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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

教育・学校

2018年9月 4日 (火)

置き勉

 

 文科省が近々に「置き勉」を認める通達を出すとNHKが報道して話題になっています。教室に教科書などを置いて帰宅するという意味ですが、まるで勉強まで学校に置いてくるような印象を与えるので、適切な造語とは思えないですけどね。

 

 国会に提出された「意見書」によれば、学習指導要領の改訂に伴って、小学校3年生の国語・算数・理科・社会の教科書の重さは、40年ほど前に比べて約2倍の2㎏にも達するそうです。それだけでなく、ある研究者の調査では小学校1~3年生のランドセルの重さは平均で7.7㎏。約6㎏とする教科書会社のデータもあるようです。

 

 ボクは昔からランドセルが大嫌いで、登山でもあるまいし、どうしてあんなデカいものを背負って学校に行かなきゃいけないのか納得できませんでした。中学高校の制服が官軍=薩摩の軍服を由来とするように、兵隊さんの背嚢の変形ではないかと睨んでいますけどね。

 

 いずれにしても、そんなに重いものを毎日運搬させるなんて、ほとんど虐待に近いではありませんか。ボクは即座にやめるべきだと思いますが、例によって異論反論もいろいろあるようです。いわく自宅で勉強しなくなるとか、学校の先生の負担が重くなるとか。後者の「先生の負担」は、学校で新しいことをしようとすると必ず出てくる反論ではありますけどね。確かに、いじめっ子が誰かの教科書にいたずら書きすることは考えられなくもありません。だったら、個別に置いておくのでなく、教科別にまとめて箱の中に入れておき、朝それを各自が引っ張り出せばいいじゃないですか。それによって「私の教科書」でなくて「みんなの教科書」になるので、いたずらの可能性もぐっと少なくなると思うんだけど。

 

 自宅での勉強のほうですが、あれこれ無駄な論議を重ねるよりも、いっそのこと同じ教科書を自宅にもう一組揃えれば、完全に解決するじゃないですか。1960年代から義務教育の教科書は無償になっているので、家庭に負担はかかりません。国の関係支出は2倍になるけど、教科書会社も印刷会社も大喜びとなり、それなりの経済効果があるはずです。何よりも、それで子供たちの背中が楽になるんですから、誰も税金を使うことに反対しないと思いますぜ。

 教科書を印刷物からキンドルやiPadなどに電子化してしまうというのも現代的な方法です。これはIT業界が大歓迎するんじゃないかな。

 

 クルマだって「シェア」する時代であり、ITもクラウドなんですから、もはや「所有」というオールドエコノミーの概念から解放されるべきですよね。

 

 それにしても、何十年にもわたって子供にあんな重いモノを背負わせきたこの国って、どう考えてもヘンだと思いませんか。

 

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2018年7月 9日 (月)

カリスマを支えるもの(後)

 

 クリプトン星からやってきたスーパーマンならいざ知らず、人間なんて体形や能力に極端な違いなんてありません。にもかかわらず、途方もないカリスマやワンマンを生み出すのは、本人の力というより、周りの人たちにほかならないと思うのです。中にはスティーブ・ジョブズみたいな天才がいることは否定しませんが、彼にぶら下がる人たちが無数にいたことも事実であり、そうした人たちがカリスマと崇め奉ったんじゃないかな。

 

 だってね、普通の人たちにとっては、カリスマやワンマンがいたほうが楽なのです。難しい意思決定を任せられるだけでなく、結果責任も回避できますからね。カリスマなんぞになるより、その後ろに隠れていたほうがよほどトクじゃないですか。だからカリスマやワンマンは、自ら「なる」ものではなく、「させられる」というのが正しい解釈だとボクは思います。

 

 ところが、最初は便利な傀儡としておとなしく御輿の上に乗っていても、やがて自分の権力を行使しようとする人も出てきます。御輿に乗せた以上は簡単には引きずりおろせないと躊躇しているうちに、陰の首謀者は遠方への左遷など粛清に近い異動を迫られ、反抗する意欲や方法を完全に殺いだところで、独裁政権が発足というのが歴史的な事実ですよね。

 

 そうなってしまったら、日大教職員組合の発言と同じで「逆らうのが怖い」となります。それまでのキャリアを捨てるような転属や異動を強制された人もいたようですね。ボクだって正直を言えば、同じ恐怖を味わったことが何度となくあります。だから分かるのですが、この恐怖の本質は「失う」ってことなんですよね。長く生きれば、カネだけは人によりますが、持っているものは次第に増えてきます。ワンマンやカリスマに抵抗できないのは、それを奪われてしまうからです。失うには惜しいものが多くなると、理不尽な要求にも従う奴隷のようになり、その連鎖は末端まで続きます。中には自らカリスマやワンマンのパシリになることで、権力のおこぼれを頂戴しようとする人も出てきまよね。

 

 かの西郷隆盛はそうした心理をちゃんと見抜いておりました。

 

 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この「始末に困る人」ならでは、艱難を共にして国家の大義は成し得られぬなり。

(「西郷南洲遺訓」)

 

 そういう人間が果たしてどれだけいるかなぁ。少なくとも官僚の人事制度を変えて、ダメな連中をどんどん解雇して、中途採用をバリバリ増やさないと、そんな人材が国家の運営に携わることはできないでしょう。ここでも制度に問題があることが分かります。「始末に困る人」の育成がボクは教育の大きな課題だろうと思いますが、それと合わせて、やはり既存の制度を徹底的に見直さないと手遅れになるでしょう。

 

 そのためには、シニアにこそ頑張っていただきたいとボクは思うのです。定年退職して年金暮らしなら、命もいらず、名もいらず、官位も金だってもういいよとなりませんかねぇ。最後のご奉公とばかりにエイヤッと蛮勇をふるって立ち上がった「始末に困る人」たちを広く受け入れる制度ができれば、少しは公平・平等な社会が生まれるのではないかと期待しているんですけど、無理かなぁ。

 

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2018年7月 6日 (金)

カリスマを支えるもの(前)

 

内容はかなり違っても、文部科学省の科学技術・学術政策局長が逮捕された受託収賄事件と、いまだに収束していない日大の危険タックル事件は、根っ子に共通した問題があります。

 

その前に、文部科学省は「競争的資金」の分配をやり過ぎたんじゃないかな。ボクがこの政策を知ったのは「21世紀COEプログラム」の頃からですが、それから十数年がかりで「国公私立大学を通じた大学教育再生の戦略的支援」として急速に膨張してきました。とにかく補助金付き公募プログラムがやたらに多いのです。

 

「特色GP」だの「現代GP」という黎明期は、これまでのような横並び支援ではないことから、ボクなりに高く評価して記事で頻繁に紹介してきました。受験生にとって大学選びの参考にもなるじゃないですか。ところが、毎年のように新プログラムが追加されては数年後に終わっていく。あまりにも数が多くて、新陳代謝も目まぐるしいので、文部科学省はいったい何をしたいのだろうかと疑うようになりました。

 

今回の受託収賄のネタになった「私立大学研究ブランディング事業」もそのひとつですけど、タイトルからして何だかなぁでしょ。いわく「学長のリーダーシップの下、大学の特色ある研究を基軸として、全学的な独自色を大きく打ち出す取り組みを行う私立大学の機能強化を促進する」ですもんね。2016年度から始まったようですが、ボクが学長なら「放っといてくれ」ですけど、大学経営にとって何千万円だかの補助金は無視できません。それに17年度は188大学が応募して60大学しか選定されていないので、これをウェブサイトなんかでアピールできるのは他大学との差別化材料になります。

 

でもね、中央官庁による税金分配で民間の鼻面を引き回すようなことはそろそろやめたほうがいい。そう思い始めていたら、案の定ともいえる不祥事がとうとう勃発したわけです。

 

そもそも私立大学に補助金が支給されるようになったのは、1975年の私学振興助成法の成立からです。それまで私学はビンボーで借金だらけだったかも知れないけど、「学の独立」あるいは国から見れば「自由放任」でした。ところが、この法律のおかげで、少しばかり経営が楽になるかわりに、文部科学省の監督権限も強化され、ついでに天下りも受け入れなきゃいけなくなったわけですな。

 

この私学補助金がのあり方が「横並び」の批判を受けるようになったので、今度は「競争的資金」の分配に積極的になったとしかボクには思えません。

私立大学は国立大学と違ってそれぞれの建学理念があるはずですから、それに基づいた多種多様な大学があっていい。にもかかわらず文部科学省から「グローバル化するなら大金を補助しますぜ」となったら、またしても横並びで英語と留学ってことになりますよね。

 

こんなことをやっているから、3500万円の税金=補助金をエサにして自分の子供の不正入学を要求する官僚が出てきたんじゃないかと。おかげで、おそらくですけど「競争的資金」をコアにした大学行政は早晩見直しを求められるんじゃないかな。さもなきゃ似たようなことが必ず起きますってば。それにしても、裏口入学させるなら税金でなく自腹でいけよ。木っ端役人のあまりな姑息ぶりにはほとほと呆れてしまいます。

 

ここまでは収賄側の話です。賄賂には受け取る側と贈る側が必ず存在するので、一方の東京医科大学はどうかといえば、やぁーっばり、いたんですな。ワンマン、カリスマ、いや大狸か鵺かっていうくらいの実力者が、「この子の点数のせといて」とゲタを履かせることを指示したらしい。同大学の入試関係者は唯々諾々(としか思えません)と従ったので、こんな大問題に発展したのです。これって、日大の危険タックル事件と似ていませんか。

では、全国の大学にワンマンやカリスマの理事長や学長が蔓延しているのでしょうか。

 

ボクは問題が2つあると思います。第一に、大学のトップが掌中にする権限が「ジャンケンポン」のような緊張関係を持たないことが大きい。封建時代じゃあるまいし、民主主義の世の中で、たった1人に権力が集中する支配構造はおかしいですよね。アメリカ大統領だって議会を通さなきゃできないことが少なくありません。民間企業ならまだしも、公益&公共&社会的要素の強い大学ですぜ。そんな権力構造を促したのが「ガバナンスの強化」ってヤツです。前述した「ブランディング」の能書きにもあるように、教学・経営のトップに強い権限を持たせるように図ってきたのも文部科学省なんだよな。

 

これは民主的に見える教授会が新しいことには何でも反対するので、「やりにくくて仕方ない」という意見を反映した行政政策と理解することもできます。いずれしても、そうした風潮がなければ、小うるさいインテリの教授を支配下にしたカリスマやワンマンが生まれるはずがない。

 

こうした非対称な権力関係の中で、ルールを無視したタックルの指示や、受託収賄事件が発生したのであります。そして、もうひとつ、学内の関係者はなぜカリスマやワンマンの暴走を止めることができず、協力してしまったのかということにも言及しなければなりません。

 

かなり長くなったので、それについては来週ということで。

 

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2018年6月 4日 (月)

誰に向かって話すのか

 

 ひとつの話題を長く引っ張りたくはないのですが、先週来の日本大学による相次ぐ記者会見が典型的なダメ見本なので、批判だけでなく、こうあるべきじゃないかという提案を最後に付け加えたいと思います。

 

 すでに何が原因で誰に責任があるかは明白になってきましたから、そのあたりは言及しません。何かにつけて後追いとなり、真実味が感じられない自己保身に終始したことも、広報戦術としては最低です。このあたりは組織の風土や体質も大いに影響しているんじゃないかな。何にしても、現下のようなSNS時代には、大切なアナウンスは1分1秒を争います。つまり、情報開示は早ければ早いほど好感につながる。いけないことを隠し通すなんてことは、もはや不可能なのです。安倍さん、読んでいるかな。

 

 こうしたテクニック的な要素もさることながら、世論の大きな流れを決定的に悪い方に変えたのは、内田監督と井上コーチによる記者会見です。「当該選手」の勇気ある記者会見に対応しておかないとヤバイということで、おそらくイヤイヤ登場したと思われますが、ボクは最初の数語から話す相手を間違えていることが分かりました。だから、当該選手の真摯な告白に比べて、何かにつけて嘘っぽい言い訳に感じられてしまう。やたらに「正直」を連呼することも、まるでイタズラをした子供みたいで、とてもじゃないけど大人の指導者とは思えません。

 

 おそらく、あの2人が見ていたのは、会見場に集まった多数の記者や、その背後にズラリと並んだテレビカメラなんでしょうね。そして、その向こうには世論と呼ばれる一般大衆がいる。そうした視聴者に謝罪し、言葉の上だけでも責任を引き受ければ、納得してもらえると甘く見込んだんじゃないかな。

 

 不祥事を引き起こした人たちは、たいてい同じ発想で似たような言い訳を繰り返してきました。セクハラや不倫発覚にしても「世間をお騒がせして申し訳ありません」というのが常套句ですけど、そもそも誰に謝罪すべきか、ということをコロリと忘れていますよね。

 

 今回の悪質タックル事件では、前述したように当該選手が顔出しの実名でいち早く記者会見したことで、世論が180度変わってしまいました。加害者が実は被害者でもあったことが強く印象付けられたのです。ここでは「正直が最大の説得力を持つ」ということを学ぶべきでしょう。

 

 それによって世間が当該選手に同情的となった段階で、監督とコーチがテレビの前に出てくれば、たいていの人は「こいつらがやらせたのか」と敵意を持ちますよね。そうした情緒的な逆風が吹きまくっているのですから、何を言おうと懐疑的な視線を避けることはできません。

 

 さて、こうした厳しい状況に立たされたとしたら、あなたはどんなことを話すでしょうか。自分が「当該」の監督やコーチだったらと、しばらく考えてみてください。

 

 ボクは「正直言って」数分後には答を出していました。それがね、相手を間違えているということなのです。

 

 彼らが第一に謝罪すべきだったのは、視聴者や世論という顔のない人たちではありません。「悪質タックル」をした当該選手ではないでしょうか。たとえば監督が「宮川くん、理由はどうあれ、とにかく意にそまないことをさせてしまったことを心からお詫びします」とか、コーチが「宮川、ゴメンな。お前の悔しい気持ちは誰よりもオレがいちばん分かっていたはずなのに……」なんていう直接的な語りかけで始めれば、世間の印象は随分変わってきたはずです。さらに彼らしか知らないエピソードを差し挟めば、リアリティもますます高まったんじゃないかな。

 

 ところが、最初から逃げ腰だったせいか、彼らには公開の場で呼びかける度胸はさらさらなく、一般的な三人称にすることで共同謀議の主犯である疑いを強めることになったのです。

 

 当たり前のことですが、コミュニケーションには送り手と受け手が必ず存在します。では、いったい誰に向かって語りかけるべきか。テレビ中継される記者会見はちょっと特殊で、「誰に向かって話しかけているように見せるか」という、いささか複雑な構造になりますけどね。それよりも単純ですが、文章=テキストだってまったく同様です。その成否はさておくとして、ボクがモノを書く時は必ず読者を想定します。近所のオジサン・オバサンなのか、センター街を歩く若者たちなのか、会社員なのか学生なのか。逆に書き方によって、特定の階層を惹きつけたりすることもあるはずです。

 

 いずれにしても、同大学の危機管理学部はこのうえない「反面教材」を得たことになるので、広報的な対応などを詳細に分析・研究し、ボクのような提案も含めて早急に発表すべきじゃないかなぁ。それこそがブランドイメージを回復する最高の特効薬になると思うのです。他の学部も他人事と傍観するのでなく、それなりの見解を発表すべきではないでしょうか。なにしろ大学のナンバー2と目される人が辞任するような大事件だったんですからね。

 

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2018年5月31日 (木)

たった1人でも世界を変えられる

 

 捨て身になれば、たった1人でも世界は変えられる。

 

 これが今回のアメフト反則タックル事件でボクが感じたことです。アメリカンフットボールのルールなんて何も知らないので、コトの詳細は評論できませんが、少なくとも20歳の大学3年生が実名と顔出しの記者会見を行ったことで、世論はガラリと変わりました。彼の勇気にはつくづく感服せざるを得ません。そのおかげで責任の所在があぶり出され、クラブや大学の体質なども白日のもとに晒されることになりました。

 

 もしも彼があの記者会見をしなかったらと思うと、背筋がうすら寒くなってきます。個人的なラフプレイとして闇の中に葬られ、スポーツマンシップを捨てた卑怯な行為を強要される選手が何人も続くことになったはずです。それを身体と心を張って立派に食い止めた。ボクも含めて、大人たちは深く恥じ入るべきじゃないかなぁ。

 

 あのクラブの独裁的な支配体質は、おそらく関係者みんなが薄々にしても知っていたはずです。けれども、誰も注意や批判などしないで見過ごしてきた。大学はもちろん、関係団体だけでなく、テレビに出て偉そうなことを言っている評論家やコメンテイターも含めて、すべての大人は彼に対して責任を痛感し、頭を下げるべきだと思うのです。

 

 いずれにしても、戦前から続く精神論的な指導や暴力的な制裁をやめる時期がようやく到来したと感じざるを得ません。そんなもん、戦場で神風が吹くのを期待するほど非論理的で非科学的であり、もっと率直にいえば指導者が無能かつ不勉強極まりないという証拠じゃないですか。

 すでに帝京大学のラグビーや青山学院大学の駅伝では、これまでとは正反対の方法で輝かしい実績を積み重ねています。にもかかわらず、あのアメフト部はパワハラもどきの追い込みで選手の闘争心を鍛えてきたという。それで大学日本一になったというけれども、もともと優秀な選手が全国から集まっていたんですからね。

 

 ボクは旧世代に属するせいか、先輩諸氏からことあるごとに「世界は1人では変わらない」「社会はすぐには変わらない」と言われ続けてきました。生意気で性急だったからかな。それでもライターという仕事を通して、何とか変えたいと小さな努力を続けてきたつもりですが、まさに岩盤のような支配構造はどこにだってあるんですよね。ボクたちの心中にも同じものが存在します。おかげで近年は徒労感がものすごく強くなり、この国はしばらく変わらないと諦めていました。

 

 でもね、若者がたった1人でも社会を変えられるじゃないですか。

 ボクはどうやらジーサンたちによる自己保身のための嘘にコロリと騙されていたようです。これから組織や体制が本当に根本から改善されるかどうかは分かりませんよ。けれども、ボクたちの意識だけは確実に昨日とは違います。我慢できないほどの不合理や理不尽があれば、彼のように前に出て声を上げる人たちが続くんじゃないかな。そのことをオッサンだけでなく、奥の院に隠れて絶対に顔を見せないジーサンたちに知らしめただけでも、大きな功績ではないでしょうか。

 

 重ねて言いますが、1人でも革命は可能です。むしろ1人が勇気を持って始めない限り、誰もついてこないということを彼に教えられたのです。

 

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2018年5月23日 (水)

Do the right thing(続)

 

 この国もまだまだ捨てたもんじゃないと感じたのが、昨日の日大アメフト選手による記者会見です。もはや大勢の意見が決しているようなトピックをあまり取り上げたくはないのですが、前回に「Do the right thing」というテーマで書いた以上は、それに対応しておかないとダメですよね。

 

 まだ20歳の大学生が顔を隠すことなく実名で謝罪し、多数のテレビカメラやメディア関係者の前で、それまでの経緯や事実を嘘偽りなく述べたというのは、掛け値なしにものすごく立派な態度です。しかも、明らかに監督やコーチからの卑劣極まりない圧力で追い込まれた結果にもかかわらず、自分以外の誰のせいにもしていません。

 

 あんなに潔い態度は社会人でもなかなかできないはずです。むしろ社会人だからこそ往生際が悪いともいえるんですけどね。それを正々堂々とこなした経験は、彼の将来にとって貴重な糧になるんじゃないかな。

 

 それに比べて、今に至っても逃げ回っている監督やコーチたちの何と情けなくみすぼらしいことか。自分たちに非がないというなら、書面を通してではなく、あの選手と同じように公開の場に出てこいよ。大学側の対応も完全に腰が引けており、選手=学生を守ろうとする気概がまるで感じられない。もはや彼らを擁護する意見なんて、よほどの利害関係者しかあり得ないので、ボクが敢えて後追いする必要はもうないですよね。

 

 ただ、選手がいみじくも語ったように、やはり個人としては「もっと意思を強く持つこと」が大切だと思います。組織と個人の軋轢による葛藤なんてザラにあることですが、自分の内なる声を裏切れば、一生それに苛まれることになるでしょう。であるなら、最初から自分の意思を強く持って理不尽に抵抗したほうがいい。彼の告白によって、様々に勇気付けられた人が相当数いるのではないでしょうか。

 

 人間なら誰だって間違いはするし、ミスも犯します。ヘタすりゃ法に反することに手を染めることだってありますよね。そんな時には、自分の内なる声に素直に従って、起きたことを真正面から受け止め、被害や迷惑をかけた人にできるだけ早く謝罪するほかありません。やっぱね、どんな時にもDo the right thing。これしかないだろうと、ボクは強く再認識したのであります。

 

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2018年5月22日 (火)

Do the right thing

 

 世間で大騒ぎになっていることはなるべくテーマにしないと決めてきたのですが、日本もアメリカナイズされてきたなぁと呆れざるを得ません。アメリカンフットボールで起きた事件ですから当然ともいえるのですが、日大の監督が指示したとされるルール無視のラフプレーなんて、それこそアメリカの映画やドラマで何度となく描かれているんですよね。

 

 ゲームが終わった後にしても、ミスした選手がチームメイトから凄絶ないじめを受け、悪質な感染症で死んでしまうドラマがありました。それを刑事が調べていくうちに、どうやらコーチが指示したと分かるんですよね。勝利至上主義のアメリカでは、おそらく試合中も観客席から「殺せ」ではないにしても「壊せ」くらいの物騒な掛け声が飛ぶことも珍しくないんじゃないかな。

 

 その反面で、仮にタテマエだけとしてもキリスト教がブレーキになっているせいか、良心との葛藤に悩む選手が必ず登場してきます。チームなんだから監督やコーチの指示に従わなければならない。さもなければ総力を効果的に集約できないので、それに抵抗することは即ちチームみんなへの裏切りになってしまう。けれども、その指示にはどうにも納得できないし、そんなことはしたくない……。

 

 セットが終わって無防備になったクォーターバックの背後から強烈なタックルを行った日大の選手も、そうした葛藤があったはずです。しかしながら、日本には個人の倫理や道徳を支えてくれる宗教が普及しているとはいえません。このことからキリスト教圏の欧米を「罪の文化」として、日本は「恥の文化」ともいわれます。つまり、自分の内側に罪があるのでなく、その外側にある他人の眼や会社など組織の判断や評価が強い影響力を持つということです。いかに理不尽な指示だと思っても、組織内で誹りを受けたり孤立しないために、敢えて間違ったことをしなきゃいけない時もあるでしょう。そんな時の便利な言い訳として「上司が」あるいは「組織としての」みたいな言葉が準備されているのですが、自分を捨て切った歯車のような人材が優秀とされてきたのは20世紀までじゃないかなぁ。

 

 現在の大学教育は、アクティブラーニングが象徴的ですが、講義を黙って聴くのでなく、主体的な思考力や行動力を育成しようとしています。もはや追いかけるべき先進国なんて世界のどこにもないので、日本自身が新しい産業や社会モデルを創っていくほかありません。そのためには、指示待ちの歯車ではなく、自分から問題を発見して解決していく人材が必要なのです。言い換えれば、出力は小さいにしても、1人ひとりがエンジンであることが求められているのではないでしょうか。

 

 そうはいっても、ピラミッド的な組織社会ではまだまだ通用しないこともあるはずです。だからこそ、より生き良い未来を創ろうというなら、学内にそんな理不尽や不条理を持ち込んではいけない。スポーツだって、フェアプレイのサンクチュアリ(聖域)であるべきです。プロになれば、いろいろと大人の事情があって、なかなか理想を追求しにくいですからね。

 

 にもかかわらず、あのような事件が起きてしまった。まだ明らかにはなっていませんが、仮に監督が極悪非道な指示をしたとしたら、選手の側の葛藤にもボクは注目してしまうんですよね。そんな命令に従う前に、彼だけでなくみんなが「監督、そんなのおかしいですよ」と抵抗すればいいのに、どうしてできなかったのでしょうか。社会に出たらなかなかできないことでも、大学スポーツだからこそ、そうした反発があって然るべきじゃないかな。封建社会にだって「逆命利君」という言葉がありました。自ら考えて発言することができなければ、それは奴隷に等しいではありませんか。

 

 だから、どうせアメリカナイズするなら、“Do the right thing”という合言葉も真似しようよ。「正しいことを為せ」という呪文をみんなが心の中で呟くことが、このような悲しい事件を再発させない最も有効な対策だとボクは信じるのであります。

 

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2018年4月24日 (火)

特権階級

 

 ああ、この国もそろそろ特権階級が固定化されてきたんだな、と感じます。セクハラ発言が大騒ぎになっていながら、シレっと退職した高級官僚に5300万円を支払うというのですから、「盗人に追い銭」とはさすがに言いませんが、こりゃもう治外法権の特権階級としか言えないではありませんか。

 

 歴史をざっくり眺めてみると、欧米に比べて日本というのはガラガラポンと社会が大変わりすることが頻繁にあったんですよね。12世紀の終わり頃には、って遠い話だけど、ものすごい内戦を経て武家政権が成立。かと思えば1516世紀になると再び戦国時代に突入。全国各地の領主=守護大名が隣国と争乱を続けてきたわけですな。鎌倉時代に初めて言われた「下克上」という言葉が象徴的ですが、武家政権すなわち軍事政権が支配層である限りは、同じく武力を使用したクーデターによって階級がひっくり返されるのは不可避といっていい。歴史上の人物にしても、出自の怪しい人が少なくないですよね。

 

 要するに、支配層が完全に固定されるなんてことは江戸時代までなかったのであります。もちろん、どんな時代も皇室は温存されてきましたが、政治権力や財力が伴うヨーロッパの貴族階級やアメリカの超富裕層とはちょっと違うのではないでしょうか。

 

 それはともかく、ようやく300年近く続いた江戸時代にしても、19世紀末になれば明治維新でガラガラポン。武士階級がにわかに消滅して世の中が一新されたかと思ったら、20世紀半ばには太平洋戦争に突入ですよ。大敗北を喫して日本国内が瓦礫と化したので、青空のもとでゼロからのスタート。いやまぁ慌ただしい歴史ですが、おかげさまで先祖代々続く貴族や富裕層が存続できる余地がかなり乏しかったわけです。

 

 それから70年以上。自衛隊はイラクなどに派遣されましたが、取りあえず戦争はもちろん内乱だって縁遠い状態が続いてきました。それはそれで歓迎すべきことでも、人間というのは実に興味深い生き物でありまして、社会が落ち着き始めると、自分の地位や階級も落ち着かせようとするんですよね。資本主義というのは、簡単にいえばカネが血族よりも力を持つ社会ですから、早い話が上流階級になりたいならカネを貯めりゃいい。それを断固として阻むのが超累進制の相続税ですけど、それをすり抜ける方法はいろいろあります。

 

 中でも学校がね、ボクは現代の階級制度を支える根本的な土台というか構造になっていると考えているのです。衆知のように、日本の公的な教育支出はOECD諸国の平均を大きく下回っています(GDP比)。にもかかわらず大学進学率がどんどん上昇してきたのは、その教育支出を家計が国にかわって負担しているからです。ということは、家族の経済状況が子供の学歴や学校歴に直結することになるんですよね。

 

 たとえば私立の幼稚園の平均的な学費は年間およそ50万円。有名私学の付属幼稚園ともなれば、卒園までの3年間で合計450万円ほどかかるとされています。入園を許されるかどうかは別にして、こんな大金を小学校入学前の幼児に費やせる家庭は決して多くはないですよね。ところが、今や大企業の社員で「あいつとは某幼稚園の頃から一緒だったんだよ」と話す中高年がいる時代になりました。この「某」とは、言えば分かる超有名で入園倍率もメチャ高い私立大学付属の某幼稚園です。

 ほらね、社会の階級は学校制度を中心としてどんどん固定化されつつあるのです。これは資本主義の権化であるアメリカはより以上で、学費の高騰によって親がカネ持ちでなければ大学も行きにくくなっています。

 

 大昔は血族、ちょっと前なら武力、そして今では経済力が学校という装置を経て階級を固定化していくとまとめたら大雑把過ぎるかな。でもさ、これが隠しようもない現実ではありませんか。ボクなんかはもともとはみ出し者で、子供もいなくて余生も乏しいですからどうだっていいけど、若い人たちはどう考えているのかなぁ。

 

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2018年3月 5日 (月)

2次試験

 

 京都大学といえば、東京大学と並ぶ日本を代表する国立大学なのに、2次の入学試験で昨年に続いて今年も派手な出題ミスがあったようです。受験生は怒り心頭でしょうが、ボクはまったく違う視点からアホちゃうかと。

 いえね、入試の出題ミスなんてことは、発覚しないまでもあちこちで起きていると思うんですよ。答が1つだけでなく、実は2つあったなんてことはボクが若い頃もありましたから。

 どうかしているんじゃないかと感じるのは、2次試験そのもののあり方なのです。センター試験で基礎学力を判定し、その得点に基づいて2段階選抜(いわゆる足切り)もやっているはずなのに、なんでまたもう1回、学力試験を課すのでしょうか。ご丁寧にも受験生は2回もペーパーテストによる学力試験を受けなきゃいけないんですよ。こんなアホなことを毎年やっていれば、そりゃミスも出ますわな。

 センター試験は例年50万人以上が受験しますから、問題作成などでそこそこの人数の専門家がかかわり、出題精度も厳しくチェックされているはずです。一方、京都大学は2段階選抜を経た全受験者は8000人程度ですが、それでも1大学で入試を担当できる人員なんてタカが知れているじゃないですか。人数だけでなく質=能力的にも限られている条件のもとで、レベルは異なるといっても、センター試験と同じ学力試験をどうして繰り返さなきゃいけないのでしょうか。

 これを解決する方法は実に簡単で、2次試験を小論文や面接など人物重視のAOにするとか、ペーパーによる学力試験とは異なる選抜方法にすればいいのです。たとえば「ニールス・ボーアの革新性を現代社会の視点から述べよ」とか「これから大学で勉強したいことは何かを具体的な計画付きで説明してください」とでもすりゃいい。受験者が多すぎて判定・評価に時間がかかるというなら、センター試験直後に新聞などで課題を発表しておく。こんなものにカンニングなんて不可能ですから、2月アタマを締め切りにすれば、1か月ほどをかけて審査できるではありませんか。でもって面接で、その小論文が本当にその受験者が書いたものかどうかをチェックすればいいのです。そいつが本当に書いたかどうかなんて、ちょっとした質問だけで分かりますってば。

 あるいはボール投げや水泳など「現代5種競技」(ボクの造語です)を設定して、距離やタイムなどで選抜する。頭脳も筋肉と同じ身体の一部ですから、体育大学のように、その強さだって入学判定基準にしておかしいことはないはずです。

 再度指摘しますが、学力評価はもうセンター試験でやっているんだから、2次試験は別のことをやれよ、ってことなのです。アメリカにもSATまたはACTという大学入学のための学力試験はありますが、ハーバードやコロンビアといった上位大学でも個別審査は日本でいうところのAOですもんね。もう1回大学で個別の学力試験を一斉にやるなんて聞いたことがありません。

 日本はアメリカが大好きで、何でも言われるままに追従してきたのに、高速道路を無料化するとか地方分権(州制度)にしちゃうといった、ボクたちにとって便利なことはまるで真似しないんだよな。国立大学の2次試験も同じで、学力試験をもう1回やるなら、出題ミスを完全に避けるのは構造的に不可能です。

 にもかかわらず、前述したユニークな個別審査ができない理由は明らかです。国立大学は国が作った大学なので、固有の建学理念はありませんから、それに基づく人物選抜の基準を設定しにくいからなんですよね。たとえば、前述した「現代5種競技」による2次試験は、「健全な肉体に健全な頭脳は宿れかし(宿ったらいいなぁ)」という理念がなければ単なる思いつきです。もっといえば「水泳で金メダルが獲れるような医者を育成する」という分かりやすい目標があって初めて、それに賛同する受験生が集まるということです。これこそ2次試験らしいじゃないですか。

 では、京都大学は何をもってどんな2次試験をやればいいのか。そんなもん、ボクに言わせれば超簡単なことで、要するに「ノーベル賞が獲れる人材を選抜する」ということです。だったら「あなたはどんなことでノーベル賞を目指しますか」を小論文にして、有望なアイデアを出した受験生を入学させればいい。もちろん全員が取れるはずはないにしても、それなりに創造性がある学生に絞ることは可能です。

 こういうことを入学試験でやらなければ、いつまでたっても革新的な創造性を育成することはできないでしょう。日本が「アメリカに追いつけ追い越せ」の時代なら、学力試験で判定可能な「想像性」だけで十分でした。でも今は日本の前を行く国は見当たりません。だったらさ、道なきところに道を拓く創造力が何よりも重要なことじゃないかな。

 学力試験で判定できる知識や公式なんて、もはやスマホでいくらだって調べられるじゃないですか。どうやってもカンニングはできない入学試験をクリエイトするのが、こんにちの大学に求められている創造性だとボクは思うのです。

 

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2018年2月14日 (水)

スタイル(下)

 

 ハイウェイの開通などで一時は盛り上がったものの、それからは寂れるばかりという山間の温泉地がありました。家業の旅館の先行きを深く危惧した24歳の若者は、金槌とノミだけで裏山に洞窟を掘り始め、3年半もの歳月をかけて全長30メートルに及ぶ「洞窟風呂」を完成。たちまち大評判となったそうです。さらに彼は、周囲から雑木などを集めて、野趣に富んだ露天風呂をこしらえました。こちらも、ありきたりの温泉旅館に飽き飽きしていた女性たちの人気を集め、来訪客はどんどん増加。こうなると、それまで彼を奇人変人扱いしていた他の旅館経営者たちも無視できなくなり、態度を一変して師匠として仰ぐようになったそうです。

 

 このように、独創性や創造力というのは、常に異端視・白眼視されるわけで、おそらくですけど、奇人変人扱いどころか、イジメや村八分的な差別だってあったでしょう。それでも昔は情報がいまほど早く流通していなかったので、個人的な信念や頑固を通すことができたように思いますが、現代ではトレンドや大勢から外れたことをやり通すのはますます困難になってきたんじゃないかな。

 

 ボクは、もはやそのあたりの日本的体質に完全に絶望しておりまして、これから期待される「創造力」とは、思考や生き方なども含めた多様な「スタイル」にほかならないと説明しようとしていたのですが、もうやめます。風邪のおかげで思考体力が弱っていることもありますが、何しろ霞ヶ関が一声かけるだけで右向け右に一斉に雪崩をうつような社会ですからね。

 

 こうした体質はボクが生きている間に絶対に変わることはないと思います。ということは、世界で一番になるなんて、とてもじゃないけど無理ですよ。安全地帯でリスクを冒さない2番手主義で1番になれるものならなってみろと言いたい。

 それだけならまだしも、冒頭の例では、自分では何ひとつ考えることなく「師匠」にただぶら下がって教えを請うだけの旅館経営者もいたんじゃないかな。もしもボクなら「それでも経営者かよ」と一蹴したでしょうが、彼はそうではありませんでした。温泉地としての全体的な発展がそれぞれの旅館の繁盛につながることから、その後も様々なアイデアを提供したのです。

 

 阿蘇山麓の黒川温泉を全国的に有名にした彼、後藤哲也さんが、今年1月22日に亡くなられました。2003年には国土交通省の「観光カリスマ100選」に選ばれたそうですが、何だろうね、それって。思考力が欠如したぶら下がり族を増やすだけじゃないかなぁ。そんなことより、新しいチャレンジの足を引っ張ることのないような教育をすべきだろうとボクは思いますが。ともかく合掌させていただきます。

 

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