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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

経済・政治・国際

2017年11月15日 (水)

逃げるのは恥だ!

 

 会社を設立した当初は調子良かったけど、業績が次第に悪化。そんな時に「ほかに大切な仕事もあるので」と創業者がいち早く辞めてしまったら、みんなどう思いますかねぇ。会社なら幹部や従業者と顧客に迷惑が及ぶだけですが(それでも大変な事態です)、政治ともなると多数の人々に大きな影響を与えますからね。はい、都知事の小池さんのことであります。

 

 ボクは以前から、このブログで何度も何度も何度も何度も、リーダーの必須要件はアタマの良さなんぞではなく、「たとえ負け戦になっても逃げ出さない人格」と規定してきました。政策立案なんていうのは参謀やら取り巻きにナンボでも任せることができます。しかしながら、すべての結果責任はどうしたってもリーダーが引き受けなきゃダメでしょ。にもかかわらず「電撃辞任」だもんなぁ。その逃げ足の速さは、さすがというほかありません。こういう人を絶対に総理大臣なんかにしてはいけない。

 

 あくまでも仮の話ですが、威勢良く戦争を始めて、敗色が見えてきたらとっとと隣国に亡命するような人を国のトップにしたいですか。彼女はおそらく「それとは決して同じではございません」と強弁するだろうけど、断言しますが、これは明らかにまったく同じことでございます。それに、女性のリーダーや指導者や会社の社長や幹部や上司の皆さんも、彼女と変わりないんじゃないかと見なされかねないので、ボクは女性の評判まで著しく毀損したと認識しています。

 

 人気漫画を原作にしたテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』がヒットしたようですが、これはあくまで個人的なことですよね。普通の人も兵隊さんも、やばくなったらどんどん逃げたほうがいい。イジメだってそうです。しかしながら、繰り返しますが、リーダーだけは別です。逃げるのは紛れもなく恥であり、その後には死屍累々、多数の犠牲者が残ることになるではありませんか。だから絶対に逃げてはいけない。つまり、すぐに逃げ出すような奴をリーダーに選んではいけないのです。

 

 小池さんは、大変にありがたいことに、そうしたボクの持論をきっちり証明してくれました。もうちょっと眼力を磨きましょうよ。さもなきゃ、また騙されますぜ。

 

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2017年10月30日 (月)

勘違い

 

 自分では目立つ格好なんてしていないと思うのですが、どうも警備関係の皆さんに目の敵にされている、ような気がするんですよね。

 

 先日も、あるビルの受付と警備を兼ねている窓口の前に立っていると、いきなり「どこ行くんですかっ?!」と詰問調。カバンの中を探りながら、その行き先を書いたメモを見つけようとする直前でした。念のために強調しておきますが、ボクは受付の前にはいましたが、1歩たりとも中に踏み出してはいません。つまり、彼らにとっては、まだ「外」の人間なはずなのに、まるで反社会的勢力か家を持たない人かのように、失礼極まりない強い口調で誰何(すいか)してきたのです。こちらも瞬間的に腹を立てて「まだ中に1歩も入っていないのに何だよその言い方は」と言い返してしまいました。余計に怪しいと思われたかなぁ。

 

 彼らは捜査権を持つ警察官ではありません。ただし、建物は私有財産ですから、無断で立ち入れば不法侵入となります。だけどね、ボクは一般的に許される受付までしか立ち入っていないのです。にもかかわらず、彼らは警察官かドーベルマンの番犬気取りで「怪しいぞけしからんぞこんな奴は入れちゃいけないぞ」ワンワンワン(鳴き声)ビービービービー(警報)と大騒ぎって感じですもんね。よほど退屈していたのかなぁ。

 

 勘違いもはなはだしいではありませんか。犯罪だって裁判で有罪が確定するまでは「推定無罪」なんですぜ。にもかかわらず、ちゃんとレザージャケットを着た優しそうに苦み走ったオッサン(自己申告)をアタマから疑うなんて、明らかに越権じゃないか。そんな文句というか不満を、当該の警備員ではなくて、そこの会議室で落ち合った知人に愚痴ったわけであります。

 

 ボクも彼らも、持っている権利は同じはずなのに、警備員という立場を与えられると、何か特別な権力でも持ったかのように勘違いしてしまう人が、すいませんが、ボクの経験では少なくないのです。シティホテルの黒服諸君も同じで、はっきり言えば衣服と靴で人間を差別します。大昔に真っ白なジャケットを着て高級ホテルで待ち合わせたことがありますが、警備関係者全員の目玉がボクに向いていた、ような気がしました。

 

 流行のエビデンス(根拠や証拠という立派な日本語をなぜ使わないのかな)がないので、「ような気がした」と表現しましたが、あの小池さんも似たような勘違いの典型的事例ではないでしょうか。

 

 確かに選挙で当選した都知事としての権力はありますぜ。だけどさ、まだ国民の負託も受けていない新党の代表だか創業者としての立場に、いかなる権利や権力があるのでしょうか。にもかかわらず、権力を握ったと錯覚したからこそ、「民進党の全員を受け入れる気はさらさらない」なんて傲慢極まりない排除発言ができたんじゃないかな。

 

 このセリフと態度にボクのように不快→立腹したことで、国民の支持は潮が引くように離れていったのです。失言暴言のデパートみたいな古手の国会議員もいるので例外はありそうですが、驕り高ぶりの勘違いは、必ず逆襲されるのでくれぐれもご注意ください。

 

 先の警備員だって、「こいつはホームレスに違いない」と居丈高に追い出そうとしたら、その爺さんはそのビルのオーナーだった、なんてこともあり得るじゃないですか。欧米なら衣服がシグナルとなって貴賎貧富を判断できても、すべて灰燼に帰した戦後からたった70年程度の日本では、見かけだけでそう簡単に決めつけることはできません。というわけで、そのオーナーは失礼な物言いに激怒して、彼は即座に解雇されて自分が怪しいホームレスになるか、その警備会社との契約が破棄ってことになるかも知れませんよ。

 

 それ以前に、受付で人と対応するというのは、綺麗なお姉さんだろうが、いかつい警備員にしても、サービス業すなわち客商売にほかならないってことをすっかり忘れているとしか思えません。つまりさ、ボクらにとっては、その会社で初めて出会う顔も同然だってことです。そんなことをしていると、中に入居しているテナント様の印象も悪くなりますぜ。

 

 タダでこんなにも有益なアドバイスをする義理は「さらさらない」ので、心の中だけにしまっておきましたけどね。

 

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2017年10月11日 (水)

働き方改革?

 

 箸の上げ下ろしまで、とは言いませんが、ボクたちは政府や行政に依存し過ぎじゃないかなぁ。文部科学省にしても、誘導型の補助金行政を続けることで、むしろ学校から主体的で創造的な思考力を奪っているような気がします。本当は「気がする」どころではなく確信に近いのですが、これを論述しようとすると、周到な調査と準備が必要になります。ボクは専門的な研究者ではないので、無料のブログでそこまでコストと手間をかけることはできません。もしも興味を持ったメディア関係者がいたら、連絡をください。

 

 それと同じように、根っ子は共通ではないかと感じるのが「働き方改革」なのでございます。そもそも「働き方」なんて、個人や各企業などにおける個別的な問題や課題であって、政府から提案や指示される筋合いはないと思うんだけどなぁ。

 

 もちろん日本という国の風土や文化、大企業がリードしてきた組織的な規範や慣習、さらには上司と部下の支配&隷属関係といったモロモロが変わらなきゃ、個人のワーキングスタイルも変えにくいというのは事実です。

 でもね、そんなのは先生に可愛がられてきた優等生の発想ではないでしょうか。退社時間が来たら帰っていいというのは、労働基準法に定められた権利でございますよね。だったら、みんなが黙ってパソコンなんかに向かっている時に「お先に失礼しまーす」と声をかけて何がいけないのでしょうか。

 

 かなりの大昔ですけど、ボクのガールフレンドが勤務していた編集プロダクションには、上司が帰らない限り全員がいつまでも会社に残っていなきゃいけないというアホな不文律がありました。おかげでボクは近くの喫茶店で深夜まで彼女を待っていたことがありますが、こういうことを是正するために政府の施策が必要とは思えないのです。定められた退社時刻を過ぎたら、とっとと帰ればいいじゃないですか。それができないのは、誰も率先してやらないからですよね。もしも仕事が過大であるなら、怠けていない限りは労務管理に問題があるわけですから、個人の責任では決してなく、上司に抗議すべきじゃないかな。いかなる大企業、優良企業に勤務していようが、ボクたちは奴隷ではないですからね。

 

 察するところ、学校時代と同じように優等生であり続けたいあまりに、周囲の空気を読みすぎてしまうんじゃないかな。それを「長時間労働削減」とか何とか、厚生労働省が音頭を取らないと改善できないという日本的体質に問題があると思うのです。日本がまた底なしの不景気に沈んだら、同省は一転して「サービス残業デー」をスローガンにするかもしれませんぜ。とにかく、個人の働き方をいちいち行政の上のほうから指図される覚えはない。大きなお世話じゃないかというのが、優等生ならぬ不良少年だったボクの見解なのであります。

 

 その根拠として自分の経験を少し紹介させていただければ、ボクは新人の頃にラッシュアワーの地下鉄で殴り合いになりかけたことをきっかけに、自主的に超早朝出勤に切り替えました。午前7時過ぎには会社の近所の喫茶店でモーニングサービスを食べていたくらいです。だから出社はいつも一番で、次に来るのが社長を始めとする幹部たちでした。半人前の新人に仕事を教えてくれて給料まで貰えるのですから、そのささやかな感謝として、誰もいないオフィスでみんなの机の上を雑巾で拭いたりしましたが、これらはすべてボクが勝手に決めた習慣です。だから、それを自分から会社の人に話したこともありません。

 

 逆に、死ぬほどイヤだったのが「押しつけ残業」でした。ある年刊誌の発行時期が近づくと、編集部全員が午後10時まで残業するというのが恒例でしたが、これが苦痛極まりなかったのです。自主的にカプセルホテルで仮眠して朝まで原稿と格闘したこともあるくらいですから、プライベートより仕事のほうがよほど大切だと思っています。けれども「強制」や「義務」というのが生来的に大嫌いなんですよね。最初は仕方なく10時ジャストに会社を出るようにしましたが、翌年からは「この会社をいつ辞めようか」と考えていました。

 

 要するに、もしも「働き方」に問題や課題があるというなら、ボクたち自身が率先して改善・改革していくべき事柄ですよね。たとえば総務省による「プレミアム・フライデー」にしても、週の最終日を午後3時に早上がりするなんて無理に決まっています。だったら代わりに木曜日を早めに切り上げればいいじゃないですか。それなら残った仕事も翌日の金曜日に帳尻を合わせることができます。ボクはずっとその方法でライブハウスなどに足を運んできました。金曜日の夜に酒盛りやパーティの予定を作るのは、カレンダーしか見ない素人の発想じゃないかな。

 

 このように、いちいち政府や省庁の指針に従うのでなく、企業や個人単位で工夫を重ねればいいじゃないかと思うわけです。過労死にしても、そこに至るまでに大きな声を上げたり、休暇を取るなりして、仮に上司や同僚に嫌われようとも、自分を守るべきじゃないかな。

 労働人口が減少しつつある今だからこそ、ボクたちは「働き方」も含めた「生き方改革」を実践していくチャンスだと思いますが、それもまた自主的にやるべきことであって、上からあれこれと言われることではありませんよね。行政も組織も、そうした人たちが自由に生きる権利を守ることに力を入れるべきであって、過労死の撲滅のほうが大きな課題だと思うのです。にもかかわらず能天気に「プレミアム・フライデー」ですよ。いったい上は何を考えているんだろうと訝しく感じてきたのです。

 

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2017年10月10日 (火)

クリエイティブ

 

 先週10月3日のブログで「奇妙な部屋」というホラー小説の習作にチャレンジ。今週は結末を書きますと予告しましたが、これが連休中の大変な難行苦行になってしまいました。どうもね、ボクは記者としてノンフィクションの仕事を長く続けてきたせいか、ストーリーテリングの才能に欠けているようです。

 

 ホラーやSFは、いかに民話や都市伝説、科学に触発されているとしても、基本的には純然たるフィクションであります。いわば絵空事の世界を完全なゼロ状態から構築していき、読者を戦慄または震撼、あるいは感動させなければならない。このように説明すると分かったような気になりますが、いざ自分で書こうとすると、ありきたりでどこかで読んだような内容に墜ちてしまうんですよね。というわけで、ホラーの結末はしばらく延期させていただきます。決して諦めたわけではなく、いつか機会を見て再びトライするつもりですので、お許しください。

 

 この挫折に対する精神的な反動なのか、やはり連休中に、普段使いしている腕時計の革ベルトをとんでもない色にしてしまいました。

 

 2000年前後にアラーム付きの機械式時計「クリケット」を購入。便利なのでずっと愛用してきたのですが、1947年に製作されたオリジナルを継承しているので、革ベルトなんですよね。承知のように革ベルトは猛暑が大敵でございまして、使い方にもよりますが、2~3年で汗染みが表面にまで浸潤することがあります。こうなるとみっともないので取り替えなければいけません。

 それに対して金属製のブレスレットは汗で傷むことはほとんどないので、永続的に使い続けることができます。交換のためのランニングコストが不要というメリットもあるせいか、高温多湿の日本では革ベルトよりも人気があります。ブレスレットのメタリックな輝きが「男のアクセサリー」としての役割も果たしているんですけどね。

 

 しかしながら革ベルトは、この交換がむしろ楽しみになってくるのです。素材や色柄などを変えれば、見慣れたはずの腕時計が新しい表情にリフレッシュされる。ボクのクリケットは金メッキなので、これまでブラウン系のレザーを合わせてきました。明るいものから暗いものまで、すでに7代目くらいになるかなぁ。

 

 ゴールドにブラウンというのは、想像していただけば分かるように、色味としては「鉄板」といっていい組み合わせです。ボクたちの肌の色にも違和感なくフィットするのですが、何しろ7代目ですからね。あまりにも似合い過ぎのオーソドックスな雰囲気に飽きてしまったのです。

 

 それでいろいろな色を合わせてみて、ボクがエイヤっと決めたのは、何だと思いますか? この続きは明日に、というのは冗談で、最初はレッドにしようと思っていました。けれども、なかなか気に入ったものがないだけでなく、ゴールドにレッドというエキセントリックなコンビネーションは、ヘタをするとライターとしての信頼感を喪失させる怖れもあるじゃないですか。

 

 そこで、ジャジャーンンンンン、ボクが思い切って選んだのは、何とイエローなのであります。しかもきっぱりと、どこまでも屈託なく明るいレモン色。いやもう目立つ目立つ。こんな革ベルトをしている人は東京でも滅多にいないはずです。しかし、革ベルトだからこそ、これくらいの「遊び」は許されるのではないでしょうか。

 

 この奇抜な選択を精神分析してみると、ホラーの習作で欲求不満を残したボクにおける、せめてものクリエイティビティの発露だったかもしれません。

 そこで話は俄然ぶっ飛びますが、政治にも国際社会が驚くようなクリエイティブがあっていいんじゃないかなぁ。たとえば安倍さんが突然に北朝鮮を訪問して、アメリカとの仲直りを進言するとかね。実際に小泉元首相は似たようなサプライズを決然と実行したではありませんか。安保があるから何がなんでもアメリカに追従するという大昔からの決まり切った外交方針に、そろそろ飽きてもいいんじゃないかなぁ。

 

 そこで「政治にもクリエイティブを!」というのが、ボクの最近のスローガンなのであります。

 

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2017年10月 6日 (金)

危険な気配

 

 ボクは5年ほど前に煙草をやめたので、直接的な利害関係者ではありませんが、昨日の東京都議会で「子供を受動喫煙から守る条例」が自民党を除く賛成多数で可決してしまいました。

 

 この名称だけなら誰も反対しようがありませんが、来年4月からは子供がいる部屋やクルマの中で喫煙すると条例違反ということになります。ホテルのロビーやレストランなど公共の場所での禁煙は両手を挙げて賛成しますが、プライベートな空間で何をしようがほっといてくれと思いませんか。だからといって幼児や子供のそばで煙草をくゆらせていいというのでは決してなく、そんなもん親や大人が意識して自粛すべき事柄であって、法律が個人の生活にまで立ち入って規制するというのは大きなお世話なのです。

 

 この条例に唯一反対した自民党は、「条例が家庭内まで踏み込むのは『法は家庭に入らず』の原則から納得できない」と発表していますが、これはもう超珍しい久々のアッパレな大正論というほかないのに、なぜだかボクが見た限りでは今朝の電波メディアは完全に無視していました。ローカルでも東京という首都の話題なんですけどね。

 

 受動喫煙が成長期の子供に悪い影響を及ぼすのは疫学的な事実だろうと思います。だったらさぁ、ボクにはイヤというほど経験がありますが、夫婦喧嘩も子供の心にトラウマのような大きなダメージを与えるじゃないですか。煙草がアウトなら、同じ理由から子供の近くでの夫婦喧嘩も条例で禁止しなきゃいかんでしょう。

 さらには、子供を健全な社会人にするために、共産主義や無政府主義なんていう危険な思想を夫婦で話題にするのは禁止せよ、みたいなこともあり得てしまう。どこぞの幼稚園のように教育勅語を暗唱しなさいと義務づけられたら最悪ですよ。夫婦だからといって変態的なことをするのも、子供が誤って覗いてしまうとヘンな大人に育ちかねないので、夜の営みはミショナリーポジションに限るとかね。

 

 今回の条例は罰則が伴わない努力義務とされていますが、いったん法律が制定されてしまえば、これを改正して文言を追加するのは難しいことではありません。「千丈の堤も蟻の一穴から」という名言がありますが、大きなダムも小さな瑕疵から一気に崩壊してしまうのと同じように、この条例を契機として、法律が大津波のように私的空間をどんどん支配していく可能性が生まれたわけです。

 

 ボクは車内のシートベルト義務化ですら反対した根っからの個人主義者のせいか、今回の条例がものすごくヤバイ事態を招きかねないと強く危惧しています。今こそ法律の専門家や関係者が声を上げておかないと、戦前の「治安維持法」のように、自由であるべきアタマの中まで罪と罰が浸潤していくようになりますぜ。

 

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2017年10月 2日 (月)

少数派

 

 何かねぇ、政界がすっごくイヤな雰囲気になってきました。ボクが経験的に最も嫌ってきた「排他的」という姿勢を強めているからです。

 

 分かりやすく言うなら、学校のクラスにカネ持ちの息子でイケメンの人気者がいて、こいつの意見に反対する“ひねくれ者”をどんどん仲間外れにしていく感覚ですよね。大切な行事の予定を教えないとか、仲間うちの集まりを隠すとか。そんな気配を察知すると、教員は必ずしもそれを是正しようとするわけではありません。「不人気者」を擁護してイケメン君に敵対するよりも、クラスの大勢にくっついたほうが管理しやすくなるので、みんなと一緒になって“ひねくれ者”を排除するようになります。中には率先して加担することで、クラスの子供たちの人気に便乗しようとする先生だっているんじゃないかな。これが学校から「いじめ」が決して廃絶されない本当の理由ではないでしょうか。直接的ではないにしても、いじめの共犯は先生にほかならないとボクは信じております。

 

 こうした排除がエスカレートしていく段階では、政策、じゃなかった意見の是非や正当性なんかまったく無視されますから、もしも『漂流教室』(楳図かずお)にいたとしたら、疑念を抱きながらも全員が揃って間違った方向に行くことなり、1人残らず死んでしまう結末になりかねないわけです。

 

 民主党がゾンビ化した民進党が希望の党に媚びを売り、「安保法制」を踏み絵にして反対者を排除するというのは、それとどれだけ違うのでしょうか。細かいことを言い出したら違うに決まっていますが、都知事の人気に理念なくすり寄るという意味では、前述した学校の先生とまったく同じですよね。こうした批判は、目下の自民党の演説のほうがよほど説得力を持っているから大問題なのです。それでも野党かよと。

 

 先週に、人間は絶対的に間違いを犯す生き物であると指摘しました。それを避けるためには、反対意見や少数派に目配りを欠かさないことだとボクは思います。けれども、今のような状況ではそんな人たちが政界から追い出されることになります。だからといって、希望の党と自民党のどこが違うと訊いて、明解にこたえられる有権者はいないはずです。だってさ、綱領も基本政策もまだ発表されていないじゃないですか。

 

 にもかかわらず、排除の論理だけ先走って公認を決めていくというのは、冒頭で例にしたイケメンの人気者が支配するクラスよりタチが悪すぎじゃないかな。少数派を尊重しない民主主義がいかなるものに腐敗・変質していくかは、歴史が雄弁に示していると思うんだけどなぁ。

 

 ボク自身が生来のひねくれ者であり、不人気者としてアウトサイダーを続けてきただけに、近頃の政界は気味の悪い匂いがプンプンするんだよな。いくら政権交代可能な2大政党制を目指すといっても、どちらもひと皮剥けば同じ理念を持つ政党だとしたら、そんなもん大政翼賛会とどこが違うんですかね。これが先週のブログでボクが言いたかったことなのです。

 

 念のために付け加えれば、空想的護憲も財政を考慮しない社会民主主義もボクは認めていません。太平洋戦争の敗北が、司馬遼太郎が指摘したように明治期のリアリズムを喪失した大和魂の帰結とするなら、外交や経済に厳しい認識を持つ冷徹な現実主義が今こそ必要ではないでしょうか。そうした人たちによる真反対な政策論の激突こそが、ボクの理想とする2大政党制なのであります。

 

 ちなみに、今朝の速報では、希望の党に合流できない「仲間外れ」の民進党議員を集めた新党が結成されるそうです。党名は「民主党」だってさ。先祖返りというか周回遅れというべきか、意図がまるで分かりませんが、こうした野党の分裂を最も喜んでいるのが自民党であることは確かですよね。

 

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2017年9月29日 (金)

孤高

 

 念のために調べてみたら、すでに2回も取りあげていました。小選挙区制だから仕方ないという理屈も分かりますが、まるで雪崩をうつように新政党に候補者が集まる。いや今回は既存の野党勢力がまるごと組織だってすり寄っているのですから、吐き気すら感じてしまうんだよなぁ。

 

 これがね、「勝ち馬に乗り遅れな」ってことです。打算的というより、その理念のなさっぷりに呆れ果てます。こんなことで自民党に勝てると本気で思っているのでしょうか。

 

 ちょっとだけ歴史を振り返ると、この「勝ち馬に乗り遅れるな」は1940年10月12日に結成された大政翼賛会の時に生まれた言葉だと思っていました。ネットをチェックしてみると、どうやら日独伊三国同盟の頃から盛んに囃し立てられていたようです。

 1939年9月にドイツ軍はポーランドに侵攻。電撃的な作戦によって、わずか6日間程度で完全占領しました。翌40年6月14日には宿敵だったフランスのパリに無血入城。第2次世界大戦初期のドイツ軍は圧倒的な機械化戦力を保有しており、まさに破竹の勢いでヨーロッパを制覇しました。それが「勝ち馬」に見えたらしく、同年9月27日に日独伊三国同盟が締結されています。その翌月に大政翼賛会が発足。おかげで政治的な反対勢力が消滅してしまったのですが、この馬は衆知のように5年後に悲惨極まりない負け馬となりました。敗北が決定的にもかかわらず、2回も原爆を投下された国は世界でも日本だけじゃないですか。しかしながら、「その馬に乗れ」と誰が音頭を取ったのかは杳として分かりません。

 

 馬を現代的に替えた「バスに乗り遅れるな」という言葉もありますが、そのバスが正しい方向や望ましい方向に行くとは限りません。それに、もし事故に遭遇すれば多数の犠牲者が発生します。つまり、卵をひとつのカゴに盛ったのと同じで、リスク分散にもなっていないわけです。

 

 人間なんて不完全な生き物は、必ず間違いを犯します。絶対的に間違えると強く言い換えてもいいんじゃないかな。それを避ける方法は、分子生物学者の福岡伸一先生が言うところの「動的平衡」しかないとボクは考えています。これを政治的に言い換えれば、ひとつの理念・方針で凝り固まるのではなく、厳しい批判や反論にさらされることで、常に修正を繰り返しながら理想に近づいていくということです。ヘーゲルの「正・反・合」の繰り返しでもありますが、これは政権政党と野党という図式だけでなく、政党内部でもあって然るべきでしょう。さもなきゃドグマにこだわる永遠の野党になってしまいます。派閥による自己批判機能を喪失した今の自民党も似たような気配を強めていますけどね。にもかかわらず、節操の欠片もない怒濤のがぶり寄り、じゃなかったすり寄りだもんなぁ。

 

 こんな時代には、政策は別として、共産党の「孤高」のほうがずっと好ましく見えてしまいます。まぁね、ボク自身も孤高を続けてきたようなものですが、現実問題として、孤高を守っていたら政界で権力を奪取できるはずがない。だから政治なんか大嫌いなんだぁぁぁぁと、こういう理屈になるわけですな。

 

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2017年9月27日 (水)

『それで自由になったのかい』(後)

 

いくらブタ箱の臭いまずい飯がうまくなったところで

それで自由になったのかい

それで自由になったのかよ

 

 1968年に『山谷ブルース』でデビューした岡林信康が1970年3月に発表した2枚目のシングルが『それで自由になったのかい』です。ボブ・ディランに強く影響された、いわゆるモロ出しのプロテストソングでございまして、申し訳ないけど何度も聞きたくなるような叙情は一切ありません。

 

 むしろ、そのシングルB面の『手紙』にボクは感動しました。「私の好きなみつるさんが……」で始まる悲恋を女性の一人称で描いており、差別問題を逃げずに真正面で捉えながらも、切ない心情が胸に迫ってくる素晴らしい歌に仕上がっています。歌詞が自殺した女性の遺書による実話にもとづいていると知れば、さらに目頭が熱くなるはずです。ところがその中に出てくる「部落」という言葉が差別用語だったため、すぐに放送禁止になってしまいました。日本民間放送連盟では1959年に「要注意歌謡曲制度」を内規で取り決めており、これに該当すると判断された楽曲は、A=放送しない、B=旋律(メロディ)は使用可能、C=不適切な表現を修正することで放送可能、ただし著作権者の了承を取ること、という3段階の処置が取られることになっていました。『手紙』はそのうち堂々の最上位A指定。以後はテレビやラジオからこの曲が流れてくることは一切なくなったのです。

 

 日本民間放送連盟は民間の放送事業者を会員とする一般社団法人ですから、法律で定められたわけではなく、自主的な規制に過ぎないはずですが、その支配力は相当に強かったようです。このバカバカしい内規は1983年に廃止されていますが、現在も影響が残っているらしく、指定曲の放送を自粛することが少なくないとされています。

 ちなみに『手紙』で問題となったフレーズは、「部落に生まれたそのことのどこが悪い何が違う」です。放送関係者にもかかわらず、部落という文言だけで放送禁止にしてしまう貧弱な日本語読解能力しかなかったことに驚きを禁じ得ません。そんな反発から、ボクはギターで弾き語りできるくらい好きな歌になりました。

 

 こうした顛末をまるで暗示するかのように、『手紙』のA面に『それで自由になったのかい』があったわけです。

 

そりゃよかったね 

給料が上がったのかい

組合のおかげだね 

上がった給料で何を買う

テレビでいつも言ってるクルマを買うのかい

それで自由になったのかい 

それで自由になれたのかよ

 

 あまりにも歌詞が未加工なナマ過ぎで、粗雑とすら思えるメロディも含めて、楽曲としての完成度は高くありません。それでも熱さだけはあり余るほど感じることができます。その背景として本来は学生運動を論じなきゃいけないところですが、この頃の「自由」というのは今よりもはるかに分かりやすくて、輝きに満ちていたんですよね。ジーサンたちが作り上げた旧体制による社会的な抑圧からの自由ですから、当時は若くて元気だった団塊世代が雄叫びを上げたのは当然といっていい。戦いの相手は目の前にいたのです。

 

 ところが、年老いて彼らもまた体制の一員となってしまえば、あれほど叫んでいた自由があたかも身勝手でワガママな野放図のように感じるわけです。自由に制限なんてあっていいはずがないのに、「自由にもホドがある」とワケの分からないことを言い出したりする。もしも仮に彼らが望んだ自由が実現したとしても、やがて新しい体制という不自由を育んでいったはずです。さもなきゃ社会は維持できませんから。

 

 そうした社会という視認できる外側だけでなく、人間の内側にしても、昨日に指摘したように自らを縛る規制やルールがいろいろあります。これに疑問を感じて破ったとしても、それがまた新しい決め事やプロトコルなんかを生み出していくんですよね。いちいち自分ですべてを判断して決めたり選択するというのは面倒という実利的な理由も見逃せないのですが、人間というのはどうやら自由を希求しながらも、不自由にならざるを得ない生き物らしい。でなければ精神的な安寧を得られないとも言い換えられるでしょう。

 

 そうした矛盾をうまく回避していくためには、ファッションでいえば「モード」のように変わり続けるしかない。簡単にいえば「転がる石に苔は生えない」ってことです。政治も同じで、1966年に始まって70年代後半まで中国全土を巻き込んだ文化大革命は、毛沢東の権力維持のための政治闘争とするのが一般的な解釈ですが、この騒乱がなかったら共産中国はとっくに崩壊していたとボクは思います。そんなわけで、目まぐるしく感じる流行やトレンドにも大きな意味があるわけですね。

 

 それと同じように、ボクたちは絶えず「それで自由になったのかい」と問い続けなければ、せっかく得た自由を再び手放すことになってしまうでしょう。それがよしんば不自由を選ぶ自由だとしても、自分が望んだものを得るための唯一の方法なのです。

 

オレたちが欲しいのは 

ブタ箱の中での

より良い生活なんかじゃないのさ

新しい世界さ 新しいお前さ

 

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2017年9月 8日 (金)

何様?

 

 9月1日のブログ「事前規制と事後摘発」で、2000年前後からの規制緩和の流れがいつの間にか立ち消えたようになり、むしろ揺り戻しの気配が濃厚ではないかと指摘しました。

 

 それを象徴する最近の事例が、東京23区内の私立大・短大の定員増加を認めないという文部科学省の政策です。いくら地方経済が不振とはいっても、これはちょっと違うんじゃないかな。地方の大学自身が魅力を高めていくのが本筋ですよね。そうした大学は実際に少なくないのですから、それを模範として個性的な教育改革を進めることで地域の学生を引き留めるだけでなく、逆に首都圏からも学生を呼び込めるような自助努力を促すべきでしょう。

 

 大昔にも似たような規制を実施したため、大学のキャンパスが相次いで東京郊外に移転した時期があります。けれども、21世紀になってから都心回帰の動きが顕著になってきたではありませんか。少なくとも、私立大学の定員を国があれこれ指図するなんていうことは、およそ自由民主主義あるいは市場経済とは思えません。国から莫大な運営費交付金が出ている国立大学法人ならともかく、それぞれ固有の建学の理念に基づいた「学問の独立」が保障されているはずではありませんか。だったら入学定員だって自由であるべきでしょう。

 

 厳密にいえば、私立大学といえども1968年から国の補助金が出ています。当初は「私立大学教育研究費補助金」として計上され、70年には専任教員の人件費も含めた「私立大学経常費補助」という大きな枠に改定されました。でね、この補助金の額が70年代に猛烈な勢いで増加していったわけです。その責任者や意図や背景は皆さんの想像にお任せしますが、私立大学はそれまで国のカネなんてアテにできなかったのですから、下世話な表現かもしれませんが、これが「ヒモ付き」の始まりとも言えるわけです。

 

 こうして国に逆らえない状況を作っておいてから、定員も含めてやたらに規制したり音頭を取ったり、ついでに天下りするというのは卑怯というか姑息というか、実に巧妙至極なやり口というほかありません。しかしながら、1980年代に行われた医師抑制政策が地方の医療崩壊を引き起こしたように、もはや中央政府の思惑通りにコトが進むような単純な社会構造ではないですよね。

 

 かといって、何もかも市場のメカニズムに任せて自由を貫けば、煽りを受けるのは弱者です。だからこそ、できるだけ事前規制を緩和すると同時に、事後の監視・摘発・救済を進めるというのが複雑化・高度化した社会に必要な政策ではないかと。それをしないで単に蛇口を締めたり開けたりなんていうのは、いったい何様の仕業かよとボクなんかは感じてしまうのであります。

 

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2017年9月 1日 (金)

事前規制と事後摘発

 

 来年度に学生募集する法科大学院がとうとうピーク時の約半数、39校に減少したそうです(日本経済新聞8月31日朝刊)。このブログでは書き飽きたテーマなので近頃は話題にしてきませんでしたが、もともとボクはこの制度に大反対であり、ついでに合格者数を予め絞ることも自由民主社会ではあり得ないことだと以前から指摘してきました。過去のブログならびにボクの著作など、その証拠を出せというならいくらだってあります。

 

 それと同じことを書きたくないので論点だけまとめれば、そもそものきっかけは司法試験合格者数を「2010年頃には年間3000人にする」とした2002年の閣議決定にあります。こんなことを政府が決定すること自体がおかしい。たとえば100点満点のうち80点以上なら合格という規則を70点以上に緩和するなら分かります。けれども、合格者数を増員ってどういうことでしょうか。入学定員が決まっている大学受験じゃないんですから。検察官や裁判官は公務員でも、弁護士は民間で活躍する専門職です。そんな仕事の従事者数を政府が規制するってヘンでしょ。たとえば競争が激化すると経営が厳しくなるという理由で、東京で新規開店するラーメン屋を年間500店に規制するのと同じではありませんか。

 

 ちなみに自由民主主義の国アメリカではこんな馬鹿げたことはできないので、弁護士の登録者は約122万人(2014年)に達します。対する日本は約3万8000人(2016年)。人口は2.5倍程度に過ぎないのに、弁護士の数は何と32倍以上です。いくらアメリカが訴訟社会とはいっても、この違いは大きすぎると思いませんか。

 

 いずれにしても、合格者増員というなら受験資格不要の旧司法試験の枠を広げるだけで済むのに、それでは合格者の質が下がると考えたのか、2004年から法科大学院制度がスタート。この大学院を修了しないと司法試験が受けられなくなりました(予備試験は後述)。そのかわりに「新司法試験の合格率は70~80%」という途方もない広報が行われたおかげで、初年度の法科大学院志願者は7万人以上という大フィーバーですよ。

 

 その後の経過は今さら解説するまでもなく、大学院で高額な学費がかかるのに司法試験の合格率は20%台。うまく合格できたとしても新人弁護士は就職難。こんなハイリスクな資格職の人気が下がるのはちっとも不思議ではなく、法科大学院の志願者・入学者ともに年々減少。おかげで法科大学院の撤退が続いてきました。そのかわりに、誰でも何回でも受験でき、合格すれば即司法試験に挑戦できる予備試験が大人気。この予備試験は、法科大学院が参入規制と非難されないように残した言い訳的な制度だったのですが、今ではこちらの合格者のほうが優秀と評価されるサブルートとなっています。ホラね、何のことない、名称は変わっても旧司法試験はちゃんと生き残っているではありませんか。

 

 皆さんはこのプロセスのどこに間違いがあると思いますか。ボクはやはりスタートラインがおかしいと思わざるを得ないのです。合格者数の「事前」制限は明らかに既得権益の保護ですから、岩盤規制と同じく自由民主主義における市場競争に反しています。

 次に弁護士の仕事について。政府が司法試験合格者の増員を決定したのは、規制緩和という大きな流れが前提でした。いわく「行政による事前規制」から「司法による事後の摘発&救済」への転換です。早い話が、お上による規制をなるべく緩くすることで市場競争を刺激し、ビジネスをより活性化しようというのが狙いでした。

 

 でね、こうした最初の理念が首尾一貫しなかったことに大きな問題があるわけです。その意味では「司法試験合格者数3000人」の撤回なんぞ実は大した問題ではありません。「行政による事前規制」からの転換がうまくいっていないどころではなく、むしろ揺り戻しともいえる状況にあることをどれだけの人が認識しているでしょうか。ぶっちゃけて言えば、行政による「事前」の規制と支配が根強く残っているからこそ、「事後」を管理する弁護士の仕事が増えない。だからこそ新人弁護士の就職難、よって法科大学院の不人気、それなら予備試験のほうがローリスク、と話は淀みなくつながっていくのです。

 

 それに隣接資格の問題もあります。司法書士と行政書士に類似した資格は欧米にはなく、すべて弁護士の仕事です。これらは司法と行政の制度が縦割りで整備されていく時間差で生まれてきた専門職と考えられますが、そろそろ廃止や統合などに踏み切らないと共倒れになりかねないとボクは睨んでいます。

 

 さらにもう1つ、日本全体の訴訟件数は減少傾向にあるとされているので、形式だけの顧問も含めて、旧来の弁護士業務にぶら下がるつもりなら、国家公務員の総合職を目指したほうがいい。弁護士という法律職に求められる仕事はいろいろあるはずなのに、消費者金融の過払い金請求など目先で手早くカネになる方向しか見ていないようにボクには思えます。たとえばグローバル化によって企業の国際紛争は増加するに決まっていますから、それを訴訟という多額なコストと手間をかけずに短期に解決するADRなど、開拓すべき新分野は少なくないと思いますよ。

 

 逆にいえば、そうした新しい仕事を創出する意欲があるのなら、弁護士人気が低迷している今がチャンスなのです。人の行く、裏に道あり、花の山。これは証券業界の諺ですけど、どんな仕事でも同じですよね。

 

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