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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

教育・学校

2017年9月 8日 (金)

何様?

 

 9月1日のブログ「事前規制と事後摘発」で、2000年前後からの規制緩和の流れがいつの間にか立ち消えたようになり、むしろ揺り戻しの気配が濃厚ではないかと指摘しました。

 

 それを象徴する最近の事例が、東京23区内の私立大・短大の定員増加を認めないという文部科学省の政策です。いくら地方経済が不振とはいっても、これはちょっと違うんじゃないかな。地方の大学自身が魅力を高めていくのが本筋ですよね。そうした大学は実際に少なくないのですから、それを模範として個性的な教育改革を進めることで地域の学生を引き留めるだけでなく、逆に首都圏からも学生を呼び込めるような自助努力を促すべきでしょう。

 

 大昔にも似たような規制を実施したため、大学のキャンパスが相次いで東京郊外に移転した時期があります。けれども、21世紀になってから都心回帰の動きが顕著になってきたではありませんか。少なくとも、私立大学の定員を国があれこれ指図するなんていうことは、およそ自由民主主義あるいは市場経済とは思えません。国から莫大な運営費交付金が出ている国立大学法人ならともかく、それぞれ固有の建学の理念に基づいた「学問の独立」が保障されているはずではありませんか。だったら入学定員だって自由であるべきでしょう。

 

 厳密にいえば、私立大学といえども1968年から国の補助金が出ています。当初は「私立大学教育研究費補助金」として計上され、70年には専任教員の人件費も含めた「私立大学経常費補助」という大きな枠に改定されました。でね、この補助金の額が70年代に猛烈な勢いで増加していったわけです。その責任者や意図や背景は皆さんの想像にお任せしますが、私立大学はそれまで国のカネなんてアテにできなかったのですから、下世話な表現かもしれませんが、これが「ヒモ付き」の始まりとも言えるわけです。

 

 こうして国に逆らえない状況を作っておいてから、定員も含めてやたらに規制したり音頭を取ったり、ついでに天下りするというのは卑怯というか姑息というか、実に巧妙至極なやり口というほかありません。しかしながら、1980年代に行われた医師抑制政策が地方の医療崩壊を引き起こしたように、もはや中央政府の思惑通りにコトが進むような単純な社会構造ではないですよね。

 

 かといって、何もかも市場のメカニズムに任せて自由を貫けば、煽りを受けるのは弱者です。だからこそ、できるだけ事前規制を緩和すると同時に、事後の監視・摘発・救済を進めるというのが複雑化・高度化した社会に必要な政策ではないかと。それをしないで単に蛇口を締めたり開けたりなんていうのは、いったい何様の仕業かよとボクなんかは感じてしまうのであります。

 

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2017年9月 1日 (金)

事前規制と事後摘発

 

 来年度に学生募集する法科大学院がとうとうピーク時の約半数、39校に減少したそうです(日本経済新聞8月31日朝刊)。このブログでは書き飽きたテーマなので近頃は話題にしてきませんでしたが、もともとボクはこの制度に大反対であり、ついでに合格者数を予め絞ることも自由民主社会ではあり得ないことだと以前から指摘してきました。過去のブログならびにボクの著作など、その証拠を出せというならいくらだってあります。

 

 それと同じことを書きたくないので論点だけまとめれば、そもそものきっかけは司法試験合格者数を「2010年頃には年間3000人にする」とした2002年の閣議決定にあります。こんなことを政府が決定すること自体がおかしい。たとえば100点満点のうち80点以上なら合格という規則を70点以上に緩和するなら分かります。けれども、合格者数を増員ってどういうことでしょうか。入学定員が決まっている大学受験じゃないんですから。検察官や裁判官は公務員でも、弁護士は民間で活躍する専門職です。そんな仕事の従事者数を政府が規制するってヘンでしょ。たとえば競争が激化すると経営が厳しくなるという理由で、東京で新規開店するラーメン屋を年間500店に規制するのと同じではありませんか。

 

 ちなみに自由民主主義の国アメリカではこんな馬鹿げたことはできないので、弁護士の登録者は約122万人(2014年)に達します。対する日本は約3万8000人(2016年)。人口は2.5倍程度に過ぎないのに、弁護士の数は何と32倍以上です。いくらアメリカが訴訟社会とはいっても、この違いは大きすぎると思いませんか。

 

 いずれにしても、合格者増員というなら受験資格不要の旧司法試験の枠を広げるだけで済むのに、それでは合格者の質が下がると考えたのか、2004年から法科大学院制度がスタート。この大学院を修了しないと司法試験が受けられなくなりました(予備試験は後述)。そのかわりに「新司法試験の合格率は70~80%」という途方もない広報が行われたおかげで、初年度の法科大学院志願者は7万人以上という大フィーバーですよ。

 

 その後の経過は今さら解説するまでもなく、大学院で高額な学費がかかるのに司法試験の合格率は20%台。うまく合格できたとしても新人弁護士は就職難。こんなハイリスクな資格職の人気が下がるのはちっとも不思議ではなく、法科大学院の志願者・入学者ともに年々減少。おかげで法科大学院の撤退が続いてきました。そのかわりに、誰でも何回でも受験でき、合格すれば即司法試験に挑戦できる予備試験が大人気。この予備試験は、法科大学院が参入規制と非難されないように残した言い訳的な制度だったのですが、今ではこちらの合格者のほうが優秀と評価されるサブルートとなっています。ホラね、何のことない、名称は変わっても旧司法試験はちゃんと生き残っているではありませんか。

 

 皆さんはこのプロセスのどこに間違いがあると思いますか。ボクはやはりスタートラインがおかしいと思わざるを得ないのです。合格者数の「事前」制限は明らかに既得権益の保護ですから、岩盤規制と同じく自由民主主義における市場競争に反しています。

 次に弁護士の仕事について。政府が司法試験合格者の増員を決定したのは、規制緩和という大きな流れが前提でした。いわく「行政による事前規制」から「司法による事後の摘発&救済」への転換です。早い話が、お上による規制をなるべく緩くすることで市場競争を刺激し、ビジネスをより活性化しようというのが狙いでした。

 

 でね、こうした最初の理念が首尾一貫しなかったことに大きな問題があるわけです。その意味では「司法試験合格者数3000人」の撤回なんぞ実は大した問題ではありません。「行政による事前規制」からの転換がうまくいっていないどころではなく、むしろ揺り戻しともいえる状況にあることをどれだけの人が認識しているでしょうか。ぶっちゃけて言えば、行政による「事前」の規制と支配が根強く残っているからこそ、「事後」を管理する弁護士の仕事が増えない。だからこそ新人弁護士の就職難、よって法科大学院の不人気、それなら予備試験のほうがローリスク、と話は淀みなくつながっていくのです。

 

 それに隣接資格の問題もあります。司法書士と行政書士に類似した資格は欧米にはなく、すべて弁護士の仕事です。これらは司法と行政の制度が縦割りで整備されていく時間差で生まれてきた専門職と考えられますが、そろそろ廃止や統合などに踏み切らないと共倒れになりかねないとボクは睨んでいます。

 

 さらにもう1つ、日本全体の訴訟件数は減少傾向にあるとされているので、形式だけの顧問も含めて、旧来の弁護士業務にぶら下がるつもりなら、国家公務員の総合職を目指したほうがいい。弁護士という法律職に求められる仕事はいろいろあるはずなのに、消費者金融の過払い金請求など目先で手早くカネになる方向しか見ていないようにボクには思えます。たとえばグローバル化によって企業の国際紛争は増加するに決まっていますから、それを訴訟という多額なコストと手間をかけずに短期に解決するADRなど、開拓すべき新分野は少なくないと思いますよ。

 

 逆にいえば、そうした新しい仕事を創出する意欲があるのなら、弁護士人気が低迷している今がチャンスなのです。人の行く、裏に道あり、花の山。これは証券業界の諺ですけど、どんな仕事でも同じですよね。

 

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2017年6月 5日 (月)

先生の都合

 

 学校教育の現場にいる人には不快かも知れませんが、「子供のため、生徒のため、学生のため」と言いながらも、教える側の都合で進められてきたことが少なくないように思います。

 

 今回の獣医学部新設問題なんて典型的で、首相の関与があったかどうかなんてことより、「忖度」だか何だか知らないけど、いったん決めたことが容易に覆ること自体がおかしい。それが獣医を志す学生のためでは決してなく、誰かの都合で変わったということが大問題なのです。首相の名前が冠された私立小学校の新設も、学校法人の所有地という設置基準があるはずなのに、国有地を例外的に格安で払い下げしてしまった。

 

 この「国有地の払い下げ」を敗戦直後から掘り下げていくと、大企業と国の癒着ぶりが明らかになるのですが、本題とは違うのでここでは紹介しません。

 

 なのに、何でまた「先生の都合」なんてことを言い出したかといえば、昨今大流行の英語教育なのです。英語を学ぶことは決して悪いことではなく、小学校3年で必修化も結構けだらけでございます。

 でも、ボクたちだって中学校で3年、高校で3年、大学まで含めたら10年くらいは英語を勉強してきました。なのに、ああどうして皆さん英会話が苦手なのか、ということを突き詰めておくのが、改正やら革新の大前提じゃないですかねぇ。さもなきゃ同じ轍を踏むことになりかねません。

 

 民間ではああだこうだといろいろ問題を指摘していますが、文部科学省による公的な反省なんてついぞ聞いたことがありません。会話はダメだけど「読み書き」ならOKかといえば、すいませんが、それを得意とする大人もまた少ないですよね。早い話が、英語は「使う」ことを前提とした教育ではなく、「試験のため」の勉強だったからこそ、こんなに悲しい結果を招来したということまでは識者が共通して指摘しています。

 

 ボクはしつこいタチなので、さらに「何でそうなったのか」と問いかけたい。それでぶちあたったのが、日本の先生たちは、どうやら子供の将来なんか考えてこなかったのではないかという重大な懐疑なのです。

 もちろんそうではない先生も多いはずですが、イジメの隠蔽でそうした体質がいみじくも露呈されています。子供が自殺したにもかかわらず、教育委員会と教育管理職が「わしゃ知らん」と、こぞって自分たちの都合を押し通してきたではありませんか。

 

 さらに子供たちが教室で発言する機会が異様に少ないのです。アメリカンスクールなんて机はバラバラで、朝っぱらから「今日の新聞で興味を持った記事は?」と先生が子供たちに呼びかけていますぜ。現在はいくらか変わったかも知れませんが、少なくともボクの頃は教室がとても静かでした。だから窓からツバメを見ていた、というのは冗談ですけど、それが学級経営の基本で、静かであればあるほどまとまりがよく、ひいては優秀な先生と評価されるとしたら、こんなの全体主義に近いではありませんか。

 

 子供たちがてんでに勝手なことを言い出すよりも、静かに聞いてくれるほうが指導力の足りない先生にとっては都合がいいですね。けれども、そうした沈黙する子供たちが大人になったら、英語以前に隣の出方や発言を待つ消極的な人間になってしまう。そんなメンタリティで英会話が上達するはずがない。

 

 にもかかわらず英語教育を早期化するとしたら、ボクにはとうてい茶番としか思えません。とにかく、小さな子供のうちから、もっと教室で活発に発言させること。それが英会話を上達させる基礎になっていくとボクは思うのです。それができないというなら、それこそ本気で子供たちの将来を考えているのかなぁと疑わざるを得ないのです。

 

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2017年3月 1日 (水)

自由からの逃走

 

 教育というのは、国家の命令に素直に従う兵隊さんを量産することなのかなぁ。ボクは逆に、何にでも疑問を持ち、自分自身で自分なりにモノを考えられる知性を育てることだと思ってきたんですけどね。さもなきゃ生きたロボットと同じではありませんか。「上からの指示」「上からの命令」を伝言ゲームで下達するだけの人間が大多数を占める社会は、権力者には都合がいいだろうけど、自分の幸福を自分自身で追求することができなくなりますよね。

 

 エーリッヒ・フロム(1900~1980年)という社会心理学者が1941年に『自由からの逃走』を発表しました。読んだことはありませんが、名著というのはタイトルからして画期的で分かりやすいんですよね。この『自由からの逃走』も、それだけで内容をある程度予想できるはずです。さらに、ナチスによるファシズムが最高潮となって戦争に突進していった時代性を加えれば、「人間はどうしてせっかく勝ち取った自由を捨てるのか」とも言い換えられるでしょう。

 

 近代までの歴史は、奴隷が個人としての自由を獲得するための戦いだったとボクは理解しています。そのクライマックスとなったのが18世紀のフランス革命であり、貴族や王侯が支配する封建社会が崩壊する契機となりました。反動やクーデターや王政復古があったものの、やがて市民が主体となった社会が確立していったわけです。

 

 そのために膨大な血を流した闘争を経て、ようやく獲得したのが自由にほかならないのに、どうして20世紀にもなって「全体主義」=ファシズムに人々が熱狂し、1人の独裁者に無批判に従うのかと、フロムは考えたはずです。

 

 理由は簡単で、フロムの意見と同じかどうかは知りませんが、ボクの私見を表明すれば、自由というのは不安が伴うからです。檻の中で長くエサを与えられて、馴らされてきた動物または囚人を想定すれば分かりやすいですよね。檻が開いて「今日からお前は自由だ」と言われても、どうしていいかと途方に暮れるでしょう。その日からエサの取り方も自分で考えなきゃいけない。もはや看守や管理者の指示や命令はないので、何もかも自分の責任で決断していくことが求められるからです。

 

 それでも温暖で自然豊かな生活環境なら、エサ=食糧を自分で得るのはそれほど困難ではありません。ところが過酷な厳冬を迎えて、エサがどこにもない状態で養うべき家族がいるとします。そうなれば、不安どころか、何もかもを自分で決めなきゃいけない自由を大きな負担と感じる人もいるでしょう。敢えて過激に言うなら、飢えるのも個人の自由となるからです。

 そこに「オレに黙ってついてきたらハッピーになれるぜ。そのかわりに文句や不平は一切なし。とにかく従え」と言われたら、せっかく手に入れた自由を捨てて隷属したくなる気持ちも分かります。

 

 その中には、アドルフ・アイヒマンのように「命令されたから」という理由でユダヤ人を大量虐殺した人物もいます。極めて事務的に効率的にホロコーストを進めたとされていますが、彼にとって個人の良心など業務遂行に不要なものだったようです。人権や慈悲を考えることもできる自由を捨てたからこそ、膨大な数の殺人を繰り返しながらも安寧が得られたのではないでしょうか。

 

 過度な帰依を強制する宗教はそれと似たところがあって、不安や怯懦を感じて自由から逃げ出したい人たちを誘うのです。しかも、縛り=制約が多いほど安心するという、奇妙な心理的メカニズムもあります。

 

 このように自由が必然的にもたらす不安を解消するのが、ボクは教育のひとつの目的であり意義だろうと考えてきました。自由には、何よりも教養と知恵が必要なのです。教養は自分が目指すべき道標を示し、知恵は自立を大いに助けることになります。

 

 にもかかわらず、特定の理念を幼児に押しつける教育を行う人がいるということに、いささか驚かざるを得ません。フロムが生きていたら、何て言うかなぁ。

 

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2017年2月 1日 (水)

習慣が感性を養う

 

 大学病院の不祥事が相次いでいます。

 ちょっと前には未熟な腹腔鏡手術で通算30人にも上る死者を出した医師がいましたよね。昨日は肺がんの検査結果を見逃して1年間放置。もはや手術不能の病状にまで追い込んだ不手際が公表されました。さらに、子供に別の患者の薬を投与して翌日に死亡した事件も発覚。医師の卵とはいえ、ワインを飲ませて女性を酩酊させ、集団強姦を行った卑怯千万な連中の裁判も始まっています。

 

 もちろんすべての大学病院が同じ問題を抱えているわけではなく、医師だって良心的な人のほうが圧倒的に多いと思いますよ。ただ、これはボクの個人的な経験と限定しておきますが、いささか傲慢なところがあるように感じたのです。もしかすると、患者から「先生様」扱いされることに慣れてしまっているんじゃないかな。民間病院でも似たような傲慢医師はいるはずですが、大学病院はちょっと質が違うなぁと感じたことを覚えています。

 

 とはいえ、今回のテーマは大学病院ではありません。あくまでも仮に、ですけど、「先生様」扱いに慣れた医師というのは、患者を親身に考える感性が次第に鈍くなっていくのは当然ですよね、と言いたいわけです。

 

 ここから昨日の続きになりますが、であるなら感性というのは「習慣」が作るといえるのではないでしょうか。「オレ様の治療法が唯一」ではなく、「より効果的な二の矢、三の矢の治療」を想定するのは、理屈や理論でなくて感性だろうとボクは思うのです。「標準治療」に従うのも結構ですが、病気というのは頗る多様であり、同じ病名でも個人個人の原因や症状は基本的にそれぞれ異なるという認識=感性を持っていないと、重要なことを見逃すこともあるはずです。

 

 こうした感性は、教えられたら身につくというのものではありません。思考の奥深くで精神性にも結びついていることですから、認識が感性にまで転化して、それがコンピュータではいえばOSの中にきちんと組み込まれていないと、応用できないのです。

 

 そのためには、やはり習慣として繰り返していくほかないでしょう。たとえば「こんなもんでいいよね」と適当にやり過ごすことを習慣にしてしまえば、物事の深いところまで気づくことができなくなります。もちろん能力的にも伸びることはありません。

 その一方で、いつも「これでいいのかなぁ」と疑問を持つ習慣があれば、感性も鋭敏になっていかざるを得ないじゃないですか。それで幸せになれるかどうかは別問題ですけど。

 

 手前味噌で恐縮ですが、このブログは土日祝を除いて毎日書いております。プロのライターといっても、日々の出来事ではなく、それなりにテーマを設定して、そこそこの内容に仕上げるのは決して楽ではありません。ネタがまったく見当たらなくて、書いては消すを何度も繰り返すことだって普通にあります。

 けれども、「こうする」と心に決めて、それが習慣になってしまうと、辛くても書かないほうがむしろ気分が悪い。だから出張などで時間が取れない時は、事後でなくて事前に告知するようにしています。さもなきゃ逃げることに等しい、というのがボクの感性になってしまいました。

 

 このように習慣化することで感性が磨かれるとするなら、天賦の才能や知力なんかまったく関係ないですよね。どんな子供でも、毎日の習慣を通して勉強しないとどうも気分が悪いという感性を持てれば、成績が上がらないはずがありません。その上で何にでも疑問を持ち、自分の力で答を見つけることが快感になってくれば、安易なヒト真似やパクリは生理的に我慢できなくなるんじゃないかな。

 

 そうなると、どんなに辛い苦労があるとしても、自分だけのオリジナルを創造したくなります。そうした人の中からスティーブ・ジョブズやノーベル賞受賞者が生まれてくるのだと、ボクは思うのですよ。

 

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2017年1月31日 (火)

感性を育てる(後)

 

 イスラム圏の人たちの入国を禁止するアメリカ大統領令に対して、抗議や反対運動が広がっているようです。中でもグーグルなどIT系やスターバックスといった国際企業の対応は素早く、そもそも誰があんな奴を大統領に選んだんだよという前提はさておき、人権ならびに民主主義意識が健在であることに改めて感心させられました。

 

 メキシコとの国境沿いに壁を作るという途方もない大統領令にも、アメリカ国内に限らず、イギリスなどNATO加盟国首脳もこぞって遺憾を表明しています。翻って我が国はどうかといえば、昨日の国会中継での首相答弁は何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。協調してどうだとかこうだとかの言い訳ばっかり。敢えて意訳するなら「世界の様子を見ながら、日本の国益に鑑みて徐々に対応していきたい」ってことでしょう。

 

 もしもボクが国会議員なら「安倍さん、あなたはあんな無茶な禁止令に義憤を感じませんか」とか「メキシコとの間に壁を作るなんていう弱い者いじめみたいことに不愉快を感じませんか」と訊くんだけどなぁ。おそらく賢明なる東大卒のスタッフを従えている首相は、間違いなく「そんな個人的な意見を首相として答弁する必要はない」と反駁するでしょう。

 ボクが問題にしてきたのは、まさにそのことなのであります。

 

 国民のための政策というのは、もちろん理論や理屈からも考案されるでしょうが、「こんなことがあっていいのか」という怒りや義憤から生まれてくることのほうが少なくないはずです。さもなきゃ国民から広く得票できませんよ。

 それに、子育てしながら働く女性が保育所探しで苦労していたら、助けようとするのが人情ってものじゃないですか。それを予算という理性の方面から考えたら何にも変わるはずがない。心に痛みを感じて「これは助けなきゃいかん」として、ようやく工夫や努力が始まるわけでね。

 

 そこのところの感性が、日本というのはどうもおかしいのではないかと、ボクは以前からそれこそ強く感じてきました。

 

 たとえば「お前は弱い者いじめが好きか」と全国の子供たちに訊いたら、100%が「ノー」と答えるはずです。もしいたとしても、教師がそんな意見を言わせないでしょう。だったら、いじめがないかといえば、衆知のようにそんなことがあるはずもなく、悲しいことに自殺者が定期的に発生しています。学校だけでなく、昨今問題となっている過労死や過労自殺の裏側にも似たようなことがあるとボクは睨んでいます。

 

 とすれば、「弱い者いじめが大好き」という人たちが必ずいるはずじゃないですか。それに対して教師は「いじめはいけないと教えてきた」と、こちらも100%の確率で答弁するに決まっています。

 これこそが教育や学習の限界であるとボクは思うのです。

 

 知識や情報やノウハウは教えることができて、テストで理解度も把握できます。ところが、倫理や道徳は感性として定着するのが最終的な到達点ですから、テストなんかやっても何の役にも立ちません。「卑怯なことには勇気をもって対抗しようね」と教えて、みんなが一斉に「はい」と答えたところで、実際には強い者におもねり、弱い者いじめを傍観・助長するだけですよね。

 

 そんなことはどうにも許せないと、大きな身体のジャイアンにも果敢に向かっていく感性を育成することが、ボクは教育の本質じゃないかと思うのです。それによってコミュニティの秩序が適正に維持され、みんなが住みやすい社会に近づけるのですから。
 個人の能力を伸ばすことだって、実は社会をより良くするという大目的があるはずなのに、それをみんなきちんと自覚していません。さもなきゃ奨学金だってあり得ないはずなのに、あたかも勉学は自分の将来のためだけにやるものだと思っているんですよね。誰だよ、そんなことを教えたのは。

 

 これは教育だけに責めを負わせるべきではなく、社会や文化や歴史や伝統のせいでもあります。いずれにしても、不正義や弱い者いじめを見て見ぬ姿勢に不快を感じる人が少なくなれば、どんどん社会は生きにくく、住みにくくなっていくのは間違いないじゃないですか。

 

 というわけで、新大統領による「アメリカファースト」の強引な横車を許せば、こちらの国でも「自分ファースト」な連中が増殖していくのでないかとボクは怖れています。

 

 すでに、隣国からの旅人ではありますが、平気で列に横入りする連中が散見できますからね。それを不愉快に感じるか、ものすごく気分悪く感じるか、それとも次は自分が率先して横入りのズルをするかという選択は、理論や理屈というより、前述してきたようにひとえに感性の問題なのです。

 

 だからこそ、知識や情報なんかより、そうした感性のほうがこれからは大切になってくるとボクは考えるわけです。

 

 「自分ファースト」で小狡いことを繰り返す連中は、苦労してまで新しいことを創造しようとはしません。実際に、かの国ではキャラクターをまるパクりした遊園地を平気でこしらえてきました。そのほうが知恵を絞り出す手間とコストがかからないので、著作権や商標権などを無視するなら、経営的には理に叶っているとさえいえます。

 そう思っていたら、日本でもまったく無関係なのにPPAPの商標をいち早く申請する人がいました。いくら法律が「早い者勝ち」にしても、そんな卑怯なやり口を堂々とテレビでうそぶいて恥じないというのは、ボクには信じられない神経です。

 

 それだけでなく、理屈や理論ではおかしくはないにしても、気分が悪い、不愉快、落ち着かない、生理的にも大嫌い、などということは沢山あります。中でもボクが大嫌いなのは、やはりパクリであります。間違えて似ちゃいましたというならまだしも、たとえばスターバックスを真似たそっくりチェーンはいくつかありますよね。そうした意図的かつ合法的な模倣がボクはかなり苦手なので、近くにスターバックスがなければ、敢えてドトールを探して行くようにしています。コンセプトも業態も店舗の作り方も違いますから。

 

 そんなわけで、ボクがもしも仮に家電メーカーのエンジニアで上司から「ルンバ」と同じモノを作れと指示されたら、抵抗して大喧嘩するか、意見を聞いてくれないなら退職するでしょう。しかしながら現実の家電市場には、姿形がよく似た後追い掃除ロボットが少なくないのです。

 

 こんな結果になるのは、「感性」=「好き嫌い」が国民の常識としてきちんと共有されていないからだと思うのです。オレはエンジニアとして排ガスの虚偽報告なんて断じてできない、私は経営幹部としてこんな決算書の改ざんは許せないという感性があれば、三菱自動車も東芝もあんな恥知らずなスキャンダルを引き起こさなかったはずです。

 

 そんな理由から、経営教育は倫理を柱にするべきではないかと提案したら、あるMBAの先生から鼻で笑われてしまいました。けれども、「自分ファースト」がみんなを不幸に陥れるように、「会社ファースト」を推し進めたら犠牲者を増やすだけでしょう。CSRもやはり感性でなく理論ですから、経営環境が悪化したら即座に忘れられる口約束に過ぎません。「自分ファースト」や「会社ファースト」というエゴを社会的に調整するのが倫理とすれば、子供の頃からしつこく、くどいほど教え込んでもおかしくないだろうとボクは思うのです。

 

 やっぱね、不正義や差別や人権侵害を、理屈でなくて、みんなが心から気持ち悪くて不愉快だと感じるようになって初めて教育は完成するんじゃないかな。

 少なくともリーダーだけはそうでなければいけない。だからこそ明治の頃の教育は、そこのところを目指していたようにボクは思うのです。

 

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2017年1月30日 (月)

感性を育てる(前)

 

 現代は「知識社会」といわれます。この言葉はピーター・ドラッカーの著書『ポスト資本主義社会』(1993年)が初出とされており、その3年後には野中郁次郎らが『知識創造企業』を発表。『エコノミスト』など世界的なビジネス誌が大絶賛したそうです。

 

 コンピュータなど情報技術の発展によって、知識が社会や企業活動の基盤になるというのは誰だって分かる話であり、だからこそみんなが高偏差値の大学を目指しているのですが、ならば「知識社会」あるいは「知識創造企業」って要するに何だよと思いませんか。

 

 このあたりから、日本の論壇というのはわざと背景を深く解釈して、一口で言えるようなテーマを細分化・クラスター化するなど、どんどん問題をややこしく複雑化するんだよなぁ。それによってカリスマや家元制度的な序列を作ったりしてね。ランチェスターもそうですけど、こうした言葉の本質はそんなに難しいことやノウハウぽいことではないでしょう。

 

 知識社会を簡単に言ってしまえば、「頭脳=知恵と知識を使う社会」ってことですよね。これまでの仕事は専ら体力を使ってきましたが、現代は頭脳を使う比率が飛躍的に高まっています。太古のピラミッドづくりでいえば、中枢を担ってきた現場の石積みは機械を使えるので、もはや体力は重視されなくなり、むしろ設計や工程管理など頭を使う分野のほうに労働が移行してきたのです。

 

 産業にしても、たとえば清涼飲料水が乏しかった大昔はサイダーという「一般名詞」を作るだけで儲かりました。ところが現代ではコカ・コーラどころか多数の「固有名詞」があふれているので、情報や知恵を駆使して魅力的な「固有名詞」を創り出し、その付加価値をアピールしていかなきゃいけない。労働者にしても、かつては「サイダーの素」(あくまでもたとえばです)を入れた袋をいくつ肩にかつげるかという体力が給与を決定しましたが、今ではパソコンとネットを駆使して、消費者の購買意欲を刺激するマーケティングを創造できる人が高い収入を得られるってことですよね。

 

 この知識社会を大きく分ければ2層になっており、基礎部分が知識・情報の「解釈・分析」、応用部分が「創造」という構造になっているとボクは思います。でね、これまでの学校教育が関与してきたのは「解釈・分析」までであって、「創造」部分はまるで手つかずといっていい。だからこそ文部科学省は今頃になって高大接続や入試改革を通して、「創造」部分を組織的に強化しようとしているのではないでしょうか。

 

 しかしながら、この「創造」をどうやって教育または学習するというのかなぁ。どんなに教えても、他人の物真似しかできない人がいますよね。これまでのやり方や手法に関してはほぼ100点満点なのに、新しいやり方や手法の考案は苦手というか鈍感な人がいるじゃないですか。明治以降の日本という国家そのものがそうだったと批評する識者もいるくらいです。

 

 ボクは、その根本的な理由は「感性」にあると考えています。それもアプリオリな才能では断じてなく、早い話が適切で妥当な、あるべき「好き嫌い」の育成です。知識社会といっても、単純な知識や情報はネットを調べれば分かることばかりですから、むしろそれを処理するOSにかかわる個人的な「好き嫌い」の強化だけが、「創造」力を高める唯一の方法ではないでしょうか。

 それについて改めて明日のブログで続けます。

 

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2017年1月 5日 (木)

ニューヨーク公立大が学費無料に!

 

 本日付けの日本経済新聞朝刊によれば、ニューヨーク州では全米で初めて公立大学の授業料を無料にすると発表したそうです。州議会の承認が得られれば今秋から実施するとしており、初年度の対象は年収10万ドル以下の家庭。18年には11万ドル以下、19年には12万ドルまで拡大していく予定です。

 

 日本でも「ようやく」国による返済不要の給付型奨学金制度が創設されますが、このニューヨーク州に比べて内容や対象があまりにもショボイのです。

 給付されるのは国公立・私立大、自宅・自宅外通学の違いによって月額2~4万円ですから、年額にすれば24~48万円に過ぎません。しかも、対象は「住民税非課税世帯」であり、もちろん成績も評価されます。この「住民税非課税世帯」というのが、いかにも役人がこしらえた小技らしく、分かりにくいんだよな。自民党プロジェクトチームが発表した中間報告の参考資料によれば、あくまでも目安ですが、夫婦子供1人で年収205万円程度となっています。

 

 アメリカの公立大と日本の給付型奨学金を一律に比べるなと言われるかもしれませんが、あちらは本日のレートで年収1170万円以下の家庭が対象ですからね。いくら経済環境が違うとはいっても、あまりにも感覚が違い過ぎます。それに月額2~4万円というのも何だかなぁ。国立や公立大の年間学費にも満たないではありませんか。

 

 ボクは1990年代から奨学金の記事を書いてきた関係で、公的な給付型奨学金の動きもウォッチしてきましたが、いつも選挙前になると「創設!」という記事が派手に登場。ところが、選挙が終わってしまえば「そんな話ありましたっけ?」とでも言うかのように沈静化を繰り返してきました。票目当てという説明は不要ですよね。

 

 今回の給付型奨学金も財源不足とか何とかで、先送りされるに違いないと予想していました。だから「ようやく」と冒頭で表現したのですが、「ないよりはマシ」の一歩前進にしても、内容が貧弱過ぎます。仮にもGDPで世界第3位の国にもかかわらず、これまで公的な給付型奨学金がなかったこと自体がおかしい。口はガンガン挟むけどカネはケチるなんて、長岡藩の小林虎三郎に顔向けできないですよね。

 

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2016年12月 8日 (木)

小狡い小者

 

 1か月ほど前の2016年11月4日()に、「背中」と題したブログの中で、以下のような文章をアップしました。

 

 やっぱネットというのは、言い方は悪いかもしれませんが、素人のコピペ・メディアであって、誰かが言った分かったふうなことが複写されて拡散しているだけなんですよね。

 

 どうだオレってすごいぜと自慢するつもりは決してありませんが(少しはあるけど)、上記のような実態が明白となり、「まとめサイト」なるものが次々に閉鎖または削除されています。今朝のニュースショーでは、DeNAの社長による謝罪会見が何度も放送されていました。

 

 このDeNAでは他のサイトからの無断転用を積極的に推奨していたというから驚きます。それに比べれば、「マスゴミ」なんて心ない批判をする人もいるようですが、紙メディアでは芸能関係にしても特ダネや独占や特報を争い、しかも裏取りをしています。ウソや根拠のない「飛ばし記事」がなかったわけではありませんが、すぐにバレたり、高額な被害請求が伴う裁判沙汰に突入するのが普通です。

 

 ただし、最近はネットのやり方を逆に真似る人もいるせいか、残念ながら紙メディアでもパクリ記事の発覚が目立つような気もするんですけどね。

 

 ここからはボクの憶測なので眉に唾して欲しいのですが、こうした傾向は受験教育の浸透が背景にあるのではないでしょうか。要するに試験で高得点を取った者が勝ちなんだから、カンニングでない限りはその方法を問わない。むしろ無駄なことは極力排除して、できるだけ効率的に点を取ることが「得」ってものじゃないかと。

 

 学習塾もこうした「消費者」のニーズに応えようと、得点するためのノウハウやテクニックを重視するようになり、無駄な寄り道なんか一切しなくなる。だから、試験の成績は優秀なのに、本といえば教科書と参考書以外読んだことがないという優等生が増えているような気がします。

 

 それはそれで自由競争のもとでは必然的な現象であり、資本主義社会では法に違反しない限り、他人を出し抜くことが大きな利益につながります。だけどね、そんな受験勉強やビジネスなんて、つまらなくないですかぁぁぁぁとボクは呼びかけたいのです。

 

 受験勉強にしても、そこから派生した自発的な学習こそが社会に出てから役に立つんですよね。国語なんかでも、たとえば作者と作品を覚えるだけで次に行くのでなく、源氏物語はエッチっぽいから長編だけど現代語訳から読んでみようかなと。その時は無駄に感じられても、ちょっとばかりの点数を取るよりはるかに自分の勉強になるはずです。

 

 ビジネスも同じで、苦労して新しい業態を創造するより、成功者の真似をするほうが効率的です。たとえばスターバックスをゼロから生み出すよりも、二番煎じの後発で同じことをやったほうがローリスク・ローコストに決まっています。

 

 だけど、そんなことが面白いのでしょうか。賢ければ小狡い方法はいくらでも見つけられるはずです。こうすりゃこうなるというノウハウ本も多く、経営関連の書籍は山のように書店にあります。でもさぁ、そんなことを真似したり小賢しいズルを思いつくより、自分だけのオリジナルを開発するほうが、楽しくて喜びも大きいじゃないかと、ボクは思うんですよね。

 

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2016年12月 7日 (水)

読解力と思考習慣


 このところ長いブログを続けてきたので、書く方もいささか疲れてきました。ツイッターのほうが短くて分かりやすく、インスタグラムなら一目瞭然じゃんかという意見もあるだろうなぁ。実際に、一言ですむことをわざわざ面倒くさく、ややこしい言葉を知ったかぶりで連ねるだけの文章も結構ありますからね。

 

 けれども、人間の思考というのは、イエスとノーという二元論だけで構成されているわけではありません。それがツリー状に連鎖したのが初期の人工知能であるエキスパートシステムでしたが、80年代に限界を迎え、やがて自動学習がブレークスルーしたことから分かるように、脊髄反射的な二元論は人間の思考力を奪ってしまうんですよね。

 

 なんて思っていたら、今朝の新聞ではOECDによる15歳を対象にした学力調査(PISA、2005年実施)の結果が報道されていました。それによれば、参加した72の国と地域の中で、科学的リテラシーはシンガポールに次いで第2位、数学的リテラシーでも第5位と、12年に行われた前回調査を上回っています。新聞では「脱ゆとり教育」に転換した効果が継続していると分析していますが、おっとどっこいで、読解力に関しては第8位。前回は3位でしたから、かなりのダウンです。

 

 出題方法にもよるのですが、ある予備校関係者も子供たちの読解力が相当に低下していることを嘆いていました。何の予備知識がなくても、普通に文章を読むことができれば正解できる問題でも、誤読あるいは判断不能に陥る子供が少なくないというのです。

 

 おそらく、ストレートに展開する足し算や引き算的な論理は理解できても、それに別の論理が重なったりすると、途端に解釈できなくなるのではないでしょうか。さらに「ということもいえなくもない」とか「ということがあるだろうか(いやない)」といった二重否定や反語表現が生理的にダメな子供も多いんじゃないかな。かくいうボクも実は苦手でした。何で言葉は算数のように明解ではないのだろうと、ずっと不満に感じていましたからね。

 

 石川啄木はローマ字で日記を書いたようですが、ボクは数学の公式のように日本語の論理を表記すべきだと思っていました。その証拠に今では加減乗除の記号や=を意識的に文章中で使っています。

 

 ただ、読解力というのは「思考体力」の別名だと思うんですよね。「僕に分からせてよ」と口を開けて待っているだけで、自分から文章を理解しようという意欲と粘りがなければ、分かるはずの文章も分からなくなります。そうした思考体力が昔に比べてひどく弱くなったような気がします。

 

 文章というのはアクロバティックな論理展開を楽しむという側面も強いのですが、短くて刺激的な文章が中心となるSNSで、果たしてそれが理解できる思考体力が育成できるのでしょうか。相手の心境を推察することは上手になりそうですけどね。

 

 またまた長くなりそうなので、本日はまとめに入りますが、要は考えることは楽しいことであり、嬉しい発見につながるのです。それを実感するには、自分自身で考える習慣を持つほかありません。それ以前に、何でもかんでも他人のコピペで済ますなんて、実にまったくつまらない人生であることを、まず知るべきなのではないでしょうか。

 

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