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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

教育・学校

2017年11月 9日 (木)

可哀想とは何か

 

 犬の福助がめっきり老け込み、昔は飛び跳ねるように動いていたのに、近頃は水を飲みに行くにも右に左にヨタヨタと歩いております。

 

 今年で15歳というのは、昔の常識では考えられないほどの長寿であり、衛生環境が飛躍的に向上した賜といえるのですが、見ていると不憫でもあるんですよね。エサの食いつきも近頃はすごく悪くて、かつては秒速で完食していたのに、今では残したりします。そんな時に、何を考えているのか、黒いビー玉のような瞳でボクの顔をじっと凝視するんですよね。

 

 そんな時に哀れを感じる、つまり可哀想だと思ってしまうのですが、どうやら犬のほうは自己憐憫という感情はまったくないようです。ヘルニアで下肢が動かなくなった犬が特注の車輪を付けているのを見たことがありますが、「わーい、これで自由に動けるぞ」といわんばかりに走り回っていました。それがないからといって、自分の不幸を嘆き悲しんですっかりふさぎ込むというのも見たことがありません。足が動かない。そうか、仕方ないか。みたいなね。

 

 そうすると、ボクたちが犬や他人、あるいは自分に対して「可哀想」と思う感情って、いったい何なのでしょうか。英語でも哀れみや同情を表すPityという言葉があるので、おそらくこれは人類共通だと思います。ボクは読んだことはありませんが、夏目漱石は小説『三四郎』の中で、a pity is akin to loveを「可哀想だた惚れたってことよ」と訳しています。

 たとえば放蕩者の父親を持つ美しい娘が、借金のカタとして郭に売られるなんていうシチュエーションは、確かにそうかもしれません。惚れてなきゃ可哀想なんて感情は起きないですからね。しかしながら、犬や猫を可哀想と思ったからといって、惚れるという感情とは大分開きがあるような気がします。

 

 あくまでもボクの仮説ですが、これは人間だけが持ち得る他者共感能力=シンパシーの一種ではないでしょうか。大昔の厳しい自然環境では、人間が孤立したらすぐに捕食されるか飢え死にしてしまいます。つまり、お互いに協力してお互いを守り合うことが生存に必要な絶対条件だったのではないでしょうか。

 そうするためには、他者のことをあたかも自分のように感じなければいけません。隣の男がクギを踏み抜いて「痛い!」と叫んだら、自分も神経を突き刺されたような気がして「こりゃ大変だ!」と助けようとする。そうした感情から「可哀想」が派生してきたのではないかな。

 

 ところが、文化・文明の発達によって天敵となる捕食者がどんどん駆逐され、人間が食物連鎖の頂点を極めるようになってから、そうした本能を欠いた人間も生まれるようになったようです。だからこそ犬や猫を何匹も殺して平気な無慈悲な奴もいるわけです。こういう人は、akin to loveに至るa pityという感情がそもそもないと考えられるので、人を愛することができない。愛される喜びも分からない。ああ、何という恐ろしい孤独でしょうか。しかし、彼らはおそらくそれすらも感じないだろうなぁ。

 

 最近になって登場した人類最強の天敵になりそうな人工知能=AIにしても、「可哀想」という感情を持たせるには何百年もかかりそうに思います。よしんばそう感じたとしても、人間のように人を愛してセックスして子供をこしらえるなんてことは金輪際できません。

 

 だからね、カメラが誕生して絵画の意味が写実から大きく変わったように、AIによって、それまでは面倒くさくて仕事の邪魔ですらあった人間的感情が前向きに再定義されるような気がするのです。それを追求できるのは大学の文系学部だけですから、もっとガンバレよと言いたいわけですな。

 

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2017年9月25日 (月)

大社接続改革

 

 高等教育の業界では「高大接続改革」が大きな話題となっています。一般的には受験生の利害に直結する新しい大学共通テストに関心が集まっていますが、これも実は「高大接続改革」の一環と位置付けられており、大学入試が変わらなければ高校教育も変わるはずないよね、という理屈なのです。

 

 それで何をするかといえば、日本の新しい未来を創るための本格的な教育改革を、高校と大学入試、そして大学教育をまとめた三位一体で推進していくということです。これまで日本は「先進国に追いつけ追い越せ」で成功してきたけど、気が付いたらGDPはとっくに世界2位だか3位となり、目標=模倣すべき国家&社会モデルが世界のどこにもなくなってしまった。となれば、これまでのように知識やノウハウやスキルを覚えるばっかりではもうダメだから、抜本的に高等教育を改革しようじゃないかということです。

 

 いささか遅すぎではないかとボクは思うのですが、拙速を嫌って異様に変化に時間をかけるのも、模倣と横並びをコアとする旧教育の弊害なので仕方ないとして、高等教育で「高大接続改革」が言われるのなら、どうして大学と社会の接続も考えないのでしょうか。

 大学と就職活動と社会での生き方を、日本の新しい未来に向けて三位一体で改革していく「大社接続改革」を、今こそワタクシは提唱したいのであります。

 

 これをきちんと説明すると恐ろしく長くなるので、要点だけをまとめれば、大学卒業直前の(入試偏差値に基づく)「短期一括採用」が義務教育から高等教育を通して強力な影響を及ぼしているのではないかってことです。これを改革しなきゃ、大学も含めた高等教育はもちろん、会社組織を中心とする社会も変わりようがないって、これは「高大接続改革」のまるパクリですけど、求められていることはまったく同じですよね。

 

 さもなきゃ、大卒新入社員の3分の1が3年以内に退職するという事態は今後も続くでしょう。早期の離職・転職が決していけないことだとボクは思っていませんが、就職のミスマッチが解消されていないことに問題があるわけです。「大学は就職予備校ではない」という指摘も納得できなくはありませんが、若者に実りある豊かな将来を提供する教育機関であることは額面だけにしても事実ですよね。その将来は、所属する組織がどうであれ、どうしたって仕事から生み出されてくるものですから、就職のミスマッチはすなわち「学生が希望した人生とのミスマッチ」とも言い換えられるではありませんか。

 

 そうした学生個々人による「希望した人生とのミスマッチ」を避けることが「キャリア教育」の本質にもかかわらず、これを就職教育と短絡的に誤解する人が今も少なくないようです。だからこそ、昨今のように人手不足で目先の就職率が上がってしまうと、目的を終えたように感じられている気配があるんだよな。

 

 その一方で、もはや永年勤続は確かな将来を保障するものではなくなりました。情報革命によって企業の平均寿命は圧倒的に短期化しているほか、AI=人工知能の発達によって、機械が代替できる仕事分野もどんどん拡大しています。

 

 ということは、ですね。「石の上にも3年」という諺はもはや不要になってきたのですが、これ分かりますか? つまり、一定期間の習得や慣れが必要とされてきた業務なんて、AIが自動的に学習して人間の代わりをしてくれるということなのです。ならば早期の転職も、継続的な人間関係ということを除けば、特段の問題があるとは思えません。

 

 そうなると、人間に残された、いや人間だけができる仕事とは何でしょうか。そのために必要な学習・教育とは何でしょうか。それより以前に、人間は何のために生きて、何を為すべきなのか。

 

 だからといって知識の習得が必要なくなったというのではありません。しかしながら、単純な知識や情報はインターネットで調べて書物まで読めばすぐに分かるので、高校や大学の集合教育では違うことをやらなきゃ意味がありません。そのトライアルの1つが「アクティブ・ラーニング」であり、直近には主体的な問題発見・解決能力や人間関係構築能力などを学習できますが、理想とするのは深い想像力&高度な創造力の育成ではないかとボクは考えています。

 

 異論反論はいろいろあるでしょうが、いずれにしても会社や組織に人生を託すことはもはやできなくなりつつあるのですから、社会や制度も変わっていかなきゃいけないし、それに伴って就職活動や大学教育も改革されるべきです。

 

 だからこそ「大社接続改革」。まだ誰もこのように表現していないので、ここに最初の言い出しっぺとしてボクに不許複製の著作権が存在することを宣言しておきます。とはいっても著作権は登録なしで自然発生するので、「ちゃんと覚えておいてね」くらいの軽い意味なんですけどね。

 

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2017年9月22日 (金)

英語力

 

 ランサムウェアというのでしょうか、毎日毎日呆れるほどのウィルスメールが送られてきます。

 

 その出所はともかく、最近は手の込んだメールが多くて、内容的にリアリティをもたせたり、Scanというタイトルだけで暗に「画像を見ろ」と、こちらの疑念や興味を惹くような文面や構成に進化してきました。たとえて言えば「インターネット版オレオレ詐欺」みたいなものです。中にはZIPの拡張子を隠してWORDDOCX体裁にした添付ファイルもあるらしいので、その悪知恵をもっと前向きに使えよって腹が立ってくるくらいです。

 

 ボクの場合は英語のウィルスメールが多いのですが、たまに日本語の文面があっても機械翻訳だと明白に分かるヘボい直訳なので、すぐに見破ることができます。けれども、英語のメールは内容が分からないので不安を感じる人もいるんじゃないかな。

 でも、ご安心ください。こうしたインチキ英文メールは共通して具体的な宛先が明記されていないのです。つまり、ヘッダーがなかったり、あっても Dear Customerとか何とか、宛先に固有名詞が一切ありません。相手のアドレスにまるで心当たりがなく、宛先が抽象的で曖昧または不明のメールは直ちに削除して廃棄したほうが安全だと思います。

 

 さて、それで何が言いたいかというと、世間的にはグローバル化で、およそすべての教育機関が英語力の養成を強化しております。もちろん児童・生徒並びに学生諸君は英語の勉強をしないよりしたほうがいいに決まっています。でも、果たして社会人にとってはどうなのでしょうか。ボクの乏しい経験ですが、英語を使う必要に迫られたら、これは誓って断言しますが、誰だって短期間に読んだり書いたり話したり聞いたりできるようになりますよ。

 

 たとえば、たった1人で深夜にアメリカ南部アラバマ州のモービル空港に到着。ホテルの予約はあるにしても、客があらかたはけた後の閑散とした空港でタクシーを探したことがあります。やっと着いたホテルもルームサービスがなく、フロントで「夕食は出前しかない」ですからね。机の上に重ねられていたビニールパウチのメニューをいろいろ調べて、「なるべく早く持ってきてね」と電話をかけて注文しました。そんな経験は初めてでしたが、腹が減ったら何とか通じるようになるものです。

 ちなみに、ボクは社会に出てから英語の勉強なんか一切したことがありません。翌日もたった1人でアメリカ人の大学教授に取材しましたが、要するに本気で話を聞く気持ちがあるのかってことを相手は判断するのです。これはボクたちだって同じですよね。

 

 その時は体育大学の通信教育カリキュラムを日本で紹介することが目的だったので、それさえきちんと意思疎通できれば、多少の発音や単語や文法の間違いなんて、むしろ相手が笑いながら修正してくれます。そんなわけで、ボクは英語力を云々する以前に、相手に対する心からの誠意と、コミュニケーションしようとする意欲がなきゃダメだろうと体験的に信じているのです。

 

 ただし、英語をこのように現場で応用していくためには、少なくとも現行の中学卒業までの英語の勉強が基礎になってきます。ということで、ボクは実のところ、これまでの英語教育に特段の問題があるとは思えないのです。

 けれども、前述してきたように、問題は「英語を使う必要性」にあるのですから、それを主体的に引き受ける心構えや習慣がなきゃいけない。そのためには、小学校の早い時期から日本語で積極的に発言するディスカッションやプレゼンなどに慣れておく必要があると思うのです。にもかかわらず教室では先生の話を静かに聞くだけで、そうした応答的な発言機会にまるきり欠けていたことが、日本人が英語を苦手とする本当の理由ではないでしょうか。

 

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2017年9月 8日 (金)

何様?

 

 9月1日のブログ「事前規制と事後摘発」で、2000年前後からの規制緩和の流れがいつの間にか立ち消えたようになり、むしろ揺り戻しの気配が濃厚ではないかと指摘しました。

 

 それを象徴する最近の事例が、東京23区内の私立大・短大の定員増加を認めないという文部科学省の政策です。いくら地方経済が不振とはいっても、これはちょっと違うんじゃないかな。地方の大学自身が魅力を高めていくのが本筋ですよね。そうした大学は実際に少なくないのですから、それを模範として個性的な教育改革を進めることで地域の学生を引き留めるだけでなく、逆に首都圏からも学生を呼び込めるような自助努力を促すべきでしょう。

 

 大昔にも似たような規制を実施したため、大学のキャンパスが相次いで東京郊外に移転した時期があります。けれども、21世紀になってから都心回帰の動きが顕著になってきたではありませんか。少なくとも、私立大学の定員を国があれこれ指図するなんていうことは、およそ自由民主主義あるいは市場経済とは思えません。国から莫大な運営費交付金が出ている国立大学法人ならともかく、それぞれ固有の建学の理念に基づいた「学問の独立」が保障されているはずではありませんか。だったら入学定員だって自由であるべきでしょう。

 

 厳密にいえば、私立大学といえども1968年から国の補助金が出ています。当初は「私立大学教育研究費補助金」として計上され、70年には専任教員の人件費も含めた「私立大学経常費補助」という大きな枠に改定されました。でね、この補助金の額が70年代に猛烈な勢いで増加していったわけです。その責任者や意図や背景は皆さんの想像にお任せしますが、私立大学はそれまで国のカネなんてアテにできなかったのですから、下世話な表現かもしれませんが、これが「ヒモ付き」の始まりとも言えるわけです。

 

 こうして国に逆らえない状況を作っておいてから、定員も含めてやたらに規制したり音頭を取ったり、ついでに天下りするというのは卑怯というか姑息というか、実に巧妙至極なやり口というほかありません。しかしながら、1980年代に行われた医師抑制政策が地方の医療崩壊を引き起こしたように、もはや中央政府の思惑通りにコトが進むような単純な社会構造ではないですよね。

 

 かといって、何もかも市場のメカニズムに任せて自由を貫けば、煽りを受けるのは弱者です。だからこそ、できるだけ事前規制を緩和すると同時に、事後の監視・摘発・救済を進めるというのが複雑化・高度化した社会に必要な政策ではないかと。それをしないで単に蛇口を締めたり開けたりなんていうのは、いったい何様の仕業かよとボクなんかは感じてしまうのであります。

 

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2017年9月 1日 (金)

事前規制と事後摘発

 

 来年度に学生募集する法科大学院がとうとうピーク時の約半数、39校に減少したそうです(日本経済新聞8月31日朝刊)。このブログでは書き飽きたテーマなので近頃は話題にしてきませんでしたが、もともとボクはこの制度に大反対であり、ついでに合格者数を予め絞ることも自由民主社会ではあり得ないことだと以前から指摘してきました。過去のブログならびにボクの著作など、その証拠を出せというならいくらだってあります。

 

 それと同じことを書きたくないので論点だけまとめれば、そもそものきっかけは司法試験合格者数を「2010年頃には年間3000人にする」とした2002年の閣議決定にあります。こんなことを政府が決定すること自体がおかしい。たとえば100点満点のうち80点以上なら合格という規則を70点以上に緩和するなら分かります。けれども、合格者数を増員ってどういうことでしょうか。入学定員が決まっている大学受験じゃないんですから。検察官や裁判官は公務員でも、弁護士は民間で活躍する専門職です。そんな仕事の従事者数を政府が規制するってヘンでしょ。たとえば競争が激化すると経営が厳しくなるという理由で、東京で新規開店するラーメン屋を年間500店に規制するのと同じではありませんか。

 

 ちなみに自由民主主義の国アメリカではこんな馬鹿げたことはできないので、弁護士の登録者は約122万人(2014年)に達します。対する日本は約3万8000人(2016年)。人口は2.5倍程度に過ぎないのに、弁護士の数は何と32倍以上です。いくらアメリカが訴訟社会とはいっても、この違いは大きすぎると思いませんか。

 

 いずれにしても、合格者増員というなら受験資格不要の旧司法試験の枠を広げるだけで済むのに、それでは合格者の質が下がると考えたのか、2004年から法科大学院制度がスタート。この大学院を修了しないと司法試験が受けられなくなりました(予備試験は後述)。そのかわりに「新司法試験の合格率は70~80%」という途方もない広報が行われたおかげで、初年度の法科大学院志願者は7万人以上という大フィーバーですよ。

 

 その後の経過は今さら解説するまでもなく、大学院で高額な学費がかかるのに司法試験の合格率は20%台。うまく合格できたとしても新人弁護士は就職難。こんなハイリスクな資格職の人気が下がるのはちっとも不思議ではなく、法科大学院の志願者・入学者ともに年々減少。おかげで法科大学院の撤退が続いてきました。そのかわりに、誰でも何回でも受験でき、合格すれば即司法試験に挑戦できる予備試験が大人気。この予備試験は、法科大学院が参入規制と非難されないように残した言い訳的な制度だったのですが、今ではこちらの合格者のほうが優秀と評価されるサブルートとなっています。ホラね、何のことない、名称は変わっても旧司法試験はちゃんと生き残っているではありませんか。

 

 皆さんはこのプロセスのどこに間違いがあると思いますか。ボクはやはりスタートラインがおかしいと思わざるを得ないのです。合格者数の「事前」制限は明らかに既得権益の保護ですから、岩盤規制と同じく自由民主主義における市場競争に反しています。

 次に弁護士の仕事について。政府が司法試験合格者の増員を決定したのは、規制緩和という大きな流れが前提でした。いわく「行政による事前規制」から「司法による事後の摘発&救済」への転換です。早い話が、お上による規制をなるべく緩くすることで市場競争を刺激し、ビジネスをより活性化しようというのが狙いでした。

 

 でね、こうした最初の理念が首尾一貫しなかったことに大きな問題があるわけです。その意味では「司法試験合格者数3000人」の撤回なんぞ実は大した問題ではありません。「行政による事前規制」からの転換がうまくいっていないどころではなく、むしろ揺り戻しともいえる状況にあることをどれだけの人が認識しているでしょうか。ぶっちゃけて言えば、行政による「事前」の規制と支配が根強く残っているからこそ、「事後」を管理する弁護士の仕事が増えない。だからこそ新人弁護士の就職難、よって法科大学院の不人気、それなら予備試験のほうがローリスク、と話は淀みなくつながっていくのです。

 

 それに隣接資格の問題もあります。司法書士と行政書士に類似した資格は欧米にはなく、すべて弁護士の仕事です。これらは司法と行政の制度が縦割りで整備されていく時間差で生まれてきた専門職と考えられますが、そろそろ廃止や統合などに踏み切らないと共倒れになりかねないとボクは睨んでいます。

 

 さらにもう1つ、日本全体の訴訟件数は減少傾向にあるとされているので、形式だけの顧問も含めて、旧来の弁護士業務にぶら下がるつもりなら、国家公務員の総合職を目指したほうがいい。弁護士という法律職に求められる仕事はいろいろあるはずなのに、消費者金融の過払い金請求など目先で手早くカネになる方向しか見ていないようにボクには思えます。たとえばグローバル化によって企業の国際紛争は増加するに決まっていますから、それを訴訟という多額なコストと手間をかけずに短期に解決するADRなど、開拓すべき新分野は少なくないと思いますよ。

 

 逆にいえば、そうした新しい仕事を創出する意欲があるのなら、弁護士人気が低迷している今がチャンスなのです。人の行く、裏に道あり、花の山。これは証券業界の諺ですけど、どんな仕事でも同じですよね。

 

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2017年6月 5日 (月)

先生の都合

 

 学校教育の現場にいる人には不快かも知れませんが、「子供のため、生徒のため、学生のため」と言いながらも、教える側の都合で進められてきたことが少なくないように思います。

 

 今回の獣医学部新設問題なんて典型的で、首相の関与があったかどうかなんてことより、「忖度」だか何だか知らないけど、いったん決めたことが容易に覆ること自体がおかしい。それが獣医を志す学生のためでは決してなく、誰かの都合で変わったということが大問題なのです。首相の名前が冠された私立小学校の新設も、学校法人の所有地という設置基準があるはずなのに、国有地を例外的に格安で払い下げしてしまった。

 

 この「国有地の払い下げ」を敗戦直後から掘り下げていくと、大企業と国の癒着ぶりが明らかになるのですが、本題とは違うのでここでは紹介しません。

 

 なのに、何でまた「先生の都合」なんてことを言い出したかといえば、昨今大流行の英語教育なのです。英語を学ぶことは決して悪いことではなく、小学校3年で必修化も結構けだらけでございます。

 でも、ボクたちだって中学校で3年、高校で3年、大学まで含めたら10年くらいは英語を勉強してきました。なのに、ああどうして皆さん英会話が苦手なのか、ということを突き詰めておくのが、改正やら革新の大前提じゃないですかねぇ。さもなきゃ同じ轍を踏むことになりかねません。

 

 民間ではああだこうだといろいろ問題を指摘していますが、文部科学省による公的な反省なんてついぞ聞いたことがありません。会話はダメだけど「読み書き」ならOKかといえば、すいませんが、それを得意とする大人もまた少ないですよね。早い話が、英語は「使う」ことを前提とした教育ではなく、「試験のため」の勉強だったからこそ、こんなに悲しい結果を招来したということまでは識者が共通して指摘しています。

 

 ボクはしつこいタチなので、さらに「何でそうなったのか」と問いかけたい。それでぶちあたったのが、日本の先生たちは、どうやら子供の将来なんか考えてこなかったのではないかという重大な懐疑なのです。

 もちろんそうではない先生も多いはずですが、イジメの隠蔽でそうした体質がいみじくも露呈されています。子供が自殺したにもかかわらず、教育委員会と教育管理職が「わしゃ知らん」と、こぞって自分たちの都合を押し通してきたではありませんか。

 

 さらに子供たちが教室で発言する機会が異様に少ないのです。アメリカンスクールなんて机はバラバラで、朝っぱらから「今日の新聞で興味を持った記事は?」と先生が子供たちに呼びかけていますぜ。現在はいくらか変わったかも知れませんが、少なくともボクの頃は教室がとても静かでした。だから窓からツバメを見ていた、というのは冗談ですけど、それが学級経営の基本で、静かであればあるほどまとまりがよく、ひいては優秀な先生と評価されるとしたら、こんなの全体主義に近いではありませんか。

 

 子供たちがてんでに勝手なことを言い出すよりも、静かに聞いてくれるほうが指導力の足りない先生にとっては都合がいいですね。けれども、そうした沈黙する子供たちが大人になったら、英語以前に隣の出方や発言を待つ消極的な人間になってしまう。そんなメンタリティで英会話が上達するはずがない。

 

 にもかかわらず英語教育を早期化するとしたら、ボクにはとうてい茶番としか思えません。とにかく、小さな子供のうちから、もっと教室で活発に発言させること。それが英会話を上達させる基礎になっていくとボクは思うのです。それができないというなら、それこそ本気で子供たちの将来を考えているのかなぁと疑わざるを得ないのです。

 

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2017年3月 1日 (水)

自由からの逃走

 

 教育というのは、国家の命令に素直に従う兵隊さんを量産することなのかなぁ。ボクは逆に、何にでも疑問を持ち、自分自身で自分なりにモノを考えられる知性を育てることだと思ってきたんですけどね。さもなきゃ生きたロボットと同じではありませんか。「上からの指示」「上からの命令」を伝言ゲームで下達するだけの人間が大多数を占める社会は、権力者には都合がいいだろうけど、自分の幸福を自分自身で追求することができなくなりますよね。

 

 エーリッヒ・フロム(1900~1980年)という社会心理学者が1941年に『自由からの逃走』を発表しました。読んだことはありませんが、名著というのはタイトルからして画期的で分かりやすいんですよね。この『自由からの逃走』も、それだけで内容をある程度予想できるはずです。さらに、ナチスによるファシズムが最高潮となって戦争に突進していった時代性を加えれば、「人間はどうしてせっかく勝ち取った自由を捨てるのか」とも言い換えられるでしょう。

 

 近代までの歴史は、奴隷が個人としての自由を獲得するための戦いだったとボクは理解しています。そのクライマックスとなったのが18世紀のフランス革命であり、貴族や王侯が支配する封建社会が崩壊する契機となりました。反動やクーデターや王政復古があったものの、やがて市民が主体となった社会が確立していったわけです。

 

 そのために膨大な血を流した闘争を経て、ようやく獲得したのが自由にほかならないのに、どうして20世紀にもなって「全体主義」=ファシズムに人々が熱狂し、1人の独裁者に無批判に従うのかと、フロムは考えたはずです。

 

 理由は簡単で、フロムの意見と同じかどうかは知りませんが、ボクの私見を表明すれば、自由というのは不安が伴うからです。檻の中で長くエサを与えられて、馴らされてきた動物または囚人を想定すれば分かりやすいですよね。檻が開いて「今日からお前は自由だ」と言われても、どうしていいかと途方に暮れるでしょう。その日からエサの取り方も自分で考えなきゃいけない。もはや看守や管理者の指示や命令はないので、何もかも自分の責任で決断していくことが求められるからです。

 

 それでも温暖で自然豊かな生活環境なら、エサ=食糧を自分で得るのはそれほど困難ではありません。ところが過酷な厳冬を迎えて、エサがどこにもない状態で養うべき家族がいるとします。そうなれば、不安どころか、何もかもを自分で決めなきゃいけない自由を大きな負担と感じる人もいるでしょう。敢えて過激に言うなら、飢えるのも個人の自由となるからです。

 そこに「オレに黙ってついてきたらハッピーになれるぜ。そのかわりに文句や不平は一切なし。とにかく従え」と言われたら、せっかく手に入れた自由を捨てて隷属したくなる気持ちも分かります。

 

 その中には、アドルフ・アイヒマンのように「命令されたから」という理由でユダヤ人を大量虐殺した人物もいます。極めて事務的に効率的にホロコーストを進めたとされていますが、彼にとって個人の良心など業務遂行に不要なものだったようです。人権や慈悲を考えることもできる自由を捨てたからこそ、膨大な数の殺人を繰り返しながらも安寧が得られたのではないでしょうか。

 

 過度な帰依を強制する宗教はそれと似たところがあって、不安や怯懦を感じて自由から逃げ出したい人たちを誘うのです。しかも、縛り=制約が多いほど安心するという、奇妙な心理的メカニズムもあります。

 

 このように自由が必然的にもたらす不安を解消するのが、ボクは教育のひとつの目的であり意義だろうと考えてきました。自由には、何よりも教養と知恵が必要なのです。教養は自分が目指すべき道標を示し、知恵は自立を大いに助けることになります。

 

 にもかかわらず、特定の理念を幼児に押しつける教育を行う人がいるということに、いささか驚かざるを得ません。フロムが生きていたら、何て言うかなぁ。

 

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2017年2月 1日 (水)

習慣が感性を養う

 

 大学病院の不祥事が相次いでいます。

 ちょっと前には未熟な腹腔鏡手術で通算30人にも上る死者を出した医師がいましたよね。昨日は肺がんの検査結果を見逃して1年間放置。もはや手術不能の病状にまで追い込んだ不手際が公表されました。さらに、子供に別の患者の薬を投与して翌日に死亡した事件も発覚。医師の卵とはいえ、ワインを飲ませて女性を酩酊させ、集団強姦を行った卑怯千万な連中の裁判も始まっています。

 

 もちろんすべての大学病院が同じ問題を抱えているわけではなく、医師だって良心的な人のほうが圧倒的に多いと思いますよ。ただ、これはボクの個人的な経験と限定しておきますが、いささか傲慢なところがあるように感じたのです。もしかすると、患者から「先生様」扱いされることに慣れてしまっているんじゃないかな。民間病院でも似たような傲慢医師はいるはずですが、大学病院はちょっと質が違うなぁと感じたことを覚えています。

 

 とはいえ、今回のテーマは大学病院ではありません。あくまでも仮に、ですけど、「先生様」扱いに慣れた医師というのは、患者を親身に考える感性が次第に鈍くなっていくのは当然ですよね、と言いたいわけです。

 

 ここから昨日の続きになりますが、であるなら感性というのは「習慣」が作るといえるのではないでしょうか。「オレ様の治療法が唯一」ではなく、「より効果的な二の矢、三の矢の治療」を想定するのは、理屈や理論でなくて感性だろうとボクは思うのです。「標準治療」に従うのも結構ですが、病気というのは頗る多様であり、同じ病名でも個人個人の原因や症状は基本的にそれぞれ異なるという認識=感性を持っていないと、重要なことを見逃すこともあるはずです。

 

 こうした感性は、教えられたら身につくというのものではありません。思考の奥深くで精神性にも結びついていることですから、認識が感性にまで転化して、それがコンピュータではいえばOSの中にきちんと組み込まれていないと、応用できないのです。

 

 そのためには、やはり習慣として繰り返していくほかないでしょう。たとえば「こんなもんでいいよね」と適当にやり過ごすことを習慣にしてしまえば、物事の深いところまで気づくことができなくなります。もちろん能力的にも伸びることはありません。

 その一方で、いつも「これでいいのかなぁ」と疑問を持つ習慣があれば、感性も鋭敏になっていかざるを得ないじゃないですか。それで幸せになれるかどうかは別問題ですけど。

 

 手前味噌で恐縮ですが、このブログは土日祝を除いて毎日書いております。プロのライターといっても、日々の出来事ではなく、それなりにテーマを設定して、そこそこの内容に仕上げるのは決して楽ではありません。ネタがまったく見当たらなくて、書いては消すを何度も繰り返すことだって普通にあります。

 けれども、「こうする」と心に決めて、それが習慣になってしまうと、辛くても書かないほうがむしろ気分が悪い。だから出張などで時間が取れない時は、事後でなくて事前に告知するようにしています。さもなきゃ逃げることに等しい、というのがボクの感性になってしまいました。

 

 このように習慣化することで感性が磨かれるとするなら、天賦の才能や知力なんかまったく関係ないですよね。どんな子供でも、毎日の習慣を通して勉強しないとどうも気分が悪いという感性を持てれば、成績が上がらないはずがありません。その上で何にでも疑問を持ち、自分の力で答を見つけることが快感になってくれば、安易なヒト真似やパクリは生理的に我慢できなくなるんじゃないかな。

 

 そうなると、どんなに辛い苦労があるとしても、自分だけのオリジナルを創造したくなります。そうした人の中からスティーブ・ジョブズやノーベル賞受賞者が生まれてくるのだと、ボクは思うのですよ。

 

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2017年1月31日 (火)

感性を育てる(後)

 

 イスラム圏の人たちの入国を禁止するアメリカ大統領令に対して、抗議や反対運動が広がっているようです。中でもグーグルなどIT系やスターバックスといった国際企業の対応は素早く、そもそも誰があんな奴を大統領に選んだんだよという前提はさておき、人権ならびに民主主義意識が健在であることに改めて感心させられました。

 

 メキシコとの国境沿いに壁を作るという途方もない大統領令にも、アメリカ国内に限らず、イギリスなどNATO加盟国首脳もこぞって遺憾を表明しています。翻って我が国はどうかといえば、昨日の国会中継での首相答弁は何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。協調してどうだとかこうだとかの言い訳ばっかり。敢えて意訳するなら「世界の様子を見ながら、日本の国益に鑑みて徐々に対応していきたい」ってことでしょう。

 

 もしもボクが国会議員なら「安倍さん、あなたはあんな無茶な禁止令に義憤を感じませんか」とか「メキシコとの間に壁を作るなんていう弱い者いじめみたいことに不愉快を感じませんか」と訊くんだけどなぁ。おそらく賢明なる東大卒のスタッフを従えている首相は、間違いなく「そんな個人的な意見を首相として答弁する必要はない」と反駁するでしょう。

 ボクが問題にしてきたのは、まさにそのことなのであります。

 

 国民のための政策というのは、もちろん理論や理屈からも考案されるでしょうが、「こんなことがあっていいのか」という怒りや義憤から生まれてくることのほうが少なくないはずです。さもなきゃ国民から広く得票できませんよ。

 それに、子育てしながら働く女性が保育所探しで苦労していたら、助けようとするのが人情ってものじゃないですか。それを予算という理性の方面から考えたら何にも変わるはずがない。心に痛みを感じて「これは助けなきゃいかん」として、ようやく工夫や努力が始まるわけでね。

 

 そこのところの感性が、日本というのはどうもおかしいのではないかと、ボクは以前からそれこそ強く感じてきました。

 

 たとえば「お前は弱い者いじめが好きか」と全国の子供たちに訊いたら、100%が「ノー」と答えるはずです。もしいたとしても、教師がそんな意見を言わせないでしょう。だったら、いじめがないかといえば、衆知のようにそんなことがあるはずもなく、悲しいことに自殺者が定期的に発生しています。学校だけでなく、昨今問題となっている過労死や過労自殺の裏側にも似たようなことがあるとボクは睨んでいます。

 

 とすれば、「弱い者いじめが大好き」という人たちが必ずいるはずじゃないですか。それに対して教師は「いじめはいけないと教えてきた」と、こちらも100%の確率で答弁するに決まっています。

 これこそが教育や学習の限界であるとボクは思うのです。

 

 知識や情報やノウハウは教えることができて、テストで理解度も把握できます。ところが、倫理や道徳は感性として定着するのが最終的な到達点ですから、テストなんかやっても何の役にも立ちません。「卑怯なことには勇気をもって対抗しようね」と教えて、みんなが一斉に「はい」と答えたところで、実際には強い者におもねり、弱い者いじめを傍観・助長するだけですよね。

 

 そんなことはどうにも許せないと、大きな身体のジャイアンにも果敢に向かっていく感性を育成することが、ボクは教育の本質じゃないかと思うのです。それによってコミュニティの秩序が適正に維持され、みんなが住みやすい社会に近づけるのですから。
 個人の能力を伸ばすことだって、実は社会をより良くするという大目的があるはずなのに、それをみんなきちんと自覚していません。さもなきゃ奨学金だってあり得ないはずなのに、あたかも勉学は自分の将来のためだけにやるものだと思っているんですよね。誰だよ、そんなことを教えたのは。

 

 これは教育だけに責めを負わせるべきではなく、社会や文化や歴史や伝統のせいでもあります。いずれにしても、不正義や弱い者いじめを見て見ぬ姿勢に不快を感じる人が少なくなれば、どんどん社会は生きにくく、住みにくくなっていくのは間違いないじゃないですか。

 

 というわけで、新大統領による「アメリカファースト」の強引な横車を許せば、こちらの国でも「自分ファースト」な連中が増殖していくのでないかとボクは怖れています。

 

 すでに、隣国からの旅人ではありますが、平気で列に横入りする連中が散見できますからね。それを不愉快に感じるか、ものすごく気分悪く感じるか、それとも次は自分が率先して横入りのズルをするかという選択は、理論や理屈というより、前述してきたようにひとえに感性の問題なのです。

 

 だからこそ、知識や情報なんかより、そうした感性のほうがこれからは大切になってくるとボクは考えるわけです。

 

 「自分ファースト」で小狡いことを繰り返す連中は、苦労してまで新しいことを創造しようとはしません。実際に、かの国ではキャラクターをまるパクりした遊園地を平気でこしらえてきました。そのほうが知恵を絞り出す手間とコストがかからないので、著作権や商標権などを無視するなら、経営的には理に叶っているとさえいえます。

 そう思っていたら、日本でもまったく無関係なのにPPAPの商標をいち早く申請する人がいました。いくら法律が「早い者勝ち」にしても、そんな卑怯なやり口を堂々とテレビでうそぶいて恥じないというのは、ボクには信じられない神経です。

 

 それだけでなく、理屈や理論ではおかしくはないにしても、気分が悪い、不愉快、落ち着かない、生理的にも大嫌い、などということは沢山あります。中でもボクが大嫌いなのは、やはりパクリであります。間違えて似ちゃいましたというならまだしも、たとえばスターバックスを真似たそっくりチェーンはいくつかありますよね。そうした意図的かつ合法的な模倣がボクはかなり苦手なので、近くにスターバックスがなければ、敢えてドトールを探して行くようにしています。コンセプトも業態も店舗の作り方も違いますから。

 

 そんなわけで、ボクがもしも仮に家電メーカーのエンジニアで上司から「ルンバ」と同じモノを作れと指示されたら、抵抗して大喧嘩するか、意見を聞いてくれないなら退職するでしょう。しかしながら現実の家電市場には、姿形がよく似た後追い掃除ロボットが少なくないのです。

 

 こんな結果になるのは、「感性」=「好き嫌い」が国民の常識としてきちんと共有されていないからだと思うのです。オレはエンジニアとして排ガスの虚偽報告なんて断じてできない、私は経営幹部としてこんな決算書の改ざんは許せないという感性があれば、三菱自動車も東芝もあんな恥知らずなスキャンダルを引き起こさなかったはずです。

 

 そんな理由から、経営教育は倫理を柱にするべきではないかと提案したら、あるMBAの先生から鼻で笑われてしまいました。けれども、「自分ファースト」がみんなを不幸に陥れるように、「会社ファースト」を推し進めたら犠牲者を増やすだけでしょう。CSRもやはり感性でなく理論ですから、経営環境が悪化したら即座に忘れられる口約束に過ぎません。「自分ファースト」や「会社ファースト」というエゴを社会的に調整するのが倫理とすれば、子供の頃からしつこく、くどいほど教え込んでもおかしくないだろうとボクは思うのです。

 

 やっぱね、不正義や差別や人権侵害を、理屈でなくて、みんなが心から気持ち悪くて不愉快だと感じるようになって初めて教育は完成するんじゃないかな。

 少なくともリーダーだけはそうでなければいけない。だからこそ明治の頃の教育は、そこのところを目指していたようにボクは思うのです。

 

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2017年1月30日 (月)

感性を育てる(前)

 

 現代は「知識社会」といわれます。この言葉はピーター・ドラッカーの著書『ポスト資本主義社会』(1993年)が初出とされており、その3年後には野中郁次郎らが『知識創造企業』を発表。『エコノミスト』など世界的なビジネス誌が大絶賛したそうです。

 

 コンピュータなど情報技術の発展によって、知識が社会や企業活動の基盤になるというのは誰だって分かる話であり、だからこそみんなが高偏差値の大学を目指しているのですが、ならば「知識社会」あるいは「知識創造企業」って要するに何だよと思いませんか。

 

 このあたりから、日本の論壇というのはわざと背景を深く解釈して、一口で言えるようなテーマを細分化・クラスター化するなど、どんどん問題をややこしく複雑化するんだよなぁ。それによってカリスマや家元制度的な序列を作ったりしてね。ランチェスターもそうですけど、こうした言葉の本質はそんなに難しいことやノウハウぽいことではないでしょう。

 

 知識社会を簡単に言ってしまえば、「頭脳=知恵と知識を使う社会」ってことですよね。これまでの仕事は専ら体力を使ってきましたが、現代は頭脳を使う比率が飛躍的に高まっています。太古のピラミッドづくりでいえば、中枢を担ってきた現場の石積みは機械を使えるので、もはや体力は重視されなくなり、むしろ設計や工程管理など頭を使う分野のほうに労働が移行してきたのです。

 

 産業にしても、たとえば清涼飲料水が乏しかった大昔はサイダーという「一般名詞」を作るだけで儲かりました。ところが現代ではコカ・コーラどころか多数の「固有名詞」があふれているので、情報や知恵を駆使して魅力的な「固有名詞」を創り出し、その付加価値をアピールしていかなきゃいけない。労働者にしても、かつては「サイダーの素」(あくまでもたとえばです)を入れた袋をいくつ肩にかつげるかという体力が給与を決定しましたが、今ではパソコンとネットを駆使して、消費者の購買意欲を刺激するマーケティングを創造できる人が高い収入を得られるってことですよね。

 

 この知識社会を大きく分ければ2層になっており、基礎部分が知識・情報の「解釈・分析」、応用部分が「創造」という構造になっているとボクは思います。でね、これまでの学校教育が関与してきたのは「解釈・分析」までであって、「創造」部分はまるで手つかずといっていい。だからこそ文部科学省は今頃になって高大接続や入試改革を通して、「創造」部分を組織的に強化しようとしているのではないでしょうか。

 

 しかしながら、この「創造」をどうやって教育または学習するというのかなぁ。どんなに教えても、他人の物真似しかできない人がいますよね。これまでのやり方や手法に関してはほぼ100点満点なのに、新しいやり方や手法の考案は苦手というか鈍感な人がいるじゃないですか。明治以降の日本という国家そのものがそうだったと批評する識者もいるくらいです。

 

 ボクは、その根本的な理由は「感性」にあると考えています。それもアプリオリな才能では断じてなく、早い話が適切で妥当な、あるべき「好き嫌い」の育成です。知識社会といっても、単純な知識や情報はネットを調べれば分かることばかりですから、むしろそれを処理するOSにかかわる個人的な「好き嫌い」の強化だけが、「創造」力を高める唯一の方法ではないでしょうか。

 それについて改めて明日のブログで続けます。

 

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