごせるのは、むしろ慶賀とすらいえますよね。

 かの文豪・菊池寛も「無事之名馬(ぶじこれめいば)」という言葉を残しています。馬主でもあった彼は、能力が少しばかり衰えても、ケガすることなく元気に走り続ける競走馬を「名馬」と評したのです。とすれば、世の中のほうも取り立てて大きな変化がなく、いつものように平穏に平安に過ごすことができれば、一番のハッピーではないか。

 だからといって、いまの政治で十分なんて死んでも思いませんが、変わらないことを願う人は少なくないどころか、圧倒的な多数派であることを失念していました。野党の皆さんも、おそらくボクのように考えてきたんじゃないかな。それこそが低迷が続く原因であり、いつまでも政権交代できない最大の理由なんだよな。変革や革新は、むしろ勝者・強者の論理なのかも知れない。遅すぎると笑われそうですけど、寝入りばなにそんなことが頭の奥で閃いたのであります。

 

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2020年9月14日 (月)

言葉を弄ぶな!

 

 いつの間に言葉がこんなにも軽くなってしまったのかと、愕然とします。ボクは石破さんの敵でも味方でもありませんが、「グレートリセット」なんて総裁選でよく言えたもんですよね。直訳すれば「大刷新」ということになるでしょうが、では要するに日本をどうするつもりなんだよ。明確なプランがあるなら、凡庸なコピーライターが明け方に思いついたような形骸だけのキャッチフレーズではなく、何をどうリセットするのかを日本語でズバリと言えよ。これでは田舎のジーサンやバーサンが理解できるはずがない。それでも地方の支持者が多いというなら、自民党は相当なインテリ集団なのかな。

 そもそも安倍さんの支持率がここに来て異様に高まっているということは、彼の政策も支持されているってことですよね。それを「グレートリセット」するというんだから、相当な覚悟と具体的な方針がなきゃいけない。なのに、言葉ばっかりどんどん上滑りしていく。野球選手のイチローと石破さんの話し方は、面倒くさくて分かりにくく、言葉の曲芸みたいなところが共通しています。「ていうか」みたいな枕詞で相手の意見を取りあえず否定してから、似たようなことをややこしい言い回しで説明しているだけじゃないか。

 何かね、私はボクはみんなよりこんなに賢いぞ、ということをアピールするだけの話法としか思えないのです。頭の良い悪いは、あくまでも話の内容で判断されることであって、奇妙なロジックやインチキなレトリックじゃないんだけどな。

 ほかにも言い出せばキリがないのでやめますが、このように言葉が軽くなった始まりは、日本人が「愛している」と言い出してからじゃないかな。それまでは「好きだ」「惚れた」程度だったのに、戦後のある時期から男も女も歯が浮いたように「愛している」と言うようになった。それに伴って生まれたトレンドが「言葉にしなければ伝わらない」です。それまでは「言われなきゃ分からないのか」と叱られたのに、愛という言葉の普及と並行して、どんなことも言わなければ分かるはずがないという逆ギレしたコミュニケーションに変わってしまった。

 あのですねぇ。どんな仕事も、言われてようやく理解できるようでは成長や発展なんか望めないんですぜ。自ら学び、自ら工夫して、正解のない問題を自ら解決していくのがプロフェッショナルじゃないか。

 それと同じで、女々しく「愛している」なんて連呼しなきゃ気持ちが相手に伝わらないようでは、先が見えてますよ。ついでに言えば、男なら簡単に泣くな。そんな情けない姿を見ていると、こっちが泣けてきます。我慢に我慢を重ねたうえで頬を伝う一粒の涙にこそ珠玉の価値があると、こんなことも言葉にしなければ分からないのかなぁ。ともかく、何もかもがペラペラのチャラチャラとしか思えないのです。

 

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2020年9月11日 (金)

雲の表情

 

 今の事務所に転居して最も変わったのは、雲を見るようになったことです。流行のタワマンではありませんが、11階建ての上層であり、高い建物が周囲にないため、空の見晴らしが大変に良いのです。

 それまでは恵比寿で5階でしたから、下を見ることはあっても、上の方はチラ見くらい。駅近でビルがズラズラと軒を並べる地域だったので、空が狭いというか、小さいんですよね。ところが、ここでは視野の上半分が空といっても過言ではありません。それで見るともなく見るようになり、雲が実に様々な表情になることに気づきました。特に夏場は圧巻で、息を呑むほど美しい夕焼けがしばしば空を覆うのです。赤やピンクの混濁から薄いブルーそして紺色に至る複雑なグラデーションは、自然が見せてくれる一瞬の絵画といっていいんじゃないかな。

 絵画といえば、レンブラントが描いた雲も特徴的ですが、あまりにもカタチと濃淡がドラマチックなので、ボクは長く彼の創作だと思い込んでいました。こんな雲が現実に存在するはずがないってね。やがて40代の終わりに、たまたま2週間をかけてフランスとイギリスをクルマで旅した時に、あれが本物の写実であることを知って改めて感動したのですが、日本の雲も決してそれに負けてはいません。当たり前といえば当たり前ですが、遅ればせながらも雲を見直すことができて本当に良かった。

  やっぱりね、頭の中でこしらえた物事には限度があります。デジタルな画面に映し出される物事も絵空事の一種に過ぎない。だから諸君、スマホなんか机の上にでも置いて、街や自然の中に出かけようではありませんか。

 

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2020年9月10日 (木)

弱い者イジメ

 

 たとえば真っ黒な大型高級車で、後席すべての窓も黒いフィルム張り。イカにもタコにも反社会勢力を思わせるクルマに、あおり運転を仕掛ける奴がいるでしょうか。自分の前を遮ったとして追い抜き、急ブレーキを踏んで停車したら、逆に黒い服を着込んだ連中が降りてきて、袋叩きにされかねません。暴対法があるので、まさかカタギ相手の無駄な喧嘩はしないにしても、雰囲気だけでも怖いじゃないですか。

 というわけで、あおり運転にどんな理屈があろうがなかろうが、その本質は、弱い者イジメなんですよね。屈強なドライバーが乗っていそうな四輪駆動のSUVが被害を受けたなんてことはほとんどなく、法を遵守する健全な市民が愛用しそうなファミリーワゴンや小型車、軽自動車が狙われてきたんじゃないかな。こういう卑怯な連中は、バックミラーで運転者を必ずチェックしているはずなので、太い二の腕をさらけ出したランニングシャツ姿などを目視したら、ターゲットを変えるに決まっています。運転席の窓をバンバン叩いて「出てこいよ」とやるのも、出てこないと見越しているからでありまして、もしも即座に「やるのかこらぁ」と言いながら威勢良くドアを開けたら、途端に逃げていくのではないでしょうか。弱い奴にはとことん強く振る舞い、強そうな奴には決して近づかないのが、彼らの習性なのです。

  だったら、ドライブレコーダーも結構ですけど、前述したように窓を黒いフィルム貼りにするとか、ド派手な“イタ車”にするほうが抑止効果をもたらすような気がします。ドライバーも空手道場に通うとかね。

  ここまでは半分くらい冗談ですけど、要するにイジメが学校から社会にどんどん浸潤、あるいは発展しているというのがボクの見立てなのです。教室などでイジメを見慣れた子供たちが成長して社会人になると、今度は体力や腕力ではなく、自分より弱い役割や立場にある人を見つけていたぶるようになるんだよな。セクハラもパワハラも、下請け企業に対する優越的立場の濫用も、みんな同根です。マスクを拒否して飛行機を緊急着陸させたクソ野郎も、客と乗務員という立場の格差を十分に理解しているからやったんですよね。警察署でも同じことをやってみろよとボクはオススメしたい。

 こんな卑怯で姑息なことが社会でまかり通るのも、学校段階でイジメをきちんと撲滅できていないことが原因だとボクは睨んでいます。太平洋戦争以前から継承されてきた、人権を平気で無視する日本の組織構造も大いに関与しているでしょうね。何しろ自殺攻撃を軍による上意下達の指示で遂行した国ですぜ。「臭い匂いは元から絶たなきゃダメ」なんていうテレビCMがありましたが、まさにその通り。何たらハラスメントで女性が死んだから新しい法律、あおり運転で家族が事故死したから道交法の改正なんてことを繰り返したところで、やらないよりはマシとしても、結局はモグラ叩きに過ぎないんじゃないかな。

  イジメを根本的になくすためには、やはり学校における倫理・道徳ならびに規範教育を強化するほかないと思います。それがうまくできないのは、教室では教員自身が誰よりも強者=支配者になれるからです。そうした強者と弱者という立場を生み出す構造から変えていく必要があるのに、それが正しく理解されていない。けれども、校門の向こうに世間の声は届きにくいんですよね。

 

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2020年9月 7日 (月)

アナログ体重計

 

 日曜日の朝、いつものように起き抜けにヘルスメーターに載ったら、何と88キロ前後の数字が点滅するではありませんか。極秘を貫いてきたボクのアベレージは75キロ台でありまして、76キロはオーバーウェイト。74キロ台なら痩せる始まりと認識してきました。

 それに比べれば88キロはまったく想定外のデブりようです。大食い選手権に出たわけでもないので、たったひと晩でそんなにも体重が増えるわけがない。電池がアウトになったのかなと、近所の100円ショップで単四を4本購入して交換。もう1度メーターに載り直したのですが、状況は以前より悪くなり、ワケの分からない表示を繰り返すようになりました。ヘルスメーターをひっくり返して調べてみると、2つの足元が壊れてブラブラになっており、それがセンサーに悪影響を与えているようです。

 体重を毎日のように計測しなくても死ぬわけではありませんが、数字を知るのが習慣になっているので、分からないのはいかにも不安です。それで夕方にイオンの3階にある家電量販店で物色しましたが、あはははは、ここで大失敗してしまいました。それまでのヘルスメーターと同じデジタル計は2000円台ですが、その隣にタニタのアナログ式があったのです。これが消費税込みで998円。半分以下の安さです。

 その直前に100円ショップに行ったのが影響したせいか、ランニングコストになる電池が不要で、しかもイニシャルは半額以下なので「これは買いでしょう」と即決してしまいました。

 自室に戻ってパッケージを開け、さっそくトライしてみて、測定のケタが1つ違うことに気づきました。それまでは75.6とか76.3など、コンマ以下の数字がデジタルできっちり表示されていたのですが、こちらは昔ながらのアナログ、というよりバネ式でございまして、数字が刻まれたディスクが右に左にユラユラする仕組みです。このため目盛りもざっくりと1キロ刻み。ボクにとって大切な75から80まで僅か5本の線しかありません。75と76キロの違いは明らかでも、その途中は目分量の見当で75.5くらいかなという大雑把な精度なのです。

 すぐに返品しようかと思ったのですが、よくよく考えれば、人間の体重なんて1キロ単位で変わることは珍しくありません。朝メシを食べるだけで200グラムは増えるだろうし、下痢でもすれば500グラムの減量とかね。にもかかわらず、コンマ以下の数字、つまり100グラム単位の増減が分かると、過度に敏感になってしまうんですよね。実際には1キロや2キロ増えたところで、ジーパンやズボンが履けなくなるわけではなく、シャツのボタンが吹き飛ぶこともあり得ません。

 つまりですね、普通の人にとっては、ざっくりとキロ単位で把握する方が精神的に健康でいられるのではないでしょうか。ダイエットによる減量や体重維持を楽しみにする人もいるので、そうした人にはコンマ以下の数字が達成感につながると思いますが、それ以外の人にはプラスマイナス2〜3キロなんて大した違いではありません。なのに、ボクもそうでしたが、コンマ以下の数字をきっちり突きつけられると気にしないではいられなくなります。

 おそらく、いまというのはそういう時代であり社会なんでしょうね。であるなら、そんな風潮に逆らうこともボクらしい姿勢ではあります。スマホの体重記録もコンマ以下を打ち込む必要がなくなるので、簡単でいいじゃないですか。
 って、ひどく面倒くさい言い訳ですけど、このアナログ体重計をしばらく使ってみようと決めたのであります。

 

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