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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

経済・政治・国際

2017年12月18日 (月)

なぜ「大家族」は分裂したか

 

 長寿化そのものは歓迎すべきことですが、そこそこに健康で認知症に至ってないことが必須条件であり、もしも要介護状態になった場合は、子供たちにとって大きな負担となります。今さらここで触れるまでもなく、「介護離職」によって親子ともども貧困に追い込まれることも珍しくありません。

 

 さらに、男女ともに平均年齢が80歳を越えた今では「老老介護」も常識ですが、定年退職後に支給される年金がね、まるで足りないわけです。そうした社会状況に追い打ちをかけるように、少子化というボディブローが効いており、運送や小売り、ファストフードなどのサービス業は人手不足がますます深刻になっていくはずです。かといって遅ればせながら子供を作るにしても、待機児童の問題がこれだけ喧伝されれば、不安だから取りあえずやめておくかとなりますよね。

 

 これらをまとめると、要するに「幼児」と「老人介護」または年金を原資とする「老後の生活」が、日本が抱える大きな問題ということになります。でもってこれを支援する制度が、行政または政治の業界では「社会保障」となるわけです。

 

 この「社会保障」の問題は、財源も含めて国会では何度も論議されてきたことで、つい最近に発生したことではありません。人口ピラミッドを見れば、少子高齢化なんて何十年も前から予見できたはずですよね。実際に介護保険は1997年の国会で制定され、2000年から施行されています。しかしながら、何度も改正されていることから分かるように、決して十分とは言えません。だからこそ「介護離職」があり得るわけで、年金も不十分なら、子育ても妻の負担が大きい。この国は戦前も戦後も、税金を搾り取れる元気で健康な労働者は大切にしても、その税金を支出しなければならない人生の始まりと終わりについて極めて冷淡なんですよね。相当なケチンボでシブチンなのであります。

 

 うあぉお、事実を並べているうちに深刻な社会問題にぶちあたってしまいましたが、ボクにはそれを解決する決定的なアイデアがあるのです。

 

 実にまったく簡単なことで、親から孫までの3世代以上の親族が同居する「大家族」制度に戻ればいいのです。痴呆の程度にもよるでしょうが、年老いた祖父母の面倒を孫も一緒に見るとか、逆に子育てを祖父母が手伝うことができれば、保育所にいれる必要もなくなります。そのかわりに老後の生活費は子供や孫世代も補助する。それなら年金への依存度も劇的に減少します。

 

 そもそも大家族制度が常識だった戦前は、年金もなければ介護保険もなかったんですよね。そんな社会保障が必要になってきたのは、高度成長期の「集団就職」以降です。これが地方の農家の若い人たちを工場勤務に駆り立て、工業地帯の近辺の都市を膨張させるとともに、親世代から隔絶された「核家族」を拡大再生産していきました。

 

 単純に考えるだけでも、大家族であれば、家も冷蔵庫も洗濯機も風呂も1つあれば十分です。ところが、世帯が2つに分離していれば、それぞれ2つが必要となるじゃないですか。不動産屋と家電メーカーにとっては喜ばしいことでも、1家族あたりの出費はそれだけ増加します。親の面倒を必ずしも子供が見るとは限らないにしても、誰かが老後や子育ての手助けをしてくれるとしたら、何かと安心というだけでなく、それぞれの家計支出の削減にも直結するではありませんか。

 

 要するに、若者人口の都市集中による「核家族」で経済と大企業は発展したけれども、それまで大家族制度が担っていたもろもろを、行政による社会保障では満足に代替できないということなのです。やたらに法律や予算をツギハギするばっかりで、待機児童なんて2000年頃から問題化していたのに、今でも「保育園落ちた日本死ね」ですぜ。

 

 ボクは、だったらもう1度「大家族」みたいな相互扶助が可能な生活制度を作ったほうがいいと考えています。シェアハウスがある時代なのですから、親族でなくても似たような生活スタイルを作ることは可能ではないでしょうか。

 ただし、その前に、いったい何がこうまで無惨に「大家族」を壊したのか、原因と犯人を正確につきとめておく必要があります。泥棒に留守番や警備を頼むバカはいないように、予め犯人を捕らえて排除しておかないと、似たような失敗を重ねることになりますからね。

 

 どうして「大家族」が「核家族」に分裂してしまったのか。もう1つの「核」問題も含めて、戦後70年の功罪をそろそろ厳しく総括すべきだろうというのが、実はこのブログの趣旨なのであります。

 しかしながら、太平洋戦争に踏み切った責任が曖昧に雲散霧消してしまったように、これもまた行政の責任なんて追求できないでしょうね。やれやれ、これでも一人前の民主主義国家なのかなぁ。たまにね、心底から絶望することがあるのです。

 

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2017年11月20日 (月)

墨塗りの教科書

 

 今から70年ほど前のことですが、太平洋戦争に敗北した日本では、アメリカの占領軍=GHQの指示によって、教科書の軍国教育や皇国教育に関する部分を墨で黒塗りにすることになりました。オセロのコマと同じで、どちらが表で裏かは分かりませんが、たとえば昨日まで白だったものが、今日からバタバタと黒にひっくり返されたわけですね。おそらく先生たちは子供に「軍国主義から皆さんが主役の自由な民主主義になるんですよぉおお」とか何とか説明したと思うのですが、であるなら、それまで教えてきたことは、先生たちにとって何だったのでしょうか。

 

 墨塗りの部分は教科の一部に過ぎなかったにせよ、それが教え子を最前線に送り出す動機や理由付けになってきたのではないでしょうか。あくまでも想像ですが、現代の高校が国立大学合格者数を自慢するように、軍隊への志願者数や陸軍や海軍士官学校の合格者数なんかを誇りにしていたかもしれません。積極的に軍部と結託することで、自分の地位を保持または向上させようとする先生だっていたでしょうね。

 

 しかし、敗戦によって時代も社会もコロリと変わり、昨日まで教えてきたことが今日はすべて逆になりました。その時に、果たして先生たちはどう反応したのでしょうか。過去のことを現代の視点で裁いてはいけないことは承知しています。けれども、寡聞かつ不勉強で申し訳ありませんが、敗戦の責任を感じて自害した軍人はいても、教科書の墨塗りに逆らって逮捕されたとか、それまでの軍国教育を恥じて自殺したという教師をボクは知りません。

 

 以前にも書きましたが、スポーツの練習中は真夏でも水を飲むなと教えられてきたのに、いつの頃からかどんどん飲めという指導に変更されています。しかしながら、それについて先生から「これまでは間違った指導でした、ゴメンね」なんていう謝罪を一度も聞いたことがないのです。水を飲まなかったおかげで何人の児童や生徒や学生が熱中症で亡くなったという統計があるのかどうかも知らされていません。少なくとも、そんな間違った指導をしてきた先生たちは、せめて墓前で合掌するべきですよね。

 

 つまり、先生というのは常に教えられる側より上位にいて、自らの誤謬を認めたり詫びたりするなんてことは滅多にないのです。せいぜい子供が自殺した時くらいですよね。さらに、勉強しなかったことによる結果責任は、いかに先生の教え方がヘタクソだろうが、教えられた側が全面的に一生をかけて背負うことになります。先生のおかげでオレはこうなったと犯罪者が言ったところで、屁理屈だとして誰も見向きしないでしょう。

 

 でもさ、ホントにそうかなぁ。

 今でも天然茶髪の許可証がなければ黒に染めなさいなんてアホな指導をやっている高校があるらしい。あと10年も過ぎたら、そんな指導をしていたことを、それこそ黒く塗りたくなると思うぞ。もっと前には、海外留学したいと相談に来た学生を「就活に影響するから」と引き留めた大学教員も実際にいます。この指導も今なら噴飯ものですが、学生のほうはそうはいきません。貴重なチャンスを失うところだったのですから。幸いに、この学生は教員に失望して、自分で何もかも調べてアメリカの超有名大学に留学して成功していますけどね。

 

 ボクたちの仕事は自分のやったことに全責任を持っているのに、教員だけは教育勅語や学習指導要領に従ってきたから、仮に間違っていようが、方針が急に変更されたとしても、自分のせいではないから免責されるというのでしょうか。そりゃね、責任を取れることと取れないことがあります。さもなきゃ先生になりたいという人がいなくなるじゃんかという危惧もあります。

 

 だったら機械の歯車とどれだけ違うのでしょうか。やがて70年前の教科書墨塗りと同じことを再びしなきゃいけない日が来るかも知れません。その時も唯々諾々と従うのでしょうか。

 

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2017年11月15日 (水)

逃げるのは恥だ!

 

 会社を設立した当初は調子良かったけど、業績が次第に悪化。そんな時に「ほかに大切な仕事もあるので」と創業者がいち早く辞めてしまったら、みんなどう思いますかねぇ。会社なら幹部や従業者と顧客に迷惑が及ぶだけですが(それでも大変な事態です)、政治ともなると多数の人々に大きな影響を与えますからね。はい、都知事の小池さんのことであります。

 

 ボクは以前から、このブログで何度も何度も何度も何度も、リーダーの必須要件はアタマの良さなんぞではなく、「たとえ負け戦になっても逃げ出さない人格」と規定してきました。政策立案なんていうのは参謀やら取り巻きにナンボでも任せることができます。しかしながら、すべての結果責任はどうしたってもリーダーが引き受けなきゃダメでしょ。にもかかわらず「電撃辞任」だもんなぁ。その逃げ足の速さは、さすがというほかありません。こういう人を絶対に総理大臣なんかにしてはいけない。

 

 あくまでも仮の話ですが、威勢良く戦争を始めて、敗色が見えてきたらとっとと隣国に亡命するような人を国のトップにしたいですか。彼女はおそらく「それとは決して同じではございません」と強弁するだろうけど、断言しますが、これは明らかにまったく同じことでございます。それに、女性のリーダーや指導者や会社の社長や幹部や上司の皆さんも、彼女と変わりないんじゃないかと見なされかねないので、ボクは女性の評判まで著しく毀損したと認識しています。

 

 人気漫画を原作にしたテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』がヒットしたようですが、これはあくまで個人的なことですよね。普通の人も兵隊さんも、やばくなったらどんどん逃げたほうがいい。イジメだってそうです。しかしながら、繰り返しますが、リーダーだけは別です。逃げるのは紛れもなく恥であり、その後には死屍累々、多数の犠牲者が残ることになるではありませんか。だから絶対に逃げてはいけない。つまり、すぐに逃げ出すような奴をリーダーに選んではいけないのです。

 

 小池さんは、大変にありがたいことに、そうしたボクの持論をきっちり証明してくれました。もうちょっと眼力を磨きましょうよ。さもなきゃ、また騙されますぜ。

 

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2017年10月30日 (月)

勘違い

 

 自分では目立つ格好なんてしていないと思うのですが、どうも警備関係の皆さんに目の敵にされている、ような気がするんですよね。

 

 先日も、あるビルの受付と警備を兼ねている窓口の前に立っていると、いきなり「どこ行くんですかっ?!」と詰問調。カバンの中を探りながら、その行き先を書いたメモを見つけようとする直前でした。念のために強調しておきますが、ボクは受付の前にはいましたが、1歩たりとも中に踏み出してはいません。つまり、彼らにとっては、まだ「外」の人間なはずなのに、まるで反社会的勢力か家を持たない人かのように、失礼極まりない強い口調で誰何(すいか)してきたのです。こちらも瞬間的に腹を立てて「まだ中に1歩も入っていないのに何だよその言い方は」と言い返してしまいました。余計に怪しいと思われたかなぁ。

 

 彼らは捜査権を持つ警察官ではありません。ただし、建物は私有財産ですから、無断で立ち入れば不法侵入となります。だけどね、ボクは一般的に許される受付までしか立ち入っていないのです。にもかかわらず、彼らは警察官かドーベルマンの番犬気取りで「怪しいぞけしからんぞこんな奴は入れちゃいけないぞ」ワンワンワン(鳴き声)ビービービービー(警報)と大騒ぎって感じですもんね。よほど退屈していたのかなぁ。

 

 勘違いもはなはだしいではありませんか。犯罪だって裁判で有罪が確定するまでは「推定無罪」なんですぜ。にもかかわらず、ちゃんとレザージャケットを着た優しそうに苦み走ったオッサン(自己申告)をアタマから疑うなんて、明らかに越権じゃないか。そんな文句というか不満を、当該の警備員ではなくて、そこの会議室で落ち合った知人に愚痴ったわけであります。

 

 ボクも彼らも、持っている権利は同じはずなのに、警備員という立場を与えられると、何か特別な権力でも持ったかのように勘違いしてしまう人が、すいませんが、ボクの経験では少なくないのです。シティホテルの黒服諸君も同じで、はっきり言えば衣服と靴で人間を差別します。大昔に真っ白なジャケットを着て高級ホテルで待ち合わせたことがありますが、警備関係者全員の目玉がボクに向いていた、ような気がしました。

 

 流行のエビデンス(根拠や証拠という立派な日本語をなぜ使わないのかな)がないので、「ような気がした」と表現しましたが、あの小池さんも似たような勘違いの典型的事例ではないでしょうか。

 

 確かに選挙で当選した都知事としての権力はありますぜ。だけどさ、まだ国民の負託も受けていない新党の代表だか創業者としての立場に、いかなる権利や権力があるのでしょうか。にもかかわらず、権力を握ったと錯覚したからこそ、「民進党の全員を受け入れる気はさらさらない」なんて傲慢極まりない排除発言ができたんじゃないかな。

 

 このセリフと態度にボクのように不快→立腹したことで、国民の支持は潮が引くように離れていったのです。失言暴言のデパートみたいな古手の国会議員もいるので例外はありそうですが、驕り高ぶりの勘違いは、必ず逆襲されるのでくれぐれもご注意ください。

 

 先の警備員だって、「こいつはホームレスに違いない」と居丈高に追い出そうとしたら、その爺さんはそのビルのオーナーだった、なんてこともあり得るじゃないですか。欧米なら衣服がシグナルとなって貴賎貧富を判断できても、すべて灰燼に帰した戦後からたった70年程度の日本では、見かけだけでそう簡単に決めつけることはできません。というわけで、そのオーナーは失礼な物言いに激怒して、彼は即座に解雇されて自分が怪しいホームレスになるか、その警備会社との契約が破棄ってことになるかも知れませんよ。

 

 それ以前に、受付で人と対応するというのは、綺麗なお姉さんだろうが、いかつい警備員にしても、サービス業すなわち客商売にほかならないってことをすっかり忘れているとしか思えません。つまりさ、ボクらにとっては、その会社で初めて出会う顔も同然だってことです。そんなことをしていると、中に入居しているテナント様の印象も悪くなりますぜ。

 

 タダでこんなにも有益なアドバイスをする義理は「さらさらない」ので、心の中だけにしまっておきましたけどね。

 

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2017年10月11日 (水)

働き方改革?

 

 箸の上げ下ろしまで、とは言いませんが、ボクたちは政府や行政に依存し過ぎじゃないかなぁ。文部科学省にしても、誘導型の補助金行政を続けることで、むしろ学校から主体的で創造的な思考力を奪っているような気がします。本当は「気がする」どころではなく確信に近いのですが、これを論述しようとすると、周到な調査と準備が必要になります。ボクは専門的な研究者ではないので、無料のブログでそこまでコストと手間をかけることはできません。もしも興味を持ったメディア関係者がいたら、連絡をください。

 

 それと同じように、根っ子は共通ではないかと感じるのが「働き方改革」なのでございます。そもそも「働き方」なんて、個人や各企業などにおける個別的な問題や課題であって、政府から提案や指示される筋合いはないと思うんだけどなぁ。

 

 もちろん日本という国の風土や文化、大企業がリードしてきた組織的な規範や慣習、さらには上司と部下の支配&隷属関係といったモロモロが変わらなきゃ、個人のワーキングスタイルも変えにくいというのは事実です。

 でもね、そんなのは先生に可愛がられてきた優等生の発想ではないでしょうか。退社時間が来たら帰っていいというのは、労働基準法に定められた権利でございますよね。だったら、みんなが黙ってパソコンなんかに向かっている時に「お先に失礼しまーす」と声をかけて何がいけないのでしょうか。

 

 かなりの大昔ですけど、ボクのガールフレンドが勤務していた編集プロダクションには、上司が帰らない限り全員がいつまでも会社に残っていなきゃいけないというアホな不文律がありました。おかげでボクは近くの喫茶店で深夜まで彼女を待っていたことがありますが、こういうことを是正するために政府の施策が必要とは思えないのです。定められた退社時刻を過ぎたら、とっとと帰ればいいじゃないですか。それができないのは、誰も率先してやらないからですよね。もしも仕事が過大であるなら、怠けていない限りは労務管理に問題があるわけですから、個人の責任では決してなく、上司に抗議すべきじゃないかな。いかなる大企業、優良企業に勤務していようが、ボクたちは奴隷ではないですからね。

 

 察するところ、学校時代と同じように優等生であり続けたいあまりに、周囲の空気を読みすぎてしまうんじゃないかな。それを「長時間労働削減」とか何とか、厚生労働省が音頭を取らないと改善できないという日本的体質に問題があると思うのです。日本がまた底なしの不景気に沈んだら、同省は一転して「サービス残業デー」をスローガンにするかもしれませんぜ。とにかく、個人の働き方をいちいち行政の上のほうから指図される覚えはない。大きなお世話じゃないかというのが、優等生ならぬ不良少年だったボクの見解なのであります。

 

 その根拠として自分の経験を少し紹介させていただければ、ボクは新人の頃にラッシュアワーの地下鉄で殴り合いになりかけたことをきっかけに、自主的に超早朝出勤に切り替えました。午前7時過ぎには会社の近所の喫茶店でモーニングサービスを食べていたくらいです。だから出社はいつも一番で、次に来るのが社長を始めとする幹部たちでした。半人前の新人に仕事を教えてくれて給料まで貰えるのですから、そのささやかな感謝として、誰もいないオフィスでみんなの机の上を雑巾で拭いたりしましたが、これらはすべてボクが勝手に決めた習慣です。だから、それを自分から会社の人に話したこともありません。

 

 逆に、死ぬほどイヤだったのが「押しつけ残業」でした。ある年刊誌の発行時期が近づくと、編集部全員が午後10時まで残業するというのが恒例でしたが、これが苦痛極まりなかったのです。自主的にカプセルホテルで仮眠して朝まで原稿と格闘したこともあるくらいですから、プライベートより仕事のほうがよほど大切だと思っています。けれども「強制」や「義務」というのが生来的に大嫌いなんですよね。最初は仕方なく10時ジャストに会社を出るようにしましたが、翌年からは「この会社をいつ辞めようか」と考えていました。

 

 要するに、もしも「働き方」に問題や課題があるというなら、ボクたち自身が率先して改善・改革していくべき事柄ですよね。たとえば総務省による「プレミアム・フライデー」にしても、週の最終日を午後3時に早上がりするなんて無理に決まっています。だったら代わりに木曜日を早めに切り上げればいいじゃないですか。それなら残った仕事も翌日の金曜日に帳尻を合わせることができます。ボクはずっとその方法でライブハウスなどに足を運んできました。金曜日の夜に酒盛りやパーティの予定を作るのは、カレンダーしか見ない素人の発想じゃないかな。

 

 このように、いちいち政府や省庁の指針に従うのでなく、企業や個人単位で工夫を重ねればいいじゃないかと思うわけです。過労死にしても、そこに至るまでに大きな声を上げたり、休暇を取るなりして、仮に上司や同僚に嫌われようとも、自分を守るべきじゃないかな。

 労働人口が減少しつつある今だからこそ、ボクたちは「働き方」も含めた「生き方改革」を実践していくチャンスだと思いますが、それもまた自主的にやるべきことであって、上からあれこれと言われることではありませんよね。行政も組織も、そうした人たちが自由に生きる権利を守ることに力を入れるべきであって、過労死の撲滅のほうが大きな課題だと思うのです。にもかかわらず能天気に「プレミアム・フライデー」ですよ。いったい上は何を考えているんだろうと訝しく感じてきたのです。

 

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2017年10月10日 (火)

クリエイティブ

 

 先週10月3日のブログで「奇妙な部屋」というホラー小説の習作にチャレンジ。今週は結末を書きますと予告しましたが、これが連休中の大変な難行苦行になってしまいました。どうもね、ボクは記者としてノンフィクションの仕事を長く続けてきたせいか、ストーリーテリングの才能に欠けているようです。

 

 ホラーやSFは、いかに民話や都市伝説、科学に触発されているとしても、基本的には純然たるフィクションであります。いわば絵空事の世界を完全なゼロ状態から構築していき、読者を戦慄または震撼、あるいは感動させなければならない。このように説明すると分かったような気になりますが、いざ自分で書こうとすると、ありきたりでどこかで読んだような内容に墜ちてしまうんですよね。というわけで、ホラーの結末はしばらく延期させていただきます。決して諦めたわけではなく、いつか機会を見て再びトライするつもりですので、お許しください。

 

 この挫折に対する精神的な反動なのか、やはり連休中に、普段使いしている腕時計の革ベルトをとんでもない色にしてしまいました。

 

 2000年前後にアラーム付きの機械式時計「クリケット」を購入。便利なのでずっと愛用してきたのですが、1947年に製作されたオリジナルを継承しているので、革ベルトなんですよね。承知のように革ベルトは猛暑が大敵でございまして、使い方にもよりますが、2~3年で汗染みが表面にまで浸潤することがあります。こうなるとみっともないので取り替えなければいけません。

 それに対して金属製のブレスレットは汗で傷むことはほとんどないので、永続的に使い続けることができます。交換のためのランニングコストが不要というメリットもあるせいか、高温多湿の日本では革ベルトよりも人気があります。ブレスレットのメタリックな輝きが「男のアクセサリー」としての役割も果たしているんですけどね。

 

 しかしながら革ベルトは、この交換がむしろ楽しみになってくるのです。素材や色柄などを変えれば、見慣れたはずの腕時計が新しい表情にリフレッシュされる。ボクのクリケットは金メッキなので、これまでブラウン系のレザーを合わせてきました。明るいものから暗いものまで、すでに7代目くらいになるかなぁ。

 

 ゴールドにブラウンというのは、想像していただけば分かるように、色味としては「鉄板」といっていい組み合わせです。ボクたちの肌の色にも違和感なくフィットするのですが、何しろ7代目ですからね。あまりにも似合い過ぎのオーソドックスな雰囲気に飽きてしまったのです。

 

 それでいろいろな色を合わせてみて、ボクがエイヤっと決めたのは、何だと思いますか? この続きは明日に、というのは冗談で、最初はレッドにしようと思っていました。けれども、なかなか気に入ったものがないだけでなく、ゴールドにレッドというエキセントリックなコンビネーションは、ヘタをするとライターとしての信頼感を喪失させる怖れもあるじゃないですか。

 

 そこで、ジャジャーンンンンン、ボクが思い切って選んだのは、何とイエローなのであります。しかもきっぱりと、どこまでも屈託なく明るいレモン色。いやもう目立つ目立つ。こんな革ベルトをしている人は東京でも滅多にいないはずです。しかし、革ベルトだからこそ、これくらいの「遊び」は許されるのではないでしょうか。

 

 この奇抜な選択を精神分析してみると、ホラーの習作で欲求不満を残したボクにおける、せめてものクリエイティビティの発露だったかもしれません。

 そこで話は俄然ぶっ飛びますが、政治にも国際社会が驚くようなクリエイティブがあっていいんじゃないかなぁ。たとえば安倍さんが突然に北朝鮮を訪問して、アメリカとの仲直りを進言するとかね。実際に小泉元首相は似たようなサプライズを決然と実行したではありませんか。安保があるから何がなんでもアメリカに追従するという大昔からの決まり切った外交方針に、そろそろ飽きてもいいんじゃないかなぁ。

 

 そこで「政治にもクリエイティブを!」というのが、ボクの最近のスローガンなのであります。

 

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2017年10月 6日 (金)

危険な気配

 

 ボクは5年ほど前に煙草をやめたので、直接的な利害関係者ではありませんが、昨日の東京都議会で「子供を受動喫煙から守る条例」が自民党を除く賛成多数で可決してしまいました。

 

 この名称だけなら誰も反対しようがありませんが、来年4月からは子供がいる部屋やクルマの中で喫煙すると条例違反ということになります。ホテルのロビーやレストランなど公共の場所での禁煙は両手を挙げて賛成しますが、プライベートな空間で何をしようがほっといてくれと思いませんか。だからといって幼児や子供のそばで煙草をくゆらせていいというのでは決してなく、そんなもん親や大人が意識して自粛すべき事柄であって、法律が個人の生活にまで立ち入って規制するというのは大きなお世話なのです。

 

 この条例に唯一反対した自民党は、「条例が家庭内まで踏み込むのは『法は家庭に入らず』の原則から納得できない」と発表していますが、これはもう超珍しい久々のアッパレな大正論というほかないのに、なぜだかボクが見た限りでは今朝の電波メディアは完全に無視していました。ローカルでも東京という首都の話題なんですけどね。

 

 受動喫煙が成長期の子供に悪い影響を及ぼすのは疫学的な事実だろうと思います。だったらさぁ、ボクにはイヤというほど経験がありますが、夫婦喧嘩も子供の心にトラウマのような大きなダメージを与えるじゃないですか。煙草がアウトなら、同じ理由から子供の近くでの夫婦喧嘩も条例で禁止しなきゃいかんでしょう。

 さらには、子供を健全な社会人にするために、共産主義や無政府主義なんていう危険な思想を夫婦で話題にするのは禁止せよ、みたいなこともあり得てしまう。どこぞの幼稚園のように教育勅語を暗唱しなさいと義務づけられたら最悪ですよ。夫婦だからといって変態的なことをするのも、子供が誤って覗いてしまうとヘンな大人に育ちかねないので、夜の営みはミショナリーポジションに限るとかね。

 

 今回の条例は罰則が伴わない努力義務とされていますが、いったん法律が制定されてしまえば、これを改正して文言を追加するのは難しいことではありません。「千丈の堤も蟻の一穴から」という名言がありますが、大きなダムも小さな瑕疵から一気に崩壊してしまうのと同じように、この条例を契機として、法律が大津波のように私的空間をどんどん支配していく可能性が生まれたわけです。

 

 ボクは車内のシートベルト義務化ですら反対した根っからの個人主義者のせいか、今回の条例がものすごくヤバイ事態を招きかねないと強く危惧しています。今こそ法律の専門家や関係者が声を上げておかないと、戦前の「治安維持法」のように、自由であるべきアタマの中まで罪と罰が浸潤していくようになりますぜ。

 

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2017年10月 2日 (月)

少数派

 

 何かねぇ、政界がすっごくイヤな雰囲気になってきました。ボクが経験的に最も嫌ってきた「排他的」という姿勢を強めているからです。

 

 分かりやすく言うなら、学校のクラスにカネ持ちの息子でイケメンの人気者がいて、こいつの意見に反対する“ひねくれ者”をどんどん仲間外れにしていく感覚ですよね。大切な行事の予定を教えないとか、仲間うちの集まりを隠すとか。そんな気配を察知すると、教員は必ずしもそれを是正しようとするわけではありません。「不人気者」を擁護してイケメン君に敵対するよりも、クラスの大勢にくっついたほうが管理しやすくなるので、みんなと一緒になって“ひねくれ者”を排除するようになります。中には率先して加担することで、クラスの子供たちの人気に便乗しようとする先生だっているんじゃないかな。これが学校から「いじめ」が決して廃絶されない本当の理由ではないでしょうか。直接的ではないにしても、いじめの共犯は先生にほかならないとボクは信じております。

 

 こうした排除がエスカレートしていく段階では、政策、じゃなかった意見の是非や正当性なんかまったく無視されますから、もしも『漂流教室』(楳図かずお)にいたとしたら、疑念を抱きながらも全員が揃って間違った方向に行くことなり、1人残らず死んでしまう結末になりかねないわけです。

 

 民主党がゾンビ化した民進党が希望の党に媚びを売り、「安保法制」を踏み絵にして反対者を排除するというのは、それとどれだけ違うのでしょうか。細かいことを言い出したら違うに決まっていますが、都知事の人気に理念なくすり寄るという意味では、前述した学校の先生とまったく同じですよね。こうした批判は、目下の自民党の演説のほうがよほど説得力を持っているから大問題なのです。それでも野党かよと。

 

 先週に、人間は絶対的に間違いを犯す生き物であると指摘しました。それを避けるためには、反対意見や少数派に目配りを欠かさないことだとボクは思います。けれども、今のような状況ではそんな人たちが政界から追い出されることになります。だからといって、希望の党と自民党のどこが違うと訊いて、明解にこたえられる有権者はいないはずです。だってさ、綱領も基本政策もまだ発表されていないじゃないですか。

 

 にもかかわらず、排除の論理だけ先走って公認を決めていくというのは、冒頭で例にしたイケメンの人気者が支配するクラスよりタチが悪すぎじゃないかな。少数派を尊重しない民主主義がいかなるものに腐敗・変質していくかは、歴史が雄弁に示していると思うんだけどなぁ。

 

 ボク自身が生来のひねくれ者であり、不人気者としてアウトサイダーを続けてきただけに、近頃の政界は気味の悪い匂いがプンプンするんだよな。いくら政権交代可能な2大政党制を目指すといっても、どちらもひと皮剥けば同じ理念を持つ政党だとしたら、そんなもん大政翼賛会とどこが違うんですかね。これが先週のブログでボクが言いたかったことなのです。

 

 念のために付け加えれば、空想的護憲も財政を考慮しない社会民主主義もボクは認めていません。太平洋戦争の敗北が、司馬遼太郎が指摘したように明治期のリアリズムを喪失した大和魂の帰結とするなら、外交や経済に厳しい認識を持つ冷徹な現実主義が今こそ必要ではないでしょうか。そうした人たちによる真反対な政策論の激突こそが、ボクの理想とする2大政党制なのであります。

 

 ちなみに、今朝の速報では、希望の党に合流できない「仲間外れ」の民進党議員を集めた新党が結成されるそうです。党名は「民主党」だってさ。先祖返りというか周回遅れというべきか、意図がまるで分かりませんが、こうした野党の分裂を最も喜んでいるのが自民党であることは確かですよね。

 

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2017年9月29日 (金)

孤高

 

 念のために調べてみたら、すでに2回も取りあげていました。小選挙区制だから仕方ないという理屈も分かりますが、まるで雪崩をうつように新政党に候補者が集まる。いや今回は既存の野党勢力がまるごと組織だってすり寄っているのですから、吐き気すら感じてしまうんだよなぁ。

 

 これがね、「勝ち馬に乗り遅れな」ってことです。打算的というより、その理念のなさっぷりに呆れ果てます。こんなことで自民党に勝てると本気で思っているのでしょうか。

 

 ちょっとだけ歴史を振り返ると、この「勝ち馬に乗り遅れるな」は1940年10月12日に結成された大政翼賛会の時に生まれた言葉だと思っていました。ネットをチェックしてみると、どうやら日独伊三国同盟の頃から盛んに囃し立てられていたようです。

 1939年9月にドイツ軍はポーランドに侵攻。電撃的な作戦によって、わずか6日間程度で完全占領しました。翌40年6月14日には宿敵だったフランスのパリに無血入城。第2次世界大戦初期のドイツ軍は圧倒的な機械化戦力を保有しており、まさに破竹の勢いでヨーロッパを制覇しました。それが「勝ち馬」に見えたらしく、同年9月27日に日独伊三国同盟が締結されています。その翌月に大政翼賛会が発足。おかげで政治的な反対勢力が消滅してしまったのですが、この馬は衆知のように5年後に悲惨極まりない負け馬となりました。敗北が決定的にもかかわらず、2回も原爆を投下された国は世界でも日本だけじゃないですか。しかしながら、「その馬に乗れ」と誰が音頭を取ったのかは杳として分かりません。

 

 馬を現代的に替えた「バスに乗り遅れるな」という言葉もありますが、そのバスが正しい方向や望ましい方向に行くとは限りません。それに、もし事故に遭遇すれば多数の犠牲者が発生します。つまり、卵をひとつのカゴに盛ったのと同じで、リスク分散にもなっていないわけです。

 

 人間なんて不完全な生き物は、必ず間違いを犯します。絶対的に間違えると強く言い換えてもいいんじゃないかな。それを避ける方法は、分子生物学者の福岡伸一先生が言うところの「動的平衡」しかないとボクは考えています。これを政治的に言い換えれば、ひとつの理念・方針で凝り固まるのではなく、厳しい批判や反論にさらされることで、常に修正を繰り返しながら理想に近づいていくということです。ヘーゲルの「正・反・合」の繰り返しでもありますが、これは政権政党と野党という図式だけでなく、政党内部でもあって然るべきでしょう。さもなきゃドグマにこだわる永遠の野党になってしまいます。派閥による自己批判機能を喪失した今の自民党も似たような気配を強めていますけどね。にもかかわらず、節操の欠片もない怒濤のがぶり寄り、じゃなかったすり寄りだもんなぁ。

 

 こんな時代には、政策は別として、共産党の「孤高」のほうがずっと好ましく見えてしまいます。まぁね、ボク自身も孤高を続けてきたようなものですが、現実問題として、孤高を守っていたら政界で権力を奪取できるはずがない。だから政治なんか大嫌いなんだぁぁぁぁと、こういう理屈になるわけですな。

 

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2017年9月27日 (水)

『それで自由になったのかい』(後)

 

いくらブタ箱の臭いまずい飯がうまくなったところで

それで自由になったのかい

それで自由になったのかよ

 

 1968年に『山谷ブルース』でデビューした岡林信康が1970年3月に発表した2枚目のシングルが『それで自由になったのかい』です。ボブ・ディランに強く影響された、いわゆるモロ出しのプロテストソングでございまして、申し訳ないけど何度も聞きたくなるような叙情は一切ありません。

 

 むしろ、そのシングルB面の『手紙』にボクは感動しました。「私の好きなみつるさんが……」で始まる悲恋を女性の一人称で描いており、差別問題を逃げずに真正面で捉えながらも、切ない心情が胸に迫ってくる素晴らしい歌に仕上がっています。歌詞が自殺した女性の遺書による実話にもとづいていると知れば、さらに目頭が熱くなるはずです。ところがその中に出てくる「部落」という言葉が差別用語だったため、すぐに放送禁止になってしまいました。日本民間放送連盟では1959年に「要注意歌謡曲制度」を内規で取り決めており、これに該当すると判断された楽曲は、A=放送しない、B=旋律(メロディ)は使用可能、C=不適切な表現を修正することで放送可能、ただし著作権者の了承を取ること、という3段階の処置が取られることになっていました。『手紙』はそのうち堂々の最上位A指定。以後はテレビやラジオからこの曲が流れてくることは一切なくなったのです。

 

 日本民間放送連盟は民間の放送事業者を会員とする一般社団法人ですから、法律で定められたわけではなく、自主的な規制に過ぎないはずですが、その支配力は相当に強かったようです。このバカバカしい内規は1983年に廃止されていますが、現在も影響が残っているらしく、指定曲の放送を自粛することが少なくないとされています。

 ちなみに『手紙』で問題となったフレーズは、「部落に生まれたそのことのどこが悪い何が違う」です。放送関係者にもかかわらず、部落という文言だけで放送禁止にしてしまう貧弱な日本語読解能力しかなかったことに驚きを禁じ得ません。そんな反発から、ボクはギターで弾き語りできるくらい好きな歌になりました。

 

 こうした顛末をまるで暗示するかのように、『手紙』のA面に『それで自由になったのかい』があったわけです。

 

そりゃよかったね 

給料が上がったのかい

組合のおかげだね 

上がった給料で何を買う

テレビでいつも言ってるクルマを買うのかい

それで自由になったのかい 

それで自由になれたのかよ

 

 あまりにも歌詞が未加工なナマ過ぎで、粗雑とすら思えるメロディも含めて、楽曲としての完成度は高くありません。それでも熱さだけはあり余るほど感じることができます。その背景として本来は学生運動を論じなきゃいけないところですが、この頃の「自由」というのは今よりもはるかに分かりやすくて、輝きに満ちていたんですよね。ジーサンたちが作り上げた旧体制による社会的な抑圧からの自由ですから、当時は若くて元気だった団塊世代が雄叫びを上げたのは当然といっていい。戦いの相手は目の前にいたのです。

 

 ところが、年老いて彼らもまた体制の一員となってしまえば、あれほど叫んでいた自由があたかも身勝手でワガママな野放図のように感じるわけです。自由に制限なんてあっていいはずがないのに、「自由にもホドがある」とワケの分からないことを言い出したりする。もしも仮に彼らが望んだ自由が実現したとしても、やがて新しい体制という不自由を育んでいったはずです。さもなきゃ社会は維持できませんから。

 

 そうした社会という視認できる外側だけでなく、人間の内側にしても、昨日に指摘したように自らを縛る規制やルールがいろいろあります。これに疑問を感じて破ったとしても、それがまた新しい決め事やプロトコルなんかを生み出していくんですよね。いちいち自分ですべてを判断して決めたり選択するというのは面倒という実利的な理由も見逃せないのですが、人間というのはどうやら自由を希求しながらも、不自由にならざるを得ない生き物らしい。でなければ精神的な安寧を得られないとも言い換えられるでしょう。

 

 そうした矛盾をうまく回避していくためには、ファッションでいえば「モード」のように変わり続けるしかない。簡単にいえば「転がる石に苔は生えない」ってことです。政治も同じで、1966年に始まって70年代後半まで中国全土を巻き込んだ文化大革命は、毛沢東の権力維持のための政治闘争とするのが一般的な解釈ですが、この騒乱がなかったら共産中国はとっくに崩壊していたとボクは思います。そんなわけで、目まぐるしく感じる流行やトレンドにも大きな意味があるわけですね。

 

 それと同じように、ボクたちは絶えず「それで自由になったのかい」と問い続けなければ、せっかく得た自由を再び手放すことになってしまうでしょう。それがよしんば不自由を選ぶ自由だとしても、自分が望んだものを得るための唯一の方法なのです。

 

オレたちが欲しいのは 

ブタ箱の中での

より良い生活なんかじゃないのさ

新しい世界さ 新しいお前さ

 

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