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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

教育・学校

2018年6月 4日 (月)

誰に向かって話すのか

 

 ひとつの話題を長く引っ張りたくはないのですが、先週来の日本大学による相次ぐ記者会見が典型的なダメ見本なので、批判だけでなく、こうあるべきじゃないかという提案を最後に付け加えたいと思います。

 

 すでに何が原因で誰に責任があるかは明白になってきましたから、そのあたりは言及しません。何かにつけて後追いとなり、真実味が感じられない自己保身に終始したことも、広報戦術としては最低です。このあたりは組織の風土や体質も大いに影響しているんじゃないかな。何にしても、現下のようなSNS時代には、大切なアナウンスは1分1秒を争います。つまり、情報開示は早ければ早いほど好感につながる。いけないことを隠し通すなんてことは、もはや不可能なのです。安倍さん、読んでいるかな。

 

 こうしたテクニック的な要素もさることながら、世論の大きな流れを決定的に悪い方に変えたのは、内田監督と井上コーチによる記者会見です。「当該選手」の勇気ある記者会見に対応しておかないとヤバイということで、おそらくイヤイヤ登場したと思われますが、ボクは最初の数語から話す相手を間違えていることが分かりました。だから、当該選手の真摯な告白に比べて、何かにつけて嘘っぽい言い訳に感じられてしまう。やたらに「正直」を連呼することも、まるでイタズラをした子供みたいで、とてもじゃないけど大人の指導者とは思えません。

 

 おそらく、あの2人が見ていたのは、会見場に集まった多数の記者や、その背後にズラリと並んだテレビカメラなんでしょうね。そして、その向こうには世論と呼ばれる一般大衆がいる。そうした視聴者に謝罪し、言葉の上だけでも責任を引き受ければ、納得してもらえると甘く見込んだんじゃないかな。

 

 不祥事を引き起こした人たちは、たいてい同じ発想で似たような言い訳を繰り返してきました。セクハラや不倫発覚にしても「世間をお騒がせして申し訳ありません」というのが常套句ですけど、そもそも誰に謝罪すべきか、ということをコロリと忘れていますよね。

 

 今回の悪質タックル事件では、前述したように当該選手が顔出しの実名でいち早く記者会見したことで、世論が180度変わってしまいました。加害者が実は被害者でもあったことが強く印象付けられたのです。ここでは「正直が最大の説得力を持つ」ということを学ぶべきでしょう。

 

 それによって世間が当該選手に同情的となった段階で、監督とコーチがテレビの前に出てくれば、たいていの人は「こいつらがやらせたのか」と敵意を持ちますよね。そうした情緒的な逆風が吹きまくっているのですから、何を言おうと懐疑的な視線を避けることはできません。

 

 さて、こうした厳しい状況に立たされたとしたら、あなたはどんなことを話すでしょうか。自分が「当該」の監督やコーチだったらと、しばらく考えてみてください。

 

 ボクは「正直言って」数分後には答を出していました。それがね、相手を間違えているということなのです。

 

 彼らが第一に謝罪すべきだったのは、視聴者や世論という顔のない人たちではありません。「悪質タックル」をした当該選手ではないでしょうか。たとえば監督が「宮川くん、理由はどうあれ、とにかく意にそまないことをさせてしまったことを心からお詫びします」とか、コーチが「宮川、ゴメンな。お前の悔しい気持ちは誰よりもオレがいちばん分かっていたはずなのに……」なんていう直接的な語りかけで始めれば、世間の印象は随分変わってきたはずです。さらに彼らしか知らないエピソードを差し挟めば、リアリティもますます高まったんじゃないかな。

 

 ところが、最初から逃げ腰だったせいか、彼らには公開の場で呼びかける度胸はさらさらなく、一般的な三人称にすることで共同謀議の主犯である疑いを強めることになったのです。

 

 当たり前のことですが、コミュニケーションには送り手と受け手が必ず存在します。では、いったい誰に向かって語りかけるべきか。テレビ中継される記者会見はちょっと特殊で、「誰に向かって話しかけているように見せるか」という、いささか複雑な構造になりますけどね。それよりも単純ですが、文章=テキストだってまったく同様です。その成否はさておくとして、ボクがモノを書く時は必ず読者を想定します。近所のオジサン・オバサンなのか、センター街を歩く若者たちなのか、会社員なのか学生なのか。逆に書き方によって、特定の階層を惹きつけたりすることもあるはずです。

 

 いずれにしても、同大学の危機管理学部はこのうえない「反面教材」を得たことになるので、広報的な対応などを詳細に分析・研究し、ボクのような提案も含めて早急に発表すべきじゃないかなぁ。それこそがブランドイメージを回復する最高の特効薬になると思うのです。他の学部も他人事と傍観するのでなく、それなりの見解を発表すべきではないでしょうか。なにしろ大学のナンバー2と目される人が辞任するような大事件だったんですからね。

 

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2018年5月31日 (木)

たった1人でも世界を変えられる

 

 捨て身になれば、たった1人でも世界は変えられる。

 

 これが今回のアメフト反則タックル事件でボクが感じたことです。アメリカンフットボールのルールなんて何も知らないので、コトの詳細は評論できませんが、少なくとも20歳の大学3年生が実名と顔出しの記者会見を行ったことで、世論はガラリと変わりました。彼の勇気にはつくづく感服せざるを得ません。そのおかげで責任の所在があぶり出され、クラブや大学の体質なども白日のもとに晒されることになりました。

 

 もしも彼があの記者会見をしなかったらと思うと、背筋がうすら寒くなってきます。個人的なラフプレイとして闇の中に葬られ、スポーツマンシップを捨てた卑怯な行為を強要される選手が何人も続くことになったはずです。それを身体と心を張って立派に食い止めた。ボクも含めて、大人たちは深く恥じ入るべきじゃないかなぁ。

 

 あのクラブの独裁的な支配体質は、おそらく関係者みんなが薄々にしても知っていたはずです。けれども、誰も注意や批判などしないで見過ごしてきた。大学はもちろん、関係団体だけでなく、テレビに出て偉そうなことを言っている評論家やコメンテイターも含めて、すべての大人は彼に対して責任を痛感し、頭を下げるべきだと思うのです。

 

 いずれにしても、戦前から続く精神論的な指導や暴力的な制裁をやめる時期がようやく到来したと感じざるを得ません。そんなもん、戦場で神風が吹くのを期待するほど非論理的で非科学的であり、もっと率直にいえば指導者が無能かつ不勉強極まりないという証拠じゃないですか。

 すでに帝京大学のラグビーや青山学院大学の駅伝では、これまでとは正反対の方法で輝かしい実績を積み重ねています。にもかかわらず、あのアメフト部はパワハラもどきの追い込みで選手の闘争心を鍛えてきたという。それで大学日本一になったというけれども、もともと優秀な選手が全国から集まっていたんですからね。

 

 ボクは旧世代に属するせいか、先輩諸氏からことあるごとに「世界は1人では変わらない」「社会はすぐには変わらない」と言われ続けてきました。生意気で性急だったからかな。それでもライターという仕事を通して、何とか変えたいと小さな努力を続けてきたつもりですが、まさに岩盤のような支配構造はどこにだってあるんですよね。ボクたちの心中にも同じものが存在します。おかげで近年は徒労感がものすごく強くなり、この国はしばらく変わらないと諦めていました。

 

 でもね、若者がたった1人でも社会を変えられるじゃないですか。

 ボクはどうやらジーサンたちによる自己保身のための嘘にコロリと騙されていたようです。これから組織や体制が本当に根本から改善されるかどうかは分かりませんよ。けれども、ボクたちの意識だけは確実に昨日とは違います。我慢できないほどの不合理や理不尽があれば、彼のように前に出て声を上げる人たちが続くんじゃないかな。そのことをオッサンだけでなく、奥の院に隠れて絶対に顔を見せないジーサンたちに知らしめただけでも、大きな功績ではないでしょうか。

 

 重ねて言いますが、1人でも革命は可能です。むしろ1人が勇気を持って始めない限り、誰もついてこないということを彼に教えられたのです。

 

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2018年5月23日 (水)

Do the right thing(続)

 

 この国もまだまだ捨てたもんじゃないと感じたのが、昨日の日大アメフト選手による記者会見です。もはや大勢の意見が決しているようなトピックをあまり取り上げたくはないのですが、前回に「Do the right thing」というテーマで書いた以上は、それに対応しておかないとダメですよね。

 

 まだ20歳の大学生が顔を隠すことなく実名で謝罪し、多数のテレビカメラやメディア関係者の前で、それまでの経緯や事実を嘘偽りなく述べたというのは、掛け値なしにものすごく立派な態度です。しかも、明らかに監督やコーチからの卑劣極まりない圧力で追い込まれた結果にもかかわらず、自分以外の誰のせいにもしていません。

 

 あんなに潔い態度は社会人でもなかなかできないはずです。むしろ社会人だからこそ往生際が悪いともいえるんですけどね。それを正々堂々とこなした経験は、彼の将来にとって貴重な糧になるんじゃないかな。

 

 それに比べて、今に至っても逃げ回っている監督やコーチたちの何と情けなくみすぼらしいことか。自分たちに非がないというなら、書面を通してではなく、あの選手と同じように公開の場に出てこいよ。大学側の対応も完全に腰が引けており、選手=学生を守ろうとする気概がまるで感じられない。もはや彼らを擁護する意見なんて、よほどの利害関係者しかあり得ないので、ボクが敢えて後追いする必要はもうないですよね。

 

 ただ、選手がいみじくも語ったように、やはり個人としては「もっと意思を強く持つこと」が大切だと思います。組織と個人の軋轢による葛藤なんてザラにあることですが、自分の内なる声を裏切れば、一生それに苛まれることになるでしょう。であるなら、最初から自分の意思を強く持って理不尽に抵抗したほうがいい。彼の告白によって、様々に勇気付けられた人が相当数いるのではないでしょうか。

 

 人間なら誰だって間違いはするし、ミスも犯します。ヘタすりゃ法に反することに手を染めることだってありますよね。そんな時には、自分の内なる声に素直に従って、起きたことを真正面から受け止め、被害や迷惑をかけた人にできるだけ早く謝罪するほかありません。やっぱね、どんな時にもDo the right thing。これしかないだろうと、ボクは強く再認識したのであります。

 

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2018年5月22日 (火)

Do the right thing

 

 世間で大騒ぎになっていることはなるべくテーマにしないと決めてきたのですが、日本もアメリカナイズされてきたなぁと呆れざるを得ません。アメリカンフットボールで起きた事件ですから当然ともいえるのですが、日大の監督が指示したとされるルール無視のラフプレーなんて、それこそアメリカの映画やドラマで何度となく描かれているんですよね。

 

 ゲームが終わった後にしても、ミスした選手がチームメイトから凄絶ないじめを受け、悪質な感染症で死んでしまうドラマがありました。それを刑事が調べていくうちに、どうやらコーチが指示したと分かるんですよね。勝利至上主義のアメリカでは、おそらく試合中も観客席から「殺せ」ではないにしても「壊せ」くらいの物騒な掛け声が飛ぶことも珍しくないんじゃないかな。

 

 その反面で、仮にタテマエだけとしてもキリスト教がブレーキになっているせいか、良心との葛藤に悩む選手が必ず登場してきます。チームなんだから監督やコーチの指示に従わなければならない。さもなければ総力を効果的に集約できないので、それに抵抗することは即ちチームみんなへの裏切りになってしまう。けれども、その指示にはどうにも納得できないし、そんなことはしたくない……。

 

 セットが終わって無防備になったクォーターバックの背後から強烈なタックルを行った日大の選手も、そうした葛藤があったはずです。しかしながら、日本には個人の倫理や道徳を支えてくれる宗教が普及しているとはいえません。このことからキリスト教圏の欧米を「罪の文化」として、日本は「恥の文化」ともいわれます。つまり、自分の内側に罪があるのでなく、その外側にある他人の眼や会社など組織の判断や評価が強い影響力を持つということです。いかに理不尽な指示だと思っても、組織内で誹りを受けたり孤立しないために、敢えて間違ったことをしなきゃいけない時もあるでしょう。そんな時の便利な言い訳として「上司が」あるいは「組織としての」みたいな言葉が準備されているのですが、自分を捨て切った歯車のような人材が優秀とされてきたのは20世紀までじゃないかなぁ。

 

 現在の大学教育は、アクティブラーニングが象徴的ですが、講義を黙って聴くのでなく、主体的な思考力や行動力を育成しようとしています。もはや追いかけるべき先進国なんて世界のどこにもないので、日本自身が新しい産業や社会モデルを創っていくほかありません。そのためには、指示待ちの歯車ではなく、自分から問題を発見して解決していく人材が必要なのです。言い換えれば、出力は小さいにしても、1人ひとりがエンジンであることが求められているのではないでしょうか。

 

 そうはいっても、ピラミッド的な組織社会ではまだまだ通用しないこともあるはずです。だからこそ、より生き良い未来を創ろうというなら、学内にそんな理不尽や不条理を持ち込んではいけない。スポーツだって、フェアプレイのサンクチュアリ(聖域)であるべきです。プロになれば、いろいろと大人の事情があって、なかなか理想を追求しにくいですからね。

 

 にもかかわらず、あのような事件が起きてしまった。まだ明らかにはなっていませんが、仮に監督が極悪非道な指示をしたとしたら、選手の側の葛藤にもボクは注目してしまうんですよね。そんな命令に従う前に、彼だけでなくみんなが「監督、そんなのおかしいですよ」と抵抗すればいいのに、どうしてできなかったのでしょうか。社会に出たらなかなかできないことでも、大学スポーツだからこそ、そうした反発があって然るべきじゃないかな。封建社会にだって「逆命利君」という言葉がありました。自ら考えて発言することができなければ、それは奴隷に等しいではありませんか。

 

 だから、どうせアメリカナイズするなら、“Do the right thing”という合言葉も真似しようよ。「正しいことを為せ」という呪文をみんなが心の中で呟くことが、このような悲しい事件を再発させない最も有効な対策だとボクは信じるのであります。

 

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2018年4月24日 (火)

特権階級

 

 ああ、この国もそろそろ特権階級が固定化されてきたんだな、と感じます。セクハラ発言が大騒ぎになっていながら、シレっと退職した高級官僚に5300万円を支払うというのですから、「盗人に追い銭」とはさすがに言いませんが、こりゃもう治外法権の特権階級としか言えないではありませんか。

 

 歴史をざっくり眺めてみると、欧米に比べて日本というのはガラガラポンと社会が大変わりすることが頻繁にあったんですよね。12世紀の終わり頃には、って遠い話だけど、ものすごい内戦を経て武家政権が成立。かと思えば1516世紀になると再び戦国時代に突入。全国各地の領主=守護大名が隣国と争乱を続けてきたわけですな。鎌倉時代に初めて言われた「下克上」という言葉が象徴的ですが、武家政権すなわち軍事政権が支配層である限りは、同じく武力を使用したクーデターによって階級がひっくり返されるのは不可避といっていい。歴史上の人物にしても、出自の怪しい人が少なくないですよね。

 

 要するに、支配層が完全に固定されるなんてことは江戸時代までなかったのであります。もちろん、どんな時代も皇室は温存されてきましたが、政治権力や財力が伴うヨーロッパの貴族階級やアメリカの超富裕層とはちょっと違うのではないでしょうか。

 

 それはともかく、ようやく300年近く続いた江戸時代にしても、19世紀末になれば明治維新でガラガラポン。武士階級がにわかに消滅して世の中が一新されたかと思ったら、20世紀半ばには太平洋戦争に突入ですよ。大敗北を喫して日本国内が瓦礫と化したので、青空のもとでゼロからのスタート。いやまぁ慌ただしい歴史ですが、おかげさまで先祖代々続く貴族や富裕層が存続できる余地がかなり乏しかったわけです。

 

 それから70年以上。自衛隊はイラクなどに派遣されましたが、取りあえず戦争はもちろん内乱だって縁遠い状態が続いてきました。それはそれで歓迎すべきことでも、人間というのは実に興味深い生き物でありまして、社会が落ち着き始めると、自分の地位や階級も落ち着かせようとするんですよね。資本主義というのは、簡単にいえばカネが血族よりも力を持つ社会ですから、早い話が上流階級になりたいならカネを貯めりゃいい。それを断固として阻むのが超累進制の相続税ですけど、それをすり抜ける方法はいろいろあります。

 

 中でも学校がね、ボクは現代の階級制度を支える根本的な土台というか構造になっていると考えているのです。衆知のように、日本の公的な教育支出はOECD諸国の平均を大きく下回っています(GDP比)。にもかかわらず大学進学率がどんどん上昇してきたのは、その教育支出を家計が国にかわって負担しているからです。ということは、家族の経済状況が子供の学歴や学校歴に直結することになるんですよね。

 

 たとえば私立の幼稚園の平均的な学費は年間およそ50万円。有名私学の付属幼稚園ともなれば、卒園までの3年間で合計450万円ほどかかるとされています。入園を許されるかどうかは別にして、こんな大金を小学校入学前の幼児に費やせる家庭は決して多くはないですよね。ところが、今や大企業の社員で「あいつとは某幼稚園の頃から一緒だったんだよ」と話す中高年がいる時代になりました。この「某」とは、言えば分かる超有名で入園倍率もメチャ高い私立大学付属の某幼稚園です。

 ほらね、社会の階級は学校制度を中心としてどんどん固定化されつつあるのです。これは資本主義の権化であるアメリカはより以上で、学費の高騰によって親がカネ持ちでなければ大学も行きにくくなっています。

 

 大昔は血族、ちょっと前なら武力、そして今では経済力が学校という装置を経て階級を固定化していくとまとめたら大雑把過ぎるかな。でもさ、これが隠しようもない現実ではありませんか。ボクなんかはもともとはみ出し者で、子供もいなくて余生も乏しいですからどうだっていいけど、若い人たちはどう考えているのかなぁ。

 

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2018年3月 5日 (月)

2次試験

 

 京都大学といえば、東京大学と並ぶ日本を代表する国立大学なのに、2次の入学試験で昨年に続いて今年も派手な出題ミスがあったようです。受験生は怒り心頭でしょうが、ボクはまったく違う視点からアホちゃうかと。

 いえね、入試の出題ミスなんてことは、発覚しないまでもあちこちで起きていると思うんですよ。答が1つだけでなく、実は2つあったなんてことはボクが若い頃もありましたから。

 どうかしているんじゃないかと感じるのは、2次試験そのもののあり方なのです。センター試験で基礎学力を判定し、その得点に基づいて2段階選抜(いわゆる足切り)もやっているはずなのに、なんでまたもう1回、学力試験を課すのでしょうか。ご丁寧にも受験生は2回もペーパーテストによる学力試験を受けなきゃいけないんですよ。こんなアホなことを毎年やっていれば、そりゃミスも出ますわな。

 センター試験は例年50万人以上が受験しますから、問題作成などでそこそこの人数の専門家がかかわり、出題精度も厳しくチェックされているはずです。一方、京都大学は2段階選抜を経た全受験者は8000人程度ですが、それでも1大学で入試を担当できる人員なんてタカが知れているじゃないですか。人数だけでなく質=能力的にも限られている条件のもとで、レベルは異なるといっても、センター試験と同じ学力試験をどうして繰り返さなきゃいけないのでしょうか。

 これを解決する方法は実に簡単で、2次試験を小論文や面接など人物重視のAOにするとか、ペーパーによる学力試験とは異なる選抜方法にすればいいのです。たとえば「ニールス・ボーアの革新性を現代社会の視点から述べよ」とか「これから大学で勉強したいことは何かを具体的な計画付きで説明してください」とでもすりゃいい。受験者が多すぎて判定・評価に時間がかかるというなら、センター試験直後に新聞などで課題を発表しておく。こんなものにカンニングなんて不可能ですから、2月アタマを締め切りにすれば、1か月ほどをかけて審査できるではありませんか。でもって面接で、その小論文が本当にその受験者が書いたものかどうかをチェックすればいいのです。そいつが本当に書いたかどうかなんて、ちょっとした質問だけで分かりますってば。

 あるいはボール投げや水泳など「現代5種競技」(ボクの造語です)を設定して、距離やタイムなどで選抜する。頭脳も筋肉と同じ身体の一部ですから、体育大学のように、その強さだって入学判定基準にしておかしいことはないはずです。

 再度指摘しますが、学力評価はもうセンター試験でやっているんだから、2次試験は別のことをやれよ、ってことなのです。アメリカにもSATまたはACTという大学入学のための学力試験はありますが、ハーバードやコロンビアといった上位大学でも個別審査は日本でいうところのAOですもんね。もう1回大学で個別の学力試験を一斉にやるなんて聞いたことがありません。

 日本はアメリカが大好きで、何でも言われるままに追従してきたのに、高速道路を無料化するとか地方分権(州制度)にしちゃうといった、ボクたちにとって便利なことはまるで真似しないんだよな。国立大学の2次試験も同じで、学力試験をもう1回やるなら、出題ミスを完全に避けるのは構造的に不可能です。

 にもかかわらず、前述したユニークな個別審査ができない理由は明らかです。国立大学は国が作った大学なので、固有の建学理念はありませんから、それに基づく人物選抜の基準を設定しにくいからなんですよね。たとえば、前述した「現代5種競技」による2次試験は、「健全な肉体に健全な頭脳は宿れかし(宿ったらいいなぁ)」という理念がなければ単なる思いつきです。もっといえば「水泳で金メダルが獲れるような医者を育成する」という分かりやすい目標があって初めて、それに賛同する受験生が集まるということです。これこそ2次試験らしいじゃないですか。

 では、京都大学は何をもってどんな2次試験をやればいいのか。そんなもん、ボクに言わせれば超簡単なことで、要するに「ノーベル賞が獲れる人材を選抜する」ということです。だったら「あなたはどんなことでノーベル賞を目指しますか」を小論文にして、有望なアイデアを出した受験生を入学させればいい。もちろん全員が取れるはずはないにしても、それなりに創造性がある学生に絞ることは可能です。

 こういうことを入学試験でやらなければ、いつまでたっても革新的な創造性を育成することはできないでしょう。日本が「アメリカに追いつけ追い越せ」の時代なら、学力試験で判定可能な「想像性」だけで十分でした。でも今は日本の前を行く国は見当たりません。だったらさ、道なきところに道を拓く創造力が何よりも重要なことじゃないかな。

 学力試験で判定できる知識や公式なんて、もはやスマホでいくらだって調べられるじゃないですか。どうやってもカンニングはできない入学試験をクリエイトするのが、こんにちの大学に求められている創造性だとボクは思うのです。

 

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2018年2月14日 (水)

スタイル(下)

 

 ハイウェイの開通などで一時は盛り上がったものの、それからは寂れるばかりという山間の温泉地がありました。家業の旅館の先行きを深く危惧した24歳の若者は、金槌とノミだけで裏山に洞窟を掘り始め、3年半もの歳月をかけて全長30メートルに及ぶ「洞窟風呂」を完成。たちまち大評判となったそうです。さらに彼は、周囲から雑木などを集めて、野趣に富んだ露天風呂をこしらえました。こちらも、ありきたりの温泉旅館に飽き飽きしていた女性たちの人気を集め、来訪客はどんどん増加。こうなると、それまで彼を奇人変人扱いしていた他の旅館経営者たちも無視できなくなり、態度を一変して師匠として仰ぐようになったそうです。

 

 このように、独創性や創造力というのは、常に異端視・白眼視されるわけで、おそらくですけど、奇人変人扱いどころか、イジメや村八分的な差別だってあったでしょう。それでも昔は情報がいまほど早く流通していなかったので、個人的な信念や頑固を通すことができたように思いますが、現代ではトレンドや大勢から外れたことをやり通すのはますます困難になってきたんじゃないかな。

 

 ボクは、もはやそのあたりの日本的体質に完全に絶望しておりまして、これから期待される「創造力」とは、思考や生き方なども含めた多様な「スタイル」にほかならないと説明しようとしていたのですが、もうやめます。風邪のおかげで思考体力が弱っていることもありますが、何しろ霞ヶ関が一声かけるだけで右向け右に一斉に雪崩をうつような社会ですからね。

 

 こうした体質はボクが生きている間に絶対に変わることはないと思います。ということは、世界で一番になるなんて、とてもじゃないけど無理ですよ。安全地帯でリスクを冒さない2番手主義で1番になれるものならなってみろと言いたい。

 それだけならまだしも、冒頭の例では、自分では何ひとつ考えることなく「師匠」にただぶら下がって教えを請うだけの旅館経営者もいたんじゃないかな。もしもボクなら「それでも経営者かよ」と一蹴したでしょうが、彼はそうではありませんでした。温泉地としての全体的な発展がそれぞれの旅館の繁盛につながることから、その後も様々なアイデアを提供したのです。

 

 阿蘇山麓の黒川温泉を全国的に有名にした彼、後藤哲也さんが、今年1月22日に亡くなられました。2003年には国土交通省の「観光カリスマ100選」に選ばれたそうですが、何だろうね、それって。思考力が欠如したぶら下がり族を増やすだけじゃないかなぁ。そんなことより、新しいチャレンジの足を引っ張ることのないような教育をすべきだろうとボクは思いますが。ともかく合掌させていただきます。

 

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2018年2月13日 (火)

スタイル(中)

 

 3連休は、もしかしてインフルエンザかなぁという症状に悩まされました。ボクは滅多に熱を出したことはないのですが、37度台が続いて、なかなか下回りません。いつもは35~36度なので、これはボクにとって微熱とは言いがたいのです。だるくて熱っぽいというだけでなく、咳もひどくなり、やがて喉に痛みも。そのうちに、寝返りをうつと肋骨のあたりに痛みが走るようになりました。

 

 仮にインフルエンザではないにしても、重篤な風邪症状に変わりないので、ずっと寝たきりです。そもそも悪寒があって、ベッドを抜け出す気にもなりませんでしたから。昨日深夜あたりからようやく36度台に回復。何とか復帰できそうですが、その後遺症というべきか、アタマがうまく回らないので、複雑なことが書けません。

 

 そこで前回のブログを読み返してみると、どうやら「創造力」の重要性は理解され始めているにもかかわらず、実際の社会生活では、それが必然的に生み出す「多様性」を許容する段階には至っていない、ということを言いたかったらしい。

 

 実際に、見るともなく見ていたテレビでは、どの局も冬季オリンピックばっかりで、そのほかに報道に値するニュースはありませんといわんばかりの洪水状態ですもんね。「メダルラッシュ」といわれた昨日夜あたりからさらにエスカレート。スピードスケートやジャンプの同じ映像を何度見せられたことか。仕方がないので、いつものように衛星放送に戻りましたが、この圧倒的で、風邪で弱っているボクには暴力的とすら感じられる画一的な報道姿勢は何とかならないものでしょうか。しかも「列島感動!」とかなんとか押しつけがましい過剰な称賛がくっついてくるので、ますます辟易とさせられるわけです。

 

 おそらく視聴率が理由でしょうけど、だったらもうちょっと違う姿勢や視点から報道すべきじゃないかな。ここらにボクたちの「横並び体質」が炸裂しているとしか思えないんですよね。こんなことを言うと「オリンピックを応援して何が悪い」と叱られそうですが、それがいけないというのではなく、どの局も同じような報道を繰り返して飽きないということが、どうもね。そんな社会環境の中で、果たして「創造力」は育つのでしょうか。

 

 民主主義に言論の自由が不可欠なように、創造力は多様性と不可分のセットになっていると思います。普通の人が考えもしないことを発想する人は、しばしば「変わり者」あるいは「異端者」扱いされますからね。そうした同調圧力の強い環境のもとで、創造力が発達するはずがない。だから、もしも文科省が子供たちの教育に本気で「創造力」を導入しようとするなら、むしろ親の側、すなわち会社や社会がもっと多様性を認めるように変えるべきでしょう。しかしながら、こんなことは政府や行政がいくら音頭を取っても簡単に変わるはずがありません。

 

 ということを、どうやら前回は言いたかったらしい。ならば、「スタイル」というタイトルはどんな意味なのでしょうか。どうやら、これを「多様性」と同義で考えていたフシがあるので、思考力が回復すると思われる明日に続けたいと思います。

 

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2018年2月 9日 (金)

スタイル(前)

 

 以前もご紹介したと思いますが、ボクは何をやっても最初のデキが一番良くて、それからどんどんパフォーマンスが落ちていきます。たとえば、スーパーマリオなんかのゲームが典型的で、1回目は相当な難関もヒョイヒョイとクリアできたのに、2回目、3回目は簡単なところで失敗するなんてことが結構あるんですよね。

 

 逆に、何度も繰り返すことで技能や成績が次第にアップしていく人もいるでしょう。むしろ、ボクのような「初速全開」タイプよりも、後者のほうが圧倒的に多いんじゃないかな。「練習」とか「熟練」という言葉があることから分かるように、そうでなきゃいかんとボクも思います。早い話がウサギとカメですな。

 

 自分がウサギとは思いませんが、その理由というか原因は明らかで、要するに性格的に飽きっぽいのです。特段の才能がないにもかかわらず、すぐに飽きてしまう。メンタルと身体行動は抜きがたく結びついているので、モチベーションが下がればパフォーマンスがアップするはずがありません。でも、そのかわりにね、新しいことやアクシデントへの対応能力は自分ながらあるんじゃないかと。実例を挙げると自慢話になるので紹介は控えますが、「いつもと違うこと」に興奮しやすいんですよね。

 

 そんなわけで、文章についても、何かをテーマに何かを書けと指示されると、たいていの人は前例を探します。ボクもまったく同じですが、問題はそれからなのです。「あ、こういうふうに書けばいいのね」と納得して従う人と、「こういうふうに書けばいいのか。でも、同じことをしても目立たないよな」と感じる人の2種類に分かれていくのです。

 

 飽きっぽいボクはもちろん後者に属しますが、その試みが新しければ新しいほどハイリスクとなり、場合によっては結果が100点か0点ということになりかねません。ところが「こういうふうに書くのね」と納得するタイプは、平均レベルを極端に下回ることはないでしょう。というより、優等生の皆さんは間違いなく80点以上を取るんじゃないかな。だってさ、もともとアタマのいい人たちなので、評価される勘所をすぐに見破ることができるからです。

 

 しかしながら、これは明治以降の「欧米の文明国に追いつけ追い越せ」の時代は大変に効果的であっても、追いついてしまった後は「こういうふうに」というモデルが目の前から消滅してしまいます。となれば、何でもかんでも前例のないところから作り上げていかなきゃいけない。

 

 ボクは、目下のところ文部科学省などが一生懸命進めている教育改革の本質は、そこにあるはずだと推定しています。簡単に言ってしまえば、「想像」重視から「創造」への大転換ではないかと。ペーパーテストで問われるのは、出題者の思惑を見抜く能力です。学習塾でも「この問題はこれに関する学力が問われているんだよ」と解説しますよね。つまり、出題者の意図や仕掛けを推し量る「想像力」が、求められる学力の本質だったのではないでしょうか。その究極ともいえるのが「忖度」ですから、学校優等生出身の「官僚」がそれに長けているのは当然です。

 

 ところが、学校から社会に出てしまえば、そうしたテストを出題してくれる人はいません。けれども、戦前並びに戦後の日本社会は、常に欧米から問題用紙が配られていたといっていい。問題用紙が目の前にあるなら、それに的確に解答すればいいのですが、問題用紙が配布されなくなったら、今度は自分たちで問題を見つけていくほかないじゃないですか。

 

 この時に必要なのは「想像力」でなく、「創造力」ではないかと。実際に、高大接続改革などのややこしい資料を読み込んでいくと、そんな雰囲気を強く感じるのです。ということは、これって文明開化した明治の頃からの教育の大転換といっても過言ではないですよね。ただし、その崇高な改革理念に社会環境が追いついているとは言いがたいのです。

 何だか話が急カーブするだけでなく大きく膨張してきたので、何が言いたいかは来週の休み明けに続けます。

 

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2017年11月28日 (火)

優等生

 

 学校というのは過去のことしか教えてくれません。とはいっても、未来のことを教えてくれるところなんて世界のどこにもないですけどね。

 

 そんな学校で教えている先生たちは、いわば過去の専門家であって、そこで実施される試験で成績上位の優等生にしても、過去の知識やノウハウやスキルに精通していることが証明されただけに過ぎません。つまり、成績が優秀だからといって、今日そして明日も通用するとは限らないのです。

 

 誤解して欲しくないのですが、ボクは過去なんか無視していいとはいっていません。知識のみならず戦略や戦術などの分析も知らないより知っていたほうがよほど有利なことは事実です。しかしながら、そうして学んだ過去を現在から明日に向けて「応用」していくには、テストではどうしても見破ることができない別の能力が必要不可欠なんですよね。ここのところがどうして分からないのかなぁと、ボクは昔から歯がみしてきました。

 

 そんなことを近年になって思い返したのは、親子喧嘩で知られる某家具メーカーの娘さんです。入試偏差値の高い国立大学を卒業して都市銀行に総合職で入社しており、成績は相当に優秀だったと考えられます。けれども、その後の「お家騒動」を経て父親から経営権を奪い取った後の戦略が、どう考えても過去のものとしか思えないのです。

 だってさ、今さらイケアやニトリの低価格路線と勝負しても勝ち目はないじゃないですか。わざわざ古参の強敵が支配するレッドオーシャンに船出するというのであれば、確かな勝算なり圧倒的な資本力、あるいはオリジナリティがなきゃダメでしょう。ボクは最初から、この女性社長は創造性に欠けていると判断してきましたが、やることなすことが案の定でありまして、むしろパパのほうがよっぽどクリエイティブなんですよね。

 

 もしも彼女がビジネススクールを修了したMBAホルダーでも同じことで、過去の事例をテーマにしたケーススタディにいくら知悉していようが、そうしたフレームワークが明日も有効とは限りません。会計だって同じことで、知らないより知っていたほうがいいに決まっていますが、だからといって経理部長が社長に向いているとはいえないですよね。もちろん向いた人もいるでしょうが、過去の数字をいくらいじっても、明日の売上げと利益が向上しなければ、経営がうまくいったとはいえないじゃないですか。そのためには、どんな産業・職種だろうが、お客さん=仕事が増えることが第一の条件となります。

 

 つまるところ経営とは、ドラッカーが言ったように「顧客創造」に尽きるわけです。もっと端的にいえば、経営というのは過去の継承ではなくて、明日を創造することなんですよね。継承するだけなら、社長室に招き猫を置いておけば十分です。過去というのは、そうした創造性を発揮するための踏み台もしくは参考資料に過ぎない。こうした視点が欠けた学校優等生ほど仕事が定型化・類型化していくので、時流の変化を乗り切れない凡庸な社長になるということなのです。

 

 にもかかわらず、日本の企業組織は「出る杭は打たれる」という体質を濃厚に持っています。これも学校の延長でありまして、過去にとらわれない常識外れなクリエイターを嫌うんだよなぁ。

 そろそろ教育における「想像性」と「創造性」をきちんと分けて評価したほうがいい。ちなみに前者を社会的に延長したものが「忖度」でありまして、これがまた相当に厄介な日本社会の宿痾になっているとボクは思うのです。

 

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