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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

教育・子育て

2017年3月 1日 (水)

自由からの逃走

 

 教育というのは、国家の命令に素直に従う兵隊さんを量産することなのかなぁ。ボクは逆に、何にでも疑問を持ち、自分自身で自分なりにモノを考えられる知性を育てることだと思ってきたんですけどね。さもなきゃ生きたロボットと同じではありませんか。「上からの指示」「上からの命令」を伝言ゲームで下達するだけの人間が大多数を占める社会は、権力者には都合がいいだろうけど、自分の幸福を自分自身で追求することができなくなりますよね。

 

 エーリッヒ・フロム(1900~1980年)という社会心理学者が1941年に『自由からの逃走』を発表しました。読んだことはありませんが、名著というのはタイトルからして画期的で分かりやすいんですよね。この『自由からの逃走』も、それだけで内容をある程度予想できるはずです。さらに、ナチスによるファシズムが最高潮となって戦争に突進していった時代性を加えれば、「人間はどうしてせっかく勝ち取った自由を捨てるのか」とも言い換えられるでしょう。

 

 近代までの歴史は、奴隷が個人としての自由を獲得するための戦いだったとボクは理解しています。そのクライマックスとなったのが18世紀のフランス革命であり、貴族や王侯が支配する封建社会が崩壊する契機となりました。反動やクーデターや王政復古があったものの、やがて市民が主体となった社会が確立していったわけです。

 

 そのために膨大な血を流した闘争を経て、ようやく獲得したのが自由にほかならないのに、どうして20世紀にもなって「全体主義」=ファシズムに人々が熱狂し、1人の独裁者に無批判に従うのかと、フロムは考えたはずです。

 

 理由は簡単で、フロムの意見と同じかどうかは知りませんが、ボクの私見を表明すれば、自由というのは不安が伴うからです。檻の中で長くエサを与えられて、馴らされてきた動物または囚人を想定すれば分かりやすいですよね。檻が開いて「今日からお前は自由だ」と言われても、どうしていいかと途方に暮れるでしょう。その日からエサの取り方も自分で考えなきゃいけない。もはや看守や管理者の指示や命令はないので、何もかも自分の責任で決断していくことが求められるからです。

 

 それでも温暖で自然豊かな生活環境なら、エサ=食糧を自分で得るのはそれほど困難ではありません。ところが過酷な厳冬を迎えて、エサがどこにもない状態で養うべき家族がいるとします。そうなれば、不安どころか、何もかもを自分で決めなきゃいけない自由を大きな負担と感じる人もいるでしょう。敢えて過激に言うなら、飢えるのも個人の自由となるからです。

 そこに「オレに黙ってついてきたらハッピーになれるぜ。そのかわりに文句や不平は一切なし。とにかく従え」と言われたら、せっかく手に入れた自由を捨てて隷属したくなる気持ちも分かります。

 

 その中には、アドルフ・アイヒマンのように「命令されたから」という理由でユダヤ人を大量虐殺した人物もいます。極めて事務的に効率的にホロコーストを進めたとされていますが、彼にとって個人の良心など業務遂行に不要なものだったようです。人権や慈悲を考えることもできる自由を捨てたからこそ、膨大な数の殺人を繰り返しながらも安寧が得られたのではないでしょうか。

 

 過度な帰依を強制する宗教はそれと似たところがあって、不安や怯懦を感じて自由から逃げ出したい人たちを誘うのです。しかも、縛り=制約が多いほど安心するという、奇妙な心理的メカニズムもあります。

 

 このように自由が必然的にもたらす不安を解消するのが、ボクは教育のひとつの目的であり意義だろうと考えてきました。自由には、何よりも教養と知恵が必要なのです。教養は自分が目指すべき道標を示し、知恵は自立を大いに助けることになります。

 

 にもかかわらず、特定の理念を幼児に押しつける教育を行う人がいるということに、いささか驚かざるを得ません。フロムが生きていたら、何て言うかなぁ。

 

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2017年2月 1日 (水)

習慣が感性を養う

 

 大学病院の不祥事が相次いでいます。

 ちょっと前には未熟な腹腔鏡手術で通算30人にも上る死者を出した医師がいましたよね。昨日は肺がんの検査結果を見逃して1年間放置。もはや手術不能の病状にまで追い込んだ不手際が公表されました。さらに、子供に別の患者の薬を投与して翌日に死亡した事件も発覚。医師の卵とはいえ、ワインを飲ませて女性を酩酊させ、集団強姦を行った卑怯千万な連中の裁判も始まっています。

 

 もちろんすべての大学病院が同じ問題を抱えているわけではなく、医師だって良心的な人のほうが圧倒的に多いと思いますよ。ただ、これはボクの個人的な経験と限定しておきますが、いささか傲慢なところがあるように感じたのです。もしかすると、患者から「先生様」扱いされることに慣れてしまっているんじゃないかな。民間病院でも似たような傲慢医師はいるはずですが、大学病院はちょっと質が違うなぁと感じたことを覚えています。

 

 とはいえ、今回のテーマは大学病院ではありません。あくまでも仮に、ですけど、「先生様」扱いに慣れた医師というのは、患者を親身に考える感性が次第に鈍くなっていくのは当然ですよね、と言いたいわけです。

 

 ここから昨日の続きになりますが、であるなら感性というのは「習慣」が作るといえるのではないでしょうか。「オレ様の治療法が唯一」ではなく、「より効果的な二の矢、三の矢の治療」を想定するのは、理屈や理論でなくて感性だろうとボクは思うのです。「標準治療」に従うのも結構ですが、病気というのは頗る多様であり、同じ病名でも個人個人の原因や症状は基本的にそれぞれ異なるという認識=感性を持っていないと、重要なことを見逃すこともあるはずです。

 

 こうした感性は、教えられたら身につくというのものではありません。思考の奥深くで精神性にも結びついていることですから、認識が感性にまで転化して、それがコンピュータではいえばOSの中にきちんと組み込まれていないと、応用できないのです。

 

 そのためには、やはり習慣として繰り返していくほかないでしょう。たとえば「こんなもんでいいよね」と適当にやり過ごすことを習慣にしてしまえば、物事の深いところまで気づくことができなくなります。もちろん能力的にも伸びることはありません。

 その一方で、いつも「これでいいのかなぁ」と疑問を持つ習慣があれば、感性も鋭敏になっていかざるを得ないじゃないですか。それで幸せになれるかどうかは別問題ですけど。

 

 手前味噌で恐縮ですが、このブログは土日祝を除いて毎日書いております。プロのライターといっても、日々の出来事ではなく、それなりにテーマを設定して、そこそこの内容に仕上げるのは決して楽ではありません。ネタがまったく見当たらなくて、書いては消すを何度も繰り返すことだって普通にあります。

 けれども、「こうする」と心に決めて、それが習慣になってしまうと、辛くても書かないほうがむしろ気分が悪い。だから出張などで時間が取れない時は、事後でなくて事前に告知するようにしています。さもなきゃ逃げることに等しい、というのがボクの感性になってしまいました。

 

 このように習慣化することで感性が磨かれるとするなら、天賦の才能や知力なんかまったく関係ないですよね。どんな子供でも、毎日の習慣を通して勉強しないとどうも気分が悪いという感性を持てれば、成績が上がらないはずがありません。その上で何にでも疑問を持ち、自分の力で答を見つけることが快感になってくれば、安易なヒト真似やパクリは生理的に我慢できなくなるんじゃないかな。

 

 そうなると、どんなに辛い苦労があるとしても、自分だけのオリジナルを創造したくなります。そうした人の中からスティーブ・ジョブズやノーベル賞受賞者が生まれてくるのだと、ボクは思うのですよ。

 

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2015年12月 8日 (火)

指導者の原理


 教育の本質は学生や子供たちに自ら考えさせることであり、そのためには何よりも教える側に愛情がなければならない。当たり前のことかもしれませんが、それをきちんと実践できている先生が果たしてどれだけいるでしょうか。

  帝京大学ラグビー部の岩出雅之監督の講演を聴いてきましたが、学生よりも社会人が知るべき示唆に富んでおり、感銘を受けると同時に、自分の未熟さも痛感させられました。同大学のラグビー部は大学選手権で史上初の6連覇という偉業を達成しましたが、いわゆる体育会系の鉄拳&熱血指導とはまったく違っていたのです。

  岩出監督の人柄や話し方からして予想外に穏やかであり、言われなければ体育会系運動部の指導者なんて想像できないと思います。もちろんグラウンドでの実際がどうなのかボクには分かりませんが、少なくとも軍隊的な上下関係を強いる人ではないことは確かだと思います。

「うちのラグビー部では1年生が一番ラクなんですよね。僕はたまにみんなが生活している寮の玄関を掃除するのですが、その時に何も気づかず通り過ぎていくのが1年生。2年生になると僕だと認識できるので、ケータイなんかをいじくって気づかないフリをする。3年生は『監督、僕らがやりますから』と声をかけて箒を手にする。ところが4年生は何も言わず、僕が知らないうちに掃除をしています」

  監督は笑い話のように紹介しましたが、社会人の管理職ならこれこそが「自ら考える組織」の典型だと理解できるはずです。

  一般的な体育会では1年生に雑用を押しつけるのが常識でしょうが、帝京ラグビー部では逆になっています。というのも「理由が分からないのに、あれやれこれやれという指示ばかりでは面白くないし、何も身につかない」というのが監督の理屈です。かくて、理由が分かった先輩が実践することで、後輩たちはその背中を見て学んでいくことになります。

  そうした自主性の高い組織でなければ、6連覇なんて不可能でしょう。優秀な監督が優秀な連中をいくら指導しても、上意下達の一方的なやり方では結果なんて一時的なものに過ぎません。監督自身がグラウンドでプレーするわけではなく、選手だって4年後には卒業していくからです。

 学生たちが自分自身を育てながら、後輩も指導していくような組織でなければ永続性は望めません。これを監督は「考える→分かる→できる→楽しい」というサイクルを体験させることで実現してきました。

  このサイクルはラグビーに限ったことではなく、社会に出てからもいろいろと応用することができます。むしろ卒業後にも長く役立つことを大学4年間で学んで欲しい、というのが監督の願いなのです。

  しかしながら、彼が同大学に招聘された20年前は「トレーニング器具も文化もなかった」そうです。何もかもゼロからという厳しい出発は、監督自身も成長させたに違いないとボクは想像します。

 そして、「自ら考えさせる」というのは誰でも言えますが、実践するとなると指導者は大変な我慢が必要となります。学生が答を見つけるまで待ち続けられない先生のほうが多いんじゃないかな。

  にもかかわらず、岩出監督はなぜ辛抱強く何年もかけて「文化」が根付くまで見守ることができたのでしょうか。その理由が学生に対する愛情にほかならないことに気づいたのは、恥ずかしながら講演後の翌朝でした。教育スキルやトレーニング理論も大切でしょうが、指導者に深い愛情がなければ学生の心にはおよそ届かないんですよね。

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2015年10月 6日 (火)

歩きながら食べる人

 

 先週の土曜日、午前10時くらいかな。遠目でもスタイルの良さがはっきりと分かる、華やかなワンピース姿の若い女性がこっちに歩いてくるのを発見しました。スレンダーな八頭身は、モデルにはなれないにしても普通をかなり超えるレベルです。年齢は30代にはなっていないアラサーと推定しました。

 

 彼女は恵比寿駅に向かっているらしく、次第に顔も識別できるようになり、そこそこに整った美人であることも判明して「こりゃ朝っぱらから運が良いわい」と助平なジーサンみたいなことを心で思ったのですが、手の動きが何か奇妙なのです。

 

 注意深く観察してみると、彼女は手にオニギリを持っていました。でね、それを時々口に持っていき、ムシャムシャと頬張っているわけです。ボクは驚愕しました。こんな女性がそんなことをしてはいけない、というか、雰囲気もボクの心情もぶち壊しですもんね。

 

 見たところ、特に急いでいる足取りではありません。もしも死ぬほど空腹というなら、そこらに腰掛けて食べればいいではありませんか。なのに、どうして歩きながら食べるかなぁ。美しくないし、エレガントじゃない。

 

 にもかかわらず、本人はそのように見られることをいっこうに気にしていない風情です。ここに至って、どういう育ち方、じゃなかった育てられ方をしたのかなぁと呆れ果ててしまいました。

 

 それに対して「個性的じゃんか」「面白い!」「何をどうしようが本人の勝手」「お前なんかに言われたくない」など様々な感想もあるでしょう。けれども、社会生活を送る上では、ある程度の共通認識や常識が必要となりますよね。それは他人のためであり、翻れば自分のためでもあります。それに基づいたふるまいを教えることを「躾」といいます。つまり、身を美しくする=エレガントな所作をすることは、自分を魅力的に見せるってことなんですよね。

 

 そういえば、以前にホールをラウンドしながらオニギリを食べていた若いプロゴルファーがいましたよね。また、東京大学に入学するために勉強以外は何もやらなくていいという教育ママも話題になりました。家庭内ではそれこそ何をどう教えようが勝手ではありますが、子供たちにとってはゴルフのトーナメントで優勝することや東京大学合格が人生唯一の目標ってことでもないでしょう。友人や同僚とつきあったり、恋だってするじゃないですか。そんな時に、礼儀知らずで不躾で非常識であっても許されるのは、世界でも有数の大金持ちくらいじゃないかな。たいていの人は「100年の恋もさめる」という結果になるはずです。

 

 歩きながらモノを食べたり飲んだりするのは不作法である、ということを親から教えられない状況というのはどういうことでしょうか。前述したように親が敢えて教えないか、教えられないかの二通りしか考えられません。前者は確信犯なのでおいておくとして、後者の場合は核家族化の継承で躾の標準=スタンダードを喪失したからだと思います。つまり、これが常識じゃないか、当然だよね、という概念がすっかり崩れてしまっており、親が自信を持って躾けることができないんじゃないかな。

 

 いずれにしても、大人になってしまえば、クチャクチャと音をたててモノを食べるみっともなさを注意してくれる人はいません。陰でボロクソに言われているのに、本人は気づかないのですから、これはもう悲惨というほかないじゃないですか。寿司もそうですけど、よくもまぁあんな下手くそな食べ方でテレビに映るもんだというリポーターやタレントもいます。ごはんのほうに醤油を付けるためにボロボロ米粒をこぼしながら「おいしーい」はないですよね。最近はそれを防ぐために上を向いて食べるリポーターも見かけましたが、これはちょっといただけません。本人だけでなく、それを視聴する子供たちに悪影響を与えるとボクは愚考しますけど。そんなことが懲りずに繰り返されるのは、周りが注意しないか、周りも食べ方を知らないからでしょう。

 

 それって、やっぱ美しくないし、エレガントじゃない。もちろん、かく言うボクだってそんな理想とは違った不作法を平気でしているはずです。誰も注意してくれないから、「あれで良かったのかなぁ」と後悔することしきりですけどね。

 

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2014年10月16日 (木)

ボール投げ

 

 文部科学省の調査によれば、子供の運動能力は「ボール投げ」だけが目立って低下しているそうです(1016日付け日本経済新聞朝刊「春秋」)。走力や俊敏性など、ほとんどの要素が向上しているにもかかわらず、たとえば10歳男児の遠投では東京オリンピックの頃に比べて距離が20%、6メートルほど縮んだとされています。これはテレビでも報道され、「適切な投げ方を知らないのではないか」と指摘する識者もいました。

 

 えー、ワタクシゴトで恐縮ですが、実はボクもボール投げが苦手というか、まったく飛ばなくてみんなに笑われた記憶があります。普通の子供より身長は少しだけ高く、小学校低学年の頃から水泳をやってきた体格だというのに、ボールを投げさせるとまるでダメ。もしかすると女子よりも距離が短かったかもしれません。これでは誰だって笑っちゃいますよね。

 

 前述の識者による解説に加えて、ネットでも紹介されていたので、やっと今になって分かったのですが、そもそもボールの握り方からして違っていたようです。人差し指と中指、それに親指を中心としてボールを挟むように掴むのが正解のようですが、その握り方を小学生のボクは知らなかったわけではありません。けれども、それを変化球や魔球の握り方だと信じており、遠投の試験では猿のように指全部を使って投げていたのです。これではボールの手離れが良くないので、遠くに飛ぶはずがありません。

 

 なんでまたそんな間違ったことを信じていたかというと、当時は巨人軍の長嶋&王選手が国民的なヒーローで、野球漫画も圧倒的に高い人気を集めていました。しかしながら、ボク自身は野球というスポーツをほとんどやったことがなく、キャッチボールの経験もありません。子供会のチームの員数合わせで呼ばれた時に、借りたグローブを利き手の右につけようとして注意されたことがあるくらいです。

 

 つまり、野球なんてロクにやったことがないのに、漫画だけは熱心に見ていた関係で、消える魔球だとか何とか過剰にデフォルメされたフィクショナルな知識だけはあったわけです。それで、正しい握り方を魔球用に違いないと信じ込んでしまったらしい。この魔球用で投げればもっと飛んだはずですが、それでも「投げる」という動作自体に慣れていなければ、距離が伸びるはずがありません。

 

 何が言いたいかといえば、ボール投げの距離低下は、東京オリンピックの頃に比べて、ボクのように野球に馴染んでいない子供が増えた結果ではないかということです。かつては野球がスポーツの王様で唯一無二の存在だったのですが、子供が憧れるスポーツはサッカーを始めとしてどんどん多様化してきました。その中でボールを投げる動作が必要不可欠というのは、およそ野球かソフトボール、ハンドボールくらいしか見当たらないじゃないですか。

 球技に限っても、ボール投げなんてむしろ特殊な動作にもかかわらず、子供の体力測定のひとつとされてきたのは、やはり野球の人気が背景にあったとしか考えられません。

 

 そうした特殊な動作を体力測定の中に含めて、過去と定点的に比較してアップしたダウンしたと判断することのほうがおかしいってことなのです。大人は時として頭が固いんだよなぁと子供たちは呆れているかもしれませんね。

 

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2014年9月17日 (水)

少子化対策

 

 内閣府特命担当大臣として少子化対策担当が設置されたのは20078月でした。今年の9月に任命された有村治子氏で何と15代目にあたります。その割には有効な政策が打てなかったらしく、少子化にまるで歯止めがかかっていません。代々木ゼミナールが予備校事業の大幅な縮小を発表したように、いよいよ各分野で直接的な影響が出てくるでしょうね。

 

 この少子化=出生率低下の原因は様々に分析されているようですが、要するに子供を持つことが女性にとってリスキーであることが大きな背景になっているように思います。待機児童の問題なんて小泉政権の頃から続いていますからね。いくら子供が欲しいと思っても、面倒を見てくれる親世代と離れて暮らす核家族であれば、母親のビジネスキャリアは必然的に中断せざるを得ないわけです。

 

 このリスクを母性というボランティア精神に委ねて騙し騙しやってきたのが実態であって、そうした社会の本質というか正体がバレてしまえば、「アタシばかり損するなんて冗談じゃないわよ」と感じる女性が増えても不思議ではありません。だからといって子育て奨励のお金をばらまいたところで、「そんなのなくても子供が欲しい」から「年収1000万円でも将来を考えれば不足」と考える人までいろいろあるわけです。

 

 こうした子供に対する考え方の違いがあるからこそ一筋縄ではいかないのですが、抜本的な方法がないわけではありません。子育ての時期とビジネスキャリアを蓄積する時期をひっくり返せばいいのです。

 

 以前にもご紹介しましたが、あるアメリカ人女性は学生結婚して大学を中途退学。2人の子供を出産しました。下の子供が12歳になった頃に彼女は大学に復学。さらに大学院まで進学して政治学の博士号を修得しました。この学歴をベースにニューヨークの役所に就職して、ボクが取材した時には上級公務員に昇進していました。

 

 ヨーロッパでも、若い頃に結婚して出産。子供に手がかからなくなってから大学に入学してジャーナリズムの学位を修得。卒業後はマスコミで活躍していたという女性を取材したことがあります。

 

 子育てに手間がかかるのはせいぜい10歳くらいまでですよね。この10年間のために、せっかく築いたキャリアを中断して出産・子育てをしなきゃいけないというのが現状ではないでしょうか。そして、一部の専門職を除いて、いったん中断したキャリアを再開するのは大変に困難なわけです。であるなら、まず結婚・子育てという大事業をこなした後で、本格的に社会に出るという生き方があってもいいのではないでしょうか。

 

 ただし、そのためには雇用の流動性が確保されていることが条件になります。現在のような新卒一括同時期採用では、子育て後のお母さんといえばパートかアルバイトといった非正規雇用が精一杯でしょう。積極的に女性を役員や管理職に登用すると喧伝されている割には、その程度の社会でしかないことに気づくべきだと思うんですけどね。

 子育て後の女性でも本格的に社会参加できるということは、男性だってリスタート=やり直しが容易になるので、男女双方ともにより生きやすい社会になるのではないでしょうか。

 

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2014年8月 7日 (木)

みんなと一緒

 

 学校というのは、考えてみれば実にまったく大変な矛盾を抱えた場所であることに気づきました。

 

 一人っ子でワガママで天の邪鬼で変わり者で、ワードを使うと緑の波線ばかりの文章になってしまうボクだから感じるのかも知れませんが、たとえば「みんなと一緒にしなきゃダメ」という指導と「みんなと一緒じゃダメ」という指導が混在しているのです。

 

 現実には幼児の頃から「みんなと一緒にしましょうね」と言われることが圧倒的に多いのですが、いくらか成長して高校の美術なんかになると「みんなと一緒じゃダメ」みたいなことを言われるようになります。生徒の描く絵がすべて似たような色の似たような雰囲気の絵ばかりでは、教師の力量が問われますもんね。

 体育にしても、最初は「みんなと同じように」なんてことを言われますが、部活レベルになれば「そんな当たり前のことをやって勝てるか」と怒る監督やコーチが登場します。他人に勝つためには「みんなと一緒じゃダメ」なのは当然ですから。

 

 ところが、一般的な教科では独自の理解や勝手な解釈では点数が取れません。「みんなと一緒」の理解をした上で、先生たちが期待する予め決められた答を見つけられる子供が良い成績となります。このあたりでボクなんかは「一緒でいいのかそれじゃダメなのか、いったいどっちやねん」と疑問を感じたのですが、賢い子供ほどそうした矛盾を感じないでみごとに適応していくようです。「そういうものだ」と諦めて受け入れたほうが大人に褒められるので、むしろ積極的にそれに慣れようとするのかな。

 さもなきゃ尾崎豊になったりしてね。

 

 そうした教育を長く受け続けると、今度は自分から「みんなと一緒でありたい」と考えるようになります。ボクの場合は言うまでもなく「みんなと一緒じゃイヤ」でしたが、それが変人特有の感想なんて長いこと気づかなかったのです。たまたま流通小売り業で働く人の取材をしていて、「休みの日がみんなと違うのがイヤ」という感想を聞いて仰天しました。どこに行っても空いている平日の休みのほうがいいに決まっていると思い込んでいたのですが、そうではなかったのです。

 そろそろやってくる盆休みも同じで、毎年毎年飽きもせず高速道路や新幹線の混雑ぶりが報道されます。だったら休暇を分散すりゃいいのにと昔から言われてきたにもかかわらず、いつまでたってもそうはなっていません。これは、いくら混雑しようが大渋滞になったとしても、「みんなと一緒」のほうが安心できると考える人が圧倒的に多いからではないでしょうか。

 

 その証拠に、禁止場所での釣りや花火の際の理不尽な場所取りや川辺のバーベキューでの大騒ぎから富士山のゴミまき散らしなど、「みんなやっている」ことを理由に同じことをやっている人が少なくないですよね。

 

 にもかかわらず、ですよ。コピペはいかんというのは、どういうことでしょうか。「みんなと一緒」のカタマリみたいなものなのに、それだけはアカンておかしくないですか。就職活動の面接も同様で、ありきたりのサークル体験や海外研修なんて「みんなと一緒」という理由で聞き飽きたと言われるわけです。

 

 端的にいえば、20歳をちょいと過ぎたあたり、教育の最終工程で突然に「みんなと一緒じゃダメ」と方向転換されてしまうのです。素直に先生の言うことを聞いてきた優等生ほど当惑するような気がします。そこをうまく使い分けるのが本当の優等生と言われると返す言葉もありませんが、先生自身は矛盾を感じないのでしょうかねぇ。

 もっとも、そんな時期は人生のごく一瞬で、会社や組織の一員になれば、すぐに元に戻ってしまうんですけどね。

 ボクにしては皮肉っぽくて、かなりの誇張もありますが、こういうことをきちんと交通整理して考えるようにしないと、もしかすると「いじめ」の撲滅や創造性の涵養にも限度があるんじゃないかと思ったのです。

 

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2014年8月 6日 (水)

スペック

 

 タイの女性に代理出産を依頼したものの、双子のうち1人はダウン症だったので引き取りを拒否したオーストラリア人夫婦が話題になっています。中絶を指示したのに彼女が拒否したとか、もともとそのような契約があったとかいわれており、単純に批判することはできませんが、大人の都合丸出しのトラブルであることは事実ですよね。

 

 このダウン症は染色体の異常が原因なので、胎児の段階で分かるらしいのですが、そのほかのことが仮に分かれば、この夫婦はやはり引き取りを拒否したのでしょうか。IQが100以下になる可能性が高い子供とか、あくまでも悪いたとえですけど佐世保の事件のようなことを引き起こす子供とか。それを理由に中絶するとすれば、やはりあくまでも比喩的な表現ですが、満足する当たりが出るまでクジを引き続けるような親が出てくることも考えられるではありませんか。

 

 このように表現するとひどい話に思えても、実は自分たちも似たような判断をしているわけです。たとえば大学の偏差値なんか典型的ではありませんか。難関大学に入学したら優秀で、Fランクはどうしようもないとか。今のところは無理ですけど、オンギャーと生まれる前からそうした偏差値の上限みたいなことが分かったら、親はどう判断するのかなぁ。トンビがタカを生まないことくらいは分かっていますけどね。

 

 では、人間はそうした能力が最初からパソコンのように設定されているのかとなるわけです。つまりメモリーの容量や演算速度といった「スペック」ですよね。パソコンの場合は、購入した段階の「スペック」が使っているうちに向上していくなんてことはあり得ません。劣化はするでしょうが、突然に速度が速くなったり、メモリー容量が増加するなんてことはないわけです。

 

 ところが、人間の「スペック」はパソコンと違って変化していきます。だからこそ教育が成立するにもかかわらず、学校の入学段階では「スペック」のような偏差値でいろいろと判断されることになります。そうした教育の最終工程となる大学から、この学力偏差値はあたかも能力として定着することになります。つまり、大人になると「スペック」は変わらなくなると判断されているようですが、そんなことはないですよね。だったら「伸びしろ」なんて言葉はおかしいということになるではありませんか。

 

 だからといって、誰だって努力次第で天才や秀才になれるとは思っていません。しかしながら、人間の「スペック」は生来から決められているものでもないはずです。では、何がこの「スペック」を変えていく原動力になるでしょうか。ボクは、それが「動機」と「方法論」だと思っています。

 

 つまり、この2つを提供できない学校や教育は、根本的な要素が欠けていると思うのです。そして、学校を卒業して社会人になっても、この2つを自分で見つけることさえできれば「スペック」を変え得るはずです。もっとも、このあたりを自己啓発ビジネスはうまく突いてくるわけで、「自分が変わったような気がする」ことに十分な警戒が必要なんですけどね。

 

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2013年12月26日 (木)

沈黙は金?

 

 かつて「田村でも金、谷でも金、ママでも金」と公言した女子柔道選手がいましたが、「沈黙も金」(意味が違うだろ!)ではないかと思わせることが話題になっています。

 

 DNA鑑定で親子関係を否定された某タレントのことですが、他人との子供ということを隠して育てさせるなんて、いやまぁ実に大した女性だと感心する反面で、やはり男としては震撼せざるを得ません。よく言われることですが、「産まない性」としては、自分の子と言われても実感なんて基本的にないですからね。恋人から「できちゃった」と言われて、「そんなはずねぇだろ」と自信を持って言える男なんか滅多にいません。

 

 そうなると良心的な男ほど責任を取ろうとするので、騙しやすいっていうんですかねぇ、したたかな女性にとってはイチコロでしょう。彼には同性として心から同情いたしますが、それでもメディアに自ら暴露してはいけないとボクは思います。

 

 昔はできなくて一生無理だろうと思っていたにもかかわらず、年齢を重ねて自然にできるようになったのは「言わない」ということです。というより「言えないこと」が増えてきたと表現すべきかもしれませんが、とにかく言うべきではないことは世の中に案外多いんですよね。今回のことも、内々に処理して子供には伝わらないようにすべきではなかったでしょうか。病院での取り違えもそうですが、何よりも子供を被害者にしないような配慮が必要でしょう。

 

 テレビで有名な某医師も実は養子でしたが、そのことを彼の父親は死ぬまで言わなかったそうです。今回のことは、それとはかなり異なる妻側の「確信犯」あるいは「背信」と呼ぶべきですけど、ならば自分の子は大切に育てるけど、他人の子供なら放り出していいという理屈になるのでしょうか。

 

 赤ん坊の誕生は「神の福音」であり、人類が存続を許された証だとする考え方があります。子供は父と母だけのものではなく、社会全体の未来を担っているということですね。社会福祉もそうした発想で運営されているのではないでしょうか。

 

 というわけで、この問題は「沈黙は金」にしておいたほうが良かったのではないかと。それ以外にもいろいろとありまして、おかげで最近はブログのテーマにも難渋しているわけですけどね。

 

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2013年10月11日 (金)

男なら紳士であれ

 

 最近はマンダリン・オリエンタル・ホテル東京での記者会見や発表会が目立ちます。最も近い駅は地下鉄銀座線「三越前」。それでハタと気づいたのですが、「三越前」駅にはちゃんと三越百貨店があるのです。

 

 そんなの当たり前だろうと思うかもしれませんが、東急東横線の「学芸大学」駅に東京学芸大学はないからです。調べてみると、かなり以前の1964年に小金井市に移転しており、東京学芸大学付属高等学校は残っていても大学の本体はありません。

 さらに、その隣駅の「都立大学」も同様で、東京都立大学は1991年に八王子に移転。さらに2004年には首都大学東京と改称しており、都立大学という名前そのものが完全に消滅しています。

 

 まさか所在地を調べないで願書を出す受験生がいるとは考えられないので、これは何の冗談にもならず、それだけの話ですが、地名も駅名にも歴史ありってことでしょうか。現実を反映してすぐに改称すると、こうした経緯が分からなくなるというデメリットがありますよね。

 

 これは前置きで、実はちょっと面倒くさいテーマを考えていたのです。

 またしてもストーカーによる女性殺人事件が発生しましたが、どうも男が「紳士」になるべき教育が置き去りにされているのではないかと感じたからです。どんな事件も個別性が高く、安易に一般化してはいけませんが、「紳士」という言葉自体が忘れられかけていることは事実ではないでしょうか。

 ボクたち中高年世代は、婦女子は体力的に弱いので守ってやらなきゃいけない存在だということを学校のカリキュラムではないにしても教えられてきました。親とか部活動の先輩とかね。それと同時に、強い者にも立ち向かっていく勇気です。そんなことを言われても、できないことはできませんよね。負けることが分かりきった喧嘩をするのも合理的な判断とは言えない。そんなのは当然過ぎることだからこそ、男は怯懦に打ち克つ「紳士」であれと言われてきたような気がします。

 少なくとも、振られた恨みからストーカーをしたりネットで辱めたり、さらには刺殺なんてことは大変にみっともなくて卑怯だという認識は今でもあるはずですけどね。

 

 ボクが具体的に「紳士」という言葉を意識したのは、1982年公開のアメリカ映画『愛と青春の旅立ち』でした。リチャード・ギアの鼻が今より短い頃(冗談です)の作品ですが、内容以前に原題が話題になったのです。

 An Officer and A Gentleman」。士官と紳士ではなく、「士官である前に紳士たれ」、または「士官は紳士たれ」と訳されています。この映画はアメリカ海軍士官養成学校を舞台にしていますが、ネットを調べてみると、同じ理念を日本の海上自衛隊も継承しているようです。もっと遡れば、明治の頃に来日したイギリスの海軍顧問団まで行きつく伝統があるとされています。

 

 軍人は勇猛であることが何より必要ですが、その前に、卑怯なことはせず、弱い者を守る毅然とした紳士でなきゃいけないということです。それと同じように、大抵の男は心の中に乱暴な獣を飼っていますから、それを上手にコントロールすることが、男である前に人間として必要ということになるでしょうか。

 

 そういうことを、子供の頃から学校だけでなく家庭でもしつけていくべきじゃないかな。なのに、成績一辺倒で、試験で百点なら家事手伝いは免除で小遣いまで貰えるというのは明らかに偏っています。コミュニティを安全に健康に存続していくためにも、男子に対する「紳士」教育は必要だと思うのです。

 

 それはたとえばネクタイみたいなものですよね。クールビズで首元を開けたほうが楽なことは間違いないけど、それがホントに格好いいのかなぁ。TPOにもよりますが、ネクタイのほうが首から胸回りが美しく見えませんか。だから、必ずしも合理性だけに従うわけではないという、そうした感性なわけですよ、紳士の本質というのは。もっとくだけた言い方をすれば「痩せ我慢」だとボクは思いますけど。


 

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