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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

映画・テレビ

2020年4月20日 (月)

ラジオの時間

 

 結局は想像力、つまるところ知性の問題なんだろうね。繁華街に集まってはいけないと言われると、今度は吉祥寺などの郊外や海・山が大賑わい。新型コロナの好物である「3密」を別の場所で作り出すというのは悪い冗談としか思えません。それよりも、まるきり減らない品川駅のラッシュアワーのほうが大問題なんだけど、これを平気で放置しているんだから、もうなるようになれって感じだよな。

 それもこれも、やはり初動の方法論に問題があるわけで、その責任者は紛れもなく厚生労働省です。いったい誰がPCR検査を過度に抑制し、感染者に対する偏見や差別を広めるようなクラスター潰しから始めたのか。それよりも医療体制の充実に早期から着手すべきではなかったかなどなど、いずれ厳しく検証され、首相と大臣ともども責任が問われる日が来ると思いますが、取りあえずこの程度にしておきます。

 問題はテレビドラマと映画なんだよな。このまま感染拡大が終息しないと、新しい作品が制作できなくなってしまいます。昨日は久しぶりに『Jin〜仁〜』の再放送を見て改めて感動しましたが、出演者が濃厚接触する場面が少なくないので、こんなドラマを今つくるのは無理でしょう。出演者全員がマスクを着けたままでは、泣けるシーンも、ロマンチックな雰囲気もぶち壊しですよね。

 撮影の時だけ外すにしても、スタジオは防音やセキュリティの関係から基本的に「密閉」状態であり、スタッフも「密集」して行動します。さらに主要なキャストが演技する時は、カメラのフレームの中に入るために「密接」せざるを得ません。禁断の3密がきっちり揃っているわけです。野外のロケであれば換気的には申し分ありませんが、どれもこれもロードムービーもどきになってしまう。そんなわけで、もうすぐテレビドラマは再放送ばかりになるだろうな。ワイドショーみたいに社会的距離をあけたり、スカイプなどのテレワークでしのぐわけにはいきませんからね。

 これも現実と割り切って、マスクを着けたままで時代性をリアルに反映した作品もあり得ますが、顔全体が見えないと表情が分かりにくいので、演出が難しい。仮面舞踏会なら妖しさや華やかさはあっても、眼だけギョロギョロのマスク姿では色気も何もなく、著しく興を殺ぐことは間違いありません。

 だったらね、いっそのこと、ラジオドラマに力を入れようよ、というのがボクの提案なのであります。これなら出演者がマスクを着けていようが遠く離れていても、そもそも映像がないんだから、聴いている人は気になりません。カネのかかるセットは一切不要というのも経済的じゃないですか。三谷幸喜は1997年に初監督の映画『ラヂオの時間』を発表しましたが、あんな感じです。音だけのラジオの世界をコメディとして映像化した、彼らしくストーリーが二転三転していく傑作なので、未見の人には超オススメです。

 こんな時代だからこそラジオドラマを「見直す」、というとヘンな表現ですが、映像がない分だけ想像力を刺激されるので、ボクは昔から大好きでした。新型コロナを逆手に取って、歴史に残るような素晴らしいラジオドラマを作って欲しいな。テレビ画面を真っ暗にして音だけのドラマを放送してもボクはかまいませんが、故障や事故だと思われるかな。

 

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2020年3月26日 (木)

生きている証

 

 まったく面白くないなぁ。すでに1か月以上もライブハウス通いを自粛してきたのに、「今週末は不要不急の外出を控えてください」だってさ。要請、つまりお願いだから従うけど、これが命令だったら敢えて逆らうかもしれません。親父からそんな性分を受け継いでしまったから仕方ないんだよな。 

 それにしても、ああつまらない。死んでないことを生きていると判断するのは、医学的には正しくても、文系的かつ哲学的には大いなる間違いではないでしょうか。実際に「医学的な死と経済的な死はまったく等価である」とテレビで喝破した女性の学者もいます。ここまで新型コロナが蔓延する玄関口の頃でしたから、なかなか優秀な人です。ただし、表現が学者風でいかにもややこしい。家に引きこもり続けたら、いずれ餓死しますと簡単に言えばいいのに。 

 さて、『木枯らし紋次郎』です。上州新田郡三日月村の貧しい農家で生まれた渡世人を主役にした股旅物の小説を原作として、1972年からテレビドラマ化されて一世を風靡。テレビには珍しく、前のめりで歩き続ける紋次郎のシルエットをアクセントにした遠景が実に印象的でした。それまでは、小さなテレビの画面でこんな大胆なヒキの映像を見たことがなかったからです。それもそのはずで、映画監督の市川崑が初めて演出したテレビドラマだったんじゃないかな。あ、この人は1964年に開催された東京オリンビックの公式映画の監督でもあります。奇しくも、ということで今とつながりますけどね。 

 それはそれとして、このテレビドラマでお茶の間にまで大流行したのが「あっしには関わりのねぇことでござんす」というセリフです。ホントに関係ないならドラマも成立しないので、あちこちで軋轢を巻き起こしていくのですが、経済がそこそこ発展して個人主義を通せるようになった社会性にぴたりとフィットした言葉だったんでしょうね。 

 そこらの小学生すら、親から宿題を咎められると「あっしには……」などと言い返していたそうです。けれども、ボクが最もインパクトを感じたセリフはそれではありません。 

 誰かから「てめぇは何のために生きているんだよ」と訊かれた紋次郎は、「死なねぇから生きているんでござんすよ」と答えたのです。これこそが、全共闘運動が壊滅した後の空虚なニヒリズムを象徴しているんでござんすよ。こんな形而上的なことをばくち打ちの渡世人が考えているはずがありません。原作者である笹沢佐保の鋭敏な時代感覚が、そう言わせたんでしょうね。 

 そのセリフをボクは、例によって額面通りに受け取りませんでした。これをひっくり返して「死んでないからといって生きているとは限らない」というオリジナルに仕立てたのであります。新型コロナによる閉塞感でどんどん息苦しくなりつつあるからこそ、この言葉を敢えて紹介することにしました。何の参考にもなりませんけど、こうした形而上的思考も、ボクにとっては「生きている」証なのであります。 

 

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2020年3月25日 (水)

死者数が本当の危機を告げる

 

 話題を変えようとしても、東京五輪がとうとう延期決定となると、やはり新型コロナに引き戻されてしまうんですよね。すいません。 

 東京五輪の延期はボクのブログではとっくに織り込み済みなので、驚くにはあたりません。むしろ、周囲に促されて渋々という感じが気分良くない。そんなことになる前に、自主的に提案したほうが世界から好感を得られるとボクは書いたんだけどなぁ。

 それよりも、テレビのコメンテーターがあまりにも通り一遍のことしか言わないのが、今さらながらの驚きです。提案や新味はまったくなく、政策や発表データをなぞるだけ。それでよくもギャラが貰えるものだと呆れてしまいます。暗い予測ばかりを悲しそうな声でぐじぐじと続けるオバサンもイヤだけど、誰だって思いつく常識論をいかにも法律専門家のドヤ顔で声高に語る教授も何だかなぁ。どうせテレビに出るんだったら、もうちょっと面白いことを言えよ。

 自主的な巣ごもり封鎖でテレビの視聴が増えてしまい、新型コロナが一種のリトマス紙となって、コメンテーターのレベルが手に取るように分かるようになりました。そもそも、どうして医療に素人のタレントや芸能人が論評するんだよ。あまり悪口ばかり言っていると、お前の原稿はどうなんだと突っ込みが入る怖れがあるので、ボクがひとつだけ心底から納得した意見を紹介します。

 日本でのPCR検査数があまりにも少ないのは、東京五輪を意識した官僚的な忖度ではないかと以前に指摘しました。今でもこの意見に変わりはありませんが、日本の検査体制が韓国に比べてはるかに脆弱であることも分かってきました。いずれにしても、これでは実際の感染者数が分かりません。致死率だって、分母が変われば違ってきますからね。

 そう考えていたところに、名前は忘れましたが某医師が「死亡者数だけ意識すれば十分なのです」と喝破したのです。続けて「それだけはウソがつけませんからね」と付け加えました。確かに感染者数は検査数によって大きく変わってきます。偽陰性もあるほか、自然に治癒した人もいるでしょう。けれども、肺炎の悪化で死んだ人の数だけは動かしようがない最終的な事実です。中国は例によって謎が残りますが、それ以外の国では新型肺炎による死亡者数こそが明確な指標というのは十分に納得できるではありませんか。

 医療が第一に、そして最後までやるべきことは重症者の救命にほかなりません。それが力及ばなかった結果として死亡するのですから、この数こそが新型コロナの本当の脅威なのです。医療水準も大きく関係してくるので、ボクたちの生存に直結する最重要な指標ともいえるでしょう。 

 テレビではコメンテーターが多すぎて、ここまでの説明はなく、残念ながらすぐに埋もれてしまいました。けれども、ここ数か月の新型コロナ談義で、これほど得心した意見はありません。検査はやらないよりやったほうがいいに決まっています。ただし、それは重篤化させないためという観点に立てば、ドライブスルーでどんどん実施することに果たしてどれだけの意味があるのかとなりますよね。

 日本の場合は、それを楯にして感染者数を抑え込もうとする政治的意図が見え隠れするので、中国並みに厄介なのですが、それにしたって死亡者数は隠蔽できません。もちろん医療関係者や行政幹部は引き続き感染予防に専念していただきたいのですが、ボクたちにとっては、死亡者数があっという間に増加したら、まさに危機的状況と認識すべきです。それまではクラスターやオーバーシュートという言葉に過度に怯える必要はないんじゃないかな。

 それよりも、高齢者など死亡率の高いハイリスクグループへの感染を防止すべきではないでしょうか。ごく簡単に言い切ってしまえば、みだりに人混みに近づくことでウィルスを拡散しないということです。そうした衛生意識の普及しか、今のところ対抗策はないんじゃないかな。イタリアでは医療関係者が「家にいてください」と呼びかけているようですが、それを続ければ飢え死にだもんね。こんな究極の選択を迫られる前に、他人と距離を開けたほうがいい。でもなぁ、これってインフルエンザなどの流感予防と基本的に変わりはないと思うんだけどね。

  

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2019年9月13日 (金)

遊べ!

 

 夏の終わりの恒例となっている某局の24時間チャリティ番組が大嫌いで、ここ10年間を合計しても数秒程度しか視聴していません。だったら意見なんて言えるはずないのですが、悔しいことに番宣というのがあるんですよね。CMの合間に内容の一部を不意打ち的に予告編として放映するので、否が応でも目や耳に入ってきます。それでね、やっぱり嫌いなんだと毎年のように再認識させられるのであります。

 いえね、この番組がもしも仮に視聴率狙いの偽善であってもいいのです。ボクは善も偽善も間に薄紙1枚を挟んだ程度の似たようなものと考えておりまして、むしろ実効に乏しい形而上的な善よりも、大枚の寄付金をドッカンと動かせる偽善のほうがよっぽど皆さんの役に立つではありませんか。

 だから、この番組の主旨そのものに反対するつもりは毛頭ありません。どんどんやっていただいて結構。そもそも日本では寄付の概念が海外より希薄なので、この番組を機に、ボランティアも含めて、他者のために何かをする満足感や充実感を知って欲しいとすら思っています。自分だけの喜びなんて、まるで大したことじゃないんですよね。

 にもかかわらず、どうしてボクはこの番組が大嫌いなんだろうと長く考えてきました。今では生理的なレベルに達しており、番宣だけで肌からブツブツが、って嘘ですけど、それくらい嫌いなのです。

 その理由がね、いくらか年寄りになったせいか、やっと分かってきたのであります。何のことはない、「頑張り」の直接的・間接的な強要に拒否感を覚えるんですよね。あまり文章が長いと飽きられるので結論を急げば、あのチャリティ番組は、みんなの「頑張り」を称賛することが基本的な制作理念なのです。それを過度に演出するあざとさが目立つせいか、ボクは時に「イタさ」として感知してしまう。
 
誤解して欲しくないのですが、頑張りを否定するわけではありませんよ。それで生きがいを得られるなら、どんどん遠慮なくやったほうがいい。でもさ、他者から「強要」されるいわれはありません。しかしながら、あの番組はストーリー的にも、雰囲気的にも、過度に「頑張り」を要求するのです。人気タレントによる意味不明の100キロマラソンが象徴的ではありませんか。

 頑張るのが個人の勝手なら、ダラダラのんきに生きるのも同じく個人の権利ですよね。なのに「頑張り」のほうだけを画一的に臆面もなく賛美してやまないところが大嫌いなんだと、やっと最近になって分かったのです。

 高齢者にしても、近年はアンチエイジングという生物学的には無理目の「頑張り」が求められるようになってきました。「ワタシ何歳に見える?」とか「筋肉増強に年齢は関係ない」といったワードも、ボクにはイタく思えてなりません。

 じゃ、年寄りはどうしたらいいんだ、ワタシはボクはどうすりゃいいの? って思いますよね。これはもう実に簡単です。頑張るのでなく、遊べばいい。遊び自体が社会道徳的に悪と見られてきたせいか、どうもボクたちは遊びが少な過ぎると思いませんか。遊びというのは能動的に自主的に人生を楽しむと言い換えてもいい。求められてやる、強いられてする、期待に応えるための頑張りとは、そこのところが根本的に違うのです。頑張りには心理的物理的な報奨が伴いますが、遊びにそんな利得はありません。だから純粋に、気楽に、何も期待せずに、遊ぶ。

 もっと簡単に言えば、ジーサンになっても必死で頑張らなきゃいけないなんて、ボクはイヤだなぁ。資産や年金の多寡ではなく、年を経た分だけ心に余裕があって然るべきです。そこから生まれるのが遊びとすれば、「年寄りの冷や水」よりはるかにカッコいいのではないでしょうか。

 

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2019年9月 2日 (月)

他人の不幸は蜜の味

 

 地上波はほとんどニュース番組しか見ないのですが、日本は他国の内情を異常に気にする国ですよね。ヘタすると当該国自身より詳しいかもしれません。国内のニュースはほかにないのかよ。政治とか経済とか、大切なことはほかにいろいろあるはずですよね。特に政権与党が独断できる閣議決定にもっと厳しく目配りする必要があるんじゃないかな。

 たとえば現在は韓国の高官候補に関する醜聞がもっぱらの対象になっており、「他人の不幸は蜜の味」とまでは言わないにしても、その懐を窺うようなことをしていると感じるんだよな。「タマネギ男」なんて日本にもいるはずです。大昔にこれを「疑惑のデパート」と表現した野党議員がいましたけどね。今だって口利き疑惑から逃げて辞任した代議士を放置しておいていいのかなぁ。叩けばホコリがもっと出てくるような気がします。

 あまりにも不愉快なので簡単に終わりますが、日本在住のコメンテーター同士が隣国を巡って激しい口論をするなんて、ホントにバカみたいな話です。そんなことよりも、国益を損なうことなく紛争や摩擦を解決するために、国策として何をしたらいいのかってことを話し合うほうが建設的ですよね。にもかかわらず、あたかも某首相のお先棒を担ぐかのように、国民の憎悪を煽ろうとする。太平洋戦争がどこから始まったのかを知っているのでしょうか。これでは官僚たちの忖度を声高に批判する資格なんてありませんよ。

 日本が大嫌いとは言いませんが、こうした下品で姑息極まりない側面を見てしまうと、ますます好きではなくなってきます。「だったら出て行け」と怒りまくる人たちの狭量さも何だかなぁ。こういう人たちはトランプ大統領の移民排斥にも賛成なのでしょうか。

 ともかく、他人の顔色や懐を窺う以前に、国家も、ボクたち自身も、主体的にやるべきことは一杯あるはずです。それをテレビで討論すべきなのに、隣国の不幸やトラブルに飛びつき、微に入り細を穿つような報道を繰り返す。それこそポピュリズムの極みというべきでしょう。

 そういえば、台風や豪雨などで「もの凄い風と雨です!!」とアナウンサーが絶叫するテレビの災害中継が妙に嬉しそうに見えて仕方ないんだけど、ボクだけの誤解または曲解でしょうか。

 

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2019年8月26日 (月)

歌って踊ろう!

 昨日は日比谷で『ダンスウィズミー』を観てきました。

 大感動の傑作映画『スウィングガールズ』(2004年公開)の矢口史靖監督によるミュージカルコメディなので、行きたいなぁと思いつつも、後でDVDを借りても十分かなと、ためらっていたんですよね。というのも、日本で本格的なミュージカル映画を作るのは相当に困難だからです。昔とはかなり変わってきたとはいえ、国内の舞踊人口は欧米に比べて極端に少なく、しかも体形的な問題が伴います。腕と足が長いだけでなく、スネのあたりがまっすぐな人が少ないので、欧米型のダンスをやらせると見映えが良くないんですよね。しかも歌が上手な人ともなれば、キャスティングの段階で企画がボツになりかねないほど合格者が少ないはずです。ブロードウェイやウェストエンドでは5歳の頃からバレエを踊っていたなんて人が珍しくないですけどね。

 かといって、米倉涼子のように知名度の高い人を今さら起用しても面白くないですよね。そもそもボクは彼女にあまり魅力を感じません。セルロイド製の人形みたいに、情緒をまるで感じさせないのはどうしてでしょうか。
 とにかく、新しい映画なら新しくキラキラ輝くスターが出てこなければ新鮮味がありません。そんなわけで、あまりにも期待し過ぎて失望するのがイヤだったんですよね。

 ただ、こうしたミュージカル映画(と戦争映画)は、劇場の大画面で大きな音響で観なければ迫力が感じられない。自称ミュージカル評論家としては、やはり映画館に足を運ぶべきだろうと、ようやく昨日になって決心したのです。

 その感想ですが、冒頭の2つのシーンは絶品で、日本の映画でもここまでやれるんだと感動しました。主演の三吉彩花という女優さんをボクは知りませんでしたが、身長もそこそこ高く、手も足も長くて、スネも真っ直ぐと、前述した条件に合致します。まだ歌は上手とはいえず、ダンスもキレに欠ける部分はありますが、そんなことよりアーモンド型の大きな眼に不思議な力がある女優さんなんですよね。

 そんな彼女がオフィスと高級レストランで歌って踊って「暴れ回る」シーンが実によくできているのです。群舞も大きな動きでみごとにアンサンブルしており、ボクが期待するミュージカルに仕上がっておりました。あれだけの人数が彼女のダンスに合わせて踊るのは大変だと思いますよ。リハーサルだけで何日もかかったのではないでしょうか。

 しかしながら、この2つのシーンで疲れ果ててしまったのか、それからの展開がいささかダレ気味。ロードムービー的な展開は結構ですが、無駄な描写が多く、笑わせる場面もタイミングがズレているように感じました。これを切り詰めてもう2〜3曲、群舞を含めて背後の抜け感が高いダンスシーンがあってもいいと思うけどな。それに画面がチープなことも否めません。映画はリアルではなく夢の世界ですから、大都会と対比する地方の場面とはいっても、もうちょっとリッチに作り込んで欲しい。いくら何でも現実そのまんまの借景では、安っぽく感じられるだけでなく、綺麗ではありません。せっかく往年のミュージカルスターである宝田明を起用したんだから、いくら落ちぶれた役とはいえ、もっと彩度が明快なシーンにできたんじゃないかな。

 とか何とか文句はいろいろ言えるけど、ボクはミュージカルコメディの大ファンなので、それを支援する加点を込めて、まぁまぁ良く出来た映画としてオススメいたします。何だか奥歯にモノがはさまったようですけど、前述した日本の舞踊環境を考えると、頑張ったほうだと思います。

 この映画を観て、オレもワタシも歌って踊りたいという人が沢山出てくるといいのになぁ。踊りや構成にしても、何も『ラ・ラ・ランド』(2016年公開)みたいな欧米型のミュージカルを追いかけなくてもいいじゃないですか。次回は「オペレッタ喜劇」といわれる『狸御殿』を真似た和製スタイルにチャレンジしてみたらどうだろう。そんな映画にも三吉彩花は似合うと思うけどなぁ。いずれ大女優に成長していく可能性を感じさせる新人です。

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2019年8月21日 (水)

SVU

 

「イヤよイヤよもイイのうち」なんていう艶っぽさを感じさせる文言がありますが、こんなものは日本の男社会だけの大きな勘違いで、アメリカでは牢獄にぶち込まれかねない危険な認識であることを教えてくれるテレビドラマがあります。

 ディック・ウルフ製作の“Law Order”からスピンオフした“SVU, Special Victims Unit”。日本では『性犯罪特別捜査班』と訳されています。強姦などの性犯罪から幼児虐待、人身売買などを担当する市警専門チームの活躍を息苦しくなるほどのリアリティで描いたドラマです。卑劣で凄惨な事件が多いにもにもかかわらず、1999年から始まってシーズン21を数える長寿番組になっているのは、これらの犯罪がアメリカでは決して他人事と感じられないからでしょう。

 刑事が犯人を追い詰めていくだけでなく、“Law Order”つまり「法と秩序」というタイトルらしく陪審員が評決を下す法廷場面まで継続。そこで暴力的で悪質な連続強姦なら懲役20年以上、ヘタすれば刑務所から一生出られないほどの厳罰が科されることが示唆されます。幼児性交なら一生にわたって記録が消えないほか、地域にも常に所在が告知されることに。強姦は魂の殺人といわれますが、有罪が確定すれば犯人の人生も一瞬で崩壊することになるわけですね。

 それに比べて、日本では輪姦でも執行猶予がつくほど刑罰は軽く、明らかな証拠があるのに政府高官への忖度から不起訴というケースすらあります。どうして彼我でこれほど違うのだろうと考えますよね。それでようやく、恥ずかしくも遅ればせながらボクが気づいたのは、同意を得ない性行為は人権侵害にほかならないということです。つまり、いかなる性犯罪もすべては人権を毀損する犯罪であり、だからこそ厳罰に処される。このあたりの認識や感覚がアメリカと日本ではまるで違うんですよね。

 そのせいか殺人と同じく時効がないらしく、20年も前のレイプが蒸し返されたりする。この「蒸し返す」というのも、やった方の感覚であって、された方は心に一生忘れられない深い傷を負います。そんなこともしっかりと分からせてくれる、大変に教育効果の高い番組なので、若い人並びに教育関係者に視聴をオススメする次第です。

 

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2019年7月11日 (木)

横並び

 

 そりゃもうジャニー氏の業績は偉大で、勲章ものだろうと心底思いますが、この横並びの大量報道は何だよ、って思いませんか。

 しかも、事務所のタレントの映像を垂れ流し状態といっていい。だぁからね、ボクは地上波を見ないのであります。どのチャンネルを見ているのか、すっかり忘れてしまうほどみごとな横並び。商業放送ですから、視聴率を稼ぎ、それにもとづく広告費でいろいろとまかなっているのはガッテン承知の上でも、ちょっとなぁ。訃報といえども芸能ニュースですよね。しかも、内容が各局ほとんど同じで、上っ面をサラリと流しているだけ。最後に、お世話になったタレントの追悼コメントでまとめるというのは安易に過ぎるんじゃないかな。

 新聞社には亡くなりそうな人の予定稿があるといわれるのですが、入院されてからほど良く時間があり、失礼ながら容態もまったく予測できないものではありませんから、準備する期間はあったと思うんですけどね。にもかかわらず、ほとんど構成を投げているのではないかと思うほど工夫がありません。

 かと思えば、BPOが放送倫理違反と認定した海外の祭りのデッチ上げなど、日本のテレビは末期状態といっていい。これまでエンタティンメントとしての大ウソがなかったとはいいませんが、いかにもドキュメンタリーの顔をしたヤラセは大問題ですよ。これではネットにどんどん視聴者が流れても何の不思議もありません。衛星放送は受信費用がかかりますからね。

 それもこれも、業態が安定して人気業種になったからでしょう。昔のテレビ局は、いまのネットと同じく新興産業であり、混沌としたエネルギーに満ちていました。それがいつの間にか役所のような組織主義となり、横や上ばかりを見るようになってきたんじゃないかな。これは古今東西のいかなる産業にも共通している病理なので、もう少し深く考察したいのですが、本日は時間がないので、このへんで。ああ、それにしてもなぁ。。。

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2019年7月 2日 (火)

寅さんはホントに面白いか

 

 たまに衛星放送で映画『男はつらいよ』を見ますが、やっぱり面白いとは思えないんだよなぁ。こうした指摘はボクの若い頃にもあって、あの映画は東大卒のエスタブリッシュメントが夢想した架空の庶民の物語に過ぎないと、階級闘争史観で批判する人もいたように記憶します。

 フィクションですから、そもそも架空に決まっているわけでね。映画で描かれている生活や人間たちが、それほどまでに現実離れしているとは思えません。登場人物も皆さんそれなりに魅力的なのですが、とにかく何しろボクには笑えなかった。2~3本はちゃんと最後まで見通したように思いますが、ニコリとかニヤリはあっても、1度として声をあげてワッハッハとなったことがありません。正月の風物詩のひとつであり、偉大なるマンネリ感で安心して見られるとはいっても、あの映画は絶対に喜劇ではないですよね。

 衛星放送の再映でも、すぐに落ち着かない気分になってチャンネルを替えてしまいます。だってさ、面白く感じないだけでなく、いたたまれない時だってあるもんね。人気シリーズのはずなのに、どうしてだろうとずっと考えてきたのですが、先が読めるお決まりのストーリー展開もさることながら、やはり主人公の寅さんに原因があるんじゃないかと思うようになりました。渥美清の演技や語りはさすがに上手です。表情の作り方も、誰にも真似できない巧みさがある。けれども、最も肝腎な精神性というか、メンタルの部分が主人公の設定とは一致しないように感じるのです。

 寅さんに近づくマドンナたちも、わざとらしさがありありなんだよな。「まーた寅さんたらぁ」と肩を叩いて笑ったりするんだけど、そのあたりから無理しているように見えませんか。寅さんにしても、心底から惚れている風情が感じられない。なのに、結局は我慢できず関係性をぶち壊すような行動に出てしまう。妹のさくらをはじめとする家族や周囲がそれなりの現実感を持っているのに対して、寅さんとマドンナだけが宙に浮いた存在のように感じるのです。寅さんは女にふられるブサイクで甲斐性なしの風来坊のはずなのに、2枚目の雰囲気がどこかに必ず漂っています。最初の頃の作品は知りませんが、寅さんの内面と外面が次第に乖離してきたことが、ボクを居心地悪くさせている原因ではないでしょうか。渥美清もそれに苦しんでいたのか、たまに哲学者のような相貌を見せるんだよな。

 亡くなった人の悪口を言うつもりはなく、あくまでもボクの仮説に過ぎないので、事実とは大違いの映画論と嘲笑する人もいるでしょう。もしかすると「みんなが面白いといっているから面白いに違いない」という人たちがよってたかって寅さんを神格化。結果的に全48作品という途方もない「国民的映画」に祭り上げてしまったことに、何よりも不愉快を感じているのかもしれません。

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2019年6月24日 (月)

逃亡者

 

 実刑が確定していた窃盗犯が逃走して大騒ぎになりましたが、昨日早朝に横須賀で確保されたようです。以前から警察官が「事なかれ」の木っ端役人体質を強めているように感じてきましたが、検察関係者もあまり変わらないみたい。両者ともに、市民生活の安寧秩序を維持・保全する刑事司法の専門家であるはずなんですけどね。有罪で実刑まで告知されている犯罪者を、いくら保釈中とはいえ、むざむざと取り逃がすなんて大失態ではありませんか。

 といっておきながら、矛盾するようですが、日本はホントに狭い国だなぁと感じてしまいます。面積という意味だけでなく、人の眼や口から逃げ切ることはできないんですよね。密告社会ではないにしても、「あそこで見かけた」とか「ここにいたよ」なんてね。子供の虐待なども含めて、警察など公安関係者に連絡するのは市民の義務ですけど、隠微な喜びもきっとあるんじゃないかな。太平洋戦争の前から戦中は「あの家の身内にはアカがいる」「西洋の楽器を毎晩弾いているからスパイじゃないか」とか、「英語を話していたんですよ!」などと特高警察に告発する人も珍しくなかったらしい。当時はそれもまた法律に則った正義でしたからね。

 大昔に『逃亡者』というアメリカのテレビドラマがありました。リチャード・キンブルという主人公の名前は今でも覚えています。妻殺しで死刑判決を受けた元医師が逃亡して濡れ衣を晴らそうとする物語で、ハリソン・フォード主演で劇場用映画にリメイクされたこともあります。

 アメリカは日本の25倍の面積があり、誰も足を踏み入れない荒々しい自然も残されているので、そこでキャンプすれば逃げ切れそうな気もします。けれども、そんな手つかずの大自然で食糧を自給自足するのは困難であり、完全に孤立した状態で人間は生存できません。というわけで、人間社会に潜みながら、真犯人を探し出すというドラマも成立するのですが、毎回必ず、彼を助けようとする人が出てくるんですよね。もちろん当局に通報する人もいるのですが、助けようとする人たちの葛藤が本当のテーマだったんじゃないかな。逃亡者の心情は自分の冤罪を証明するという一直線ですが、彼に好意を感じたり、無実だと信じて助ける人たちは大変に複雑です。犯人隠匿や逃亡幇助は違法ですから、ヘタすりゃ自分が逮捕されることもあり得る。にもかかわらず、いつしか心の天秤が本来的な正義のほうに傾き、リチャード・キンプルは司直の手を逃れて別の町へと去っていく(ちょっと言い方が古いかな)

 ここからはボクの個人的感想なのですが、どうもアメリカ人は法律を信用していないフシがあります。小説やドラマでも、法律を敢然と無視する決断や行動がしばしば描かれているのです。コンプライアンスよりも、自らが信ずる正義や理念のほうを大切にする。つい最近に見たテレビドラマでは、何と現役の検察官が脳死した子供の呼吸器のスイッチを切るなんていう場面がありました。もちろん殺人であり、日本ならどうしたって有罪ですが、このドラマでは無罪。言うまでもなく、アメリカの法廷は12人の陪審員の評決で結審するからです。彼らの全員一致が原則ですが、殺人=有罪とは限りません。近代法では復讐は罪として禁じられており、それを認める国はごく一部ですが、アメリカの法廷で陪審員の同情を得ることができれば、無罪になることも可能なのです。陪審員の有罪評決が期待できない事件はそもそも起訴しないということもあるようですね。

 となれば、法律なんていうのは単なる目安、スタンダードに過ぎないのです。ここのところの理解がね、日本人は著しく欠如していると思うのであります。さすがに奴隷とは言いませんが、法律や体制に盲従するばかりで、自分のアタマで物事を考え、判断し、行動することを放棄しているのではないでしょうか。法律で決められることには限界があり、その網からこぼれる正義や悪はいくらだってあります。さもなければ裁判なんてやる必要はないですよね。法治国家の法律は、倫理や道徳における最高度の金科玉条ではなく、誰かが案を提出して国会の多数決を通過しただけのことじゃないですか。

 本当に大切なことはボクたち自身の心の中にしかない。それをきちんと認識することが、少しでも生きやすい社会を創っていくバックボーンになると思うのですが、いかがでしょうか。

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