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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

教育・学校

2020年9月30日 (水)

満点主義の減速

 

 およそ試験と名が付くもののほとんどは、点数によって評価されます。小論文でも「よくできました」なんていう曖昧な評価はなく、細分化された各項目で点数が与えられますよね。 

 試験だけでなく、時には身体の痛みすら「10を満点とするといくつくらい?」などと医師から訊かれることもあります。痛みに点数なんか付けられないと素人は思うのですが、それによって診断が変わってくることもあるらしい。 

 いずれにしても、こうした点数評価に慣れてくると、優秀な人ほど最上位の満点を目指すようになります。ボクみたいな凡人は死んでも無理ですが、彼らは子供の頃から好成績が当たり前で、勉強には途方もない自信を持っていますから、どんなことでも満点を取ろうと、より一層の努力をするわけです。 

 学校を卒業して社会に出てからも、この満点を目指す人は案外いるんですよね。仮に満点を100点とすると、95点ではどうにも満足できないわけです。獲得した点数よりも、取り損なった5点のほうが不愉快で仕方がない。70〜80点なら「よくできました」というハナマル感覚で納得できても、90点台ともなれば100点は目前ですから、余計に欲求不満に陥ってしまう。

 このため、部下や関係者を叱咤激励するのですが、やはり満点は取れません。
 こうした満点主義者はおしなべて高学歴であり、学校の試験でも満点ばかりだったはずなので、周囲の人たちに責任があると考えがちです。それでマネジメントの手法やら、仕事の手順などを必死でチェックする。もちろん自分自身も徹夜を辞さず一生懸命に努力しますよね。ところが、残念ながら満点は取ることができません。 

 その理由はまったく簡単でありまして、社会には学校の試験のように点数で厳密に評価できる仕事なんてほとんどないのです。もしあったとしても便宜上の数字であって、学校での点数とは意味がかなり違います。仮に「おめでとう満点です」と言われたにしても、それで満足したら終わりですよね。常に次の課題や改善点を見つけることがプロフェッショナルの本質とすれば、満点はやはり陽炎のごとく先へ先へと遠ざかっていくものなのです。

 さらに、現代の仕事は自分1人で完結することはできません。運動会のリレーのように、あるいは組み体操のように、他者と密接にかかわっています。当然のことながら、自分が追い求める満点と、他者の持つ世界観とは必ずしも一致しません。そんなこんなで焦燥が募り、神経を病むことだってあり得るでしょうね。

 実はボクもそんな1人でした。けれども、どんなに頑張っても誤植やミスを完全に一掃することができなかったんですよね。文章構成や表現だって、もっと良くすることができるじゃないかと後悔ばかりが残りました。そんな徒労を繰り返すうちに、果たして仕事に満点なんてあるのかと強い疑問を持つようになったのです。やがて、そもそも満点は仮想の存在であって、追いかけるべきものではあっても、たどり着くことが許される終着点ではないと気づいたのです。ごく簡単にいえば、永遠の目標ってことですよね。

 そのように認識することで、他者にイライラしたり、怒りを感じることが激減しました。人間は完璧ではなく間違いを常に繰り返す。それに基づく改善こそが満点に至るための唯一のプロセスですから、100点満点で90点なら良しとしよう。いや80点なら上等じゃないか、と。 

 もちろん今でも満点主義がぶり返すことがあるので、こんな文章を書き付けているのですが、世の中は自分1人だけで回っているわけではありません。諦めることなく、粘り強く挑戦する目標として、満点を追究し続けるつもりです。でも、満点でなきゃダメという絶対主義は大幅に減速しました。決して失速ではないので、誤解のないように。

 

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2020年9月24日 (木)

母性本能?

 

 こんなことを書くと叱られそうだけど、ボクはかねてから母性本能なるものは本当に実在するのかと訝しんできました。というのも、お母さんが子供をひどくぞんざいに扱うところを結構見かけるんですよね。 

 ついさっきも、エレベータの中で女児が「漏れちゃうよ」と身体を捻っていると、「もうすぐだから我慢しなさい!」と厳しく一喝。扉が開いた途端に、泣き出しそうにぐずる子供の腕を引きずるように連れ去っていきました。いえね、それがいけないなんて批判するつもりは全然ありません。子育てがある種の戦いに近いことは、ボクだって分かりますよ。未発達な子供をどのよう指導し、時にワガママを言いたがる子供をどう制御したらいいのか。誰もいない孤島で生活しているわけではないので、周囲に迷惑をかけてもいけない。そんな葛藤が毎日続くと思えば、目眩がしそうになるのは当然です。やがて自分を責めるあまりにウツに陥ったり、逆に虐待に発展することもあるでしょう。ボクなんかは生意気盛りで口が達者なガキには、どんなに可愛くても憎悪を感じます。 

 動物だって自分の子を殺したり、食べてしまうこともあるそうです。だから子育て=母性本能と決めつけていいのかなぁと疑問に思うわけですね。天賦の本能というより、ジェンダーと同じように社会が規定した性差、つまり役割の一種のような気がします。ひょっとしたら、社会がこしらえた都合の良いファンタジー、あるいは押しつけと表現すべきなのかもしれない。 

 「正直言うとさ、アタシ子供なんて大嫌い。子育てなんて絶対にしたくない」という女性がいても、ボクは少しも不思議に感じません。その一方で、マザー・テレサやナイチンゲールみたいな無私の愛情を備えた女性がいるのも確かですよね。でも、それは本能というより知性に基づく感性ではないでしょうか。 

 ボクは女性がおしなべて優しいなんて思ったことは一度もなく、身内=恋人や親戚など近しい人にだけ深い思いやりを発揮すると信じてきました。それ以外の人たちには冷淡といっても過言ではないでしょう。

 しばしば言われるように、やはり人間は本能が壊れた生き物と認識するべきじゃないかな。それでも、いやだからこそ、他者を愛し慈しむ。とりわけ赤ん坊は、人類がまだ生存を続けていいよという神託とも言われます。いずれにしても、たいていの人は赤ん坊を可愛いと感じますよね。その感情を子育てしながら持続していくためには、社会的な支援が不可欠ということになります。幼児保育から初等・中等・高等へと教育が体系的に整備されているのも、母性本能をアテにできないという歴史的な経験から生まれたんじゃないかな。

 実際に、ボクの親父は母親とかなりの年齢差があったせいか、ほぼシングルマザー状態というより、いわゆるカギっ子として一人で過ごす時間が少なくありませんでした。それでもちゃんと成長できたのは、母親の愛情はもちろん、保育園や学校のおかげといっていい。つまり、子育ては社会の責務でもあるということです。だったら潤沢な国家予算をそちらに振り向けて当然なのに、日本の政治はそうしなかった。だからこそ少子化に行き着いたというのは、あまりにも論理が飛躍していますかねぇ。 

 明日は早朝から関西方面に出張なので、例によってブログはお休みとなります。新型コロナ最盛期はオンライン取材ばかりでしたが、近頃は遠方出張も目立つようになってきました。経済活動が本格的に立ち上がりつつあるってことですね。ブログは来週月曜から再開予定です。

  

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2020年9月10日 (木)

弱い者イジメ

 

 たとえば真っ黒な大型高級車で、後席すべての窓も黒いフィルム張り。イカにもタコにも反社会勢力を思わせるクルマに、あおり運転を仕掛ける奴がいるでしょうか。自分の前を遮ったとして追い抜き、急ブレーキを踏んで停車したら、逆に黒い服を着込んだ連中が降りてきて、袋叩きにされかねません。暴対法があるので、まさかカタギ相手の無駄な喧嘩はしないにしても、雰囲気だけでも怖いじゃないですか。

 というわけで、あおり運転にどんな理屈があろうがなかろうが、その本質は、弱い者イジメなんですよね。屈強なドライバーが乗っていそうな四輪駆動のSUVが被害を受けたなんてことはほとんどなく、法を遵守する健全な市民が愛用しそうなファミリーワゴンや小型車、軽自動車が狙われてきたんじゃないかな。こういう卑怯な連中は、バックミラーで運転者を必ずチェックしているはずなので、太い二の腕をさらけ出したランニングシャツ姿などを目視したら、ターゲットを変えるに決まっています。運転席の窓をバンバン叩いて「出てこいよ」とやるのも、出てこないと見越しているからでありまして、もしも即座に「やるのかこらぁ」と言いながら威勢良くドアを開けたら、途端に逃げていくのではないでしょうか。弱い奴にはとことん強く振る舞い、強そうな奴には決して近づかないのが、彼らの習性なのです。

  だったら、ドライブレコーダーも結構ですけど、前述したように窓を黒いフィルム貼りにするとか、ド派手な“イタ車”にするほうが抑止効果をもたらすような気がします。ドライバーも空手道場に通うとかね。

  ここまでは半分くらい冗談ですけど、要するにイジメが学校から社会にどんどん浸潤、あるいは発展しているというのがボクの見立てなのです。教室などでイジメを見慣れた子供たちが成長して社会人になると、今度は体力や腕力ではなく、自分より弱い役割や立場にある人を見つけていたぶるようになるんだよな。セクハラもパワハラも、下請け企業に対する優越的立場の濫用も、みんな同根です。マスクを拒否して飛行機を緊急着陸させたクソ野郎も、客と乗務員という立場の格差を十分に理解しているからやったんですよね。警察署でも同じことをやってみろよとボクはオススメしたい。

 こんな卑怯で姑息なことが社会でまかり通るのも、学校段階でイジメをきちんと撲滅できていないことが原因だとボクは睨んでいます。太平洋戦争以前から継承されてきた、人権を平気で無視する日本の組織構造も大いに関与しているでしょうね。何しろ自殺攻撃を軍による上意下達の指示で遂行した国ですぜ。「臭い匂いは元から絶たなきゃダメ」なんていうテレビCMがありましたが、まさにその通り。何たらハラスメントで女性が死んだから新しい法律、あおり運転で家族が事故死したから道交法の改正なんてことを繰り返したところで、やらないよりはマシとしても、結局はモグラ叩きに過ぎないんじゃないかな。

  イジメを根本的になくすためには、やはり学校における倫理・道徳ならびに規範教育を強化するほかないと思います。それがうまくできないのは、教室では教員自身が誰よりも強者=支配者になれるからです。そうした強者と弱者という立場を生み出す構造から変えていく必要があるのに、それが正しく理解されていない。けれども、校門の向こうに世間の声は届きにくいんですよね。

 

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2020年9月 3日 (木)

仰げば尊し

 

仰げば尊し 我が師の恩
教えの庭にも はや幾とせ
思えば いと疾し この年月
今こそ わかれめ いざさらば

 

 かつては卒業式で斉唱する定番の歌であり、悔しいことにボクなんかは一番を完全に覚えています。ところが、1990年代に激減。この歌にかえて、武田鉄矢の『贈る言葉』や森山直太朗の『さくら』などを選ぶ学校が増えてきたらしい。そりゃそうですよ。こんな臆面もない自画自賛の歌を、こともあろうに教え子に強制していたんですぜ。教員というのはどこまで無神経で傲慢なんだろうと思わざるを得ません。 

 ボクは高校の先生にはひとかたならぬ迷惑をかけ、お世話をしていただきました。しかしながら、それに対する個人的な感謝と、こんな歌を制度あるいは義務として歌わせることはまったく別物ですよ。高校生が卒業式の最後に、当の先生たちを面前にして「仰げば尊し、我が師の恩」と歌う。普通の神経を持つ人なら恥ずかしくて顔から火、じゃなくて炎が吹き出してもおかしくないのに、先生自身が「うんうん」と涙を浮かべてハンカチを目頭に押し当てたりする。これほどものすごい虚構あるいは茶番はほかにちょっと見当たらないだろうと、ボクは卒業以来ずっと思い続けてきました。 

 しかもですよ。歌詞の2番では、以下のフレーズが加わるのです。 

身を立て 名をあげ やよ励めよ 

 あくまでも超好意的に解釈すれば、出世して有名になっても、なお励むことを忘れるなよ、という意味ですが、エリートたちによる立身出世主義の匂いが濃厚に漂ってきます。エラくなることより、有名になることより大切なことは、いくらだってあるじゃないですか。1961年には『名もなく貧しく美しく』という映画が公開されているにもかかわらず、それと真っ向から対立する世界観なんですよね。 

 教員は子供たちと家庭環境に関する個人情報や秘密をすべて掌握しているだけでなく、成績評価という圧倒的な権力も有しています。だからこそ教員はもっと謙虚になれという、まさに「反面教師」としての意味で歌い継いでいくというのであれば、ボクは否定しませんけどね。 

 さて、明日は久々に大阪に出張となります。今年の2月末以来ですから、ほぼ半年ぶりかな。時節柄いろいろと心配がないわけではありませんけど、仕事があるだけでもありがたいじゃないですか。早朝の出発なので、ブログは休止。翌月曜日から再開いたします。

 

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2020年9月 2日 (水)

入試改革

 

 以前も指摘したように、来年の大学入試は受験生における格差がますます拡大するとボクは見ています。自粛期間中に朝から晩までオンラインで受験勉強をした私立高校生と、机の上に教科書を置きつつもゲームばっかりやって2〜3か月を過ごした公立高校生が同じ学力になるはずがない。公立でも名だたる進学校は別ですけどね。 

 そうした学習の遅れを取り戻すために、小・中・高校生は夏休み返上で頑張ってきたと思いますが、これは全国津々浦々の学校に共通した措置なので、今年前半に生まれた高校生間の学力格差が埋まるとはとても思えません。もとより大学入試なんて、東大生の親の4割が年収900万円以上という事実が示すように、とてもじゃないけど公明正大&平等公平なものではないのです。 

 資本主義のもとでは仕方ないとしても、今回のコロナ禍を好機として、ボクは画期的な入試改革を提案したい。端的に言えば、大学入試を完全撤廃して、進学希望者全員を希望の大学に入学させるということです。空前絶後、実現不可能な大馬鹿野郎の妄想と笑うのも結構ですが、まずは聞いてくださいよ。 

 そんなことをしたら、一生懸命に勉強してきた生徒と遊び回ってきた生徒を同じように扱うことになり、むしろ不公平・悪平等ではないかと誰だって思いますよね。はい、ボクもそう思います。だからね、入学させるといっても、いきなり正規学生として認めるわけではありません。正社員になる前段階として「試用期間」を設ける会社は少なくないですよね。それと同じく「試用学生」として登録していただく。で、3か月または1セメスターを過ごして、それなりの成績を取れなければ、どんどんキックアウト、つまり退学させるわけです。 もちろん授業料はいただくので、大学に損はないと思うんだけどな。

 そんな手間をかける余裕も施設も今の大学にはないという反論もあるはずです。だったらオンラインを利用しましょうよ。これなら教室は不要となり、多数の教員を揃える必要もありません。大教室での授業と同じで、講義とレポート、試験を繰り返せば、みんなの学力くらい分かってきますよ。そもそも学ぶ意欲のない連中も少なくないはずですから、この期間にほとんど淘汰されていくんじゃないかな。 

 それにしても東大や京大、有名私立など人気大学に希望者が集中するというなら、高校時代の平均点数といった選抜要件を加えておけばいい。特技や一芸、得意分野を持つ生徒やボランティア活動なんかも考慮したいですよね。何のことはない、早い話がAO入試の諸要件を「試用学生」になるためのハードルにすればいいってことです。 

 これなら家計による教育格差をかなり解消できるだけでなく、これまでの大学入試が取りこぼしてきた創造性に優れた受験生を幅広く掬い取れるのではないかと思うのです。学校の試験はあくまで「想像力」の勝負であって、決して「創造力」ではありません。学習塾などで勉強に精通してきた学校優等生は、問題作成者の意図を的確に推し量り、それまでの勉強範囲とつきあわせて正解を導きますよね。だから「想像力」なのですが、その思考方法に慣れれば慣れるほど、既存の枠を打ち破る自由で革新的な発想ができなくなるのです。 

 そんな人材ばかりが社会の中枢に集まったら、まともな改革ができるはずがない。行政も企業も、仕事の本質は「創造性」であって、それが欠落していれば衰退していくばかりじゃないですか。にもかかわらず、日本の国家的な教育は西欧のキャッチアップ、即ち物真似からスタートしたために、創造力やオリジナリティの養成という視点を持つことができなかった。新型コロナに対する無為無策ぶりが典型的ですよね。マスクが足りなかったのも、PCR検査の普及が遅れたのも、周囲の様子を見ながら責任を回避する臆病な意思決定と現場指揮だったからです。

 自民党の派閥政治も、テレビや新聞による政局報道も、結局は想像力の産物であって、創造力とはおよそかけ離れています。だから政策がきちんと評価・判断されない。どんな人ではなく、何をしてくれるかで首相を選ぶべきではありませんか。もうこんなつまらないムラ社会はやめようよ。そして、学力の基準を創造力に完全シフトする。それこそが教育改革のカナメにならなきゃいけないのに、官僚は学校優等生ばかりですから、誰も創造力の重要性に気づいていないのです。グローバル化やAI社会といった表層の言葉ばかりを改革ロードマップに載せたところで、肝腎なことは何ひとつ変わらないということに、そろそろ気づけよ。

 

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2020年7月21日 (火)

合理的にやろうよ(後)

 

 大昔に、たまたま同じ会社の広告部のエライ人と飲む機会があり、彼が「営業は足で稼ぐもんだ」と豪語したので、「企画と成果じゃないんですか?」と混ぜっ返して激怒されたことがあります。冗談半分、どころか9割が本気でした。長居する会社じゃないと割り切っていたので、どう思われても構わないと覚悟していましたが、ボクが退職するまで「くそ生意気な若僧」と目を付けられていたかもしれません。

 それが今では「オンライン営業」ですからね。けれども、そのエライ人が「ゴメン。お前が正しかった」と詫びに来るはずがない。テクノロジーの端境期には、こうした守旧派と改革派(ともボクは思っていませんでしたが)の軋轢はむしろ普通であって、さらにさかのぼった大昔には「電話で原稿依頼なんて失礼だ」と怒り出す作家がいたそうです。つまり、実際に足を運んで訪ねるか、肉筆で手紙を書けということです。

 前述のエライ人にしても、とにかく最初はむやみに体力や労力をかけることが「尊重」「尊敬」を意味していたんですよね。文明の利器は、便利だからこそ礼儀知らずとなるのです。やがて電子メールが全盛になってくると、電話どころかファクスの使用頻度も激減。ボク自身ですら、顔も声も知らない人から電子メールで原稿を依頼され、掲載誌が送られてきたかと思えば、銀行に料金が振り込まれるというケースもありました。

 しかしながら、リアルな対面を重視する精神性は21世紀になってしばらくしても変わることはありませんでした。そうした日本独特のメンタリティが、昨日も述べたように、新型コロナ禍によってガラリと変わってきたのです。接触すれば感染可能性が高くなるのですから、ともかく遠隔のオンラインにするほかない。学校の対面授業にしても、席を間引きしてきちんと社会的距離を取っておかなければ、たちまちクラスター発生です。だからといって教室を広げるのは簡単なことではありません。新型コロナが沈静化しても、以前のような密度に戻すわけにはいかないので、対面とオンラインの交代制というかハイブリッドになるでしょうね。

 それでいいんじゃないかなぁ。守旧派と改革派の対立はイヤというほど実体験してきたので、今さらエピソードを連ねる気はありません。ただひとつ言いたいのは、子供や生徒、学生たちをファーストと考えるなら、通学だ、いやオンラインが、と画一的に考えるのでなく、彼ら自身が授業方法を選べるようにしたほうがいいんじゃないかな。初等教育なら体力や性格や生活環境、そして学習進度などに合わせて、オンラインと集合教育を複合的なメニューとして組み合わせていく。中等から高等になれば、生徒や学生自身がアラカルト的に科目と授業方法を選べるとかね。後者は実際にやっている大学があります。

 いずれにしても、これまでの教育は教員、いや文部科学省かな、あるいは学習指導要領かもしれないけど、そうした上からの都合を優先し過ぎていないかとボクなんかは体験的に思うわけです。教員とは長い時間にわたって学校でお付き合いして貰ったことは事実であり、感謝しておりますが、それが果たして学習成果に結びついたのかなぁ。ボク自身はすごく不自由で息苦しかったという記憶が残っています。

 そのせいか、高校1年の時に勝手に自主休校したことがあります。朝からフラリと長距離電車に乗って、中央線の奥まで行きました。この時の解放感は今でも忘れられません。それで勉学が遅れたかというと、そんなこともないんですよね。現実には1日や2日くらいどおってことはないのです。

 いずれにしても、もっと合理的にやろうよ。そして、もっと自由に生きようよ。無理な頑張りが過度に評価される時代も終わりにしようじゃないですか。さもなきゃ、こんな酷い災厄を経験した意味がない。新しいノーマルは、以前に比べてアブノーマルであるべきです。絶対に後戻りしてはいけないとボクは思います。

 

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2020年7月20日 (月)

合理的にやろうよ(前)


 どうして毎日毎日、学校に行かなきゃいけないんだろうと、小学校の頃から不思議に思っていました。だったら宿題なんか出すなよ。長い夏休みも宿題漬けで乗り切れるというなら、普段の授業だって代替できるはずですよね。

 高校に入学してからは、集合教育という言葉を覚えると同時に、知識や技能だけでなく、社会性の習得も重要な課題なのかなと気づきました。友達付き合いや、先輩たちとの円滑な交流や礼儀やマナーなどを体験しておかないと、学校を出てから死ぬまで続く社会生活に適応できないからです。

 けれども今では、もしかすると学校の先生たちの都合で、わざわざ通学させられていたんじゃないかと疑うようになりました。知識やスキルは必ずしも学校に行かなきゃ身に付かないものではありません。ボクの親父は尋常小学校中退でしたが、優秀な旋盤工だったそうです。学歴がなくても会社を興して成功した人だって珍しくありません。

 しばしば最重要だと考えられがちな社会性にしても、それを無視する乱暴者や無礼者は世の中にうじゃうじゃいるじゃないですか。それどころか、ルール破りは総理大臣をはじめとして、立派な大学を卒業した高級官僚の皆さんが率先してやっています。汚職はもとより、公的資料の改ざんにも手を染めていたではありませんか。おかげで自殺に追いやられた国家公務員もいるくらいです。

 こんな結果になるのなら、子供たちに重いランドセルを背負わせて学校に毎日通学させなくてもいいじゃないですか。特に近年は情報通信技術の発達で、世界の裏側にいてもリアルタイムで顔を見て話すことができるようになったんだからさ。

 ところが、ボクのように考える人は少数派だったらしく、日本の教育におけるデジタル化やネットワーク化は世界に比べて著しく遅れていました。高度な技術力を持っているはずなのに、やっていることは極めて保守的。それを最先端の現代性と伝統の融合と褒めそやす人たちもいないわけではありませんが、いい加減にしろよ。古いものを開発の美名のもとにどんどん壊してきたじゃないか。そんな正体が、今回の新型コロナでモロばれになってしまいました。旧来のやり方や習慣を変えるのが面倒でイヤなだけだったんですよね。

 ボクたちの仕事でも、以前からSkypeという便利なオンラインミーティングのソフトがあったのですが、ほとんど利用されることはありませんでした。海外在住者を取材する時は使用したのに、国内では対面が最優先されてきたのです。確かにオンラインより実際の面談のほうが情報量は豊富です。言葉以外の複雑なニュアンスや雰囲気をキャッチできますからね。ボクもジェスチャーというノンバーバルな表現が多い人間なので、最初はオンラインが苦手でした。

 でもさ、それならもっと論理的に、分かりやすく話をすればいいだけのことです。そんなことよりも、対面取材する現地までの往復時間と手間と負担を省略できるメリットのほうがはるかに大きい。にもかかわらずオンライン取材がちっとも普及しなかったのは、取材相手に対して失礼という配慮があったからではないでしょうか。

 こうした「社会的精神性」が、テクノロジーよりも優先されるのが日本という国の際立った特長だとボクは考えています。とすれば、学校で対面の集合教育が重視されるのは、やはり先生の側の理屈または利便性に過ぎなかったのではないでしょうか。だってさ、親も子供たちも教育方法を選べないんですぜ。自宅学習やフリースクールという方法もあるけど、現実には落ちこぼれと見なされますからね。形式知だけでなく、言外の暗黙知を体感するという意味も見逃せないにしても、だからといって毎日通学する必要があるのかなぁ。親の都合ということもあるんですけどね。

 長くなったので、明日も続けます。


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2020年3月31日 (火)

自己防衛(後)


 感染者がいきなり激増するだけでなく、テレビのワイドショーも急におどろおどろしい雰囲気になってきました。外出自粛を要請されているにもかかわらず、学生たちが駅前で酒飲んで無神経に騒ぎまくっているから仕方ないですけどね。ボクの知っているカウンターバーでも、金曜日の深夜に尻や肩を窮屈そうに隣り合わせて、マスクなしで濃厚接触している人たちがいたので、危機感はほど遠いみたい。廊下みたいな空間で換気も悪そうなので、集団感染も十分にあり得るんだけどなぁ。

 そうかと思えば、テレビでは学校再開に向けて「ちゃんとした基準を示して貰わないと困る」とこぼしている先生がいました。この先生は、文科省と教育委員会の指示になれきってしまい、自分で考える習慣をなくしたのでしょうか。新型コロナが壇蜜、じゃなかった「3密」で感染することは衆知されています。基準が示されないということは逆に、それさえ守れば何をしてもいいってことですよね。だったら、運動場とか近くの公園で授業をやってもいいじゃないですか。防寒対策さえしておけば、広くて換気もこれ以上ないほど抜群です。何も狭苦しい教室の中でしか授業ができないってことはないはずです。むしろ、そうした創意工夫を子供たちに見せることも教育の一貫ではないでしょうか。

 自己防衛もそれと同じで、想像力に基づく創意と工夫が必要というのが、ボクの結論なのです。すでに起きたことや誰かに言われたことに受動的に反応するのでなく、できるだけ先回りして考える主体的な想像力が欠かせません。そのための発想のヒントは過去にあります。今さら新聞記事をひっくり返せというのではなく、大きな傾向だけを掴んでおけばいい。ボクにとっての第一は、日本の政治家でまともな展望と指導力を備えた人は皆無ということ。第2に、太平洋戦争敗北後の日本はアメリカの従順な奴隷、じゃなかった忠実な子分であり、何から何まで追随してきました。近頃なら相次ぐ規制緩和や国際化にインターネットが象徴的じゃないですか。

 この2つを知っておくだけで、いろいろ先行きが想像できます。アメリカで新型コロナが蔓延していたら、日本だけパラダイスでいられるはずがない。そして、このまま感染者が倍々で激増したら、凡庸な政治指導者の手に負えなくなるってことです。

 だからといって、焦って買い占めに奔るのは、ただの神経反射であって、想像力とはいえません。昨日も指摘したように、いくら生鮮食品を買い占めても3日くらいしか保たないからです。そして、1人が過度に買い占めれば、トイレットペーパーと同じく流通システムに大きなダメージを与えます。空いた棚やケースがみんなの買い占め心理に拍車をかけることになり、円滑な供給体制が瞬時に壊れてしまうんですよね。電気がショートしてブレーカーが落ちてしまい、家全体が停電するようなものです。

 そうならないためには、どうするか。首都封鎖にならないまでも、外出自粛が続くと想定すれば、ある程度の買い置きは必要不可欠です。そのほうが安心できますから。ただし、まとめていっぺんにというのがいけないんだよな。他人に迷惑をかけるので恥ずかしいだけでなく、前述したように供給体制、サプライチェーンに異常な負荷をかけることになるので、結果として生鮮食品も入手しにくくなってしまいます。

 それを回避するためには、ちょっとずつ保存食品などを買い置きすればいいのです。これなら、ほかの人に迷惑が及ぶことはないはずです。今さら遅すぎる提案かもしれませんが、日々の買い物のついでに、パスタや缶詰やレトルト食品などを少しずつ買い足していくという感じかな。

 これはあくまでも例であって、正解というわけでは決してありません。むしろサバイバルに正解なんてあるはずがない。自分自身で臨機応変に工夫していくほかないんですよね。これこそが学校で本来教えるべきことであり、ボクたちが久しく忘れていた思考習慣、すなわち知恵ではないかと思うのであります。


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2020年2月28日 (金)

災い転じて……

 

 始まりは電通じゃなかったかと思います。さすがにあまり大きく報道されなかったのですが、2月24日に50代の社員から新型コロナウィルスが検出され、濃厚接触者は直ちに翌日から在宅勤務。26日からは、汐留本社の社員約5000人に在宅リモートワークが指示されました。電通といえば日本の最大手、世界でも5番目の規模の広告代理店(ウィキペディア)であり、関係会社は膨大で影響力もハンパではありませんから、この措置は当然だろうと思います。 

 さらに、昨日になって安倍首相は全国の学校に臨時休校を要請。これに対応して、大企業も続々と在宅テレワークに切り換えています。 

 このブログでは時事ネタをなるべく避けてきましたが、これだけ大きな騒ぎになると、記録という意味でも扱わないわけにはいきません。日本の政治家ならびに官僚の無策・不作為がどんどん明らかになってくる中で、ボクが唯一の救い、災いを転じる可能性を感じるのが、この「リモートワーク」「テレワーク」なんですよね。 

 前にも書いたように、ITバブルが勃発した2000年前後には、インターネットを活用したテレワークが大いに喧伝されました。もはやラッシュアワーの満員電車に乗る必要はなく、それこそ働き方や雇用形態が革命的に変わる予感を持ったものです。ところが、そんな期待は急速に萎み、今では首輪、じゃなかったIDカードをぶら下げてオフィスを出入りするのが常識になっています。それが今回の新型コロナによって在宅テレワークにどんどん移行しているので、やればできるじゃないかとボクなんかは思うわけです。 

 これだけ情報網が発達したご時世に、わざわざ毎日毎日、会社で顔をつきあわせる必要がどこにあるのかと考えるほうが普通じゃないですか。けれども、日本の会社は保守性が強く、変えることそのものに抵抗する勢力が存在します。それが新型肺炎蔓延の懸念で簡単に吹き飛んでしまった。沈静化がいつになるのか予断を許しませんが、在宅で仕事が進むのであれば、そのまま継続すればいい。それによって、日本の業務慣習やビジネスのスタイルがガラリと変わるはずです。 

 学校にしても、初等教育は社会性を身に付けることも重要な課題なので集合教育は不可欠ですが、高校や大学で生徒や学生を教室に集める必要性がどこまであるのでしょうか。特に大教室での一方的な講義なんて、ネットにビデオを載せておけば十分です。出席しても寝ている学生が珍しくありませんからね。 

 しばしば言われることですが、単純な知識移転はネットに任せておけばいいのです。では教室で何を教えるというのでしょうか。写真が発明された当時の絵画と同じように、これまで漫然と行ってきた授業の内容や方法を見直す契機にもなるんじゃないかな。そのハシリが、PBLを中心としたアクティブ・ラーニングなんですけどね。

 いずれにしても、こんな災厄が日本を襲っているのですから、それを明日の福に転じる発想で立ち向かうのが政治家や知識人であるべきです。それなのに、目先の事態の後追いばっかりだもんな。これを機会に小・中・高校の子供・生徒たちすべてに順次タブレット・パソコンを支給し、トライアルでオンラインの授業を始めてもいいじゃないですか。新型コロナがどうなろうとも、このインフラは確実に未来につながります。そうした発想のもとで様々な対策に取り組むべきではないかと、ボクは言いたいのであります。

 

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2019年12月 2日 (月)

経済格差の不可視化

 

  本日の日本経済新聞朝刊には、奇しくも経済格差が階級として固定化していることを再認識させる意見が2つ掲載されていました。

「萩生田発言は、BSテレピのニュース番組で飛び出しました。もし、キャスターが直ちに反応し、『その発言は、経済状況による教育格差を容認するものではないか。文科相としていかがなものか』と咎めていれば、萩生田氏は自らの発言の重大さに気づき、すぐに発言を撤回していたかもしれません」(「池上彰の大岡山通信・若者たちへ」日本経済新聞2019年12月2日朝刊)

 萩生田文科相が「身の丈に合わせて」と不用意に発言したことで、新しく導入される大学入学共通テストの英語民間試験を見直すという大騒ぎに発展。それだけでなく、記述式問題の採点方法における特定企業との結びつきなど、様々な懸念が一気に吹き出してきました。萩生田発言は本人の意図に反して社会的な意味があったといえそうですが、ボクが注目したのは「もし、キャスターが」のくだりです。そのキャスターは、明らかに英語の民間試験を負担になるとは捉えていなかったのです。

  東京に住んでいて、それなりの収入のある家庭なら「英語は読み書きだけではダメな時代だからなぁ」と納得するのは不思議ではありません。ところが、地方の貧困家庭にとっては大変です。最低2回の受験料を負担しなければならず、近隣に英語の試験会場がなければ交通費が、遠隔地であれば宿泊費も必要になります。新制度ではIDカードによる2回の受験成績が大学に送られることになっていますが、民間試験ですから、お金さえあれば何度でも受験が可能。試験に慣れれば、普通は成績も向上します。つまりは家庭の経済格差が試験成績に直結するわけです。

 そんなことをキャスターはイメージすることができなかった。これが現代の大きな問題であることに、あなたは気づけますか。彼は貧困家庭の実態なんて意識の埒外だったのです。キャスターという花形職業に就いているのですから、現在の収入はともかく、それなりの豊かな家庭に生まれて、それなりの有名大学を卒業したはずです。そして、彼のまわりは似たような家庭環境と履歴を持つ人ばかり。そんな人たちの中で日々を過ごしていれば、地方の貧困家庭のことまで気が回らないのは当然かもしれません。

  その結果として、テレビの視聴者にも貧困家庭の苦しさが伝えられることは稀有になっていきます。いわばテレビのほとんどは、中産階級前後の人たちを念頭に作られているといっていい。たまに貧困にスポットが当たっても、真夜中に放送されるドキュメンタリーが精一杯ですもんね。

 それによって、経済格差は次第にインビジブル、見えにくくなってきたのです。不可視化と言い換えられるかもしれません。

 それを間接的に指摘したのが、同じく本日の日本経済新聞の寄稿です。教育ジャーナリストの朝比奈なを氏によれば、高校の入試偏差値で下位にあたる「教育困難校」には5タイプあると分析するだけでなく、「教育困難校の生徒の多くは、建設業や製造業、サービス業等に若くして就き、うまく適応できれば日本社会の基盤を支える役割を長期間果たしてくれる」と指摘しています。ところが「必要な指導が受けられない高校生が少なくないのが現実だ」として、次のように結語しているのです。

 「教育困難校の教育環境の改善は喫緊の課題であり、その最大の障壁は社会の無関心である」

 経済格差の固定化が階級を生み、その底辺は「無関心」によって不可視化されながら定着していく。これはもう21世紀のカーストとすら言えるかもしれません。そこまで追求して初めて報道の価値があると思うんだけど、テレビでは無理だろうな。何しろ視聴者の多くは、自分自身が格差の底に落ちることなんて想像もしていないですからね。

 

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