明日のことまで思い悩むな
そうはいってもねえ、思考することを覚えた人間にそりゃ無茶な注文だよな、と言わざるを得ません。
クリスチャンではないのでよく分かりませんが、来日したローマ法王は、核兵器廃絶だけでなく、日本の若者が「過剰な要求や数々の不安によって打ちのめされている」として、マタイによる福音書から「明日のことまで思い悩むな」という言葉を引用したそうです。
ボクはもう若者ではありませんが、それを聞いて、あまりの無責任さにムカムカした人は少なくないだろうと思いました。そうかぁそうだよなと、明日のことまで思い悩まなくなった人に、あなたは仕事を頼みたいですか。たとえばビルや橋などを建設している人たちが、明日のことまで思い悩まなかったら、ものすごく危ないことになります。「この接続部分は5年もすれば錆びて折れるぞ」「そうですね。では十分な防錆処理を指示しておきます」なんていう、明日を思い悩んだ仕事ができなければ、プロフェッショナルとはいえませんよね。
このように、人間の生活や仕事や社会は、ある程度の未来まで現実として織り込まれているので、それを思い悩むなといっても無理なのです。そもそも、イエス・キリストが生きたのは紀元前4年頃から紀元後30年とされているので、深刻に悩まなきゃいけないような明日なんて、農業以外になかったんじゃないかな。その日を暮らすのが精一杯という生活が羨ましいとは言いませんが、明日を思い煩う必要もなかったはずです。にもかかわらず、空が落ちてくるような無用な不安に苛まれる人もいたからこそ、イエスはそんなことを言ったんじゃないかな。
第一に、そこらのオッサンに酒を飲ませたら、この程度のことは言いますぜ。それをマタイによる福音書なんてカッコつけちゃってさ。信者の皆さんには予めお詫びしておきますが、ちゃんちゃらおかしい。2000年前の戯れ言ではなく、知りたいのは、どうやったら明日のことを思い悩まなくなるのかという方法論なのであります。
このブログは問いかけだけで終わるのでなく、常に結論にまで至ることを課してきたので、それなりの処方箋を提示したいのですが、これほど難しいテーマはちょっとありません。ボク自身も明日の悩みに苦しめられてきましたからね。悩むなといっても「悩まないという選択肢はないやろ」と、あの不気味に脂ぎったオッサンのデカイ顔が迫ってきます。さて、どうしたらいいのか。
たえとば、何かに熱中して、明日のことを考える余裕を奪うってことかな。ヒマであればあるほどあれこれと悩むようになるので、無理矢理に仕事を作ればいい。自分の部屋を徹底的に掃除するとかね。そういえば、事務所にある不要なモノを捨てまくる時は、そんな心境だったような気がします。だから、皆様には下記の言葉を進呈します。
明日のことを思い悩むなら、きょう熱中できる仕事を見つけよ。
イエスのお言葉より効き目があると思うんだけど、いかがでしょうか。
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