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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

教育・学校

2019年9月26日 (木)

解釈よりアイデア

 

 テレビの討論番組が代表的なのですが、コメンテーターの発言は解釈ばっかりで、新しい提案がほとんどないんですよね。某大学法科大学院の某教授なんて、あたりまえで普通極まりないことを、よくもまぁあれほどしたり顔で言えるもんだと呆れてしまいます。そこらのオバハンでも言いそうなことを難しい言葉でくるんでいるだけで、新味すらありません。だから反論する余地もなく、毒にも薬にもならない。危ないことは絶対に言わない、いや言えない人だからこそ、各テレビ局が御用達にしているのでしょうか。

 まぁ学問の世界はそれでいいんでしょうね。もとより相手にしているのは過去の事象だけで、それを解釈・分析することで理論化していくのが文系学者の仕事ですから。しかも前例のない画期的な解釈なんてほとんど相手にされません。根拠の乏しい、それだけに独創的な発想は、思いつきであって学問的ではないと即座に片付けられてしまうんだよな。

 けれども、ビジネスの世界はライバルとの競合が絶えず、現在から未来を勝ち抜かなければならないので、過去の解釈だけでは通用しません。ビジネスモデルなどを真似れば訴えられることもしばしばあります。MBAで勉強する成功事例を純化した経営理論にしても、現実は流動的で変化に富んでいるので、日進月歩といっていいハイスピードで陳腐化していきます。そんなビジネスの世界で必要不可欠なものこそ、学者や保守的な経営者がアタマから否定しがちな「思いつき」なんですよね。

 あまり浸透していないようですが、本格的なブレーンストーミングで批判や反論を禁止しているのも、そのためです。独創的なアイデアは、すべてが思いつきといっても過言ではないのに、それを検討する前に前例を持ち出して否定するのは、生まれたばかりの赤ん坊の首を大人が締めるようなものです。

 歴史を遡ってみれば、前例や慣例などを無視した、突飛でヘンテコで意表を衝くような思いつきがビジネスや会社や、ひいては社会を発展させてきたことが分かります。飛行機にしても、人間は鳥のように空を飛べないと信じられていた時代に、「羽根があればいいんじゃないの?」と思いついた変わり者たちによる、前例を無視した試行錯誤が作り上げたものと言っていい。その結果を学者様が後追いでもっともらしく理論化しただけのことでね。

 だぁからさ、もう解釈論議はやめようよ。ボクはほとほと飽きました。要するにどうしたらいいのか、何をしたらいいのか。思いつきで十分だからオリジナルのアイデアを出せよ。日本は評論家があまりにも多すぎる。そうなったのも、日本の教育のせいだというのは、果たして言い過ぎかなぁ。

 

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2019年9月25日 (水)

人格教育(後)

 

 学校が学力を養成するだけの場所なら、学習塾で朝から晩まで勉強したほうがよほど効率的ではないでしょうか。写真が登場して絵画が写実から解放されたように、学校も学習塾の普及・浸透によって、学力以外の教育目的をきちんと規定すべきだったのに、どうにも文部科学省のスタンスは曖昧なんですよね。家計格差もあるので、「テスト勉強は学習塾でやってね」と言い切れないのは分かるけど、少子化でとっくに大学全入時代ですぜ。もはや学校が学習塾と勉強で競合する必要はないと思いませんか。

 テレビを持つ国民からカネを徴収するNHKが、CMを収入源とする民放と競う必要なんてないのに、大河ドラマや紅白歌合戦の視聴率をひどく気にするのと似ていますよね。それより時間と経費がかかる精密な社会派ドキュメンタリーを作れよ。

 話を戻すと、学力養成が学習塾の「専権事項」なら、一般の学校で何を教えるのかとなります。そんなもん実に簡単で、社会に出た時に必要な最低限の教養と法律知識、それに礼儀やモラル、マナーや生活スキルではありませんか。その上で学業成績の良い生徒は大学を目指せばいい。

 大学進学率はどんどんアップしてきたのに、侵入禁止の柵を乗り越えて岸壁で釣りをしたり、河川敷では違法で危険なゴルフの打ちっ放し。バーベキューをやったらゴミを散乱放置なんていう非常識が目に余るほど増加してきたのは、ひとえに義務教育のせいだとボクは思っています。実質的に全入といえる高校も含めて、コミュニティの一員としての義務や責任がまるで教えられていないからです。家庭でもテストで高得点を取ったら小遣いを追加するとか褒めまくるなんて、バッカじゃなかろうかと。テストで少しばかりいい点を取るよりも、社会生活で不可欠なことを学ぶほうが大切だと思わないのかなぁ。自分だけが幸せになれる社会は、他者を不幸にするんですぜ。

 随分長くなりましたが、この文脈で、ボクは学校で人格教育をやるべきだと考えているわけです。たとえばリーダーシップですが、大人になってから知識や理論を学べば身に付くというものではないでしょう。危機的な状況になると、我先に逃げ出す政治家や社長や経営幹部は多いんですよね。そんな口先だけの人たちを部下が信頼するはずがありません。強制的に彼らを支配しようとしても、心の中は自由ですから、カゲで悪口大会となり、大切な時に組織がうまく機能しないなんてザラにあるじゃないですか。そのかわりに、上司が違法に懐を肥やしていたら部下も必ず真似をします。収賄や横領などの汚職がひとつでも発覚したら、必ずといっていいほど周囲に同じことをやっている奴がいますから。

 そんな環境で、幹部社員がナレッジマネジメントの音頭を取っても部下は動きませんよ。尊敬できるリーダーによって理想や目標と崇高な志をみんなが共有しなければ、モチベーションを喚起できるはずがない。そうした内面を高めるような教育が、この国は徹底的に欠けているように思います。だからこそ、道徳や倫理に反したことが平気でできる。自分の子供だって扱いに窮したら殺してしまう国だもんね。

 お上に唯々諾々と従う温和しい国民が多いだけに、指示すればみんなが言うことを聞くと思われているようですが、そうでない奴らも結構います。そんな連中が弱者を踏みつけるようなことをするから困るんだよな。「勝てば官軍」というのは明治初期だけの話ではないのです。

 面倒くさいので結論を急げば、ナレッジをマネジメントしようとするなら、その土壌となる民度を高めなきゃ無理でしょうってことなのです。特に責任と義務。そして問題発見や創意工夫を楽しく面白く感じるメンタリティが共有されていなければ、リーダーがいくら笛を吹いても、誰も踊りませんよ。

 リーダーシップも民度も、学力とはまったく関係ありませんから、やはり子供の頃から肌身に馴染ませていくほかない。そのためには教員自身が無私・公正・平等で、正義を希求する利他的かつ誠実な人格者でなければならないのですが、教員にそんな適性を求める学校なんて稀有でしょう。先生という仕事が聖職から教育労働者に堕したことも大きな理由なのかな。

 文部科学省では高大接続改革に執心しているようですが、とにかくボクは人格教育こそが1丁目1番地(って誰かが言ってましたよね)であると主張したい。英語の勉強なんかよりよっぽど大切で、ボクたち自身の役にも立つと思いますけどね。

 

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2019年9月20日 (金)

入試改革(後)

 

「日本では多様化を趣旨とするAO入試や推薦入試が大学側の入学早期囲い込みの手段となり、かつこれら学生の学業不振が散見されたことが、今回の入試改革につながった。このため全般に入試の画一化が図られているが、これは時代に逆行している」

 今週の9月16日付け日本経済新聞朝刊に掲載された、国立情報学研究所・船守美穂准教授の寄稿の抜粋です。この寄稿によれば、アメリカはこれまでSATやACTといった全米標準テストの点数を大学入試判定の材料として利用してきました。ところが、近年になってこの点数の提出を任意とする動きが出ており、すでに千以上の4年制大学が標準テストを任意化する「テスト・オプショナル」を採用しているそうです。制度はいささか違いますが、日本でいえば、国立大学の受験に際してセンター試験を必須でなく任意とする感覚でしょうか。

 この「テスト・オプショナル」では、任意で大学に提出された標準テストの点数は参考にされるものの、2段階選抜や合否判定には使わないそうです。船守准教授は、その背景を次のように説明しています。
1)複数回数受験できる生徒に対し、受験費用が重荷となる層の生徒が不利
2)マイノリティーや親が大卒でないなど、大学に縁遠い家庭の生徒は受験テクニックに触れる機会が少ない
3)標準テストの点数でなくても高校の成績でおおむね判断できる

 ボクが昨日のブログで指摘したように、現在の大学受験は必ずしも公正平等ではないという認識が強くなり、志願者や合格者を多様化できるよう任意化が進められていると考えられるでしょう。日本でも2020年度から標準テストであるセンター試験が大学入学共通テストに変わりますが、英語4技能試験や記述式問題の追加など、要するに出題方法や内容が「改革」されただけのことで、入学者の多様化なんてまるで考慮されていません。前述した①から③までの背景はアメリカのみならず日本だって同じですから、どこの何を見据えた入試改革なのだろうと疑問を感じますよね。

 ドイツでも、大学入学の条件としてきた高校卒業証明を不問とする入学枠が拡大しているそうです。大学進学者が小学校高学年で選抜されてしまうため、こちらも早期から社会で働いてきた人に大学で学べる門戸を開いたということです。

 船守准教授による寄稿の結語は「今日の日本は少子高齢化の中で人手不足が言われ、大学は定員割れの危機にさらされている。大学に縁遠かった層を取り込み、適切な教育をして、社会に送り出すことが必要だろう」となっています。

 昨日のブログはいささかエキセントリックな論理展開としても、この意見にはまったく賛成です。日本の入試改革は相変わらず「志願者を落とすため」の制度ですが、欧米では様々な層の人たちを「受け入れるため」の入試制度に移行しつつあるといっていい。消費税を始めとして、悪いことは率先して真似するのに、良いことはちっとも真似しない。行政もボクたち庶民のメンタリティと大して変わりないわけですな。

 官僚が東大などの高学歴者で固められていることを考え合わせれば、やはり既得権を代々継承させていくつもりかなぁと、気分は暗澹としてきます。これは生物の進化にも逆行しているんですけどね。

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2019年9月19日 (木)

入試改革(前)

 

 絵画や版画、彫刻などの美術分野だけでなく、小説でも芥川賞が授与された異能多才の芸術家、池田満寿夫(1934~1997年)は、東京藝術大学を3回受験して不合格。断念したといわれます。こういうことを紹介すると「藝大なら5~6浪はあたりまえ」「16浪で合格した人だっている」と、分かったふうなしたり顔で言う人が必ず出てくるからイヤになるんだよな。

 東京藝術大学の関係者は、このエピソードを知って恥ずかしいとは感じなかったのでしょうか。「芸術」という高尚な名称を擁する大学のクセに、後に世界的に評価される芸術家を3度も入口で落としたんですぜ。もしもボクが学長なら「いったいどんな試験をやったんだ?」と入試担当者を問い詰めるでしょう。仮に池田満寿夫が多摩美や武蔵美を併願して入学していたら、歴史に残る超有名な芸術家をみすみす奪われたことになり、彼を不合格にした汚名とあわせて、その広報的&人材的な損失は甚大と言わざるを得ません。
 にもかかわらず、彼の才能を見抜けなかった不明を詫びるようなコメントを、少なくともボクは聞いたことがありません。むしろ逆に「アイツを落としたんだからウチの入試はすごいぞ」と、カゲで自慢している可能性のほうが高いんじゃないかな。ではお訊きしますが、いったい何人の卒業生が池田満寿夫ほどの業績を残しているのでしょうか。

 東京藝術大学は国立ですから、私立と違って文部科学省の直接的な管理下にあります。にしても芸術大学ですからね。国語や世界史など一般教科の点数が創作に及ぼす影響なんて微々たるものであり、ましてや噂されるようにデッサンが流儀に合わないから不合格にしたというなら、それこそ関係者を叱責すべき大失敗だと思うんだけどなぁ。

 もっと分かりやすくいえば、凡庸な学力優等生を100人合格させるかわりに、何千万人に1人の非凡な天才を3度もふるい落とした試験であることを、もっと深刻に受け止めるべきではないでしょうか。

 ところが、このように大学入試を考える人は極めて少ないんですよね。日本だけでなく韓国にしても、入試や各種の試験は難しければ難しいほど価値があり、その合格者も最優秀と信じられています。けれども、一般的な入学試験で問われるのは国立大学で5科目、私立なら3科目以下ですよ。そんな特定分野の学力を、ほぼ同時期一斉に実施されるマークシートのペーパーテストで評価する。単純な選択問題では誰でも高得点となって受験者を差別化できないので、必然的にヒネリや引っかけの多いクイズのような設問になってしまう。つまり、学力の審査というより受験者の順位付け、もっと明け透けに言えば、落とすための出題が入試の本質といっても過言ではないはずです。

 そんな入試に多数の受験者が押しかけるため、人気の高いブランド大学や医学部では1点2点の違いが合否を分けることになります。かくて見かけ上は難関化して選抜機能が働くとしても、合格者が不合格者より全人的に有能とは限らないではありませんか。ちょっとばかり点数を多く取ったからといって、そのこと自体が社会に出てからどれほど有意な違いになるかは体験的に分かりますよね。

 しかも、試験が難関化すればするほど、知識でなく出題に対応した解答テクニックが必要になってくるので、合格率の高い学習塾や予備校は満員御礼となります。つまり、今さら説明不要ですが、私立の幼・小・中・高校も含めて、親の経済力が子供の学力に大きく影響することになるわけです。実際に、東大生の親の6割以上は年収950万円以上というデータがあります。大学入試を近視眼でなく長期的かつ社会的に俯瞰すれば、およそ公正平等とはいえないんじゃないかな。

 衆知のように、2021年1月にはセンター試験に代わって大学入学共通テストが実施されます。文部科学省では、これを高校と大学における新しい教育を推進するための「入試改革」の始まりと位置づけていますが、これが果たして「改革」なのかなぁ。入試改革は欧米でも活発に進められているのですが、落とすためではなく、池田満寿夫のような才能を取りこぼさないことが主眼なんですよね。これこそが多様性の重視ってことではありませんか。

 またまたちょっと長くなったので、この続きは明日ということで。

 

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2019年8月29日 (木)

頑固

 

 頑固、って英語で何と言うか分かりますか。
  不勉強ながら、普通の学校の英語教育で習う単語ではないんじゃないかな。

 昔むかしの大昔にノアって名前の男がいて、突然に大きな箱船を作り始めたというのが、ボクの記憶にある最初の英語のテキストですが、彼が頑固だったという描写はなかったように思います。みんなにバカにされながらも、せっせと巨大な木造船をこしらえたのですから、他人の言うことなんか素直に聞かない人だったと思いますけどね。神様の言うことだけに従ったので、信心深い頑固者ってことでしょうか。

 こういう人を、信心抜きの英語でStubbornと言います。大学の視察で行ったイギリスのウェールズで教えられた英単語ということだけは覚えていますが、どういう理由で誰に聞いたかはとっくに霧の彼方であります。でも、発音が「スタブン」と英語っぽくないので、一度聞いたら忘れられません。現地で試しに使ってみたことがありますが、誰もヘンな顔をしなかったので、特別な表現ではないようです。

 そういえば、イギリス人も何となくルールや礼儀にこだわる頑固一徹な雰囲気のジーサンが多いような気がしますよね。

 頑固といえば、態度や考え方を絶対に改めないという悪い意味で使われるのが普通ですが、ひっくり返せば強い信念を持った人ということでもあります。先のイギリス人にしても、ジェームズ・ワットは何と20年もの歳月をかけて蒸気機関を完成しました。おかげで産業革命が大発展し、ボクたちは内燃機関を利用して高速移動できるようになったのです。学究的には粘り強く研究を貫く人と言えるでしょうが、他人や家族から見たらものすごい頑固者だったかもしれません。他人の言うことをホイホイ聞くような人であれば、20年も蒸気にこだわることはなかったはずです。

 このようにスタブンという英単語ひとつでも、なかなかの深みがあると思わざるを得ません。取り急いで英単語を3つ4つ覚えるより、1つの言葉を多角的に理解したほうが記憶に残るんじゃないかなぁ。

 大学入試における英語は、センター試験で2006年からリスニングを採用。2021年1月から実施予定の大学入学共通テストでは、外部の英語検定を利用した4技能試験が加わることになっています。明治維新以来の「英文を読んで理解する」ことを中心とした英語教育が、ここにきて大きく変わってきたのですが、それをまた画一的な横並びにすることに疑問を感じます。英語4技能試験の導入を強硬に反対する人たちもいますが、ボクはちょっと理由が違うんだよな。

 同じ英語でも、機械的にどんどん学習できる生徒もいれば、英単語をしっかり理解できないと前に進めないという生徒だっているはずです。にもかかわらず「今度からは聞く・話す・書くも、きっちり試験で判定されますからね」とみんなを急かすような横並びの教育にしてしまったら、いよいよ英語嫌いを増やすことになるんじゃないかな。

 子供の成長速度がそれぞれ違うように、学習だって子供の個性や科目によって進捗が異なっても当然ではありませんか。それをペーパーテストで同時期に一斉評価すること自体がおかしいと言いたいんだよな。

 大学の出口である就活も含めて、何かにつけて「同時期一斉一括横並び」を通すことが、日本における最も頑固な側面であると断じたいのであります。こんな制度があるからこそ「落ちこぼれ」という概念が生まれるわけでね。そうした「落ちこぼれ」がこれから世界を変えていくかも知れないと考えれば、ボクは大学入試自体をやめてもいいんじゃないかとすら思っています。どうせ少子化なのですから、入学したい子供はみんな入れてあげればいい。でもって不勉強ならどんどん落第させる。18歳時点での学力が一生永続することを実証した研究がどこにあるんだろうか。

 そんなわけでね、多様性重視と言っている割に制度はちっとも多様化していません。こういう頑固さをスタブンと言うのであるよなと、ボクは憎むのであります。

 

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2019年7月25日 (木)

良い文章は論理的?

 

 つまらんなぁ。近頃のCMやデザインは、あまりにもオシャレ過ぎて、ちっとも面白くないと感じませんか。ビッグデータを解析して、入念なマーケティング戦略を練り上げ、その上で計算され尽くしたビジュアルと、狙いをきっちり絞り込んだコピーを並べる。ビジネスですから当然のこととは言えるのですが、ボクにはどうにもつまらなく感じのです。あまりにも上手過ぎて、むしろあざとく見えませんか。

 ボクも売文業者ですから、カッコ良さはそれなりに意識しています。たとえば語尾を重ねない。である、である、である、だ、だ、だ、では文章に動きがなくなります。同語の重複もうるさくてスムーズに読み通せません。一応の禁忌とそれなりのテクニックはあるんだけど、それを遵守すれば良い文章になるかというと、学校ではハナマルをもらえても、現実は違うんですよね

 たとえば村上龍の文章なんて、点で区切った長文が延々と続いて、丸がなかなか出て来ません。ハードボイルドの文章ともなれば、彼は拳銃を取り出した。間髪を入れずに俺は腕を蹴り上げた。痛みに耐えかねて歪んだ奴の頬に、渾身のストレートを放った。なんて、「た」ばっかりです。語尾の繰り返しもいいところだけど、ブッキラボーなハードボイルドの雰囲気が感じられるではありませんか。タフだけど優しいんだからさ。

 その一方で、ライターが売文業者の規則や流儀に従えば従うほど、文章から個性が失われていきます。ま、普通のライターに個性なんて求められていないので、それはそれでいいとしても、これからはAIに負けるんじゃないかな。アメリカでは5W1Hで構成されたニュースリリースはとっくに機械化されているらしいので、ちょっと高級な禁則処理をかませば、プロのライターも顔負けの文章を作れるようになるでしょう。

 このブログで何度も指摘しましたが、こうした状況は写真が登場した頃の絵画業界とまったく同じなのです。本人そっくりに描写できる器用で上手な肖像画家から失業していきました。やがて生き残ったのは、むしろ不器用にも見える、独自の世界観を表現できる画家たちだったのです。写実だけなら、人間の表現力が写真に勝てるはずないじゃないですか。

 それと同じことが、そろそろ勃発するんじゃないかな。AIでも作成できるような文章やデザインやイラストなどは、AIにやらせたほうが格安で済みます。では、人間はどうしたらいいか。絵画と同じで、独自の世界観を表現した語彙や論理や文脈が必要ということです。

 こうなってくると、学校優等生はいよいよ不要となってきます。「お前の文章なんかより機械のほうが早くて上手だぞ」と言われるのは、そんなに遠いことではないはずです。

 だーからさ、どんなに教育改革をしようが、「横並び」が最も危険なことなんだよと、ボクは警告したいのです。時には武骨でゴツゴツ感たっぷりの文章。あるいはウナギのようにツルツルだけど、独特のぬめり感があるとか、文章だけでも人それぞれに際立ったものがなきゃいけない。けれども、そうした個性を一生懸命に奪って標準化してきたのは教育にほかならないのです。

 しかしながら、共通の試験で学力や能力を評価しようとする今の教育体系では、どんなに改革しようとも、上見て隣見てせーのって感じの横並びにならざるを得ません。試験で好成績を取らないと、上位の学歴を得られないからです。教員自身もそのように成長してきたので、そもそも個性的な才能を見出す感性を身につけていない。もちろん例外もあるはずですが、良識の塊ではあっても創造性に著しく欠けているってことです。

 文章の基本的な構造は「起承転結」ではなく、「序破急」であることくらいは知っていますよね。ボクなんかは職場で「最初の3行が勝負だぞ」とイヤというほど躾けられてきました。結局は、基本的なルールさえ覚えたら、それを創造的に破壊し続けることが機械に負けない唯一の秘訣なのです。けれども、それを正しく理解して、ヘンに見える奇妙な文章を面白がる人は極端に少ない。

 先のことなんてボクにはどうでもいいけど、たまにはデコボコでガタガタ、時には論理が宇宙空間をワープするような文章が書きたい。これまでの枠を破って、空まで火柱が立つほど爆発したいんだよな。にもかかわらず、どこの文章指導でも「良い文章は論理的」ですって? あははははは、ちゃんちゃらおかしいや、そんなもん。

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2019年1月28日 (月)

鈍感力

 

 今では神経質で偏執的な側面すらあると自己分析していますが、子供の頃は実にまったく鈍感、というか愚鈍とすら思われていたんじゃないかなぁ。一人っ子で育ったせいか、口数が少なく、早い話がボーッとした発達不良といっていい。それによる朦朧としたモノクロの思い出がいきなり鮮やかに着色されたのは、小学校4年の春頃でした。給食の時に突然、ボクの作文が校内放送で読み上げられたからです。当時の先生が何を考えていたのか知りませんが、この作文が今に至るボクの原点であり、物事を分析する視点や表現方法に大きな違いはほとんどないと思います。

 

 その一方で、ボーッとしていることも相変わらずだったせいか、父親の転職で名古屋の田舎に引っ越してからは、とりわけ中央志向の強い無理解で無神経な先生から被害を受けるようになった気がします。とはいっても、あんなこともあった、こんなことも言われたと、恨みがましく思い返すようになったのはつい最近なんですけどね。

 

 たとえば小学校高学年の音楽で、ピアノの前で歌う授業があったのですが、伴奏を終えた先生がボクに向けて嘆息気味に呟いたのは、「音痴ね」という無惨な一言。今なら炎上間違いなしの凄絶で差別的な表現であり、そのまま自宅に引きこもっても不思議ではないですよね。おかげさまで、小・中学校で音楽の成績は2以上を貰ったことがありません。中3の頃からギターを弾き始めてようやく和音などの音楽理論が分かりましたが、それでも成績は3が精一杯。けれども、高校では未熟ながらバンドを組んだりコーラスも編曲したことがあるほか、社会に出てからはカラオケにも人並みに通いました。10年ほど前にプロとアマチュアの間には天性の差があることを痛感したので、とっくにやめましたけどね。そのかわりにジャンルを問わずライブハウスに頻繁に行くようになり、このブログの過去ログを見ていただければ分かるように、音楽についての話題は少なくありません。

 

 小学校の段階で先生から「音痴」と言われたら、普通は音楽が大嫌いになり、再起不能な打撃を受けるはずですが、どういうわけだかボクはそんな風には感じなかったのです。宝塚に行くわけじゃあるまいし、進学に音楽なんて関係ねぇやという開き直りもあったかもしれませんが、基本的にはバカで鈍感だったとしか言いようがありません。

 

 それに気づいたのは、『遠き落日』や『失楽園』で知られる作家、渡辺淳一が2010年に発表した『鈍感力』です。ボクは仕事上で強い要請がない限りは、この種の本を購入したことがないので中身は読んでいません。しかしながら、普通は欠点や短所とされる「鈍感」に「力」を加えてポジティブな意味に逆転するというのは、さすが人気作家らしい独創的なワザというべきでしょう。

 

 つまりボクには音感のかわりに「鈍感力」が備わっていたので、ここまで何とか生き延びられたのかもしれません。以前にもご紹介したように、高校まで何度も引っ越しを経験しており、そのたびにイジメまがいの洗礼を受けていたはずなのですが、その実感がまるでないんですよね。のどかで牧歌的な時代だったのか、それともあまりにも能天気なので、イジメても面白くないと対象から外されたのかもしれません。

 

 体育の先生から「お前は走り方を知らんのか」と呆れられたこともあります。夏場は得意の水泳でみんなの見本にされることもしばしばだったので、さすがに「運痴!」という罵声を浴びることはありませんでしたけどね。秋冬の体育の成績は2で、夏の学期だけは5に急上昇。小学校から水泳一筋で、陸上競技や球技には興味も熱意もなかったので、先生の感想は当然といえば当然ではあります。

 

 振り返ってみれば、様々な場面で他人からの中傷や批判や叱責に耐える「鈍感力」が、ボクの成長を見守ってきたといえるんですよね。どんなことにも優れた才能を発揮する文武両道のスーバースターなんて、滅多にいるはずがない。その意味では、誰もが何らかのカタチで心を傷つけられる可能性があります。ボクはたまたま「音痴」でしたが、算数がダメとか、漢字を覚えられないとか、それこそ「教育力」に乏しい先生たちから無慈悲な暴言を受けることもあるはずです。そうしたネガティブな評価に敏感に反応する子供たちが、やがて引きこもるようになったのではないでしょうか。これも以前に指摘したことですが、イジメや自殺なども含めた子供の問題行動の多くは、同級生ではなく、教員自身が主たる要因になっているはずです。

 

 しかしながら、そうした理不尽は学校だけでなく社会にいくらでもあるので、ある程度の「鈍感力」がなければ生き抜いていくことはできないでしょう。ところが、ボクは経年によってその能力が衰えつつあり、かわって神経質な敏感さが浮上してきたのかもしれません。「鈍感」であるためには、精神的な若さや体力も不可欠なんですよね。

 

 というわけで、このブログのテーマである「生き良くする方法」のひとつは、そうした「鈍感力」にほかならないことを発見いたしました。それが、ああ堂々の栄えある1個目の方法ということになるのであります。

 

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2018年12月13日 (木)

「不適切入試」

 いやぁ、失礼しました。ボクが昨日に指摘したことが理由のせいか、テレビや新聞では、いつの間にか不正入試ではなく、カギカッコ付きの「不適切入試」になっていたんですね。

 

 迂闊にもそうしたニュースをスルーしていたボクのミスですけど、変わり身があまりにも早いことに感心します。さきほどネットで調べてみたのですが、「医学部 不正入試」で検索すると740万件のヒットがあったので、最初は不正入試で、それが「不適切入試」に改まったことは間違いありません。

 

 東芝の超大型スキャンダルは逆に、当初は「不適切会計」などと尻込みした表現だったのですが、次第に「不正会計」となり、現在では粉飾会計として定着しているようです。どう考えてもそれ以外の表現はあり得ない違法な決算操作だったのですが、訴訟などの法的リスクを考慮すると、司直によって罪状が明らかにされない限りは「容疑者」ということなんでしょうね。

 

 それはそれで納得するとして、問題なのは、不正入試をどうして「不適切入試」に変えたのかという説明があったのでしょうか。しかも、ご丁寧に「いわゆる」を意味するカギカッコまでつけたのはなぜなのか。このように用語を変えた理由をどこかでしっかりと表明するのが筋じゃないかな。それによって、私立大学と国立大学の違いなどが浮き彫りになったと思うのです。違うのは学費やキャンパスの広さだけじゃないんですよね。それこそがメディアの「説明責任」だと思うのですが、戦争責任すらズルズルに曖昧化してきた国ですから、期待するほうがおかしいのかなぁ。


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2018年12月12日 (水)

入試

 

 こういう「そもそも論」は言ってはいけないと思うんだけど、皆さん注意深く避けているようなので、ボクがちょっとだけ指摘してみます。

 

 医学部の「不正入試」がとうとう10校にのぼったなんてことがテレビや新聞で報道されています。ボクも不愉快ではあるのですが、本来的な論点は「不正」ではないんじゃないかな。というのも、税金を基本的な原資とする国公立大学と違って、私立大学は入学者を自由に選ぶことができるからです。誤解を避けるためにきちんと言い直せば、大学独自の入学基準を規定することができるのです。さもなければ、筆記試験によらない推薦やAO入試などがここまで普及するはずがない。今では国立大学もやっていますけどね。

 

 スポーツ推薦なんか典型的でありまして、たとえば「来年から箱根駅伝で名前を売るぞ」として、いきなり持久走に優れた若者を学費不要の特待生として入学させても、それを禁じる法律はないはずです。ただし、あくまでもアマチュアの世界なので、法外な契約金が飛び交うようになったら別問題。こんなことは誰でも知っていることですよね。

 

 現在では、そうした入学者の受け入れ方針を「アドミッション・ポリシー」としてウェブサイトなどで明示するのが義務になっています。だから「うちの医学部は将来“赤ヒゲ”になり得る男子だけ入学させる」と決めてもおかしくないはずです。だからこそ女子大や女子校、男子校もあるわけでね。

 

 ハーバード大学だって、学業成績だけで選抜しているわけではなく、時々の社会情勢によってマイノリティを意識的に増やすなんてこともやっているはずです。もっとも、アメリカはそもそも日本のような大学独自の学力試験がなく、SATなど統一試験の成績+AO入試のようなスタイルだからこそ融通が利くともいえるんですけどね。

 

 ややこしくなったので本題に戻せば、女子や浪人生の入学ハードルを高くするというのも、恣意的でない限りは、大学の自由裁量のはずです。問題なのは、それを予め表明していなかったということではないでしょうか。女子でも入試成績次第で医師になれると期待して受験したら、実は男子だけ秘かに加点されていた。そんなことが判明したら、誰だってアタマにきますよ。この現代で男女の身体能力差が問われる仕事なんて限られており、女子だけが結婚・出産で社会的な影響を受けるのも不公平だと思います。ましてや浪人のどこがいけないのか。にもかかわらず、どうしても女子や浪人生にハンデを加えたいのであれば、その理由や根拠を天下に向けて大っぴらに説明し、その理念をきっちり通せばいいじゃないですか。そんなことをしたら、炎上や大批判を浴びることは間違いなく、一般受験生も逃げてしまうからこそ隠したはずです。そこのところがね、姑息で卑怯なのであって、厳密な意味での不正とは呼び得ない事柄じゃないかな。

 

 おそらく、ですけど、医療業界そのものが女性医師の永続性について懸念を抱いており、それが言葉として明文化されないカタチで医大入試にまで浸透してきたんじゃないかな。「あ・うん」の呼吸というか、「忖度」というべきか。そうした「大人の内緒話」が、この国を歪めてきたとボクは思います。

 

 そして、点数だけで選抜されるので公正平等される現行の入試制度そのものも、大きな問題を内包しています。というのも、大学入試の最高峰とされる東京大学の学生の世帯年収は、7割以上が750万円以上ですからね(2016年「学生生活実態調査」)。950万円以上に絞っても60%以上。入試の段階でカネ持ち優遇はどこにもないとしても、私立の進学校や学習塾に通わせられる経済力がなければ、東大合格は無理ってことになりませんか。

 

 もちろん年収が450万円以下という世帯も10.9%あるので、経済的に豊かでなければ合格できないとは言い切れません。けれども、ごく一般的には、世帯の所得が子供の学力に大きく影響することは否定できないはずです。

 

 入試の点数は、そうしたモロモロの状況を積み重ねた結果にほかならないので、本人の能力や努力だけで得たものではないでしょう。それでもフェアといえるのかなぁ。このように考えていけば、およそ公正平等な試験なんてあり得ないといったほうが早い。だったら、入試をいくら改革したところで、効果なんてそれほど期待できないはずですから、むしろ出口=卒業率を絞ったほうが現実的だとなりませんか。

 文部科学省でも「学士力」を標榜しているくせに、留年があまりにも多いと問題視したりするんですよね。

 

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2018年9月 4日 (火)

置き勉

 

 文科省が近々に「置き勉」を認める通達を出すとNHKが報道して話題になっています。教室に教科書などを置いて帰宅するという意味ですが、まるで勉強まで学校に置いてくるような印象を与えるので、適切な造語とは思えないですけどね。

 

 国会に提出された「意見書」によれば、学習指導要領の改訂に伴って、小学校3年生の国語・算数・理科・社会の教科書の重さは、40年ほど前に比べて約2倍の2㎏にも達するそうです。それだけでなく、ある研究者の調査では小学校1~3年生のランドセルの重さは平均で7.7㎏。約6㎏とする教科書会社のデータもあるようです。

 

 ボクは昔からランドセルが大嫌いで、登山でもあるまいし、どうしてあんなデカいものを背負って学校に行かなきゃいけないのか納得できませんでした。中学高校の制服が官軍=薩摩の軍服を由来とするように、兵隊さんの背嚢の変形ではないかと睨んでいますけどね。

 

 いずれにしても、そんなに重いものを毎日運搬させるなんて、ほとんど虐待に近いではありませんか。ボクは即座にやめるべきだと思いますが、例によって異論反論もいろいろあるようです。いわく自宅で勉強しなくなるとか、学校の先生の負担が重くなるとか。後者の「先生の負担」は、学校で新しいことをしようとすると必ず出てくる反論ではありますけどね。確かに、いじめっ子が誰かの教科書にいたずら書きすることは考えられなくもありません。だったら、個別に置いておくのでなく、教科別にまとめて箱の中に入れておき、朝それを各自が引っ張り出せばいいじゃないですか。それによって「私の教科書」でなくて「みんなの教科書」になるので、いたずらの可能性もぐっと少なくなると思うんだけど。

 

 自宅での勉強のほうですが、あれこれ無駄な論議を重ねるよりも、いっそのこと同じ教科書を自宅にもう一組揃えれば、完全に解決するじゃないですか。1960年代から義務教育の教科書は無償になっているので、家庭に負担はかかりません。国の関係支出は2倍になるけど、教科書会社も印刷会社も大喜びとなり、それなりの経済効果があるはずです。何よりも、それで子供たちの背中が楽になるんですから、誰も税金を使うことに反対しないと思いますぜ。

 教科書を印刷物からキンドルやiPadなどに電子化してしまうというのも現代的な方法です。これはIT業界が大歓迎するんじゃないかな。

 

 クルマだって「シェア」する時代であり、ITもクラウドなんですから、もはや「所有」というオールドエコノミーの概念から解放されるべきですよね。

 

 それにしても、何十年にもわたって子供にあんな重いモノを背負わせきたこの国って、どう考えてもヘンだと思いませんか。

 

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