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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

書籍・雑誌

2017年8月21日 (月)

Farewell, My Lovely

 

 カッコいい英語、というジャンルがあるなら、ボクがダントツで1位に推したいのが、"Farewell, My lovely"です。

 Goodbye でなくてFarewellGirlfriendLoverでなくてMy Lovely。これほど深い意味と余韻を感じさせる英文はちょっとほかにないんじゃないかな。これだけで物語を3つや4つは書けるような気がします。

 

 知る人ぞ知るレイモンド・チャンドラー(1888〜1959年)の小説のタイトルでありまして、1956年に清水俊二氏は『さらば愛しき人よ』と和訳しています。これも実にまったく素晴らしい日本語ではありませんか。2009年に村上春樹氏が再び翻訳版を発表していますが、この時の邦題は『さよなら、愛しい人』。うーん、ちょっとばかり軽いかな。読んでないので内容は評価できませんが、「男の痩せ我慢」がコンセプトのハードボイルド小説なのですから、やはり知的な印象を与える文語的な固い語感が欲しい。そう考えると、"Farewell, My lovely"も、『さらば愛しき人よ』、も非の打ち所がまったくないので、変えようとすればするほどヘンなことになっていきます。

 

 現実の別離もそれと似ていて、ジタバタとあがけばあがくほどお互いが醜くなっていくので、サラリと潔く別れるほうが強い印象を残すんじゃないかなぁ。ちなみに、ということで以前にボクが作った言葉を紹介しておきましょう。

 「恋の始まりは誰もが賑やかになるが、その終わりはいつも静かだ」

 この心境に至るまでに、どれだけの血と汗と涙を流したことか、って冗談ですけど。

 

 さて、チャンドラーですが、ボクが感動したのは独特の文体です。初めて読んだ時には、これでも探偵小説、推理小説かよと驚愕しました。それほど圧倒的な文芸的魅力を感じたのです。その分だけストーリーは正直いって面白いとは感じませんでした。だから話の筋を追った映画化もあまり成功しているように思えないのはボクだけかなぁ。1975年に原題のままで映画化された時には、主人公の私立探偵、フィリップ・マーロウをロバート・ミッチャムが演じましたが、そりゃちょっと違うだろと。陰りや深みに欠けるんだよな。過去のある女を演じたシャーロット・ランブリングはありですけどね。

 

 大昔の映画なのでさっさと終わりにしますが、余韻のある英語として、チャンドラーの小説からもう1本だけ紹介しておきます。

 "The Long Goodbye"。 1953年に発表されたフィリップ・マーロウものの第6作です。邦題は『長いお別れ』(清水俊二)。うーむ、こちらもたっぷりと含みを感じさせる秀逸な英文&和訳というほかありません。

 

 最近はやたらに長いタイトルの小説やら映画が流行しているみたいだけど、もうちょっと言葉を大切にしようよ。

 

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2017年5月25日 (木)

愚直

 

 愚直。辞書では「正直過ぎて気が利かないこと」「正直なばかりで臨機応変な行動を取れないこと」と解説されており、オマケに「馬鹿正直」という言葉まで添付されております。

 

 「直」はいいとしても、それに「愚」をつけたら良い意味になるはずがない。この言葉を造った人は、正義を貫くことが愚かなことだと思っていたんでしょうね。ということは、すごくアタマはいいけど、根性がねじ曲がった、本当にイヤらしい奴だろうなと想像してしまいます。

 

 それを実証するかのように、最近は政権+行政関連の小狡い実態がバンバン明らかになっております。「忖度」とか「総理のご意向」なんてね、それって何だよ。近場の目端が利く奴ばかりが東大を出て官僚になったら、この国はちょっとヤバいっすよ。

 

 そうした不正を監視すべきメディアも、卑劣・卑怯の誹りなんか屁みたいなもので、とにかく「売れたもの勝ち」だもんね。『週刊文春』が『週刊新潮』の中吊り広告を事前入手して、特ダネの後追いならまだしも、先行取材を偽装するみたいなことが発覚しました。

 本日発売の『週刊文春』では、面白いことに池上彰氏が自身のコラムで、この事件を取りあげていました。これを掲載拒否すると文春も朝日新聞の轍を踏むことになるので、自社批判もやむなしとなったのだと思います。彼のコラムは、例によって最初は中立的なスタンスでしたが、最後は「文春さん、狡賢いと言われても仕方ありませんよ」と結ばれています。そういえば、あの会社は東大比率がすごく高いと聞いたことがあります。

 

 この結論に至る前段として、「事実とすれば、汗をかかずに情報を得て競合誌に並び立てるわけで、新潮社側はさぞ悔しいだろう」「我々まぬけで良かったかもしれませんね、先輩」という某新聞のコラムが紹介されておりました。そんなことを言い切れる会社かなという疑念はありますが、まぬけだの愚かだのと言われても、絶対に不正をしない・許さないというのはメディア自身にこそ必要な姿勢ではありませんか。

 それが揺らいでいるのは、やはり結果重視の風潮であり、それを促進しているのが「受かったもの勝ち」の受験教育というのがボクの見立てなんだけど、どうでしょうかねぇ。

 

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2015年1月16日 (金)

不寛容な時代

 

 漱石や鴎外など近代日本の文学者に共通した精神性を「不機嫌」と表現した著作があります。『不機嫌の時代』(山崎正和著)というタイトルで新潮社から1976年に発刊。1986 年には『不機嫌からの精神史的考察』というサブタイトルが加わって講談社学術文庫になりました。

 

 明治維新を経て文明開化を果たした日本ですが、おかげで近代的な自我をどのように確立すべきかに悩み、それが不安や鬱屈という「不機嫌」として作家の精神性に影響を与えたとボクは理解しています。江戸時代の封建制のほうが不自由で窮屈なだけにすべてを依存しやすく、自我を意識する必要がなかったので、近代という新しい時代性に困惑した知識人ならではの「特権的な感情」ってことでしょう。庶民の多くはちょっとばかり社会が変わっても生活に追われるだけで、自我なんて高級なことを考える余裕はなかったはずですから。このように表現すると文芸評論家から「簡単過ぎる」と叱られそうですけどね。

 

 ともあれ、この「不機嫌」は日本人にとって大変に受け入れやすい概念らしく、1997年にはピーター・タスカという人が『不機嫌な時代-JAPAN2020(講談社)を発表しています。こちらは明治期よりもっと分かりやすく、バブル崩壊後の経済停滞による閉塞感をこのように表現したみたいですね。すいません、読んでいないのでアマゾンの要約です。

 

 21世紀になっても、2008年に講談社現代新書から発刊された『不機嫌な職場-なぜ社員同士で協力できないのか』(河合太介、他著)が大きな話題を呼びました。ビジネス週刊誌がたびたび特集のテーマにしたので、覚えている人も少なくないと思います。

 

 このように概括してみると、明治の頃から「不機嫌」は断続的・定期的に続いており、まるで解消されていないわけですね。機嫌が良かったのは、おそらく日清・日露戦争に勝った頃と、高度成長期というほんの僅かな年月だけだったのではないでしょうか。

 

 前述した『不機嫌な職場』という問題も、近年はいよいよ深く沈潜しているような気がするので、現在進行形と考えるべきでしょう。

 

 まぁ、それでも「不機嫌」というのは、どちらかといえばアッパーでなくダウナー系の感情なので、他人に及ぼす被害は比較的に深刻ではないと思うのです。むしろボクがそれと「比較」して強く心配しているのは、やはり21世紀に入ってから顕著になってきた「不寛容」のほうなんですよね。

 

 批判や反対を理屈や討論抜きで封じ込めてしまう閉鎖的な感情というか、集団的な強圧メンタリティというべきか、とにかくそうした雰囲気が次第に強くなってきたと思わざるを得ないのです。そして、これは日本という極東の島国に留まらず、先日発生したフランスでの悲惨な襲撃事件が象徴するように、世界を覆い始めていると認識すべきではないでしょうか。

 

 この「不寛容」は排他的であるだけでなく、攻撃性も不可分なセットになっているだけに始末に困るわけです。どう考えても「不寛容」な社会より「寛容」な社会のほうが楽に生きられるじゃないかとボクは思うのですが、そうは考えない人たちもいるようです。そうした「不寛容」すら、「寛容」であろうとするなら認めなきゃいけないですよね。

 つまり「不寛容」に比べて、「寛容」のほうが圧倒的に分が悪い=弱いのです。だからヘタすれば、これからは「寛容」から「不寛容」に移行する人の増加も考えられるではありませんか。

 

 そんなこんなで、この課題はとても1回のブログでまとめられるようなことではないので、引き続きブログのテーマにしていくつもりです。

 

 なお、恒例の時計取材でジュネーブに出張するため、来週はお休みしますが、旅先で気づいたことがあればアップするので、時々はチェックしてみてください。でも、ヨーロッパでまた何か起きたらイヤだなぁ。

 いずれにしても、翌週26日からは完全再開する予定です。

 

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2014年10月22日 (水)

答は内に

 

 相も変わらず「ナントカ力」とか「こうすればこうなる」といったノウハウ本というか自己啓発本が人気なようです。テレビのニュースショーでも「大変に参考になりました」「役立ちます」などと評価する通行人が登場。それだけならまだしも、他人にも勧めるというので驚きました。ボクなら放っといてくれって言うだろうなぁ。

 

 こうした自己啓発本は書籍全体の6割にも達すると聞いたことがあります。新聞にもデカデカと広告が出ることも珍しくないので、やっぱニーズがあって売れるのでしょうね。

 

 ボクの若い頃は、こうした本はほとんど見かけませんでした。あっても、むしろ馬鹿にすることのほうが多かったような気がします。そりゃそうですよ。本一冊を読むだけで、仕事ができるようになったり英語が話せるようになったり、上司から好かれて人事評価が上がったり人生が楽しくなって幸福になるなんてことは、まずあり得ないと普通は思いますよね。

 

 しかしながら、こうした自己啓発本は、ボクの記憶に限ればバブル崩壊後の90年代に急増したように感じます。大学の数もこの時期に急増したんですけどね。資格の人気もかつてなかったほど高まっていました。このため、受験教育が背景にあるという仮説を立てられます。大学入試や資格試験で「こうすりゃ受かる」を教えられたなら、人生だって「こうすりゃ幸福になる」という方法があると考えるようになってもおかしくはないですよね。

 

 そのせいか、ボクのブログの歴代ページビューのトップは「お金持ちになる3つの絶対法則」です。20091116日に書いたものですが、今でも「お金持ちになる」というようなキーワードで検索して閲覧する人がいるようです。それでいろいろとチェックしたところで、ネットは基本的にタダの情報ですから、本当にカネ持ちになる秘訣を教えてくれるとはとても思えません。それでも、そうした秘訣がどこかにあるだろうと探し求める心情が、自己啓発本の人気も支えているような気がします。

 

 けれども、仕事や人生には大学受験のようなノウハウや方法なんてあり得ないですよね。なぜなら、受験生は共通の属性を持っていますが、仕事や人生は人によって個別単独が普通だからです。いいかえれば、それぞれそれなりのバックグラウンドに基づいた状況・環境から人生観や幸福論もあるはずですから、それを「こうすりゃこうなる」と一括してまとめることなんてできないわけですね。

 

 求める答も千差万別ですから、となれば自分の外側ではなく内側を見つめるしかないじゃないですか。そこでジタバタとあがいて試行錯誤しながら自分流を作っていくしかないとボクは思います。そこには教科書も参考書もなく、近道もバイパスルートもありません。そのかわりに、ズルして他人を出し抜くという秘訣もないわけです。

 

 中教審では道徳を教科にする答申をしたそうですが、そんなものを今さら押しつけるより、学校で教えなきゃいけないもっと大事なことがあるだろうとボクは思うんですけどね。

 

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2014年10月21日 (火)

消える職業

 

 今週発売の『週刊現代』111日号で、「オクスフォード大学が認定 あと10年で『消える職業』『なくなる仕事』」というタイトルの記事が掲載されていました。イギリス・オクスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授による論文『雇用の未来−コンピュータ化によって仕事は失われるのか』をベースにして、本人にインタビューした内容をまとめたものです。

 

 それによれば、コンピュータの技術革新によって、これまで人間しかできないと考えられていた仕事がどんどんロボットなどに代替されていくとして、「今後1020年程度で、米国の総雇用者の約47%が自動化されるリスクが高い」と彼は語っています。

 ボクは、この記事を読んで「あれ?」と思った後に、「いま頃かよ!」と感じてしまいました。

 

 というのも、すでに20118月にアメリカ・デューク大学の研究者であるキャシー・デビッドソン氏が、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」と語っており、それが世界的な話題になったからです。

 

 さらに同年には、やはりアメリカ・マサチューセッツ工科大学の経営大学院であるスローンスクールの研究者が「Race Against The Machine」を自費出版。これも大きな話題になりました。いささか遅ればせですが、これを原本とした訳書が20132月に発刊された『機械との競争』(エリク・ブニョルフソンほか著、日経BP)なのです。かなりの仕事をコンピュータが行うようになり、多くの労働者がそうした機械との競争に敗北しつつあるという衝撃的な内容です。

 

 ボクはこれらの内容をメディアで簡単に紹介したり、将来的な専門職のあり方などを考察した文章を発表してきたので、今回の記事がどうしても「今さら」の「後追い」に感じざるを得ないんですよね。「消える職業」「なくなる仕事」として具体的な職種名が挙げられているということが大きな違いですが、これはボクたちにとってまったく予測不可能ということでもないでしょう。どんな仕事もなくなる可能性があり得る、とまとめてしまえば誰も否定できないと思いますが。

 

 ボクだって知らないことは山のようにあるので、決して批判はできないのですが、この記事の編集者は上記の背景をまったく知らなかったのでしょうか。それとも知っていたけど敢えて無視したのかなぁ。

 関連用語でインターネットをちょいと検索すればいくらでも似たような内容が出てくるので、知らなかったとは考えられません。けれども、仮に知っていて無視したとしたら、あまり読者に親切とはいえませんよね。2011年頃から学者たちが指摘してきた流れの中にこの論文が位置づけられるとして、内容が歴史的かつ立体的に理解できるではありませんか。少なくとも「仕事が機械に奪われると言っているのは、この准教授だけではないようだ」と納得が深まるように思うのです。

 

 敢えてこのように指摘するのは、この記事の最後で「人間は機械にできることは機械にまかせて、より高次元でクリエイティブなことに集中できるようになるわけです」と准教授が結論的に語っているからです。これは即ち既存の職業や仕事にも共通することであって、どんなことでも「より高次元でクリエイティブ」にできれば、コンピュータに奪われる=機械に負けることもなくなるという理屈になりませんか。

 

 ボクたちは、この記事づくりも含めて、果たしてそれだけの工夫や創造性を発揮しながら仕事をしてきたのかなぁと、多大なる自戒を込めて感じるのであります。

 

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2014年10月15日 (水)

Take It Easy

 

 今は他者をホメるよりケナすことに快感を感じる時代なんですかねぇ。たとえば中国人や韓国人の不遜で無礼な態度はボクも海外で何度か経験していますが、それを根掘り葉掘り繰り返して批判や攻撃することに建設的な意味があるとはあまり思えません。

 

 日本人だって、ほんの数十年前は旗を立てた団体旅行の不作法が世界中から非難されたことがあるじゃないですか。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるように、どんなことにだって過渡期はあります。それが気になるのであれば、近づかないで「敬遠」すりゃいいだけのことです。

 自分が嫌いだと感じる奴はこっちも嫌いになるように、軽蔑や憎悪はどんどん連鎖していき、やがては手がつけられなくなるほど膨張することも歴史が証明しています。これはものすごく危険な兆候なんですけどね。

 

 かと思えば、某ビジネス誌の大学ランキングで「仕事で使えない人材」が多い大学というネガティブな発想での順位付けが話題になっているようです。たとえば仮に卒業生10人のうち3人くらいが本当に仕事で使えないと評価されたとしても、その大学がこうしたワーストなランキングで上位に入れば、残りの「使える」7人が大迷惑を被るだけでなく、これからの卒業生に対する評価はどうなるのでしょうか。

 

 この企画の狙いは明らかで、やっぱ「売らんかな」の話題づくりなんですよね。それを面白がって囃したりする人がいるからやるわけですが、こんなことをしているうちに商業メディアへの信頼性がどんどん衰退していくとボクは思うんですけど。そんなものは最初からないんだよ、という意見にも説得力があるので困るのですが。

 

 あぁイヤだイヤだ。そんなことを感じた時に好んで聴く曲が、イーグルスEaglesの「テイク・イット・イージーTake It Easy」です。

 イーグルスといえば1976年に発表された「ホテル・カリフォルニアHotel California」が圧倒的に有名なロングセラーで、音楽性も極めて高いのですが、ボクとしては「テイク・イット・イージー」のほうが“殺菌効果”があるようです。ジャカジャーン、ジャカジャカジャーンというエレキサウンドで始まる軽快でお気楽なノリがいいんですよね。

 

 歌詞も「ホテル・カリフォルニア」のような重く奇妙な含みはまったくなく、あくまでも曲優先で、取ってつけたようなロードムービーっぽい無意味さがむしろ似合っています。分かるところを訳してみると、「心の中は悩み事ばっかりで、そんな俺を見守ってくれる恋人を探しているけど、簡単には見つかりっこないよな。だからさぁ、Take It Easy、気楽に行こうよ」と、なるでしょうか。

 

 それにしても、高度なギターテクはもちろんとして、何度聴いてもコーラスのハモりがしっかりしたバンドだと感心させられます。見てくれは男ばっかりの不良カウボーイ風なのに、音楽的には卓越したものがあると思います。そういえばYouTubeでアンプラグドのアコースティックで「ホテル・カリフォルニア」を聴いたことがありますが、これも実に素晴らしい出来でした。

 というような話題に逃げてばかりではいけないんですけどね。

 

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2014年9月18日 (木)

罪なき者よ

 

 ボク自身も最初にその言葉を想起しましたが、まさか週刊文春の連載で使われるとは思いませんでした。このところ朝日新聞へのバッシングが続いており、中でも同誌と週刊新潮が圧倒的な急先鋒といえるのですが、そんなメディアに「罪なき者、石を投げよ」というタイトルの文章が登場したので驚かされたのです。

 

 しかも著者は、朝日新聞が連載原稿を拒否して大騒ぎとなり、非難を受けてから一転して掲載に至った池上彰氏です。個人的には「分かりやすさ」を過剰に求める世論を盛り上げてきた人だと認識しており、あまり好意を感じたことはありませんでした。分からないことがあれば自分で調べて自ら考える習慣を持つのが基本じゃないか、なんてね。けれども、本日発売の週刊文春9月25日号の連載『池上彰のそこからですか!?』第180回を読んで、そうした見方がコロリと変わりました。

 

 冒頭で紹介した文章は新約聖書(ヨハネによる福音書)にありますが、この当時は姦通の罪を犯した女性は石を投げつけて殺すことになっていました。その時にイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と説いたとされています。このエピソードを前提として、池上氏は「朝日新聞は、私の連載原稿を掲載しない(朝日に言わせると、「掲載見合わせ」)という判断をしました。これに対する各マスコミの非難は大変なものでした。非難は当然とはいえ、その論に加わっていた新聞社は、みんな『石を投げる』ことができるのでしょうか」と述べているのです。この意見は「新聞社」だけに向けられたものではなく、週刊誌や一般雑誌、テレビやラジオ、そしてジャーナリストやライターも等しく含まれていると考えるべきですよね。

 

 朝日新聞批判を続けてきた週刊文春は、この9月25日号でもグラビアで「沈みゆく朝日」として歴代の謝罪会見の写真を掲載していたほか、「追及キャンペーン第5弾」として、「捏造、隠蔽、泥棒まで! 朝日の自壊」として攻撃記事が特集されていました。そんな中でも、池上氏は「朝日は批判されても当然ですが、批判にも節度が必要なのです」と書いているのです。いくら自分の連載とはいえ、この中立・客観的な姿勢には感心せざるを得ません。これこそが「クリティカル・シンキング=批判的思考」と呼ぶべきものではないでしょうか。

 

 ここまで引用してみて、彼の文章には無駄なところがまるでないことにも気づかされました。要約しようとすればするほど改悪になってしまう。そんな文章は誰にでも書けるわけではありません。

 

 朝日新聞が謝罪した慰安婦強制連行や東電・吉田調書などの誤報や間違いを弁護するつもりはまったくありませんが、今のような時代に、ニュートラルあるいは中庸を貫こうとするのは大変です。物事を威勢良く、それこそ分かりやすく簡単に表現しようとするなら、どちらかに傾いて批判あるいは迎合すればいい。けれども、そうした大合唱が建設的な結果をもたらしたケースってあまりないですよね。

 馴染みのない表現かもしれませんが、池上彰氏のように「真っ当」なスタンスに立脚した意見が望ましい明日につながるのではないかと思うのです。

 

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2014年7月 9日 (水)

鳩よ!

 

 かつて『鳩よ!』という面妖なタイトルの月刊誌が刊行されていたことがあります。『平凡パンチ』『an-an』『ポパイ』に『ブルータス』とヒット雑誌を次々に生み出してきた平凡出版が1983年にマガジンハウスと社名を変更。その年の12月に創刊された詩の雑誌です。

 

 ボクは自慢じゃありませんが詩人くずれでございまして、『現代詩手帳』(思潮社)や『ユリイカ』(青土社)などに投稿したこともあります。見解の相違があったのか、作風が嫌われたのか(負け惜しみです!)、掲載されたことは一度もありませんけどね。

 

 そんなポジションから見れば、若者の流行を煽りに煽ってきた出版社が突然に文芸方面にも色気を出したとしか思えなかったので、「へっ、しゃらくせえ」というのが正直な感想でした。カタカナの今風な社名に変えておきながら、『鳩よ!』という誌名もないだろうと。

 

 こりゃもう絶対的にアルチュール・ランボーと中原中也の特集をやるだろうと予測していたら案の定だったことも失望に輪をかけることになり、「ミーハーの極み」として、これまた自慢ではありませんが一冊も買ったことはございません。

 しかしながら、ボクが推奨する物事はおよそヒットしないことから分かるように、嫌ったり否定する物事はほぼ確実に流行しちゃったりするんですよね。ちょっと調べてみたら、『鳩よ!』も20025月号をもって休刊となっていたので、驚くことに20年近くも続いていたわけです。

 

 どれだけの発行部数があったのかは知りませんが、創刊休刊が活発な雑誌界にあって、よくまぁそれだけ続いたものだと感心します。しかも詩の雑誌ですからね。インターネットの21世紀になってから休刊に至ったというのも、何だかシンボリックではあります。

 

 でも、そろそろ再び、新しい時代にふさわしい詩の雑誌が登場してもいいような気がするんですよね。技術革新と経済効率の追求というギスギスした現代社会に疲れている人は、想像以上に多いような気がするからです。人間が本当に疲労するのは肉体ではなく精神や心であって、それを癒やすのは言葉しかないではありませんか。

 

 ところで、『鳩よ!』というタイトルにどんな意味があったのでしょうか。一冊だけでも買っておけば良かったと今さらながらに後悔しております。

 

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2014年5月19日 (月)

ベストセラーの法則

 

 そんなもんあるわっきゃないのですが、書物に限らず商品にしても、何となくね、ベストセラーってこうして生まれるんじゃないかなぁという仮説がボクなりにあるわけです。

 

 何でそんなことを考えるようになったかというと、ボクがひいきにする物事はことごとくヒットしないからであります。このブログも例外ではありませんが()、どうしてあれが売れない、これが予想外に受けないという結果になってしまうのかなと深く懐疑するようになったんですね。

 

 もちろんボクの感性とか予測力の欠乏もありますが、メーカーのオウンゴール的な政策の失敗もあります。たとえば、Wiiが登場した時は、テレビゲームからコントローラーのコードを取り去った革新性を高く評価して、率先して購入しました。ところが、ご存じのようにゲームソフトがついてこなかったんですよね。エキソサイズとか健康管理や家族みんなでという方向性が必ずしも悪いわけではありませんが、そもそもテレビゲームをする層ってそういう人たちですかねぇ。

 

 ドラクエにはまっていると公言する某ライトノベル作家ではありませんが、もっと孤独であり、その状態をむしろ愛する人たちではないでしょうか。ボクがそのようなソフトを買わないのと同じように、興味を示す人がそんなに沢山いるのだろうかと思っていました。その一方で、なぜだか本来的なゲームソフトの新作がしょぼくて、いつしかボクのWiiはお蔵入りとなったのです。

 

 このようにイケない理由もベストセラーになった理由もそこそこ解釈することはできても、それを予測するのは大変に難しいと言わざるを得ません。たとえば、設定も展開も矛盾だらけの上に、奇想天外な日本語で綴られたトンデモ学会指定の自費出版小説が、若い人たちには大ヒットして映画さえ何度も作られるということもあるわけです。敢えて具体名は出しませんが、アマゾンの書評では大ブーイングに近いのに、それこそリアルでは売れているんですよね。

 

 そんなわけで、素直に分からんと言えばいいのに、オッサンになるとそれでは気が済まないわけです。そこで、ひとつだけ考えを紹介しておくと、大前提として「3万部」の法則があるんじゃないかと睨んでいます。つまり、書籍の場合は実売で3万部に達するかどうかが一つの到達点ではなかろうかと。ということは逆に、そこまで至らない本が無数にあるわけです。ボクの本もことごとくがそうでしたけど()

 

 出版不況の昨今では3万部だって立派なベストセラーと思いますが、次のステップは5万部となります。ここまで来ると、ヘタすりゃ大ヒットという予感も出てくるでしょう。そして10万部に至ってしまえば、押しも押されもしないベストセラーであり、今度は歴史に残るミリオンセラーの可能性もありありとなるわけですな。

 ちなみに、書籍は基本的に複製=コピー商品なので、増刷を重ねるうちに「お札を刷っているのと同じ」(某編集者)になってくるそうです。ボクは経験ありませんけど。

 

 あれっ?、内容的にはどうよ、と、ここで疑問を持ったアナタは正しい人です。ボク自身がベストセラーに縁などまったくなかったので、ネタミとソネミだろうと言われても否定しませんが、ベストセラーと内容はそれほど相関しないんですよね。製品にしても、かつて「たまごっち」が何であんな大ヒットになったのか、正しく分析した論理に出会ったことがありません。

 

 そこで、ヘンテコな理屈を抜きに正直に考えていくと、要するに「みんなが読んでいる」とか「みんながやっている」とか「みんなが持っている」ということが大きな理由ではないかとボクは思うのです。

 

 そうなるとベストセラーを生み出すのは簡単で、書籍なら3万部を売り上げるようなキャンペーンを採算度外視でやりゃいいとなります。ある程度まで押し上げれば、後は勝手に売れていくはずですから、そこまでをどのように仕掛けるかがマーケティングの課題ということになるわけですね。

 

 これはボク独自の発明でも分析でもなく、アメリカの出版界には「ブロックバスター」という言葉がありました。1970~80年代を席巻した角川映画のド派手なメディアミックスも同じ理屈だと思います。横溝正史の人間技とは思えない複雑なトリックや金田一探偵がそんなにも魅力的とはボクには思えませんから。

 

 ということをごく簡単にまとめれば、理由の如何は問わず、とにかく「みんなが持っているなら、俺も欲しい」と思わせること。これが、どんなものにしてもベストセラーの法則なのであります。ってエラソーに言わなくても、きっと誰だって分かっていることなんですよね。ここまで書いてきて、はぁ、何だかなぁと溜息が出てしまいました。

 

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2014年5月16日 (金)

衒学的

 

 記事を書く関係で、アトレの有隣堂で建築系の資料になる本を探したのですが、いやはやどれもこれも何が言いたいのかワケが分からない難解な文章ばっかりで、常に分かりやすさを要求されてきた職業的なモノカキとして猛然と腹が立ってきました。取りあえず税抜き1800円の本を購入しましたが、これがまたダメ本でございまして、このように打ち込むだけで、うわああああ損しちまったと手が震えるくらいの怒りなのです(ちょっと大げさかな)

 

 建築系の書物に限らず、ITやパソコン系も分かりにくさは似たようなレベルなのですが、こちらは今さら日本語に訳せない英語や専門用語を使わざるを得ないので、いささか情状酌量の余地はあるわけです。たとえばマウスをネズミなんて訳したってちっとも分かりやすくなりませんよね。クリックだって、カチカチなんていうより、やっぱクリックとして覚えるしかないじゃないですか。そういう専門用語が多い分野であることは認めなきゃいけません。

 はい、ボクは何でも日本語にしろというほど頭は固くありませんから。

 

 でもね、建築系であるなら、日本にはこれまで家がなかったというわけではありませんよね。アジア特有の柱構造が鉄筋コンクリート造のビルづくりの基本になっていることくらいはボクだって知っています。それに「住宅は住むための機械」なんてコルビュジエが言ったように、ボクたちが生活する場でもあるのですから、それを分かりやすく説明や解説ができなくてどうするってボクなんかは思うわけです。

 

 にもかかわらず、やたらと専門用語を使って、わざと難解に表現しているのではないかと疑われる文章がゴロゴロあるんですよね。簡単で分かりやすいと、もしかすると学問的価値を毀損するのですかと訊きたくなるくらいです。もしそうなら、その程度の学問的価値しかないわけで、形容や表現方法ではなくて、内容のほうを本として売るのが著者としての良心じゃないかって、本当に腹ワタが煮えくりかえる思いなのです。

 

 もちろん、単純に分かりやすければいいなんてことは言いません。前にも書いたように、言葉にはそれが成立した歴史や哲学や思考経過なども内包しているので、それなりに勉強を積み重ねないとワケが分からない文章があってもいいのです。

 だけどね、ボクが読んだ限りでは、そうした理由ではなくて、むしろ「衒学的」な表現が多いんだよなぁ。これは英語でペダンチックと言いますが、国語の辞書では「学問・知識をひけらかすさま」と説明されています。つまり、「どうだぁ俺はこんなに言葉を知っているから頭がすっごく良くて深い見識もあるからね」と言わんばかりの文章が目立つのです。言っときますが、そんなのは少なくともボクにはバレバレですから。

 

 それに、そうした低レベルの衒学的な文章が増えると、真似する連中が増えるだけでなく、本もますます売れなくなります。実際に、ボクにとってはネットのほうが参考になりました。こんなことでいいのかよと強く警告させていただきます。

 

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