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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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ビジネス・キャリアアップ

2017年2月 2日 (木)

好き嫌い

 

「急な話ですけど、新潟に行ってもらえますか?」

 

 喜んで! とはさすがに居酒屋の兄ちゃんではないので言いませんでしたが、久しぶりの国内出張なので、ちょいと嬉しいニュアンスを込めて「大丈夫です」と答えました。上越新幹線で2時間ちょっと。敬愛する作家、坂口安吾の生誕碑もあるよなぁと、今からワクワクしています。

 

 というわけで、ボクは事務所にずっと居続けるのがものすごく嫌いなのです。これは生理的なレベルといっても過言ではありません。室内にいるとどんどん鬱屈してしまうので、用があろうがなかろうが、一定時間は外をほっつき歩くのが習慣化しています。

 そんなことを歯科医院で話したら、「いいですねぇ出張があって」と歯科衛生士に言われてしまいました。そうかぁ彼女たちは医院から外へ出られるのは飯時と仕事終わりだけだもんなぁと、今頃になって気づいたのです。

 

 こうした病院や介護系だけでなく、教師も学校から出る機会はそれほど多いとはいえないでしょう。あってもせいぜい学区内程度ですから、もしもボクがそうした仕事に就いていたら、3年も続けられなかったかもしれません。逆に、そうした仕事が好きで、知らないところにはあまり行きたくないという人もいるはずです。ちなみに、有名な画家のフェルメールは、生誕地のオランダ・デルフトから外に出たことがほとんどなかったそうです。

 

 それで思うのは、人間というのは我慢できることも事実ですが、中長期的に見れば、おそらく嫌いなことはやらないのではないでしょうか。ここ数日の続きみたいで恐縮ですが、人間は意志がある反面で、感情的な好き嫌いに支配されているように思うのです。

 ただし、前述した医療や介護系や教師のように、若い頃に意思決定せざるを得ない専門職もあります。ボクのように「放浪癖」のある人がそうした仕事を選択してしまうと、ちょっと辛いんじゃないかな。転職してやり直すにしても、せっかくの学歴やキャリアなどをチャラにしなきゃいけない。

 

 では20歳過ぎの大卒段階ならちゃんとした選択ができるかといえば、それもどうでしょうか。就職率そのものは格段に上昇しましたが、入りたい会社・やりたい職業に就ける確率となると決して高くはないですよね。それ以前に、本当は自分が何をやりたいのかよく分からんというのが大多数のホンネのような気がします。

 いくら1年次からのキャリア教育で職業意識を植え付けても、「何でもできるような気がする」からこそ「何がしたいのかよく分からない」という心境は、大昔からあまり変わっていないんじゃないかな。

 

 だからこそ、社会に出てからの流動性が大切になってくるのです。30歳を目前にして「そういえばオレは地域に貢献するつもりだった」と思い返しても、日本では公務員就職は年齢制限がありますからね。中途採用もないわけではありませんが、募集は若干名程度です。アメリカのように門戸を公平に開放して、もっとやり直しが楽な社会にすべきではないでしょうか。

 

 その一方で、論理をひっくり返すようで恐縮ですが、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉もボクは好きなんですよね。これは、カトリック系の修道女で昨年末に亡くなられた渡辺和子さんの著書のタイトルです。人生はいつも「こんなはずじゃなかった」の連続ですが、そんな状況でも決してめげることなく「咲く」努力をしてほしい、という内容のようです。申し訳なくも読んだことはありませんが、このタイトルは至言というほかありません。

 

 以上を慌ててまとめるとすれば、好き嫌いという自分のエゴと、社会が自分に求めるものを調和・融合、あるいは「折り合い」をつけていくのが人生といえるかもしれません。

 

 それでも中には「置かれた場所」から飛び出したい衝動を抑えられない人もいます。とすれば、自分の奥底にある好き嫌いをどのようにコントロールするかが、好きな言い方ではありませんが、セルフマネジメント=自己管理の大きな要素になってくるわけです。

 

 なんてね、分かったふうな知ったかぶりに落とし込むのもボクは大嫌いなので、必殺のちゃぶ台返しをするなら、人生は結局のところ「なるようにしかならない」んじゃないかな。だから「Let it be」。意訳するなら「人事を尽くして天命を待つ」。ちょっと違うかもしれませんが、それほどにも読み換えることができる、こちらも畢竟の名言ではないでしょうか。

 

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2017年1月 6日 (金)

論理より演技

 

 裄丈=袖の長さを1㎝ほど詰めて貰ったシャツを引き取りに行ったのですが、店員さんが昨晩に深酒でもしたのか、あまりにもダルな対応だったので正月ボケの目が覚めました。

 

 しかも、引き取り伝票に「支払い済み」と大きく表記されているにもかかわらず、「これ、支払い済んでますかぁ?」とドヨーンとした投げやりな感じで、ボクを見ないで訊くわけです。こちらもムカムカして、「伝票に書いてあるだろ!」と思わずつっけんどんな言い方で返してしまいました。

 

 こういう場面に対応した「売り言葉に買い言葉」というみごとなことわざがあります。意味は「相手の乱暴な言葉に対して、同じように応酬することのたとえ」(『故事ことわざ辞典』)ですから、ジャブを不意打ちされたらストレートで返すみたいなことかな。不特定多数の客を相手にする小売業の店員としては、そもそも「売り言葉」を放つこと自体がタブーなはずですが、あくまでボクの感覚ですけど、近頃のJRや電話も含めて、不快な印象を与える対応が目立つんですよね。

 

 悪気なんて毛頭ないはずですが、こういう人たちは自分の言い方や表情が他人に与える印象をまるで意識していないと思うのです。ちょっとした抑揚の付け方だけで、同じ言葉でも印象はガラリと変わります。「お支払いは済んでいますか?」と明るく可愛い感じで言うだけで、「ええ。その伝票に書いてありますよ」と穏やかに応答できるじゃないですか。

 

 さらに、お詫びや謝罪ともなれば、言葉で表現される内容なんかより、言い方と表情が最も大切な要素になってきます。文章では表現しにくいのですが、抑揚に乏しいボーッとした「すいません」では火に油を注ぐことになりますが、「(こんなことをしでかしてしまってホントにまったく)すいません!」と申し訳ない感を全開にすれば、相手の印象は真逆です。仮に「自分勝手な無理ばっかり押しつけるからミスっちまったじゃねぇか、このアホバカ、カス野郎が!」と心の中で毒づいていても、言い方ひとつで「どうやら深刻に反省しているみたいだから許してやろうか」と思わせることも可能なのです。

 

 しかしながら、そうした言い方や表現の訓練を、家庭はもちろん、学校でもあんまりやっているとはいえないでしょう。面接を伴う受験準備を除いて、そんなことをいくら練習してもテストの点数をアップできないからです。学習塾も解答テクニックを教えるのが本業なので、喧嘩腰でもない限りは、言い方や表情が問われることなんてないんじゃないかな。

 

 でもね、そのままでは社会に出てから損することが少なくないのです。小売業のような客商売に限らず、現代社会の仕事のほとんどは人間同士のコミュニケーションが基礎になっています。そこで知らないうちに悪印象を与えれば、人材としての評価はどんどん下落します。せっかく実力があっても、言い方や表現で差がつくなんて悔しいじゃないですか。

 

 さらに注意すべきなのは、社会というのは残酷なところで、他人の失点は相対的に自分の得点になるので、学校のように親切に叱ってくれる人はほとんどいないのです。

 

 というわけで、ボクは「表現塾」を立ち上げてもいいのではないかと考えています。学習塾が成立するなら、社会でうまくコミュニケーションするための塾があってもいいんじゃないかな。レポートや小論文や企画書などの文章は「論理性」が最重要です。けれども会話では、論理や内容なんかより、言い方と表情で相手の心象が大きく変わってきます。

 

 ボクたちは社会という舞台に立つ役者みたいなものですから、人間としての中身や私生活や思考なんかではなく、観客=他者に向けて表現された「演技」がすべてといっていい。なのに「演技」を勉強したり、訓練されることはほとんどありません。どこぞの劇団の演出家と組んで、この塾を開校してみようかな。

 

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2016年11月 7日 (月)

仕事の評価

 

 仕事には定量的と定性的という2つの評価方法があります。

 いきなり小難しい表現で恐縮ですが、要するに「量」と「質」ということです。たまには頭良く見せたいので言葉をちょっと粉飾してしまいました。

 

 でね、ニッポンの人たちの仕事は、この2つが経営者に大変に都合良く、あるいは恣意的に混在させられているような気がするのです。

 

 たとえばボクの仕事は基本的に「原稿書き」でございまして、大昔は400字詰め、またはペラと呼ばれる200字詰めの原稿用紙が計算の単位となっていました。つまり400字詰め、200字詰めの原稿用紙1枚あたりでいくらということです。これは日本に限らず、アメリカでも「1文字あたり」という原稿料計算があると聞いたことがあります。

 

 これは純粋に文字の「量」に対する評価であって、内容に関する評価ではまったくありません。つまり「定性的」または「質」に対する評価ではないわけです。

 もちろん作家やライターによって単位価格は異なるでしょうが、人間は機械ではないので、時には駄作だってあるはずです。それを一律で「400字詰め原稿用紙で1枚いくら」という評価にしてしまうと、そうした質の変動は反映されにくいですよね。

 

 これは一般的な仕事も同様ですが、話はもっとややこしくなってきます。たとえば月の残業が20時間あるとすれば、それに伴う仕事量が誰でも同じとはいえません。ある人はたとえば重さで20㎏に換算できる仕事をこなすのに、ある人は私語のオシャベリが多くて5㎏程度に過ぎないなんてことはザラにありますよね。

 さらに、その質を言うなら、ある人は数千万円単位の契約に必要な資料をまとめているのに対して、ある人は自分の精算伝票整理に過ぎないということだってあり得ます。

 

 ボクのようなライター稼業では、200字程度の短い原稿が何十本もあるというカタログ的な仕事もあります。これを200字×30本=6000字だから原稿料は400字で15枚分と定量的に計算されると大変に困ったことになります。同じ原稿用紙15枚分でも、たとえば3本×5枚と30本×0.5枚では質的に大違いだからです。

 

 原稿を「1本」書く時には、構成や論理展開、さらには興味を惹くようなイントロダクションから、万人が納得できる結論または余韻あるエンディングが必要になります。結果として必ずしも狙ったようになっていなくても、原稿の長短に限らず、1本1本に同じ努力というか同質の思考作業が必要になるわけですね。

 つまり、原稿の文字数よりも、3本と30本という違いのほうに注目しないと、作業の本質的な価値は評価できないのです。

 

 これは理屈というより、自分自身でやってみないと実感できないでしょうね。また、同じ1本にしても、たとえば出張の記録・精算書と視察報告を比べれば、費やす思考労力は相当に違うじゃないですか。地方議員の中には資料をコピペして出す人もいるそうですけどね。

 

 幸いにも、出版業界ではこうしたことが理解されるようになり、かなり以前から原稿の文字量にかかわらず1ページあたりでいくらとか、質的な評価も伴うようになってきました。

 であるなら、会社の仕事も同じように判定できるはずなので、その評価基準をもっと多様化していかないと、政府が推進しようとしている「働き方の多様化」も無理なんじゃないかなぁ。

 

 仕事の評価基準が明解でなければ、結局は会社に何時間滞在していたかという、誰にも分かりやすい「量」重視になってしまうので、これまでのような残業の自慢大会に戻るだけじゃないかとボクは思うわけです。暴飲暴食による病気自慢なんてこともありますけどね。

 

 そのあたりを人事系コンサルタントの皆さんはどう考えているのかなぁ。仕事の質を正しく判断するのは大変に難しいことですが、それをやらない限り、現今の労働形態に変化はあり得ないんじゃないかとボクは思うのです。

 

 なお、明日、明後日と早朝からの取材が立て込んでいるので、このブログも2日ほど臨時休業させていただき、10日の木曜日から再開いたします。

 

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2016年9月 6日 (火)

門前の小僧

 

 ライターという稼業は、ぶっちゃけて言えば門前の小僧です。どれほど専門知識を勉強したところで、門の中に入ったことにはなりません。プロフェッショナルとしての実行責任を担った経験がないからです。

 

 医療を丹念に取材して、民間病院の医師も驚くほど先端情報に精通しても、臨床の現場経験や研究実績がないとすれば、やはり門前の小僧というほかありません。聴いて調べて書くことと、現場での実務の間には、絶対的に埋められない深い溝があるのです。

 

 それが残念というわけでは決してなく、敢えて門の中に入らない方がいいということもあります。別の門前のことも分かって比較できるほか、門の中にいては気づきにくいことに気づけるからです。

 

 もちろん素人発想と言われればそれまでですが、そうした門前に長くいる者の感想として、たとえばリーダーシップには知識やスキルより人格が必要ではないかと考えるようになりました。経営についても、やはり専門知識やスキル以前に倫理と社会的な目的意識が不可欠ではないかと思うのです。

 

 門の中の人たちからは「人格を今さらどうやって教えるのだ」とか、「倫理的な経営で世界的な競争を勝ち抜けるか」と嗤われることもあります。でもね、東芝の粉飾会計や、三菱自動車の排ガスデータ偽装、それに東洋ゴム工業の免震ゴム偽装など、近頃の大企業は反社会的な事件が頻発していませんか。

 

 CSRを「企業の社会的責任」という注釈抜きで使えるようになったのはつい最近ですが、表面的・対外的にしか意識されていないのが現実ですよね。ちなみに、このCSRはドイツで生まれた言葉ですけど、皮肉にも同地の国際企業であるフォルクスワーゲンが排ガス偽装や不正のハシリとなりました。

 

 資本主義における経営もリーダーシップにしても、何の制約もない原始的な生存競争のもとでは利益だけを追い求めるようになるのは当然でしょう。それこそが発展途上の日本を苦しめた公害や悪質な環境汚染を引き起こした原因ですから、チッソによる水俣病みたいなことが中国で発生しないなんて誰も言えませんよね。

 

 それを未然に防ぐような法律の整備もさることながら、いかに民間企業であっても、これからは社会と共存共栄していくのが理想ではないでしょうか。そのためには個別企業の営利活動と、社会や地域コミュニティを無理なく結びつけるキーワードが不可欠。それがボクにとっては「倫理」なわけです。リーダーシップも同様で、部下の指導・管理技法や心理的なスキル以前に、リーダーの人格が優れていなければ、そのチームは凶器にもなりかねないことがどうして分からないのでしょうか。

 

 もっと簡単に言うなら、経営に倫理がなければ、リーダーシップに人格が欠けていれば「ナントカに刃物」になってしまう。ところが、これを適切に教える方法はまだ開発されていないようです。孫子とか道教とか知識や理論はいろいろあっても、それが営利追求や社会性とぶつかる局面は少なくないでしょう。その時にどうやって判断して応用していくかは、それこそ経営者やリーダーの人間性に委ねられることになるからです。

 

 難しい問題ではありますが、企業活動は世界的な規模に拡大しており、倫理を失った経営によって多数の人が殺される可能性だってあるじゃないですか。人格的な豊かさに欠けたリーダーシップ=指導体系も現実に過労死の原因になっています。

 

 そんなわけで、門前の小僧の指摘にもたまには素直に耳を傾けて欲しいなぁと切に思うわけですね。

 

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2016年8月23日 (火)

人工知能

 

 人工知能の発達によって、人間の仕事がどんどん奪われていくと予測されています。それによって「より人間らしい仕事が残る」と楽天的に考える人もいるようですが、もっと正確に言い直せば、量で判断される仕事がなくなり、質で評価される仕事が過渡的に残るとも言い換えられるでしょうね。

 

 ところが、どんどん人工知能が発達していけば、「質で評価」される仕事だって、いずれは統計や確率論を活用して情報処理されるようになるでしょう。それこそが人工知能の今日的な課題になっており、そろそろ資源の最適配分に基づく長期的な経営計画の立案から、効率的なマーケティングなんかも任されるレベルに到達しつつあるようです。恣意的で感情的な人間の判断なんて、むしろ有害だと見なされる時代も遠くないような気がします。

 

 そうなると、人間にしかできないことは何でしょうか。

 

 芸術こそが機械化できない最後の牙城としばしば言われるようですが、たとえば絵画なら、有名な作品から構図や色の組み合わせを分析して、人間が好みそうなパターンを見つければ、類似の作品を描くことは困難ではないでしょう。

 音楽にしても、歌詞を書き込むだけで、その心象風景に見合った曲を自動で作ってくれる仕組みがすでにいくつか存在します。これを人工知能と呼ぶかどうかはちょっと難しいところですが、それらしい曲を作ってくれるレベルには達しています。

 

 これらが発展していけば、人間は働きアリにもなれず、夏を謳歌するキリギリスのバイオリン弾きにもなれなくなってしまいます。

 

 絶望的な未来としか思えませんが、ちょっと待てよ、と。そもそも芸術は何のためにあるのでしょうか。唄は何のために歌うのでしょうか。人間は何のために生きているのでしょうか。

 

 これらをまとめて綺麗に表現するなら「愛」であり、より率直に言えば「エロス」がすべての生存ならびに創造活動の動機にほかならないと思います。これは人間を再生産するために必要不可欠なことですが、機械には絶対にできないことです。機械が機械を作ることはあっても、機械同士がセックスして新しい機械を妊娠するなんてことはあり得ないじゃないですか。もしかすると、はるかな未来にはあり得るかもしれませんが、そんなことになったら人工とか機械とは言えなくなりますよね。

 

 長くなるのでこのあたりで省略しますが、ではボクたちがそうした「愛」をきちんと意識して仕事をしているかといえば、そうでもないですよね。お茶の出し方ひとつでも、機械とは違った「愛」を込めたやり方があるじゃないか、と。

 つまり、人間の仕事は機械と差別化することがまだまだ可能なのです。

 

 にもかかわらず、ボクたちはそうしたことをやっていない。人工知能の発達は、そうした人間としての「愛」を再認識する絶好のチャンスではないでしょうか。そのように考えれば、すべての仕事のありようが変わってくるではないかと、ボクは言いたいわけですね。

 

 

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2016年7月 1日 (金)

ボストン・ダイナミクス

 

 以前に4足歩行の牛型ロボットについて紹介しましたが、今朝のテレビを見て仰天しました。とうとう犬型にまで進化しているではありませんか。バナナの皮で転んでも、すぐに自立。階段もトントントンと駆け上り、うちのおばあちゃんよりずっと達者です(おばあちゃんは嘘です)。

 

 こりゃもう革命的なことなのに、テレビのキャスターは「動きがユーモラスですねぇ」って、のんびりした感想ですからね。そこじゃないだろ、報道のポイントは。

 もうちょっと動きを確認したいと再度の放映を待っていたのですが、その後は旦那が薬物で逮捕された女優の記者会見ばっかり。そんなに女を泣かせたいのかてめぇら、とつい桃太郎侍してしまいました。だってね、涙ぐむのを待ちかねたかのようにフラッシュがピカピカ、シャッターがガシャガシャだもんなぁ。離婚を迫るのも社会的制裁かもしれないけど、せっかく夫婦になったんだからさぁ、いろいろあるにしても、旦那の更生の道を支えてやるってこともありでしょうよ。孤独にしてしまったら、いよいよ再犯しやすくなると思うんですけど。

 

 という、実は民度にもかかわることはさておき、4足歩行ロボットに戻ります。なぜボクがこの技術に注目するかというと、平滑な路面が必要な車輪よりも機動性が高いということだけでなく、鉄腕アトムのようなヒト型ロボットが現実的になってくるからです。ロボットが必ずしもヒト型である必要はありませんが、人間が活動できるところならどこでも同じように動けるほか、既存の施設をわざわざロボット用にリフォームしなくてもいいという経済性や利便性もメリットではないでしょうか。

 

 ですからボクは、以前の牛型ロボットが発表された時に、なぜロボット大国といわれる日本でこれを発明できなかったのかと指摘しました。東日本大震災でメルトダウンに至った福島第1原子力発電所でも、ロボットが大活躍するかと思えば相変わらずキャピタラーや車輪タイプばかりで、瓦礫が障害になって前に進むことができないケースが続出しましたよね。さらに当初は外国製ばかりで、日本製のロボットが投入されたのはしばらく経過してからじゃなかったかなぁ。

 

 そんなわけで、ITで追随を余儀なくされているだけでなく、実はロボットも、クルマの自動運転にしても技術は外国製で、もっぱらアメリカのハイテク産業がリードしているのではないでしょうか。

 

 驚くべき事情はそれだけではありません。まだロクに調べていないので勘違いもあるかもしれませんが、この4足歩行ロボットを開発したボストン・ダイナミクスという会社はグーグルが買収して傘下にしていたらしい。ところが、今年の春頃からアメリカのトヨタ関連会社が買収する動きに出ており、どうやら本決まりになっているらしいのです。ははぁ、ということは先のテレビ報道は売却金額引き上げのためのセールス・プロモーションかなという深読みだってできます。

 

 仮にそうだしても、どうしてグーグルはこんなに有望な会社を手放そうとしているのでしょうか。自動運転技術に資本を集中させるためという説もあるようですが、それならトヨタだって同じはずです。

 ここから先は憶測になるのでやめますが、要するに4足歩行ロボットという新技術の将来性をめぐって、オールドビジネス(カーメーカー)とニュービジネス(IT)の覇者たちの巨大資本がしのぎを削っているとも考えられるでしょう。まだ実態もよく見えない段階から、次世代のハイテクを大金を投じてもぎ取るような戦いが演じられているといっていい。

 

 ソフトバンクの社長が何十億円という年俸を副社長に支払ったことが大きな話題となりましたが、その副社長の人脈と判断によって有望な新技術を持つ会社を傘下に置くことができれば、そんな金額は十分にペイできるという判断があったようです。

 

 つまり、ですね。現代の競争社会は技術開発もさることながら、莫大な資金をどう活用して未来につなげていくかという時代になっているわけです。明日を生き延びるために、今日のカネをどう使うべきか。そういう勉強を日本の大学の経営学やMBAできちんとやっているのでしょうか。

 

 技術はね、今朝の新聞報道でもあったように、無免疫のサルを誕生させるなど、まだまだ世界トップの水準にあると思うのです。けれども、経営者やリーダー、そしてカネの使い方がアメリカのレベルに達していない。このまま貯め込むばっかりでは優秀な人間はどんどん海外に流出していき、ダメな奴しか残っていない国になりかねないと、ボクは大いに危惧しているのです。

 

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2016年4月14日 (木)

没義道

 

 畑の土壌を丁寧に調べるだけでなく、湧き水の酸性度なども調査。さらに数年をかけて様々な農作物を生育して味をチェックした結果、その畑に苺が最も適していることを発見したとします。

 

 けれども、普通の苺では価格競争力がないので、いろいろな種を比べた上で、とびきり甘いけど生育が困難な苺に決めたとしましょう。

 

 農業というのは天候だけでなく、思いもかけないアクシデントが普通に起きます。花粉交配用のミツバチがなぜだか全滅寸前になったり、丹念に育てた食べ頃の苺が害虫にやられることもありますよね。つまり、マニュアルや教科書に書かれていないことも一杯あるんじゃないかな。

 

 そんな苦労を何年も重ねたあげく、ようやく安定した収穫が得られるようになった時に、ふと気づくと隣の畑が自分とまったく同じことをやっていたとしたら、どう思いますか。

 

 こうしたことは農業に限らず、一般のビジネスでも頻繁に発生しているのではないでしょうか。ボクのようなモノカキ仕事にそれほどのオリジナリティはなく、むしろ柳の下の2匹目、3匹目を狙うのがあったりまえですけど、たとえばスターバックスが大人気となったら、同じようなビジネスモデルが追随してくるのが普通です。調査費や開発投資が格段に少なくて済むというだけでなく、銀行への融資依頼でも説明が圧倒的に簡単となり、取引先探しや人材配置などのマネジメントから、マーケティングにも頭を捻る必要はありません。なぜなら先行企業を真似すりゃいいのですから。

 

 自由主義で資本主義の社会では、人のいない夜中に苺を盗んだら罰せられますが、前述のような類似あるいは追随ビジネスはむしろ歓迎されています。業態としての認知が広まるのはもちろん、価格やサービスなどに競争原理が働くことで、消費者に利益をもたらすからです。世の中に小洒落た喫茶店がスターバックスしかなかったら、消費者離れを起こさないギリギリまで値上げを続けることも可能ではありませんか。冒頭で紹介した苺についても、名産地として全国に知られるようになるでしょう。

 

 そのせいか、随分以前に海外のビジネススクールで「スターバックスを超えるコーヒーチェーンの事業開発」という修了課題に対して、「第2のスターバックスを作る」という提案書が最優秀になったと聞いたことがあります。そりゃそうです。初期投資のほとんどが不要なのですから、いきなり高い利益を計上できます。実際にロゴマークやカラーリングまで似せたコーヒーチェーンがあるじゃないですか。

 

 これをいけないと言っているのではないので念のため。しかしながら、ボク自身の個人的な意見としては、経営というのは「創造」ではないかと。会計データがいかに有利になろうが、消費者もそのほうが便利でトクだとしても、人真似はやっぱりイヤだなぁ。よしんば同じことをやれと指示されたら、何とかして先行企業との差異化を進めていくでしょうね。カネがかかってヘタすりゃ失敗するかもしれないけど、そうした挑戦を経営と呼ぶのだとボクは信じております。さもなきゃ、このブログで何度も書いてきましたが、社長室には千客万来と張り紙された招き猫を置いておくべきです。

 

 ただし、そうは思わない人もいるわけです。2代目、3代目とは言わないまでも、ビジネスが完全に軌道に乗って、創業時のような創造性や苦労が必要なくなると、社内政治に長けた人が偉くなることもしばしばあります。こういう人は一般的にネゴや人脈を重視する調整型であることが少なくありません。たとえば小売業なら、客のほうではなく、社内や銀行ばっかり見ていたりとかね。

 

 創業会長が突然に辞任した某コンビニ会社のことを言っているわけではありませんよ。でもね、安定した収益が得られる大企業というのは、往々にして内紛が発生することは歴史的な事実ではないでしょうか。

 

 もちろん、創業時の経営と拡大期から安定期の経営はきっと違いますよね。仮に織田信長が長生きしたとしても、政権は短命で終わったかもしれません。そうとは分かっていても、ボクはやっぱ経営はクリエイティブな仕事であるべきだと思うのです。その意味では、創業者の工夫や努力を間接的に盗むような行為は「没義道」ではないかと。

 

 近頃は倫理や道徳といった話が続くと思えば、今度は「没義道」かよと呆れている人もいるでしょうが、MBAの科目で「事業創造」があるのなら、「没義道」がどういう意味かも教えて欲しいなぁ。そうすりゃ利益の数字だけアップしろとかの無理な指示も、ヘンテコな親子喧嘩や内紛もなくなるのではないでしょうか。

 必ずしも「没義道」ではありませんが、似たような道徳観を家訓として残した江戸時代の豪商も案外いるんですよね。ビジネスが人間同士のものであるなら、やはり互いを尊重した共存共栄の倫理は、ゲームの理論からしても大切ではないでしょうか。その意味でも、常にビジネスには「創造性」が要求されるとボクは考えているのです。

 

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2016年4月 7日 (木)

商売

 

 事務所のマンション1階にあったジュース屋さんが、いつの間にか閉店していました。その前は靴屋さんで1年ほどは保ったと記憶します。さらにその前は古着屋さんでした。このジュース屋さんはオープンして2か月も経っていないので最短記録かもしれません。

 

 なぜだか近年やたらと「住みたい」度を高めているらしい恵比寿ですが、飲食店などの店舗が圧倒的に多いのは西口でありまして、ボクの事務所がある東口は会社が多く、駅前の繁華街的な雰囲気はありません。

 それでもそこそこの店はあって、それなりに繁盛しているところも少なくないのですが、このジュース屋さんの営業品目がちょっと特殊でありまして、スクイーズというのか、健康的な生ジュースというのか。それだけでもボクにはよく分からないのですが、何しろ価格がコップ一杯で1000円前後なんですよね。

 

 会社員の昼食がワンコイン=500円で推移してきたというのに、ジュース一杯でこの値段はないんじゃないかなとボクは感じたわけです。景気が回復してきたように見えても、給料はほとんど上がっておらず、個人消費も停滞していますからね。一杯1000円なんて、カクテルならありでも、ノンアルコールだもんなぁ。それともどこかですごいトレンドになっているのでしょうか。

 

 入口のガラスに「一時休業します」という張り紙があったので、いつか再開するのかなと思っていたら、内部の什器などが撤去されてがらんどう状態。とてもじゃないけど「一時休業」の雰囲気ではありません。

 

 そんなに広くない店舗面積なので、最初からハンデがあったといえなくもありませんが、隣も似たような店舗面積なのに結構な繁盛ぶりなんですよね。スペイン風のバル=立ち飲み屋ですけど、もう何年も営業を続けています。銀座コリドー街にも同名の店があるので系列かもしれませんが、いったい何が違うのかと研究すると勉強になるかもしれません。

 

 ボクの独断的な見立てをちょっと紹介しておくと、店員や経営の本気度が違うように思います。「何だよ」っていう失望した声が今あっちのほうから聞こえてきたように感じましたが、飲食店経営というのは会計学や経営学だけで成立するものではありません。あたりまえのことですが、店員のやる気や楽しさが伝わってこなきゃダメですよね。それと、料理が美味しいこと、何を今さらという人もいるかもしれませんが、それができていない店が最近はホントに多いのです。

 

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2015年12月25日 (金)

ひと手間(後)

 

 というわけで、昨日の続きですが、ヒューマンエラーを防止するためには敢えて「ひと手間」を加えることが必要ではないかと思うのです。

 

 特にメールの場合、ミスや誤記などがあれば送信先に直接的な迷惑をおかけすることになります。よって「仕上がった!」すぐに送信ではなく、2回ほどチェックするようにしていますが、タイプミスや誤変換なんて始終あるほか、敬語や丁寧語の使い方はこれでいいのか、失礼じゃないかなということもありますよね。ライターという仕事でメシを食っている以上は、恥ずかしい文章を送信するわけにはいかないのです。

 

 また、電子メールは郵便物における私信とは違って、誰かに読まれたり、転送されて拡散していく可能性があるほか、いったん送信されたら消せないことも認識しておくべきでしょう。つまり非難や攻撃や中傷といった感情的な表現は、後に大変に危険な事態を招きかねないのです。メールを手紙と同じように感じている人もまだいるかもしれませんが、ボクは街角に立って大声で会話しているのと変わりないと意識しています。

 

 どうしても文句や批判やあくどい冗談なんかを言いたいのなら、記録されない電話か面談に限ったほうがいい。高度情報化といわれて久しいですが、個人メディアはそうした意識的な使い分けが必要な時代ですよね。

 

 そんなわけで書式や添付ファイルはもとより、内容的なチェックも必要不可欠ですから、気軽に送信ボタンを押してはいけないのです。けれども、急いでいる時や、精神的に一杯いっぱいの時、追いつめられている時には、つい押しちゃうんだよなぁ。それで、さらに深い墓穴を掘っちまうってこともあるのです。

 

 ということで、ボクがオススメしたいのは、たとえば5分後に送信するという習慣を付けることです。ボクの場合は書きかけで保存しておき、アウトルックをいったんクローズしちゃいます。精神をリフレッシュしないと、新しい視点で見直すことができないからです。それから5分以上を経過したら、再度開いてメールを再確認した後に送信する。面倒ですけど、このような「ひと手間」をワザと加えることがミスをなくすのではないでしょうか。

 

 現代における効率化・合理化は、要するに中間的な業務をカットすることによるプロセスの短縮ですよね。それを担っているのはいうまでもなくコンピュータですが、これは即ち「自動化」ですから、化学反応と同じで始まったら途中で止めることができません。

 だから「逆クリティカルパス」として、どこかの段階でヒューマンエラーを防ぐ「ひと手間」を仕掛けておくことを考えた方がいいように思うのです。

 

 このクリティカルパスは、ボトルネックともいいますが、業務プロセスを遅延させる「隘路」という意味です。このボトルネックの解消が業務効率を向上させるのですが、人間が介在している場合は理屈通りにはいきません。むしろ、間違えやすいプロセスの直前にボトルネックがあるほうが、不良品や欠陥品の防止につながるのではないでしょうか。

 

 ボクは生産管理については素人ですけど、おそらく似たような仕組みは工場などですでに導入されているはずです。けれども、文系の業務管理はマネジメントという言葉がやっと知られてきた段階といっていい。少子高齢化を背景として、コンピュータとITを駆使した効率化・合理化がこれからどんどん進められていくと予測できるからこそ、この「逆クリティカルパス・メソッド」を提案する次第です。とはいっても、まだ単なる思いつきなんですけどね。

 

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2015年11月12日 (木)

解釈する人

 うーん、もっと正確にいえば、解釈しかしない人、解釈しかできない人、なんですけどね。

 そのほかにも、評論しかしない人、評論しかできない人、というバージョンもありますが、つまりは「こうしようよ」とか、「あれをやってみよう」と言えない人のことです。

 一般に、世の中の人は2・6・2で構成されているといわれます。2が優秀で6が普通で、残りの2が落ちこぼれとか、最初の2がリーダーで、6がフォロワーで、残りの2が何を言っても動かない人とかね。
 もちろんボクはこんなことを信じているわけではなく、これまた「解釈」や「評論」の産物に過ぎないと思うのです。つまり、それが事実であれ、ウソであれ、「それがどうした」って話じゃないですか。

 肝心なのは、昨日と同じことを今日もやるのでなくて、少しでも改善していく、変えていくような提案ですよね。ボクも長く社会生活を経験してきたので分かりますが、「こうしましょう」という新しい提案をする人はごく僅かで、それに反対する人は山のようにいます。そんな時に反対の根拠となるのが「解釈」や「評論」ですけど、新提案にそうしたバックアップはありません。だってね、誰もやったことのない新しいことを、評論したり、解釈することはできないからです。

 このブログで何度も取りあげましたが、ソニーのウォークマンなんてその典型でしょう。アタマにヘッドフォンをつけて歩くなんて聞いたこともないと否定的に「解釈」「評論」する人がほとんどという中で、「ならばきっと売れるに違いない」と考えたトップがいたからこそ、世界的にヒットしたわけです。

 だからといって「解釈」や「評論」を否定するわけではありませんよ。物事をいろいろな側面から理解することは大切なことですが、その対象となった瞬間に、その物事は過去のことになるのです。そして、過去だけで食ってはいけないのがリアルな世の中なのですから、新しい知恵を駆使していかなければならない。そういう習慣がね、学校という過去のことだけを学ぶ場では育ちにくい。優等生であればあるほど過去の専門家になり、「解釈」や「評論」を連発するようになるんじゃないかな。

 そういう習慣をやめないと、昨日も指摘したように現場労働の劣化を止めることができないだろうと思います。高学歴化が評論家や解釈専門家の増産に過ぎないとしたら、税金の無駄使いですよね。そういう意味での教育の見直しは必要不可欠であって、批判を許さない聖域にしてはならないとボクは思います。

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