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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

経済・政治・国際

2017年9月 8日 (金)

何様?

 

 9月1日のブログ「事前規制と事後摘発」で、2000年前後からの規制緩和の流れがいつの間にか立ち消えたようになり、むしろ揺り戻しの気配が濃厚ではないかと指摘しました。

 

 それを象徴する最近の事例が、東京23区内の私立大・短大の定員増加を認めないという文部科学省の政策です。いくら地方経済が不振とはいっても、これはちょっと違うんじゃないかな。地方の大学自身が魅力を高めていくのが本筋ですよね。そうした大学は実際に少なくないのですから、それを模範として個性的な教育改革を進めることで地域の学生を引き留めるだけでなく、逆に首都圏からも学生を呼び込めるような自助努力を促すべきでしょう。

 

 大昔にも似たような規制を実施したため、大学のキャンパスが相次いで東京郊外に移転した時期があります。けれども、21世紀になってから都心回帰の動きが顕著になってきたではありませんか。少なくとも、私立大学の定員を国があれこれ指図するなんていうことは、およそ自由民主主義あるいは市場経済とは思えません。国から莫大な運営費交付金が出ている国立大学法人ならともかく、それぞれ固有の建学の理念に基づいた「学問の独立」が保障されているはずではありませんか。だったら入学定員だって自由であるべきでしょう。

 

 厳密にいえば、私立大学といえども1968年から国の補助金が出ています。当初は「私立大学教育研究費補助金」として計上され、70年には専任教員の人件費も含めた「私立大学経常費補助」という大きな枠に改定されました。でね、この補助金の額が70年代に猛烈な勢いで増加していったわけです。その責任者や意図や背景は皆さんの想像にお任せしますが、私立大学はそれまで国のカネなんてアテにできなかったのですから、下世話な表現かもしれませんが、これが「ヒモ付き」の始まりとも言えるわけです。

 

 こうして国に逆らえない状況を作っておいてから、定員も含めてやたらに規制したり音頭を取ったり、ついでに天下りするというのは卑怯というか姑息というか、実に巧妙至極なやり口というほかありません。しかしながら、1980年代に行われた医師抑制政策が地方の医療崩壊を引き起こしたように、もはや中央政府の思惑通りにコトが進むような単純な社会構造ではないですよね。

 

 かといって、何もかも市場のメカニズムに任せて自由を貫けば、煽りを受けるのは弱者です。だからこそ、できるだけ事前規制を緩和すると同時に、事後の監視・摘発・救済を進めるというのが複雑化・高度化した社会に必要な政策ではないかと。それをしないで単に蛇口を締めたり開けたりなんていうのは、いったい何様の仕業かよとボクなんかは感じてしまうのであります。

 

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2017年9月 1日 (金)

事前規制と事後摘発

 

 来年度に学生募集する法科大学院がとうとうピーク時の約半数、39校に減少したそうです(日本経済新聞8月31日朝刊)。このブログでは書き飽きたテーマなので近頃は話題にしてきませんでしたが、もともとボクはこの制度に大反対であり、ついでに合格者数を予め絞ることも自由民主社会ではあり得ないことだと以前から指摘してきました。過去のブログならびにボクの著作など、その証拠を出せというならいくらだってあります。

 

 それと同じことを書きたくないので論点だけまとめれば、そもそものきっかけは司法試験合格者数を「2010年頃には年間3000人にする」とした2002年の閣議決定にあります。こんなことを政府が決定すること自体がおかしい。たとえば100点満点のうち80点以上なら合格という規則を70点以上に緩和するなら分かります。けれども、合格者数を増員ってどういうことでしょうか。入学定員が決まっている大学受験じゃないんですから。検察官や裁判官は公務員でも、弁護士は民間で活躍する専門職です。そんな仕事の従事者数を政府が規制するってヘンでしょ。たとえば競争が激化すると経営が厳しくなるという理由で、東京で新規開店するラーメン屋を年間500店に規制するのと同じではありませんか。

 

 ちなみに自由民主主義の国アメリカではこんな馬鹿げたことはできないので、弁護士の登録者は約122万人(2014年)に達します。対する日本は約3万8000人(2016年)。人口は2.5倍程度に過ぎないのに、弁護士の数は何と32倍以上です。いくらアメリカが訴訟社会とはいっても、この違いは大きすぎると思いませんか。

 

 いずれにしても、合格者増員というなら受験資格不要の旧司法試験の枠を広げるだけで済むのに、それでは合格者の質が下がると考えたのか、2004年から法科大学院制度がスタート。この大学院を修了しないと司法試験が受けられなくなりました(予備試験は後述)。そのかわりに「新司法試験の合格率は70~80%」という途方もない広報が行われたおかげで、初年度の法科大学院志願者は7万人以上という大フィーバーですよ。

 

 その後の経過は今さら解説するまでもなく、大学院で高額な学費がかかるのに司法試験の合格率は20%台。うまく合格できたとしても新人弁護士は就職難。こんなハイリスクな資格職の人気が下がるのはちっとも不思議ではなく、法科大学院の志願者・入学者ともに年々減少。おかげで法科大学院の撤退が続いてきました。そのかわりに、誰でも何回でも受験でき、合格すれば即司法試験に挑戦できる予備試験が大人気。この予備試験は、法科大学院が参入規制と非難されないように残した言い訳的な制度だったのですが、今ではこちらの合格者のほうが優秀と評価されるサブルートとなっています。ホラね、何のことない、名称は変わっても旧司法試験はちゃんと生き残っているではありませんか。

 

 皆さんはこのプロセスのどこに間違いがあると思いますか。ボクはやはりスタートラインがおかしいと思わざるを得ないのです。合格者数の「事前」制限は明らかに既得権益の保護ですから、岩盤規制と同じく自由民主主義における市場競争に反しています。

 次に弁護士の仕事について。政府が司法試験合格者の増員を決定したのは、規制緩和という大きな流れが前提でした。いわく「行政による事前規制」から「司法による事後の摘発&救済」への転換です。早い話が、お上による規制をなるべく緩くすることで市場競争を刺激し、ビジネスをより活性化しようというのが狙いでした。

 

 でね、こうした最初の理念が首尾一貫しなかったことに大きな問題があるわけです。その意味では「司法試験合格者数3000人」の撤回なんぞ実は大した問題ではありません。「行政による事前規制」からの転換がうまくいっていないどころではなく、むしろ揺り戻しともいえる状況にあることをどれだけの人が認識しているでしょうか。ぶっちゃけて言えば、行政による「事前」の規制と支配が根強く残っているからこそ、「事後」を管理する弁護士の仕事が増えない。だからこそ新人弁護士の就職難、よって法科大学院の不人気、それなら予備試験のほうがローリスク、と話は淀みなくつながっていくのです。

 

 それに隣接資格の問題もあります。司法書士と行政書士に類似した資格は欧米にはなく、すべて弁護士の仕事です。これらは司法と行政の制度が縦割りで整備されていく時間差で生まれてきた専門職と考えられますが、そろそろ廃止や統合などに踏み切らないと共倒れになりかねないとボクは睨んでいます。

 

 さらにもう1つ、日本全体の訴訟件数は減少傾向にあるとされているので、形式だけの顧問も含めて、旧来の弁護士業務にぶら下がるつもりなら、国家公務員の総合職を目指したほうがいい。弁護士という法律職に求められる仕事はいろいろあるはずなのに、消費者金融の過払い金請求など目先で手早くカネになる方向しか見ていないようにボクには思えます。たとえばグローバル化によって企業の国際紛争は増加するに決まっていますから、それを訴訟という多額なコストと手間をかけずに短期に解決するADRなど、開拓すべき新分野は少なくないと思いますよ。

 

 逆にいえば、そうした新しい仕事を創出する意欲があるのなら、弁護士人気が低迷している今がチャンスなのです。人の行く、裏に道あり、花の山。これは証券業界の諺ですけど、どんな仕事でも同じですよね。

 

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2017年6月29日 (木)

他人ファースト

 

 いよいよ世間が騒がしくなってまいりました。7月2日投票予定の東京都議会選挙であります。

 

 ボクの事務所のあるマンションは、JR恵比寿駅から徒歩3分程度ということで、街頭に立つ候補者も珍しくありません。関係者も含めて「お願いします」と連呼しながら殊勝に頭を下げるのは結構ですが、与党のみならず野党の候補者にしても、いったん当選してしまえば知らぬ顔の半兵衛で(意味分かりますかね?)、都民のことなんかそっちのけになるのが見え見えなんだよな。

 

 こういうことを何度も何度も何度も何度も何度も、まだ足りないけど、何度も繰り返してきたくせに、「無党派層の帰趨が問題」なんてよく言うよなぁ。よほどナイーブな人以外は、また同じ結果になるとほとんど諦めており、その悲観的な予測は残念なことに外れたことがないのです。

 

 それでも今年は「都民ファーストの会」なんて政策集団が結成されたらしい。ボクは以前から指摘してきましたが、だったらさぁ、それまでは都民ファーストじゃなかったわけでしょ。では、具体的にどこの何がどのように都民ファーストでなかったかをきちんと検証するのがスジだろうと。特に都民ファーストではなかったと暗に指摘されている都議会自民党は、夜を徹した討論でもやって自分たちの行政政策を説明すべきじゃないかなぁ。

 

 にもかかわらず、相変わらずの、なんとなーくのイメージ選挙だもんね。「都民ファーストの会」にしても、何をどのようにファーストにしてくれるのか、寡聞にしてあまり聞いたことがありません。なのに7月2日は目の前です。

 

 要するに、これまでのヘンテコな事件と「ハーゲーっ」と叫んだアホな東大卒の国会議員などの実績を踏まえれば、有権者をナメくさっておるわけです。ボクがこいつらに言いたいのは「都民ファースト」なんぞでなく、「他人ファースト」なんですよね。すべてのビジネスは他人ファーストでないと絶対にうまく回りません。そりゃそうでしょ。「お客様は神様です」というだけでなく、メーカーのいかなる工程でも、その後の仕事の流れに配慮できない自分勝手な奴は、簡単に嫌われて排除されます。

 

 つまりね、人間も仕事も世間では鎖のようにつながっているわけです。ところが、何年かに1度しか直接的に顧客=ステイクホルダーに向き合わないのが政治家という職業なんですよね。

 

 そこんところ、分かっているのかなぁ。ボクの投票の基準も、人を判断するクライテリアも、常に「他人ファースト」です。ああ、もうそろそろ事務所を出ないと間に合いません。どんなことがあろうとアポイントメントを死守するのも、ボクなりの他人ファーストなのです。

 

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2017年6月14日 (水)

ショッピングモールの衰退

 

 予想通りと言うべきか、アメリカでは小売店舗が建ち並んだショッピングモールが危機的状況のようです。詳しくは本日の日本経済新聞を読んでいただきたいのですが、クレディ・スイスでは「アメリカでは今後5年で最大4分の1のモールが消える」と予測しているほどです。記者が現地取材したのはアメリカ・ニュージャージー州のモールで、かつて100あった店舗で現在も営業しているのは約1割。ほとんどシャッター商店街ではありませんか。

 

 この原因は明らかで、誰が考えてもネット通販となるでしょう。もともと国土の広いアメリカでは日本よりも通信販売が発達していたので、インターネットでモノを購入することにも抵抗はないはずです。ボクなんかは実物を確認しないで買えるモノなんてお茶とか水とか冷凍食品くらいですけど、今では服だって着てみて合わなければ平気で返品する消費者も育っているので、遅かれ早かれ日本のモールも同じ運命を辿ることになるんじゃないかな。

 

 ちょっと歴史を振り返ってみると、まずは家庭用ビデオの普及によって映画館に足を運ぶ人が激減しました。次にインターネット。音楽配信&ダウンロード購入のおかげで、CDの売れ行きは大幅に減少。それと同時並行で書店もどんどん消滅しています。さらにショッピングモールも集客不振というのですから、これは近い将来に物品の種類を問わず「小売り店」という業態そのものがなくなることを意味しているのかもしれません。

 

 実際に、わざわざ外に買い物に行かなきゃいけないものなんて、あまり考えられないですよね。ボクは生協の宅配も利用しているので、好き嫌いさえ言わなければ、1週間ずっと家の中としても不便はまるでないわけです。

 

 では、そんな生活が楽しいかといえば、どんな豪邸に住んでいても退屈するに決まっています。だから、ネット通販の普及は「外出」の意味を変えていくことになるんじゃないかな。外で買い物はかつて「日常」でしたが、それが必要なくなれば、外出は「非日常」ということになります。

 ボクは常々、日本はあまりにもパーティが少なく、着飾る機会に乏しいと指摘してきましたが、そうした「非日常」を仕掛けることで、家にこもった人たちを引っ張り出すのが新しいビジネスになっていくように思います。

 

 まだ考え始めたばかりでまとまりはありませんが、斜陽と言われる映画館だって、つきあい始めた男女のデートの場という機能まで失ってはいないはずです。お互いをよく知らないのに、いきなり自宅でビデオ鑑賞なんて女性には危険極まりないじゃないですか。ただ、それを意識した環境づくりをしている映画館が少ないから行かないというだけのことです。

 

 ショッピングモールにしても、ただの商業集積だから疲れてしまうんですよね。ディズニーランドは広くて疲れるから行きたくないなんて誰も言わないように(お年寄りは別です)、そうした魅力をショッピングモールに持たせれば、みんなが寄り集まってくるはずです。

 

 要するに、ボクたちの持っているフレームワークやテンプレートがインターネット時代に合わなくなってきただけのことであり、逆にいえばそれに依存し過ぎていたような気もします。ということは、教育もまた旧来のフレームワークやテンプレートを取り替えなきゃいけないってことですけど、それに気づいている人がどれだけいるかなぁ。

 

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2017年6月 6日 (火)

国が壊れる時

 

 先週もロシア人の女性歌手、エカテリーナさんのライブに行ってきました。残念ながら、ボクの大好きな『モスクワ郊外の夕べ』は聴けなかったのですが、これはまぁある意味で仕方ないんですよね。

 

 というのも、彼女が言うには、ソ連の頃は毎朝6時くらいからこの歌が流れており、早起きが苦手な彼女は大嫌いだったそうです。だから歌うことがあっても、スローな民謡風でなく、アップテンポのジャズにアレンジしていました。日本なら朝っぱらから「夕焼け小焼けで日が暮れて」を流すのと同じではないですか。『モスクワ郊外の夕べ』は1957年の世界青年学生祭典のコンクールで第1位となったので、その内容はともかく、当時のソ連は官僚国家だったので、皆さんが上層部の意向を「忖度」して朝からせっせと聴くことを強制したのかもしれません。とすれば、今の日本と大して違っていないじゃないですか。

 

 それはともかく、ステージの合間にかわした短い会話で、日本に来た大きな理由が分かったのです。

 

 199112 25日午後7時に行われた記者会見で、ミハイル・ゴルバチョフはソ連邦大統領の辞任を表明。翌26日にはソ連最高会議・共和国会議でソ連の消滅が公式に確認されました。ここから先がボクたち日本人にはとても想像できないところでありまして、国は大混乱に陥るとともに、原始社会のような弱肉強食状態に突入したんじゃないかな。確かに当時はロシアンマフィアの暗躍が噂されましたよね。宝飾の世界でも彼らを意識した超高額品が盛んに作られたことがあります。

 

 そんな状態を彼女は日本語で「すごく怖かった」と表現しました。このためアメリカに逃げた友人や知人もいるらしい。あまり根掘り葉掘り訊ねるのも失礼なので途中でやめましたが、「ああそうか、あの国は壊れたんだよな」と再認識できたのです。

 

 壊れたというより崩れたというほうが近いかもしれませんが、実は似たようなことが1917年に起きています。ロシア革命が勃発すると、貴族や要職に就いていた軍人たちはこぞって各国に亡命。かの横綱・大鵬の父も、樺太に亡命したウクライナ人のコサック騎兵隊将校でした。

 

 歴史は繰り返すというか、因果はめぐるというべきか、およそ70年を経過して同じような社会の激変が起きたわけですね。日本も2度にわたって原爆を落とされ、太平洋戦争に敗北しましたが、少なくとも本土にいる限りは国を捨てなきゃいけない状況にはなかったと思います。

 

 どちらにしても遠い昔に遠い国のことですから、ボクが勝手に想像しているだけのことですが、こういう話を身近で聞けるのは刺激になりますよね。

 

 でもさぁ、そういうことをボクなんかより現実的に考えるのが政治家の役割じゃないですか。そのために外遊するというならどんどん行くのを許しますが、東京にいても聞く気さえあればこれくらいの話は聞けるんだけどなぁ。

 とにかく国を壊してはいかんのですよ、絶対に。そのしわ寄せは必ず弱い者から及んでいくことになるからです。

 

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2017年5月16日 (火)

支配された意思

 

 受動喫煙対策を強化する法改正が国会で頓挫しそうな気配を見せているようです。早い話が飲食店での喫煙を「原則禁止」にするのか、それとも「分煙」を認めるかってことですよね。

 

 アメリカやヨーロッパで喫煙場所探しに苦労してきたボクにとって、この国は今ごろ何を論議しているんだろうと呆れてしまいます。もちろん海外や先進国に倣えというつもりはまったくありません。けれども、喫煙による弊害は自己責任としても、他人の煙を呼吸させられて様々な疾患を発症しかねない「受動喫煙」は立派な(?)社会問題ですよね。公共の利益を優先するなら、どう考えても全面禁煙が合理的判断ではないでしょうか。

 

 5年ほど前は1日2箱を消費するほどのヘビースモーカーであり、今でも煙草をすいたいなぁと思うボクでさえこんなことは自明なのに、いろいろな妥協案が取り沙汰されているのは、飲食店の営業上の問題もあるでしょうが、何よりも国会議員の多くが喫煙者だからじゃないかな。煙草をすう側に言わせれば、全面禁止なんて個人の自由を奪うファシズムにも匹敵する暴挙じゃないかと。だからこそ「分煙」論も根強いのですが、これって喫煙者の大いなる誤解あるいは曲解が原因なのです。

 

 ズバリ言ってしまえば、スモーカーのほとんどは自分の自由意思で喫煙していると思い込んでいます。ところが、ホントの実態は「喫煙させられている」または「やめることができない」ニコチン中毒なんですよね。法律家がそんな依存状態になったら、マリファナやヘロインだって解禁できる理屈を必死になって考え出すんじゃないかな。つまり「喫煙させられている」ことに気づくことなく、自主的に「喫煙している」と誤解あるいは曲解してしまう。それこそがニコチン中毒の最大の特徴であり、問題点なのです。

 

 隷属的な依存状態にもかかわらず、あたかも自らの選択的な意思のように錯覚する。だからこそ離脱が困難になってくるわけですね。ボクは5年前に体調を崩したことから禁煙を決意して実行したのですが、やめて初めて自分がニコチン中毒だったことが分かりました。最初は大変でしたが、煙草をすわなくても原稿制作に何の支障もなく、質や量にも影響していないはずです。禁煙の前後で綿密に比較したら論文になりそうですけどね。

 煙草というのはそれほど強い依存をもたらすので、こんなにも有害な嗜好品を専売公社経由で国民に広めてきた国家と行政は、罪を悔い改めると同時に、ある程度の罰を受けなきゃいかんだろうと思うくらいです。少なくとも煙にしてしまった税金の一部を返還して欲しいなぁ。

 

 そんなことは現実的に無理としても、とにかくスモーカーは煙草に関して「自由意思」や「自由主義」なんぞを振りかざしてはいけない。まずは自分自身が大なり小なりのニコチン中毒であることを潔く認めて、「すっている」のでなく「すわされている」ことを自覚すべきです。そこからスタートしなければ、公平で客観的な議論は無理ってものです。

 

 こうした煙草における「依存者の屁理屈」に似た論理は、実はいたるところにあります。カルトや狂信的な思想だけではありませんよ。「習慣」や「前例」「常識」それに「横並び」だって強力な依存状態をもたらすと思うのです。

 というわけで、自分の意思だと信じていたことが、実は「思わされていた」なんてことは世の中に掃いて捨てるほどあります。みんながそれを自覚しなければ、個人の自由意思を基本とした民主主義もあり得ないじゃないですか。そうした「思い込み」=「洗脳」を防ぐためにも、民主主義と報道の自由は憲法でも不可分なセットになっているわけです。

 

 マスコミをやたらに批判・攻撃・責任転嫁したり、記者会見や取材を回避しようとする政治家は、そうした民主主義の基本をまるっきり理解していません。政治家として失格と烙印されても不当ではないだろうとボクは思います。

 

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2017年5月11日 (木)

半ズボン

 

 終熄に向かうかと思ったら再燃したりして、例の森友案件は首相も悩みのタネだろうなぁ。もとよりボクは彼らの教育方針も教育者にあるまじき二面性も大っ嫌いですけど、国家権力をバックにした官僚の皆さんは、彼らの「差し違える」「死なばもとろも」「一矢報いる」といった日本の伝統的&民族的な姿勢を許すつもりはまったくないようです。

 

 資料を廃棄したとかの言い訳やら、やっと出て来たけど真っ黒けっけの申請書なんか典型的です。何しろ首相の名前のついた小学校ですから、そりゃ隠したいのは山々でしょうけどね。予想される結果も、せいぜい末端の役人を処分して関の山でしょう。国家ってのは、いちど楯突くと悪魔のような怖い存在に変貌することを、もうちょっとボクたちは知った方がいい。この問題をそういう事例として見直してみると、日本という国の体質は戦前からほとんど変わっていないことが分かります。

 

 さて、大人の半ズボンです。ビーチやリゾート地ならいざ知らず、アスファルト・ジャングルといわれる大都会での半ズボンです。さらにはサンダルであります。

 

 ボクはこれらが、あくまでも個人的に大っ嫌いでありまして、どんな格好をするのも自由ということを認めながらも、目をそむけてしまうんですな。ボクだけでなく、某調査では女子が嫌いなファッションのベストテン上位に入っており、その理由は「毛ずねがイヤ」だそうです。そうだよなぁ、節がデコボコの太めのレンコンのような足も、細ければ細いにしても貧弱ですから、それが美的といえるかよぉぉぉぉと思うんですよね。仮に脱毛してツルツルにしたところで、ナマ足をさらすのは女子だけの特権と心得るべきじゃないかな。

 

 そんな批判を知ってか知らずか、半ズボンにサンダルの男子は年々増加しているように感じます。地球温暖化で蒸し暑いのだから、涼しい格好をしてどこがいけない、という反論が波のように寄せては返していきそうですが、そういう我慢というかこらえ性のない精神性がね、どうにも好きではないのです。誰だって自分が大切なんだから、他人を踏みつけて生き延びても仕方ないじゃんかという気持ちと相通じるものはありませんかね。えっ? ないってか。それならそれでいいんだけどね。

 ただ、もしも本気で涼しい格好になりたいのなら、ランニングシャツとステテコにしたほうがいいんじゃないかな。にもかかわらず、という中途半端な立ち位置こそが嫌いな理由なのです。

 

 以前にも書きましたが、エレガントという言葉はハードボイルドと同じく「痩せ我慢」の別名なんですよね。楽な格好をしたいというのもよく分かりますが、そこのところを忘れると精神性まで醜悪極まりなくなってしまう。これから本格的に始まる恐ろしい季節に向けて、ズブズブ、じゃなくてダラダラのグダグダにならないよう、ボクも含めて、皆さん心を引き締めようではありませんか。

 

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2017年4月14日 (金)

国家の本質は政権?


 ある程度の仕事経験を持つ人にはご理解いただけると思うのですが、いったんケチが付いた仕事って、まるで呪われたようにうまくいかないことが続きますよね。おかげで本日は早朝から定期検診があることもすっかり忘却。慌ててブログに取り組んでいます。

 

 取りあえずの話題として、緊迫する朝鮮半島情勢ですが、あの国を見ていると、いろいろなことに気づかされます。

 

 まず、以前にも指摘したように、国家というのは必ずしも地理的や民族的に自然発生したものではなく、政権が作ったものだということを再認識させられるのです。だってね、戦前までは日本の植民地だったにせよ、北も南もなかったんですよ。

 それが日本の敗北で、重い蓋がなくなったかのようにいきなり2つの国家に分断され、それぞれ大国を背後にした悲惨な戦争で同じ民族が殺し合うことになったのです。こりゃもう国家というのはどう考えても政権そのものということになるではありませんか。ということは「愛国心」というのは、つまり「愛政権心」ってことになるのかな。今なら「愛自民党心」でしょうか。ならば国旗掲揚や国歌斉唱は、いったいどんな意味を持つのかと考えてしまいますよね。

 

 戦争にしても、やはり政権が強力に推し進めた結果の事態であることが分かります。生活を切りつめてまで戦車や戦闘機やミサイルや核開発を進めるなんていうのは、やはり国民の総意とは考えられません。ご家庭で財布をはたいてナイフやライフルを何本も買うより、美味しいものをもっと沢山食べたいって思いませんか。

 

 おっと、もう時間がありません。そろそろ病院行きのバスに乗らなきゃいけませんが、東西に分断されたドイツだって1990年に再統合されたのですから、そろそろ一緒になれないのかなぁと。それを阻んでいるのもやっぱり政権だとしたら、そんな制度なんかさっさとやめて、むしろ大昔のように小さな領主たちが小さな権力を持って寄り集まっていたほうが平和だったのかなとも思ってしまうんですよね。

 とするなら、近代国家は戦争をやって勝つために生まれてきたのでしょうか。帝国主義の論理も分かるんですけどね。いずれにしても、20世紀の歴史をもう一度しっかり見直すべきではないかと本気で思う今日この頃なのであります。

 

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2017年4月10日 (月)

国と地方自治体

 保育所に入れない待機児童の問題は、もしかすると「逃げ水」と似ているのではないでしょうか。というのも、ボクが幼児の頃にオフクロが保育所探しに苦労したなんて聞いたことがないからです。

 その頃は保育所が今より多かったなんてことはあり得ず、ちゃんと調べてはいませんが、むしろ少なかったんじゃないかな。にもかかわらず、待機児童なんていう言葉はありませんでした。

 ボクがこの言葉を初めて聞いたのは、2001年に総理大臣になった小泉純一郎氏の所信表明演説です。昔なら紙の資料を引っ張り出して探さなきゃいけませんでしたが、さすがはインターネット時代でありまして、テーマが明確ならすぐに検索できます。該当部分は以下の通り。

 「女性と男性が共に社会に貢献し、社会を活性化するために、仕事と子育ての両立は不可欠の条件です。これを積極的に支援するため、明確な目標と実現時期を定め、保育所の待機児童ゼロ作戦を推進し、必要な地域すべてにおける放課後児童の受け入れ体制を整備します」

 今から16年も前に、こんなにご立派な言葉で「待機児童ゼロ作戦」宣言がなされていたのです。なのに「保育園落ちた日本死ね」が昨年の新語・流行語大賞の候補(トップ10)ですからね。
 衆知のように、その背景には共働き家庭の増加があります。これを美しく換言すれば「女性の社会進出の活発化」となり、正直なホンネで言い直せば「出産後も働かざるを得ない家計環境」となるのかな。
 いずれにせよ、子供を産んでも働きたい、あるいは働かなきゃいけない女性がどんどん増加すれば、保育所の数はますます足りなくなって当然です。つまり、小泉氏が演説した頃から保育所は「逃げ水」みたいなもので、少しずつ増やしていくようなやり方では需要にまるで追いつかなかったといえるでしょう。

 かといって保育所を一気に増加すれば、将来的にどうなるか。日本の総人口が減少に転じたことを考慮すれば、そんなに多くの保育所が存続できるとも思えません。

 このあたりの見通しや予測を、本来は厚生労働省や総務省が策定しておくべきなのに、できなかったからこそ「日本死ね」と呪詛されたのです。それが10数年以上も続いてきたことを考え合わせれば、国政はもはや社会動向を正確に把握し、諸処の問題を解決できなくなってきたと判断できるのではないでしょうか。

 待機児童に限らず、医療や年金に福祉・介護などなど、国が満足に対応できていない問題や課題は山のようにあるんじゃないかな。そりゃそうですよ。58万人程度の国家公務員(平成28年度末予算定員)が、1億2700万人=5340万世帯(平成27年国勢調査)の面倒を見切れるはずがありません。手に負えなくなってきたと言ったほうが早いかな。

 仮に人員を増やしたところで、予算がかかる割に効果は薄く、両手ですくった砂粒が指の間からこぼれ落ちるように多くの問題が必ず残ります。というのも、行政は国→都道府県→市→区→町村といったピラミッドになっているからです。この構造で、たとえば国の役人が町や村の実情を肌身で知ることなんてできますか。せいぜい分かるのは数字というデータだけですよ。

 だーからね、このブログでしばしば指摘してきましたが、社会の問題や課題に迅速かつ適切に対処していくためには、地方分権しかないんじゃないかな。社会が高度化・複雑化して、さらに情報化によって変化も加速しているのですから、少なくとも行政と国民の距離をもっと近くすべきでしょう。

 もちろんインターネットの活用も考えられますが、それだけでは人間の体温や息づかいみたいなものは伝わってきません。やはり大胆な行政改革を行って、国政は外交や防衛などに限定。国の権限のほとんどを地方自治体に拡散すべきです。それしか「逃げ水」に追いつく方法はないはずなのに、現実は逆でありまして、むしろ国の権限が昔より強くなっていると思うのはボクだけでしょうか。

 それがね、もしかすると巷間言われる現政権とナントカ会議が目指す「戦前回帰」の正体ではないかと。国家統制の強化とまでは敢えて言いませんが、それが国民のニーズを満たすにはかなり困難な政体であることは、前述した理屈からご推察いただけるのはないでしょうか。

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2017年3月13日 (月)

権力者の孤独(後)

 

 先週金曜日の宿題はいかがだったでしょうか。では、答え合わせを、ってほどのことではなく、そもそも正解なんかない問題ですが、案の定とはいうものの、韓国大統領の罷免が決定しました。以前に撮られた映像かと思いますが、彼女はひどく元気がなく無表情で、まるで今日あることを予測していたような風情が見られます。ボクってば、元・小説家志望だったせいか、権力の乱用ぶりよりも、そういうところを同情してしまうんですよね。

 

 さて、それに関連した宿題に戻ると、民衆を率いる権力者=大統領や総理大臣は重責を担うことから必然的に孤独感を深めていくので、それを救うにはどうすりゃいいかってことでした。旧知の親友は心おきなく話せる反面で、あの女性大統領のように、虎の威を借る狐を増長させて私腹を肥やすようになる可能性が高い。宗教は確かに心を癒やすにしても、それが政策の意思決定にまで及ぶと不合理な決断を促すことになりかねません。

 

 だったら、どうすりゃ権力者やリーダーは孤独感から救われるでしょうか。答を知りたいですか? どうしても、どおぉぉぉぉぉしても知りたいですか? って、またまたちょっとしつこいですよね。すいません、性格なものでして。

 

 これが正解とは限りませんが、ボクが考えるのは、やっぱり強い信念、あるいは崇高な理想です。それも「国民を幸せにする」「美しい国にする」なんていう曖昧模糊で漠然としたものではなく、たとえば「病気の治療費はすべてゼロにして健康大国を作る」とか「学費ゼロにして世界が参考にする教育大国を作る」といった具体的で分かりやすい目標や方針であります。費用ゼロしか思いつかないのかと叱られそうですが、どちらも目下の社会問題なので仕方ないじゃないですか。

 

 あるいは「幼児と老人、それに障がい者など弱者にやさしい国」でもいいし、「世界一安全な国」もありでしょう。あるいはボクのブログのタイトルから「誰もが生きやすい国」でも可です。これらのパクリはすべて許可します、というより奨励いたします。

 

 こういう信念または理想を持っていたら、それが実現するまで孤独を感じるヒマがなくなります。もちろん一人ぼっちで回りは敵だらけになるかもしれませんが、戦っている限りは空虚な心の隙間が生まれるはずがない。仮に政争に敗れて野に下ろうと(差別的でイヤな表現ですけど)、挫けることもないはずです。

 

 心の支えとなる、そうした信念や理想を失って戦うべきリングから下りた時に、人間はダークサイドに墜ちたり、邪悪な意図に屈したりするわけですね。

 

 だから、このブログで再三にわたって指摘してきたように、リーダーに必要なのは、学識やノウハウやスキルなんかではなく、何よりも信念=理想なんですよね。それさえあれば、負け戦の気配から率先して逃げ出すようなみっともないこともしないし、そもそもできないはずです。元・都知事のように、重大な決定を「わしゃ知らん」と他人のせいにしたり、やたらと忘れてしまうこともあるはずがない。

 

 もう分かっていただけたかと思いますが、この国には確固とした理想を持つリーダーに乏しく、その持ち方をきちんと教える学校もありません。学ぶは確かに真似ぶことが始まりでも、自分なりの信念や理想を持たない人間は羅針盤や海図を持たない船と同じであることを、教員から直接に教えられたことがあるでしょうか。

 

 以前に、会社の目標を「年間売上げ1000億円」として、中期目標を見ると「750億円」といった段階的な数字ばっかりで、その目標をいったいどのように実現するかという、具体的な戦術なり戦略、方法論がほとんど書かれていない長期計画書を見たことがあります。これが強権的に組織全体に伝達されていくと、超大手の某電機メーカーのように決算の数字をいじくるという大罪を犯すことになりかねないわけです。

 

 そんな悪行に手を染めたり、寂しくてつまらない人生を送ることのないように、ボクたち平民は、何が本当に大事な幹で、何が枝葉末節かを、常にチェックすることから始めましょうよ。

 

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