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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

宗教

2017年3月10日 (金)

権力者の孤独(前)

 

 韓国大統領の弾劾審判が本日午前中には決定するそうです。ボクにはあまり興味のない政治問題なので、どちらに決まっても「はぁそうですか」程度の感想しかありません。それよりも、彼女はきっと孤独だったんだろうなぁと、勝手に憶測してしまいます。

 

 選挙の洗礼も受けず、地縁・血縁などの根拠もまったく持たない一般人が政治に介入し、権力を濫用するという事件は封建時代の昔からありました。それを許してしまう理由は、どう考えても権力者の精神的な弱さです。強すぎれば独裁者になるので困ったものですが、どちらにしても、何千万という人間の頂点に立つなんていう心境は、ボクたちにはとても想像できません。裁判所前に泊まり込んでいるらしい罷免賛成派、反対派ともに、彼女の気持ちを忖度する人なんていないでしょうね。もししていたなら、そんなにも大きな声が出せるはずがないと思うのです。

 

 ボクのところみたいな超零細会社の社長だって負担を感じるのに、一国の大統領ともなれば、そりゃもう両肩がトン単位で重いどころの騒ぎじゃないはずです。しかも朝鮮戦争は今もって「休戦中」に過ぎないので、武力で一気に南北統一に動きかねない政権が虎視眈々と機会をうかがっていますからね。

 

 みんなに推されて韓国史上初の女性大統領になったのは喜ばしいとしても、それから国をどう運営すりゃいいかという段階で、両親ともに暗殺されていることから、困惑や悩みが泥沼的&重層的に深くなっていったのではないかなぁ。国会では野党が何かと反対ばっかりするしね。

 

 そんなこんなで気持ちが弱った時に、古くからの知り合いだか友人がそばにすり寄ってきて、「占いではこんなん出ましたから、右に行きまひょ右に」と自信を持って言われたら、つい頼ってしまうじゃないですか。それをいいことに、どんどん懐に入ってくる連中を止めることができなかった。やがて彼らは増長していき、大統領の権力を利用して国のカネを自分の財布にどんどん横流ししていったのです。

 

 誰だって想像できるストーリーであり、これをもって大統領の責任放棄とか失格とか、罪だの罰だのと指摘するのは当然です。国の税金を私的に流用してきた連中も絶対に許してはいけません。

 

 でもね、だったら、あなたが大統領になったらどうでしょうか。「ええええ、オレなんて(アタシなんて)そんなの無理よぉ」と言うなら、弾劾罷免に至るような事件は容易に繰り返されることになります。だってね、失敗から何も学ぼうとしなければ、同じことが起きるのは当たり前じゃないですか。

 

 ボクたちの限界をはるかに超えたスーパーマンを大統領に選ぼうにも、人間でそんな奴はいないのだから仕方ありません。すぐ隣にいるような奴が地方議会の議員となり、国会議員になって総理大臣になるわけですから、原因を突きつめて、自分なりの解決策を考えておかなきゃいかんでしょう。会社でリーダーになることも、まったく同じだからです。

 

 さて、ものすごい責任を担って孤独感が募り、精神的にもボロボロになってきた人間が救いとして頼るべきなのは何でしょうか。かの大統領は旧知の親友でした。いつライバルに寝返るか分からない政治家や、機械みたいな官僚より安心かもしれないけど、前述したように権力を利用して私腹を肥やす怖れが伴います。

 

 おそらくですけど、次に頼りにするのが宗教だろうとボクは考えます。宗教がいけないとは決して思いませんが、現世利益に走るようになると、やはり悪徳にまみれることが十分にあり得ます。大統領や総理大臣の政策が神様頼みというのも大問題だしね。

 

 ということで、友達もダメ、宗教も避けましょうというなら、権力者やリーダーの孤独を何が救うというのでしょうか。政策決定のプロセスといった法的問題は専門家に任すとして、ボクらのレベルでもこれくらいのことは考えておかないと、情報をただ単に消費したに過ぎなくなってしまいます。

 

 さて、再度問います。あなたは権力者やリーダーの孤独を救うものは何だと思いますか?

 

 絶世の美女? それは孤独を「癒やす」だけですから、やがて城を傾けてしまうことは歴史が証明しております。ここでボクの回答を紹介してもいいのですが、週末の思考訓練の宿題として、月曜日に続けることにします。

 

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2016年5月20日 (金)

白骨

 

 またまた誤解されそうなタイトルですけど、これは浄土真宗で「本願寺中興の祖」と呼ばれる第8世の蓮如が記した「御文」の言葉です。

 

 ボクは浄土真宗の信者ではありませんが、たまたま雑誌で蓮如を書くことになって、それなりに調べたことがあります。この人は生まれの関係もあってか、長く下積みというか日陰の身を強いられてきました。晴れて本願寺第8代となれたのは42歳の時ですもんね。

 けれども、それからの活動がすごいのです。積もり積もった憤懣や怨念をエネルギーに変えたかのように精力的に布教するだけでなく、マーケティングの才能にも恵まれていました。ここでそんなことを紹介したらキリがないのでやめますが、ともかく実に多彩で奥ゆきを感じさせる興味深い人物なのです。

 

 そんな蓮如によるマーケティングの1つが「御文」です。浄土真宗の教義を分かりやすく手紙にしたものなので、現代でいえばメールマガジンみたいなものかな。15世紀にもかかわらず文書で布教できたというのですから、当時から日本の識字率は世界でも異例の高さだったようです。

 

 それはさておき、この「御文」の中に次の文章があります。

 

 朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。

 

 本願寺派では「白骨の御文章」と呼んでいますが、「朝には元気な顔をしていても、夕方には死んで白骨になるかもしれない。それくらい人間の生なんてものは脆くて儚いものなんだよね」という意味です。

 

 初めてこれを読んだ時には驚愕しました。何しろ「白骨」ですよ。紅顔と白骨という鮮やかな対比が生と死の無常を表現しているとはいっても、あまりにも露骨ではありませんか。野原にころがるドクロに、そこらの草が風に吹かれてゆらゆらというイメージですよね。

 

 こういう文章が書けるからこそ「中興の祖」になれたのでしょうが、それにしてもインパクトあり過ぎで、「だからこそ自分の生命を大切にして阿弥陀仏に帰依しなさい」というエンディングにボクはあまり説得力を感じませんでした。宗教を信じたからといって、この無常観は消えるはずがない。実際に『歎異抄』でも親鸞と唯円が似たようなことを語り合っています。

 

 おそらくは「迷い」の結果としての「受容」が浄土真宗の基本的な教義ではないかという仮説をボクは持っていますが、これまた長くなるので割愛します。そんなこんなで、この「白骨」をたまに思い出すんだよなぁ。ボクらはいつか白骨になっちまう。だからどうよ、という結論もまたボクら自身の中にしかない。蓮如の御文はそんなことを含んでいたようにも思うのです。

 

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2014年9月 4日 (木)

洗脳

 

 30代になってしばらく後に、しつこい耳鳴りに悩まされていた時期があります。某医大の付属病院で検査を受け、脳波なども取りましたが、聴力も含めて機能的にはまったく何の異常もありませんでした。帰りがけに「気にしなきゃいいのよ。酒の飲み過ぎのほうがよっぽど危ないわよ」と看護師から警告されたくらいです。あの頃は若さにまかせてメチャクチャに飲んでいましたからね。肝臓を酷使した影響もあったのでしょうか。

 

 こうした耳鳴りはよくあることで原因不明も珍しくないようですが、気にするなと言われても、気になるとどんどん気になってくるんですよね(何だこの文章は!)。仕事や読書など集中することがあればすっかり忘れているのですが、たまに我に帰ったりすると、どんどん大きく聞こえてきて、気になって仕方がなくなるわけです。

 

 おっと、本日のテーマは耳鳴りではなくて、その時にとても優しく聞こえてきた、ある囁きなのです。

 

「神様におすがりなさい。そうしたら楽になれるから」

 

 この時の「神様」は一般名詞ではなく、かといってキリストやマホメットや法然や親鸞や日蓮などでもありません。預言者は神様ではありませんけどね。敢えて詳しくは紹介しませんが、某新興宗教を信じる人がこのようにボクに囁いたのです。憲法でも第20条として「信教の自由」は保障されていますから、イワシの頭でも何でも祈ったり拝んだりするのは個人の勝手で、他人が阻止する権利はないと思っています。それどころか、すべてを人間本位や人間主体で考えるのは傲慢というものであって、それらを超えた大きな存在を仮定する謙虚さが、生きていく上で不可欠だと考えているくらいです。

 

 けれども、これもまぁ一般論であって、布教を拡大していくことが信心の積極証明または生きがいと考える人も少なくないんですよね。

 元気な時なら「アホちゃうか」で片付けられるような文言ですが、ボクのように何か気にすることがあって心身がいささか弱っていると、結構グラリときます。特に世間から隔離された空間が危ない、というか暗示を受けやすい。クルマが頻繁に往来する道路に面したバス停のベンチで聞いても「世間はそんなことねぇじゃん」という客観意識が確保されますが、風の音だけがヒューと吹き抜ける誰もいない丘の上のベンチでは、違う世界に引き込まれやすいのです。

 

 そんなわけで、こうした体験を通して強い信仰にはまった人が後に「洗脳」と表現することもあるわけですが、例の某歌手も含めて、この言葉が妥当かどうか疑問を感じるんですよね。もともと日本語にこんな奇妙な言葉はなかったはずだと調べてみると、Brainwashingという英語の直訳で、さらに興味深いことに語源は中国語だそうです (ウィキペディア)

 

 けれども、そもそも人間を「洗脳」することが本当に可能なんだろうかと。前述したボクの実体験を通して言えば、「洗脳」というのは「される」のでなく、むしろ「受け入れる」ことに近い情動であって、何かを信じたい、何かに「洗脳」されたほうが楽になるんじゃないかという思いがどこかにあったのではないでしょうか。

 

 だからといって、すべてを自己責任に帰するわけではありませんが、そうした思いまで「洗脳」という言葉に含めてしまうと、その原因や理由もウヤムヤとなり、別の機会にまた容易に「洗脳」される可能性が残るんじゃないかなぁ。政治的なキャンペーンもその一種ではあるんですけどね。

 

 再びボクの事例に戻れば、「楽になれる」にもかかわらず信じなかったのは、「すがる」というのがどうにも生理的なレベルでイヤだったのです。そりゃ何かにすがったほうが楽になれるのは確かだけど、強い抵抗感がありました。それが「神は死んだ」とされた後の理性または悟性の基本精神というなら、近代哲学は人間を苦しめる悩みのタネを新しく追加したに過ぎない、てなことになりかねないんですけどね。

 

 かつてオウム事件が起きた時に、この問題をどうして徹底的に追い詰めなかったのかなぁと思います。同じようなことがまた起きなければいいんですけど。

 

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2014年7月31日 (木)

サプライチェーン(後)

 

 昨日のブログでは宗教についてちょっと説明不足だったかも知れません。ここで何度も書いたようにボク自身は無宗教ですけど、先輩から「海外で無宗教であることを自慢気に言うな」とクギを刺されたことがあるように、世界的には日本みたいな国は例外です。国民的な宗教を持っているほうが普通であって、その規範が法律では規制し切れないことを心の内面から抑えるという格好になっています。つまり、法律の規定なんて実に些細なことに限られており、宗教はもっと大きな枠で倫理や道徳を規定しているとボクは考えているわけです。

 

 たとえば「何でズルしちゃいけないの」と子供から聞かれて、あなたはどう返事しますか。「6か月以上5年以下の懲役または50万円以内の罰金に処せられるから」と説明できる法律違反ならまだしも、マナーやルールや道徳や倫理の場合はそのように具体的に説明できないじゃないですか。そんな時に神様仏様や信仰があると「しちゃいけない」とか「こうすべき」と言いやすくなります。「神様は必ず見ていますからね」といった感じですね。そういうものが、長きにわたる人類の歴史を支えてきたと同時に、戦争の火種にもなってきたわけです。

 

 ところが、日本では不幸なことにオウム事件を経験したせいで「宗教は怖い」という若い人が少なくありません。マインドコントロールなどで社会問題となった新興宗教もいくつかあるほか、学生運動も狂信的なものと畏怖されているようですけどね。

 それに対して、古くからの仏教宗派はなぜだか沈黙を続けてきたため、若い人から見たらみんな一緒くたに見えるわけです。だからこそ無宗教が自慢できるかのように思われる土壌ができてしまいました。クリスマスはキリスト教で葬式は仏教で結婚式は神前というご都合主義も興味深い習慣ではありますが、これではマナーやルールや道徳や倫理のベースにはならないというのがボクの論旨なのです。

 かといって今さら国民的な宗教の復活というのも危険で怖いものがあります。やっぱり「隣近所の眼」という他律的なものに期待せざるを得ないのかなぁ。このあたりこそ識者の意見を聞きたいところなんですけどね。

 

 さて、サプライチェーンですが、世界中で最も安い原材料や労働力を探して途切れることのない断続的な物流に組み上げることと表現できるかもしれません。今やスーパーでもモーリタニア産のタコやニュージーランドの牛肉が毎日並んでおり、安売りスーツも中国製という時代なので決して不思議ではないにしても、地球規模の流通プロセスとコスト管理を考えれば、やはりITなくしては不可能だったと思います。為替だけでも毎日変動するほか、タンカーを動かす石油だって市況があります。そうした変動要素を踏まえながらも流通網を安定させ、その上で利益を挙げるというのですから、すごいものだと感心しませんか。

 

 つまり、そうしたサプライチェーンを管理・最適化できる人材が現代の専門職の一つとなるわけです。ついでに言えば、企業活動は国境を越えて世界各地に生産や販売拠点を持つようになっています。そんな拠点の経営や会計がバラバラでは変化に迅速に対応できず、知らないうちに大変な損失を被ることになりかねません。そうならないように、世界各地の拠点と本社を結ぶグローバルな連結経営管理システムをERP(Enterprise Resource Planning)と呼ぶわけです。

 この分野ではSAPと呼ばれるパッケージソフトが世界的に有名ですが、パソコンのようにアプリケーションソフトを読み込めば一丁上がりというものではなく、大規模なシステムなので企業や事業の特性に合わせた導入処理が必要になります。このため、京都情報大学院大学では「SAP認定コンサルタント」の資格取得を支援しています。

 

 また、食品の安全に関しても、東京海洋大学大学院海洋科学技術研究科食品流通安全管理専攻では、食品の安全をチェックする「HACCP管理者」を育成しているほか、在庫負担の減少と同時に環境に負荷を与えない「食品ロジスティクス実務家養成コース」を設置。さらに、食品マネジメントに関する国際規格としてISO22000があり、その審査員になるための研修も実施しているそうです(取材当時)

 

 資格と言えば、弁護士や行政書士、税理士や公認会計士などの国家資格が有名ですが、「取得しても食えない」という本や雑誌記事が目立つようになりました。けれども、このように産業界は深い地層レベルから変化しているので、旧来の仕事しかできないし、そのほかはやる気がないという有資格者が食えなくなるのは当然ではないでしょうか。

 

 もちろん、古参資格だって変化への対応は可能ですが、新しい勉強が必要になります。そうした努力もしないくせに、あるいは新しい職務分野を見出そうともしないくせに「食えない」と連呼するのは、実につまらんなぁとボクは思うのです。国家資格はすべてドメスティックな存在でも、企業や市場が望む仕事がグローバルになってきたのですから、そのニーズに応えることも専門職の義務ではないでしょうか。そうした姿勢さえあれば、弁護士だって就職難にはならないはずです。たとえば英語で交渉ができない弁護士の仕事がこれから増えるなんて思えますか。

 

 時代の転換期に、過去の勉強だけが得意な優等生は何の役にも立ちません。誰も行ったことがない土地に一歩を踏み出せる冒険者が必要であり、東京大学が推薦入試を導入したのも、そうした理由からではないでしょうか。

 そんなことは私立大学に任せて、東大は伝統である官僚育成を、学力だけでなく人格教育やノブレス・オブリージュの浸透にも拡大すべきではないかというのが、ボクの個人的意見ではありますけどね。

 

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2014年1月 9日 (木)

スーパースター

 

 昨年末に「カリスマ」というタイトルのブログを書きました。ちょっと調べてみたら、以前のブログで同じタイトルを発見したので慌てて「()」を付け足したのですが、通算で1000本近くになってくると、こういう重複も十分にあり得るので面倒です。タイトルなんていちいち覚えていませんからね。

 

 ただ、どうして「カリスマ」がこれほどまで心にひっかかるのか自分でも不思議でした。そんな時に、小さな音量で流しっぱなしにしている事務所のラジオからたまたま聴いた歌で過去が鮮やかに蘇ってきたのです。

 その曲名は“I don’t know how to love him”。日本語では『私はイエスが分からない』というタイトルだったように思います。

 

 この日本語タイトルから分かる人は分かるように、ロックミュージカル『ジーザズ・クライスト・スーパースター』の中で歌われている曲です。イエス・キリストが処刑されるまでの最後の1週間を描いたミュージカルで、ウィキペディアによれば1971年にアメリカ・ブロードウェイで上演され、ロンドンのウェストエンドでは80年まで続くロングランとなりました。『キャッツ』や『オペラ座の怪人』などで世界的に有名な大御所の作曲家、アンドリュー・ロイド・ウェーバーの出世作とされています。

 

 ボクは映画で見たのですが、こちらは1973年末の公開だったようです。翌年の夏休みに彼女と神津島に行きましたが、紺色の海と薄青い空がくっついたような水平線を浜辺から眺めながら、この曲を持参したラジカセ(さすがに古いですね)で何度も聴いたことを覚えています。

 もっとも、サラ金ならぬ学生ローンからの高利の借金で旅費をまかなったので、その返済に1年以上かかったというイヤなオマケもありますけどね。そういえば、当時は男女のワリカンなんてほとんどなくて、男が全額またはかなりの割合を負担していたような気がします。

 

 ちなみに、やはりウィキペディアによると、このミュージカルのオリジナルは1969年に発表されたストーリー性の高い2枚組のLPレコードだったそうです。それをもとにノーマン・ジェイソン監督が独自の構想で映画化したということで、自分の舞台とはかなり異なることから前述のアンドリュー・ロイド・ウェーバーは演出に不満を持っていたと紹介されています。

 

 確かに異色の映画ではありました。草木の緑がまったくない乾いた丘陵地に、古びたバスが砂ぼこりをあげて走る遠景から映画は始まります。石づくりのひび割れた太い柱が何本も残る遺跡のようなところでバスは停車。若い俳優たちが何人も降りてきて、大きな十字架を組み立てたりします。しばらくすると、一人の男が岩山の上で孤独にたたずむ映像になり、やがて彼が歌い始めます。つまり、現代と過去の物語を混交させた演出になっているのです。

 

 その岩山に立った男がやがてイエスを裏切ることになるユダなのですが、それがアフリカ系アメリカ人なんてボクには意外を通り越して衝撃でした。イタリアでダ・ヴィンチの傑作「最後の晩餐」を間近に見たことがありますが、ほとんどあの白人イメージでしたからね。後年にユダヤ人の知り合いからアフリカでも「ブラック・ジューイッシュ」として認められるようになった人たちがいると聞いたので、その先駆的な意味があったのかもしれません。

 

 聖書なんか読んだことはないので、宗教的なことは何も分かりません。けれども、ある思想や目的を持った集団内の葛藤や相克は容易に想像がつきます。リーダーに対する憧れや信奉、その一方で必ず起きる疑念や反論・反感なんて、人間が人間である限りは未来永劫に続くことですよね。

 

 そんな中で、静かに眠っているイエス・キリストを見つめながら、マグダラのマリアが彼への思慕と畏れを歌い上げるのが、“I don’t know how to love him”なのです。サラ・ブライトマンなどがカバーしているほか、TVミュージカルの「Glee」でも歌われています。でも、ボクはやっぱりオリジナルのイヴォンヌ・エリマンが好きだなぁ。少しだけねっとりした歌い方が詩の内容と合っているような気がします。

 

 それで何が、という結論のない文章ですけど、スーパースターであるイエスと信徒たちの関係が、キリスト教圏では無意識にリーダーシップの教材になっているのではないかと思っちゃったりするわけですね。翻って日本にはそうした伝統的・文化的に共通した素材があるのでしょうか。まぁね、戦国武将とその物語が該当するのかも知れませんが。

 

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2013年10月18日 (金)

因幡の源左さん

 

 これまで様々な雑誌を編集・執筆してきましたが、その中でもとりわけ記憶に残っているのが『ジッポウ』です。ダイヤモンド社と仏教総合研究所の共同編集による季刊誌であり、「21世紀のブディストマガジン」をサブタイトルとして2007年春に創刊されました。

 

 ボクはまったく無宗教の外部ライターなので事情はよく分かりませんが、親鸞聖人750回大遠忌記念事業の一環として企画され、仏教総合研究所もそのために浄土真宗本願寺派(西本願寺)を母体に設立された組織だそうです。

 

 本来ならば、この大遠忌まで約5年間に渡って続く予定だったのですが、創刊から2年ほどして突然に廃刊となりました。あれこれ内輪話は聞いていますが、ボクは基本的に暴露話をするのは嫌いで、雑誌の休刊や廃刊なんて決して珍しいことでもないので、まぁ終わったこととしておきましょう。

 

 この雑誌を通して、アフガニスタンで井戸や水路作りに貢献してきた中村哲氏や『がんばらない』で知られる鎌田實氏などそうそうたる人物に取材できたほか、故・吉本隆明氏と糸井重里氏との対談に立ち会えたこともボクの数少ない自慢話になっています。

 また、記事を書くために浄土真宗の基本から親鸞や蓮如の一生なども勉強しました。今でも無宗教ではありますが、こうした勉強のおかげで、自分は一人で生きているという傲慢な考え方をいくらか修正できたような気がします。

 

 そして、この雑誌でボクがなぜだか強く惹かれたシリーズが「妙好人伝説」だったのです。川西蘭氏による分かりやすい文章も魅力でしたが、しりあがり寿氏の墨絵も素晴らしい雰囲気で、失礼ながら、こんなに豊かな画才のある人とは知りませんでした。

 

 このシリーズの第3回目に「因幡の源左同行」という話があります。

 源左さんの父親は死の間際に、「おらが死んだら、親を探して親にすがれ」と遺言します。彼はその意味がどう考えても分かりません。それからかなり経って、デンという飼い牛と一緒に草刈りに行った帰りに、たまたま急な腹痛に襲われます。それで彼はやむを得ず、自分が背負っていた草の束をデンの背中に移しました。この時に「すとんと体が楽になり、胸にあった長年のわだかまりもすっと溶けた」とあります。

 

「自分が担いでいかなければならない、と力んでいた重い草の束を、デンにまかせたとたんに苦痛が嘘のように消えた。如来のお慈悲も同じだ。成仏はわがはからいでどうなるものでもない。親様にすべてをまかせるしかない」

 

 こう考えた源左さんは、そこでようやく「世界の広がりを感じ、安気になった」と続きます。この話をどう理解するかは、きっと人によって違うでしょう。ボクは最初、ならば牛に辛い思いをさせていいのかと疑問を感じたくらいですから。

 けれども、しばらく考えるうちに「自己責任の業」みたいなものに突き当たったのです。何もかもすべて自分が責任を取る、取らなきゃいけない、あるいは責任を取れるのだという発想は、そもそも人間一人には無理というだけでなく、傲慢ともいえる姿勢ではないだろうか。であるなら「すがる」というか、互いに助け合うことは決して悪いことではないと思ったわけですね。

 

 この理解が浄土真宗として正解かどうかは分かりません。仏様による他力本願が話の本筋のはずですから、むしろボクが現世的に曲解していることになるでしょう。しかしながら、何でもかんでも「自己責任」で「すべてはお前自身のせいじゃないか」という声なき声に苦しんでいる人は結構多いのではないかなぁ。そんな人たちに向けて、「助けて」と協力を要請するのは決していけないことではないと、この話は言っているようにも感じます。

 そして、そうした悲鳴をみんなが耳を澄まして聴き取ることで、どれほど生きやすい世の中になるだろうかとボクは想うんですけどね。

 

 なお、来週月曜日は早朝から京都出張なので、このブログは火曜日から更新する予定です。

 

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2012年1月11日 (水)

自殺者3万人超

 警察庁のまとめによれば、昨年の自殺者は速報値で3万513人。これで年間の自殺者は14年連続で3万人以上となったそうです(日本経済新聞1月11日朝刊)。

 確か11年連続となったあたりで、先進国では異様に高い数字だと報道された記憶がありますが、それが14年も続いているわけです。単純計算すれば、1998年から42万人以上が自ら命を断っていることになります。

 毎年3万人以上が自殺する国というのはどう考えても異常だと思いませんか。交通事故の死者ですら年間5000人前後ですからね。もっとも、事故から1年以内の死者の合計は約1万人にもなるらしいので、いくらかデータの取り方に問題はあるとはいっても、要するに交通事故関連死亡者の3倍以上が自ら死を選んでいるのです。

 自殺の理由は、ボクたち生きている人間の側にはおよそ想像つかないものでしょう。単一の原因もあれば複合的な事情もあるほか、精神的な疾患などもあり得ます。

 原因を特定するのは大変に困難ですが、ごく普通に客観的に考えれば、やはり経済事情が大きな背景になっているはずです。生活保護世帯も昨年は約206万件で戦後最多といわれますからね。

 そこで、民間の平均給与(年収)を見て見ると、やはり1998年からダウンを続けてきました(国税庁・民間給与実態統計調査)。2007年だけはいくらか上昇しましたが、1997年の平均給与467万円に対して、2009年は406万円。11年間で61万円も収入が減少しているわけです。最新の統計による2010年は412万円と前年より6万円ほどアップしましたけどね。そのせいか、翌2011年の自殺者は、前年より1177人少なく、3.7%減となっています。

 いずれにしても、14年連続ともなるとメディアでは日常的な話題になってしまうのでしょうが、「自殺大国」といわれても抗弁しにくい事態ではありませんか。

 理由が分かれば改善する方法もあるはずなのに、政府は「不退転の決意」で弱者直撃の増税をネバーギブアップだそうです。取りやすいところから取ることを政策なんて、ご大層に構えないで欲しいなあ。

 もう一つ、人間の内面的な苦悩を救済するはずの既成宗教は何をやっているのでしょうか。オウム真理教の頃から指摘されていましたが、新興宗教に若い人たちが走るのは既成仏教の衰退が背景といわれます。こんなにも多くの人が自殺しているのに、残念ながらボクの耳には、立派な本堂から何も聞こえてこないのです。

 このデータを「警鐘」と捉えなければ、亡くなった人たちに申し訳ないだけでなく、いずれ決して他人事ではなくなると考えるのが健全な良識というものではないでしょうか。

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2011年9月13日 (火)

神を超えた存在?

 

 滅多にないことですが、引退して山梨県某市に住むボクの大先輩から電話がかかってきました。「大変なことを発見してしまった」というので、仕方なく相手をすることにしたのですが……。

 

「いやあ参った。ワシともあろうものが、こんな大切なことに今ごろ気づくとはな」

「いったい何ですか。そろそろ一杯やって寝ようかと思っていたのに」

「いや、すまんすまん。だが、大変な発見なのじゃよ」

「では特急で説明してください。電話ですから、簡潔にお願いします」

「なんか冷たいなあ。だが、まあいい。旧約聖書の天地創造は知っておるな」

「ボクはユダヤ教でもキリスト教徒でもないので、常識的なことくらいしか……」

「では、説明してみそ」

「神様は1日目に闇の中に光を創造して、昼と夜を作りました」

「そうじゃ。それから毎日、大地だとか太陽や月なんかを作って、6日目には動物や家畜、そして最後に、神の姿に似せて人間を作った、と」

「で、7日目はお休みしたので、それが日曜日になったわけですね」

「そうじゃよな、それで間違いないよな?」

「厳密には知りませんけど、大体そんな感じではないでしょうか」

「じゃあな、そこで疑問は感じないか。大変なことを見逃しているんじゃよ」

「何だかアメリカのテレビドラマ『フリンジ』の博士と息子みたいになってきましたね」

「疑問を感じないかと聞いておるのじゃ」

「神は1週間、正確には6日の労働で天地と動植物を創造された。それでいいじゃないですか」

「であるなら、だ!」

「何だかもったいぶってますねえ」

「であるなら……」

「はいはい、であるならば?」

「誰が時間を作ったのだ?」

「…………………」

「神様は天地を創造したが、時間を作ったといわれているか?」

「いや、それは。キリスト教の神学はちょっと門外漢ですから」

「ワシだって詳しくは知らんよ。でもな、仮に神が闇から光を作る以前から時間があったとしたら、全知全能であるはずの神を超えた存在があったことになる。これは、ユダヤ教ならびにキリスト教にとって驚愕の大問題はといえまいか」

「多分、ですけど、闇から光を作った段階で必然的に時間も始まったと考えるのが普通ではないでしょうか」

「では、なぜ聖書にそう書かれていないのだ。しっかり読んだことはないが」

「ボクだって大したことは知りませんよ。今度の日曜日にでも教会の牧師さんに訊ねてみたらいかがでしょうか」

「ことによっては、神以上の存在を認めざるを得なくなるとは思わないか?」

「時間に関するボクレベルの知識では、宇宙を形成するビッグバンが146億年前に起きる前は時間がなくて、ビッグバン直後に時計を見たとすると、すでに10のマイナス43乗秒が経過していたとなっているようですよ(「はるかな146億光年の旅」川端潔著)」

「10のマイナス43乗秒って、なんじゃそりゃ?」

「ご存じのようにボクは数学が苦手なので、ちょっと説明できません」

「もしもだな、146億年前のビッグバンも神の仕事だとすると、地球の年齢は45~46億年といわれておるから、神様はおよそ100億年もの間ブラブラしていたことになる」

「ほかの銀河とか惑星とか作っていたのではないでしょうか。っていうよりですね、宇宙物理学と宗教をごちゃ混ぜにしてはダメですよ」

「確かに。けれども、果たして神はいつ時間を作ったのか、それとも作らなかったのか。これは信仰上の大きな問題といえないだろうか。もし後者であるなら、最上至高の存在であるはずの神より偉大な何かの存在を認めざるを得なくなる」

「先輩もボクも信者ではないのですから、今日はこの辺にしておきましょうよ」

「うーむ。ワシはかなり興奮しておるのだが、お互いに知識不足では仕方がない。明日からちょっと本腰を入れて調べることにしよう」

「何か分かったら教えてくださいね。では、お休みなさい」

 

 先輩の興奮が乗り移ったせいか、その夜は、ダリの描いた歪んで垂れ下がった時計が何個も何個もボクに襲いかかってくる悪夢を見てしまいました。

 

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2011年7月 4日 (月)

基礎は教養にあり

 随分前に、ある先輩から「滅多に聞かれることはありませんが、海外では無宗教であることを自慢気に言ってはいけませんよ」とクギを刺されたことがあります。

 ボクの世代は内ゲバ続きでノンポリにならざるを得なくなり、宗教にもほとんど興味が持てませんでした。それが普通だろうと思っていたので、この発言は意外だったのです。ヨーロッパでも「神は死んだ」とする哲学者がいたので、近代合理性は無宗教でなければならないと思いこんでいました。

 最近になって、この言葉を思い出したのは、中国が経済的に台頭してきたからです。

 周知のように、共産主義では「宗教は阿片」として認めていません。となれば、残るのはイデオロギーですよね。しかし、それも改革開放政策で大幅に変質しています。では、さらに残ったものは何かとなると、おそらく地縁や血縁でしょう。

 加えて、資本主義社会の進展によって強くなってくるのが、カネを唯一の価値観とする「拝金主義」です。

 さて、ここに2人のビジネスマンがいるとします。

 Aさんは口が達者で目端が利く有能なビジネスマンです。ただし、彼は完全な無宗教で当然ながら現実主義者。実績と効率を何よりも大切にしており、時には非情な決断を下します。だから、私生活はないに等しく、趣味などを持つ人を軽蔑しています。

 一方のBさんも優秀なビジネスマンですが、キリスト教の信者です。とはいってもそれほど熱心ではありませんが、時々は教会のイベントなどに参加します。絵画が趣味で「フェルメールより、世紀末ウィーンのクリムトのほうが好きだな」なんてことを言ったりします。

 もし仮に、ビジネスにおける能力が同じとしたら、アナタはどっちの人と組みたいでしょうか。

 仕事に趣味や宗教なんてまったく関係ありませんが、永続性を考えると選択基準は変わってくると思います。

 ビジネスは常にうまくいくわけがないので、危機や困難に陥った時に、2人の行動はどうなるでしょうか。仕事に効率つまり利益だけを求めるのであれば、Aさんは極めて合理的に転身することがあり得ます。けれどもBさんは、少なくとも自分以外の他者、それが神様という名前にしても「信じる」ことの大切さを知っています。

 そういう意味で、冒頭の先輩は、宗教を持つ人が「無宗教」と聞くと、不遜で傲慢な印象を持たれかねないと警告したのだと、やっと分かるようになったのです。

 経済の大発展期には、そうした人間的な側面は無視されるのが普通です。とにかく実績を上げることが求められるので、人間性や考え方なんて考慮する余裕はありません。それに仏教徒だからといっても、人を裏切らないわけではありませんからね。

 でも、今のビジネスというのは、機械でできることは機械がやるので、人間同士でなければできないことばかりです。社内でチームを組む、あるいは他社の人と一緒になってビジネスを進める時に、何をもって相手を判断するでしょうか。

 そこに、これまでずっと放置されてきた「人間性」が浮上してくるのだとボクは思います。仁・義・礼・智・信とは言いませんが、「この人は信頼に値するか」と考えるじゃないですか。

 日本人ばかりでなく、外国人だって同じ懐疑を持って人と接します。その時に「無宗教」でもかまわないのですが、少なくとも他者の信仰を尊重する姿勢がなければ、信頼は得られないでしょう。

 それともう一つ、この「人間性」を表現するのは、やはり教養なんですね。Bさんはたまたま絵画が好きという設定にしましたが、古典文学でも音楽でも何でもいいのです。仕事に直接的に役立つはずのない教養が、ビジネスの相手となる人の人間性や知性を判断する重要なカギとなってくるのです。

 つまり、ビジネス社会が発展すればするほど、人間は、その人間性で判断されるようになり、他者の尊重も含めて、いわゆる「教養」が重要になってくるわけです。

 となれば、「グローバル人材」も教養に裏打ちされた豊かな人間性が基礎になるべきですよね。にもかかわらず、スマホでゲームの大流行ですから、オジサンはちょっと泣けてくるのです。

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2011年6月27日 (月)

理想と信念の没落

 ある大学の先生と学生運動について話をしたことがあります。大学生と若者たちにおける「政治の季節」は、1960年代に活発化して、末頃には全共闘運動として大きな盛り上がりを見せたにもかかわらず、急速に萎んでいきました。

 この先生によれば、「学生側から提起された問題は今でも解決されていないことが少なくないでしょう。けれども、ね」と続けたのです。

「その後の内ゲバなどによって、政治は怖いという負の遺産を残してしまいました」

 確かに、浅間山荘のリンチ殺人など、内ゲバどころか、同じセクト内なのに凄惨な事件が相次ぎましたから、敏感な子供たちがそう感じても不思議ではありません。このため、ノンポリというより、政治から離れようとする意識が長く継承されて今に至ったと考えることができます。

 それに続いて、宗教は怖いという事件も、ボクたちは経験しています。

 今さら言うまでもなく、オウム真理教による一連の事件です。有名大学出身者の幹部が多く、中には現役医師までがいて、サリン事件などに関与したことは、社会に衝撃を与えました。

 このことから、先の政治運動と同じく、「宗教は怖い」という負の遺産となったかもしれません。

 政治は怖いという負の遺産は、いいかえれば、社会を変革するような「理想」を持ち、他の人たちに働きかけることからの忌避を意味すると思います。同時に「宗教は怖い」ということは、ある種の「信念」に畏怖を感じることといえるでしょう。

 つまり、この2つの負の遺産は、「理想」と「信念」を劇的に没落させたのではないでしょうか。そのどちらがなくても、生きていくこと自体に支障は出てきません。社会生活に影響を及ぼすことはないので、勃興しようが没落しようが関係ないとはいえます。

 けれども、「理想」を持てない社会は不毛であり、「信念」を持てなければ利他的な行動を積極的にすることはできないでしょう。

 大震災を得難い契機として、この2つの負の遺産を決定的に解消することができればいいのになあと、ボクはつい考えてしまいますが、きっと無理でしょうね。

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