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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

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    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

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福助くん その2

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    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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哲学

2017年3月10日 (金)

権力者の孤独(前)

 

 韓国大統領の弾劾審判が本日午前中には決定するそうです。ボクにはあまり興味のない政治問題なので、どちらに決まっても「はぁそうですか」程度の感想しかありません。それよりも、彼女はきっと孤独だったんだろうなぁと、勝手に憶測してしまいます。

 

 選挙の洗礼も受けず、地縁・血縁などの根拠もまったく持たない一般人が政治に介入し、権力を濫用するという事件は封建時代の昔からありました。それを許してしまう理由は、どう考えても権力者の精神的な弱さです。強すぎれば独裁者になるので困ったものですが、どちらにしても、何千万という人間の頂点に立つなんていう心境は、ボクたちにはとても想像できません。裁判所前に泊まり込んでいるらしい罷免賛成派、反対派ともに、彼女の気持ちを忖度する人なんていないでしょうね。もししていたなら、そんなにも大きな声が出せるはずがないと思うのです。

 

 ボクのところみたいな超零細会社の社長だって負担を感じるのに、一国の大統領ともなれば、そりゃもう両肩がトン単位で重いどころの騒ぎじゃないはずです。しかも朝鮮戦争は今もって「休戦中」に過ぎないので、武力で一気に南北統一に動きかねない政権が虎視眈々と機会をうかがっていますからね。

 

 みんなに推されて韓国史上初の女性大統領になったのは喜ばしいとしても、それから国をどう運営すりゃいいかという段階で、両親ともに暗殺されていることから、困惑や悩みが泥沼的&重層的に深くなっていったのではないかなぁ。国会では野党が何かと反対ばっかりするしね。

 

 そんなこんなで気持ちが弱った時に、古くからの知り合いだか友人がそばにすり寄ってきて、「占いではこんなん出ましたから、右に行きまひょ右に」と自信を持って言われたら、つい頼ってしまうじゃないですか。それをいいことに、どんどん懐に入ってくる連中を止めることができなかった。やがて彼らは増長していき、大統領の権力を利用して国のカネを自分の財布にどんどん横流ししていったのです。

 

 誰だって想像できるストーリーであり、これをもって大統領の責任放棄とか失格とか、罪だの罰だのと指摘するのは当然です。国の税金を私的に流用してきた連中も絶対に許してはいけません。

 

 でもね、だったら、あなたが大統領になったらどうでしょうか。「ええええ、オレなんて(アタシなんて)そんなの無理よぉ」と言うなら、弾劾罷免に至るような事件は容易に繰り返されることになります。だってね、失敗から何も学ぼうとしなければ、同じことが起きるのは当たり前じゃないですか。

 

 ボクたちの限界をはるかに超えたスーパーマンを大統領に選ぼうにも、人間でそんな奴はいないのだから仕方ありません。すぐ隣にいるような奴が地方議会の議員となり、国会議員になって総理大臣になるわけですから、原因を突きつめて、自分なりの解決策を考えておかなきゃいかんでしょう。会社でリーダーになることも、まったく同じだからです。

 

 さて、ものすごい責任を担って孤独感が募り、精神的にもボロボロになってきた人間が救いとして頼るべきなのは何でしょうか。かの大統領は旧知の親友でした。いつライバルに寝返るか分からない政治家や、機械みたいな官僚より安心かもしれないけど、前述したように権力を利用して私腹を肥やす怖れが伴います。

 

 おそらくですけど、次に頼りにするのが宗教だろうとボクは考えます。宗教がいけないとは決して思いませんが、現世利益に走るようになると、やはり悪徳にまみれることが十分にあり得ます。大統領や総理大臣の政策が神様頼みというのも大問題だしね。

 

 ということで、友達もダメ、宗教も避けましょうというなら、権力者やリーダーの孤独を何が救うというのでしょうか。政策決定のプロセスといった法的問題は専門家に任すとして、ボクらのレベルでもこれくらいのことは考えておかないと、情報をただ単に消費したに過ぎなくなってしまいます。

 

 さて、再度問います。あなたは権力者やリーダーの孤独を救うものは何だと思いますか?

 

 絶世の美女? それは孤独を「癒やす」だけですから、やがて城を傾けてしまうことは歴史が証明しております。ここでボクの回答を紹介してもいいのですが、週末の思考訓練の宿題として、月曜日に続けることにします。

 

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2017年2月 2日 (木)

好き嫌い

 

「急な話ですけど、新潟に行ってもらえますか?」

 

 喜んで! とはさすがに居酒屋の兄ちゃんではないので言いませんでしたが、久しぶりの国内出張なので、ちょいと嬉しいニュアンスを込めて「大丈夫です」と答えました。上越新幹線で2時間ちょっと。敬愛する作家、坂口安吾の生誕碑もあるよなぁと、今からワクワクしています。

 

 というわけで、ボクは事務所にずっと居続けるのがものすごく嫌いなのです。これは生理的なレベルといっても過言ではありません。室内にいるとどんどん鬱屈してしまうので、用があろうがなかろうが、一定時間は外をほっつき歩くのが習慣化しています。

 そんなことを歯科医院で話したら、「いいですねぇ出張があって」と歯科衛生士に言われてしまいました。そうかぁ彼女たちは医院から外へ出られるのは飯時と仕事終わりだけだもんなぁと、今頃になって気づいたのです。

 

 こうした病院や介護系だけでなく、教師も学校から出る機会はそれほど多いとはいえないでしょう。あってもせいぜい学区内程度ですから、もしもボクがそうした仕事に就いていたら、3年も続けられなかったかもしれません。逆に、そうした仕事が好きで、知らないところにはあまり行きたくないという人もいるはずです。ちなみに、有名な画家のフェルメールは、生誕地のオランダ・デルフトから外に出たことがほとんどなかったそうです。

 

 それで思うのは、人間というのは我慢できることも事実ですが、中長期的に見れば、おそらく嫌いなことはやらないのではないでしょうか。ここ数日の続きみたいで恐縮ですが、人間は意志がある反面で、感情的な好き嫌いに支配されているように思うのです。

 ただし、前述した医療や介護系や教師のように、若い頃に意思決定せざるを得ない専門職もあります。ボクのように「放浪癖」のある人がそうした仕事を選択してしまうと、ちょっと辛いんじゃないかな。転職してやり直すにしても、せっかくの学歴やキャリアなどをチャラにしなきゃいけない。

 

 では20歳過ぎの大卒段階ならちゃんとした選択ができるかといえば、それもどうでしょうか。就職率そのものは格段に上昇しましたが、入りたい会社・やりたい職業に就ける確率となると決して高くはないですよね。それ以前に、本当は自分が何をやりたいのかよく分からんというのが大多数のホンネのような気がします。

 いくら1年次からのキャリア教育で職業意識を植え付けても、「何でもできるような気がする」からこそ「何がしたいのかよく分からない」という心境は、大昔からあまり変わっていないんじゃないかな。

 

 だからこそ、社会に出てからの流動性が大切になってくるのです。30歳を目前にして「そういえばオレは地域に貢献するつもりだった」と思い返しても、日本では公務員就職は年齢制限がありますからね。中途採用もないわけではありませんが、募集は若干名程度です。アメリカのように門戸を公平に開放して、もっとやり直しが楽な社会にすべきではないでしょうか。

 

 その一方で、論理をひっくり返すようで恐縮ですが、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉もボクは好きなんですよね。これは、カトリック系の修道女で昨年末に亡くなられた渡辺和子さんの著書のタイトルです。人生はいつも「こんなはずじゃなかった」の連続ですが、そんな状況でも決してめげることなく「咲く」努力をしてほしい、という内容のようです。申し訳なくも読んだことはありませんが、このタイトルは至言というほかありません。

 

 以上を慌ててまとめるとすれば、好き嫌いという自分のエゴと、社会が自分に求めるものを調和・融合、あるいは「折り合い」をつけていくのが人生といえるかもしれません。

 

 それでも中には「置かれた場所」から飛び出したい衝動を抑えられない人もいます。とすれば、自分の奥底にある好き嫌いをどのようにコントロールするかが、好きな言い方ではありませんが、セルフマネジメント=自己管理の大きな要素になってくるわけです。

 

 なんてね、分かったふうな知ったかぶりに落とし込むのもボクは大嫌いなので、必殺のちゃぶ台返しをするなら、人生は結局のところ「なるようにしかならない」んじゃないかな。だから「Let it be」。意訳するなら「人事を尽くして天命を待つ」。ちょっと違うかもしれませんが、それほどにも読み換えることができる、こちらも畢竟の名言ではないでしょうか。

 

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2016年5月20日 (金)

白骨

 

 またまた誤解されそうなタイトルですけど、これは浄土真宗で「本願寺中興の祖」と呼ばれる第8世の蓮如が記した「御文」の言葉です。

 

 ボクは浄土真宗の信者ではありませんが、たまたま雑誌で蓮如を書くことになって、それなりに調べたことがあります。この人は生まれの関係もあってか、長く下積みというか日陰の身を強いられてきました。晴れて本願寺第8代となれたのは42歳の時ですもんね。

 けれども、それからの活動がすごいのです。積もり積もった憤懣や怨念をエネルギーに変えたかのように精力的に布教するだけでなく、マーケティングの才能にも恵まれていました。ここでそんなことを紹介したらキリがないのでやめますが、ともかく実に多彩で奥ゆきを感じさせる興味深い人物なのです。

 

 そんな蓮如によるマーケティングの1つが「御文」です。浄土真宗の教義を分かりやすく手紙にしたものなので、現代でいえばメールマガジンみたいなものかな。15世紀にもかかわらず文書で布教できたというのですから、当時から日本の識字率は世界でも異例の高さだったようです。

 

 それはさておき、この「御文」の中に次の文章があります。

 

 朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。

 

 本願寺派では「白骨の御文章」と呼んでいますが、「朝には元気な顔をしていても、夕方には死んで白骨になるかもしれない。それくらい人間の生なんてものは脆くて儚いものなんだよね」という意味です。

 

 初めてこれを読んだ時には驚愕しました。何しろ「白骨」ですよ。紅顔と白骨という鮮やかな対比が生と死の無常を表現しているとはいっても、あまりにも露骨ではありませんか。野原にころがるドクロに、そこらの草が風に吹かれてゆらゆらというイメージですよね。

 

 こういう文章が書けるからこそ「中興の祖」になれたのでしょうが、それにしてもインパクトあり過ぎで、「だからこそ自分の生命を大切にして阿弥陀仏に帰依しなさい」というエンディングにボクはあまり説得力を感じませんでした。宗教を信じたからといって、この無常観は消えるはずがない。実際に『歎異抄』でも親鸞と唯円が似たようなことを語り合っています。

 

 おそらくは「迷い」の結果としての「受容」が浄土真宗の基本的な教義ではないかという仮説をボクは持っていますが、これまた長くなるので割愛します。そんなこんなで、この「白骨」をたまに思い出すんだよなぁ。ボクらはいつか白骨になっちまう。だからどうよ、という結論もまたボクら自身の中にしかない。蓮如の御文はそんなことを含んでいたようにも思うのです。

 

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2016年1月 6日 (水)

思想(追伸)

 

 ていうか、どんなことにも思想って必要なんですよね。

 だから、今年は思想を大きなテーマにしませんか、ということを提案するために始めたのですが、この結論を書き漏らしてしまいました。

 

 そもそもボクが柄にもなく思想なんてことを考え始めたのは、ティファールの電気ケトルがきっかけでした。このブログでも以前に触れましたが、それまでは保温ポットで湯を溜めておくというのが常識的だったんですよね。98度くらいだったかな、沸騰直前の温度にしておけば、いつだってお茶やコーヒーが飲めるということです。

 

 ところがティファールの電気ケトルは、湯が必要な時に短時間で沸かしまっせという真逆の発想で生まれた家電だったのです。つまり、その時までは保温のための継続的な電力が不要ということになります。ティファールの商品体系がどうなっているかは別にして、この電気ケトルには少なくとも省エネという思想があるとボクは感じました。

 

 ちょうど原発の見直しだとか、自然との共生とか、いろいろ今に至る流れが明確になってきた時期だったんじゃないかな。にもかかわらず日本の家電メーカーは相変わらず、「いつでも熱い湯が出るので便利ですよ」というポットづくりにこだわっていたのではないでしょうか。これでは研究者やエンジニアがいくら省エネを工夫しても、お湯を常時98度で維持するためには、どうしたって継続的に電気を消費することになりますよね。

 

 では、常時熱い湯が本当に必要なのかといえば、そんなことはないでしょう。朝から晩まで10分おきにお茶やコーヒーを飲む人なんて滅多にいませんよ。だったら、保温ポットではなく、飲みたい時に瞬間的にお湯を提供できるケトル・タイプのほうが合理的であり、そのほうが資源保護や温暖化ガスの抑制という社会的な要請にも適合しているじゃないかと。

 

 こういう思想で家電を見直したら、現在でも新製品はいろいろ考えられるんじゃないかとボクは思うのです。ただね、こういう根本的な発想転換はやっぱ欧米のほうが早い。たとえばダイソンが登場するまで、日本の電気掃除機は集塵袋が不可欠だったんですよ。あんな面倒な仕組みを何十年もそのままにしておいて、吸引力ばっかりにこだわってきた日本の家電開発の構造的な問題が、21世紀になってあちこちで露呈してきたんじゃないかな。

 

 掃除機でいえば、ルンバだってそうです。日本は世界に名だたるロボット大国のはずなのに、あんなロボット掃除機にも遅れを取り、今ではパクリに走っていますからね。どうしたんだ日本の家電メーカー、というより、もともと開発に思想なんてものはなく、欧米の物真似から始まり、前例主義に陥っていたというべきかもしれません。 

 その極めつけがiPodiPhoneだったわけですな。でもって懲りずに後追いを繰り返しているわけです。

 

 もちろんそれだけではないにしても、優秀な研究者の海外流出問題も突き詰めればそこに行くとボクは睨んでいます。

 

 またまた組織論や日本批判になりそうなのでもうやめますが、変化や革新には絶対的に新しい思想が不可欠なんだよな。そこのところで、何度も言ってきましたが、文系が頑張らなきゃどうするのよと思う次第です。さもなきゃ、またぞろ役所あたりから文系不要論が再燃しまっせ。

 

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2016年1月 5日 (火)

思想(後)

 

 昨日は「思想を忘却していませんか」なんてご大層なことを書きましたが、ボク自身がそのようなものを持っているわけではありません。

 ちなみに、語義にこだわるようですが、思想とは「一般に、哲学や文学、芸術、あるいは政治や社会認識、宗教や科学など、さまざまな分野の知識体系と、その根底にある総合的な観念体系を指していう」と世界大百科事典にあります。

 

 これだからね、インテリの皆さんの解説は困っちゃうんだよなぁ。この文章のキモとなる部分は「その根底にある総合的な観念体系」ですけど、じゃそれって何だよと普通はなりますよね。

 取りあえず「総合的」は置いとくにしても、「観念の体系」というのがこれまた分かるような分からないような。おそらく科学が実証を伴った知識と理論の体系とすれば、思想は観念すなわち思惟の体系ってことでしょうか。

 

 もっとボク的に下世話に言ってしまえば、世界観ということになります。ところが、現代の政治経済はあまりにも算数的な目先の因果論が支配しており、あるべき理想まできちんと踏まえた世界観を持っている人が乏しいのではないでしょうか。

 もっとも、舌鋒鋭く政治や社会批判を行う学者の方々だって、テレビで見る限りですけど原因と結果にとらわれているように見えます。「だったらさ、要するにあんたは社会をどうしたいんだよ」という問いかけに対する根本的な解答こそが、思想にほかならないのではないでしょうか。

 

 これについてはボクなりにそれなりの考え方を持っています。昨日は儒家の徳治主義と道家の無為自然を対比的に紹介しましたが、これをアウフヘーベンすれば新しい答は出てきます。すなわち、「統治とみんなが意識しない統治」を目指せばいいのです。

 どうです、すごいでしょ。孔子も老子も生きていたらちょっと驚いた後に「そんなことできるはずない」と反論するはずですが、おっとどっこいで現代なら不可能ではありません。情報ネットワークが収集する膨大なビッグデータがあるじゃないですか。これを解析すれば、人々の「うねり」みたいなものは見えてくるはずです。それに基づいたシミュレーションを繰り返すことで、不満や不平の最も少ない方向に「無為自然」に誘導していくことは可能ではないでしょうか。すでにマーケティングではそれに近いことをやっていますからね。

 

 ただし、その先にあるのは必ずしも幸福とは限りません。だからこそ、再び思想=世界観が問われるとボクは考えているわけです。

 

 特に日本は、2030年には人口のおよそ3分の1が65歳以上という前例のない超高齢社会となります。そんな社会でどのように人間を幸福にするのかという大きな思想を今のうちから練っておかないと間に合いません。

 にもかかわらず、真似るべきモデルが古今東西どこにも見当たらないので、空疎な足踏みを繰り返しているように思うのです。

 

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2016年1月 4日 (月)

思想(前)

 

 新年あけましておめでとうございます。

 本年もご愛読よろしくお願いいたします。

 

 例によって無為な正月休みを過ごしてしまいました。そもそも正月なんて無為であることが本来的な姿であるような気もします。

 

 そこで「無為」を調べてみると、紀元前の中国で書かれた『老子道徳経』の中にあった「無為自然」が語源とされています。老子というのは周知のように古代中国の哲学者ですが、何しろ紀元前ですから生誕や死没年からして「不明」の表記が少なくありません。春秋戦国時代に登場した「諸子百家」に含まれるようですけどね。

 

 この「諸子百家」というのは、超有名な孔子や、荘氏、墨子などの「諸子」と、彼らが率いたと考えられる儒家、道家、墨家など「百家」を指します。秦の始皇帝が中国を統一するまでの分裂・混乱期に、あちこちで思想や哲学を説いてきた人たちということです。

 

 この歴史的背景を理解しておかないと、「無為自然」の正体もよく分からなくなります。

 

 「無為」といえば、ボクの正月休みのように何もしないでブラブラしていることだと思われていますが、そうではなくて「意図や作為のないこと」らしいんですよね。

 それだけならブラブラとどこが違うのかとなりますが、孔子を開祖とする儒家のアンチ発想であると考えれば立体的に理解できるようになります。

 

 儒家では個人の絶えざる修養が国家全体の統治のありようにまで及ぶという壮大な考え方なのに対して、老子と荘氏による老荘道家グループはこれを否定して「無為自然」であることが世の中すべてうまく収まるポイントではないかと説いたわけですね。

 

 それまでは武力で屈服させていく「覇道」が主体でしたが、孔子=儒家は支配者の徳によって統治すべきだと唱えました。これを「徳治主義」と呼びますが、要するに闘争や戦術の鍛錬ではなく、哲学や思想などを修養していくことで民衆に尊敬される統治者になれってことでしょうか。

 さすがは儒家で、そのための教科書もきっちりと準備されました。それが現在でも熱烈なファンを持つ四書五経です。

 

 ところが道家では、社会なんてものを無理して特定の方向に動かそうとすること自体が良くない。儒家が統治者や支配者による政策や管理重視とすれば、逆に民衆の自然な動きに任せることが、あるべき社会を作ると考えたのではないでしょうか。これって実は大変に過激な思想なんですけどね。

 

 ちょっと考えれば分かるように、政治家やエスタブリッシュメント、企業家には儒家のほうが魅力的です。今やブラック企業でも表向きは徳みたいなことを言い出していることから分かるように、「統治・被統治の関係」「支配・被支配の関係」を維持・擁護する思想にほかならないからです。

 

 でもねぇ、そうした一方的で非対称な関係性ってどうよ、と根本的なところから見直してみると、老子の「無為自然」がにわかに浮上してくるんですよね。

 

 マルクスとエンゲルスは、高度に発達した資本主義は必然的に社会主義に移行すると主張しました。そりゃそうです、貧弱な生産体制しかないのに共産主義や社会主義が実現するはずがありません。だからこそ農本主義からいきなり共産社会に移行したソビエトと東欧諸国は70年足らずで崩壊。中国ですら資本主義を導入することになりました。

 

 だからといって、これから本来的な社会主義が実現するとも思えませんが、それと同じように「無為自然」はざくっと2000年ほど時期尚早だったのかもしれません。ただね、ヘンな方向に使われてしまったマルクス主義と違って、「無為自然」をコアとする道家の思想は、1960年代後半に登場したヒッピーたちがすでに実践していたのではないでしょうか。

 

 このあたりから話は一気に難しくなるのですが、しばしば言われる「大きな政府・小さな政府」という論争も、ドラスティックに統治・被統治の合理性または必然性から考え直すべきではないかと思うのです。

 ボクは無政府主義を信奉するものではありませんが、近年の国家予算の野放図な増加ぶりを見るにつけても、無理に無理を重ねてきた政策の結果ではないかと感じるわけですね。早い話が今の政治に儒家や道家のような思想的根拠はあるのか、と疑わざるを得ないのです。経済政策にしても、底の浅い短期的なテクニック優先に陥っているのではないでしょうか。

 

 そんな高邁な論議は別にしても、現代日本は思想というものをあまりにも忘却していませんか、ということを明日続けます。

 

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2015年4月 1日 (水)

人間の使命

 

 服飾評論家の中目黒桜子さんが上梓した『バスタブに右足から入る人は出世する』(サファイア社、税別1300円)という本が話題になっているそうです。

 

 すいません。昨日に続いて、こんな著者も本も出版社もありませんという重ねオチで話を作ろうとしたのですが、さすがに風呂の入り方だけではちょっとね。縁起をかつぐ人もいるはずですが、それ以上の意味も理由もないでしょう。にもかかわらず、これまた似たような本が書店には実在しているんですよね。

 

 さて、野球好きなら誰でも知っている伝説の投手の評伝を書き終えることができました。とはいっても某誌で4ページ程度ですけど、昭和初期の人だけに関連書籍を調べて行くと微妙に食い違うところが結構あります。どっちの説を採るか迷ったりしてかなり苦労しましたが、いや凄いプロ野球選手がいたものだと心から感動しました。

 

 例によって有料原稿への信義からここでは詳細は紹介しませんが、彼は日本のプロ野球の黎明期に数々の大記録をうち立てたにもかかわらず、選手として活躍したのは実質でわずか6年程度。もっと正確にいえば、今に至る記録のほとんどは2年間にも満たない期間に達成されたのです。

 そんな大投手にもかかわらず、驚いたことに3度も徴兵されており、1944年12月に彼が乗った輸送船が潜水艦に撃沈され、惜しくも27歳の若さで戦死しています。

 

 それだけなら「悲運の大投手」と形容して涙を誘いたくなるのがライターの人情ですけど、ボクはそうかなぁと。

 自分自身がそこそこの年齢になったからこそ思うのですが、人間が生きる、あるいは生かされている意味って寿命とは何の関係もないんですよね。いろいろあって人間が生まれ出てきたからには、何か理由がきっとあるのではないかと。つまり、人間はみんなそれぞれ果たすべき使命を持って生まれてきたのではないでしょうか。

 

 そう考えれば、彼の短い生命は与えられた使命の遂行に向けて夜空の花火のように輝いたわけですから、少なくとも馬齢を重ねてきたボクなんかよりはるかに価値と意義があります。ご老人には失礼かも知れませんが、とにかく長生きさえすりゃめでたいとはボクには思えないのです。

 

 ならば、ボク自身はどんな使命を担っているのでしょうか。それがまことに哀しいことに、正直言って今も分かりません。使命が分からなければ達成することもできないので、まだ生かされているということなのかなぁ。その使命とは何かをいつか分かる時が本当に来るのでしょうか。

 しかしながら、念のために付け加えれば、かつて国家はそうした心情を狡猾にも悪用したことがあります。そこのところだけは気をつけておかないと、本当に悲運や悲劇になってしまうんですけどね。

 

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2014年12月11日 (木)

良識

 

 情報や意見というデータは世の中にあふれんばかりになってきたので、これを分析・判断する脳内OS=オペレーティング・システムの充実というか高度化が急務になってきたような気がします。

 

 このように表現すると何やらメンドーくさくて、それゆえに大変にエラソーですけど、要するにボクは「良識」を持つことが必要になってきたと思うのです。似たような言葉で「常識」というのがありますが、これは集団としての社会が最大公約数的な共通利益のために機能させているOSですよね。それと重複する部分も少なくありませんが、「良識」のほうは個人として分析・判断する際に依って立つ独自のOSではないかと考えているのです。

 

 大げさな話で恐縮ですが、たとえば軍隊は上官の命令が絶対的な権力を持つ組織ですよね。近代の戦争は集団戦闘ですから、兵士が個々バラバラの意思で勝手に動けば戦力が分散して負けてしまいます。つまり「上官の命令は絶対」ということが、みんなの生命=共通利益を守るための「常識」ともいえるわけです。

 

 では、捕虜や無抵抗な人たちへの非人道的な拷問や虐殺命令にも「常識」として従わなければならないでしょうか。たとえば隊長が「あの子供はテロリストの家族で危険だから殺せ」と命令したとすると、あなたはどうしますか。ごく一般的な「良識」に従うなら、それはできないことです。けれども、軍隊の「常識」のもとでは上官の命令に反抗することはできません。

 そこで、隊長の命令や作戦の是非は別のところで裁かれるはずだからと従えば、後にその命令が違法で狂気の沙汰だったと分かったところで、一度失われた生命がもとに戻ることはありません。その逆に、自分自身の「良識」に従って銃の引き金を絞らなかったおかげで、その子供が自爆攻撃して仲間を失うこともあり得ないことではありませんよね。

 

 「常識」はもともとみんなのものなので、仮に判断ミスがあっても結果責任は免除されるというお約束になっています。ところが「良識」のほうは基本的に個人のものですから、その判断ミスで他人に危害が及べば断罪されることもあるはずです。だったら「常識」に従っていたほうが楽ってものではありませんか。

 

 ところが、昨今はマスメディアに加えて、独自の意見を発表できるSNSが普及してきたので、ある事象に対して肯定論から反対論までがグラデーションのように集まるようになりました。どれもそれなりに説得力があるとすれば、「常識」というのは相当に希薄化してきたわけです。

 

 前述した隊長の命令にしても、ネットで相談すれば「軍隊だから従うべき」から「軍隊とはいえ人道に反する」という意見までいろいろ出てくるでしょうね。そこで、やっぱり自分の根拠にできるのは「良識」しかないではないかとボクは思うわけです。もちろん戦闘現場では「良識」なんか捨てるべき局面が多々あるにしても、せめて危険のない日常生活では自分自身の「良識」を磨いておくべきではないでしょうか。

 

 では、どうすりゃ「良識」を磨けるのか。哲学なんかも役立ちそうですが、ボクは「常識を疑え」ということだと考えています。「良識」が「常識」によって磨かれ、逆に「常識」はそうした「良識」によって高められていく。理想論と大笑いする人もいるでしょうけど、そうした社会がボクには望ましく感じられるのです。

 

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2014年9月19日 (金)

仮説の流儀

 

 たいていの大人は矛盾や不合理をそれなりに理解して適応しているはずですが、たまに子供にかえったつもりで見直してみると、言っている事とやっている事がかなり違うことに気づきます。

 たとえば学校や社会では「自分の言葉で話せ」と言われたりしますが、本気で「自分の言葉」を考えて使おうとすれば、こりゃもう宇宙人との会話と同じで他人に通じるはずがありません。言葉というのはそもそも概念の共有ですから、それを「自分の言葉」にしてしまうということは、他者との交流を否定することになるわけです。

 

 ここに至って初めて、「自分の言葉」というのは表現のミスであって、要するに「自分の考え」という意味かなと気づくわけですが、それならそうやって正しく言えよ、間違えてしまうじゃないかと、なるべく原理に忠実でありたいボクなんかは思ってしまうわけですね。

 しかしながら、「自分の考え」というのは本当に存在するのでしょうか。たとえば世界というのは、みんなが首から上の頭だけを海の上に浮かべてユラユラしているのが真実であって、ボクたちが現実と思っていることは幻想に過ぎないということを「自分の考え方」として信じ込んでいる人と交流や意見交換ができるでしょうか。ちなみに、これはボクが幼児だった頃の妄想であり、「そんなはずねぇよ」と簡単に片付けることはできても、アインシュタインの相対性理論を「間違っている」と思い込んで力説したトンデモ本は結構あります。歴史を遡れば、途方もないことを自分の頭で考え、信念として大量虐殺を行った政治的指導者もいるわけです。そして、その考えを「自分の考え」として支持した人も多数いなければ、そんな非道なことを実行に移すことはできなかったでしょう。

 

 つまり、「自分の言葉」だろうが「自分の考え」だろうが、相当程度は「他人の言葉」で「他人の考え」でなければ、他者には通じないのです。その意味では、ボクたちの個性やオリジナリティなんてそもそも不完全なのですから、コピペがなんでいけないのということになってしまいます。

 そんなご大層なこと以前に、個性を求める割には協調や融和を指導するのが学校教育の基本ですから、子供の頃から表向きのタテマエと、その裏にへばりついている現実を調和させていくことが「学習」の本質といえるかもしれません。だったら最初からそう教えてよ。ボクなんかミカン5個とリンゴ3個を足していくつ? という質問に「ミカンとリンゴは同じものではないから足せない」と考えて無回答にしたので、もう少しで養護学級に入れられるところでした。

 

 えーと、あまりにも長い前置きで何が言いたいのか忘れそうになりましたが、ボクがライター稼業になったばかりの頃は「予断を持つな」というのが代表的なタテマエだったように記憶します。ヘンな予断を持たないで取材して事実に向き合うこと。いやまぁ大変に美しい文言ですけど、いざやってみたらアナタ、そんなことはおよそ不可能ではありませんか。

 「いや、予断を持ったからこそ朝日は吉田調書を読み違えたではないか」と指摘する人もいるでしょう。では、予断なしで被取材者に対する質問を考えてみてください。評論家やタレントなどは訊かれなくても自分の意見をベラベラ話すのが仕事ですが、普通の人は質問が最初にありきで、その受け答えがインタビューや取材の実態なのです。準備が必要として、事前に質問内容を提出するのも常識的ですが、この時に「予断なし」で質問内容を考えられるという人がいたら、ボクはぜひお目にかかりたい。予断があるからこそ「訊きたいこと」や「知りたいこと」が発生するわけで、予断を持てない人がインタビューなんてできないのです。

 

 ボクは、この「予断」をヘンに誤解や曲解されるといけないので、敢えて「仮説」と呼んでおります。でね、取材や調査というのは、この「仮説」の検証または再構築という作業の一環にほかならないのです。この検証の時にこそ、事実に対して謙虚でなければなりません。「予断」や「仮説」に固執すれば、それこそ吉田調書の最初の報道のように事実や真実をねじ曲げることになってしまうからです。

 

 かくて、これを正しく言い直すとすれば、「仮説」を持たなければ真実に出会うことはできないが、その検証に際しては、自分の考えが正しいという「予断」や「確信」を一切持つなということになるでしょうか。むしろ「間違っているかもしれない」という意識を大前提として持つべきですよね。

 

 早い話が、取材というのは自分なりの「仮説」を作っては壊していくことだとボクは思ってきました。これは取材に限らず、どんな仕事でも同じことではないでしょうか。こうした「仮説」をあれこれと作って試行錯誤してみなければ世界はわからない。物事を創造するクリエイターも科学の研究者も、おそらくは「仮説」を持つことからスタートしているはずです。そこに至って初めて「反常識」「非常識」の正当性が証明されるわけですね。

 何だか取りとめのない論理になってしまい申し訳ありません、読者への配慮を無視した文章を無性に書きたくなることがあるものですから……。

 

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2014年9月 4日 (木)

洗脳

 

 30代になってしばらく後に、しつこい耳鳴りに悩まされていた時期があります。某医大の付属病院で検査を受け、脳波なども取りましたが、聴力も含めて機能的にはまったく何の異常もありませんでした。帰りがけに「気にしなきゃいいのよ。酒の飲み過ぎのほうがよっぽど危ないわよ」と看護師から警告されたくらいです。あの頃は若さにまかせてメチャクチャに飲んでいましたからね。肝臓を酷使した影響もあったのでしょうか。

 

 こうした耳鳴りはよくあることで原因不明も珍しくないようですが、気にするなと言われても、気になるとどんどん気になってくるんですよね(何だこの文章は!)。仕事や読書など集中することがあればすっかり忘れているのですが、たまに我に帰ったりすると、どんどん大きく聞こえてきて、気になって仕方がなくなるわけです。

 

 おっと、本日のテーマは耳鳴りではなくて、その時にとても優しく聞こえてきた、ある囁きなのです。

 

「神様におすがりなさい。そうしたら楽になれるから」

 

 この時の「神様」は一般名詞ではなく、かといってキリストやマホメットや法然や親鸞や日蓮などでもありません。預言者は神様ではありませんけどね。敢えて詳しくは紹介しませんが、某新興宗教を信じる人がこのようにボクに囁いたのです。憲法でも第20条として「信教の自由」は保障されていますから、イワシの頭でも何でも祈ったり拝んだりするのは個人の勝手で、他人が阻止する権利はないと思っています。それどころか、すべてを人間本位や人間主体で考えるのは傲慢というものであって、それらを超えた大きな存在を仮定する謙虚さが、生きていく上で不可欠だと考えているくらいです。

 

 けれども、これもまぁ一般論であって、布教を拡大していくことが信心の積極証明または生きがいと考える人も少なくないんですよね。

 元気な時なら「アホちゃうか」で片付けられるような文言ですが、ボクのように何か気にすることがあって心身がいささか弱っていると、結構グラリときます。特に世間から隔離された空間が危ない、というか暗示を受けやすい。クルマが頻繁に往来する道路に面したバス停のベンチで聞いても「世間はそんなことねぇじゃん」という客観意識が確保されますが、風の音だけがヒューと吹き抜ける誰もいない丘の上のベンチでは、違う世界に引き込まれやすいのです。

 

 そんなわけで、こうした体験を通して強い信仰にはまった人が後に「洗脳」と表現することもあるわけですが、例の某歌手も含めて、この言葉が妥当かどうか疑問を感じるんですよね。もともと日本語にこんな奇妙な言葉はなかったはずだと調べてみると、Brainwashingという英語の直訳で、さらに興味深いことに語源は中国語だそうです (ウィキペディア)

 

 けれども、そもそも人間を「洗脳」することが本当に可能なんだろうかと。前述したボクの実体験を通して言えば、「洗脳」というのは「される」のでなく、むしろ「受け入れる」ことに近い情動であって、何かを信じたい、何かに「洗脳」されたほうが楽になるんじゃないかという思いがどこかにあったのではないでしょうか。

 

 だからといって、すべてを自己責任に帰するわけではありませんが、そうした思いまで「洗脳」という言葉に含めてしまうと、その原因や理由もウヤムヤとなり、別の機会にまた容易に「洗脳」される可能性が残るんじゃないかなぁ。政治的なキャンペーンもその一種ではあるんですけどね。

 

 再びボクの事例に戻れば、「楽になれる」にもかかわらず信じなかったのは、「すがる」というのがどうにも生理的なレベルでイヤだったのです。そりゃ何かにすがったほうが楽になれるのは確かだけど、強い抵抗感がありました。それが「神は死んだ」とされた後の理性または悟性の基本精神というなら、近代哲学は人間を苦しめる悩みのタネを新しく追加したに過ぎない、てなことになりかねないんですけどね。

 

 かつてオウム事件が起きた時に、この問題をどうして徹底的に追い詰めなかったのかなぁと思います。同じようなことがまた起きなければいいんですけど。

 

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