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福助くん その6

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    福助くん、9歳の秋です。 ちょっと長めの散歩をして、世田谷公園へ。 紅葉と福助をご覧くださいまし。

福助くん その5

  • 赤いサルビア♪
    2010年秋の福助くん。とある週末に埼玉県所沢市にある航空公園に行ってきました!

福助くん その4

  • 1 毎年恒例の・・・
    今さらですが、今年の花見の福助くん。ご近所の目黒川に行ってきました。

福助くん その3

  • 1 田舎に行ってきました!
    飼い主の田舎に行ってきた福助。うららかな春を迎えた大自然のなかで、いつもと違った表情に。

福助くん その2

  • 定位置
    平日は会社にいる福助。こんな感じの毎日です。

福助くん その1

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    笠木の飼い犬。甘えん坊でちゃっかり屋の8歳。雄。

社会・世相

2018年5月22日 (火)

Do the right thing

 

 世間で大騒ぎになっていることはなるべくテーマにしないと決めてきたのですが、日本もアメリカナイズされてきたなぁと呆れざるを得ません。アメリカンフットボールで起きた事件ですから当然ともいえるのですが、日大の監督が指示したとされるルール無視のラフプレーなんて、それこそアメリカの映画やドラマで何度となく描かれているんですよね。

 

 ゲームが終わった後にしても、ミスした選手がチームメイトから凄絶ないじめを受け、悪質な感染症で死んでしまうドラマがありました。それを刑事が調べていくうちに、どうやらコーチが指示したと分かるんですよね。勝利至上主義のアメリカでは、おそらく試合中も観客席から「殺せ」ではないにしても「壊せ」くらいの物騒な掛け声が飛ぶことも珍しくないんじゃないかな。

 

 その反面で、仮にタテマエだけとしてもキリスト教がブレーキになっているせいか、良心との葛藤に悩む選手が必ず登場してきます。チームなんだから監督やコーチの指示に従わなければならない。さもなければ総力を効果的に集約できないので、それに抵抗することは即ちチームみんなへの裏切りになってしまう。けれども、その指示にはどうにも納得できないし、そんなことはしたくない……。

 

 セットが終わって無防備になったクォーターバックの背後から強烈なタックルを行った日大の選手も、そうした葛藤があったはずです。しかしながら、日本には個人の倫理や道徳を支えてくれる宗教が普及しているとはいえません。このことからキリスト教圏の欧米を「罪の文化」として、日本は「恥の文化」ともいわれます。つまり、自分の内側に罪があるのでなく、その外側にある他人の眼や会社など組織の判断や評価が強い影響力を持つということです。いかに理不尽な指示だと思っても、組織内で誹りを受けたり孤立しないために、敢えて間違ったことをしなきゃいけない時もあるでしょう。そんな時の便利な言い訳として「上司が」あるいは「組織としての」みたいな言葉が準備されているのですが、自分を捨て切った歯車のような人材が優秀とされてきたのは20世紀までじゃないかなぁ。

 

 現在の大学教育は、アクティブラーニングが象徴的ですが、講義を黙って聴くのでなく、主体的な思考力や行動力を育成しようとしています。もはや追いかけるべき先進国なんて世界のどこにもないので、日本自身が新しい産業や社会モデルを創っていくほかありません。そのためには、指示待ちの歯車ではなく、自分から問題を発見して解決していく人材が必要なのです。言い換えれば、出力は小さいにしても、1人ひとりがエンジンであることが求められているのではないでしょうか。

 

 そうはいっても、ピラミッド的な組織社会ではまだまだ通用しないこともあるはずです。だからこそ、より生き良い未来を創ろうというなら、学内にそんな理不尽や不条理を持ち込んではいけない。スポーツだって、フェアプレイのサンクチュアリ(聖域)であるべきです。プロになれば、いろいろと大人の事情があって、なかなか理想を追求しにくいですからね。

 

 にもかかわらず、あのような事件が起きてしまった。まだ明らかにはなっていませんが、仮に監督が極悪非道な指示をしたとしたら、選手の側の葛藤にもボクは注目してしまうんですよね。そんな命令に従う前に、彼だけでなくみんなが「監督、そんなのおかしいですよ」と抵抗すればいいのに、どうしてできなかったのでしょうか。社会に出たらなかなかできないことでも、大学スポーツだからこそ、そうした反発があって然るべきじゃないかな。封建社会にだって「逆命利君」という言葉がありました。自ら考えて発言することができなければ、それは奴隷に等しいではありませんか。

 

 だから、どうせアメリカナイズするなら、“Do the right thing”という合言葉も真似しようよ。「正しいことを為せ」という呪文をみんなが心の中で呟くことが、このような悲しい事件を再発させない最も有効な対策だとボクは信じるのであります。

 

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2018年5月 9日 (水)

謝ればいいのに

 

 そうですか、わいせつ罪はあるけどセクハラ罪ってないんですか。

 財務大臣の麻生さんが言ったことが本当なら、セクハラを妨げる法的理由はどこにもないわけで、「わーいこれからもやり放題だぜ!」ってことなのかな。親告罪とはいうけど、警察などに告訴というのは被害者に一方的に大きな負担を与えることになるので、とてもじゃないけど誰もができるはずがない。

 

 そんなことよりも、罪がないんだから(元財務官僚の福田氏を誰も責めることができない)と公言する幼稚で貧困極まりない思考力しかない人が、いやしくも国の大臣職にあることに驚愕しませんかねぇ。人間には法に規定されていない正義や良心や倫理というものが山ほどあることを、この人は知らないのでしょうか。法律で定められたことなんて、してはいけないことやしなきゃいけないことの氷山の一角に過ぎないのです。

 

 こんな説明をすると、「じゃあどこまでがセクハラなんだ」と突っ込みをいれる小うるさい奴が出てくるんだよな。「上品な下ネタとセクハラになる下ネタを分ける基準を言ってみろ」とかね。そんなもん、ボクにだって言えるわけがない。もしも仮に基準を明文化したところで、こいつらは狡猾で卑怯なので、すぐにそれをかいくぐるセクハラを考え出すに決まっています。

 

 とにかく、ですね。何度も何度も何度も、このブログで指摘してきたように、権力の強弱や立場の上下という非対称な関係を背景にした人権侵害は、すべてハラスメントなのであります。なので、それを認定するのは強い側ではあり得ず、男女を問わず社会的に弱い側であり、立場が下の者です。そうした人たちが理由のない圧迫や、望みもしない性的アプローチを不快に感じたら、それは直ちにパワハラやセクハラになるってことなんですよね。

 

 うっひゃー大変な時代になったもんだと考えるオッサンもいるでしょうけど、それが果たして罪に値するかどうかで物議を醸し、財務省前に集まった女性の皆さんに抗議されるよりも、まったく簡単な解決策があるのです。

 

 さっさと謝ればいいじゃないですか。「あ、不愉快だった? 申し訳ない。ゴメンなさい」とその場で頭をきっちり下げるだけで、ほとんどのことは片付くんじゃないかな。もちろん同じことを繰り返してはいけません。謝罪の効き目がどんどんなくなりますから。

 

 そもそも被害者がマスコミ沙汰にしたり裁判に訴えるというのは、前述したように膨大な心的エネルギーを必要とします。裁判なら弁護士費用だって自前ですもんね。だから、とにかく誠実に謝りさえすれば、不承不承にしてもたいていはおさまりますよ。ところが、性悪で悪質な奴ほどそれをしない。今でも財務省の元事務次官はジタバタと否定しているじゃないですか。そのふてぶてしい態度が腹に据えかねて他メディアにリークしたんじゃないかとボクは考えています。政敵などによるハニートラップや色仕掛けというケースもないわけではないだろうけど、それにひっかかるほうが明らかにバカなんですから、どうしたって責任は取らなきゃいけませんや。

 

 とにかく、行き過ぎたり、間違えたなら、まずは素直に謝ろうよ。メシをおごられたら「ごちそうさまでした」と感謝することも同じです。なぜだか知りませんが、それすら言わない奴がいるんだよな。感謝と謝罪は、みんなの心をギスギスさせない潤滑油なのです。にもかかわらず、おエラい人ほどそれができない。トラブルがこじれてねじくれた挙げ句に、いったい自分の何が守られるというのかなぁ。国民のリーダーである官僚や政治家は特にそうですが、自己犠牲が伴わない誇りや矜持なんていうのは、ただの自己満足か、金ぴかの御神輿と似たような共同幻想に過ぎないのにね。

 

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2018年5月 8日 (火)

座敷が嫌い

 

 左の膝を痛めてステッキが手放せなくなってから、いよいよ苦手になりましたが、子供の頃から畳の座敷が好きではありませんでした。「しゃがむ」という格好はアジア全域に共通する姿勢といわれますが、ヤンキーの皆さんには申し訳ないけど、それも大っ嫌いなんだよな。

 

 別に西洋文化にかぶれているわけではなく、座敷もしゃがみも、ひどくだらしなく感じてしまうのです。座敷には正座という美しい姿勢があることはボクも認めますが、あれは身体に悪くないのかなぁ。少なくともボクは法事などで15分も正座したら、足が痺れまくってすぐに立ち上がることができませんでした。つまり不自然極まりないってことです。腰に悪影響を与えるという医学的な理由でスポーツ界から追放された「うさぎ跳び」と同じように、いささか無理が伴う美的習慣ではないかとボクは睨んでいますけどね。

 

 靴を脱いで足を締め付けから解放し、座敷で下肢を崩せばリラックスできるじゃん、というカジュアルな意見からして、ボクはもうダメなのであります。そんなに楽になりたいのなら、さっさと自宅に帰ればいいじゃないですか。にもかかわらず、政治家や官僚が行くような高級店から渋谷の格安居酒屋まで、日本には靴を脱がせるところが多いんですよね。

 

 蒸れる梅雨時や猛暑の夏の夕方に靴を脱いだら、たちまち刺激的な匂いが漂う人だっているはずです。それに靴下だけのズボン姿って、どう見てもマヌケだと思いませんか。そもそもズボンの裾は靴を履いた状態で合わせているので、短めの人も長めの人も、どっちにしてもヘンテコな袴のように見えるわけです。でもって用意されたゲタかスリッパを履いてトイレに行かなきゃいけない。そんな不細工な格好で女性を口説くなんて、とてもボクにはできません。

 

 それより何より、女性のスカートやスラックスも含めて、下半身に深いシワを作ることになります。掘りごたつ式なら椅子に座った時と同じ程度でしょうが、あれもボクにはマヌケなスタイルなんですよね。足のあたりがスースーするようで、居心地がすこぶる悪いのです。

 

 そんなわけで、たまに居酒屋に行く時は必ずテーブル席を選んでいます。座敷しかなければ、辞去して別の店を探します。どう考えても、立ち呑みのほうがズボンなどに余計なシワが入らず、深酒だって避けられるじゃないかとボクは思うんですけどね。つまりは洋装したら洋式、和装なら和式が最も合理的なスタイルではないでしょうか。

 

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2018年4月19日 (木)

どいもこいつも

 

 何だかなぁ、昔から日本の男はここまで卑劣で卑怯で恥知らずだったのでしょうか。

 

 テレビや週刊誌で派手に騒いでいるので今さら繰り返しませんが、セクハラもパワハラなど、すべてのハラスメントは非対称な立場が大前提となります。その上で、強い側が弱い側の人権を直接的あるいは間接的に侵害することをいうわけです。財務省の事務次官ともなれば行政権力の最高峰ですから、それと女性記者では立場の違いは明らかではありませんか。さらには取材する側とされる側ということになれば、こりゃもう二重に抵抗しにくい力関係となります。

 

 にもかかわらず「キスさせて」と言われたら、若い女性記者ほど困惑して悩むでしょうね。そんなの軽い冗談じゃないかと思う男もいるでしょうが、あなたが記者として、大切な取材で会った男から話もそこそこに「股間触っていい?」と言われたらどうしますか。彼の機嫌を損ねたら、大切な情報が得られません。だからといって男に自分の足の間にぶら下がっているものをまさぐられたくはないとしたら、「まぁまぁ、それはちょっと」と誤魔化しながらも、何とかして本来的な取材を続けようとするはずです。

 

 テレビ朝日の女性記者は、それと似たようなことを1年半にわたって経験したとされています。さすがに思いあまって会話を録音して告発しようとしたようですが、相手は何しろ行政権力の頂点にいる男ですから、ヘタに刺激すれば、その後の取材活動はもちろん、放送の許認可権を持つ総務省まで敵に回す可能性があります。そこで上司はもみ消すことに決めたものの、彼女はその決定に納得できず、週刊誌に録音をリークしたとされています。こんなのはメディアとしての掟破りですが、訴えを聞いてもらえないのだから仕方ありません。

 

 いわば彼女の人権より企業の営利が優先されたことになるので、前述した二重に加えて、三重の意味で彼女の尊厳は踏みにじられたことになります。ついでにいえば、「そんなのはどことでもあり得ることだから、うまくやり過ごすことも覚えていかなきゃ」と分かったふうなことを言う上司もきっといたでしょうね。そういう態度こそがセクハラをはびこらせるわけでね、これで通算すると四重にもなるわけです。

 

 ともかくですね、ここに登場する男たちのすべてが卑怯千万で姑息きわまりない。そして、もうひとつ。あくまでボクの憶測に過ぎませんが、省庁内部の権力闘争も否定できません。果たして彼が失脚して誰がトクをするのでしょうか。はぁ、これで五重の人権侵害かよ。

 

 つまらん。ああ、つまらん。こういうことを詳しく糾弾することくらい虚しいことはないですよね。新渡戸稲造が1900年に英語で執筆・出版した『武士道』は世界的なベストセラーになりました。調べていくと「武士道なんてそれまでなかった」という指摘もあります。もし仮にそうだとしても、新渡戸稲造は日本の武士階級の振る舞いから理想とすべき要素を抜き出し、それをまとめて「武士道」と命名したことになるでしょう。

 

 いずれにしても、セクハラの認定うんぬんという後ろ向きの論争なんかではなく、もっと前向きに正直に理想を目指そうよ。女性や他人のためではなく、回り巡ってそれが必ず自分のためにもなるんですから。

 

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2018年1月26日 (金)

社会正義

 

 これまでも手を変え品を変えて指摘してきたことですが、そもそも根っ子のところが揺らいでいるんじゃないかな。高度情報化のおかげで発覚しやすくなったという構造的な事情もあるだろうけど、不正事件があまりにも目立つような気がします。

 

 行政による大事業での談合なんて大昔からあったことですが、東芝の粉飾決算やら日産自動車や三菱自動車の燃費不正に神戸製鋼のデータ改ざん、今週になってもiPS細胞研究所で論文の捏造が判明しました。大赤字の自治体に寄生するような地方議員のインチキ領収書はもとより、国から巨額の助成金を騙し取るという「スパコン」事件も発生しています。

 

 ボクたちライターは記事を書く時に「同語重複」をできるだけ避けるのが普通ですが、どれもこれも「不正」ばっかりなので、それを言い換えるボキャブラリーにも限度があるってものです。

 

 かと思えば、いじめやセクハラ&パワハラが相変わらず頻発しており、世の中はこんなにも意地汚いことになっていたのかと、清く貧しく孤高を続けてきたオッサンは呆れ果ててしまうんですよね。いじめや各種のハラスメントは、権力や立場を利用した「不正」な「人権侵害」であることをどうして明確に指摘しないのでしょうか。それが分かっていないからこそ、あれは良くてこれはダメなどというつまらないガイドラインができたりするのです。どういうわけだか、こうした人権教育は戦後しばらく過ぎてから急速にないがしろにされてきたように思います。

 

 いずれにしても、どれだけ法律をこしらえたところで網の目をこぼれ落ちていく不正を食い止めることはできず、すべてを取り締まるのも不可能です。むしろ何でもかんでも法律で縛ろうとすれば、新しいことを生み出す創意工夫も檻の中に閉じ込めることになり、社会や産業からエネルギッシュな活力を奪うことになるでしょう。

 

 であるなら、やはり根っ子のところをきちんと糺すしかないだろうと。そこで「不正」という言葉を見直せば、「不・正義」ということです。つまり、社会正義にもとるということですから、その社会正義をきちんと定義して遵守することがみんなのためになるという認識を共有しなきゃいけない。

 大企業や個人がそれを踏みにじれば、目先の利益を上げることができても、他者に迷惑をかけるだけでなく、いずれ自分たちにも被害が及ぶということが、どれだけ理解されているのかなぁ。ここでは理屈を省略しますが、秩序の崩壊は不利益の拡大と無駄なコストの甚だしい増加をもたらします。さもなければ、社会正義なんていう共通概念が生まれるわけがない。

 

 倫理も道徳も同じことで、人間が健全に生きていく上で欠かせない、みんなが持つべき理念として発達してきたと思うんですよね。それに照らして恥ずかしくない態度や姿勢を堅持することが、共同体を混乱から守り、安寧に導くのであります。

 

 明文化された法律でなくルールでもない、こうした大きな理念をアクティブに発動する精神性が「義侠心」ということになるでしょう。過度に発達した資本主義と競争社会が、情報によってさらに加速されようとしているだけに、この「義侠心」がいよいよ有用になってきたとボクは思います。

 ただし、それはあくまで個人として自ら感じ考え行動することであって、大きな動きに付和雷同して匿名で追従することではありません。大勢というのはすべてを呑み込んで押し流してしまうので、正義も倫理も孤立することが少なくないんですよね。そもそも「みんながやっているから」という不愉快な理由で自己犠牲を伴う義侠心を発揮する奴がいるはずはありませんが、もしいるとしたら、それはそれで結果論として良いことなんですけどね。

 

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2018年1月 5日 (金)

彼女・彼氏がいない!?

 

 ある取材の時に、衝撃的なデータを紹介されました。未婚者のうち男性の約7割、女性も約6割が彼氏・彼女がいないというのです。さらに、そのうち男女とも約3割は交際相手を持ちたいとも思っていないらしい。

 

 これは国立社会保障・人口問題研究所が2015年6月に実施した「第15回出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)」の結果で、厳密には1834歳までの平均なのですが、交際相手を持たない人の比率が年々高まっていることにも驚かされます。

 もっと細かく紹介すると、未婚男性の場合、2024歳で67.5%、2529歳で68.4%、3034歳で68.7%。女性では同じく55.3%、58.1%、3034歳になると急増して64.8%。適齢期から外れているか、既婚とみなされて敬遠されやすいからでしょうか。

 男性の平均比率がこれらの年代を超えた7割になっているのは、1819歳の層が引き上げているからです。大学入試の前後だけに、恋人なんか作らないで真面目に受験勉強に取り組んでいるということになるのかな。

 

 当然のことながら性経験のない未婚者も増加しており、たとえば2529歳の男女ともに約3割。こちらも1834歳までの全世代で前回(第14回、2010年)よりも増加しています。

 

 若者男性の「草食化」がいわれたのはずっと昔のような気がしますが、ここまで事態が進行しているとは予想もつきませんでした。男性が交際相手を作ろうとしなければ、彼氏のいない女性だって増加しますからね。

 ボクは基本的に人間なんてそんなに変わるはずがないということを信念としてきたので、このデータは大変にショックです。未婚男性が10人いたら、そのうち7人は恋人がいないなんて、相当に不自然な社会だと思いませんか。特に20代といえば、下世話にいえば「やりたい盛り」であるはずなのに、交際相手を望まない男女が3割なんて、とてもじゃないけど信じられません。

 

 SNSの普及で、交際にともなうトラブルがバレやすくなったので、濃密な恋人関係を怖れるようになったと分析する識者もいるようですが、だからといって孤独な「お一人様」がそんなにいいかなぁ。ボクには人間の本能を社会環境が抑え込んでいるとしか思えないのです。特にSNSなんて、このブログでいつも批判してきた「横並び」と「同調圧力」を促進するだけじゃないかな。

 だってさ、みんながホントに恋人なしで満足しているなら、恋愛をテーマとしたテレビや映画がヒットするはずがない。もちろん、カップルとしてのつきあい方は時代によって大きく変わって当然ですが、交際相手やパートナーを求める孤独な心境は、どんな人間にも共通しているんじゃないかな。ボクみたいなオッサンになると、面倒くせぇなぁと痛感することしばしばですけどね。

 

 だからさ、若いうちはもっとバカになって、情熱に突き動かされなきゃいけません。それで恥をかくなんて昔は普通にあったことなのにね。この話題はもうちょっと深く考えないといけないので、結論は据え置きとさせていただきます。ただし、欧米では交際相手のいない独身者を近親者や友人・知人たちが心配するのが常識的です。それで適当な相手を見つけてきて引き合わせたりする。そういう「お節介」、つまり世代を超えた社会的な関係性が日本では希薄になってきたことも大きな要因のような気がしてなりません。

 

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2017年12月18日 (月)

なぜ「大家族」は分裂したか

 

 長寿化そのものは歓迎すべきことですが、そこそこに健康で認知症に至ってないことが必須条件であり、もしも要介護状態になった場合は、子供たちにとって大きな負担となります。今さらここで触れるまでもなく、「介護離職」によって親子ともども貧困に追い込まれることも珍しくありません。

 

 さらに、男女ともに平均年齢が80歳を越えた今では「老老介護」も常識ですが、定年退職後に支給される年金がね、まるで足りないわけです。そうした社会状況に追い打ちをかけるように、少子化というボディブローが効いており、運送や小売り、ファストフードなどのサービス業は人手不足がますます深刻になっていくはずです。かといって遅ればせながら子供を作るにしても、待機児童の問題がこれだけ喧伝されれば、不安だから取りあえずやめておくかとなりますよね。

 

 これらをまとめると、要するに「幼児」と「老人介護」または年金を原資とする「老後の生活」が、日本が抱える大きな問題ということになります。でもってこれを支援する制度が、行政または政治の業界では「社会保障」となるわけです。

 

 この「社会保障」の問題は、財源も含めて国会では何度も論議されてきたことで、つい最近に発生したことではありません。人口ピラミッドを見れば、少子高齢化なんて何十年も前から予見できたはずですよね。実際に介護保険は1997年の国会で制定され、2000年から施行されています。しかしながら、何度も改正されていることから分かるように、決して十分とは言えません。だからこそ「介護離職」があり得るわけで、年金も不十分なら、子育ても妻の負担が大きい。この国は戦前も戦後も、税金を搾り取れる元気で健康な労働者は大切にしても、その税金を支出しなければならない人生の始まりと終わりについて極めて冷淡なんですよね。相当なケチンボでシブチンなのであります。

 

 うあぉお、事実を並べているうちに深刻な社会問題にぶちあたってしまいましたが、ボクにはそれを解決する決定的なアイデアがあるのです。

 

 実にまったく簡単なことで、親から孫までの3世代以上の親族が同居する「大家族」制度に戻ればいいのです。痴呆の程度にもよるでしょうが、年老いた祖父母の面倒を孫も一緒に見るとか、逆に子育てを祖父母が手伝うことができれば、保育所にいれる必要もなくなります。そのかわりに老後の生活費は子供や孫世代も補助する。それなら年金への依存度も劇的に減少します。

 

 そもそも大家族制度が常識だった戦前は、年金もなければ介護保険もなかったんですよね。そんな社会保障が必要になってきたのは、高度成長期の「集団就職」以降です。これが地方の農家の若い人たちを工場勤務に駆り立て、工業地帯の近辺の都市を膨張させるとともに、親世代から隔絶された「核家族」を拡大再生産していきました。

 

 単純に考えるだけでも、大家族であれば、家も冷蔵庫も洗濯機も風呂も1つあれば十分です。ところが、世帯が2つに分離していれば、それぞれ2つが必要となるじゃないですか。不動産屋と家電メーカーにとっては喜ばしいことでも、1家族あたりの出費はそれだけ増加します。親の面倒を必ずしも子供が見るとは限らないにしても、誰かが老後や子育ての手助けをしてくれるとしたら、何かと安心というだけでなく、それぞれの家計支出の削減にも直結するではありませんか。

 

 要するに、若者人口の都市集中による「核家族」で経済と大企業は発展したけれども、それまで大家族制度が担っていたもろもろを、行政による社会保障では満足に代替できないということなのです。やたらに法律や予算をツギハギするばっかりで、待機児童なんて2000年頃から問題化していたのに、今でも「保育園落ちた日本死ね」ですぜ。

 

 ボクは、だったらもう1度「大家族」みたいな相互扶助が可能な生活制度を作ったほうがいいと考えています。シェアハウスがある時代なのですから、親族でなくても似たような生活スタイルを作ることは可能ではないでしょうか。

 ただし、その前に、いったい何がこうまで無惨に「大家族」を壊したのか、原因と犯人を正確につきとめておく必要があります。泥棒に留守番や警備を頼むバカはいないように、予め犯人を捕らえて排除しておかないと、似たような失敗を重ねることになりますからね。

 

 どうして「大家族」が「核家族」に分裂してしまったのか。もう1つの「核」問題も含めて、戦後70年の功罪をそろそろ厳しく総括すべきだろうというのが、実はこのブログの趣旨なのであります。

 しかしながら、太平洋戦争に踏み切った責任が曖昧に雲散霧消してしまったように、これもまた行政の責任なんて追求できないでしょうね。やれやれ、これでも一人前の民主主義国家なのかなぁ。たまにね、心底から絶望することがあるのです。

 

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2017年11月13日 (月)

こんなにも多くの……

 

 連続殺人のことを英語でSerial murderと言います。かの有名なイギリスの切り裂きジャックなど、いわゆるサイコパスは古今東西で出没するので、今回の座間の事件もまたかよと呆れるほかありません。

 

 ある一定の割合でそうした人格や性癖が形成されるのかも知れませんが、そんな難しいことは専門家に任せるとして、ボクたちがもっと驚くべきことがありますよね。第一に、若い人たちの自殺志願者がこんなにも多いということです。ボクのようなオッサン世代でも電車に飛び込むケースがまだまだあって、そのたびに公共交通が大混乱して迷惑を被っていますが、SNSという見えない世界で「死にたい、この世からいなくなりたい」と叫ぶ若者たちが増えているというのはどういうことでしょうか。

 

 厚生労働省による「平成29年版自殺対策白書」によれば、実際に自殺に至るケースは減少傾向にありますが、それでも15歳~34歳の死亡原因では自殺が第一位。こんな深刻なデータは先進国では日本だけのようです。15歳~19歳に限れば死亡者の3割以上を占めていますからね。結果だけでもこれなので、潜在的な自殺予備軍は相当な数にのぼると考えるのが普通ではないでしょうか。

 

 次に、自殺可能性を高めると想定される家出ですが、警察庁の最新データによれば、2016年に行方不明とされたのは全体で8万4850人にのぼります。12年に比べれば減ってはいるものの、年齢別では10歳代が最も多く、うち2割を占めるのですから、タダ事ではありません。こちらも表面化しない潜在的な家出志願者は相当数になるんじゃないかな。

 

 つまり、座間の事件の背景には、多数の自殺志願者と家出=行方不明者がいるということです。渋谷のセンター街に関東周辺からの家出少女が目立つと報道されたのはいつのことかな。この時に、警察に届け出ることもなく、放置していた親が多いことに驚きました。中高生が一泊だけにしても、どこにいるか分からないという状態は、いくらスマホが普及しても異常と考えるべきですよね。

 

 様々な事情があるはずなので、一概に親のせいにするのは気の毒ですが、子供の勝手気ままを許すことにはちょっと問題があるだろうと思います。「わーいアタシはオレは自由だぜい!」なんてことは本音ではあまり思わないんじゃないかな。束縛を嫌うように見えても、親が常に自分を気にかけてくれるということが愛情の再確認につながるからです。

 

 ここからはボクの仮説ですけど、自殺志願も家出も、彼らの自己評価が低すぎることに原因があるような気がします。自分は学校(職場)で好かれていないらしい→親からも大切に思われていないようだ→他人に比べて自分のデキが悪いからだろう→だったらこの世からいなくなったほうがいい。こんな思考回路で、自分を棄てるような方向に走っていくのではないでしょうか。

 

 これね、実はボクも経験があるのです。小学校3年頃に、実の父親から「お前は豚目だなぁ」ですからね。父親は二重で、ウソかホントか「オレは目千両と評判だった」なんてことを無神経に自慢されたら、息子は相当に傷つきます。その心ない言葉がトラウマとなって、ボクは自分の顔が大嫌いになったのですが、幸いに男というジェンダーに属していたので、イケメンでないならその他の方面で頑張ってカバーしようとしてきました。

 

 まさか娘にそんな残酷なことは言わないと思いますが、「お前は豚目だなぁ」みたいなことをしみじみ言われたら、生きていく気力を喪失しますよね。

 

 これはあくまでも卑近な例ですけど、学校の成績や教室での人気なども含めて、似たようなことを繰り返しながら自己評価がどんどん低くなれば、「自分なんてどうだっていい」となるじゃないですか。

 

 ということは、そうした若者たちが自分に自信を持ち、正しく自尊心を持てるような体験や環境があれば、少しは自殺志願や家出が減るという理屈になります。ウェブで自殺幇助のサイトがあるなら、逆に生きている人間にはすべて生きている理由と価値があるのだと感じさせるHPがあってもいい。それ以前に、誰かを好きになって、その誰かをどうにかしてハッピーにしてあげたいと願う習慣を付けた方がいいですよね。

 

 人間が生きている価値を突きつめれば、学力や人気なんぞではなく、人を愛することができるってことです。これは意識すれば誰にだってできます。その結果として、できれば子供を作って次世代に遺伝子を継承する。人間にとって、それ以外に大事なことがあるでしょうか。

 

 ボクのようなオッサンになると何かといろいろ障害があるのですが、そうした恋愛を謳歌できるのが若い男女なのですから、もっと自分を大切にしようよ、となるわけです。この理屈、ヘンですかねぇ。

 

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2017年11月 9日 (木)

可哀想とは何か

 

 犬の福助がめっきり老け込み、昔は飛び跳ねるように動いていたのに、近頃は水を飲みに行くにも右に左にヨタヨタと歩いております。

 

 今年で15歳というのは、昔の常識では考えられないほどの長寿であり、衛生環境が飛躍的に向上した賜といえるのですが、見ていると不憫でもあるんですよね。エサの食いつきも近頃はすごく悪くて、かつては秒速で完食していたのに、今では残したりします。そんな時に、何を考えているのか、黒いビー玉のような瞳でボクの顔をじっと凝視するんですよね。

 

 そんな時に哀れを感じる、つまり可哀想だと思ってしまうのですが、どうやら犬のほうは自己憐憫という感情はまったくないようです。ヘルニアで下肢が動かなくなった犬が特注の車輪を付けているのを見たことがありますが、「わーい、これで自由に動けるぞ」といわんばかりに走り回っていました。それがないからといって、自分の不幸を嘆き悲しんですっかりふさぎ込むというのも見たことがありません。足が動かない。そうか、仕方ないか。みたいなね。

 

 そうすると、ボクたちが犬や他人、あるいは自分に対して「可哀想」と思う感情って、いったい何なのでしょうか。英語でも哀れみや同情を表すPityという言葉があるので、おそらくこれは人類共通だと思います。ボクは読んだことはありませんが、夏目漱石は小説『三四郎』の中で、a pity is akin to loveを「可哀想だた惚れたってことよ」と訳しています。

 たとえば放蕩者の父親を持つ美しい娘が、借金のカタとして郭に売られるなんていうシチュエーションは、確かにそうかもしれません。惚れてなきゃ可哀想なんて感情は起きないですからね。しかしながら、犬や猫を可哀想と思ったからといって、惚れるという感情とは大分開きがあるような気がします。

 

 あくまでもボクの仮説ですが、これは人間だけが持ち得る他者共感能力=シンパシーの一種ではないでしょうか。大昔の厳しい自然環境では、人間が孤立したらすぐに捕食されるか飢え死にしてしまいます。つまり、お互いに協力してお互いを守り合うことが生存に必要な絶対条件だったのではないでしょうか。

 そうするためには、他者のことをあたかも自分のように感じなければいけません。隣の男がクギを踏み抜いて「痛い!」と叫んだら、自分も神経を突き刺されたような気がして「こりゃ大変だ!」と助けようとする。そうした感情から「可哀想」が派生してきたのではないかな。

 

 ところが、文化・文明の発達によって天敵となる捕食者がどんどん駆逐され、人間が食物連鎖の頂点を極めるようになってから、そうした本能を欠いた人間も生まれるようになったようです。だからこそ犬や猫を何匹も殺して平気な無慈悲な奴もいるわけです。こういう人は、akin to loveに至るa pityという感情がそもそもないと考えられるので、人を愛することができない。愛される喜びも分からない。ああ、何という恐ろしい孤独でしょうか。しかし、彼らはおそらくそれすらも感じないだろうなぁ。

 

 最近になって登場した人類最強の天敵になりそうな人工知能=AIにしても、「可哀想」という感情を持たせるには何百年もかかりそうに思います。よしんばそう感じたとしても、人間のように人を愛してセックスして子供をこしらえるなんてことは金輪際できません。

 

 だからね、カメラが誕生して絵画の意味が写実から大きく変わったように、AIによって、それまでは面倒くさくて仕事の邪魔ですらあった人間的感情が前向きに再定義されるような気がするのです。それを追求できるのは大学の文系学部だけですから、もっとガンバレよと言いたいわけですな。

 

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2017年10月16日 (月)

機械的

 

 先週のブログでは、大企業のデータ偽装が頻発する背景には、不正を見逃すことができない社員たちによる内部告発があるに違いないと書きました。

 その逆に、いつものルーチンに従うことで思考力を完全に失い、まるで機械のように仕事をこなす人もいます。その典型がナチスのアドルフ・アイヒマンで、善も悪も無関係に命令を忠実に遂行。数百万人のユダヤ人を殺戮したんですけどね。

 

 そんな歴史に残るような大げさなことでなくても、ちょっと「気働き」をすれば分かるはずのことを意識できず、新しいことは一切やろうとしない人たちが目につくような気がします。

 たとえばマニュアルが思考力を奪ってしまうことは、人事系のマネジメントでは常識とされています。ちなみにスターバックスは本格コーヒーを提供する高級店で決まり切ったサービスを義務づけるのは顧客に対して失礼という理由から、発足当初からマニュアルを廃止していました。だからといって往年のJALみたいな超丁寧な対応を期待してはいけませんが、ファストフード店のように金太郎飴的な決まり切ったセリフを言わせないという姿勢にいたく感心したことがあります。

 

 MBAもフレームワークばっかり覚えるだけなら、経営マニュアルと同じになってしまうんですけどね。そうしたマニュアルがないにもかかわらず、仕事を自らルーチン化することで無思考に陥ってしまう人もいます。

 

 たとえばタクシーですけど、以前にもブログで紹介しましたが、旅行バッグなどの荷物を客がリアのトランクに入れるのを座席から見ているだけの運転手さんが相変わらず多いようです。ああいう態度は欧米ではほとんど見当たりません。ボクの経験ではゼロですけど、もしかしてということもあるので「ほとんど」としました。

 

 かといって彼らが親切というわけではなく、少なくとも日本より愛想はいいと思いますが、要するに荷物1個でいくらと追加料金が決まっているんですよね。だから運転手さんは外に出て、旅行バッグがいくら重くても載せてくれるわけです。降車する時も同じで、地面にちゃんと置いてくれる。だったらさぁ、日本でも荷物無料はやめて、リアのトランクを使うなら追加料金と決めたほうがいいんじゃないの。外国人観光客が激増している昨今ですから、お尻に根っ子が生えたような態度は先進国として恥ずかしいですよね。大手の経営者たちと国土交通省が談合、じゃなかった話し合えばすぐにでもルールにできることではありませんか。それともお偉い人たちはハイヤーしか乗ったことがないのかな。

 

 このタクシーに関して、もうひとつだけ。ボクはさんざん経験してきましたが、ロクに確認もしないでドアを一気に閉めようとする運転手さんが少なくないのです。ボクは左膝に故障があるので、左脚全体を車内に収めるまでにエンヤコラとちょっとだけ時間がかかります。にもかかわらず、無神経にドアを閉められたらどうなるか。ボクの左脚は無惨にもドアとボディの間に挟まれることになるのです。

 

 冗談でなく、実際にそんな悲劇を体験したことがあるので、「ドアを閉めるのはちょっと待ってね。左脚を入れるのに少し手間がかかるので」と半乗りの段階で予め運転手さんに声をかけるようにしています。けれども、急いでいる時や考えごとをしている時には忘れることもあるじゃないですか。そんな時には、およそ100万%に等しい高確率で、無情にもそそくさとドアが動き始めるのです。こちらもそんな事態は百も承知なので、右足の靴裏でドアの内側を押さえるという器用な格好でプロテクト。それと同時に「ちょっ、ちょっと待ってよ。まだ左脚が残っているんだから」と大声で注意したことが何度あったことか。さもなきゃ左脚を傷つけるだけならまだしも、骨折して寝たきりになっていた可能性だって否定できないですよね。

 

 こんなことは欧米ではまったく経験したことがありません。パーセンテージでも完全にゼロ。だってさ、あちらのタクシーにはそんな装備がそもそもなく、普通のクルマのように客自身が開け閉めするからです。

 

 何だかね、日本のタクシーは親切なんだか不親切なのかよく分かりません。ともかくボクは外出する時には必ず杖をついております。手を挙げて止めようとする姿を見るだけで、普通ではないことが分かるじゃないですか。だから、むしろ運転手さんから「ドア閉めても大丈夫ですか」と言うべきですよ。ところが、そんな経験もほとんどないのです。

 

 別にね、ボクに気を使えってことではなく、似たような故障を持つ高齢の利用者も増加しているはずですから、少なくともドアを閉めるときには一声かけるべきではないかと。おそらく身障者用のタクシーならやっているはずですから、それを普通のタクシーでもやればいいだけのことなのにね。以前に「こんなことをしたら乗客が増えるんじゃないかな」と提案したら、「私も同感なので、お客さんからそれを上のほうに言って貰えますか」と返されたことがあります。

 

 こんなやり方を続けるなら早くAI化したほうが消費者利益になるんじゃないかという仕事は、ほかにも一杯ありそうなんだよなぁ。

 

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