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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

経済・政治・国際

2018年4月 5日 (木)

無金利社会(後)

 

 昨日の続きですが、ボクが提案した「無金利社会」では、逆にカネを貸しても金利がつかないことになります。すでに銀行預金が似たような状況になっていますが、貯金しても利子がつかないということは、年金だって掛け金を超えるような水準の分配を期待できないってことになるわけですな。日本の場合は投資運用というより、世代間扶養を原則としてきたので、もしかすると金利はあまり関係ないかもしれません。それよりも若年人口の減少が大きな問題なのかな。

 

 ただし、各種の保険制度は設計をやり直さなきゃいけません。契約者からカネを集めるだけでなく、それを運用して利益を得るのが保険会社の基本的なスキームなので、金利がかなりのウェイトを占めていると考えられるからです。

投資と金利は関係ないように思われますが、借りたカネを返す、または利益を分配する時には金利の動向が大きく影響するはずです。

 

 つまり、投資であれ貸付にしても、金利が絶対的に関係してきますから、それが資本主義の原動力であると同時に、ホルモンの役割も果たしているんですよね。経済が低迷していれば、金利を下げてカネを借りやすくする。過度に景気が過熱してインフレが懸念されるようになったら、金利を上げてスローダウンさせる。カネが経済の血液とするなら、まさに金利はホルモンといえるじゃないですか。早い話が糖尿病のインシュリンみたいなものです。

 

 そんな金利を禁止すれば、甚大な影響が出てくるのは当然です。経済学に素人のボク(だからこんな過激な提案ができるのですが)にはとても説明しきれませんが、少なくともカネを貸しても、それ以上のカネが得られるわけではないので、資産格差が過度に拡大することはなくなるはずです。これが最大最上のメリットですけど、銀行をはじめとする金融業は大打撃を受けるでしょうね。金利があるからややこしかった経済理論も必要なくなるので、経済学者も職を失う可能性があるかな。

 

 こう考えていくと、相当にヤバイ事態になってしまうように見えますが、もっと大きな効果を見据えて欲しいのです。つまりですね、金利をなくすことで、ようやく人間は資本の奴隷から解放されるに違いないとボクは考えているのです。

 

 大会社の社長だって大株主でない限りは“雇われママ”であって、資本家に従わなきゃいけません。では大株主にあたる資本家は誰かというと、近年は個人でなく「機関」なんですよね。代表的なのは年金の運用団体です。莫大な資金を動かす組織としての「機関投資家」は、どうしたって資本が自ら増殖しようとする意思に従わなきゃいけない。それに逆らえば法的に罰せられるくらいですからね。もともとは個人の小さな掛け金なのに、それが大きくまとまって資本というカタチになると、人間を超えた怪物のように意思を持つ存在に変貌してしまうのです。

 

 このように突き詰めていくと、ボクたちは様々な形で資本に使われていることに気づきませんか。

 

 いわばカネが神様で、人間はそれに奉仕する司祭や使徒と言い換えてもいいでしょう。これではダメじゃんかと、カネ=資本の束縛から逃れようとしたのがマルクスやエンゲルスではないでしょうか。しかしながら、経済を政府や官僚が支配・管理する共産主義や社会主義は人間から活力を奪ってしまうんですよね。景気循環を繰り返さざるを得ない自由&資本主義よりも、計画経済のほうが合理的であっても、人間の気持ちはそうはいきません。頑張った会社や人も、頑張らなかった会社や人たちと収入がほとんど同じだったら、創意工夫の意欲を失うのは当然ではありませんか。

 人間が頑張るのは必ずしもカネのためだけではありませんが、それについてはいつかテーマにするつもりです。

 

 とにかく、おこがましいことを承知でいえば、共産主義や社会主義は、そうした人間的な要素を無視しているのではないでしょうか。現在の状態を著しく毀損することなく、個人の意欲を尊重しながらも、富が自己増殖することで過度な格差や弊害を生み出さないようにするためには、やっぱ金利をなくしたほうがいいんじゃないですか、と。

 

 専門家の皆さんは大笑いするでしょうが、フランス革命が勃発するまで、封建社会の序列をひっくり返せるなんて誰も考えていなかったはずです。日本の場合は外圧にしても、幕府があれほど早く瓦解することを予測できた人は希有でしょう。だからね、すぐに無金利を施行するのでなく、特区かなんかで実験的にコミュニティを作ってもいいじゃないですか。あ、そうするとカネがどんどん外部に流出するかな。

 

 いずれにしても、ボクたちは自由に生活しているように見えて、実はカネの奴隷に過ぎないことだけは気づいて欲しいなぁと思うのです。

 

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2018年4月 4日 (水)

無金利社会(前)

 

 民主主義も資本主義も、いろいろ問題はあるけど「そのかわりになるようなものがあるなら持ってこいよ」という感じで今日に至っております。おそらく当分は変わりないでしょうが、そろそろ限度に来ていることも事実だよなと思いませんか。

 

 技術革新と人工知能の進展で、おそらく早晩、人間は仕事の多くを失うことになるでしょう。となれば生活の糧をどうすんだよとなります。仕事をしなくてもカネが平等に分配されるベイシックインカムという方法も実験段階にあるようですが、「究極のバラマキ」とも揶揄されるように、ちょっと無理があるような気がします。

 

 というのも、お金に対する理解や解釈はいろいろとあるけど、基本中の基本は「地域通貨」と同じく、他者への奉仕の対価として得られるものだと考えられるからです。

 

 なのにベイシックインカムを認めれば、つまりは何もしなくたって生きていけることになってしまいます。これは「人類の進歩と調和」にとってちょっとヤバイことになるんじゃないかな。しかしながら、技術や経済がここまで加速されると、それについていけない人や疲弊する人だって出てきます。資本主義は、まさに資本というカネが主役であって、人間を尊重するものでは決してないことにそろそろ気づこうよ。

 

 そこそこに進歩しながら、もっと豊かに、もっと自由に、もっと楽しく生きていくことはできないものでしょうか。今の制度では他者を踏みつけにすることでリッチになれます。そうじゃなくてさ、社会貢献や他者を助ける人たちがリッチになれる社会がボクの理想なのであります。

 

 そんなことを考えていて、惰眠を貪る犬の福助を見てハッと思い付いたのであります。経済の専門家が聞いたら呆れるかもしれませんが、「金利」こそがすべての悪の元凶じゃないかなぁ。少なくとも資本主義を異常に加速させている原因は、金利以外に考えられないのです。

 

 前述したように、カネが奉仕に対するご褒美とするなら、カネだけが単体で利息を生み出すのはどう考えてもおかしいじゃないですか。だから「地域通貨」は金利が伴いません。それと同じことを世界的にやれば、もうちょっとスローダウンできるんじゃないかな。

 

 これはボクのオリジナルではなく、イスラムの聖典では金利(リバー)を禁じています。不労所得の増大が社会に不正義をもたらすことを危惧したとされていますが、これは素晴らしい慧眼といっていいんじゃないかな。マルクスよりもはるかに優れた改革思想になり得るとボクは思うのですが、現実にはイスラム社会も資本主義の例外ではあり得ず、間接的な方法で金利を取るようになっているらしい。

 

 では金利をなくしたらどんな社会が生まれるのでしょうか。たとえばカネを借りても利息がつかないので、借りたカネを上回るほどの仕事をしなくてもいいとなります。仮に年利4%なら、100万円を借りたら104万円を稼がなきゃいけません。それでやっとトントン。けれども金利がなければ、4万円分は自分の利益になるじゃないですか。だから無理して頑張る必要もなくなります。リッチになりたいと頑張ることもできますからね。

 

 何よりも、ある程度蓄えられたカネが勝手に膨張していくことで所得格差を拡大させるということがなくなるわけですよ。

 

 ボクは以前から資本主義は限界にきていると感じており、それに代わる新たな社会制度を模索していたのですが、ってちょっと大げさですけど、ようやく解決の糸口を見出したような気がしたのであります。

 

 長くなるので、明日のブログで続けます。

 

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2018年3月13日 (火)

精神的独裁

 

 2007年9月12日午後2時に安倍晋三首相は記者会見を行い、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と発表しました。その翌日には慶應義塾大学病院に緊急入院。当時は胃腸機能障害とされましたが、のちに17歳の時に抱えた持病の潰瘍性大腸炎であったことを週刊誌のインタビューで自ら明かしています。

 

 ここからはボクの想像に過ぎないので念のため。

 政界の事情なんて知ったことではありませんが、一度はのぼりつめた最高権力の座から心ならずも滑り落ちた彼は、もはや政治家として終わったも同然と見なされたのではないでしょうか。それまでチヤホヤしていた連中は蜘蛛の子を散らすように(見たことありませんけど)いなくなったんじゃないかな。佐藤栄作元首相をはじめとして、そうそうたる政界の実力者を親族に持ち、父親も病死さえしなければ総理になったはずの安倍晋太郎。そんな彼にとっては、おそらく初めての衝撃的な挫折ではなかったでしょうか。

 

 こういう時には、逃げる人も沢山いますが、近寄って来る人もいます。あくまでも憶測ですが、いわゆる「お友達内閣」的な雰囲気はこの頃から醸されたんじゃないかなぁ。

 魑魅魍魎が跋扈する(ワープロがあって良かったぁ)政界にあっても、お坊ちゃん育ちの彼はそれなりに人間を信頼していたと思うのです。ところが辞任後は、人間なんて権力と利益に群がるだけで、理想なんてものには鼻も引っかけないことがよーく分かった。そして、この世の中には自分が信じられる人間と信頼に値しない人間の2種類しかいないと痛感したのではないでしょうか。

 

 しかしながら、権力を失ってどん底に墜ちた人間に近寄るのは、友情や信頼や共感や同情があるからだけじゃないんですよね。もしかして復活すればという、イヤらしい欲得を腹に隠して仲良くなる人もいるわけです。このブログで以前書いたように、これはコストパフォーマンスが極めて高い投資方法なのです。すでに権力を持った奴に後から寄ってたかるのは、株式の銘柄が高騰した後に買うようなもので、それからさらに上がったとしても少しばかりの差額しか利益になりません。それよりも、何かのスキャンダルでたまたま暴落した有名銘柄を底値のうちに買ったほうが莫大な利益が得られるじゃないですか。

 誰だって分かる簡単なことでも、そうした品格に欠けた下心を隠して人に近寄ることはなかなかできないものです。ところが、そうした良心をまるきり持っていない人もいるわけでね。そんな連中ばかりではないにしても、そうした人間がいることは間違いのない事実だと思います。

 

 そして2012年12月26日。彼は再び内閣総理大臣に選出され、劇的な復活を果たしました。そうなったら、世の中にいる2種類の人間のうちで信じられるほうだけを重職に起用するのは当然でしょう。政治家も官僚にしても、信じられる奴と信じられない奴に分けて、一方だけを重用していく。巷間伝えられる「お友達内閣」がこのようにして成立すれば、いつしか周囲の人間も彼の意向を深読みして先回りすることになります。誰だって疎んぜられたり左遷されるのはイヤですからね。首相の座にありながら、国会であれほど聞きづらい不規則発言を繰り返す人ですから、その内部にいれば誰だって「忖度」するようになりますってば。

 

 そんな経緯から、前代未聞ともいえる公文書の改ざんが行われたのではないかとボクは考えています。ちょうど折しも隣の大国では憲法を改訂。国家主席の任期が撤廃され、独裁も可能になったようです。その意味では、日本的ともいえそうな精神的な独裁が今回のスキャンダルをもたらしたのではないかと。もちろん義憤は禁じ得ませんが、そうなった背景や心情は何となく分かるような気もするんですよね。

 

 だからこそ、リーダーの孤独を救うのは人間関係では決してなく、確固たる理想にほかならないとボクは何度も書いてきました。それが「美しい国」であっても何ら悪いことではありませんが、民主主義に基づく社会正義の枠組みを崩すことは単なる逆戻りに過ぎないので、それを理想とは呼ばないんじゃないかな。

 

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2018年2月22日 (木)

時間より成果

 

 冬の冷たい空気を肌身に感じるようになると、「ブリ丼」が食べたくなります。生まれて初めて社員になった会社は東京・新橋にあり、この街は美味しいものを食べさせてくれるんですよね。

 

 隣駅の虎ノ門に比べると、会社の規模は零細で無名なところばかりだったように思いますが、それだけに飲食のコストパフォーマンスに厳しい人たちが多く、ハンパな店はすぐに潰れるという新陳代謝が街を育ててきたように思います。

 

 ただし、新入社員のボクが最も苦手だったのは、みんなで連れだって昼食に行くということです。昼時に3人~4人が一緒にメシを食おうとしたら、12時前に行かなければ簡単に難民化してしまいます。個人主義が浸透している今は知りませんが、ゾロゾロと列を作って「魚がいいかな」「いや今日は豚にしよう」なんて言いながら店を覗きながら練り歩くというのが、ボクは死ぬほど嫌いだったのです。

 

 けれども、新人の頃からしきたりに逆らうわけにはいきません。何とかボクを認めてくれるようになったかなという1年後から、昼飯は1人で出かけるようにしました。その時に、ある寿司屋が「ブリ丼」をランチで出しており、「こんなに旨いものを今まで食べたことがない」というほど感動したわけです。テーブルもありますが、基本は寿司屋なので、1人なら昼時でもカウンターのどこかに座れるというのも魅力でした。そこで黙々とブリ丼を味わう孤独感がね、ボクは大変に好きだったのです。

 

 そんな会社員生活でもうひとつ気づいたのが、なかなか帰らない人がいるということでした。仕事が本当に忙しいかどうか分からないのですが、とにかく帰らない。今になって思えば残業代を稼いでいた可能性もあるんじゃないかな。おかげで、デートの約束をしているボクのような若い人が退社しにくい雰囲気になってしまうわけです。

 

 さて、働き方改革です。首相の意図や狙いがどこにあるのか知りませんが、もしも働き方を変える、ぶっちゃけて言えば給与体系を変えようというなら、仕事のパフォーマンスを判断する方法を新しく作ることが大前提にならなきゃおかしい。これまでは「時間」に対して給与が支払われてきました。これは「会社での滞在時間」と言い換えてもいいでしょう。そうではなくて、何をどれだけやったのかという「成果」に基づいた給与体系にしない限りは、掛け声倒れになるに決まっているじゃないですか。

 

 では、そうした「労働成果」をどのように判断するのか。仕事や職能が一律ではないのですから、そりゃもう多様なスケールが必要でしょう。そうした指標を作ること自体が、ボクは働き方改革を促すと思うぞ。

 

 このように指摘すると「じゃどうすりゃいいんだ」と問いかけてくる人が必ずいます。そんなもん自分で考えろよ。ただ、ヒントはあるんですぜ。それがプロスポーツです。たとえばサッカー選手が得点数だけで報酬判断されたら、ディフェンダーをやる人はいなくなってしまいます。そこで、アシストだの防御点みたいな指標が必ずあると思うんですよね。

 

 だったら、仕事についてもそれぞれそれなりの評価基準を作って、半年ごとに査定すりゃいい。そういう仕組みを作って初めて、働き方が改革されるんじゃないかな。さもなきゃ賃金の抑制と受けとられても仕方ないじゃないですか。そうした視点を持つボクとしては、不適切なデータに基づく、結論ありきの論議なんてアホバカとしか思えないのであります。

 

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2018年2月 7日 (水)

自分を律するのは……

 

「こういうことは申し上げたくありませんが、御党の幹部の方も現在、同様に説明をされていると承知をいたしております」

 

 昨日の衆議院予算委員会で、線香問題を取り上げた野党議員に対する経済再生大臣の応答です。こういう反論・反駁は、首相もしばしばやっているのではないでしょうか。下品な表現をお許しいただけるなら、ヘドが出そうと言いたい。「一度食べて胃に入ったものを口から吐きもどすこと。また、その吐いたもの」(デジタル大辞典)という意味です。大臣の言い方はインキン、じゃなかった慇懃かつ巧妙ですが、国権の最高機関である国会で「アンタのところでもやってるじゃないか」なんて稚拙な応酬をしないで欲しいなぁ。

 

 立ち入りが禁止されている波止場の柵を平気で乗り越えて釣りをしたり、河川敷で迷惑かつ危険極まりない打ちっ放しをやっている連中の常套的な言い訳も「みんなやっているから」じゃないですか。慰安婦問題にしても、どんな軍隊も同じようなことをしてきたという人がいます。事実関係を問う以前に、この言い方は何の意味もありません。みんながやっていることだから悪いことをしても許されるというなら、刑務所に見学に行ったほうがいい。それこそ、「みんな」が牢獄につながれているではありませんか。ならアンタも入れよ、ってね。

 

 身内に瑕疵を抱えながら、同じ問題を追及する野党も野党ですから、何だかね、もはや倫理は末期的状態。世の中、勝ち負けと利益しかないみたいです。どんなに糾弾されようが、横車を通し切った者が凱歌を挙げる社会に、再びヘドが出そうになります。

 

 というわけで、人間を本当に律するのは社会規範や道徳や倫理なんかではないんですよね。命や利権が危うくなったら、そんなもの簡単に踏みつけられてしまいます。法律は罰則が伴うといっても、それは発覚した時の話なので、バレるまで具体的に機能するとはいえません。もしバレたらヤバいことになるぞ、というイマジネーションが行動を縛っているだけのことです。

 

 つまり、自分を律するのは畢竟、自分自身しかないわけですよ。にもかかわらず「忖度」が昨年の流行語大賞になったことがいみじくも表しているように、周囲や立場意識、もっと端的に言えば「権力の高低」が社会を支配しているといっていい。そんなもん、どこが平等な民主社会だよって思いませんか。

 

 それに対抗するには、ボクたち1人ひとりが高潔であり続けるしかない。それがいったん崩れてしまえば、原始社会に一気に逆戻り。もういっぺんフランス革命からやり直しですぜ。自分を律する者は自分自身しかない。だからこそ、イザという時に、世界を敵に回してでも大切なものを守れるのではないかと思うんですけどね。

 

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2017年12月18日 (月)

なぜ「大家族」は分裂したか

 

 長寿化そのものは歓迎すべきことですが、そこそこに健康で認知症に至ってないことが必須条件であり、もしも要介護状態になった場合は、子供たちにとって大きな負担となります。今さらここで触れるまでもなく、「介護離職」によって親子ともども貧困に追い込まれることも珍しくありません。

 

 さらに、男女ともに平均年齢が80歳を越えた今では「老老介護」も常識ですが、定年退職後に支給される年金がね、まるで足りないわけです。そうした社会状況に追い打ちをかけるように、少子化というボディブローが効いており、運送や小売り、ファストフードなどのサービス業は人手不足がますます深刻になっていくはずです。かといって遅ればせながら子供を作るにしても、待機児童の問題がこれだけ喧伝されれば、不安だから取りあえずやめておくかとなりますよね。

 

 これらをまとめると、要するに「幼児」と「老人介護」または年金を原資とする「老後の生活」が、日本が抱える大きな問題ということになります。でもってこれを支援する制度が、行政または政治の業界では「社会保障」となるわけです。

 

 この「社会保障」の問題は、財源も含めて国会では何度も論議されてきたことで、つい最近に発生したことではありません。人口ピラミッドを見れば、少子高齢化なんて何十年も前から予見できたはずですよね。実際に介護保険は1997年の国会で制定され、2000年から施行されています。しかしながら、何度も改正されていることから分かるように、決して十分とは言えません。だからこそ「介護離職」があり得るわけで、年金も不十分なら、子育ても妻の負担が大きい。この国は戦前も戦後も、税金を搾り取れる元気で健康な労働者は大切にしても、その税金を支出しなければならない人生の始まりと終わりについて極めて冷淡なんですよね。相当なケチンボでシブチンなのであります。

 

 うあぉお、事実を並べているうちに深刻な社会問題にぶちあたってしまいましたが、ボクにはそれを解決する決定的なアイデアがあるのです。

 

 実にまったく簡単なことで、親から孫までの3世代以上の親族が同居する「大家族」制度に戻ればいいのです。痴呆の程度にもよるでしょうが、年老いた祖父母の面倒を孫も一緒に見るとか、逆に子育てを祖父母が手伝うことができれば、保育所にいれる必要もなくなります。そのかわりに老後の生活費は子供や孫世代も補助する。それなら年金への依存度も劇的に減少します。

 

 そもそも大家族制度が常識だった戦前は、年金もなければ介護保険もなかったんですよね。そんな社会保障が必要になってきたのは、高度成長期の「集団就職」以降です。これが地方の農家の若い人たちを工場勤務に駆り立て、工業地帯の近辺の都市を膨張させるとともに、親世代から隔絶された「核家族」を拡大再生産していきました。

 

 単純に考えるだけでも、大家族であれば、家も冷蔵庫も洗濯機も風呂も1つあれば十分です。ところが、世帯が2つに分離していれば、それぞれ2つが必要となるじゃないですか。不動産屋と家電メーカーにとっては喜ばしいことでも、1家族あたりの出費はそれだけ増加します。親の面倒を必ずしも子供が見るとは限らないにしても、誰かが老後や子育ての手助けをしてくれるとしたら、何かと安心というだけでなく、それぞれの家計支出の削減にも直結するではありませんか。

 

 要するに、若者人口の都市集中による「核家族」で経済と大企業は発展したけれども、それまで大家族制度が担っていたもろもろを、行政による社会保障では満足に代替できないということなのです。やたらに法律や予算をツギハギするばっかりで、待機児童なんて2000年頃から問題化していたのに、今でも「保育園落ちた日本死ね」ですぜ。

 

 ボクは、だったらもう1度「大家族」みたいな相互扶助が可能な生活制度を作ったほうがいいと考えています。シェアハウスがある時代なのですから、親族でなくても似たような生活スタイルを作ることは可能ではないでしょうか。

 ただし、その前に、いったい何がこうまで無惨に「大家族」を壊したのか、原因と犯人を正確につきとめておく必要があります。泥棒に留守番や警備を頼むバカはいないように、予め犯人を捕らえて排除しておかないと、似たような失敗を重ねることになりますからね。

 

 どうして「大家族」が「核家族」に分裂してしまったのか。もう1つの「核」問題も含めて、戦後70年の功罪をそろそろ厳しく総括すべきだろうというのが、実はこのブログの趣旨なのであります。

 しかしながら、太平洋戦争に踏み切った責任が曖昧に雲散霧消してしまったように、これもまた行政の責任なんて追求できないでしょうね。やれやれ、これでも一人前の民主主義国家なのかなぁ。たまにね、心底から絶望することがあるのです。

 

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2017年11月20日 (月)

墨塗りの教科書

 

 今から70年ほど前のことですが、太平洋戦争に敗北した日本では、アメリカの占領軍=GHQの指示によって、教科書の軍国教育や皇国教育に関する部分を墨で黒塗りにすることになりました。オセロのコマと同じで、どちらが表で裏かは分かりませんが、たとえば昨日まで白だったものが、今日からバタバタと黒にひっくり返されたわけですね。おそらく先生たちは子供に「軍国主義から皆さんが主役の自由な民主主義になるんですよぉおお」とか何とか説明したと思うのですが、であるなら、それまで教えてきたことは、先生たちにとって何だったのでしょうか。

 

 墨塗りの部分は教科の一部に過ぎなかったにせよ、それが教え子を最前線に送り出す動機や理由付けになってきたのではないでしょうか。あくまでも想像ですが、現代の高校が国立大学合格者数を自慢するように、軍隊への志願者数や陸軍や海軍士官学校の合格者数なんかを誇りにしていたかもしれません。積極的に軍部と結託することで、自分の地位を保持または向上させようとする先生だっていたでしょうね。

 

 しかし、敗戦によって時代も社会もコロリと変わり、昨日まで教えてきたことが今日はすべて逆になりました。その時に、果たして先生たちはどう反応したのでしょうか。過去のことを現代の視点で裁いてはいけないことは承知しています。けれども、寡聞かつ不勉強で申し訳ありませんが、敗戦の責任を感じて自害した軍人はいても、教科書の墨塗りに逆らって逮捕されたとか、それまでの軍国教育を恥じて自殺したという教師をボクは知りません。

 

 以前にも書きましたが、スポーツの練習中は真夏でも水を飲むなと教えられてきたのに、いつの頃からかどんどん飲めという指導に変更されています。しかしながら、それについて先生から「これまでは間違った指導でした、ゴメンね」なんていう謝罪を一度も聞いたことがないのです。水を飲まなかったおかげで何人の児童や生徒や学生が熱中症で亡くなったという統計があるのかどうかも知らされていません。少なくとも、そんな間違った指導をしてきた先生たちは、せめて墓前で合掌するべきですよね。

 

 つまり、先生というのは常に教えられる側より上位にいて、自らの誤謬を認めたり詫びたりするなんてことは滅多にないのです。せいぜい子供が自殺した時くらいですよね。さらに、勉強しなかったことによる結果責任は、いかに先生の教え方がヘタクソだろうが、教えられた側が全面的に一生をかけて背負うことになります。先生のおかげでオレはこうなったと犯罪者が言ったところで、屁理屈だとして誰も見向きしないでしょう。

 

 でもさ、ホントにそうかなぁ。

 今でも天然茶髪の許可証がなければ黒に染めなさいなんてアホな指導をやっている高校があるらしい。あと10年も過ぎたら、そんな指導をしていたことを、それこそ黒く塗りたくなると思うぞ。もっと前には、海外留学したいと相談に来た学生を「就活に影響するから」と引き留めた大学教員も実際にいます。この指導も今なら噴飯ものですが、学生のほうはそうはいきません。貴重なチャンスを失うところだったのですから。幸いに、この学生は教員に失望して、自分で何もかも調べてアメリカの超有名大学に留学して成功していますけどね。

 

 ボクたちの仕事は自分のやったことに全責任を持っているのに、教員だけは教育勅語や学習指導要領に従ってきたから、仮に間違っていようが、方針が急に変更されたとしても、自分のせいではないから免責されるというのでしょうか。そりゃね、責任を取れることと取れないことがあります。さもなきゃ先生になりたいという人がいなくなるじゃんかという危惧もあります。

 

 だったら機械の歯車とどれだけ違うのでしょうか。やがて70年前の教科書墨塗りと同じことを再びしなきゃいけない日が来るかも知れません。その時も唯々諾々と従うのでしょうか。

 

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2017年11月15日 (水)

逃げるのは恥だ!

 

 会社を設立した当初は調子良かったけど、業績が次第に悪化。そんな時に「ほかに大切な仕事もあるので」と創業者がいち早く辞めてしまったら、みんなどう思いますかねぇ。会社なら幹部や従業者と顧客に迷惑が及ぶだけですが(それでも大変な事態です)、政治ともなると多数の人々に大きな影響を与えますからね。はい、都知事の小池さんのことであります。

 

 ボクは以前から、このブログで何度も何度も何度も何度も、リーダーの必須要件はアタマの良さなんぞではなく、「たとえ負け戦になっても逃げ出さない人格」と規定してきました。政策立案なんていうのは参謀やら取り巻きにナンボでも任せることができます。しかしながら、すべての結果責任はどうしたってもリーダーが引き受けなきゃダメでしょ。にもかかわらず「電撃辞任」だもんなぁ。その逃げ足の速さは、さすがというほかありません。こういう人を絶対に総理大臣なんかにしてはいけない。

 

 あくまでも仮の話ですが、威勢良く戦争を始めて、敗色が見えてきたらとっとと隣国に亡命するような人を国のトップにしたいですか。彼女はおそらく「それとは決して同じではございません」と強弁するだろうけど、断言しますが、これは明らかにまったく同じことでございます。それに、女性のリーダーや指導者や会社の社長や幹部や上司の皆さんも、彼女と変わりないんじゃないかと見なされかねないので、ボクは女性の評判まで著しく毀損したと認識しています。

 

 人気漫画を原作にしたテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』がヒットしたようですが、これはあくまで個人的なことですよね。普通の人も兵隊さんも、やばくなったらどんどん逃げたほうがいい。イジメだってそうです。しかしながら、繰り返しますが、リーダーだけは別です。逃げるのは紛れもなく恥であり、その後には死屍累々、多数の犠牲者が残ることになるではありませんか。だから絶対に逃げてはいけない。つまり、すぐに逃げ出すような奴をリーダーに選んではいけないのです。

 

 小池さんは、大変にありがたいことに、そうしたボクの持論をきっちり証明してくれました。もうちょっと眼力を磨きましょうよ。さもなきゃ、また騙されますぜ。

 

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2017年10月30日 (月)

勘違い

 

 自分では目立つ格好なんてしていないと思うのですが、どうも警備関係の皆さんに目の敵にされている、ような気がするんですよね。

 

 先日も、あるビルの受付と警備を兼ねている窓口の前に立っていると、いきなり「どこ行くんですかっ?!」と詰問調。カバンの中を探りながら、その行き先を書いたメモを見つけようとする直前でした。念のために強調しておきますが、ボクは受付の前にはいましたが、1歩たりとも中に踏み出してはいません。つまり、彼らにとっては、まだ「外」の人間なはずなのに、まるで反社会的勢力か家を持たない人かのように、失礼極まりない強い口調で誰何(すいか)してきたのです。こちらも瞬間的に腹を立てて「まだ中に1歩も入っていないのに何だよその言い方は」と言い返してしまいました。余計に怪しいと思われたかなぁ。

 

 彼らは捜査権を持つ警察官ではありません。ただし、建物は私有財産ですから、無断で立ち入れば不法侵入となります。だけどね、ボクは一般的に許される受付までしか立ち入っていないのです。にもかかわらず、彼らは警察官かドーベルマンの番犬気取りで「怪しいぞけしからんぞこんな奴は入れちゃいけないぞ」ワンワンワン(鳴き声)ビービービービー(警報)と大騒ぎって感じですもんね。よほど退屈していたのかなぁ。

 

 勘違いもはなはだしいではありませんか。犯罪だって裁判で有罪が確定するまでは「推定無罪」なんですぜ。にもかかわらず、ちゃんとレザージャケットを着た優しそうに苦み走ったオッサン(自己申告)をアタマから疑うなんて、明らかに越権じゃないか。そんな文句というか不満を、当該の警備員ではなくて、そこの会議室で落ち合った知人に愚痴ったわけであります。

 

 ボクも彼らも、持っている権利は同じはずなのに、警備員という立場を与えられると、何か特別な権力でも持ったかのように勘違いしてしまう人が、すいませんが、ボクの経験では少なくないのです。シティホテルの黒服諸君も同じで、はっきり言えば衣服と靴で人間を差別します。大昔に真っ白なジャケットを着て高級ホテルで待ち合わせたことがありますが、警備関係者全員の目玉がボクに向いていた、ような気がしました。

 

 流行のエビデンス(根拠や証拠という立派な日本語をなぜ使わないのかな)がないので、「ような気がした」と表現しましたが、あの小池さんも似たような勘違いの典型的事例ではないでしょうか。

 

 確かに選挙で当選した都知事としての権力はありますぜ。だけどさ、まだ国民の負託も受けていない新党の代表だか創業者としての立場に、いかなる権利や権力があるのでしょうか。にもかかわらず、権力を握ったと錯覚したからこそ、「民進党の全員を受け入れる気はさらさらない」なんて傲慢極まりない排除発言ができたんじゃないかな。

 

 このセリフと態度にボクのように不快→立腹したことで、国民の支持は潮が引くように離れていったのです。失言暴言のデパートみたいな古手の国会議員もいるので例外はありそうですが、驕り高ぶりの勘違いは、必ず逆襲されるのでくれぐれもご注意ください。

 

 先の警備員だって、「こいつはホームレスに違いない」と居丈高に追い出そうとしたら、その爺さんはそのビルのオーナーだった、なんてこともあり得るじゃないですか。欧米なら衣服がシグナルとなって貴賎貧富を判断できても、すべて灰燼に帰した戦後からたった70年程度の日本では、見かけだけでそう簡単に決めつけることはできません。というわけで、そのオーナーは失礼な物言いに激怒して、彼は即座に解雇されて自分が怪しいホームレスになるか、その警備会社との契約が破棄ってことになるかも知れませんよ。

 

 それ以前に、受付で人と対応するというのは、綺麗なお姉さんだろうが、いかつい警備員にしても、サービス業すなわち客商売にほかならないってことをすっかり忘れているとしか思えません。つまりさ、ボクらにとっては、その会社で初めて出会う顔も同然だってことです。そんなことをしていると、中に入居しているテナント様の印象も悪くなりますぜ。

 

 タダでこんなにも有益なアドバイスをする義理は「さらさらない」ので、心の中だけにしまっておきましたけどね。

 

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2017年10月11日 (水)

働き方改革?

 

 箸の上げ下ろしまで、とは言いませんが、ボクたちは政府や行政に依存し過ぎじゃないかなぁ。文部科学省にしても、誘導型の補助金行政を続けることで、むしろ学校から主体的で創造的な思考力を奪っているような気がします。本当は「気がする」どころではなく確信に近いのですが、これを論述しようとすると、周到な調査と準備が必要になります。ボクは専門的な研究者ではないので、無料のブログでそこまでコストと手間をかけることはできません。もしも興味を持ったメディア関係者がいたら、連絡をください。

 

 それと同じように、根っ子は共通ではないかと感じるのが「働き方改革」なのでございます。そもそも「働き方」なんて、個人や各企業などにおける個別的な問題や課題であって、政府から提案や指示される筋合いはないと思うんだけどなぁ。

 

 もちろん日本という国の風土や文化、大企業がリードしてきた組織的な規範や慣習、さらには上司と部下の支配&隷属関係といったモロモロが変わらなきゃ、個人のワーキングスタイルも変えにくいというのは事実です。

 でもね、そんなのは先生に可愛がられてきた優等生の発想ではないでしょうか。退社時間が来たら帰っていいというのは、労働基準法に定められた権利でございますよね。だったら、みんなが黙ってパソコンなんかに向かっている時に「お先に失礼しまーす」と声をかけて何がいけないのでしょうか。

 

 かなりの大昔ですけど、ボクのガールフレンドが勤務していた編集プロダクションには、上司が帰らない限り全員がいつまでも会社に残っていなきゃいけないというアホな不文律がありました。おかげでボクは近くの喫茶店で深夜まで彼女を待っていたことがありますが、こういうことを是正するために政府の施策が必要とは思えないのです。定められた退社時刻を過ぎたら、とっとと帰ればいいじゃないですか。それができないのは、誰も率先してやらないからですよね。もしも仕事が過大であるなら、怠けていない限りは労務管理に問題があるわけですから、個人の責任では決してなく、上司に抗議すべきじゃないかな。いかなる大企業、優良企業に勤務していようが、ボクたちは奴隷ではないですからね。

 

 察するところ、学校時代と同じように優等生であり続けたいあまりに、周囲の空気を読みすぎてしまうんじゃないかな。それを「長時間労働削減」とか何とか、厚生労働省が音頭を取らないと改善できないという日本的体質に問題があると思うのです。日本がまた底なしの不景気に沈んだら、同省は一転して「サービス残業デー」をスローガンにするかもしれませんぜ。とにかく、個人の働き方をいちいち行政の上のほうから指図される覚えはない。大きなお世話じゃないかというのが、優等生ならぬ不良少年だったボクの見解なのであります。

 

 その根拠として自分の経験を少し紹介させていただければ、ボクは新人の頃にラッシュアワーの地下鉄で殴り合いになりかけたことをきっかけに、自主的に超早朝出勤に切り替えました。午前7時過ぎには会社の近所の喫茶店でモーニングサービスを食べていたくらいです。だから出社はいつも一番で、次に来るのが社長を始めとする幹部たちでした。半人前の新人に仕事を教えてくれて給料まで貰えるのですから、そのささやかな感謝として、誰もいないオフィスでみんなの机の上を雑巾で拭いたりしましたが、これらはすべてボクが勝手に決めた習慣です。だから、それを自分から会社の人に話したこともありません。

 

 逆に、死ぬほどイヤだったのが「押しつけ残業」でした。ある年刊誌の発行時期が近づくと、編集部全員が午後10時まで残業するというのが恒例でしたが、これが苦痛極まりなかったのです。自主的にカプセルホテルで仮眠して朝まで原稿と格闘したこともあるくらいですから、プライベートより仕事のほうがよほど大切だと思っています。けれども「強制」や「義務」というのが生来的に大嫌いなんですよね。最初は仕方なく10時ジャストに会社を出るようにしましたが、翌年からは「この会社をいつ辞めようか」と考えていました。

 

 要するに、もしも「働き方」に問題や課題があるというなら、ボクたち自身が率先して改善・改革していくべき事柄ですよね。たとえば総務省による「プレミアム・フライデー」にしても、週の最終日を午後3時に早上がりするなんて無理に決まっています。だったら代わりに木曜日を早めに切り上げればいいじゃないですか。それなら残った仕事も翌日の金曜日に帳尻を合わせることができます。ボクはずっとその方法でライブハウスなどに足を運んできました。金曜日の夜に酒盛りやパーティの予定を作るのは、カレンダーしか見ない素人の発想じゃないかな。

 

 このように、いちいち政府や省庁の指針に従うのでなく、企業や個人単位で工夫を重ねればいいじゃないかと思うわけです。過労死にしても、そこに至るまでに大きな声を上げたり、休暇を取るなりして、仮に上司や同僚に嫌われようとも、自分を守るべきじゃないかな。

 労働人口が減少しつつある今だからこそ、ボクたちは「働き方」も含めた「生き方改革」を実践していくチャンスだと思いますが、それもまた自主的にやるべきことであって、上からあれこれと言われることではありませんよね。行政も組織も、そうした人たちが自由に生きる権利を守ることに力を入れるべきであって、過労死の撲滅のほうが大きな課題だと思うのです。にもかかわらず能天気に「プレミアム・フライデー」ですよ。いったい上は何を考えているんだろうと訝しく感じてきたのです。

 

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