笠木恵司の主な著書

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  • 価値ある資格厳選200
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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

教育・学校

2020年3月31日 (火)

自己防衛(後)


 感染者がいきなり激増するだけでなく、テレビのワイドショーも急におどろおどろしい雰囲気になってきました。外出自粛を要請されているにもかかわらず、学生たちが駅前で酒飲んで無神経に騒ぎまくっているから仕方ないですけどね。ボクの知っているカウンターバーでも、金曜日の深夜に尻や肩を窮屈そうに隣り合わせて、マスクなしで濃厚接触している人たちがいたので、危機感はほど遠いみたい。廊下みたいな空間で換気も悪そうなので、集団感染も十分にあり得るんだけどなぁ。

 そうかと思えば、テレビでは学校再開に向けて「ちゃんとした基準を示して貰わないと困る」とこぼしている先生がいました。この先生は、文科省と教育委員会の指示になれきってしまい、自分で考える習慣をなくしたのでしょうか。新型コロナが壇蜜、じゃなかった「3密」で感染することは衆知されています。基準が示されないということは逆に、それさえ守れば何をしてもいいってことですよね。だったら、運動場とか近くの公園で授業をやってもいいじゃないですか。防寒対策さえしておけば、広くて換気もこれ以上ないほど抜群です。何も狭苦しい教室の中でしか授業ができないってことはないはずです。むしろ、そうした創意工夫を子供たちに見せることも教育の一貫ではないでしょうか。

 自己防衛もそれと同じで、想像力に基づく創意と工夫が必要というのが、ボクの結論なのです。すでに起きたことや誰かに言われたことに受動的に反応するのでなく、できるだけ先回りして考える主体的な想像力が欠かせません。そのための発想のヒントは過去にあります。今さら新聞記事をひっくり返せというのではなく、大きな傾向だけを掴んでおけばいい。ボクにとっての第一は、日本の政治家でまともな展望と指導力を備えた人は皆無ということ。第2に、太平洋戦争敗北後の日本はアメリカの従順な奴隷、じゃなかった忠実な子分であり、何から何まで追随してきました。近頃なら相次ぐ規制緩和や国際化にインターネットが象徴的じゃないですか。

 この2つを知っておくだけで、いろいろ先行きが想像できます。アメリカで新型コロナが蔓延していたら、日本だけパラダイスでいられるはずがない。そして、このまま感染者が倍々で激増したら、凡庸な政治指導者の手に負えなくなるってことです。

 だからといって、焦って買い占めに奔るのは、ただの神経反射であって、想像力とはいえません。昨日も指摘したように、いくら生鮮食品を買い占めても3日くらいしか保たないからです。そして、1人が過度に買い占めれば、トイレットペーパーと同じく流通システムに大きなダメージを与えます。空いた棚やケースがみんなの買い占め心理に拍車をかけることになり、円滑な供給体制が瞬時に壊れてしまうんですよね。電気がショートしてブレーカーが落ちてしまい、家全体が停電するようなものです。

 そうならないためには、どうするか。首都封鎖にならないまでも、外出自粛が続くと想定すれば、ある程度の買い置きは必要不可欠です。そのほうが安心できますから。ただし、まとめていっぺんにというのがいけないんだよな。他人に迷惑をかけるので恥ずかしいだけでなく、前述したように供給体制、サプライチェーンに異常な負荷をかけることになるので、結果として生鮮食品も入手しにくくなってしまいます。

 それを回避するためには、ちょっとずつ保存食品などを買い置きすればいいのです。これなら、ほかの人に迷惑が及ぶことはないはずです。今さら遅すぎる提案かもしれませんが、日々の買い物のついでに、パスタや缶詰やレトルト食品などを少しずつ買い足していくという感じかな。

 これはあくまでも例であって、正解というわけでは決してありません。むしろサバイバルに正解なんてあるはずがない。自分自身で臨機応変に工夫していくほかないんですよね。これこそが学校で本来教えるべきことであり、ボクたちが久しく忘れていた思考習慣、すなわち知恵ではないかと思うのであります。


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2020年2月28日 (金)

災い転じて……

 

 始まりは電通じゃなかったかと思います。さすがにあまり大きく報道されなかったのですが、2月24日に50代の社員から新型コロナウィルスが検出され、濃厚接触者は直ちに翌日から在宅勤務。26日からは、汐留本社の社員約5000人に在宅リモートワークが指示されました。電通といえば日本の最大手、世界でも5番目の規模の広告代理店(ウィキペディア)であり、関係会社は膨大で影響力もハンパではありませんから、この措置は当然だろうと思います。 

 さらに、昨日になって安倍首相は全国の学校に臨時休校を要請。これに対応して、大企業も続々と在宅テレワークに切り換えています。 

 このブログでは時事ネタをなるべく避けてきましたが、これだけ大きな騒ぎになると、記録という意味でも扱わないわけにはいきません。日本の政治家ならびに官僚の無策・不作為がどんどん明らかになってくる中で、ボクが唯一の救い、災いを転じる可能性を感じるのが、この「リモートワーク」「テレワーク」なんですよね。 

 前にも書いたように、ITバブルが勃発した2000年前後には、インターネットを活用したテレワークが大いに喧伝されました。もはやラッシュアワーの満員電車に乗る必要はなく、それこそ働き方や雇用形態が革命的に変わる予感を持ったものです。ところが、そんな期待は急速に萎み、今では首輪、じゃなかったIDカードをぶら下げてオフィスを出入りするのが常識になっています。それが今回の新型コロナによって在宅テレワークにどんどん移行しているので、やればできるじゃないかとボクなんかは思うわけです。 

 これだけ情報網が発達したご時世に、わざわざ毎日毎日、会社で顔をつきあわせる必要がどこにあるのかと考えるほうが普通じゃないですか。けれども、日本の会社は保守性が強く、変えることそのものに抵抗する勢力が存在します。それが新型肺炎蔓延の懸念で簡単に吹き飛んでしまった。沈静化がいつになるのか予断を許しませんが、在宅で仕事が進むのであれば、そのまま継続すればいい。それによって、日本の業務慣習やビジネスのスタイルがガラリと変わるはずです。 

 学校にしても、初等教育は社会性を身に付けることも重要な課題なので集合教育は不可欠ですが、高校や大学で生徒や学生を教室に集める必要性がどこまであるのでしょうか。特に大教室での一方的な講義なんて、ネットにビデオを載せておけば十分です。出席しても寝ている学生が珍しくありませんからね。 

 しばしば言われることですが、単純な知識移転はネットに任せておけばいいのです。では教室で何を教えるというのでしょうか。写真が発明された当時の絵画と同じように、これまで漫然と行ってきた授業の内容や方法を見直す契機にもなるんじゃないかな。そのハシリが、PBLを中心としたアクティブ・ラーニングなんですけどね。

 いずれにしても、こんな災厄が日本を襲っているのですから、それを明日の福に転じる発想で立ち向かうのが政治家や知識人であるべきです。それなのに、目先の事態の後追いばっかりだもんな。これを機会に小・中・高校の子供・生徒たちすべてに順次タブレット・パソコンを支給し、トライアルでオンラインの授業を始めてもいいじゃないですか。新型コロナがどうなろうとも、このインフラは確実に未来につながります。そうした発想のもとで様々な対策に取り組むべきではないかと、ボクは言いたいのであります。

 

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2019年12月 2日 (月)

経済格差の不可視化

 

  本日の日本経済新聞朝刊には、奇しくも経済格差が階級として固定化していることを再認識させる意見が2つ掲載されていました。

「萩生田発言は、BSテレピのニュース番組で飛び出しました。もし、キャスターが直ちに反応し、『その発言は、経済状況による教育格差を容認するものではないか。文科相としていかがなものか』と咎めていれば、萩生田氏は自らの発言の重大さに気づき、すぐに発言を撤回していたかもしれません」(「池上彰の大岡山通信・若者たちへ」日本経済新聞2019年12月2日朝刊)

 萩生田文科相が「身の丈に合わせて」と不用意に発言したことで、新しく導入される大学入学共通テストの英語民間試験を見直すという大騒ぎに発展。それだけでなく、記述式問題の採点方法における特定企業との結びつきなど、様々な懸念が一気に吹き出してきました。萩生田発言は本人の意図に反して社会的な意味があったといえそうですが、ボクが注目したのは「もし、キャスターが」のくだりです。そのキャスターは、明らかに英語の民間試験を負担になるとは捉えていなかったのです。

  東京に住んでいて、それなりの収入のある家庭なら「英語は読み書きだけではダメな時代だからなぁ」と納得するのは不思議ではありません。ところが、地方の貧困家庭にとっては大変です。最低2回の受験料を負担しなければならず、近隣に英語の試験会場がなければ交通費が、遠隔地であれば宿泊費も必要になります。新制度ではIDカードによる2回の受験成績が大学に送られることになっていますが、民間試験ですから、お金さえあれば何度でも受験が可能。試験に慣れれば、普通は成績も向上します。つまりは家庭の経済格差が試験成績に直結するわけです。

 そんなことをキャスターはイメージすることができなかった。これが現代の大きな問題であることに、あなたは気づけますか。彼は貧困家庭の実態なんて意識の埒外だったのです。キャスターという花形職業に就いているのですから、現在の収入はともかく、それなりの豊かな家庭に生まれて、それなりの有名大学を卒業したはずです。そして、彼のまわりは似たような家庭環境と履歴を持つ人ばかり。そんな人たちの中で日々を過ごしていれば、地方の貧困家庭のことまで気が回らないのは当然かもしれません。

  その結果として、テレビの視聴者にも貧困家庭の苦しさが伝えられることは稀有になっていきます。いわばテレビのほとんどは、中産階級前後の人たちを念頭に作られているといっていい。たまに貧困にスポットが当たっても、真夜中に放送されるドキュメンタリーが精一杯ですもんね。

 それによって、経済格差は次第にインビジブル、見えにくくなってきたのです。不可視化と言い換えられるかもしれません。

 それを間接的に指摘したのが、同じく本日の日本経済新聞の寄稿です。教育ジャーナリストの朝比奈なを氏によれば、高校の入試偏差値で下位にあたる「教育困難校」には5タイプあると分析するだけでなく、「教育困難校の生徒の多くは、建設業や製造業、サービス業等に若くして就き、うまく適応できれば日本社会の基盤を支える役割を長期間果たしてくれる」と指摘しています。ところが「必要な指導が受けられない高校生が少なくないのが現実だ」として、次のように結語しているのです。

 「教育困難校の教育環境の改善は喫緊の課題であり、その最大の障壁は社会の無関心である」

 経済格差の固定化が階級を生み、その底辺は「無関心」によって不可視化されながら定着していく。これはもう21世紀のカーストとすら言えるかもしれません。そこまで追求して初めて報道の価値があると思うんだけど、テレビでは無理だろうな。何しろ視聴者の多くは、自分自身が格差の底に落ちることなんて想像もしていないですからね。

 

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2019年11月28日 (木)

MBAが会社を殺す

 

 ボクは1990年代から社会人の大学・大学院入学やリカレント教育を取材してきました。実践的な経営管理を教えるMBAも何度となく取材。1997年にはダイヤモンド社から訳書『MBA入学ガイドブック』、2002年には日経BP社から『インターネットでMBA・修士号を取る』を上梓しました。

 だから、本来的には経営者や経営幹部、管理職にとってMBA教育は必要という立場なのですが、近年はむしろMBAホルダーが会社を殺すのではないかと考えるようになってきたのです。

 そんな気分を直接的に刺激したのは、例によって日本経済新聞の連載コラム『私の履歴書』です。現在は化粧品のファンケル会長である池森賢二氏が執筆。創業時の苦労などを率直に披瀝しており、なかなか読み応えがあります。けれども、同社が上場し、池森氏が引退したあたりから、会社に暗雲が漂ってきます。外部から招きいれた経営者のマネジメントが、ことごとくうまくいかない。2010年からはリ・ブランディングに着手するものの、「悪循環から抜け出せなかった」として、彼は2013年にCEOに復帰しています。

 著者ですから、手前味噌の評価や判断もあるでしょうが、ボクはMBAを代表とする高学歴のプロ経営者が陥りがちな頭でっかちの発想が、ファンケルを殺しかけたのではないかと思います。MBAホルダーではないにしても、トップクラスの国立大学で経営学を修めた家具店の娘さんは、大衆路線に走ってライバルを増やすだけで、新味を何ひとつ打ち出すことができず、会社を身売り寸前の窮地に追い込んでしまいました。

 いろいろ書きたいことはありますが、長くなるので簡単に言ってしまえば、日本は「ぶら下がり族」が多すぎなんだよな。大卒者が少ない頃は高学歴にぶら下がり、次はブランド学校歴ぶら下がりとなって、さらには大企業にぶら下がる。長期不況で、それだけでは差別化できないとなると、アメリカの有名大学ぶら下がりがトレンドとなり、2000年代からはMBAぶら下がりといえば言いすぎかなぁ。

 学歴信仰はともかくとして、経営だけは学校優等生ではダメなんですよね。企業は常に競争や競合を勝ち抜く必要があるため、教科書や参考書に精通しているだけでは負けてしまうからです。戦争で類型的な戦術を取ったら、たちまち見破られて負けるに決まっています。企業経営もそれと同じですから、学校で学べることには限度があるのです。過去の知識や事象に精通しているだけでは評論家かモノカキにしかなれない。現場の経営は常にクリエイティビティが求められるといって過言ではないはずです。さもなきゃ起業どころか、ライバル企業に勝てるはずがない。

 ところが、MBAで学ぶのは過去のことばかり。あたりまえです。先のことなんて誰も分かりませんから。そもそも元祖とされるハーバード大学のMBAは、会計の専門学校としてスタート。それが発展して現在の2年制専門職大学院になったのです。会計学をベースとして、マネジメントやマーケティング、人材資源管理などが追加されてきたという経緯を正しく理解しておかないと、期待や誤解が妄想のように膨張してしまう。今でもハーバードやペンシルバニア大学のMBAを人生大逆転の魔法のように信奉して目指す人がいるだろうけど、経営の本質がクリエイティビティであることをきちんと理解すれば、そのコアの部分は学校ではとても学べないことに気づくはずなんだけどね。

 もしも仮に、MBAに経営の特効薬があるとしても、それを競争環境でみんなが服用すれば、たちまち効き目が減退するに決まっています。けれども、ボクたちは小学校の頃から教員に従い、教科書を素直に覚え、試験に回答するテクニックを身につけてきました。この段階でオリジナリティはまったく不要であり、そんなものを不用意に発揮したら高得点は取れないはずです。

 しかしながら、社会に出てから人真似ばかりでオリジナリティや創造性を発揮できなければ、ぶら下がりといわれても当然ですよね。そんなMBAホルダーが社長や経営幹部になれば、会社を殺すに違いないという意味なので、くれぐれも誤解しないでくださいね。

 

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2019年11月25日 (月)

難関フィルター(後)

 

 かつて司法試験は日本で最も難関とされていました。何しろ合格率は僅か3%前後。100人が受験して3人しか合格できません。例年2万5000人〜3万人が受験していましたが、記念受験や試し受験の多い司法書士試験とは違って、本気で受験準備してきた人たちがほとんどなので、実質的にも相当厳しい合格率だったはずです。

 今は法科大学院の修了が司法試験の受験資格となり、合格者数も増加したので、昔とは比較にならないほど楽になりました。ただし、法科大学院を経由しないサブルートの予備試験は最終合格率が3%台なので、この試験に難関の伝統が受け継がれているともいえそうです。 

 このように旧制度の司法試験は超がいくつも付く難関だったので、数点の差で何年も不合格が続く人が少なくありませんでした。このため東京大学卒業者でも5年10年の司法浪人は普通であり、聞くも涙、語るのも涙の苦労話はザラにあります。ただし、ある時にボクは、普通の人が5年も10年も司法浪人を続けられるだろうかという疑問を持ったのです。

 大学時代からの三畳一間に住み続け、警備員のアルバイトをしながら5年後に悲願成就という昔ながらのケースもありますが、結婚して子供までいる人が10年の苦節を経て合格という実例もあります。どうやって生活していたんだろうと、不思議に思いませんか。

 こういう場合は親が弁護士事務所を経営していて、子供に継承させるために受験専業を支援していることが考えられます。あるいは親が医者とか企業のオーナーとか、とにかく保護者がカネ持ちでなければ、2〜3年程度が精一杯でしょう。ということは、難関試験であることがライバルを淘汰するバリアーになっているといえるではありませんか。そして、難関であればあるほど有資格者のステイタスや特権も堅持されます。
 これは就活時の「学歴フィルター」と同じで、「難関フィルター」といえるのではないでしょうか。 

 それでも司法試験の出題はすべて法律の範囲内であり、法学部の卒業者でも試験自体はビギナーですから、スタートラインは基本的に同じです。家計的なハンデはあっても、必死で頑張り続ければ必ずしも不可能とはいえせん。ところが、大学受験は違うんですよね。ごく簡単に言い切れば、幼稚園、小学校、中学校、高校までの勉学の集大成といっていい。大昔の試験なら浪人を重ねれば学力差をリカバーできましたが、昨今の入試はそんなレベルではありません。東京大学を始めとする上位の国立大学や私立大学、そして医学部などの場合は、何度受験してもアウトということがあり得ます。家計が豊かなら合格しやすいとは言いませんが、貧乏な家庭よりはるかに有利であることは誰も否定できないですよね。東大生の親の6割以上が年収950万円以上という事実が、何よりの証拠じゃないですか。 

 さらに、私立大学では幼稚園から無試験のエスカレータという恵まれた人たちが存在します。こんな人たちが大手企業に就職。「あの会社のアイツとは幼稚園から一緒なんだよね」という話を聞かされて、マルクスとエンゲルスが喝破した階級社会は現代も続いていることをつくづく痛感したのであります。 

 断っておきますが、そう話した人に特権意識を感じたわけではなく、むしろ気さくで分け隔てのない人柄でした。ボクの乏しい経験では、カネ持ちの家庭に育った人ほど素直で、嫌味がまったくない、好ましい性格だったように思います。日本の象徴的最高位につかれたばかりの御方も同様で、円満で心優しいご性格に見受けられます。 

 それに比べて、ボクのような貧乏育ちは、やはりどこか下品で、賎しさを隠すことができません。ただね、いかに幼児の頃に優秀だったとしても、経済的な余裕がなければ私立のエスカレータ幼稚園に通うことはできず、どんなに努力しようが日本を象徴する皇族には絶対になれないのです。自由民主社会といいながら、このように本人の能力以外に基づくバリアーやフィルターがあっていいのですかと、皆さんに問いかけたいんだよな。

  もしかすると、そもそものアタマの出来がカネ持ちや先祖代々の高貴な御方とは違うと考える人もいるでしょう。そんな人には、いつも赤ちゃん取り違え事件の結末を説明することにしています。カネ持ちの家に生まれたけど、間違えて貧乏な家に引き取られた赤ん坊は苦学して夜間高校を卒業。仕事に満足できず、会社を転々と変わりました。一方、カネ持ちに引き取られた貧乏な家の子供は、日本でもトップの私立大学を卒業。大手商社の社員を経て、傘下の企業の社長に就任しました。

  ホラね。この話のどこに、天賦のアタマの差が出てきますか。親の経済力が子供の学力と将来に影響するということ以外に何か言えることがあれば、教えてほしいと思います。 

 しかしながら、ボクは人間すべてが同じ能力を持つなんて無茶なことは言いません。それぞれ違っているべきであり、さもなければ何十億人も地球上に存在する価値はないじゃないですか。だから、親の経済力による学力&学歴格差も仕方ないとすらいっていい。血筋だって、おそらくそれなりの違いはあるはずなので認めるにやぶさかではありません。 

 ただし、社会にいったん出たら、学歴や家柄など、すべてのフィルターを通さない完全な実力主義、能力主義であるべきです。その結果として昇進や役職や収入に格差が生まれても、受け入れるしかないですよね。誰もがオリンピックで金メダルを取れるはずないですから。 

 けれども、誰しも自分なりの色眼鏡を掛けているので、果たして完全に公平平等な人間判断や人事なんてできるんだろうかと、これまた疑問を差し挟む人がいるでしょう。答はイエスです。第2次世界大戦中の米軍海兵隊では、将官クラスでも降格され、抜擢人事も常識でした。有能であれば、ウェストポイントを出ていなくても、指揮官に起用。大きな作戦の重職を任せたといわれます。その一方で、日本は陸軍大学や海軍大学を卒業した席次がすべてであり、ミッドウェーで虎の子の航空母艦を3隻も撃沈されたにもかかわらず、南方に栄転なんてことがまかり通っていたのです。 

 つまり、長きに渡る安定が保守的なバリアーを生みだし、それがフィルターとなって人材が選別されていく。それによって滅びへの道が踏み固められるといっても過言ではないような気がします。こう考えれば、バブル崩壊以来、日本が30年にもわたって低迷してきた理由が分かったような気がしませんか。

 

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2019年11月22日 (金)

難関フィルター(前)

 

 本日は締め切りがあるので簡単に終わりますね。

 文部科学大臣が「身の丈に合った」なんてアホなことを言い出して、大学入学共通テストで導入される予定だった英語の民間試験が先送りになりました。それだけでなく、数学と国語の記述式も議論が噴出。こちらもどうなるか分かりません。さらには、某予備校関係者が審議会などに入り込んでおり、利益誘導したのではないかという報道も活発化しています。

 そうした動きはあっていいのですが、これまでのセンター試験にかわって、新しい大学入学共通テストが実施されるのは2021年1月なんですよね。つまり、あと1年ちょっとしかない。先に並べた問題があるとすれば、どうしてもっと前から俎上にのせなかったのかと不思議に思いませんか。あの大臣の失言をきっかけに大騒ぎになり、あれもダメ、これも見直しという具合です。ボクは今年4月に大学入学共通テストに関する記事を書いたので、何を今さらというのが正直な感想なのです。パブリックコメントなどを通して、それなりに合意を得てきたはずですから、様々な疑問は感じても、決定事項として記事化しました。それを、まさに卓袱台返しですからね。

 確かにね、英語における民間試験の利用は地域でも所得においても不公平が発生します。大都市部にいて、親がそれなりの収入があれば、何度も受験して試験に慣れてから、2回と予定されている本番にチャレンジできます。けれども、試験会場が遠方にある地方在住者は受験するだけで交通費などの経費と時間がかかります。家計が豊かでなければ、何度も受験費用をねだるわけにはいかない。

 だから、「身の丈」発言で蒸し返すのはいけないとはボクは言いません。そりゃ不公平ですよ。だったら、大学受験は不公平ではないのかと、どうしてそこまで議論が持ち上がっていかないのか不思議でならないのです。このブログで何度も紹介したように、東京大学の学生の親の6割以上は年収950万円以上ですぜ(日本学生支援機構「学生生活調査」2016年度)。ボクの家もそうでしたが、そもそも親が貧困で喧嘩ばかりしている環境で子供が勉強に専念できるはずがない。加えて、学習塾や私立の小中高校など、家計格差は教育格差に直結していきます。また、地方は大都市部に比べて受験情報に乏しいので、ここにも明らかな不公平が存在します。

 こんなことは昨日や今日に始まったことではなく、戦前、いや江戸時代からずっと続いてきたことです。なのに、英語の民間試験だけ不公平だと大きな問題にする。だったらさ、大学受験そのものを根本的に見直す気はないのかよと、ボクは言いたいわけです。

 そもそもとして、試験は学力による選別だけでなく、特権階級または上級国民を存続させる仕掛けにもなっていることに気づくべきです。封建時代は血族によって階級が継承されましたが、自由民主社会の現代は大学受験などの各種試験が階級を間接的に選別する、いわば「難関フィルター」になっているのです。来週のブログで、そのことを具体的にご紹介するつもりです。

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2019年9月26日 (木)

解釈よりアイデア

 

 テレビの討論番組が代表的なのですが、コメンテーターの発言は解釈ばっかりで、新しい提案がほとんどないんですよね。某大学法科大学院の某教授なんて、あたりまえで普通極まりないことを、よくもまぁあれほどしたり顔で言えるもんだと呆れてしまいます。そこらのオバハンでも言いそうなことを難しい言葉でくるんでいるだけで、新味すらありません。だから反論する余地もなく、毒にも薬にもならない。危ないことは絶対に言わない、いや言えない人だからこそ、各テレビ局が御用達にしているのでしょうか。

 まぁ学問の世界はそれでいいんでしょうね。もとより相手にしているのは過去の事象だけで、それを解釈・分析することで理論化していくのが文系学者の仕事ですから。しかも前例のない画期的な解釈なんてほとんど相手にされません。根拠の乏しい、それだけに独創的な発想は、思いつきであって学問的ではないと即座に片付けられてしまうんだよな。

 けれども、ビジネスの世界はライバルとの競合が絶えず、現在から未来を勝ち抜かなければならないので、過去の解釈だけでは通用しません。ビジネスモデルなどを真似れば訴えられることもしばしばあります。MBAで勉強する成功事例を純化した経営理論にしても、現実は流動的で変化に富んでいるので、日進月歩といっていいハイスピードで陳腐化していきます。そんなビジネスの世界で必要不可欠なものこそ、学者や保守的な経営者がアタマから否定しがちな「思いつき」なんですよね。

 あまり浸透していないようですが、本格的なブレーンストーミングで批判や反論を禁止しているのも、そのためです。独創的なアイデアは、すべてが思いつきといっても過言ではないのに、それを検討する前に前例を持ち出して否定するのは、生まれたばかりの赤ん坊の首を大人が締めるようなものです。

 歴史を遡ってみれば、前例や慣例などを無視した、突飛でヘンテコで意表を衝くような思いつきがビジネスや会社や、ひいては社会を発展させてきたことが分かります。飛行機にしても、人間は鳥のように空を飛べないと信じられていた時代に、「羽根があればいいんじゃないの?」と思いついた変わり者たちによる、前例を無視した試行錯誤が作り上げたものと言っていい。その結果を学者様が後追いでもっともらしく理論化しただけのことでね。

 だぁからさ、もう解釈論議はやめようよ。ボクはほとほと飽きました。要するにどうしたらいいのか、何をしたらいいのか。思いつきで十分だからオリジナルのアイデアを出せよ。日本は評論家があまりにも多すぎる。そうなったのも、日本の教育のせいだというのは、果たして言い過ぎかなぁ。

 

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2019年9月25日 (水)

人格教育(後)

 

 学校が学力を養成するだけの場所なら、学習塾で朝から晩まで勉強したほうがよほど効率的ではないでしょうか。写真が登場して絵画が写実から解放されたように、学校も学習塾の普及・浸透によって、学力以外の教育目的をきちんと規定すべきだったのに、どうにも文部科学省のスタンスは曖昧なんですよね。家計格差もあるので、「テスト勉強は学習塾でやってね」と言い切れないのは分かるけど、少子化でとっくに大学全入時代ですぜ。もはや学校が学習塾と勉強で競合する必要はないと思いませんか。

 テレビを持つ国民からカネを徴収するNHKが、CMを収入源とする民放と競う必要なんてないのに、大河ドラマや紅白歌合戦の視聴率をひどく気にするのと似ていますよね。それより時間と経費がかかる精密な社会派ドキュメンタリーを作れよ。

 話を戻すと、学力養成が学習塾の「専権事項」なら、一般の学校で何を教えるのかとなります。そんなもん実に簡単で、社会に出た時に必要な最低限の教養と法律知識、それに礼儀やモラル、マナーや生活スキルではありませんか。その上で学業成績の良い生徒は大学を目指せばいい。

 大学進学率はどんどんアップしてきたのに、侵入禁止の柵を乗り越えて岸壁で釣りをしたり、河川敷では違法で危険なゴルフの打ちっ放し。バーベキューをやったらゴミを散乱放置なんていう非常識が目に余るほど増加してきたのは、ひとえに義務教育のせいだとボクは思っています。実質的に全入といえる高校も含めて、コミュニティの一員としての義務や責任がまるで教えられていないからです。家庭でもテストで高得点を取ったら小遣いを追加するとか褒めまくるなんて、バッカじゃなかろうかと。テストで少しばかりいい点を取るよりも、社会生活で不可欠なことを学ぶほうが大切だと思わないのかなぁ。自分だけが幸せになれる社会は、他者を不幸にするんですぜ。

 随分長くなりましたが、この文脈で、ボクは学校で人格教育をやるべきだと考えているわけです。たとえばリーダーシップですが、大人になってから知識や理論を学べば身に付くというものではないでしょう。危機的な状況になると、我先に逃げ出す政治家や社長や経営幹部は多いんですよね。そんな口先だけの人たちを部下が信頼するはずがありません。強制的に彼らを支配しようとしても、心の中は自由ですから、カゲで悪口大会となり、大切な時に組織がうまく機能しないなんてザラにあるじゃないですか。そのかわりに、上司が違法に懐を肥やしていたら部下も必ず真似をします。収賄や横領などの汚職がひとつでも発覚したら、必ずといっていいほど周囲に同じことをやっている奴がいますから。

 そんな環境で、幹部社員がナレッジマネジメントの音頭を取っても部下は動きませんよ。尊敬できるリーダーによって理想や目標と崇高な志をみんなが共有しなければ、モチベーションを喚起できるはずがない。そうした内面を高めるような教育が、この国は徹底的に欠けているように思います。だからこそ、道徳や倫理に反したことが平気でできる。自分の子供だって扱いに窮したら殺してしまう国だもんね。

 お上に唯々諾々と従う温和しい国民が多いだけに、指示すればみんなが言うことを聞くと思われているようですが、そうでない奴らも結構います。そんな連中が弱者を踏みつけるようなことをするから困るんだよな。「勝てば官軍」というのは明治初期だけの話ではないのです。

 面倒くさいので結論を急げば、ナレッジをマネジメントしようとするなら、その土壌となる民度を高めなきゃ無理でしょうってことなのです。特に責任と義務。そして問題発見や創意工夫を楽しく面白く感じるメンタリティが共有されていなければ、リーダーがいくら笛を吹いても、誰も踊りませんよ。

 リーダーシップも民度も、学力とはまったく関係ありませんから、やはり子供の頃から肌身に馴染ませていくほかない。そのためには教員自身が無私・公正・平等で、正義を希求する利他的かつ誠実な人格者でなければならないのですが、教員にそんな適性を求める学校なんて稀有でしょう。先生という仕事が聖職から教育労働者に堕したことも大きな理由なのかな。

 文部科学省では高大接続改革に執心しているようですが、とにかくボクは人格教育こそが1丁目1番地(って誰かが言ってましたよね)であると主張したい。英語の勉強なんかよりよっぽど大切で、ボクたち自身の役にも立つと思いますけどね。

 

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2019年9月20日 (金)

入試改革(後)

 

「日本では多様化を趣旨とするAO入試や推薦入試が大学側の入学早期囲い込みの手段となり、かつこれら学生の学業不振が散見されたことが、今回の入試改革につながった。このため全般に入試の画一化が図られているが、これは時代に逆行している」

 今週の9月16日付け日本経済新聞朝刊に掲載された、国立情報学研究所・船守美穂准教授の寄稿の抜粋です。この寄稿によれば、アメリカはこれまでSATやACTといった全米標準テストの点数を大学入試判定の材料として利用してきました。ところが、近年になってこの点数の提出を任意とする動きが出ており、すでに千以上の4年制大学が標準テストを任意化する「テスト・オプショナル」を採用しているそうです。制度はいささか違いますが、日本でいえば、国立大学の受験に際してセンター試験を必須でなく任意とする感覚でしょうか。

 この「テスト・オプショナル」では、任意で大学に提出された標準テストの点数は参考にされるものの、2段階選抜や合否判定には使わないそうです。船守准教授は、その背景を次のように説明しています。
1)複数回数受験できる生徒に対し、受験費用が重荷となる層の生徒が不利
2)マイノリティーや親が大卒でないなど、大学に縁遠い家庭の生徒は受験テクニックに触れる機会が少ない
3)標準テストの点数でなくても高校の成績でおおむね判断できる

 ボクが昨日のブログで指摘したように、現在の大学受験は必ずしも公正平等ではないという認識が強くなり、志願者や合格者を多様化できるよう任意化が進められていると考えられるでしょう。日本でも2020年度から標準テストであるセンター試験が大学入学共通テストに変わりますが、英語4技能試験や記述式問題の追加など、要するに出題方法や内容が「改革」されただけのことで、入学者の多様化なんてまるで考慮されていません。前述した①から③までの背景はアメリカのみならず日本だって同じですから、どこの何を見据えた入試改革なのだろうと疑問を感じますよね。

 ドイツでも、大学入学の条件としてきた高校卒業証明を不問とする入学枠が拡大しているそうです。大学進学者が小学校高学年で選抜されてしまうため、こちらも早期から社会で働いてきた人に大学で学べる門戸を開いたということです。

 船守准教授による寄稿の結語は「今日の日本は少子高齢化の中で人手不足が言われ、大学は定員割れの危機にさらされている。大学に縁遠かった層を取り込み、適切な教育をして、社会に送り出すことが必要だろう」となっています。

 昨日のブログはいささかエキセントリックな論理展開としても、この意見にはまったく賛成です。日本の入試改革は相変わらず「志願者を落とすため」の制度ですが、欧米では様々な層の人たちを「受け入れるため」の入試制度に移行しつつあるといっていい。消費税を始めとして、悪いことは率先して真似するのに、良いことはちっとも真似しない。行政もボクたち庶民のメンタリティと大して変わりないわけですな。

 官僚が東大などの高学歴者で固められていることを考え合わせれば、やはり既得権を代々継承させていくつもりかなぁと、気分は暗澹としてきます。これは生物の進化にも逆行しているんですけどね。

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2019年9月19日 (木)

入試改革(前)

 

 絵画や版画、彫刻などの美術分野だけでなく、小説でも芥川賞が授与された異能多才の芸術家、池田満寿夫(1934~1997年)は、東京藝術大学を3回受験して不合格。断念したといわれます。こういうことを紹介すると「藝大なら5~6浪はあたりまえ」「16浪で合格した人だっている」と、分かったふうなしたり顔で言う人が必ず出てくるからイヤになるんだよな。

 東京藝術大学の関係者は、このエピソードを知って恥ずかしいとは感じなかったのでしょうか。「芸術」という高尚な名称を擁する大学のクセに、後に世界的に評価される芸術家を3度も入口で落としたんですぜ。もしもボクが学長なら「いったいどんな試験をやったんだ?」と入試担当者を問い詰めるでしょう。仮に池田満寿夫が多摩美や武蔵美を併願して入学していたら、歴史に残る超有名な芸術家をみすみす奪われたことになり、彼を不合格にした汚名とあわせて、その広報的&人材的な損失は甚大と言わざるを得ません。
 にもかかわらず、彼の才能を見抜けなかった不明を詫びるようなコメントを、少なくともボクは聞いたことがありません。むしろ逆に「アイツを落としたんだからウチの入試はすごいぞ」と、カゲで自慢している可能性のほうが高いんじゃないかな。ではお訊きしますが、いったい何人の卒業生が池田満寿夫ほどの業績を残しているのでしょうか。

 東京藝術大学は国立ですから、私立と違って文部科学省の直接的な管理下にあります。にしても芸術大学ですからね。国語や世界史など一般教科の点数が創作に及ぼす影響なんて微々たるものであり、ましてや噂されるようにデッサンが流儀に合わないから不合格にしたというなら、それこそ関係者を叱責すべき大失敗だと思うんだけどなぁ。

 もっと分かりやすくいえば、凡庸な学力優等生を100人合格させるかわりに、何千万人に1人の非凡な天才を3度もふるい落とした試験であることを、もっと深刻に受け止めるべきではないでしょうか。

 ところが、このように大学入試を考える人は極めて少ないんですよね。日本だけでなく韓国にしても、入試や各種の試験は難しければ難しいほど価値があり、その合格者も最優秀と信じられています。けれども、一般的な入学試験で問われるのは国立大学で5科目、私立なら3科目以下ですよ。そんな特定分野の学力を、ほぼ同時期一斉に実施されるマークシートのペーパーテストで評価する。単純な選択問題では誰でも高得点となって受験者を差別化できないので、必然的にヒネリや引っかけの多いクイズのような設問になってしまう。つまり、学力の審査というより受験者の順位付け、もっと明け透けに言えば、落とすための出題が入試の本質といっても過言ではないはずです。

 そんな入試に多数の受験者が押しかけるため、人気の高いブランド大学や医学部では1点2点の違いが合否を分けることになります。かくて見かけ上は難関化して選抜機能が働くとしても、合格者が不合格者より全人的に有能とは限らないではありませんか。ちょっとばかり点数を多く取ったからといって、そのこと自体が社会に出てからどれほど有意な違いになるかは体験的に分かりますよね。

 しかも、試験が難関化すればするほど、知識でなく出題に対応した解答テクニックが必要になってくるので、合格率の高い学習塾や予備校は満員御礼となります。つまり、今さら説明不要ですが、私立の幼・小・中・高校も含めて、親の経済力が子供の学力に大きく影響することになるわけです。実際に、東大生の親の6割以上は年収950万円以上というデータがあります。大学入試を近視眼でなく長期的かつ社会的に俯瞰すれば、およそ公正平等とはいえないんじゃないかな。

 衆知のように、2021年1月にはセンター試験に代わって大学入学共通テストが実施されます。文部科学省では、これを高校と大学における新しい教育を推進するための「入試改革」の始まりと位置づけていますが、これが果たして「改革」なのかなぁ。入試改革は欧米でも活発に進められているのですが、落とすためではなく、池田満寿夫のような才能を取りこぼさないことが主眼なんですよね。これこそが多様性の重視ってことではありませんか。

 またまたちょっと長くなったので、この続きは明日ということで。

 

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